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軽刈田凡平の新しいインド音楽の世界 軽刈田凡平

ターバン姿のギャングスタ

 

銃とトラクターを愛する野郎ども

 暇さえあればインドのラッパーのミュージックビデオを見ている。

 ローカル色豊かな路地裏で、仲間たちと楽しそうにラップしている彼らを見ていると、アメリカの黒人たちが発明したヒップホップというカルチャーが、今では完全にグローバルなものになっているということがよく分かる。活気あふれるムンバイ、交通渋滞の激しいベンガルール、イギリス統治時代の街並みが残るコルカタ……。庶民の生活のにおいが感じられる街並みを練り歩くラッパーたちを見ると、彼らが本当に地元を愛し、誇りに思っていることが伝わってくる。

 残念なのは、最近ではヒップホップ人気が巨大化しすぎて、ムンバイあたりの人気ラッパーともなると、みんなドバイでランボルギーニを乗り回すような現実感のないミュージックビデオを作るようになってしまったことだ。

 インドでもラッパーたちのスタイルは様々だが、インドのなかでダントツにマッチョでギャングスタ的な世界観を持っているのが、北西部のパンジャーブ州出身のラッパーたちだ。まず、彼らのリリックやミュージックビデオには、やたらと銃が登場する。パンジャーブの人気ラッパー、シドゥ・ムーセ・ワラ(Sidhu Moose Wala)に「ミー・アンド・マイ・ガールフレンド」というかわいいタイトルの曲があるのだが、歌詞の内容は、「俺のガールフレンドはロシア製のAK-47(ライフル)」「邪魔するやつらは地獄送り」という物騒なものだ。

 ほかの国と同様に、インドでもヒップホップのミュージックビデオには高級車や豪邸でのパーティーがよく出てくるのだが、パンジャーブ系ラッパーの場合、ヒップホップ的な様式美を演じているようなほかの地域のラッパーたちと違って、ガチでワルそうな仲間たちがまわりを固めている。まるで「反社」の集会のようだ。

 インドは娯楽にも倫理観を求める国で、映画の中で飲酒や喫煙のシーンが出てくるたびに「健康を害します」という警告文の表示を義務付けているほどだ。たとえ興醒めであろうと、エンタメが社会に悪影響を及ぼすことは認めない。そんな国の中で、パンジャーブのヒップホップは明らかに異質なのだ。

 パンジャーブのラッパーたちのギャングスタ的なイメージは、決して演出ではない。前述の「ミー・アンド・マイ・ガールフレンド」のシドゥ・ムーセ・ワラは、2022年に対立するギャングに射殺されて命を落としている。悪い意味で本場アメリカみたいな事件が起きているのである。

 銃以外で彼らのミュージックビデオによく出てくるのが、トラクターだ。日本人にとって(日本人じゃなくても)、トラクターとヒップホップのイメージはまったく結びつかないと思うが、農業を主要な産業とするパンジャーブでは、トラクターは豊かさの象徴であり、自分たちの誇りと結びついた存在でもある。パンジャーブのヒップホップには、広大な農地でトラクターを乗り回すミュージックビデオがたくさんあるが、ギャングスタ的なノリの彼らは、トラクターをウィリーさせて、ローライダー(アメリカの改造車)みたいに見せつけたりもする。なんだかもうわけがわからない。

 映像の話ばかりしてしまったが、彼らの曲を聴いて最初に耳につくのは、その節回しだ。ラップの場合、節回しのことを「フロウ」と呼ぶが、パンジャーブのラッパーたちの場合は「節回し」という呼び方のほうがしっくりくる。通常、ラップというのは「しゃべり」にリズムを付けたものだが、彼らのラップはリズミカルな「しゃべり」ではなく、節をつけて朗々と歌い上げているからだ。そのうえ、しばしば演歌のようにコブシを効かせたり、ビブラートをかけたりもする。

 トラクターに乗って演歌みたいに歌っている音楽のどこがヒップホップなのかと思うかもしれないが、ビートに注目すると、ゴリゴリのブーンバップだったり、今っぽいトラップやレゲトンだったりする。こんな不思議なキメラのようなヒップホップを実践しているのは、世界中でもパンジャーブ人たちだけだろう。

 今回の主役は、この銃とトラクターを愛するパンジャービーたちの、独特すぎるヒップホップカルチャーだ。

 

ターバン姿のラッパーたち

 パンジャーブのヒップホップのもうひとつの特徴は、ラッパーのほとんどがターバンを巻いているということだ。彼らはターバンを巻く習慣で知られているシク教徒たちなのだ。

 シク教は15世紀末にパンジャーブで生まれた宗教で、その信者数はインドの全人口の2%以下にすぎないが、パンジャーブ州に限って言えば、6割近くの人々に信仰されている。彼らは勇猛な戦士として知られており、イギリス統治時代からその武勇を買われて、兵士や警官として海外へと渡っていた。昔の香港映画を見ると、ターバンを巻いたインド人の警官が出てくることがあるが、彼らは同じイギリス領だった香港へと渡ったシク教徒たちである。早くから海外に進出していた彼らによって、「インド人といえばターバン」というイメージができあがった。

 今回紹介するラッパーたちは、全員シク教を信仰している。意図的に選んだわけではなく、パンジャーブの有名なラッパーを選ぶと、必然的にそうなってしまうのだ。

 彼らの音楽は、インドでは信仰よりも出身地と言語にフォーカスして「パンジャービー・ラップ」とか「パンジャービー・ヒップホップ」と呼ばれることが多い。宗教音楽をやっているわけではないのだから、信仰でカテゴライズすべきでないのは当然だが、いっぽうで、彼らの特異な音楽スタイルが、シク教の文化や伝統の影響を受けている可能性もありそうだ。

 シク教徒とは、いったいどのような人たちなのだろうか?

 多様な文化が存在するインドでは、さまざまなコミュニティに対して、ステレオタイプなイメージがある。これはエスニックジョークのようなものなので、ほぼ偏見だと思ったほうがよいのだが、面白いことにパンジャーブ人(≒パンジャーブのマジョリティであるシク教徒)のステレオタイプなイメージというのが、非常にヒップホップ的なのだ。

 彼らについてもっとも一般的なイメージは、勇敢で力持ちだということ。これは、イスラーム王朝がパンジャーブを支配していた時代に、マイノリティであったシク教徒たちが信仰を守るために武装集団を結成したことに端を発している。今でもインドの軍隊や警察官にはシクの人々が多い。言い換えれば、一昔前のヒップホップ的なマッチョな印象があるということだ。

 食べることと飲むことが好きで(とくに乳製品と肉と酒)、パーティー好きというのも、パンジャーブ人に対する根強いステレオタイプのひとつ。シク教の寺院ではランガルという儀式があり、訪れた人には信仰を問わず無料で食事が振る舞われる。カーストが違う人々と食卓をともにしないヒンドゥー的な価値観を否定して、人間が平等であることを示す行為なのだが、「ともに食事を楽しむ」ことを重視する彼らの習慣が、大食とかパーティー好きという見方へと変わっていったのかもしれない。

 バングラーという分かりやすいダンスミュージックがあるためか、彼らにはインドのなかでもとりわけダンス好きというイメージもあるようだ。

 また、パンジャーブ人には、豊かさや贅沢を誇示することを好むというイメージもあるという。ヒップホップ的な言い方をすると「フレックス」(flex)というやつだ。シク教では、誠実に働いて富を得て、それを困っている人と分かち合うことが推奨されている。我執を捨てて輪廻からの解脱を目指すヒンドゥー教とは対照的なこうした考え方が、結果的にこうした先入観につながったのだろう。

 さらに、「ドラッグ好き」という不名誉なステレオタイプもあるらしい。早くから海外に進出していた彼らの感覚が欧米化しているという先入観に加えて、パンジャーブ地方が、アフガニスタン方面からパキスタンを経由してインドにドラッグを密輸するルート上に位置していることにも関連しているようだ。

 話半分で聞くべきステレオタイプの話だが、マッチョでパリピで自慢好き、さらにヒップホップカルチャーとも関連の深いドラッグもやりそうな人たちと聞けば、がぜん彼らの音楽に興味が湧いてくるのではないだろうか。

 

パンジャビMCから学ぶバングラー・ラップの楽しみ方 

 往年の洋楽ファンのなかには、「パンジャービー」という言葉を聞いて、パンジャビMC(Panjabi MC)を思い出す人もいるかもしれない。彼はパンジャーブの伝統音楽である「バングラー」とヒップホップをミックスした「ムンディアン・トゥ・バチュ・ケ」(Mundian to Bach Ke)を2002年に世界的にヒットさせた、在英パンジャーブ系のラッパーである。

 パンジャーブのヒップホップは、もともと収穫祭を祝う音楽だった「バングラー」と切っても切れない関係にある。バングラー・ラップがどんなものか知りたければ、「ムンディアン・トゥ・バチュ・ケ」は、いまだに最良の教科書になる。

 イントロから高音でシンプルなメロディーを繰り返しているのは「トゥンビ」という弦楽器だ。シャッフルのリズムを力強く刻む太鼓は「ドール」。この2つの楽器が、バングラーの弾むようなビートを特徴づけている。

 張り上げた声で歯切れ良く歌い、ときに伸びやかなビブラートをかけるのは、典型的なバングラーの節回しだ。ラップのフロウとはあまりにも違うので、初めのうちはなかなか慣れないかもしれない。とくに、日本人にとっては彼らの発声方法はどこか演歌っぽく聴こえてしまうので、なかなか「カッコいいもの」として認識されにくいというデメリットがある。

 そこであくまでも私見ではあるが、バングラーの楽しさ、カッコ良さを味わうためのコツを書いてみたい。

 まず、ヒップホップとバングラーでは、ノリ方がまったく異なるということを認識する必要がある。重心を低くしてリズムを取るヒップホップとは違い、バングラーのリズムや歌は、「下から上へ」というポジティブな上昇のグルーヴを持っている。俗っぽい言い方をすると、「アゲアゲ」ということだ。

 バングラーのダンスは、両手を天に突き上げ、片足を上げて踊るステップが特徴的だが、この踊り方はこうしたアゲアゲなノリを体現したものだろう。バングラーが持っているのは、ヒップホップの内省的で静かにアジテートする「陰」のグルーヴとは対照的な、「陽」のエネルギーだ。一度、大音量でバングラーをかけて踊りながら感じてほしいのだが、日本ではなかなかそういった機会もないし、集合住宅にお住まいの方は、近隣や階下の人の迷惑にもなるだろう。せめてランニングなどで体を動かして、リズムと精神を同期させながら聴いてみてほしい。走るのが苦手な人は、速めのウォーキングでもいい。人目が気にならなければ、走ったり歩いたりしながら、歌やリズムに合わせて両手を突き上げても良いだろう。

 バングラーのエネルギーに身を任せて聴いていると、その気持ちよさが分かる瞬間が必ずやってくるはずだ。上手いバングラー・シンガー/ラッパーには、声の力だけで、人の心をポジティブにする力がある。

  「ところで、これってラップなの?」と思う方もいるだろう。だが、インドではこうした音楽はヒップホップのいちジャンルとして扱われている。ヒップホップというジャンルが完全にグローバル化した今、自分なりのやり方でレペゼン(=自身のコミュニティやルーツを誇ること)している彼らの音楽は、紛うことなくヒップホップの一形態なのだ。

 

パンジャービー・イン・UK 

 パンジャビMCが「ムンディアン・トゥ・バチュ・ケ」を大ヒットさせた2000年代前半、バングラーに欧米の新しいリズムを融合したジャンルは「バングラー・ビート」と呼ばれ、世界的な注目を集めていた。

 当時もっとも先鋭的でかっこいいフィメール・ラッパーだったミッシー・エリオットが「Get Ur Freak On」にトゥンビを使ったビートを取り入れ、ブリトニー・スピアーズとマドンナが共演した「ミー・アゲインスト・ザ・ミュージック」や、リッキー・マーティンなどのヒット曲でもバングラー風リミックスが作られていた。

 この時代に活躍していたのは、おもにイギリス在住のパンジャービーだ。パンジャビMCの他にも、90年代に「BOOM 釈迦-楽!」という謎の邦題が付けられていた「Boom Shack-A-Lack」をヒットさせたアパッチ・インディアン(Apache Indian)や、タブラとドラムンベースを融合したタルヴィン・シン(Talvin Singh)など、パンジャーブ系イギリス人のミュージシャンが数多く活躍していた。インド国内では、同じく在英パンジャービーであるバリー・サグーによるボリウッド・ソングのリミックスの人気が沸騰。当時のまだ垢抜けなかった映画音楽に最新のダンスミュージックを融合した彼の音楽は、オシャレで、かつパーティーで踊るにも最適だった。イギリス在住のパンジャービーたちは、世界にインドの音楽を紹介し、またインドに海外の最新の流行を持ち込む「窓口」の役割を担っていたのである。

 なぜインドの数ある地域や宗教の中で、パンジャーブの、とくにシク教徒たちだけが、インドと海外の音楽シーンをつなぐ役割を果たすことができたのだろうか。その理由には、パンジャーブの現代史が関係している。

 1947年、イギリス領インド帝国は南アジアの支配から手を引き、この地域はヒンドゥー教徒をマジョリティとする世俗国家のインドと、イスラームを国教とするパキスタンの2カ国に分離独立した。不運なことに、パンジャーブ地方はこのふたつの国の国境地帯に位置していた。

 分離独立の際、イスラーム国家となったパキスタンを脱出してインドへと向かうヒンドゥー教徒やシク教徒と、インドからパキスタンを目指すイスラーム教徒による大混乱が発生。このなかで起きた暴力行為による犠牲者数は、数百万人にも上る。

 ここまで「パンジャーブ」と書いてきたのは、おもにインドのパンジャーブ州のことだが、この地域はパンジャーブ地方全体の東側の一部でしかない。パンジャーブ地方の西側の大部分は、現在のパキスタン国内にある。ややこしいことに、インド・パキスタンの両国にパンジャーブという州があるのだ。今回はシク教徒のパンジャービーに焦点をあてているが、パキスタンのパンジャーブ州には、おもにムスリムのパンジャービーたちが暮らしていて、彼らにも優れたラッパーやミュージシャンが数多くいることを付記しておく。

 ともあれ、パキスタン側のパンジャーブから脱出したシク教徒たちは、新たな住処や仕事を探す必要があった。こうした状況は、シク教徒たちが同胞を頼って海外に移住する流れをさらに加速させてゆく。アジアやアフリカに渡ったシク教徒たちもいたが、そこから稼ぎの良い欧米へと再移住する者も多く、海外移住者に憧れた故郷の仲間たちは、さらに海を渡ってゆく。

 イギリスを例に挙げると、シク教徒の人口は、1951年には7,000人程度に過ぎなかったが、1981年には約20万人、2001年には約35万人にまで激増している。これだけの規模の移民社会ができれば、母国ともホスト社会とも異なる独自の文化が生まれるのは当然の成り行きだ。

 パーティー好きのパンジャーブ人たち、とりわけ若い移民たちや移民2世、3世の若者たちが、伝統音楽と西洋のポピュラー音楽を融合して、新しい音楽を作るようになるのは必然だった。イギリスでバングラー・ビートが生まれた背景には、こうした歴史のうねりがあったのだ。

 一方で、パンジャーブの伝統を取り入れたスタイルではなく、王道のR&Bを歌って成功したジェイ・ショーン(Jay Sean)のようなシンガーもいた。ジェイ・ショーンという名前は英語風だが、彼の本名はカマルジット・シン・ジューティという。ロンドン生まれのパンジャービー・シクで移民2世の彼は、2004年のデビュー後、ポップなR&Bで人気を博し、「イギリスのNe-Yo」の異名をとるようになった。2008年にリリースした「Down」では、人気ラッパーのリル・ウェインがフィーチャーされ、なんとビルボード全米チャートで1位を獲得する。南アジア系アーティストの全米1位は歴史上初めての快挙だった。

 名前もファッションも音楽性も完全に英語R&B仕様にした彼の成功を、南アジアのポピュラー音楽の成功例として扱ってよいかは迷うところだが、バングラーみたいな伝統色のある音楽だけではなく、いわゆる「洋楽的」なジャンルを好んで歌ったり聴いたりするというのも、若いパンジャービーたちのリアルな姿である。

 パンジャービーをはじめとする在英南アジア系音楽のアーティストたちが、どのように彼らのエスニシティを表現しているかについては、栗田知宏さんによる『ブリティッシュ・エイジアン音楽の社会学』(青土社、2021年)に詳しい。

 

インド国内のパンジャービー・ラッパーたち 

 イギリスのパンジャービーたちが作った新しい音楽の波は、インド国内にも到達した。インド国内でもヒップホップ風の音楽を始めるパンジャービーの若者が現れたのだ。その代表格がヨーヨー・ハニー・シン(Yo Yo Honey Singh)とバードシャー(Badshah)だ。

 彼らはもともとマフィア・マンディール(Mafia Mundeer)というグループの仲間だったが、決裂して今ではソロ・アーティストとして活動している。彼らのスタイルは、ボリウッド的な華やかさに、レゲトンやEDMの要素を取り入れたド派手なパーティー・ラップで、人気曲ともなればYouTubeで数千万回から数億回再生されることも珍しくない。

 彼らの音楽性で面白いのは、イギリスのパンジャーブ系ラッパーに比べると、バングラーの独特な節回しが目立たないということだ。海外在住のパンジャービーたちが自身のルーツに強い愛着を持ったのに対して、インド国内に暮らす彼らが伝統よりも海外の流行に魅力を感じたというのは、なんとなく想像ができる。またハニー・シンやバードシャーは、ミュージックビデオやアーティスト写真などでターバンを着用していない。80年代頃までのパンジャーブ系シンガーは、ほとんどがターバンを巻いていたが、イギリスを拠点に活躍していたパンジャービーMCやアパッチ・インディアンもターバンを着用していなかった。これには個人としての信条が関連しているのかもしれないが、客観的に見れば、伝統よりも現代的な要素を打ち出していると見ることもできる。

 彼らの刺激的な新しいサウンドをボリウッドが放っておくはずもなく、ハニー・シンやバードシャーの曲は、映画にも次々と採用された。享楽的でインドならではのケレン味もあるかれらの曲は、劇中で都会の若者たちがナイトクラブで踊るシーンにぴったりだったのだ。

 彼らの音楽はインド人のヒップホップ観に大きな影響を及ぼしており、インドでヒップホップといえば、一般的には彼らのような音楽をイメージする人がとても多い。

 

カナディアン・インヴェイジョン

 2010年代の後半に入ると、パンジャーブ音楽シーンに新たな潮流が訪れる。

 今度は、イギリスではなくカナダを拠点にするパンジャービーたちが、カナダの移民社会を発火点として、インド国内のチャートまで席巻するようになったのだ。

 その代表格が、冒頭にも紹介した悲劇のカリスマ、シドゥ・ムーセ・ワラだ。パンジャーブ州の農村ムーサに生まれた彼は、少年時代からヒップホップを聴き始め、とくにカリフォルニアの伝説的ラッパー、2Pacに傾倒していた。パンジャーブの大学を卒業したのちにカナダに留学し、オンタリオ州のブランプトンという街に移住。ここは、住民の約半数が南アジア系で、その多くがシク教徒というカナダのリトル・パンジャーブのひとつである。

 彼のラップのスタイルは、伸びやかな高音にヴィブラートをかけて力強く歌い上げるバングラー色が強いものだ。だが、ビートに着目すると、トラップやドリルなどの新しいヒップホップの要素を取り入れた、これまでのパンジャーブ・ラッパーにはないスタイルだということに気づくだろう。シドゥはサニー・マルトン(Sunny Malton)やビッグ・バード(Byg Byrd)、ザ・キッド(The Kidd)といったカナダ在住のパンジャービー系プロデューサーと組んで、新しいヒップホップのサウンドをパンジャービー・ラップのシーンに持ち込んだ。

 シドゥに続いて、カラン・オージュラ(Karan Aujla)やAPディロン(AP Dhillon)、シュブ(Shubh)といったパンジャーブ出身のラッパーたちが、カナダを拠点に人気を獲得していった。ポップ色の強いAP、ブーンバップ的なスタイルが特徴のシュブ、多彩なオージュラと、音楽性の違いはあるが、いずれもシドゥ以降の新世代パンジャービー音楽を代表する存在だ。インド国内からは、ディルジット・ドーサンジ(Diljit Dosanjh)が彼らに呼応し、パンジャーブ音楽シーンはこれまでにない盛り上がりを見せている。

 かつてのイギリスに代わってカナダを拠点に活動するアーティストが目立つようになった理由は、パンジャービーの渡航先が、時代とともに変化していったことが大きく影響している。

 イギリス領だったカナダには、もともとパンジャーブ系の移民社会が存在していたが、2000年代以降、イギリスの移民政策の転換や経済状況などを理由に、イギリスではなくカナダに渡るパンジャービーが増加した。パンジャーブ系以外も含んだ統計になるが、カナダに暮らすインド系住民の人数は、1981年には約17万人、2001年には80万人と増加を続け、現在では約200万人にまで急成長を遂げている 

 そんな中、カナダから颯爽とシーンに登場したシドゥは衝撃的だった。

 「銃に生き、銃に死ぬ」「一発の銃弾には、一発の銃弾で返す。俺たちの計算はシンプルだ」

 首から下はストリート系のファッションに身を包みながら、しっかりとターバンを巻いた彼のラップは、パンジャーブのマチズモとギャングスタ的な美学を完璧に融合した「本物」としてシーンに歓迎された。

 ところで、念のためはっきりと書いておきたいのは、シク教に男らしさを重んじる側面があるとしても、ほとんどのシク教徒はおだやかで善良な人たちだということだ。まじめに生きているシク教徒たちにとって、暴力的なラップでシク教徒のイメージが形成されるのは我慢ならないことだろう。アメリカの黒人に、ギャングスタ・ラップに否定的な人がたくさんいるのと同じことだ。ただ、平和な日本にも任侠やヤンキーの文化があるように、パンジャーブにも独特のギャング/不良文化があり、それがアメリカ発のグローバルなカウンターカルチャーであるヒップホップと融合していることに注目したい、というのがこの記事の趣旨である。

 

パンジャーブ音楽シーンの闇

 シドゥが、そしてパンジャービーの若者たちがギャングスタ的なスタイルに傾倒した理由を、もう少し探ってみよう。カナダに渡った彼らのなかには、新しい社会に馴染めず、夢破れて道を踏み外すものたちもいた。彼らは麻薬売買などの犯罪行為に手を染めるようになり、やがていくつものパンジャーブ系ギャング団が生まれる。カナダでは、パンジャーブ系ギャングは、バイカー・ギャングや中華系マフィアに次ぐ3番目の規模の反社会勢力だという。

 カナダで法を犯す存在となった彼らも、郷土との絆が失われたわけではなかった。彼らは犯罪行為で稼いだお金を故郷の村祭りに寄付するなど、羽振りの良さを見せつけていた。稼ぎ方はともかく、彼らは働いて得た富を分かち合うというシクの教えを実践していたのかもしれない。こうしたギャングたちを見て「金と力があってかっこいい」と憧れる若者たちもいるというから、パンジャーブのギャングはまるで一昔前の日本のヤクザを思わせる存在のようだ。かくして、パンジャーブのギャング団は、インド国内とカナダを股にかける国際的な組織へと成長していった。

 昔のヤクザみたいといえば、パンジャーブ系国際ギャング団は、芸能界にも幅を利かせているらしい。彼らのやり方は、アーティストを脅して自分たちのYouTubeチャンネルで独占的に楽曲を発表させ、その利益を得るというもの。時代が変わればシノギの方法も変わるものだと感心してしまう。

 もっと古典的な方法もある。パンジャーブの人気スポーツであるカバディは、たびたび八百長が行われるグレーな世界で、カバディの大会はギャングによって仕切られていることが多いという。カバディ大会では、人気アーティストのステージが行われることもあるのだが、じつはシドゥの死にも、このカバディ大会が関連していた。

 シドゥには、カナダ時代から懇意にしていた「ビシュノイ・ギャング」というグループがいた。ところが彼は、そのグループと対立する「バンビハ・ギャング」が主催するカバディ大会でのパフォーマンスを引き受けてしまったのだ。バンビハ・ギャングは、ビシュノイ・ギャングの幹部を殺した仇敵だったのである。しかもその殺害には、シドゥのマネージャーを務めていた人物が関わっていたという。この裏切りは、ギャングの世界では死をもって償うべきものだった。

 シドゥは故郷の村の近くで車に乗っていたところ、多数の銃弾を打ち込まれ、28歳の生涯を終えた。パンジャービー・ラップにギャングスタの美学を融合したシドゥは、皮肉なことに彼が生前憧れていた2パックとまったく同じ最期を遂げたのだ。死の直前にリリースした「ラスト・ライド」という曲で、彼は自らの死を予言したかのようなリリックを披露したばかりだった。

 命を奪われるほどでなくても、ギャングから脅迫を受けたアーティストは他にもいる。人気シンガー/ラッパーのAPディロンも、ギャングに自宅を銃撃され、車を放火されたことがあるのだが、その理由がなんとも理不尽だ。

 彼はミュージックビデオで人気俳優のサルマーン・カーンと共演したことがある。サルマーンは、以前にブラックバックというシカの一種を密猟したことで、脅迫を受けていた。ブラックバックは絶滅危惧種であり、そもそも狩猟すること自体が違法なのだが、シドゥ殺害の黒幕であるビシュノイ・ギャングにとっては、ブラックバックは稀少であるだけでなく、神聖な動物でもあった。サルマーンはブラックバック殺害の報復として、彼らからの殺害予告を受けていたのだ。

 不運なAPディロンは、彼をミュージックビデオに起用したことで仲間と見なされ、家を銃撃され、放火までされたのである。サルマーンの友人だというだけで、ギャングに殺された人物もいるという。自分は何もしていないのに動物の仇討ちで殺されては、たまったものではない。日本人は動物愛護がどんなに過激化しても、せいぜいシーシェパード程度だと思っているかもしれないが、インドではギャングのシノギにも関わっており、命まで取られかねないのだ。

 パンジャービー・ギャングたちは、薬物売買や脅迫などで得た利益を、シク教徒の独立国家建国を目指す「カリスタン運動」に流しているという。移民の若者たちが、自らのアイデンティティを求めてナショナリズム的な思想に行き着くというのは、いかにもありそうなことだ。

 このカリスタン運動とそれに対する弾圧では、過去に何度も悲劇が起きている。

 インディラ・ガーンディー政権時代の1984年、シク教の聖地である黄金寺院にたてこもったカリスタン運動の指導者たちを軍が大規模に攻撃し、殺害するという事件が起きた。その4ヶ月後、インディラ・ガーンディー首相は指導者殺害の報復として、護衛を務めていたシク教徒によって暗殺されてしまう。報復の連鎖は止まらず、首相暗殺に怒り狂ったヒンドゥー教徒たちは、シク教徒たちを襲撃。その犠牲者は8,000人とも16,000人とも言われている。その翌年にはカリスタン運動過激派によるエア・インディア機爆破事件が発生し、329人もの命が犠牲となった。

 最近では、2024年にカナダ国内で起きたシク教徒指導者の暗殺事件が記憶に新しい。この事件にはカリスタン運動を警戒するインド政府が関わっていたとも言われており、カナダとインドの外交問題にまで発展した。今日では過激な武装闘争は下火になってきているが、カリスタン運動は今なお政治的に非常にデリケートな話題なのである。

 シドゥも、生前カリスタン運動の支持を表明していた。シドゥ以外のパンジャービー・ラッパーも、SNSでカリスタン運動に肯定的な発言をして、たびたび批判されている。

 ギャングスタ・ラップが宗教ナショナリズムや独立運動にまで関わってしまうというのが、なんともインドらしい話ではある。

 

P-Pop」は世界を制覇することができるか? 

 昨今のパンジャービー音楽の勢いはすさまじい。

 カリスマ的人気だったシドゥをはじめ、カラン・オージュラ、APディロン、ディルジット・ドーサンジなどのスターともなれば、人気曲のYouTubeでの再生回数は数億回に達し、インドはもちろん世界各国を回るアリーナクラスのワールドツアーを成功させている。APディロンとディルジット・ドーサンジは、世界的音楽フェスであるコーチェラへの出演も果たしている。日本では無名でも、彼らはすでに「世界的スター」なのだ。

 とはいうものの、いま「世界的スター」という言葉をかぎかっこ付きで書いたのには理由がある。彼らが世界各地で大規模なコンサートを行なっているのは確かだが、映像を見る限り、観客のほとんどは南アジア系だからだ。彼らの音楽が世界中で聴かれているのは嘘ではないが、それは南アジア系の人々が世界各地に散らばっていることを意味している。彼らの人気が人種や文化の垣根を超えたと言えるかどうかは、まだ微妙な状況だ。

 だが、この傾向もこれから変わってゆくのかもしれない。ここ数年の新しい潮流として、欧米の人気アーティストがパンジャーブのシンガーやラッパーと次々コラボレーションをするようになってきた。ジェイ・ショーンとリル・ウェインが共演した時代とは違い、パンジャーブ語の、パンジャーブ・スタイルの曲に世界的スターが参加しているのである。

 人気、実力ともに世界最高峰のシンガーソングライターであるエド・シーランは、ディルジット・ドーサンジのコンサートにゲスト出演し、ヒット曲「Sapphire」では人気シンガーのアリジット・シンと共演したパンジャービー・バージョンまでリリースしている。ディルジット・ドーサンジは2023年にオーストラリアの歌手シーアと共演した「Hass Hass」を発表しており、アリジット・シンは今年4月に人気EDMアーティストのマーティン・ギャリックスのシングル「Weightless」に起用されている。他にも、カラン・オージュラがワンリパブリックと、バングラー・ポップの人気歌手グル・ランダワ(Guru Randhawa)がピットブルと共演するなど、パンジャービーたちと世界的人気アーティストの共演は枚挙にいとまがない。パンジャーブの音楽が世界に進出しているというよりも、欧米の音楽産業が急成長を続けるパンジャーブ音楽のマーケットに取り入ろうとしているようにも見える。現状では、YouTubeでこれらの曲に熱心にコメントを書いているのは、南アジア系の人々がほとんどだが、この状況は今後変わってゆくのだろうか。

 カラン・オージュラが今年8月にリリースしたニューアルバムのタイトルは、「P-Pop Culture」という。「インドのポップ」でI-Popではなく、「パンジャーブのポップ」でP-Popを名乗っているのが、いかにも誇り高いパンジャービーらしい。先行シングル「MF Gabhru!」のミュージックビデオは、「世界的スター」のオージュラが故郷の村に戻ってくるという設定だ。オージュラはバングラーダンサーたちと畑の中で踊ったり、仲間とジープやトラクターやバイクで徒党を組んで『マッドマックス』みたいに荒野を走り回ったりして、村人たちと帰郷の喜びを分かち合う。

 タイトルのGabhruはパンジャーブの田舎のスラングで、若くて男らしいイケメンのことだという。「MF」とは、もちろん英語で「ヤバい」を最大級に強調した第一級の放送禁止用語であるマザーファッキンの略だ。顔をしかめる人もいるだろうが、インドでもっともヒップホップ的な人々であるパンジャービーらしいタイトルだと言える。

 オージュラはプライベートジェットで世界ツアーを回るほどのスーパースターだが、その目線は世界ではなく、完全に地元に向いているというのがまたパンジャービーらしい。この個性的すぎる「P-Pop」が、K-Popのように世界を席巻する日が来るのだろうか? そんな日が来ても来なくても、パンジャービー音楽の楽しさ、素晴らしさが、もっと日本でも知られてほしいと願っている。

 

YouTube再生リスト

本記事に関連する音楽(動画)を著者セレクトでYouTubeの再生リストにまとめました。ぜひ記事と一緒にお楽しみください!

パンジャーブのヒップホップとギャングスタ・ラップ」再生リスト

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著者略歴

  1. 軽刈田凡平

    1978年生まれ、東京都在住。インド音楽ライター。
    学生時代に訪れたインドのバイタリティと面白さに惹かれ、興味を持つ。
    時は流れ2010年代後半、インドでヒップホップ、ロック、電子音楽などのインディペンデント音楽のシーンが急速に発展していることを発見。他のどの国とも違うインドならではの個性的でクールな表現がたくさん生まれていることに衝撃を受け、ブログを通して紹介を始める。
    これまでに、雑誌『TRANSIT』『STUDIO VOICE』『GINZA』などに寄稿、TBSラジオ、J-WAVE、InterFM、福井テレビなどに出演しインドの音楽を紹介している。
    また、インド料理店やライブハウスでインドの音楽に関するトークイベントを行ったり、新聞にインド関連書籍の書評を書いたりするするなどマルチに活躍中。
    国立民族学博物館共同研究員。『季刊民族学』192号(2025年春号)にて、ムンバイのヒップホップシーンを取材して執筆している。
    辛いものが苦手。

    著書(共著)『辺境のラッパーたち 立ち上がる「声の民族誌」』(青土社、島村一平[編])

    ブログ(アッチャー・インディア) https://achhaindia.blog.jp/


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