路地裏から巨大コンサートまで——新しい音楽を探してムンバイを歩く(後編)
2世ポップシンガーが語るインドの音楽シーンのリアル
ムンバイでは、ボリウッドのような王道のポップミュージックとヒップホップのような新しいインディペンデント音楽はどのように共存しているのだろうか。この疑問について聞くのにぴったりの人物に会うことができた。
シッダーント・ボースレー(Siddhant Bhosle)は、ボリウッド的なインド風ポップスにR&Bやダンスポップの要素を取り入れて歌うシンガーソングライターだ。
彼の父はインドの伝説的名優アミターブ・バッチャンのプレイバック・シンガーとして知られ、「ボイス・オブ・アミターブ」の異名を持つスデーシュ・ボーサレー(Sudhesh Bhosale。親子でなぜ姓の表記が微妙に違うのかは謎)。父スデーシュはアミターブをはじめとする数々のボリウッド俳優のモノマネの達人としても知られている。
プレイバック・シンガーとして名を馳せた父のもとに生まれたシッダーントは、幼い頃にヒンドゥスターニー音楽を6年間学び、その後アメリカに留学してジョン・メイヤーやチャーリー・プースのような欧米のシンガーソングライターの影響を受けた。彼はメインストリーム(ボリウッド)とインディペンデント、古典と現代、インドと西洋の両方を知る人物なのだ。
ムンバイ郊外にある彼のスタジオは、コンサートホールや応接スペース、画家として活動する姉妹のアトリエなどが入るビルの中にあった。人気DJのカラン・カンチャンのスタジオ兼自宅も立派な一軒家だったが、ボースレー一家のスタジオは家というよりもまるでちょっとした企業のビルのようだ。やはりボリウッドが生み出す富は桁違いなのだろう。
「インドの音楽シーンに興味があるんだって?何でも聞いてくれよ」とシッダーントはにこやかに迎え入れてくれた。スタジオの入り口には、マリーゴールドの首飾りをしたサラスヴァティ(弁財天のルーツとなった芸術と音楽を司る女神)の像が飾られている。インドのインディペンデント音楽シーンの現状について尋ねると、彼は笑顔を崩さずにこう語った。
「ディルジット・ドーサンジがエド・シーランと共演したり、ハヌマンカインドのラップが世界的にヒットしたり、世界中がインドの音楽シーンに注目し始めている。K-Popがアジアの音楽の扉を開いたんだ。韓国語のK-Popやスペイン語のラテンポップは、言葉がわからなくても世界中で聴かれているよね。次はインドの音楽が世界で売れてもおかしくないはずだよ」
インド人らしいポジティブな意見だが、K-Popとインドのポップスでは、置かれている状況がまったく異なっている。K-Popの成功は、ポピュラー音楽としての高い完成度だけによるものではなく、国家レベルの輸出戦略や緻密なマーケティングのたまものでもある。
人口約5,000万人の韓国と比較すると、インドは14億人という世界最大の人口を抱えている。巨大で成長を続ける国内市場を抱えるインドのポピュラー音楽には、K-Popのように多大な投資をしてまで海外進出を目指す理由がない。そしてつねにコンテンツが飽和している現代においては、戦略的なサポートなしに才能だけで世界的な成功を掴むのは困難だ。たとえばプラティーク・クハル(Prateek Kuhad)のような才能のあるシンガーソングライターでさえも、セールスや知名度の点で国際的な成功を手にしているとは言い難い。
そんな意見を伝えたうえで、「インドの音楽が世界で受け入れられるためには何が必要だと思う?」と聞いてみたところ、シッダーントは少し考えてから「ステレオタイプをうまく利用することだと思う」と答えた。
なんという冷静な現状分析だろう。昨年大ヒットを記録したハヌマンカインドも、いまや世界中のロックフェスで大人気のブラッディウッドも、世界で売れているインドのポピュラー音楽は、いかにもインド的なステレオタイプな要素を、映像や音楽に分かりやすく導入している。日本でいうと、ポップカルチャーや伝統音楽の要素をメタル/ロックに取り入れたBABYMETALや和楽器バンドと同じ方法論だ。シッダーントも自身の曲にタブラの音を取り入れたりして、インドらしさを意図的に強調しているという。
次に、インドでもかなり盛り上がっているように思えるヒップホップについて尋ねてみた。
「確かに人気は高まっているけど、みんながヒップホップについて知っているわけじゃないね。ヨーヨー・ハニー・シンみたいな人気ラッパーでも、大多数の人はボリウッド・シンガーだと認識しているよ。インディペンデント音楽の人気が出てきたといっても、やっぱりインドの音楽シーンの中心はボリウッドだね」
どうやら、ヒップホップがボリウッドのようなメインストリームになりつつあるというわけではなく、インドの若者のポピュラー音楽に対する価値観が多様化して、サブカルチャー的な音楽のファンも増えているということなのだろう。
考えてみれば日本も同じような状況だ。アニメのタイアップ曲になったCreepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」が大ヒットしたと言っても、ヒップホップの世界では人気の高い千葉雄喜やAwichの一般的な知名度はそこまで高いわけではない。
「たとえばプレイバック・シンガーとして何曲もヒット曲を持つ歌手が、自分の音楽を追求するためにソロアルバムを作っても、ほとんどの人はボリウッドで使われたヒット曲しか聴かないんだ。そうすると、そのシンガーのサブスク上のプレイリストの上位は、結局映画音楽ばかりになってしまう。だから、そういう歌手は、映画音楽とは別に自作曲(非映画音楽)だけのプレイリストを作って、本当の自分の音楽を聴いてもらおうとするんだ」
自身の表現を追求するアーティストにとっては、こうした傾向は決して喜ばしいものではないはずだが、シーンを冷静に分析するシッダーントはこうした状況を嘆くふうでもない。インドの音楽シーンのど真ん中で育った彼にとっては気にするまでもないことなのか、それとも経済的な豊かさゆえの余裕なのだろうか。
ボリウッドとインディペンデント、伝統と現代、インドと世界――ムンバイでは、そうした相反する要素が、調和するわけでも反発するわけでもなく、それぞれに鳴り響いている。その様子を冷静に見ながらチャンスを伺う彼は、アーティストであると同時に冷静な投資家のようでもあった。
お礼を伝えてスタジオを出ると、サラスヴァティの像が静かな微笑をたたえていた。
哀愁のボリウッド・パークにBボーイ登場!
今回の滞在で何かと世話を焼いてくれたインド人の友人夫婦が、郊外にある巨大撮影スタジオ「ボリウッド・パーク・フィルムシティ・ムンバイ」に誘ってくれた。ニッチなカルチャーにばかり興味を示している私に、ムンバイのエンタメの王道を見せたくなったのかもしれない。
ボリウッド・パークはムンバイ郊外の豹も出るという森の中にあった。
この映画村、実際にいろんな映画に使用されたセットが見られるのが売りなのだが、最近のスタイリッシュなボリウッド映画のイメージに反して、かなりレトロな印象だった。広大な敷地の中にあるセットを回るバスツアーでは、「裁判所のシーンで使われる建物」や「寺院のシーンで使われる建物」など、インド映画のどこかで見たことがあるような場所を巡るのだが、どれもかなり年季が入っている。ショーが行われるステージにはなんとも垢抜けないピンク色の巨大なハート型の照明が飾られていて、90年代のボリウッドで時間が止まってしまっているようだ。
友人夫婦も、微妙なレベルのダンスショーを見ながら「じつは初めて来たんだけど、自分たちだけだったら絶対に来ない場所だから、いい経験になったよ」とか言って苦笑いしている。
何と返したらよいか分からないままダンスショーを見ていると、唐突に90年代のBボーイ風のダンサー二人がステージに登場した。二人は腕を組んだキメのポーズからステップを踏むと、ブレイキンを踊り始めた。どついたりする寸劇を入れながら交互に踊っているのは、ダンスバトルという設定のようだ。
『ガリーボーイ』の曲を使えばいいのに、なぜか絶妙にダサい洋楽ダンスポップに合わせて踊っていたのが謎だったが、今ではヒップホップもボリウッド文化を構成する一要素ということなのだろう。ちなみにステージのトリを飾ったのは、あんまり似ていないシャー・ルク・カーンのそっくりさんによる口パク&ダンスショーだった。
このボリウッド・パーク、大富豪風の椅子に座って記念写真を撮ったり、往年のボリウッド映画の手書きポスター風壁画が見られたりと、興奮できるポイントもそれなりにあるので、インド映画が好きでB級感覚を楽しむことができ、なおかつムンバイの滞在が長くて遊びに行く場所に困っているという人がいたら、ちょっとだけおすすめしたい。
盛り上がりすぎのクラブ・シーン
なんとも言えないボリウッド・パークを体験した数日後、「ムード・インディゴ」のヒップホップ・ナイトで観客を沸かせたDJのカラン・カンチャンから、人気クラブ「アンチソーシャル(AntiSOCIAL)」に誘われた。彼が率いるDJ集団「ネックレック・クルー(NeckWreck Crew)」のイベントがあるという。アンチソーシャルがあるロウワー・パレル地区は、かつては紡績産業で栄えた工場地帯だったが、今ではショッピングモールやオシャレなカフェ、レストランが並ぶ若者文化を象徴するエリアだ。
裏通りの地下にあるアンチソーシャルの階段を降りると、そこには日本や欧米のクラブとまったく同じような空間が広がっている。バーカウンター前にはドリンクを注文する若者たちが群がり、フロアはDJたちがプレイするトラップやハウスで盛り上がっている。深い時間になるにつれてフロアの人数はさらに増えてゆき、ますます熱気を帯びてゆく。
地元のDJたちに続いて出てきたカラン・カンチャンは、この日はボリウッド・ソングをいっさいプレイせず、ベースミュージックやハウスを中心にした選曲で若者たちを熱狂させた。インド系アメリカ人の世界的DJ、KSHMR(カシミア)などの大物ゲストも登場した彼のセットは、ムンバイのクラブアンセムと化したディヴァインの「バージガル」で幕を閉じた。
トリを務めたのは日本の大型フェスにも出演経験のあるイギリス人DJのハムディ(Hamdi)。フロアの熱気はすさまじく、ピークタイムには何度もモッシュ(体を激しくぶつけ合うハードコア・パンク由来のダンス)が巻き起こっていた。モッシュピットで激しく踊る若者たちに暴力的な雰囲気はなく、こういう音楽の楽しみ方として分かってやっている様子だ。
さきほどムンバイの音楽シーンの主流はまだボリウッドと書いたばかりで前言を覆すようだが、やはりインディペンデント・シーンの盛り上がりもすさまじい。アンチソーシャルはその勢いを感じるのに最適な場所だ。まだ若いシーンを盛り上げようという熱気に、なんともわくわくする。ムンバイに行く音楽ファンはぜひ足を伸ばしてほしい。
日によってヒップホップやメタルやラテンなど、さまざまなジャンルのイベントが行われているが、スタンダップ・コメディとか格闘技とかエアギター大会が行われている日もあるので、事前にインスタグラムなどでスケジュールを確認するとよい。パーティーはタクシーが捕まえにくい深夜や早朝に終わることが多いので、あらかじめスマホにUberやOlaなどのインド版配車アプリを入れておくと便利だ。
「元祖ガリー」を探して
今回のムンバイ訪問でぜひとも訪ねたかった場所のひとつが、「ガリーラップ」を確立した第一人者であるディヴァインが育った街、JBナガルだ。
ガリーラップの「ガリー」とは、路地という意味のヒンディー語。家屋や商店がひしめくガリーは、下町やスラムの出身者にとって地元の象徴だ。彼はこの生活感あふれる言葉を、ヒップホップ的な「ストリート」のインド的翻案として使った。好んで出かけるオシャレな繁華街ではなく、抜け出したくても抜け出せない地元こそが、俺たちのリアルなフッド(地元)ではないのか。「ガリー」は、インドのヒップホップがボリウッド的なパーティー音楽からリアルなストリートの音楽へと転換したことを示すキーワードだ。
シーンに颯爽と登場したディヴァインは、スラム出身の「本物」のラッパーとして脚光を浴びた。せっかくムンバイに来たのだから、ディヴァインが生まれ育った、インドのヒップホップの「元祖ガリー」を、ぜひこの目で見ておきたい。
近年開通したムンバイ・メトロのJBナガル駅を降りると(メトロというと地下鉄のイメージがあるが、ここでは近郊列車程度の意味で、線路は道路の上の高架を走っている)、そこに広がっていたのは、意外なことにスラムでも下町でもなく、オフィスビルが並ぶビジネス街だった。ダラヴィやクルラでは入るのにちょっと勇気が要りそうな路地(ガリー)をたくさん見かけたが、この辺りは大きな通りばかりで、そもそも脇道が見当たらない。ヒップホップが好きそうな若者の姿も見当たらず、歩いているのはかっちりとした格好のビジネスパーソンばかりだ。東京で喩えるなら、新橋あたりのオフィス街に似ている。
あらためて地図をよく見てみると、JBナガル駅から少し離れたところに「JBナガル・ストリート」という通りがある。駅の近くではなく、こっちがガリーっぽいエリアなのだろうか。オートリクシャーを飛ばしてJBナガルストリートを訪ねてみたが、そこは裕福でも貧しくもない、ごく普通の住宅街だった。ここにも、ガリーらしき場所はなさそうだ。
この日、私はディヴァインのクルー「ガリー・ギャング」のTシャツを着ていた。カラン・オージュラのライブのときみたいに、Tシャツをきっかけに地元のヒップホップファンに話が聞けるかもしれないと思っていたのだ。
ところが、そんな期待もむなしく、私のTシャツに気づく人は誰もいなかった。というか、そもそもヒップホップを聴きそうな若者がまったくいなかった。午後の早い時間帯だったせいかもしれないが、住宅街を歩いているのは主婦か老人かビジネスパーソン、あるいは学校帰りの子どもばかりだ。
ようやく見つけた若者に、Tシャツを見せながら「ディヴァインって知ってる?」と声をかけたところ、困っている外国人だと思われたようで、「何? 何か問題でもあったのかい?」という反応が返ってきた。なんと、彼は地元の大スターであるはずのディヴァインのことを知らないのだ。
続けて何人かに声をかけてみたのだが、全員、芳しくない反応。JBナガルが生んだヒップホップスターは、じつは地元では有名ではないのだろうか。そもそもこの街はディヴァインのラップに出てくるようなスラムではまったくなく、ごく普通の住宅街だ。元祖ガリーはいったいどこにあるのだろうか?
インターネット上の古い記事には、JBナガルを含む東アンデーリー地区には、かつてはスラムが点在していたという情報もあったが、どうやらムンバイの加速度的な発展によって、この地域は数年の間に大きくその姿を変えてしまったようだ。勢いを増す再開発によって、ディヴァインが青春時代を過ごした「元祖ガリー」は永遠に失われてしまったのかもしれない。
ヒップホップ・トリクルダウン!
もうひとつ考えられるのが、ディヴァインが標榜していた「ガリー・ラッパー」というイメージが「演出されたもの」だったという可能性だ。ムンバイカル(ムンバイっ子)の友人にこのことを聞くと、彼は「自分もJBナガルの近くで育ったけど、ガリーって何のこと?って思ってたよ」とにべもなく答えた。
「ガリー育ちというのはどちらかというとディヴァインよりも(クルラ育ちの)ネイジーのほうだと思う。そのコンセプトをディヴァインがうまく流用したんじゃないかな」と語ったのは、別のヒップホップ関係者だ。
ディヴァインの少年時代、母は海外に出稼ぎに出ており、彼は暴力的な父のもとで過酷な生活を送っていたという。彼の音楽の根底にあるのは、満たされない少年時代と、そこから成り上がりたいという衝動であることは間違いないだろう。幼少期の彼は決して裕福でもなかったはずだ。だが、海外で働く親からの仕送りを受け、カレッジにも通っていたというディヴァインの出自は、最底辺のスラムではなく、せいぜいロウワー・ミドルクラスといったところではないだろうか。
別に彼を嘘つきだとか偽物だと批判しているわけではない。そもそもヒップホップは貧しさや悲惨な境遇を競うジャンルではないし、話を盛るのもよくある話だ。ムンバイのスラム育ちでもない自分にとやかく言う権利はない。
私が強調したいのは、ディヴァインがその後のシーンに及ぼしたポジティブな影響である。彼はヒップホップによって、スラム育ちという出自を「リアルでクールなもの」へと変換できることを示した。
ヒップホップはアメリカ生まれのオシャレな音楽としてインドに伝わり、ボリウッド映画を通して都会的なパーティー音楽として知られるようになった。ディヴァインは、そこに「出自に関係なくリアル(風)に地元のことを歌うのがかっこいい」というパラダイムシフトを起こした。ネイジーのように同様のスタイルで活動していたラッパーは他にもいたが、こうした価値観の転換を、もっとも意識的に、キャッチーな形で提示したのがディヴァインだった。
その影響で、さらに恵まれない環境に暮らす若者たちがラッパーやヘッズ(熱狂的なファン)になり、シーンの裾野を広げていった。「スラム育ちのほうがリアルでクール」というのは、たとえヒップホップシーンに限定的な話だとしても、インドという国の上流志向や階級意識を考えると、画期的な大転換だ。
言ってみれば、ディヴァインはヒップホップというカルチャーのトリクルダウンを起こすきっかけをつくったのだ。
元祖ガリーは見つけられなかったが、JBナガルストリート近くのヒンドゥー教の祠の壁面には、クリスマスを祝う聖母子像が大きく描かれていた。最近のインドでは過激化したヒンドゥー教徒によるムスリムやキリスト教徒への排斥のニュースもよく聞くが、ここでは異なる信仰が共生しているようだ。
クリスチャンであるディヴァインも、若い頃このヒンドゥー寺院に描かれた聖母子像に将来の成功を祈ったことがあったかもしれない。そんなことを考えながら、JBナガルの街を後にした。
ワダラの路上から
ムンバイでのヒップホップのトリクルダウンの恩恵を受けたラッパーのひとりが、ストリート・シェイク(Street Sheikh)だ。ムンバイのスラムといえばダラヴィばかりが話題になるが、この街には大小2,000ものスラムが存在すると言われている。ストリート・シェイクが育ったのは、ワダラという地区の大通り沿いの、ブルーシートのテントハウスが並ぶ一角だった。ムンバイのスラムのなかでも劣悪な環境の場所である。
彼のことを知ったきっかけは、ムンバイでシンガー/ダンサーとして活動しているHiroko Sarahさんからの紹介だった。彼女はワダラの子どもたちを支援している団体「光の音符」に協力しており、少年時代にヒップホップに興味を持った彼の活動を、現地の仲間たちとサポートしてきた。
ムンバイ訪問にあたり、ストリート・シェイクが生まれ育ったワダラを訪ねてインタビューを行う予定を立てていたのだが、彼がかつて生活していたテントハウス群は、私がムンバイに渡る直前に、なんと行政によってブルドーザーで丸ごと撤去されてしまったという。
それでも彼が育った場所を会う前に見ておきたいと、ワダラ・スラムを訪れた。
テントハウスがあった場所には、どこからかやってきた花屋が勝手に植木鉢を並べて商売を始めていた。かつてここに暮らしていた人々は散り散りになり、残った人々が路上の片隅で煮炊きをしている。あまりにも残酷な現実に、言葉が出ない。
インドの「格差」や「差別」というと、カースト制度がまっさきに連想されるが、ワダラのスラムに暮らす人々は、自分自身のルーツやカーストを知らない人も多いという。インド社会の伝統や慣習のなかで生まれたカースト制度とはまた違う、大都市ムンバイが持つ格差の構図がここにはある。
生活の場がほとんど破壊されてしまったワダラで、「光の音符」が子どもたちのために開いている教室の様子を見学させてもらった。
教室は小さな商店の2階にある倉庫のような場所で行われている。そこにハシゴを登って子どもたちが次々とやってくる。その日は英語で曜日の名前を覚えるという内容だったが、子どもたちはよく言えば元気いっぱい、悪く言えば学級崩壊気味で、マジメにノートを取る子もいれば、すぐに飽きて動き回ってしまう子もいる。それでも、この教室をみんなが楽しんでいることは伝わってくる。レッスンが終わりダンスの時間になると、子どもたちはみんな大はしゃぎで好きな曲をリクエストして、先生がスマホから流す音楽に合わせて、満面の笑顔で踊っていた。先ほど路上で見かけた大人たちとは大違いだ。
インドではどこでもそうだが、「貧しい」とされる場所ほど、子どもたちが元気に見えて、大人たちは憂鬱や絶望という言葉すら生ぬるく感じられるほどに疲れ果てている。逆に、「恵まれている」とされる社会では、子どもたちが疲弊していて、大人たちが子どものようにはしゃいでいるように思える。自分もムンバイで、いや東京でも子どものように音楽を楽しんできたが、その外側にある問題にずっと目をつぶっていたのかもしれない。
ひたすら踊る子どもたちを見ながら、ムンバイ渡航前に「光の音符」の代表の西村ゆりさんに伺った話を思い出していた。この教室の目的は、英語やダンスそのものを教えることではなく、情操教育だという。自分の感情や考えを表現すること。そしてそれを他者に認められるということ。本当の意味で貧困を脱出するために必要なのは、単にお金を稼ぐためのスキルではなく、こうした経験を重ねてゆくことだという。
ここで教えているのは、「光の音符」が支援する他のスラムで育ち、今ではカレッジに通っているという若い女性だった。レッスンのあと、彼女を送るために駅へ向かう道をみんなで話しながら歩いていると、彼女は屋台に足を止め、子どもたちと私にフルーツとスナックを買ってくれた。「ここは払わせてください」と伝えたが、彼女は涼しげに笑って、屋台のQRコードをスマホで読み取って支払いを済ませてしまった。
新聞紙のうえに果物を並べて売っているような屋台でもスマホ決済なのか。まるで今のムンバイの縮図のような店だ。
カットされたフルーツやお菓子をみんなに回す彼女は、きっと子どもたちの良きロールモデルなのだろう。彼女の暮らしが物質的に裕福ではないとしても、彼女のふるまいや精神には貧しさなどまるでないように見えた。
あまりに濃い経験に当初の目的を忘れそうになってしまったが、そろそろこの街で育ったラッパーのストリート・シェイクに会いに行こう。
リアル・ガリーラッパー、かく語りき
ストリート・シェイクとラッパー仲間のレヴェル(Revel)に、郊外のカフェで話を聞いた。
「まだいろいろなことを学ばなきゃいけない時、僕にはもう母親がいなかった。子どものころから路上で暮らして、働きながら家族を支えてきたんだ」
シェイクは幼い頃から父親がいない環境で育ち、14歳のときに慕っていた母も亡くなってしまったという。彼はワダラや他の地域のスラムを行き来しながら暮らす中で、レヴェルと知り合った。政府が提供している貧困層への住宅提供プログラムは、条件が合わなかったり、手続きがうまくいかなかったり、さまざまな理由で利用できないこともある。だから彼らのような階層の人々は、なかなか一つの場所に腰を落ち着けて暮らすことができない。そうした生活の中で、彼らが「光の音符」の支援につながり、音楽仲間と出会うことができたのは幸運と言えるだろう。
「ここにはアルコールやドラッグや大麻、あらゆる間違ったことがあるけど、音楽を始めたことで正しい道を辿ることができた。ヒップホップが生きる意味や勇気を与えてくれたんだ」
そう語るストリート・シェイクに、ヒップホップとの出会いについて訊いてみた。
「ディヴァインを聴いてラッパーになりたいと思った。彼の『ジャングリ・シェール(Jungli Sher)』という曲だ。今ではUSのラッパーも聴くよ。リル・ティージェイとかポップ・スモーク、プレイボーイ・カルティ、リル・ベイビーが好き。もともとはガリーラップのスタイルだったけど、今ではオートチューンを使ったり、スタイルも変わってきている。でも自分たちの100%リアルな生活を、ムンバイのストリートのヒンディー語でラップするという部分は変えないよ」
地元のラッパーでヒップホップを知り、本場アメリカにも注目するようになったというのはレヴェルも同じだ。
「自分はチェンブールという別の地区のスラムで育った。最初に影響を受けたラッパーはエミウェイ・バンタイ(Emiway Bantai)だった。USだとヤング・サグがいちばん好き。リル・ティージェイも好きだね。エミネムや2パックみたいな昔のラッパーも聞くよ」
エミウェイ・バンタイはワダラからほど近いアントップ・ヒル地区出身の人気ラッパーだ。好きなラッパーの話になると、彼らはとたんにヒップホップ好きの若者の顔になる。
「最近だとサンバタ(Sambata)のマラーティー語ラップがやばいよね」とか「ディヴァインの新曲の『Triple OG』は昔の彼の雰囲気が戻ってきた」と語るのを聞いていると、インタビューであることを忘れて語り合いたくなってしまう。
話しているうちに、だんだん二人の性格がわかってきた。話好きでノリがいいシェイクと、冷静で少し控えめなレヴェル。対照的な二人は、とても良いコンビのようだ。ムンバイのラッパー事情について尋ねると、「ほとんどのラッパーが売れてくるとストリートの言葉じゃなくて普通のヒンディー語でラップするようになるけど、エミウェイ・バンタイだけはずっとローカルな言葉を使い続けている」というのが二人の共通した意見だった。別のヒップホップ関係者も同じことを言っていたので、これはムンバイのヘッズのリアルな評価なのだろう。
シェイクにヒップホップ以外の音楽の影響について聞くと、「ヒップホップを聴く前は、アリジット・シンみたいなボリウッド・ソングやカッワーリーを聴いていたよ」という意外な答えが返ってきた。カッワーリーというのは神との合一を目指すイスラーム神秘主義(スーフィズム)の宗教歌だ。
「ヌスラット・ファテ・アリ・カーンが自分のアイドルだった。彼は愛や人々がどう生きるべきかについて歌っている。普通は両親が正しいことと間違ったことを教えてくれるけど、僕には両親がいなかったからカッワーリーから学んだ。今はアジメールにグル(導師)がいて、毎年会いに行っている。彼のところにはヒンドゥー教徒も外国人も、いろんな人が会いに来るんだ」
アジメールはムンバイから1,000キロほど北にある、イスラームの聖者廟で有名なラージャスターン州の街だ。インドでは、信仰を問わず、個人が精神的な指導者を持つことは珍しいことではないが、失礼ながら彼の生活のなかから毎年の旅費を捻出するのも大変だろう。彼にそんな信心深い面があったとは意外だった。
隣で黙って聞いていたレヴェルに信仰について聞くと「自分は特定の宗教を信じているわけじゃない。誰もが平等だと考えているよ。ムスリムではないけど、唯一の神様を信じているんだ。彼(シェイク)が信じていることについては、別にいいと思うよ」という回答。冷静な彼らしい意見だ。
インドのみならず、世界中で宗教や価値観の違いによる分断の話を聞くことが多い昨今、まったく異なる宗教観を持つ二人が好きなラッパーについて楽しく語っているのを見ていると、社会やネットの中で行われている無駄な線引きが、本当に馬鹿らしいものに思えてくる。
そしてサイファーは続く
インタビューのあとに向かったのは、住宅街のなかにあるバーラット・ヴァン・ジョガーズ・パーク。ここで毎週日曜日に行われているサイファーを見にゆく予定だと伝えると、ストリート・シェイクとレヴェルもぜひ参加したいという。サイファーというのはラッパーたちが輪になって、ビートに合わせてラップをリレーしてゆくものだ。バトルのように勝ち負けはないが、ラップのスキルを見せつけ合う場でもある。
時間になると、公園のなかのグラフィティに彩られた一角に、次々とラッパーらしき若者たちが集まってきた。ところがみんな緊張しているのか、変にお互いを意識しているのか、グループで固まったまま、なかなか交流しようとしない。いつもフレンドリーに見えるムンバイの若者たちにしてはちょっと意外な反応だ。
主催者のビートボクサー、タッシュ(Tash)が現れたのは、いかにもインドらしく予定時刻を1時間も過ぎた後だった。タッシュは人を惹きつける兄貴分的な魅力がある男で、彼が呼びかけると、ばらばらの場所に固まっていたラッパーたちがわらわらと集まってきた。
タッシュが口でビートを刻み出すと、ようやくサイファーが始まった。ストリート・シェイクはいきなりトップバッターでラップをカマした。まだ緊張しているように見えたが出来は上々。レヴェルもそれに続く。ラップのリレーが続くにつれて、集まったラッパーたちの空気も少しずつほぐれてきた。
ここには大都市ムンバイらしく多様なバックグラウンドのラッパーたちが集まっている。ヒンディー語でラップするラッパーが多いが、英語やタミル語でラップをする者もいる。アメリカからの留学帰りだといういかにも裕福そうなラッパーもいれば、シェイクとレヴェルのようにストリート育ちのラッパーもいる。信仰や家庭環境や住んでいるエリアなどもさまざまだろう。
サイファーがいよいよ熱気を帯びてきたとき、タッシュはビートを刻むのを止めて、こう叫んだ。
「ヒップホップはセックスやドラッグや金について表現するものじゃない。自由や心の革命を表現するものなんだ。ここにいるみんなにシャウトアウトしよう。ヒップホップ万歳(ジンダーバード)!」
「ヒップホップ・ジンダーバード!」
「ジンダーバード」はデモなどで掛け声として使われる言葉だ。たとえば「バーラト・マーター・ジンダーバード!」(母なるインド万歳)や「インキラーブ・ジンダーバード!」(革命万歳)のように、右派も左派もこの言葉を使う。宗教や言語や格差やあらゆる分断が存在するこの国で、ヒップホップという新しい文化が、ここではあらゆる階層の若者たちをつなげている。
彼の言葉に盛り上がる若いラッパーたちを見て、思わず胸が熱くなった。感傷的になっているのは承知のうえだ。サイファーが終われば、裕福な人は広くて清潔な家へ、貧しい人は狭くて質素な家へと帰り、それぞれが接点のない日常を送ることだろう。
それでも、ヒップホップという新しいカルチャーだからこそ、普通に暮らしていたら出会わないはずの人々が、出自を超えて繋がることができる。お互いの心のうちから出たリリックを分かち合い、スキルを競い合うことができる。
ヒップホップで貧困や不平等といった社会の問題が解決できるわけではない。それでも、いまこの瞬間、このサイファーの輪の中には、確かに音楽による平等が存在していた。
タッシュがまたビートを奏で始めた。サイファーはまだまだ続いてゆく。
日本からインドに旅行に行く人は、タージマハルやガンジスの聖地ヴァラナシのような、いかにもインドらしい場所を目的地に選ぶことが多いだろう。現地で音楽を聴きたいと思う人でも、本場の古典音楽や伝統音楽を体験したいと考えるのが一般的なはずだ。
もちろんそれも素晴らしいことに違いないが、もしあなたがヒップホップやロックのような、いまでは世界中のどこにでも存在しているようなタイプの音楽が好きなら、現地のシーンを少しだけでも覗いてみてほしい。スケートボードやブレイキンのようなストリートカルチャーでもいいだろう。
まったく違う文化のなかで、同じカルチャーを愛する仲間に出会う経験は、何ものにも変え難いものになるはずだ。
インドの、いや世界のもっと隅々まで、あのサイファーのビートが広がってゆくことを、今も願っている。
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