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軽刈田凡平の新しいインド音楽の世界 軽刈田凡平

「新しい」インド音楽への招待

 

 渋谷でも新橋でもどこでもいいのだけど、もし街頭インタビューで「インドと言えば何を思い浮かべる?」と尋ねたら、ほとんどの人から「カレー」とか「ヨガ」という答えが返ってくることだろう。最近ではインド映画やインド料理が好きな人も増えてきたので、もしかしたら「ラーム・チャラン」(『RRR』で「ラーマ」を演じた俳優)とか「ハイデラバーディ・ダム・ビリヤニ」(料理名)とか答える人もいるかもしれない。とはいえ、「インディペンデントな音楽シーンが盛り上がってますね」と答える人はまずいないことと思う。もしそう答えた人がいたら、それはおそらく、私こと軽刈田凡平のはずだ。

 私は堅実にカタギの勤め人として生きてきたのだが、2017年から突然、この変な名前で、日本ではほとんど誰も注目していないインドのインディペンデント音楽を紹介するということをはじめた。「インドのインディペンデント音楽」というのは、ヒップホップやロックや電子音楽などの、インドでは比較的新しい形式の音楽のことである。

 これらの音楽の面白さをうっかり見つけてしまった私は、その素晴らしい音楽がここ日本ではあまりにも無名だったので(というか母国インドでもそれほど有名ではないのだが)、普及するための活動をはじめた。まずは、なぜ平凡な勤め人だった私がインドの新しい音楽に魅せられるようになったのかという話から書きはじめることとしたい。


インドで感じた混沌のグルーヴ

 話は学生時代にさかのぼる。その頃、というのは1990年代後半のことなのだが、日本では、タイやインドなどにバックパック旅行に出る若者がやたらと多かった。当時は、テレビをつければ沢木耕太郎の『深夜特急』がドラマ化されていたり(主演は大沢たかおだった)、猿岩石(有吉弘行がいたコンビだ)がユーラシア大陸をヒッチハイクで横断する企画をやっていたりして、バックパッカーを扱ったコンテンツが今よりもずっとポピュラーな時代だった。

 バブル経済はとっくに終わっていて、日本は就職氷河期といわれる時代に突入していた。安定した会社勤めに代わる価値観や、経済成長の過程で失ってしまった何かを、当時の日本人はアジアの途上国に求めていたのかもしれない。その頃、円はまだ強くて、逆にアジアの国々は今ほど発展していなかったので、日本人はかなり安く旅をすることができた。インターネットはまだ十分に普及しておらず(スマホもwi-fiもなかった)、アジアの旅は謎と魅力に満ちあふれていた。

 私もそういう時代の空気の影響をまともに受けていたのだろう。十代最後の春休み、私はバイトで貯めたお金で航空券を取り、買ったばかりのバックパックを背負ってインドへと降り立った。安宿街は自分と同じような日本人の大学生ばかりだったが、それでもインドの旅は十分過ぎるほどに刺激的だった。

 雑踏をゆけば、右からも左からも人や車やバイクやオートリクシャー(三輪タクシー)や野良犬や野良牛が行き交い、警笛、エンジン音、露天商の売り声が鼓膜を震わせる。排気ガスとお香が混ざったような匂いが鼻腔を刺激し、通りを歩く人々に目を向ければ、女性たちの鮮やかなサリーやサルワール・カミーズが視界を彩った。見るもの、聞こえるものの全てが新鮮でなまなましく、インドは五感を刺激するエネルギーに満ちていた。

 インドの街には、混沌のなかにリズムがあった。リズムというよりもグルーヴがあった。生命力に満ちたグルーヴが、街に渦巻いているように感じられた。

 そして、その後長く愛することになるこの国で、私は騙されたり、ボラれたり、財布をすられたり、腹を壊したりという、通り一遍の少々洗礼を受けながら、同時にこんなインスピレーションを受けとった。

 それは、「もしインド人がソウルやブルースを演奏したら、すごいことになるのではないか」というものだ。


90年代のインドにロックはあったのか?

 いきなりわけの分からないことを言い出したと思う方が多いだろうが、インドの街で感じたグルーヴからブルースやソウルを連想したのには、一応ちゃんとした理由がある。

 当時のインドは今よりもだいぶ貧しかったし、貧乏旅行者だった私は下町エリアばかり徘徊していた。そこで感じたのは、ロックのやさぐれた享楽でも、ヒップホップのサグでコンシャスなバイブスでもなかった。インドの街には、希望と絶望、歓喜と悲哀が渾然一体となった、ブルースやソウルと共通するような感覚があると思ったのだ。

 初対面なのに「ハロー、フレンド」と距離感ゼロで話しかけてくる押しの強すぎる物売りのオッサンはジェームズ・ブラウンみたいだったし、コルカタの下町で見かけた裸足の人力車夫は、まるでミシシッピデルタのブルースマンのようだった。ギターを持たせて何か唸らせたら、今にもすごいブルースを歌いそうだ(実際はギターに触ったことすらないだろうが)。ヴァーラーナシーの路地裏で、ラジカセをかついで大音量で映画音楽をかけながら踊りまくっていた子どもたちを見た時は、まるでニューヨークのハーレムみたいだと思ったものだった。

 と、当時の気持ちを思い出して興奮して書いてしまったが、実際に当時のインドに、ソウルやブルースのような「大衆の大衆による大衆のための音楽」が存在していたわけではない。街で流れていたのは映画音楽か宗教音楽ばかりだった。

 「ロックならあるかも」と思ってデリーのカセットテープ屋で(当時日本はCDの全盛期だったが、インドでは主流の音楽メディアはカセットテープだった)、「インドのロックはないですか」と訊いてみたところ、店員が持ってきたのは、ニンマリと笑ったターバン姿のオッサンが写った「パンジャービー・ノンストップ・ミックス」というカセットだった。これ絶対ロックじゃないだろ、と思いながら日本に帰って聴いてみたら、案の定ディスコ調のインド歌謡曲で、どんなに贔屓目に見てもロックの要素はゼロだった。

 その頃のインドでは、首都のカセットテープ屋でさえ、ロックという世界中の誰もが知っているはずの音楽ジャンルをまったく理解していなかったのだ。たぶん、「ノリのいい音楽がロック」くらいのかなり雑な解釈をしていたのではないかと思う。

 インドは多様性に満ちた国だが、多くの言語に豊かな詩の伝統があり、人々は総じて踊ることが大好きだ。社会や政治に対して自分の意見を持っている人も多いから、それをメロディーやリズムに乗せて訴えれば、より多くの人に届けることができるだろう。彼らが「自分たちの音楽」を作ったら、とてもエキサイティングなことになりそうなのに、一方で当時のインド人たちは、もっぱら映画や神様のために作られた音楽ばかり聴いているように見えた。


映画のためでも神様のためでもない音楽を探して

 映画音楽だって立派な彼らの音楽じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、それは映画を商業的に成功させるために映画業界の人たちが作った音楽であって、彼ら自身が自分たちのリアルな気持ちをのせたものではない。人気プレイバック・シンガー(俳優の口パクに合わせて映画のミュージカル・ナンバーを歌う歌手)が歌う曲に共感することもあるだろうが、たとえばブルース・スプリングスティーンやマーヴィン・ゲイやブルーハーツみたいに、人々が社会の中で感じている怒りや疎外感、あるいはもっと身近な恋の喜びや悲しみを自分の言葉で歌う歌手というのは、その頃のインドには、どうやら存在していないようだった。

 別に欧米みたいな音楽のあり方が偉いというわけではないけれど、自分はカウンターカルチャー的な音楽が好きだったので、この国にもそういう音楽があったらいいなと思ったのである。

 求めていたような音楽は見つけられなかったものの、私はインドという国に不思議な魅力を感じて、その後も何度か訪れ、日本にいるときもインドに関する本を読んだりしていた。就職後はそういった時間もあまり取れなくなったが、あの時に感じた「インド人が自分たちの音楽を演奏したらきっとすごいことになるはずだ」という印象は、ずっと心のどこかにこびりついたままだった。たまに思い出しては、YouTubeで「India Rock」とか「India HipHop」と検索したりして、そのたびに、垢抜けないハードロックバンドやボリウッドスタイルのエンタメ風ラッパーしか見つけることができず、「なんかちょっと違うんだよなー」と思ったものだった。なかには電子音楽のMIDIval Punditzみたいな洗練されたアーティストもいたのだが、それはそれでインドの混沌としたエネルギーとはかけ離れている気がして、あんまり夢中になれなかった。

 やっぱりインドは、映画音楽と宗教音楽の国だったのか。


突然のビッグバン――「軽刈田凡平」になる

 そんな印象が一変したのは、初めてのインド訪問から20年が経過した2010年代の後半のことである。どうしたことか、インディペンデントなスタイルのかっこいいインド音楽が、急にたくさん見つかるようになったのだ。

 ムンバイのラッパーが下町を練り歩きながらラップするミュージックビデオを見つけた時には、「俺はまさにこういうのが見たかったんだ!」と叫びたくなったほどだ。そのラッパーは、世界中のラッパーがやってしまいがちな、ヒップホップの母国であるアメリカに寄せるようなそぶりは微塵も見せずに、チャイ屋や床屋が路上で店を開き、労働者が大八車を引く路地を誇らしげに闊歩しながら「これが俺のボンベイだ!」とスピットしていた。いかにもインドっぽいフレーズをサンプリングしたビートもめちゃくちゃかっこよくて、音からも映像からも、インドの街が持つ混沌としたエネルギーが溢れ出していた。今ではムンバイを代表するラッパーになったディヴァイン(DIVINE)の「Yeh Mera Bombay(これが俺のボンベイ)」という曲である。

 学生時代の私はインドの街にブルースやソウルみたいなフィーリングを感じたわけだが、それから20年、経済成長を経たインドのグルーヴを体現する音楽がヒップホップだったというのは、かなりこじつけではあるが、音楽の進化としてはわりと正しいような気がする。

 ディヴァインのことを調べているうちに、彼が出演する音楽フェスの情報を発見。その出演アーティストを片っ端からチェックしてみたら、さらなる衝撃を受けた。

 かっこいい音楽はヒップホップだけじゃなかった。インドには、かっこいいロックもあれば、電子音楽も、レゲエもある! 何より驚いたのは、あらゆるジャンルの楽曲に、ちゃんと「インドのグルーヴ」が存在していたということだ。音色や歌い方やリズム、あるいは歌詞やミュージックビデオから、インドの空気のにおいまで感じられそうなほどだ。この20年の間に、いったいインドで何があったんだろうか。私は夢中でインドのインディペンデント音楽シーンについて調べはじめた。

 それは、まだ未知の鉱山をひとりで掘ってゆく作業のようだった。となりの「インド映画鉱山」や「インド料理鉱山」では、たくさんの鉱夫(ファンたち)がツルハシを振るい、見つかった鉱石について品評しあっている。それを横目にひとりでインディペンデント音楽の鉱山を掘るのは、それはそれで楽しい作業だったが、せっかくならこの鉱山で見つけた美しい鉱石、つまり素晴らしい音楽を誰かに紹介したい。

 そう思った私は、インドのインディペンデント音楽を紹介するブログを始めた。あまり読む人もいないだろうから、覚えてもらえるようにインパクトのある名前にしようと考えて、軽刈田凡平と名乗ってみた。言うまでもなく、インドを代表する街であるコルカタとムンバイの旧名から取った名前である。

 ブログのタイトルは「アッチャー・インディア 読んだり聴いたり考えたり」とした。アッチャーはヒンディー語で「いいね」みたいな意味の言葉である。もしかしたらインディペンデント音楽の鉱山はすぐ掘り尽くしてしまうかもしれないので、そのときは、英語で書かれたインドの小説の話でも書こうと思ってつけたタイトルだ。


 それから7年が経ち、インドのインディペンデント音楽鉱山を掘り尽くしてしまう心配はまったくなくなった。インドの音楽シーンは急速な進化と変化を続けながら猛烈な勢いで拡大していて、そして相変わらず熱くて面白い。

 この連載では、そういうインドの音楽を、その母胎となったインド社会の話と合わせて紹介してみたい。音楽が好きな人なら心当たりがあると思うが、ロックにしろ、ヒップホップにしろ、音楽は社会との関わりを意識しながら聴くと、ぐっと解像度が上がる。たとえばニューヨークやロンドンやキングストンで作られた音楽に、どんな背景があって、どんな思いが込められているか理解して聴くと、より強く心に響いたり、メッセージが深く刺さったりする。そんな経験をしたことがある人は多いだろう。そんなふうに、インドの音楽をみなさんの耳だけではなく、心にまで届けることができたらいいなと思っている。

 インド社会といっても馴染みのない人も多いと思うので、まずはカレーとかインド映画とかビートルズとか、みなさんが見聞きしたことがありそうなテーマから、ぐっとインドに切り込んでみたい。というのが、私がこれからしようとしていることである。

 ちなみによく探してみたら、インドにはブルースやソウルもちゃんと存在していた。ブルースに関しては、例えばコルカタのアリンジョイ・トリオ(Arinjoy Trio)という人たちがかなりシブい演奏を聴かせてくれる。ただし、今の時代の宿命なのだろうが、彼らがプレイしているのは、現代社会のリアルを感じさせる音楽というよりも、ブルースという完成されたフォーマットのなかで表現を追求する音楽という印象だ。ソウルと呼べそうな音楽では(R&Bと呼ぶべきかもしれないが)、サンジータ・バッタチャリヤ(Sanjeeta Bhattacharya)やラマン(Raman)というシンガーが、現代のミドルクラスの感覚を英語やヒンディー語で歌い上げている。本当に、今のインドにはあらゆるジャンルが存在しているのだ。

 ご存知の通りインドは14億人を超える世界最大の国で、そんな国の音楽シーンが進化と変化を続けているのだから、面白くないわけがない。

 前置きはこれくらいにして、さっそく1曲目の再生ボタンを押してみよう。

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著者略歴

  1. 軽刈田凡平

    1978年生まれ、東京都在住。インド音楽ライター。
    学生時代に訪れたインドのバイタリティと面白さに惹かれ、興味を持つ。
    時は流れ2010年代後半、インドでヒップホップ、ロック、電子音楽などのインディペンデント音楽のシーンが急速に発展していることを発見。他のどの国とも違うインドならではの個性的でクールな表現がたくさん生まれていることに衝撃を受け、ブログを通して紹介を始める。
    これまでに、雑誌『TRANSIT』『STUDIO VOICE』『GINZA』などに寄稿、TBSラジオ、J-WAVE、InterFM、福井テレビなどに出演しインドの音楽を紹介している。
    また、インド料理店やライブハウスでインドの音楽に関するトークイベントを行ったり、新聞にインド関連書籍の書評を書いたりするするなどマルチに活躍中。
    国立民族学博物館共同研究員。『季刊民族学』192号(2025年春号)にて、ムンバイのヒップホップシーンを取材して執筆している。
    辛いものが苦手。

    著書(共著)『辺境のラッパーたち 立ち上がる「声の民族誌」』(青土社、島村一平[編])

    ブログ(アッチャー・インディア) https://achhaindia.blog.jp/


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