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あらゆることにぼくは失敗する――今こそ読みたいカフカの日記と手紙

カフカはなぜ自殺しなかったのか? 弱いからこそわかること|春秋社

頭木弘樹『カフカはなぜ自殺しなかったのか? 弱いからこそわかること』

 

第十回 カフカ、プロポーズへの道!

初めての本『観察』出版される!

 カフカのところに本が届きました。
 初めての本『観察』の見本刷り(最初に印刷・製本した見本)です。
 出版社から、まず著者に数冊が送られてきたのです。

 1912年12月10日のことです。
『変身』を書き上げたのが、同じ月の6日~7日ですから、ほんの数日後です。
 原稿はどんどん進み、『変身』が完成したところに、最初の本が届いたのです。

 カフカは本を出したがっていませんでしたが、同時に、本を出したがってもいました。
 どちらも本当の気持ちなので、出たら出たで、当然、喜びもあります。

 初めての仕事の成果、初めての給料などは、誰だって感慨深いものです。

 早速、フェリーツェに送ります。
 次のような言葉を添えて。


 ぼくのあわれな本に、どうかやさしくしてやってください!

1912年12月10日~11日(29歳)フェリーツェへの手紙


 このことでいつになく元気づいたのか、11日にはさらに、勤め先に昇進と昇給の願いを提出します。
 昇進と昇給が妥当であるということを説明するデータなどが盛り込んである、かなり長文の請願書です。

 

 作家としてペンが進み、本が出て、それを恋人に送り、さらに収入のアップも図るのです。

 ちなみに、カフカの知人がこう書いています。
「最初の本『観察』がヴォルフ(頭木註・出版社の経営者)のところで出たとき、彼(カフカ)はわたしに言った、『十一冊、アンドレ書店で売れました。十冊はわたしの買ったもの。ともかく十一冊目の持ち主がだれだか知りたいですね』、そう言いながら彼は満足げに微笑んでいた」(『回想のなかのカフカ』)
 アンドレ書店というのは、カフカの住んでいたプラハの書店です。
 発行部数は800部で、5年たっても半分以上の在庫が残っていたそうです。

作家と思われたいカフカ、小説のことはどうでもいいフェリーツェ

 フェリーツェと出会った日から約40日後、『判決』を書いた晩に、カフカは自分の方法に到達しました。
 ですから、それ以前の作品が収められている『観察』は、今のカフカにとっては、未熟な頃の不満足なできのものです。
 しかし、『観察』の原稿は、フェリーツェと出会った晩に、持っていたものです。
 それがついに本になったのです。
 ですから、13日から14日にかけての手紙にも、カフカはこう書きます。


 どんなに欠点の多いものだとしても(短いのだけが長所です)、
 ぼくの本が、
 あなたの親愛なる手にあることは、
 ぼくにとって、とても幸福なことです。

1912年12月13日~14日(29歳)フェリーツェへの手紙


 ところが、フェリーツェからは、感想が届きません。
 手紙は毎日のように往復しています。
 しかし、そこには『観察』の感想はひと言も書かれていません。

 カフカはじっと待ちます。彼にしては辛抱強く、17日間も我慢します。
 しかし、フェリーツェは他の作家の本は読んで、その話はするのに、カフカの『観察』の話はしません。
 ついに、カフカは爆発します。


 あなたのお手紙に出てくるすべての人に、
 ぼくは嫉妬します。
 名前をあげてある人も、あげてない人も、
 男も、女も、
 実業家も、作家も(もちろん作家にはとくに)。

1912年12月28日~29日(29歳)フェリーツェへの手紙

 昨日の手紙がぼくをあんなに嫉妬深くさせた理由が、今はもっとよくわかります。
 あのときぼくの写真が気に入らなかったのと同じように、
 あなたは、ぼくの本が気に入らないのです。

1912年12月29日~30日(29歳)フェリーツェへの手紙


「石も同情せずにはいられないだろう」とカネッティは書いています。「彼女の目から見ると、彼ら(フェリーツェが手紙の中で名前をあげた作家たち)は誰もが作家であった。ところが彼女の目から見て彼は何だったであろう」

 カフカはフェリーツェへの手紙の中で、自分を作家としてあつかっています。
 しかし、フェリーツェは、そうは思っていなかったのです。カフカの父や母と同じように、いつか小説を書くようなことはやめて、まともに暮らしてくれるだろうと思っていたのです。
 少なくとも、作家だから、カフカを好きだったわけではありません。これは、人によっては喜びでしょう。この職業だから好き、この職業でなければ好きでないというのでは、落胆する男性のほうが多いかもしれません。男としての自分を愛してほしいと。
 カフカはまさに、作家でなくても、ただの男性として、フェリーツェに愛されていました。
 しかし、それはカフカにとっては、残念なことでしかありませんでした。

「彼に対する彼女の祝福はこれで終った」(カネッティ)
 祝福というのは、彼女との出会い、彼女からの手紙によって、カフカはこれまでにないほど励まされていたということです。
 カフカはまたしても書けなくなります。
 たくさんの作品が次々と生まれていった約2カ月半の黄金期は、終了します。たき火に水がかけられました。

妹の結婚、そして親友ブロートの婚約

 このこと以外にも、この時期には、カフカにとってつらいことが重なりました。
 婚約していた妹のヴァリが、いよいよ結婚することになりました。
 妹との別れというだけでなく、自分は結婚に大変な困難を感じているのに、妹もその相手の男も、目の前でやすやすと結婚してみせるのです。
 カフカでなくても、自分がまだ独身なのに、身近な人が結婚するときには、こういう感じを抱くこともあるのではないでしょうか。

 さらに、親友のマックス・ブロートが婚約をしました。
 これはカフカにとって激震であったと思われます。
 男どうしの友情と、女性との恋愛は、また別物です。とはいえ、相手が女性に心を奪われれば、その分、自分から少し遠ざかったようなさびしさを感じるかもしれません。また、相手の結婚によって、友達関係にも変化が生じるかもしれません。独身どうしのつきあいと、妻帯者と独身とのつきあいでは、どこかがちがってくるかもしれません。


 マックスが婚約して、ぼくは不安でした。
 どう言ってみたところでけっきょく、
 彼は婚約してぼくから去ることになるのです。
 婚約した女性のことは、もちろん何年も前から知っていますし、
 たいていは好感を覚えました。
 ときには大いに好感を覚えたことさえあります。
 彼女にはたくさんの長所があります。とても書き切れないほどに。
 全体として彼女は、とても穏やかで、繊細で、慎重な人で、
 マックスにものすごく献身的です。
 ──それでも、それでも。

1912年12月15日~16日(29歳)フェリーツェへの手紙


 1年以上後で、別の友達フェーリクス・ヴェルチュが結婚したときにも、カフカはこんなことを日記に書いています。


 ヴェルチュのところで、ぼくは興奮する母親をなぐさめて言った。
「フェリークスの結婚で、ぼくだって彼を失うんですよ。
 結婚した友達は、もう友達じゃありませんからね」
 フェリークスは何も言わなかった。
 もちろん、何も言えなかったわけだが、
 しかし、言う意志もまったくなかった。

1914年2月15日(30歳)日記


 カフカは「そんなことはない」とフェーリクスに否定してほしかったのでしょうが、こんなことを言われては、何も言えないでしょう。
 友達の結婚で、こんなにもいじけるのですから、親友のブロートのときには、大変な精神状態だったでしょう。
 しかもそんなときに、フェリーツェは、『観察』について、何の感想も言ってくれないのです。

困った大晦日、困った新年

 妹が結婚に向かい、ブロートが結婚に向かう中で、カフカは大晦日にフェリーツェに手紙を書きます。


 ナポレンオンの名言集を、
 しばらく前から、ちょくちょく読んでいるのですが、
 それにこんな言葉がありました。
「子供がないまま死ぬのは怖ろしい」

 ぼくはそれを我が身に引き受ける心構えをしなければなりません。
 ぼくは父親になるという冒険に、決して旅立ってはならないでしょう。

 では、最愛の人、ごきげんよう。ぼくの最愛の女性に、喜ばしい新年を。

1912年12月30日~31日(29歳)フェリーツェへの手紙


 なんとも驚きの、新年の挨拶です。
 ナポレオンまで持ち出して、子供を持たないことを怖れながら、しかし持たないのだと新年に向けて宣言しています。


「フランツ、わたしはいったいあなたをどうすればいいの?」

1913年1月4日~5日(29歳)フェリーツェへの手紙


 カフカが自身の手紙の中に引用している、フェリーツェの言葉です。
 まったく、フェリーツェとしては、困惑するしかないでしょう。

すぐ治る病気に、再生の喜びを求める

 この頃、カフカはカゼをひきます。
 真冬でも新鮮な空気を吸うために窓を開けていたりしますから、カゼをひくのも無理はないのですが、カフカとしては大いに不満です。
 というのも、日々、健康には大変に気をつけているからです。食事は極端なまでに摂生し、体操をし、乾布摩擦もしています。
「千度も乾布摩擦した肌であるにもかかわらず、カゼをひくのです」

 でも、心配するフェリーツェにはこんなことを書いています。


 すぐに治る軽い病気なら、
 ぼくにはむしろありがたいものです。
 子供の頃からいつも、そういう病気にかかることを願ってきました。
 でも、めったにかかりません。
 容赦なく流れていく時間を、
 そういう病気はさえぎってくれます。
 そして、この使い古されて、すっかりすり減った人間に、
 ささやかな再生の機会を与えてくれます。
 それこそぼくが今まさに欲しくてたまらないものです。

1913年1月7日(29歳)フェリーツェへの手紙


 これは自傷癖のある人にも通じる心理だと思います。
 心の傷の痛みから気をそらすために、身体に傷を作って痛みを感じさせます。
 しかし、自傷がクセになるのは、そのためだけではありません。
 心の傷は簡単には治りませんが、身体の傷はだんだんと治癒していきます。その「治っていく」という再生の喜びもまた、自傷をくり返す誘惑となるのです。
 カフカは自傷こそしませんが、そういう傾向は持っていたようです。

 なお、カゼはめったにひかなかったというのですから、やはりもともとはかなり丈夫な体質であることがわかります。

妹の結婚式


 ときおりぼくは悲しみに身をよじるのですが、
 それにはもちろんさまざまな理由があります。
 その中でも、マックスと妹の婚約の期間を、
 そばにいてずっと共に体験したのは、
 決して小さな理由ではありません。
 今日、ベッドの中で、あなたに、
 この2つの婚約についての苦情を長々と訴えましたが、
 あなたもきっと大変もっともに思ったことでしょう。

1913年1月10日~11日(29歳)フェリーツェへの手紙


 カフカはフェリーツェに手紙を書くだけでなく、ベッドの中で想像上のフェリーツェに向かって長々と語ってもいるのでした。
「ぼくはベッドの中では大変な雄弁家で」とも書いています。

 この11日に、妹のヴァリは結婚します。
 人が大勢集まる会に出席することは、カフカはもともと苦手ですし、それが結婚式となればなおさらですし、妹の結婚式となれば、さらにです。


 あそこでテーブルにつき、
 立ち上がり、
 世慣れない挨拶の言葉を口にして、
 グラスで乾杯するのは、
 ぼくではないでしょう。
 それらはすべて、
 悲しげなぼくの抜けがらによってのみ行われるでしょう。

1913年1月11日~12日(29歳)フェリーツェへの手紙


 人見知りと、結婚というものに対する嫌悪と熱望と、その他にもいろいろな思いで、カフカはまるで離人症[りじんしょう]状態(自分のしていることを、自分の身体から離れて外から見ているような非現実的な感覚)です。

地下室の住人と母親の呪い

 結婚式の衝撃がカフカをさらに追い込んだのか、もともとあったひきこもり願望が、ついに究極のかたちをとり始めます。


 ぼくはしばしば考えました。
 閉ざされた地下室のいちばん奥の部屋にいることが、
 ぼくにとっていちばんいい生活だろうと。
 誰かが食事を持って来て、
 ぼくの部屋から離れた、地下室のいちばん外のドアの内側に置いてくれるのです。
 部屋着で地下室の丸天井の下を通って食事を取りに行く道が、
 ぼくの唯一の散歩なのです。
 それからぼくは自分の部屋に帰って、ゆっくり慎重に食事をとるのです。

1913年1月14日~15日(29歳)フェリーツェへの手紙


 ひきこもり願望のある人でも、ここまでひきこもらされるのは勘弁してほしいのでは。

 カフカは手紙の最後に「地下室の住人を敬遠しないでください!」と書いていますが、自分から地下にまで遠ざかっておいて、敬遠もなにもあったものではありません。

 後の手紙でカフカは、「この地下室さえ、あなたのものなのです」という意味のことを書いていますが、まるでフォローになっていません。
 そんな地下室はいりませんし、地下室と抱き合わせの恋人なんて、ごめんでしょう。


 ぼくにはいつも、あなたのお母さんの呪いの言葉が聞こえてきます。
「これはおまえの破滅ですよ!」

1913年1月15日~16日(29歳)フェリーツェへの手紙


 フェリーツェの母親が、フェリーツェにこう言ったようです。
 フェリーツェが毎晩のように必死で手紙を書いているのを見て心配したようですが、それだけでもないでしょう。あきらかに相手の男がおかしいということにも気づいていたでしょう。手紙の内容を見ることもあったようですから。

 子供の恋愛について、親が反対したりすることは、最近ではよけいな口出しとされますが、この場合は、母親の予言がかなり的中しているような……。

カナリアがカナリアを飼う


 うちの新しいカナリアが、今この夜に、
 おおいをかけられながらも、
 死の悲しみの歌をさえずり始めました。

1913年1月15日~16日(29歳)フェリーツェへの手紙


 カフカ自身が、誰よりも先に危機を察知して鳴き始めるカナリアですが、そのカフカの家でカナリアが飼われ始めます。
 妹のヴァリのカナリアで、まだ昼夜の区別もつかない幼さです。
 小動物には親近感を強く覚えるカフカですから、この後の手紙にもカナリアのことがちょくちょく出てきます。


 ぼくの背後でカナリアが、悲しげにたえず鳴いています。

1913年1月20日~21日(29歳)フェリーツェへの手紙


 カナリアが悲しかったかどうかはともかく、カフカが悲しかったのはたしかでしょう。


 今朝、起きる前、
 ひどく不安な眠りの後で、
 ぼくはとても悲しかった。
 悲しさのあまり窓から身を投げるというのではないけれど
(それはぼくの悲しさにとっては陽気すぎることだったでしょう)、
 グラスの水をこぼすように、
 窓から自分自身をこぼしてしまいたいくらいでした。

1913年1月21日(29歳)フェリーツェへの手紙


 窓から身を投げることも、カフカにとっては元気すぎることのようです。


 ぼくの長編小説!
 一昨日の晩、ぼくはこの長編小説に完全に敗北したことを宣言しました。
 長編小説はぼくの中から四散してしまって、
 もはやつかまえることができません。

1913年1月26日(29歳)フェリーツェへの手紙


 1月24日に、カフカは『失踪者(アメリカ)』を書き進めることを、完全に断念します。

ブロートの結婚

 2月2日にブロートの結婚式がありました。
 ただ、派手な結婚式ではなく、カフカは妹の結婚式のときほど落ち込まずにすんだようです。
 まさかブロートがカフカを気づかったわけでもないのでしょうが。


 結婚式前夜の親戚友人一同による祝いの行事もなく、披露宴もなく、
 ですから、ぼくの人見知りも試されませんでした。

1913年2月2日(29歳)フェリーツェへの手紙


 2月12日か13日には、『判決』の校正刷りが届きます。
『判決』も出版されることになったのです。
 これはまさにフェリーツェとの出会いによって生まれた本です。


 ぼくはとても不幸な人間で、
 このおびただしい不幸に釣り合うように、
 最愛の人よ、あなたは召集されなければならなかったのです。

1913年2月16日(29歳)フェリーツェへの手紙


 召集されてしまったフェリーツェは哀れです。

旅行の誘いと拒絶

 1912年の8月に初めて会って以来、カフカとフェリーツェは一度も会っていません。
 ずっと手紙のやりとりだけです。
 カフカは、すぐにもフェリーツェと会いたいようなことをいつも書き、でも決して会おうとしません。
 フェリーツェから具体的な誘いがあったときにも、なんだかんだ言って断っています。

 それなのに、ブロートが新婚旅行先の南仏のサン=ラファエルから送ってきたハガキの話をして、そこがとてもいいところのようなので、秋にはそこに旅行に行きたいと思うけれど、「最愛の人、あなたはどう思いますか?」などと問いかけるのです。
 表面的には、「ぼくがサン=ラファエルに旅行することをどう思いますか? いいところだと思いますか?」という意味の質問です。
 でも、新婚夫婦がそこに行った話をして、自分も行こうと思うけど、あなたはどう思うかと聞かれたら、誘われていると思うのが当然でしょう。

 フェリーツェは、自分もいっしょに行くと返事をします。

 しかし、その返事にカフカは、大変な拒絶反応を示します。


 ぼくの顔には今もなお戦慄が走っています。
 ありえないことを想像すると、こうなるにちがいありません。

 ぼくはひとり車室の隅にいるべき人間であって、
 これからもそうです。

1913年2月20日~21日(29歳)フェリーツェへの手紙


 フェリーツェは、ひとりになりたがるカフカのために、旅先では「あなたのために小さなきれいな場所をさがして、あなたをひとりにしておいてあげましょう」とまで言ってくれているのに、こんなにも激しい拒絶の返事。

 いったい、カフカはなぜ、旅行に誘うかのような、思わせぶりなことを書いたのでしょうか?
 カフカにはもともと、実行する気のない計画を立てて、喜ぶクセがあります。どこまで本気なのか、ブロートでさえ判断に迷うほどです。
 しかし、フェリーツェとの旅行に関しては、行きたい気持ちもあったのではないでしょうか。しかし、同時に行きたくない気持ちもあったのでしょう。フェリーツェからいっしょに行くと言われて、一気に後者の気持ちが高まったのでしょう。

 25日~26日の手紙では、子供の頃に見た、恋人同士の自殺が描かれている絵画について書いています。
 その絵の中のふたりは、桟橋から身を投げているのです。
 カフカはまだ子供だったにもかかわらず、彼らがそうするしかなかったことを、おぼろげながら感じたそうです。

旅行の誘いと拒絶

 3月1日、カフカは副書記官に昇進します。
 以前に出していた請願書が通ったのです。
 昇給にもなりました。

 普通に言えば、将来の見通しが立ってきたと言えるでしょう。
 しかし、将来の見通しについて尋ねるフェリーツェに対して、副書記官になることを伝えながら、こんなことを書きます。


 将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
 将来にむかってつまずくこと、これはできます。
 いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。

1913年2月28日~3月1日(29歳)フェリーツェへの手紙


 さらに次の日の手紙では。


 なんと言っても、
 あなたもやはりひとりの若い娘なのですから、
 望んでいるのは、
 ひとりの男であって、
 足もとの一匹の弱い虫ではないはずです。

1913年3月2日~3日(29歳)フェリーツェへの手紙


 こんなことを書かれて、フェリーツェのほうは、それをいったいどう受けとめていたのでしょうか?
 カフカの手紙にフェリーツェの言葉の引用があります。


 あなたはぼくの嘆きについて書いています。
「わたしはそれを信じませんし、あなたも信じていないのです」

1913年3月9日(29歳)フェリーツェへの手紙


 フェリーツェは本気にしていなかったのです。あるいは、本気と思いたくなかったのです。

ついに再会!

 3月23日、復活祭の日曜日に、カフカとフェリーツェはついに再会します。
 最初の出会いから7カ月以上経って、ようやく。
 列車に乗ればその日のうちに着ける距離に住んでいて、毎日のように手紙のやりとりをしながら。

 カフカが、フェリーツェの住むベルリンまで行きました。
 ベルリン行きを提案したのも、カフカのほうからです。
 あれほど会うことを嫌がっていたのに、なぜ行くことにしたのか?


 ぼくがベルリンに行くのは、ほかでもありません、
 手紙に惑わされたあなたに、
 本当のぼくがどういう人間なのか、
 じかに話し、見てもらうためなのです。

1913年3月19日(29歳)フェリーツェへの手紙


 でも、会ってみて、「やっぱりこの人とは無理」とフェリーツェに本当に思われたいのかと言えば、そうではないでしょう。
 そこはまたいつものように、愛されたいけど、距離をとっていたいという願いであったように思います。でも、そのためには、一度会う必要もあると。

 3月16日~17日の手紙で、復活祭の連休にベルリンに行って会うことを提案。
 その後の1週間、カフカはさんざん逡巡[しゅんじゅん]します。
 17日には早くも、行けるかどうかわからなくなってきたという手紙。
 17日~18日の手紙では、旅行を妨げている理由があると。
 18日の手紙では、やはり行けそうと。
 19日の手紙では、仕事が片づきそうにないことを、におわせます。
 20日の手紙では、復活祭には仕事の会合がいろいろありそうという話をします。
 21日の手紙では、行けるかどうかまだはっきりしないと。
 22日の土曜日は、ベルリンに行くとしたら、もう出発しなければならない日です。この日の朝に、カフカは前日に書いた手紙を投函し、その封筒にこう書きます。「まだ決まっていません」

 それでも、カフカは22日に列車に飛び乗り、夕方遅くにベルリンに到着します。
 行くか行かないか、かなりきわどかったでしょうが、思い切ったのです。

たちまち帰ったわけではない

 なお、これまでは、23日の日曜日にフェリーツェに、「午後4時か5時には発たなければなりません」というメッセージをホテルから送り、たった数時間会っただけで、すぐに帰ったということになっていました。
 しかも、25日の火曜日にライプツィヒ駅とドレスデン駅からフェリーツェに絵ハガキを送っているので、すぐにプラハに帰ったわけではありません。24日はどこにいたのかわかりません。
 つまりは、フェリーツェと長くいっしょにいたくなかったのだと、思われていました。
 かなり不自然で謎の多い行動ですが、カフカならこれくらいのことはやりかねないと。

 でも、最近の研究で、これはちがっていたことがわかりました。
 3月23日(日曜日)のものと思われていたホテルからのメッセージは、じつは11月9日(日曜日)のものだったのです。つまり、後にまたベルリンに来たときのもので、このときのものではなかったのです。

 実際にはカフカは、23日と24日の2日間をフェリーツェと過ごし、翌25日にライプツィヒに寄って(クルト・ヴォルフ書店と出版の打ち合わせをして)、ドレスデンからプラハ行きの列車に乗って戻ったのでした。

 日頃が日頃だと、こういう誤解もされてしまうわけです。

 なお、この新事実についても、京都大学文学部准教授の川島隆先生に教えていただきました。この場を借りて、あらためて御礼申し上げます。(川島先生が翻訳を担当しておられる、集英社文庫『ポケットマスターピース01 カフカ』の737ページの注にも、このことが書いてあります)

ベルリンへ「大告白」を送る

 2日間いっしょに過ごしたといっても、夜を共にしたわけではありません。
 それはその後の手紙でわかります。


 ぼくが本当に怖れているのは──
 おそらくこれ以上に、口にするのも耳にするのも嫌なことはないでしょうが
 ──ぼくは決してあなたを自分のものにできないだろうということです。

1913年4月1日(29歳)フェリーツェへの手紙


 このことに関して、カフカはブロートにこんな手紙を出しています。


 昨日ぼくは、ベルリンに大告白を書いた。
 彼女はまったくの殉教者だ。
 ぼくはまちがいなく、あの人の足元の大地を掘り崩している。
 その大地の上で、あの人はこれまで幸福に、
 全世界と調和して生きてきたのに。

1913年4月3日(29歳)ブロートへの手紙


 カフカにとっては「大告白」だったわけです。
 しかし、カネッティはこう書いています。「この手紙は不能の懸念を暗示しているが、それは過大評価をしてはならない。これはもう十分に話題にされた彼のいろいろな肉体的不安の一つに過ぎないと理解すべきである」

巨大なフェリーツェの家族

 フェリーツェも、なんの反応も示さなかったようです。もうなれっこになっていたのでしょう。
 ただ、この後、フェリーツェは仕事でフランクフルトに行き、その10日間は、あまりカフカに手紙を送りませんでした。出張先からでは無理もないでしょう。
 しかし、これがきっかけになったのか、ベルリンに戻ってからも、フェリーツェの手紙の数は減り、文章も短くなります。

「おそらく彼女はそれが彼に影響を及ぼす唯一の手段であることに気がついたのかもしれない」とカネッティは推察していますが、どうなのでしょう。
 ただ、カフカが動揺したのだけはたしかです。
 3月にベルリンで会ったときに、また5月の聖霊降臨祭に会おうということになっていたのですが、カフカはそれを実行しようとします。
 しかも、フェリーツェの両親に会うと、自分から言い出します。3月のときには、会いたくないと言っていたのに。

 そして、実際に、5月11日と12日に、カフカはまたベルリンでフェリーツェと会います。
 前は再会するまでに7カ月以上かかったのに、今度は2カ月もたっていません。

 そして、カフカはフェリーツェの家族と会います。
 そのときの印象を後にこう語っています。


 ぼくは自分をとても小さく感じました。
 そしてみなさんは、
 ぼくのまわりに巨人のように立っていました。

1913年5月15日(29歳)フェリーツェへの手紙


 もちろん、実際の大きさのことではありません。カフカは身長が182センチもあります。
 彼はつねに無力で小さく、他の人たちは強くて大きいのです。

彼女と結婚しても、結婚しなくても、生きていけない

 プラハに戻ったカフカは、こんな手紙を出します。


 ベルリンでトランクに荷物を詰めていたとき、
 こんな言葉が頭に浮かびました。
「彼女なしではぼくは生きていけないし、
 彼女といっしょではぼくは生きていけない」
 そう考えながら、ぼくはトランクに荷物をひとつひとつ投げ込んでいきましたが、
 なんだか胸がはりさけそうでした。

1913年5月12日~13日(29歳)フェリーツェへの手紙


 この「彼女なしではぼくは生きていけないし、彼女といっしょではぼくは生きていけない」というのとほとんど同じ言葉を、カフカはブロートへの1913年9月28日の手紙にも書いています。1914年2月14日の日記にも書いています。
 そこまでくり返されているのですから、まさに彼の心中を最も表す言葉だったと言えるでしょう。
 しかし、それをまず当のフェリーツェに向けて書いてしまったのでした。

カフカ、ついにプロポーズする!

 カフカはフェリーツェの父親に手紙を書くことを、フェリーツェに約束します。
 しかし、書くという予告ばかりで、いつまでも書きません。

 フェリーツェはまた沈黙という手段をとります。10日間も手紙が来ないときがあります。
 手紙を糧[かて]としているカフカにとっては、10日は大変なことです。
 すっかり飢え乾いて、音を上げてしまいます。
 電話がとても嫌いなのに、フェリーツェに電話さえかけます。
 でも、フェリーツェの態度は変わりません。親にも会わせたのですから、ここでカフカにはっきりした態度を示してほしいのです。

 カフカは彼女への返事として「1つの論文を用意しています」と予告します。
 6月10日のことです。
 そして6月16日、1週間近くかけて書いた、その論文が彼女に送られます。

 それはフェリーツェに結婚を申し込む手紙でした!

 しかし、カフカのプロポーズの手紙ですから、普通の手紙のはずがありません。
「これはあらゆる結婚申込みの中で最も風変りなものである」(カネッティ)

 それがいったい、どういうものなのかは、次回、ご紹介したいと思います。

 ―――――――――――――――――――――――
追記
○前回、カフカが自分では「かなり嫌」と言っている27歳のときの顔写真をご紹介しました。
 その一方、同じ手紙で「最近のぼくの写真で1枚だけいいのがあります」と言っている写真があります。
 それは、多分、この写真のようです。

 28歳か29歳のときの写真と思われます。
「自分が『こう見られたい』と思う──どうしてもそういうことを思ってしまいます──その通りに写っているのだけが、いい写真ですから」とカフカは書いていますから、この写真はカフカが「こう見られたい」と思うとおりに写っているようです。
 でも、前回の顔写真より、こちらのほうがお気に入りとは、意外ではないでしょうか。
 前回のほうがナイーブで美青年に見えます。
 でも、こちらのほうが、しっかりした普通の人に見えます。カフカとしては、そう見えてほしかったのかもしれません。

 

 

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著者略歴

  1. 頭木弘樹

    筑波大学卒業。文学紹介者。編訳書に、『「逮捕+終り」――『訴訟』より』フランツ・カフカ(創樹社)、『絶望名人カフカの人生論』フランツ・カフカ(飛鳥新社/新潮文庫)、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』ゲーテ、カフカ(飛鳥新社)。監修書に、『マンガで読む 絶望名人カフカの人生論』平松昭子(飛鳥新社)。著書に、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)がある。

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