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アルス・ピヤニカ――鍵盤ハーモニカの楽堂 南川朱生(ピアノニマス)

鍵盤ハーモニカ漂着前夜

音楽室のバディは誰?

 大人の方に「小学校で鍵盤ハーモニカを吹いたことがありますか?」と問うと、30代の方は大方「あるある! 懐かしいねぇ」と回答します。60代の方は、大方「ないなぁ、娘と息子はやってたけどねぇ」と回答します(稀にご経験のある方もおられます)。そして40-50代の方は「ある派」と「ない派」に回答が分かれます。「ない」の方に「じゃあ小学校では、主に何を演奏していたのか」と聞くと「ハーモニカ」もしくは「たて笛」と回答します。

 そう、鍵盤ハーモニカが現在のように普及する前、教室でみんなが吹いていた「1人1台制」の楽器は「ハーモニカ」と「たて笛」だったのです(※地域差あり)。さらにそのもっと前は、楽器を演奏する「器楽」ではなく「歌唱」を中心とした教育(「唱歌」)が展開されていました。当時の楽器の総生産額におけるハーモニカのシェアについては、以下のようなデータが残されています。

昭和二十二年度の楽器の総生産額のうち、ハーモニカは四十五%を占めていた。メーカーも次々にでき始め、最盛期には二十五社を数えた。

東京エリアでは、トンボ楽器、小林鶯声社、田辺楽器、日本調律、中央楽器、三響楽器、ヲグラ楽器、川崎楽器、大成楽器、徳永楽器(長野)。浜松エリアでは日本楽器、河合楽器、東海楽器、天竜工芸、鷲津楽器、キング製作、昭和楽器、羽衣楽器、中央楽器、東工芸、内外ロビン、外波山楽器、鈴木楽器、日本教育楽器(1)

このハーモニカから鍵盤ハーモニカへの切り替わりについてお話しするにあたり、ふたつの年とその周辺を特に「キーイヤー」と設定したいと思います。それは「1948年(昭和23年)」および「1958年(昭和33年)」です。まずは1948年の状況から深掘ってみたいと思います。

 

1948年 〜いざ、器楽教育の時代へ〜

 キーイヤーである1948年は、敗戦直後の占領統治下で、未曾有の経済的混乱が生じていました。1年間で片山首相、芦田首相、吉田首相と、総理大臣が2度も交代しています。当時のヒット曲は「湯の町エレジー」「異国の丘」「君忘れじのブルース」等々…反米感情を煽るような楽曲はGHQからの要請で、タイトルや歌詞が変えられるなど、表現の自由が保障されているような社会とは言えません。それでも音楽の中には、時代を生きた作曲家・作詞家の戦争に対する想いが節々に反映されており、70年以上たった今も、当時の香りを汲み取ることが出来ます。

 キーイヤー前年の1947年、米国教育使節団の勧告を受け、民主的な教育体制の確立という目的のもと、教育基本法が制定され、文部省より「学習指導要領」(2)の「試案」が刊行されました(昭和二十二年度 文部省 学習指導要領 一般編(試案)昭和二十二年度 文部省 学習指導要領 音楽編(試案))。この「試案」はアメリカの哲学者、ジョン・デューイの経験主義的な教育思想に影響を受けた内容と言われており、一例として、「(音楽の授業では)楽器に対する知識・技術をもたせる」「音色の組み合わせによる美を味わわせる」「楽器に対する系統的な知識を持たせ技術を習得させる」「音色の組み合わせによる美を味わわせるとともに合奏の力を養う」(3)といった、音楽教育における「目標」のようなものが細かく書かれています。

 その「試案」が刊行された頃、教育現場はこんなトラブルに見舞われていました。

形のみは一応整つていてもその品質性能に至つては到底教育の用に立ち得ないと思われるものが少なくない〔中略〕不良粗悪の製品を購入して結局教育的にも経済的にも甚だしい不利を蒙つている(4)

教育用楽器の音程がわるくて困るという声が全国にみちており(5)

楽器の制作と全く関係がない上、楽器製作の技術者もいない『下駄屋から木琴づくりに転じたような』店までもが、玩具のようなものを教育用楽器と銘打って売りだしていたのである(6)

当時、戦争で工場が焼けてしまったり、人材が不足していたり、全国的な物資不足により、教育現場に十分な数の良質な楽器が行き届いていない状態だったのです。

 この時代の器楽教育そのものの成立過程、あるいはハーモニカの教育現場への導入経緯などを詳しく調査した研究者に京都教育大学准教授の樫下達也氏がいます。樫下氏の論文(7)によりますと、当時の商工省(後の通商産業省、現在の経済産業省)は、1948年に「みんなが満足に器楽教育を受けるには、これくらいの数の楽器が必要になるよ」という想定をまとめた「器楽教育用楽器需給計画一覧表」(長い!)を作りました。それをもとに国は「楽器産業界のみんなは、子どもたちの教育のために頑張って楽器を作ってね」という主旨の指示を出したそうです。

 さて、この「頑張って沢山良い楽器作ってね計画」の中には、文部省・大蔵省・商工省の連携と、楽器産業界の努力により、「戦後で物資は不足しているけれども、子どもたちの教育のためのものだから、優先的に資材を使わせます! ついでに小売業者を通じて販売したら免税します!」という大人のお約束事がありました。さらに、一つひとつの楽器の品質を都度見極めて審査するのには限界があるので、1948年に文部省は教育用楽器の規格を審査する委員会を作り、商工省と共に教育用楽器の「工業規格基準」を定めることにしました。その話し合いをする協議会、「教育用品規格協議会音楽科部会」のハーモニカ部門に、見事選ばれたのは、トンボ・ハーモニカ製作所(現在の株式会社トンボ楽器製作所)および日本楽器製造(現在のヤマハ株式会社)と深い繋がりを持つ、当時のハーモニカ製造に明るい面々でした。

〜少し漢字が多くなったので、ここまでの流れを図解でまとめました〜

さあ、「決められた規格」の楽器を「大量に」「コスパよく」作ることができ、尚且つそれが免税状態で一定数、毎年必ず売れるとしたら、これまで物資不足、技術者不足、施設不足などで、苦境に立たされていた楽器産業界にとって、これは起死回生の大きなビジネスチャンスです。

正式に音楽教育過程に採用される楽器の需要に応じるため、楽器メーカーは活気づいた。〔中略〕大きくスポットを浴びたのは戦前の楽器の王者ハーモニカだった。小学一年から中学三年まで〔中略〕子供たちはハーモニカを持つことが望ましいとされたのだ。(8)

教育用ハーモニカが衛生的見地から生徒児童の個人管理が認められた(9)

また樫下氏の論文では、当時、楽器の製造や流通において大きな力を持っていた人物として、全国楽器製造協会事務局長であり、雑誌「楽器商報」を発行していた宮内義雄氏の名が挙げられておられます。楽器商報発刊時は、楽器産業界の主要人物より、宮内氏に対しての祝辞コメントが寄せられました。

君(※宮内氏)が終戦後の混乱期に際し、業界の意図を汲んで、生産資材の獲得にまたは業界金融に対し献身的努力を続けて、遂に軌道に乗せ、業界再建に寄せ興せられた功績は大きい。さらに楽器教育の実施普及に、或いは物品税引下げ並に鉄道運賃引下げ及び免税範囲の拡大の為に通産、文部、大蔵当局との均衡に盡した勞も少なくない。〔中略〕将来世界的楽器生産国として占める位置は、時計のスイスに於けるが如くならむことを期待する(10)

楽器商報発刊の宿望を達して宮内君も喜んだであらうが、自分もホッとした。〔中略〕何をやら瀬ても安心して委しておけるといふ〔中略〕日常の宮内君の仕事振りは自分が一番よく知つているつもりで、君の献身的な業界愛と〔中略〕組合を離れたフリーの立場から述べる業界愛の抱負を實現せしめることで、これに酬ひたく考えてゐるのである。(11)

宮内君は楽器業界に大きな業績を残して今回業界誌の発刊へ発足せられるゝことになつたに就ては、我々業者微力なりとも君の新事業に何かと公演を申上げ幾分でも君が多年の功績に報ひし度いと考へて居ります。(12)

宮内さんが楽器商報を発刊さられると聞いた時から愈々宮内君が本舞台にフットライトを浴びて登場する時が来たと直感した。理論家であつて現実主義者であり、角がある様でない様な□○屋である。(13)

このように1948年を境に、器楽教育における国の方針が様々に策定され、生産販売する側のその後の運命を大きく左右する動きが現れはじめました。ビジネスチャンスの到来から10年後のキーイヤー「1958年」を、今度はその『楽器商報』に掲載された広告や、音楽教育雑誌を参考に紐解いていきましょう。

 

1958年 〜華やかなるハーモニカバブルの時代〜

 1958年の日本というのはどのような雰囲気だったのでしょうか? 政権でいうと、ちょうど岸信介内閣の時代です。朝鮮特需〜神武景気による経済回復を受けて、「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのが1956年。その後の不況はあったものの、岩戸景気と呼ばれる好況期に入り、高度経済成長を確固とした——1958年はまさにそんな年でした。筆者(35歳)の父母世代が生まれたのも、終戦から10年強たったちょうどこの頃です。

 1958年発行の『楽器商報』を開くと、全国楽器協会会長・川上嘉市氏(日本楽器製造創業者)(14)による年始の挨拶が掲載されています。そこには「合理化と品質の向上はかれ」というタイトルと共に、昨年(1957年)の前半は、経済的にそこそこ好調であったが、後半は他業界と同じように低迷し始めた、その理由は「アメリカ経済の下降」「日本の外貨資金の枯渇」「これに伴う政府の金融引締の措置」「設備投資の過剰」「輸出の不振」「人工衛星の出現による社会不安」などである、という旨が書かれています。全体として上り調子ではありつつも、けして業界的に手放しで喜べる雰囲気ではなかった、と推察できます。

 そしてもう一つ、ページを捲りながらすぐに気が付いたことがあります。それは、誌面内を埋め尽くす、ハーモニカ、ハーモニカ、ハーモニカ……ページをめくれば3秒に1回は「ハーモニカ」という単語が目に飛び込んできます。こちらは血眼で「鍵盤ハーモニカ」という文言を探しているというのに、あたかもサブリミナルメッセージのように「ハーモニカ」という単語が意識に刷り込まれていきます。それもそのはず、ビジネスチャンス到来から10年を経て、器楽教育の改善普及に奔走する音楽の先生方や、各メーカーの営業努力により、現在では考えられないほどのハーモニカバブルが起きていたのです。

 中でも特に誌面上の占有面積が広く、出稿が多いのが「トンボハーモニカ」あるいは「ミヤタハーモニカ/ミヤタバンド」という製品広告です。現代の雑誌広告とは違い、1製品の広告が1冊の中に何度も何度も出現します。


▲大きく出稿されたミヤタバンド広告(15)

 「ミヤタハーモニカ」は、ハーモニカ奏者でもあり作曲家でもあり、日本コロムビアの常任顧問を担当していた宮田東峰(とうほう)氏(1898-1986)による、当時宇野商会という問屋を通じて販売されていたプロダクトです。

 東峰氏はトンボ楽器の真野市太郎氏に商いをする上でのアドバイスを受け、自身の顔を商標登録し、それを品質保証の証拠としてハーモニカに貼り付けることでブランディングを行いました。(調査の中で「鍵盤ハーモニカ」という単語をみた回数より、東峰氏のご尊顔を仰いだ回数の方が圧倒的に多かったことをお伝えしておきます。)作曲家として、また演奏家としての功績のみならず、ハーモニカのアンサンブルブームの火付けや、1940年代にはアコーディオンの教本(アッコーヂオンと記載)などもリリースしており、その知見は幅広く、各界に精通した顔をもち、商才に恵まれた人物であったことが分かります。前述の宮内義雄氏とも親交が深く、「楽器商報」内にご自身のコラムコーナーを持っていたり、度々お互いについてコメントし合うなど、強い繋がりがあったようです。

(宮田東峰氏は)ジャーナリストを目指しただけあって、社会の動きに敏感な嗅覚を持っていた(16)

戦前からのハーモニカの有名なブランドで、戦後に残ったものはヤマハ、トンボについでミヤタを残すのみである。ヤマハにしてもトンボにしても残さるべくして残った企業母体を持っていたのに引き換え、一人ミヤタだけは、個人奏者宮田東峰のハーモニカに対する熱情と自信の集積、汗して勝ち取った努力のたまものであった。(17)

 続いて、同時期の音楽教育雑誌を見ていきましょう。実にたくさんの教育関係者たちによって、生徒たちがハーモニカを一人一台ずつ持ち、音楽の授業で使用することについての見解が述べられておられます。

笛またはリード楽器中心に 合奏の喜びを味得させる〔中略〕発音し易いという面からのみ価値づけするならリード楽器に軍杯をあげるということにもなろうが、何れを採用するかということについては、指導する教師の持ち味によって大いに左右されることでもある。とにかく笛やハーモニカ類は、生徒たちには、価格の点や音質の上から最適だということをはっきりしておきたい。(18)

リード楽器、平たくいえばハーモニカですがこれは衛生上個人持ちでしょう。強制すると問題になるから先ず一つだけ設備します。吹いているうちに必ず生徒が持参するようになること受合い。(19)

(ハーモニカとアコーディオンによるリード楽器中心のクラブ活動は)演奏操作が容易で作音の心配がない(20)

合奏は(ハーモニカやアコーディオンによる)リード楽器が第一歩(21)

(ハーモニカは)個人持ちできるのが強味(22)

(ハーモニカを)入学ということに引っ掛けて、とにかく楽器は学用品だからという線を出して一年生の初めに持たせるほうが楽だということを考えて一応持たせることにした(23)

 最近たしかにハーモニカなどを買ってやらなくてはならんという気持ちに追われていることは確かです(24)

これはハーモニカに関する言及の、ほんの、極一部です。これらの記事を見て、何か気づくことはありますか? もしかしたら、現代のSNSに慣れ親しんだ若者世代は「これ、ステマじゃね?」と考えるかもしれません。現在「ステマ(ステルスマーケティング)」と聞くと、あまり良い意味合いではないことが多いですが、おそらく当時は、そのようなものも、清く正しい営業戦略の一つであり、企業努力の一つであり、当たり前のように手法として使われていたのかもしれませんね。

 各社営業戦略は紆余曲折を乗り越え進み、音楽教育の雑誌は、「ワカメちゃん風・コボちゃん風ヘアスタイルの子供達が、教室の中で一斉にハーモニカを吹いている写真」が占めるようになりました。

 

数年後に迫る、東京オリンピック’64

 当時の雰囲気を象徴するキーワードとして、初めて日本で開催される「東京オリンピックへの期待」は、その頃の人々の高揚感を象徴するものでした。

 音楽教育雑誌にも「音楽と体育を密接に」といった小見出しで、体育関係者にもっと音楽に関心を持って欲しい、といった旨の記事が書かれています。

我国でも鼓笛隊を立派に仕上げてオリンピックの名物としたい。それには学校での器楽教育として健実な基礎のもとに行わるべきと思う(25)

鼓笛バンドは、実施にあたって〔中略〕義務教育としての全校皆奏(唱)に、一人残らず参加できるように考えられなければならない。〔中略〕五年後に来るべき、東京オリンピックにおける鼓笛バンドの輝かしい成果が得られるものであると信ずる(26)

両記事とも大変ボリュームのある記事で、「もしも仮にオリンピックで鼓笛隊が演奏したら……?」という妄想の内容まで含まれています。

 「鼓笛隊」は、来たるオリンピックにおいて「音楽」によって得られる成果のひとつである、そう考えられていたのでしょう。そのためには本邦の器楽教育の底上げをしなくてはならないと、教育関係者たちは意欲を高めていました。しかしこれまで見てきたように、「教育」と「産業」は切っても切り離せない関係にありました。ゆえに、一連の「鼓笛隊」への期待値への高まりの背景には、そこに必要な楽器に携わっていた者たちの水面下での働き——それが全くなかったとは言い切れないと考えられます。

 

白黒船、レジャー湾岸に漂着

 では、ここからは第一話で予告した山中和佳子氏の論文を見ながら、白黒船こと鍵盤ハーモニカの来航を見守りましょう。アメリカの主婦向け娯楽雑誌『True Story』の日本語版『トルー・ストーリィ』(1959年3月、p. 121)では、以下のようにメロディカが紹介されています。

新楽器メロディカ 穴の代わりにピアノのようなキイを使った新しいフルート風の楽器メロディカが、このほど西独のミューニッヒでお目見得した(27)

ミューニッヒとはドイツのミュンヘンのことであり、この記事で述べられている「メロディカ」は、いわゆるHOHNER社製の縦に構えて両手で演奏する、ボタン式の鍵盤ハーモニカを指していると思われます。ボタン式メロディカは、廃番ではあるものの、トイミュージックやレゲエの世界をはじめ、現在も幅広く愛されています。


▲当時のものではないが、後年にリリースされた近しいモデルのボタン式鍵盤ハーモニカ。(設樂健氏より貸与)

 ボタン式メロディカは歌手のビョークや、映画「アメリ」の音楽で有名な作曲家のヤン・ティルセンYann Tiersenが愛用していることでも知られています。さらにアメリカのミニマル・ミュージック界巨匠、作曲家スティーヴ・ライヒが発表した磁気テープのための作品「Melodica」(28)でも使用されています。後に東京の企業の「朝日通商」がHOHNERの代理店となり、国内でも流通していました(29)

 さて、この「ボタン式鍵盤ハーモニカ」を1959年に大阪の百貨店で購入した人物がいます。それは、現在国内の現役鍵盤ハーモニカメーカーとして名の知られる、「鈴木楽器製作所」の創業者である鈴木萬司氏(30)です。彼はこの楽器を「縦のハーモニカ」と形容し、大変興味を持ち、可能性を見出したそうです。

 そして、翌年、新たな白黒船がフランスより襲来します。

メロディカは(東京アコーディオンディベラップセンターにより)1960年初頭より発売され始めた。(31)

アコーディオン関係の輸入を担う企業(東京アコーディオンディベラップセンター)から、クラヴィエッタという鍵盤ハーモニカが輸入された、との記述です。


▲イタリア製クラヴィエッタ(野沢真弓氏より貸与)リードはステンレス製。

 この東京アコーディオンディベラップセンターは、中央区銀座に本社、港区高輪界隈に営業所を構える企業で、イタリア製高級アコーディオンを中心に輸入販売を行っていたようです(32)

 このクラヴィエッタと前述のボタン式鍵盤ハーモニカは、1961年の春、とある会社の事務所にありました。その楽器で作曲家古賀政男先生の、所謂「古賀メロディ」を吹いていた人物——それは当時の東海楽器製造株式会社の社長と専務でした(33)。出元は不明ですが、東京にある商社(前述の東京アコーディオンディベラップセンター?)が、東海楽器製造に楽器を持ち込んだそうです。当時の社員さんは、終業後や昼休みに度々楽器を借りに行き、合奏をして楽しんでおりました。

 そのうち何回も借りにいくのが行きづらいのと、うちもリードメーカーだから作れないことはないだろう、ひとつ作ってみるかという気になった訳です。そしてひまを見つけては試作をはじめました(34)

 東海楽器は、現在はエレキギターの会社としてよく知られておりますが、当時はハーモニカの専業メーカーでした。社員さんの「業務外」なご興味から、フランス製のクラヴィエッタを原型とし、鍵盤ハーモニカの製作に着手することとなったのです(35)

 時を同じくして、当時年間400万本ほどのハーモニカを製造し、500名近い従業員を抱えていた「トンボ楽器製作所」社内には、クラヴィエッタとボタン式メロディカが置いてあり、東海楽器同様に、社員さんたちがしばしば遊んでいたようです。しかしクラヴィエッタは非常に高額で、さらにメロディカは左手側が逆手になってしまう点が気になり、これを自分たちで教育用に再開発したら面白いのでは?と設計してみることになりました。当時の社長である真野市太郎氏(泰光氏)は、まず「ピロレット」というパンフルートのような形状の笛に、新たに鍵盤を付与した楽器を開発し、即座に実用新案登録を行いました。ところがその鍵盤式ピロレットは「器楽教育の現場で使用するのには音程が不安定であり不向きだ」、と感じ、商品化には至りませんでした。トンボ楽器は教育用ハーモニカの製造でリード加工のノウハウに大変自信を持っており、以降「トンボピアノホーン」の開発に着手します(36)

 さあ、ヨーロッパからやってきた白黒船は、国内メーカー3社それぞれのストーリーを経由し、次回ついに教育界隈に漂着します。一体どのような旅が待ち受けているのでしょうか。

 

***

ご取材・執筆ご協力者様(あいうえお順)

足立 庄平 様/東海楽器製造株式会社会長

新井 恵美 様/宇都宮大学准教授

アラン=ブリントン 様/ボイシ州立大学哲学科名誉教授

大隅 観 様/ハーモニカカスタマイザー

加藤 徹 様/明治大学 教授

カニササレアヤコ 様/雅楽芸人

小西 恒夫 様/クッキーハウス

瀧川 淳 様/国立音楽大学 准教授

佐藤芳明 様/アコーディオニスト

坂元 一孝 様/ウェブサイト『素晴らしき鍵盤ハーモニカの世界』管理人

設樂 健 様/作曲家

柴田 俊幸 様/フルーティスト

蛇腹党 様

土佐 正道 様/明和電機会長

成田 宗芳 様/アートマネージャー

野沢 真弓様/アコーディオン友の会東京支部副部長 

Bellows Works Tokyo 様

真野 哲郎 様/株式会社トンボ楽器製作所 取締役営業部長

村北 泰規 様/楽器メーカーエンジニア

山中 和佳子 様/福岡教育大学 准教授

ゆnovation

 (※本連載の画像・情報は、その多くが協力者様の提供によるものです。無断転載はお控えください)

***

 

 

(1) 斉藤寿孝・妹尾みえ『ハーモニカの本』(春秋社、1996年)p. 81

(2) 「学習指導要領」というのは、日本全国どの地域で学校教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省が学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準をまとめたものを指します。(参考:文部科学省ホームページより「学習指導要綱とはなにか?」)

(3) 第三章 教程一覧表

(4) 文部省管理局教育施設部学用品課長 宮川孝夫『楽器商報』(1950年8月)p. 4

(5) 筆者不明『器楽教育』(1949年5月)p. 23

(6) 山中和佳子「戦後日本の小学校におけるたて笛およびリコーダーの導入過程」『音楽教育実践ジャーナル』(第7巻、2号、p. 73-83、2010年)p. 74

(7) 樫下達也「戦後日本における教育用楽器の生産、普及、品質保証施策」『音楽教育学』(第45巻、2号、p. 1-12、2015年)p. 2

(8) 斉藤寿孝・妹尾みえ『ハーモニカの本』(春秋社、1996年)p. 80

(9) 筆者不明「教育用ハーモニカの個人管理認められる」『楽器商報』(1950年7月)p. 20

(10) 日本楽器製造社長 川上嘉市「創刊を祝して」『楽器商報』(1950年7月)p. 4

(11) トンボ楽器製作所社長 眞野泰光「宮内君という人」『楽器商報』(1950年7月)p. 4-5

(12) 鈴木バイオリン 取締役社長 鈴木梅雄「楽器商報の発刊に寄せて」『楽器商報』(1950年7月)p. 5

(13) 全国楽器販売協会会長 阪根吉藏「理論家で現實主義の楽器商報の宮内さん」『楽器商報』(1950年8月)p. 8

(14) 「企業家ミュージアム」より「52. 川上 嘉市(日本楽器製造創業者)

(15) 筆者不明『楽器商報』(1958年2月)p.20

(16) 斉藤寿孝・妹尾みえ『ハーモニカの本』(春秋社、1996年)p. 66

(17) 宮内義雄「東峰さんの藍綬褒章綬章に思う」『楽器商報』(1960年11月)p.15

(18) 三界実義「合奏の喜びを味得させる」『器楽教育』(1959年8月)p. 10

(19) 林静一「不消化を起こさせず合奏になれさすこと」『器楽教育』(1959年8月)p. 12

(20) 高萩保治「クラブ活動とその演奏形態について」『器楽教育』(1959年10月)p. 10

(21) 秤輝男「クラブ活動とその演奏形態について」『器楽教育』(1959年10月)p. 10

(22) 矢野剛一「クラブ活動とその演奏形態について『器楽教育』(1959年10月)p. 10

(23) 正路甫「小学校における音楽学習の楽器のとりあげ方」『器楽教育』(1959年7月)p. 30

(24) 山本栄「小学校における音楽学習の楽器のとりあげ方」『器楽教育』(1959年7月)p. 30

(25) 広岡淑生「日本文化を示すとき 音楽と体育を密接に」『器楽教育』(1959年7月)p. 40-41

(26) 今野哲「オリンピアの精神は輝く」『器楽教育』(1959年7月)p. 42-43

(27) 山中和佳子「日本の学校教育における鍵盤ハーモニカの導入」『福岡教育大学紀要』(第65号、第5分冊、p. 17-24頁、2016年)p. 18

(28) Boosey & Hawkesより「Reich, Steve. Melodica (1966)

(29) 情報提供:現HOHNER代理店 モリダイラ楽器様より

(30) HAMMONDより「Mr. Mangi Suzuki

(31) 執筆者不明「クラヴィエッタ 、メロディカの性能と使用範囲 東京アコでの研究成果」『楽器商報』(1960年1月)p. 109-110

(32) 広告『楽器商報』(1958年12月)p.39

(33) 東海楽器社内報『family』より<ものしり博士の楽器講座第4回TOKAIの製品を知ろう>1974.4  p.26-27 東海楽器滝川技術部長による寄稿

(34) 東海楽器社内報『family』より<ものしり博士の楽器講座第4回TOKAIの製品を知ろう>1974.4  p.26-27 東海楽器滝川技術部長による寄稿

(35) 東海楽器様インタビューによる

(36)トンボ楽器様インタビューによる

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著者略歴

  1. 南川朱生(ピアノニマス)

    1987年生、東京都在住、元IT企業の銀座OL。日本を代表する鍵盤ハーモニカ奏者・研究家。世界にも類を見ない、鍵盤ハーモニカの独奏というスタイルで、多彩なパフォーマンスを行う。

    所属カルテット「Tokyo Melodica Orchestra」は米国を中心にYoutube動画が35万再生を記録し、英国の世界的ラジオ番組classic fmに取り上げられる。研究事業機関「鍵盤ハーモニカ研究所」のCEOとして、大学をはじめとする各所でアカデミックな講習やセミナーを多数実施し、コロナ禍で開発したリモート学習教材類は経済産業省サイトに採択・掲載される。東京都認定パフォーマー「ヘブンアーティスト」資格保有。これまでにCDを10作品リリースし、参加アルバムはiTunesインスト部門第二位を記録。楽器の発展と改善に向け多方面で精力的に活動している。趣味は日本酒とテコンドー。

    【オフィシャルサイト】https://akeominamikawa.com
    【鍵盤ハーモニカ研究所】https://melodicalabo.com

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