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やさしい気持ち 今井田博

シーちゃんは噛みつく

 

 月が美しいとそれだけで他に何もいらない。心が満ちていれば十分、足りている。

 

 シーちゃんが家に来てからいろんなものが変わった。ガラスや鏡をなるべく置かないようにした。赤ちゃんネコのシーちゃんが走り回り、壊して危ないからだ。シーちゃんが来てからぼくの気持ちが変わった。シーちゃんばかり可愛がるようになった。でも、これは最近変化して、前からいるミロのこともまた大事にするようになった。(ちなみに、この連載のタイトル写真でソファの上で横を向いているのがミロで、今年で20歳になるオスだ。 下の写真でカーテンから顔を覗かせているお転婆シーちゃんは2歳のメス。シーちゃんもミロも避妊・去勢をしている。)

 シーちゃんは家で一番小さな存在なのに何より存在感がある。シーちゃんは自然だ。多摩川の自然を家に持ってきた。赤ちゃんのころからシーちゃんはよく噛みついた。ぼくの足の指を噛むのがとくに好きだ。右手をぼくが差し出すものだから右手もよく噛まれる。シーちゃんに噛まれるのは少しも嫌じゃない。

 布団の上にシーちゃんが乗っている。脚に重さが感じられてかわいいと思う。布団の上で力強くシーちゃんが身動きする。それもかわいいと感じる。「かわいい」がもとにあるので何をしても、されても、かわいい。この小さな体の中ですベてが完成していると思うといとおしい。どの生物を見てもそれは同じなのだが、身近でシーちゃんがはっきり見せてくれる。それに、逃げる時の素早さといったらない。180度後ろに身を翻して体をひねってバク転する。

 

 はずみでアリを殺してしまったことがある。土日に働いている中学校の水場で、足場が悪かったので体を安定させようと左足を少し後ろに持っていった時、ドシンと力を入れすぎたのだ。長靴の真下に間の悪いことにそのアリがいた。一瞬、目ではアリがいることに気づいたのだが、下りかけた左脚を止めることができなかった。“しまった!”と思い足をそっと持ち上げてみた。アリは上向きになって脚をバタバタさせている。そっと触れてみたがもう生き返らせることはできなかった。

 大したことではないと言えばそうだろう。ふつう、すぐ忘れてしまう程度の出来事だ。それなのに気持ちに残った。自分の動きが雑だったと思う。もっと素直にできたはずだ。ていねいに足を動かすべきだった。粗いヤスリの目だと傷をつけるばかりだが、細かい目のヤスリを使うと表面にツヤが出てくる。怒りや焦りが心にあったわけではない。仕事を急いでもいなかった。周囲に気配りができていず、心がうとかった。もう少し、ち密になれないかと自分のことを思った。反省というほど強くはなかったが、自分に修正を加えたいと感じた。

 

 ていねいに生きたいと思う。それは相手あってそうしたいばかりでなく、自分に必要だからそうしたい。なかなかできない。たとえば駅で、何人もの人が向こうからやってくるとつい身構えてしまう自分がいる。最近、人混みでは壁に沿って歩くことにした。こうすると人の波を正面から受けないでとりあえず楽に歩ける。

 一時期、混雑する場所では人の足元を見るようにしていた。歩いている時、どの人も足先だけは行こうとしている方にきちんと向いている。だから人の足を見ていたらまちがいがない。すれちがう人たちがどの方向に行こうとしているのか、顔を見るより確実に知ることができ、ぶつからないで歩くことができた。

 でもそれより、自分のあり方を変えた方が手っ取り早い。どう変えるかというとできるだけ細かい紙ヤスリになるのだ。でも、うまく細かくできるのはまれなことで、たいていの場合雑な自分に戻ってしまう。たまたま細かくできた時には、落としかけた小物やA4の書類一枚ぐらいなら床に落ちる前につかまえることができる。

 それほど特別なことでもなく、訓練もあまりいらない。意識がどういう時繊細になるかも少しずつわかってきそうな気がした。

 

(写真:久保田 耕司)

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著者略歴

  1. 今井田博

    1950年、東京生まれ。パリ大学留学後、早稲田大学仏文科卒。翻訳家、駒沢女子大学講師(演劇表現)。訳書に『イヴリー・ギトリス:ザ・ヴァイオリニスト』(フィリップ・クレマン編、春秋社、2013年)、イヴリー・ギトリス『魂と弦』(春秋社、2017年[増補新版])、ムクナ・チャカトゥンバ『はじめまして! アフリカ音楽』(ヤマハミュージックメディア、2015年)他。ラジオ構成に東京エフエムの「ジェットストリーム」などがある。

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