ビオトープのいのち
『古代の森』という素敵なドキュメンタリー映画を観た。映像もさることながら、森の音が印象的な映画だった。
映画を見た翌朝4時に目が覚めたら、住んでいるマンションのまわりでカラスたちが鳴いている声がひびいていた。映画を観てすぐの朝だったので、梅雨の湿気を含んだ空気の中にひびきわたるカラスの声が、まるで、自分が森の中にいるかのように感じられ、素敵なのは映画だけではないことに気づかされた。
「今あなたを囲んでいる“いのち”を観察することから始めるように」と、名優ですぐれた俳優術の指導者だったマイケル・チェーホフは言っている。たしかにそのとおりだ。カラスの声がおさまると、今度は小鳥たちの高い鳴き声や、クーク一いう声が聞こえ出し、空が白んでくる。いのちの大きな広がりの中にいる自分を感じる。
5時半から6時と明るくなるにしたがって鳥の声は落ち着いてくる。鳥たちの朝のいそがしさが一段落し、次は人の番だ。車がバックする音や、キッチンの戸棚や引き出しを開けたり閉めたり、朝食を準備する音がし始める。
土日に働いている中学校にはビオトープがある。その池にアオサギがやってくるのはいつも突然だ。アオサギの来訪を知らないで池に通じるドアを突然開けると、出てきたぼくを警戒して、大きな翼をゆったり広げ、アオサギは悠々とビオトープから飛び去っていく。
その動きはまるでスローモーションで、目の前のアオサギの大きな脚にすぐにもさわれそうなくらいに感じる。小さな池に大きなアオサギが来てくれる。顔まで見分けられないので同じ子なのか、それとも違うアオサギが来ているのかは分からない。というか、こうして文章に書いて初めて〈同じ子なのかもしれない〉という考えが湧いた。
同じ子だとしたらどうだろう? この池が気に入って時々来てくれているのかもしれない。ぼくのいない平日にも来ているのだろうか? 生徒の少ない土日を選んで来るのだろうか? 疑問がたくさん湧いてくる。
そういえば以前は大きな魚がビオトープにはいた。いなくなってからずいぶん経つが、あの魚はこのアオサギが食べたのかもしれない。そうした考えまで浮かぶ。
野生動物のいのちは短い。シーちゃんはどうだろう? このエッセイの表紙を飾っているミロちゃんは去年の10月、21歳で亡くなった。心臓に水が溜まって最後は辛そうだった。人間だったら100歳にもなる大往生だったけれど、もともと野生だったシーちゃんはそこまで長生きしてくれるだろうか?
そんなぼくの考えを頭から否定するかのように、シーちゃんは物陰に隠れてそばを通るぼくの足をねらって攻撃してくる。それはまるで、思いに支配されているぼくを目覚めさせてくれているようで、ぼくの表情は一瞬にして笑顔に変わる。
まだ元気だった頃のミロちゃん
梅雨の時期、少し気温が上がってくると家の近くの生田緑地ではホタルを見ることができるようになる。昨年は気温があまり上がらず、ホタルの数が少なかった。今年はどうだろう? 暑い日々が続けば去年よりふえるかもしれない。
アオサギはいつまた来るだろう? 朝鳴いていたカラスたちは、どこまでエサを探しに行けば生きながらえることができるだろう? 2か月ほど前の夜、車のヘッドライトに浮かび上がった怪我をしたタヌキは、うまく身を隠していのちをつないだろうか? 中学校のビオトープでは、また新しい魚が成長して、泳ぐ姿が見られるだろうか?
晚年のミロちゃんがよく体を休めていたソファで横になってここまで書いたところで、シーちゃんが起きてきてストンとぼくの胸の上に乗った。シーちゃんのお腹のぬくもりが、朝早く起き、しばらくじっとしていたため冷え切ったぼくの身体に伝わって、少しずつ暖かくなってくる。
(写真:久保田耕司)