猫と合気と箒杉
いのちって何だろうと思う。
シーちゃんを見ていてもそう感じるし、大きな樹を見ても同じことを思う。
神奈川県の西のはずれ、静岡県や山梨県に近い山北町に樹齢二千年の箒杉(ほうきすぎ)を見に行ったことがある。天に向かって立ち、まるで空を掃除しているかのようなこの杉を、最初は妻と、二度目は写真家の久保田耕司さんと見に行った。箒杉は渓谷を見下ろす山の斜面に生えていて、そこまで行くのに急階段を登る。近くに行って見上げると空に向かって濃い緑の葉がここぞとばかりに生い茂り、その周りで蝶が舞っていた。
箒杉にはきょうだい杉がいたがそれは枯れ、今は独りで立っている。なぜこの樹だけが生き残ったのだろう?
シーちゃんにしてもそうだ。シーちゃんのきょうだいは今どうしているだろう。野良猫として生きているのだろうか? シーちゃんがわが家で安全に育った2年半の間に大きな台風もやって来た。寒い冬、強い風、カラスの襲撃といった危険からきょうだいたちは身を守って生き残れただろうか?
いのちはか弱くはかなく、同時にけなげだ。一生懸命生きている姿を見ると心の底から"かわいい"が歓びをともなってわき上がってくる。
時々、合気道のO先生のお話を聞かせてもらう。先生はとても強くとてもやさしい。やさしさは限りなく、強さは図り知れない。気の話や間合いの話以外にいのちの話もしてくださる。
たとえば先生は中学一年だった。疎開先から帰って来た太平洋戦争末期の3月1日、炎に包まれた渋谷駅に降り立った。家に戻って自転車で周囲を走ってみると赤坂方面からたくさんの人たちが焼け出されて歩いて来るのに出会い、表参道まで出てみると山と積まれた死体を見た。半分焼けていたり、手や脚のない人間を次々とトラックに積み込んでいる。臭いがものすごく、堪えられないで家に帰りその日一日何も食べられなかった。
合気道は相手を押さえて歯向かえないようにするが傷つけることはしない。「一生の道として合気道を選んだのはこういう戦争体験があったことが根拠の一つ」と先生は話す。とことん相手を叩きのめし、いのちまで奪うのはまちがっている。合気道の開祖、植芝盛平も戦争のむなしさを体験して合気道を生み出した。
(『植芝盛平と合気道Ⅱ』より)
戦争は無意味で残酷だ。合気道は自分の力と相手の力が釣り合ってどちらにも動かない点を見つけたら、少しの力で自分に有利な位置に相手を導いて体勢を崩す。崩して封じ、相手の戦意を失わせたらそれで終了。深追いしない。
三十代のぼくが合気道に興味を持ったのはほんの小さな話からだった。雑談をしたり、仕事をお願いしたりで親しくさせてもらっていたエディトリアルデザインの山崎嘉英さんから植芝盛平のことを聞いたことでぼくは合気道に興味を持ちはじめた。
新宿の京王百貨店に勤めていた山崎さんは新宿駅から毎朝同じ道を通って百貨店のデザイン室に通っていた。その道の途中でいつも見かけるおじいさんがいた。箒で掃除をしている。「それが合気道の植芝盛平だったんだよ」そう山崎さんが話してくれたのがぼくの記憶に残り、掃除をするおじいさんの姿と合気道がいっしょになって頭に焼きついた。
暗い池袋の山崎事務所で聞いたその話をぼくは時々思い出し、同窓会で50年ぶりに会った中学時代の友人が合気道をやっていたのを糸口に、スルスルと糸がほぐれるように植芝盛平と直接手合わせしたことがあるO先生につながってお話を聞くことができた。
争いなく人と接すること、それと、わずかな感覚に気づくのが大切だとO先生は教えてくれる。
こうして書いている時、膝の上ではシーちゃんが丸くなって寝息を立てている。こういう時間が好きだ。
シーちゃんといっしょにボタンで遊ぶのも楽しい。小さめのボタンがちょうどいい。ぼくもはじきやすいし、シーちゃんも転がしやすい。目の前を横切って跳ねながら転がっていくボタンがシーちゃんのお気に入りだ。飛んでいって追いかける。ときどきシーちゃんはボタンを口にくわえてぼくのところまで持って来そうにする。でも、途中で口から落とす。動かないボタンに興味はそこまでで次のボタンが転がってくるのに気持ちがいく。
猫のこだわりなさが好きだ。すぐ飽きる。いや、"飽きる"というのは人間の見方で、猫は最初からこだわっていないのだから飽きるもなにもない。目の前の動いているものに飛び付いていっているだけだ。
ボタンを追いかけるシーちゃんと合気道は似ていると思う。楽しそうなシーちゃんを見ていると合気道を始めたころの無心な歓びがよみがえってくる。
(写真:久保田耕司)