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やさしい気持ち 今井田博

"しじま"と”ひびき”


 白菜の苗を畑に置きっぱなしにしたまま妻が体調を崩したのでぼくは夜遅く、妻の代わりに寒い中バイクを走らせた。苗というのは毎日水をあげなければいけないのに、雨が降りそうもないここ数日、苗を畑に置いたままにするわけにはいかなかったからだ。でも暗い中、妻が置いたという場所をいくら探してもどこにも白菜の苗は見つからず、人も車も通らなくなった夜の道をそのまま帰るしかなかった。

 住宅街へ道を曲がった時だった。走って来たぼくのバイクに気づいて猫のようなシルエットが右の方へ体を翻したのが見えた。その動き方が後ろに気持ちを残した動きのように感じられたので、右側でこちらをじっとうかがっている猫ではなく、反対側の暗闇へぼくは顔を向けた。すると若いタヌキがキョトンとした顔付きで道の真ん中にたたずんでいた。

 ちょうど二匹の間に分け入るようにバイクは通ったわけだが、もしぼくが通らなかったらどうなっていただろう? 猫とタヌキは取っ組み合って喧嘩をしていただろうか? それとも近づいてお互いのにおいを嗅ぎ、何事もなかったかのように別れたのだろうか。

 ぼくが現われなかったら起こっていたかも知れない出来事はいくら考えても想像するしかないのだが、夜の静まりかえった空気の中、わずかな臭いを嗅ぎ分けて猫がタヌキを見つけた瞬間にぼくが居合わせたことだけは確かなようだ。

 

 夜には夜ならではの空気がただよっている。夜の空気はしっとりと重く、昼間とは明らかにちがう濃密な質で満たされている。空気が濃くなったことに加え、騒がしい昼間から引き離された分よけいに、動物も人も小さい音や小さな匂いまで感じ取ることができるようになる。

 こうした、凝縮した夜の空間を表現するのに日本人は"しじま"という言葉を使った。"しじま"は動詞にすると"しじむ"で、"縮む"ときょうだい関係にある言葉だ。圧縮されたしじまの空間では、昼には顕われることのなかったかすかな存在がにじみ出て来る。シルエットの猫があの場にいたのは、タヌキのかすかな臭いがしじまを伝って猫に届いたからにちがいない。

 

 ピアニストの大石啓さんに紹介していただき、音楽のしじまを仕事にしている二人の方のお話を聞くことができ た。

 一人は東京の千代田区にある紀尾井ホールのステージマネージャー、安齊慶太さんだ。最初に音楽ホールの構造を説明していただいた。

「みなさん木のホールと思っていますが、全体の構造はHの形をした鉄骨でできていて、天井はグラスファイバーで強化した40センチまで厚さのあるコンクリートなんです。」そのため、小さな音まできちんと客席に届けることができるという。

 ただ、一番大事なことは客席でどんなふうに聞こえるかで、海外経験の多い演奏家だと「向こう(客席)で音楽をつくる」ことを意識するという。「イヴリー・ギトリスのようなクラスのアーティストになると、ホールの様子を自分で感じて自分で音をつくるんです。」

 そして、紀尾井ホールがこだわっていることとして安齊さんの口から「備品」という言葉が出てきたのにはちょっとおどろいた。ピアノ奏者用のベンチ椅子は6種類、譜面台にいたっては立奏用、オーケストラ用、室内楽用、バロックチェロやギター、お箏用と折り畳み式でないものを高さを変えて4種類揃えているという。演奏者が登場する前の舞台セッティングですでに音楽のしじまが準備され、音が発せられるのを待つ。

 もう一人のキングレコードの平嶋裕治さんはCDやレコードをつくる音楽プロデューサーだ。上の写真のCDも平嶋さんが昨年制作したもので、大石さんがピアニストの岩崎淑先生の書庫で見つけたテープからつくられた。いやつくったというより、むしろよみがえらせたと言った方がいい。何しろテープは36年前の録音だったのだから!

 演奏会場で録音された音をCDにするのは思うほど簡単ではない。今回はとくに、イヴリー(ギトリス)から「ヴァイオリンの音が小さい」という指摘があったからなおさらだった。

 平嶋さんによると「ヴァイオリンを強調しようとして高音域を上げるとキンという音になり、ピアノの音もバランスが悪くなる。かといってピアノを小さくしようと低音域を下げると薄っぺらい音になる。」ヴァイオリンが前に出て来るように何回も調整し直し、何時間もかかるマスタリング作業を経て原盤が初めて完成したという。

「ライブ録音だと空気感も大切にしたいんです。」だから、「拍手の音もCDに入れる」。会場が演奏をどう受け取ったかは拍手やブラボーの声から推し量ることができる。だから、拍手は演奏者が発した音が反響して返ってきた"ひびき"なんだとぼくも思う。

 

 さて、見つからなかった白菜の苗だが、回復した妻が畑に探しに行ったところ、成長したサツマイモの陰に隠れていたのを見つけることができた。夜のしじまの中で苗が発していたひびきをぼくがキャッチしそこなったのか、それとも白菜の子供たちはまだしばらくサツマイモおばさんのそばで守られていたかったのか……。

 

(写真:キングレコード、久保田 耕司)

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著者略歴

  1. 今井田博

    1950年、東京生まれ。パリ大学留学後、早稲田大学仏文科卒。翻訳家、駒沢女子大学講師(演劇表現)。訳書に『イヴリー・ギトリス:ザ・ヴァイオリニスト』(フィリップ・クレマン編、春秋社、2013年)、イヴリー・ギトリス『魂と弦』(春秋社、2017年[増補新版])、ムクナ・チャカトゥンバ『はじめまして! アフリカ音楽』(ヤマハミュージックメディア、2015年)他。ラジオ構成に東京エフエムの「ジェットストリーム」などがある。

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