飼われた野性
夜、自宅の付近を歩くことなどめったにないのだが、妻から「買い物したいのでいっしょに行って」と誘われた。
当然バイクで行くものだとばかり思っていたのだが、「歩こうよ」と妻が言い出したので、めんどくさいなと思ったが片道10分ばかりの道を歩いて行くことにした。女性の場合、夜の道を一人で歩くのはなかなかむずかしいので、ぼくをボディーガードに夜を歩きたかったのかもしれない。
ビニール袋を下げての帰り道、バイクでいつも横目に見ている児童公園を通り過ぎようとした時すべり台が見えた。何年もすべり台など乗ってなかったので、ちょっとすべってみたくなった。
妻は「こっちのほうがいい」とブランコへ歩いて行ったのだが、すべり台の脚元にちょっとだけ立ち止まってぼくが降りるのを見ていた。すべり台は子供用なので狭く、ステンレスで出来ているのにあまりすべりがよくなかった。それでも下までなんとかずるずる降りていき、「すべらない……」と言ったら妻は逆にそれで興味を持ったのか「じゃあやってみる」と自分もすべり台の階段を上がっていった。
妻の感想もやっぱり同じ「すべらない」だった。で、けっきょく少し移動してそれぞれに好きなブランコに乗る。ブランコを激しくこぐと体が軽く自由になり、手を放せば闇の中を飛んで行けそうな気がした。
子供の世界だから自分には関係ないと思っていた近くの公園なのに、こんなふうに心の広がる時間が持てたのはやっぱり夜だったからか。夜というのは不思議な力を持っていて、ただ太陽の光がないだけなのだけれど、それで十分ちがう世界が目の前に顕われる。
7月の末から上野で藤田嗣治の展覧会が始まった。藤田の仕事でパリに行かせてもらっているぼくはなるべく早く観に行こうと思い、金曜の夜は21時までやっているというので、8月初めの稲光りがし始めた夕方に家を出て、闇の中の上野公園を歩いた。上野の森は全体に黒く、ただ所々の美術館だけ明かりを灯している。それはまるで「こっちへいらっしゃい」と誘っているかのようで、狐火というのはこういう灯りのことを言うのだろうか?
死後50年ということで国内最大級の回顧展であり、たくさんの絵が並んでいる。有名な絵があるかと思うと初めて見る絵もあり、いろんな仕事をした画家のたくさんの面に触れることができた。時代を感じさせるポスターの絵が結構いい。
ポスターとは別にぼくの目を引いたのはメキシコ旅行の時のスケッチのような「狐を売る男」というタイトルの大きな絵だった。
つながれている何匹ものキツネも、それがなりわいなのだろうキツネを売っているメキシカンハットの男も、画面の左の方を見ている。買ってくれそうなお客さんがそっちのほうからやって来るからにちがいない。
この絵をスケッチのようだと感じたのは背景を描き込んでいなかったからだろう。動物が出てくる絵は他にも何点かあるのだが、そのどれもが「夢」という言葉をタイトルの中に持っていて地に黒がしっかりと塗り込んである。画家が感じた夢の世界はどれもみな黒い背景の中にある。
背景のないメキシコのキツネたちは、綱でつながれおとなしく座っているのだが、黒を背景にしたとき、動物たちはちょっと意地悪そうな、イタズラな表情を浮かべて活発に動き出す。藤田を題材にした小栗監督の映画でも、戦争中藤田が藤野という所に疎開していた頃、キツネが人を化かす民話を主人公が聞く場面が長々とある。
藤田と動物の関係はちょっと普通の人の感じ方とはちがう。それは藤田が猫といっしょの生活が長かったからだろうとぼくは想像する。猫は野性を持ったまま「飼わ」れている。メキシコのキツネたちもきっとそうにちがいない。買われた先で野性を発揮しつつ人の役に立つ。
野性は夜になると活発になる。耳をピンと立てて後ろ足でぴょんと跳ねてみせたりする。
……と、ここまで書いてこの文を終わりにしようとベッドに横になったら、わが家の「飼い」猫のシーちゃんが急にぼくの右足にガッと爪を立てて攻撃してきた。そのあまりの痛さに0時過ぎにもかかわらず、ぼくは大きな声を挙げてしまった。やれやれ野性はなかなか眠らせてもくれない。
(この項つづく)
(写真:久保田 耕司)