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極楽の原風景 若麻績敏隆

楽園のイメージのルーツ

 何の苦しみもなくすべてに充足した快適な場所、それを私たちは楽園と呼ぶ。人類は、幸福で満ち足りた楽園のような時代が、かつて存在したという観念を抱いてきたといわれる。そして、そのような過去の楽園の代表格は、いうまでもなくエデンの園である。

 『旧約聖書』によれば、人(アダム)は、天地創造の六日目に神によって創造された。そして神は、東の方角のエデンに園を設けて、美しく、実のなる様々な木々を生えさせ、その中央に命の木と善悪を知る木とを生えさせた。神はその地を耕させ守らせるためにアダムを連れて行き、この園に生えているどの木からでも実をとって食べて良いとしたが、園の中央に生えている善悪を知る木からだけはとって食べてはいけない、それを食べたら死ぬであろうと告げた。それから神はアダムのあばら骨から女(エバ)を創った。ところが、エバは、蛇にそそのかされて善悪を知る木の果実を食べ、アダムにもそれを与えた。それによって、アダムとエバは、この園から追放された。

 あまりにも有名なこの話は、キリスト教徒ではなくとも、大抵はその内容を知っている。このできごとによって原罪を背負った人類は、その後、様々な苦しみを背負うことになったのだという。

 バロック絵画の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスと花の画家ヤン・ブリューゲル(父)が合作でエデンの園を描いた「楽園のアダムとエバ」という作品がある。この絵は、人体表現に秀でたルーベンスがアダムとエバを担当し、森と動物をブリューゲルが描いたとされる。画面の左側手前を見ると、今まさに、エバが善悪を知る木から果実をもぎ取ってアダムに手渡す場面が、スポットライトに照らし出されたように描かれていて、見る者は、人類の背負った最初で最大の罪の現場の目撃者となる。その背後に続く風景には、様々な動物が所せましと描かれるが、それらはつがいの場合もあり、猫のようにじゃれ合う虎と豹など、弱肉強食の緊迫感とはまったく無縁な、のんびりとした牧歌的な雰囲気が醸し出されている。空には様々な鳥が飛び交い、さながら浄土経典に表された極楽のようでもある。彼らは、お互いの平和な生を謳歌しているように見える。

ピーテル・パウル・ルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)「楽園のアダムとエバ」
ピーテル・パウル・ルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)「楽園のアダムとエバ」(1615年頃)
画面左側のアダムとエバは、ルーベンス特有の、うねるようなフォルムの輝きに満ちた官能的表現によって、この絵の主役を魅力的に演じ、見渡せる空間に密集して描かれる動物達は、ヤン・ブリューゲルのリアリティある描写によって、現実ではあり得ない幸せな楽園の姿を幻視のように出現させている。一方、エバの頭上には、禁断の木の実とともに、彼女をそそのかす蛇の姿が不気味に描かれる。(マウリッツハイス美術館蔵)

 このような楽園について、宗教学者のミルチャ・エリアーデは、『神話と夢想と秘儀』(岡三郎訳・国文社)のなかで、このように述べている。「(ヘルマン・)バウマンは初源的な楽園期に関連するアフリカ神話を次のように要約している。すなわち、その当時人間は死について何も知るところがなく、動物たちの言葉を解し、彼らと一緒に平和に暮らしていた。人々はまったく労働しなかったが、豊富な食糧が手のとどくところに見つかった。ある神話的出来事の結果、この楽園期は終りとなり、人類は今日われわれが知っているようなものとなった。」そして、「多かれ少なかれ複雑な形をかりて楽園神話は世界のほとんど至るところに見出される。」とし、その最も顕著な楽園的な基調は「不死性」であるとする。そして、原始宗教とキリスト教に共に見られる楽園への憧れについて、「人類の宗教史のはじまりとその終わりにおいて、まったく同じ楽園へのノスタルジアを見いだすのだ。…歴史のない至福の状態に対する神話的記憶は人間が宇宙における自らの位置を自覚するようになった瞬間から人類につきまとっているものと推定してもよいだろう。」と述べている。

 極楽を世界に存在する他の楽園神話と全く関わりのない、独尊的な楽園だとするのであれば、ここで私が他の楽園について言及するのはまったく見当違いなことである。しかし、楽園への憧れが、人類共通の普遍的で無意識的な願望に根ざしたものであるならば、そのような普遍的な楽園への憧れは、極楽という楽園と無関係とは考えにくい。教義的にいえば、極楽は「無三悪趣」、つまり地獄、餓鬼、畜生の存在しない楽園だとされ、エデンの園の説くような、人間と様々な動物が共存する楽園とは明らかな差異がある。それは、無視できない大きな違いである。しかし、私たちは、その点に留意しつつも、ここでは、その問題に拘泥せず、さらに楽園というものについての考察をすすめよう。

 ユング派の心理学者マリオ・ヤコービは『楽園願望』(松代洋一訳・紀伊國屋書店)のなかで、ユング派の先輩であるエーリッヒ・ノイマンの説を引用して心理学から見た楽園について論を展開している。以下、この著作からノイマンとヤコービの説を見ていこう。

心理学的に言えば、楽園のイメージは乳児の前意識的な状態に比較してみることができよう。そこでは、「自我」はまだ、人間の意識の中心としては機能していない。E・ノイマンが言うように、「自我の発生と共に楽園状況は終わる」のである。「より大きな、より抱擁力のあるものが生命を司り、それに頼ることがごく自然のことであった幼児の段階は終わりを告げる。この楽園状態は、宗教的に言えばすべてが神みずからによって導かれている状態であろうし、倫理的に言うならば一切が善で悪はまだ現れていない世界ということができよう。神話によっては、自然があらゆるものを恵んでくれるため労働も悩みも苦痛もまだ存在しない黄金時代の“安穏さ”が強調され、また別の神話では“永遠の生命”が、この世のおわりのないことが、強調されている。」ノイマンはこのように言って、楽園神話に描き出されているのは、人間の原体験、現実に乳児が体験しているところにほかならないと考えているかに見える。そこで一言しておかなくてはならないが、たしかに乳児といえども、楽園神話に巨細に描かれたようなイメージから成る幻想世界に生きているわけでは決してない。これはむしろ、ノイマンのいう前意識的で言語も観照もない初期体験を、あとから省察を加えて象徴的に言い表したものなのである。神話自体、楽園での生活はそもそも「知る」ことのできるものではないことを暗示している。善と悪との、男と女との対立を知ったとたん、楽園状態は失われてしまう。楽園の経験がどういうものかを知るためには、それと対をなす現実生活の懊悩労苦を知っていなければならない。楽園のイメージはどれも、それが失われてしまったという悲哀を同時に含んでいる。…

 このような心理学からの楽園神話へのアプローチからは、楽園神話が、我々の個人的な生に関わる極めて身近なエピソードとして意識されてくる。神話に説かれる過去の楽園が、我々の体験した乳児期の前意識的状態に対応するというのは極めて興味深い説である。この時期の、自己と他者とがまだ分離していない状態は、仏教的に言えば、無分別の状態といって良い。仏教では、私たちの認識で、自己と他者とを峻別するあり方を分別といい、峻別しないありかたを無分別という。我々の通常の意識活動は、分別に基づく認識と知識によって行われる。これに対し、無分別の認識によって導き出される、絶対的で平等なる全体性の智慧を無分別智という。それは、悟りのベースとなる智であり、子宮内における胎児の意識状態に限りなく近いものといって良いだろう。そしてそれは、母体を通じて宇宙との繋がりを保っている認識ともいえる。人間の根本苦である「生・老・病・死」の「生」が、生きることではなく、生まれること自体を指すのは、胎児が母親との一体的生からいきなり切り離され、この世に一人で放り出されたことへの「苦」であることに他ならない。我々は、自他不二の絶対的に充足した状態から、まず臍の緒の断絶という物理的な方法で引き離され、出産後に続く乳児期の充足状態からも、離乳の試練によってさらに遠ざけられていくのである。そして、その後の我々の苦の生存から、この一体的な生存を振り返ったとき、それが楽園として認識されるというわけである。

 ここで、どうやら人類が伝える楽園の観念は、人類史的にも、個体史的にも、自我の発達に密接に関わるものらしいということが類推されてくる。しかし、ならば、そのような観念はどのようにしてイメージとして生起してくるのだろう。私はそのイメージの源泉をこそ求めたいのだ。

 ここからの話を進めるにあたっては、私は、お二人の恩師のことについて、お話ししなくてはならない。そのお一人は解剖学者の三木成夫先生であり、もうお一人は美術における性差研究の第一人者、皆本二三江先生である。三木先生は、私の藝大在学中、保健管理センターの保健医として藝大生の健康面のケアを担当されるとともに、美術学部の教授として「生物」の授業を担当しておられた。先生がこの授業で私たち学生に伝えようとしたことを一言でいえば、それは「生命記憶」ということだろうか。先生は、子宮内の胎児の成長に、人類が歩んできた進化の過程を見る。羊水に漬かった胎児の顔貌に、あるときは古代魚類ラブカの面影を、あるときは原始爬虫類ムカシトカゲの面影を、そしてあるときは原始哺乳類ミツユビナマケモノの面影を見るのである。このように、「いまのここ」に「かつてのかなた」の面影を見ることを、先生は「生命記憶」とよんだ。

 先生の語る生命記憶の世界のバックボーンとなっているのは、生物学者エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説である。私たち一人一人の個としてのいのちの中には、三十億年とも四十億年ともいわれる地球上の生命の歴史が凝縮されており、それが生命記憶として刻まれている。先生のおっしゃる生命記憶とユングの集合的無意識とは、決して同じ範疇で語れる概念ではないが、共に、私たちの生の背後にある、個人の生を超えた大いなる世界についての知識ということができる。その世界への入り口が、ユングの場合、「夢」に現れるイメージであったのに対し、三木先生の場合には、太古からの古代形象が再現される「胎児」の姿であった。

 階段教室の二つのスクリーンに様々なスライドを映しながら、先生は、食と性、動物的と植物的、近感覚と遠観得といった対概念を用いて、生命記憶の世界を、発生学には全くの門外漢である私たちの感性にも届くように説き明かしていった。私たちの「いまのここ」から、「かつてのかなた」の世界、つまり、大いなる宇宙リズムや太古から続く遙かなる生命の繋がりの世界を観得することを伝える、先生のかみしめるような独特の語り口は、科学的でありながら、同時に、宗教的ともいうべき厳かさを醸していた。私たち学生は、うす暗い教室のスクリーンに映し出される古代形象を見つめながら、あたかも神秘的な儀式に参列しているかのような感動に満たされた。私という個のいのちの背後に連綿と連なっている時空を超えた大いなるいのちの繋がりを、私は仏教を学ぶ前に、三木先生から教えていただいたのである。

 私が藝大の修士課程を修了して数年後に三木先生は急逝された。先生を慕う方々によって追悼会が行われた際、私は、武蔵野女子大学幼児教育科の教授として美術教育の指導にあたられていた皆本二三江先生に初めてお目にかかる機会を得た。それは、後で考えてみると、私にとって、まさに、亡くなった三木先生が私のために、お引き合わせ下さったとしか思えない不思議で有り難いご縁であった。会場で偶然に隣り合わせ、簡単な自己紹介の後、三木先生にまつわる会話があれこれ成された後であっただろうか、話が皆本先生の研究分野に進んだとき、皆本先生は私にとって驚愕すべきことばを口にされたのだった。

 「女の子は、楽園を描くんですよ。」

 何気なく皆本先生から飛び出したそのことばに、私は仰天した。そして、私の中で、これまでずっとわだかまっていた極楽のイメージに対する根本的な疑問が一気に吹っ飛んだ気がした。私は予備校時代から数えると七年の間、男性と女性が一緒に絵を描く環境で過ごした。数年間は美大の予備校で講師もしていたから、男性と女性の描く絵に差異があることは何となく理解していた。しかしながら、いや、であるからこそ、「女の子は楽園を描く」ということばは、私にとって大変な衝撃であった。

 先生によれば、男女児にモチーフを指定せずに自由に絵を描かせた場合、その図様には大きな違いが現れる。その差異は、特に小学校入学前後の子どもたちに顕著となる。この時期の自由画では、女の子が、美しい花々が咲き人間や動物が楽しそうに集う楽園世界を描くのに対し、男の子は、自動車、ロケット、飛行機などの乗り物、ロボットや超人的な人造人間、そして戦争の場面を好んで描くという。

 先生が著された『絵が語る男女の性差』(東京書籍)や『「お絵かき」の想像力』(春秋社)では、自由画に現れる性差について、多くの作例を用いて様々な観点から論じられている。女の子の描く自由画は、誰もが目にしたことのあるであろうステレオタイプな、かわいらしく、至極ありきたりな絵である。ところがそれらを男の子の自由画と比較してみたとき、明らかに楽園としか言いようのない世界がそこに現出していることに、改めて気付くのである。これまで神話や教義の中で見いだすのみだった楽園のイメージが、もっと無垢なる形で、これほど身近なところに、泉のようにこんこんと湧き出している事実は、男性の私からすれば、ほとんど奇跡のように思われた。

 次回、女の子と男の子の自由画についてさらに掘り下げながら、楽園のイメージとは何か、極楽のイメージとは何かについてさらに論じることとしよう。

 

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著者略歴

  1. 若麻績敏隆

    善光寺白蓮坊住職・画家。日本仏教看護・ビハーラ学会会長。
    1958年、長野市生まれ。1982年、東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。84年、同大学院修士課程修了。87年、大正大学大学院仏教学コース修士課程修了。94年、善光寺白蓮坊住職に晋山。2012年~14年、善光寺寺務総長。日本橋三越本店、大丸東京などでパステル画による個展多数。
    主な著書:『パステルで描くやすらぎの山河』(日貿出版社)、『浄土宗荘厳全書』(共著、四季社)

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