人類の原風景
女の子の自由画に現れた色とモチーフから、そこに表された楽園の姿について概観してきたが、ここでさらに二つ、皆本先生の示した女の子の自由画の特徴をあげてみたい。
その一つが、モチーフ(構成要素)の等価分散の傾向である。色彩について語る中で、女の子の自由画には、ことさらに一色だけを多く使わずに、様々な色を偏りなくほぼ同分量で使用する、先生が「等価分散」と名づけた傾向があることを述べた。様々な色を平等に使い分ける、この「等価分散」の傾向がモチーフについてもみられるというのだ。男の子の場合、主役となるモチーフを大きく描いて強調する傾向があるのに対し、女の子の場合は、登場するモチーフを皆、同じような大きさと存在感で描く傾向があるのだという。これを皆本先生は「モチーフの等価分散」とよんでいる。つまりは、様々なモチーフにヒエラルキーをつけずに平等に描こうとする傾向である。
「女の子と家」台湾の女の子の自由画。
女の子と家と雲と太陽。モチーフが対等に等価分散で配置されている。
「消防自動車」4歳の終わりから5歳の男の子の作品。
燃えさかる火に消防士が懸命に水を出して火を消そうとしているところ。描いたのは雨の日だったので、外で遊べないエネルギーがこちらの表現に出たのかも知れない。
男の子の一つのモチーフを強調した絵として、図版にあげた5歳児の「消防自動車」の絵を見てみよう。消防自動車が燃えさかる火を消し止めようと放水する場面である。ここでは、表現主義的な激しい筆致が、火の勢いとそれを消し止めようとする消防自動車との攻防を迫真的に表現している。このように画面からあふれんばかりにモチーフを大きく描いてパワーを全開にしたような表現は、女の子ではほぼ見ることが出来ないという。常に平和で平等な楽園世界を描こうとする女の子の表現言語にはこのような強烈なイメージは存在しないのだろう。連載第5回「楽園の色」に掲載した9枚ずつの作品例をご覧頂いても、女の子の自由画のモチーフの等価分散傾向ははっきりとお分かり頂けるだろう。
もう一つ、女の子の自由画の重要な特徴として、装飾性をあげることができる。女の子は、様々な意匠や色彩を用いてモチーフを飾ったり、画面を飾るのが好きである。皆本先生によれば、「女の子の絵に装飾性を判別できるのはおよそ三歳代から」で、それは「人物にリボンやイヤリングなどの飾りを付けた装飾が主」である。そして、「五、六歳の女の子の絵は、なんらかの装飾性をともなうのがふつうであり、装飾性のない絵は僅少」なのだという。男の子でもこの年齢では、約四分の一に装飾性がみられたというが、やはり女の子の旺盛な装飾性に比べると、その装飾意欲は希薄である。小学生の装飾も幼児期とほぼ同じ傾向だが、高学年になると、女の子の旺盛な装飾性も控えめになる。しかしながら、成人した女子大学生であっても23.6%に装飾性がみられ、男子大学生の3.7%と比べるとはるかに高い確率で装飾を行っている。女子大学生の装飾も、「非現実的な美しい花園をかいたり、リボンなどの飾りを付加するというものが主で、幼児期の装飾表現の延長上」にあるという。
「バレリーナ」6歳の女の子の作品。
バレリーナが踊る周囲にきれいな花を散らして装飾し、華やかで美しい空間にしている。楽園でおどる天女さながらである。
ウィキペディアで「装飾」ということばを検索すると「一般には物品、建築物、身体等を装い飾ること、またそれに用いる飾り。」という文言に続いて、「特にそれ自体に機能を持たず、視覚的美感に訴えるもの」とある。機能こそが本質であるとするならば、そこに付加される装飾は、極論すれば、おまけのようなものといえるかも知れない。ところが女の子にとっては、装飾すること、飾ることそのものが重要なのであり、それを楽しむのである。小学校低学年の私の娘が、最近、マンガのような絵を熱心に描いているのを見ていると、飽きもせず何枚も描くデコラティブな衣装と長い髪の女の子の姿に、どれ一つとして同じものがない。私は、なぜ娘が同じ衣装を描かず、すべて異なる衣装で描くのかを不思議に思い尋ねると、娘は「だって、前に描いた服、覚えていないんだもの。」とさらりと答えた。娘は、次々に内面から湧き上がる華麗な衣装の着飾った女の子のイメージをただ溢れ出るままに描いているのだ。彼女にとって、美しい衣装や魅力的な髪型を描くことは、絵を描くことのモチベーションの多くの部分を占めている。女の子の装飾に対する情熱にはただただ驚かされるばかりである。少なくとも私は、子供の頃に、服飾デザインやら装飾やらには全く興味がなかった。私の娘ばかりではない。大多数の女性が、一生涯を通して飾ることや着飾ることに強い関心を寄せることに関しては、今更ここで述べる必要もないだろう。
絵画の分野でいえば、女性は絵画に常に「きれい」な世界を求めるのであり、「男性のように現実を再現するリアリズムではなく、現実を美化することをたのしむもの」なのだという。装飾は、画面を華やかにし、描かれるものに生き生きとした生命感を与える。それを女の子は好むのだ。
男性の装飾についても一言加えると、男性も際だった装飾を行う場合がある。戦国武将の甲冑にはその極端な例を見ることが出来る。実用を度外視し、防御性能と機能性を逸脱しているようにしか思えない大げさな装飾は、自分の強さや威厳を誇示するために行われている。色彩面でも、黒や赤と金を主体とした甲冑の色は、強さや重々しさに拘ったものであり、華やかな女性の装飾とは対照的である。装飾の目的もあり方も男性と女性では大きく異なるのだ。
装飾性は、多くの宗教にとっても重要な概念である。仏教で用いられる「荘厳」ということばは、装飾ということばとイコールではないが、ほぼ同義に用いられることが多い。極楽にとっても荘厳、装飾は非常に重要な意味を持っているが、それについては、次回、論じてみたいと思う。
女の子の描く楽園的世界と男の子の描く闘争的世界は、何らかのテーマやテキストに依拠して描いたものではない。子どもたちの心から自然に(自動的に)湧き出したイメージである。そういう意味では、このイメージは、シュルレアリストの試みた「オートマティズム」(自動書記)による表現と本質的に異なるものではない。ところが、各地で行われる子供の絵の選抜展などを見ると、展示される作品には、これまで概観してきたような両性の特徴が必ずしも明瞭には現れていないことが多い。その理由として、選抜された優秀な作品は、幼稚園なり保育園なり、あるいは小学校なりで、何らかのテーマを設定して描かれたもので、自由画ではない場合が多いこと、また、大人の指導者の審美眼を通すために、男の子のあまりに攻撃的な絵や、女の子のステレオタイプな楽園画が、選抜の段階で除外されてしまいやすいことなどがあげられるだろう。日本の子どもの絵の選抜展では、本来、子どもの絵では出現率が高いはずの太陽も、あまり見ることができないと皆本先生は指摘する。これも、日本では、美術教育の指導者が、太陽を描くことをあまり好まず、ステレオタイプで幼稚な表現と認識しているからだろう。
さて、女の子の描く楽園画を見ていると、それがある共通の自然環境をベースとして描かれていることに気が付く。具体的には、見通しの良い平坦な大地と光り輝く太陽、明るい緑の草原、果実が実る樹木、花咲き、動物が憩うイメージである。女の子の描く、この明るい大地の光景はいったい何を物語っているのだろう。
皆本先生は、生物学者ルネ・デュボスの「人類は最も生存に適したサバンナで生物的進化が完結したので、現代人もなお草原とまばらな樹木をもつサバンナ的風景を好んでいる。」という説から、女の子の描く光景のルーツとなっているのは、人類が種としての進化を遂げた、アフリカ大陸のサバンナの風景ではないかと推測する。その光景が女の子の内面の風景として記憶されているのではないかというのである。
皆本先生はさらに、人が安らぎを感じる自然環境について研究した品田穣氏が人類共通の原風景として導き出した「見通しのよい草原・疎開林型の自然」が、女の子の楽園画の特徴に共通することを指摘する。品田氏は、文部省外局の文化財保護委員会で天然記念物の保護を担当し、高度成長期に自然破壊から自然を守る仕事をされていたが、人はなぜ、文明によって自然破壊を行いながら、いざ自然が失われていくと、かえって自然を求めるようになるのか、人は緑の自然になぜ安らぎを感じるのか、ということに疑問を持ち、研究をすすめるうちに、人類には共通の原風景があるのではないかと思うにいたったという。品田氏は、日本人被験者20人に、日本各地の様々なパターンの自然風景375ヶ所を訪れてもらい、その風景に対するやすらぎの感じ方を調査し、インドネシア人20人にも同様の調査を行った。結果、日本人とインドネシア人が共通してやすらぎを感じた風景は、「見通しのよい草原・疎開林型の自然」であった。それはまさに、サバンナの風景である。また、この調査では、鳥の存在が人間に安らぎを与えることもわかったという。品田氏は、この風景こそ人類共通の原風景ではないかとし、それは、今から800万年くらい前に、人類の祖先が、アフリカ大陸の大地溝帯の自然環境の激変に追われて脱出した草原や疎開林のような環境で立ち上がり、初めて目にしたその風景が、人類の知覚機構に「人類の原風景」として結びついたものではないかと推測している。(『ヒトと緑の空間』、『人類の原風景』(東海大学出版会など))
八島ヶ原湿原
長野県中央に広がる日本を代表する高層湿原。開けた明るい緑の空間は、人にやすらぎを与えてくれる。アフリカのサバンナを出て地球全体に広がった人類は、今でもサバンナ的景観に癒やされ続けている。
皆本先生は、女の子の描くステレオタイプな楽園画が、品田氏のいう「原風景」のパターンと見事に一致しているとし、「女の子がくり返しかくあのパラダイスは、たしかに草原とまばらな樹木のあるサバンナ的風景」だと指摘する。女の子の楽園画に現れた環境は、人類の本来的生存環境であったサバンナの環境が生命記憶として遺伝子にインプットされた、人類の集合的無意識としての景観であるといえるのだろう。
ところで、1994年から95年にかけて、NHKスペシャルで宇宙飛行士の毛利衛さんをナビゲーターに「生命40億年はるかな旅」というシリーズが放送された。これは地球上の生物の進化の過程を、当時としては斬新な切り口で説き明かしていくシリーズだったが、その第4話は「花に追われた恐竜」という非常に興味深いテーマだった。この回では、花をつける植物、つまり被子植物が、白亜紀の初めから、それまで隆盛を誇っていた裸子植物に代わって地球上で勢力を拡大したことに恐竜が対応できず衰退し、とどめを刺すように6500万年前、巨大隕石がユカタン半島に衝突して、ついに絶滅したという大胆な仮説が披露された。近年、恐竜が絶滅した原因として広く認知されている隕石の衝突と共に、被子植物の台頭と裸子植物の衰退とが恐竜絶滅の大きな要因だったという、この回のストーリーは、放送後、大いに物議を醸したようである。古生物学について全くの門外漢の私には、それについて的確なコメントをする知識など持ち合わせていないが、「進化」イコール「動物の進化」として考えがちだった私にとって、動物の進化に先んじて植物の進化があり、相互に影響し合いながら進化を遂げてきたという論旨は、新鮮だった。被子植物の隆盛が、恐竜絶滅の引き金になったかについては異論があるとしても、被子植物が、花粉や蜜を提供する代わりに花粉を運んでもらうという関係性で昆虫類と結びつき、果実を提供する代わりに種を運んでもらうという関係性で哺乳類と結びつく。その相互依存の戦略で共進化を遂げたということに異論を持つ人は少ないだろう。私たち人類が存在するためには、前提として、まずは酸素を供給する植物の存在が不可欠であり、そして食糧を供給する被子植物が不可欠であるということは、私たち人類の原風景を理解する上で非常に重要なポイントであろう。さらに生命維持の役割ばかりではなく、被子植物の花の美しさは早くから人類の心をとらえていたはずある。ネアンデルタール人化石の周辺には、ヤグルマソウなどの花粉が見つかっているという。これらの花々が遺体に捧げられたとする説には否定的な意見もあるが、私は、今日まで続く人類と花との関係性を思うと、それは十分にあり得ることだと考えている。
女の子の描く樹木や花や果実は皆、いうまでもなく被子植物である。女の子の絵に登場する自然、人間、大地、緑の草原、花、樹木、果実、小動物、蝶。この環境は、本来的に人間の生存に適したサバンナの環境を表していると同時に、遡れば、白亜紀に上陸を果たした被子植物と、共存関係を結びながら共進化してきた生きものたちとの楽園を表しているといってよいだろう。共進化してきた仲間たちの中で、人類にもっとも近しく、愛着を感じた生きものたちが、遺伝子のなかに刻印され、それが女の子の楽園に現れたのだといえよう。
さて、女の子の自由画に現れた楽園をたどるうちに、私たちは遙か昔の人類の原風景にまでたどり着いてしまった。三木成夫先生は、このような遙かなる生命的な記憶を生命記憶とよんだが、女の子が、私たちのルーツとも言うべきいのちの記憶、いってみれば「過去」を向いているのに対し、男の子の指向しているのは、「未来」であると皆本先生はいう。男の子の未来志向というのは、すなわち、楽園的世界観から脱却し、他者との相対的認識に立脚して、何らかの闘争的方法で自らの未来を確立する方向性であろう。そうした楽園的世界観と闘争的世界感は、現実には、男女に完全に分かれて保持されているのではなく、男女ともにこの両方を保持していると考えられる。100%楽園的世界観によって生きている女性はいないし、100%闘争的世界観によって生きている男性もいないが、ただし、俯瞰して見れば、両性は、子どもの自由画に現れるように、女性は楽園的世界観が顕在化しやすく、男性は闘争的世界観が顕在化しやすいといえる。いずれにせよ、人類は、この二つの世界観に生命活動の最も根底のところで影響されつつ生きてきたといってよいのだろう。
ここで、これらの世界観を非常によく表した童謡を紹介したい。それは、文部省唱歌の「冬の夜」である。
冬の夜 文部省唱歌
燈火ちかく 衣縫う母は
春の遊びの 楽しさ語る
居並ぶ子どもは 指を折りつつ
日数かぞへて 喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
囲炉裏の端に 繩なう父は
過ぎしいくさの 手柄を語る
居並ぶ子供は ねむさを忘れて
耳を傾け こぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
この歌の一番で、母が子どもに母が語るのは「春の遊びの楽しさ」であり、二番で父が語るのは「過ぎしいくさの手柄」である。母によって語られる「春の遊びの楽しさ」とは女の子の描いた楽園的世界そのものであり、父によって語られる「過ぎしいくさ」とは男の子の絵に現れた闘争的世界そのものである。歌詞の内容からすると、冬の夜に、これから来たるべき、待ち遠しい、未来の春を語るのが母であり、かつてあった過去の戦を語るのが父という設定になっているが、この歌詞には、表層的ないのちの活動が静まりかえる冬の夜という象徴的な時間に、親と子が、遙かなる根源的いのち世界に思いを馳せ、私たちをいのちの全体性へと導く楽園的世界観と、種として、あるいは個としてのいのちをつないできた戦いの歴史とその世界観に思いを馳せるという意味が読み取れるように思える。
皆本先生は、男の子の描く闘争画の根底に、私たちの個としてのいのちのはじまりのドラマ、つまり受精の場面の卵子を目指す精子の競争を重ね合わせる。「精子の競泳にみる男性原理は、まず戦うことです。戦いに勝たねば死滅するものにとって、戦うことだけが生きのこる道です。戦うことすなわち生き甲斐なのです。」これもまた、私たちの生存に不可欠な、人間の根源的いのちの世界の風景であり、それが男性性として男の子の自由画に現れているともいえるのである。今日、二番の「過ぎしいくさの手柄を語る」部分を、「過ぎし昔の思い出語る」と歌詞を変えて歌われる場合がある。私の愛聴する由紀さおりと安田祥子の唱歌集でも、この部分を「昔の思い出」として歌っている。平和尊重の立場から童謡にいくさを登場させるのはいかがなものかという判断は理解できるが、この歌は、母が「春の遊び」を語り、父が「過ぎしいくさ」を語るところにこそ意味がある。この二つの世界観がDNAの構造を思わせる衣縫う、縄なうという行為とともに語られることによって、それが、遺伝子に紡がれて親から子へと無意識的に受け継がれていくことを示しているように私には思える。
さて、この連載も、気が付くと、極楽の原風景を探りながら、一見、随分と極楽とは異なる場所までたどり着いてしまった。次回は、女の子の楽園画の世界から、本論の主題である、仏教の説く極楽という楽園について、考えていくこととしたい。