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極楽の原風景 若麻績敏隆

楽園のモチーフ

 

 皆本二三江先生によれば、「女性画のモチーフは、生涯をとおしほぼ自然界に限られる」のであり、一方で「幼児から小学校低学年にかけての大方の男の子は、人工的モチーフを主題に選ぶ」のだという。このようなモチーフに現れる性差は、一歳代のなぐりがき時代に、描線に対して自動車や飛行機など特定のものを意味づけするときから始まっており、男の子でも、その初期に、動物などの自然物を命名することもあるが、それは一時で、やがてモチーフは人工的なものが主流になっていくのだという。そして、男女の描画表現の差異は5,6歳児の自由画で最も顕著となる。この時期の両性の描画は、明確に異なる世界観を表す。極楽の原風景を求めていた私に対し、皆本先生は「女の子は楽園を描く」という驚愕すべき示唆を与えてくれたが、ここからは、なぜ、女の子の描く絵が楽園なのかについて、モチーフから検証してみたい。

 先生は5,6歳児の自由画のモチーフについて、端的に「人間をかくのは女の子であり、車をかくのは男の子」で、反対に「車をかく女の子や、人間に集中する男の子はきわめてまれ」だとする。そして「幼児のモチーフ選択にあらわれる性差はまことに明瞭で、じつにわかりやすく両性を二分」するという。5,6歳児の両性の絵の傾向は、就学以降、成長するにしたがって微妙に変化していくが、全体的な基本的傾向は維持されていくという。


ケニアの8歳の女の子の自由画。楽しそうな二人の女の子と花や木が描かれる。

 女の子の主要なモチーフである人間は、一見、男女を問わず、私たちにとっての永遠のモチーフであり、ともに高い出現率があるかのように思われる。ところが意外なことに男の子が人間を描く確率は、女の子に比べて極めて低いのだ。先生が5,6歳児の自由画のモチーフを調べたデータによれば、人間を描く確率は、女の子で93.6%、対する男の子は26.5%にすぎない。このような傾向は、小学生においても維持される。先生は、日本画の公募展である「春の院展」に出品された作品でも性差の分析を行っていて、大人の画家の場合でも、男性の2.5倍の確率で女性は人間を描いていると指摘している。

 人間というモチーフで特徴的なことは、女の子の描くのが、女性であり、男の子の描くのが男性だということである。男女ともに異性を描くことは非常に少ないのだ。この時期、男女ともに同性こそが興味の対象なのである。女の子の場合、描かれるのは、本人かあるいは本人が憧れる女の子像やキャラクターで、時には母親などの家族や友だちが描かれる場合もあるだろう。このような女の子の描く人間の特筆すべき特徴は、皆、必ず幸せそうな姿で描かれるということである。女の子の描く世界の人間は、基本的に微笑んでいるのだ。幸せそうな人物が描かれることは、本質的にそこが楽園であることの最も重要な要件である。反対に、悲嘆や苦悶の表情を浮かべたり、憎しみや怒りをあらわす人間が描かるのであれば、その場所は楽園とは呼べない。「極楽」の原風景を求めて綴っているこの連載であるが、そもそも「極楽」という言葉は、サンスクリット語のスカーヴァティ(sukhāvatī)を漢字に訳した言葉であり、「幸いあるところ」、「幸せな場所」を意味している。そこにいる者が幸せであるところこそ、極楽であり楽園なのである。

 一方、先生が男の子の代表的なモチーフと規定した乗り物の出現率は、女の子が4.5%なのに対し、男の子は92.4%にのぼる。男の子の誰もが乗り物を描くということに疑いを挟む人はいないだろう。多くの男性の車好きが、幼児から大人にいたるまで、ほぼ一生を通して続くことは周知の事実である。私は自動車が、単に人間の移動手段という意味を超えて、男性性の本質に繋がる象徴的な意味合いを持つ存在であると考えている。親の腕に抱かれた幼い男の子が、ブルドーザーやショベルカーなどの特殊自動車を見て、喚声を上げる姿を見たことのある人は多いだろう。大人になっても、男性は、速くて格好よいスポーツカーや、大きくて強力なパワーを持った自動車に憧れる。そうした車に乗ることに、自らのアイデンティティーを求める人さえいる。皆本先生によれば、男の子が描く自動車は、時にその車種まで限定されるほどのこだわりを持って描かれるという。それに対して、女の子が描く自動車は、ごく一般的な自動車の形をとりつつ、しかも角が取れた丸くかわいらしい姿で、その中には必ず人が仲良く乗っている状態で描かれるのだという。女の子にとって、車は、何よりも人が楽しく集う場であることが重要なのだ。ところが、男の子の興味があるのは、あくまで自動車そのものだ。


小学2年生の男の子の自由画。ガンダムとジオングが戦っているところ。

 先生は、人間の変種として、男の子の描くロボットや人造人間、あるいは超人ともいうべきキャラクターについても触れている。男の子は、生身の人間を描かない代わりに、人間よりも強いウルトラマンや仮面ライダーなどのキャラクターを描くのだ。どんなキャラクターが描かれるかは、流行の影響を受けるので、その時代によって変化するが、変わらないのは、彼らが生身の人間よりもはるかに強い存在だということである。男の子は強いキャラクターに憧れる。恐らく男性ならば誰しも子どもの頃、強いキャラクターに熱狂した覚えがあるだろう。私の幼少期は、鉄腕アトムと鉄人二十八号の全盛期であり、私もご多分に漏れず彼らの大ファンで、毎日のように数えきれないほどのアトムや鉄人を描いた。当時は、アトムや鉄人をそれらしく描けることが、絵を得意とする男の子のステータスだった。


小学2年生の男の子の描いたデストロイドモンスター。デストロイドモンスターは、テレビアニメに登場する架空の兵器。下に小さな人間がいる。

 男の子は、人間よりはるかに強い存在に憧れ、その姿を描くことに喜びを覚え、自己同一化するのである。描いている時の男の子は、かなりの程度でこのキャラクターになりきっている。それは、女の子が着飾ったかわいらしいキャラクターを描くのに対比される。そして、男の子が好んで描く、スピード感あふれる乗り物も、強力な武器も、男の子が自己同一化するイメージと捉えて差し支えないだろう。それほどに男の子は強さや速さに憧れるのである。男の子は時に戦争の場面さえも描く。そこには、戦う性としての男性性の特徴が如実に表れている。皆本先生は、この時期の男の子が自然物を描かず人工物を描くことを指摘しているが、男の子の描く、速く強い人工物とは、男性を突き動かす男性性のエネルギーそのものが、かつての男性の権力者や発明家、技術者によって構想され、具体的な形を与えられたものといってよいだろう。自動車はおろか、戦車や戦闘機、ミサイルやロケット、様々な武器、核兵器のような大量破壊兵器でさえも、男性性のエネルギーが具体化された形態ということができるのだ。言ってみれば、人類に内在する男性性こそが、男性性そのものに形を与えて、これらの姿を創造したのである。これらのイメージは、六道輪廻の世界でいえば、阿修羅道、つまり戦いに明け暮れる世界や、その結末としての地獄道に繋がるイメージである。阿修羅道は本来、神々の戦いにそのルーツをもっているが、仏教の世界観では、このような戦いのイメージは、たとえそれが神々の戦いであっても、迷いの世界(輪廻)の中に位置付けるのである。男の子の自由画に現れる戦いのイメージについては、改めて論じてみたい。


小学2年生の女の子の自由画。お花畑にパターン化した色とりどりの花が咲き、蝶々が装飾的に描かれている。

 さて、女の子の絵に欠かせない花のモチーフも、楽園的要素として特に重要なものである。先生のデータでは、五歳児の女の子の57.0%が自由画の中に花を描いたのに対し、男の子は7.2%しか描かなかったという。先生が大学生を対象に集めたデータでは、女子学生の43.3%が花を描き、男子学生の7.4%が花を描いた。大学生の場合、自由画のデータをとるのが難しいので、先生は、まず自由に物語をつくってもらい、それに絵を付けてもらう方法でデータをとっている。

 花は、生涯を通して女性が最も好むモチーフである。皆本先生は「花は幼児から成人まで変わらず、女性画と親密な関係を持ち続ける」とし、紀元前1500年頃に描かれたクレタ島のミノス宮殿「王妃の間」の花弁文様の壁画装飾を例にとり、古代から女性の衣装・装身具・調度品のモチーフとして花が使われていたことを指摘する。絵画以外でも、花が最も普遍的な女性の衣装を飾るモチーフであり続けていることは誰もが認めるところだろう。今日でも多くの女性は、自らや自らのいる空間を、花で飾るのが好きだ。

 5,6歳の女の子の描く花を見ると、その描写はパターン化しており、決してリアルなものではない。皆本先生は、日本とケニアの女の子の絵を比べて「少女たちが描く花には、大別すると、上端にいくつかの山があるチューリップ型、中心の円を数枚の花弁が取り巻いているひまわり型の二種類」があることを見いだした。そして、この二種類のパターンはどちらの国の小学校の子どもたちにもまったく同様に現れるのだという。そして、「どうやらこの二種は花の典型、象徴で、つまりすべての花を代表する形のようです。このパターンは4〜5歳頃には自然に出現します。おそらく世界中の少女たちが共有する生得的能力なのでしょう。」と述べている。

 2歳年上の姉と3歳年下の妹がいた私は、子どもの頃、パターン化した花をしばしば目にしていた。特に2歳年上の姉とは、競うように絵を描いていたので、姉が花の絵をいとも簡単に描くのを、よく見ていた。私には、どうして姉が花の姿をあんなに易々と描けるのかが不思議でならなかった。ただ私は、姉の描く花は素直にうまいと感じてはいたが、その形はいかにも単純すぎるとも感じていた。姉には、皆本先生が指摘するように、外界の花をリアルに描こうという意識はなく、自らの内面にある花のイメージのままに描いていたのであろう。ところが私はといえば、姉が花を描くのを見ていても、自分で花を描こうなどという気持ちはさらさらなかった。一般に、男の子が積極的に花を描くことはほとんどない。たとえ花を描くことがあっても女性のように軽やかに描くことはできない。パターン化していない男の子の花はリアルにもなりきれず、くちゃくちゃした拙さがつきまとう。

 絵を描くこと以上に日常的な美意識が反映する服飾に目を転ずれば、先生が指摘するように、花柄は、古来、世界的にも女性の衣装デザインの最もポピュラーなモチーフだった。初期ルネサンス期の画家、サンドロ・ボッティチェリの描いた「春(プリマヴェーラ)」では、愛の女神ヴィーナスの傍らで、ニンフのクロリスが春の訪れを告げる西風のゼフュロスに触れられて(結婚して)、口から花がこぼれだし、花の女神フローラに変身する様が描かれる。フローラは、全面花柄の美しいドレスに花飾りをつけ、あたりにバラの花をまきながら歩を進める。ゼフュロスの青黒く不気味な姿に比べると、堂々としたフローラの華やかさ、美しさは眩いばかりに魅惑的だ。ボッティチェリは、花々の装飾をまとう女性の姿で、花の女神であり、春の女神でもあるフローラの楽園性を見事に表現している。


サンドロ・ボッティチェリ「春(プリマヴェーラ)」(1482頃)右側部分
画面中央に立つヴィーナスの右側には、ニンフのクロリスが西風ゼフュロスに触れられて花の女神フローラに変身するさまが描かれている。クロリスが、西風のゼフュロスとの結婚によって、花に溢れた楽園性を身につける表現が興味深い。(ウフィツィ美術館蔵)

 日本の着物もまた花柄の宝庫である。特に、日本の花嫁衣装が、フローラのドレスの如く花のモチーフで溢れていることは言うまでもない。ふわりとした洋装のウェディングドレスもまた花のモチーフと重なるイメージである。“花嫁”という名称も含めて、女性と花と楽園、そして結婚というものとの関連性をも物語るものだろう。

 端的に楽園を表すモチーフである花とともに、開花の結果としての結実、つまり果実もまた、楽園を示すモチーフとして重要である。エデンの園では、花ではなく果実の存在が強調されている。中国の伝説の楽園、桃源境は、ピンク色の桃の花とたわわな果実が共にイメージされる世界であり、そこに、秘境の平和で豊かな人間の営みがオーバーラップする。そして、先生によれば、自由画で果実を描くのもやはり女の子である。女の子の絵に登場する果実は、多くが赤く丸いリンゴのような果実で、一般に認知されているエデンの園の果実のイメージと重なるものだ。『創世記』には知恵の木の実がリンゴだという記述はないし、聖書の舞台である中東ではリンゴは育たたないという。ところが後世、知恵の木の実はリンゴだとする考えが一般に流布したのである。ルーベンスとブリューゲルの描いたエデンの園の知恵の木の実はやや赤く色づき始めたリンゴであった。ルーカス・クラナッハ(父)の描いたエデンの園の果実は赤く色づいている。今日の、宗教の影響を受けていない女の子が描く果実が、ほとんどリンゴのように見えるのもとても興味深い。リンゴは、人類がイメージする果実の典型なのかもしれない。


北京の小学1年生の女の子の自由画。赤い実のなる木と蝶々、小鳥が描かれる。 

 幼児の自由画で男女の出現率に差のある特徴的なモチーフとして、他に皆本先生は、蝶をあげている。蝶の出現率は、女の子では23.4%なのに対し、男の子ではわずかに3.2%である。ひらひらと美しく舞う蝶の姿は、強いものを好む男の子にとっては、いかにもか弱く、描くべき興味の対象とならなくても、女の子にとっては、優雅で美しい身近な生き物として、特別な親近感を感じる存在なのだろう。蝶の文様は、すでに奈良時代には中国から伝わっており、平安時代には、有職文様としても用いられていた。蝶は、歴史的にも、そのひらひらと舞う姿ゆえに、死者のたましいを表すものとして、不死や再生などと関連付けて語られる場合が多かったようである。今日でも、死者が蝶の姿で生者のもとを訪ねてくるという話は、遺族により、しばしば強い確信を持って語られる。そこには、ヒエラルキー的発想をベースとした生まれ変わりの思想である輪廻思想とは別次元の、生死を越えた生き物と生き物との大らかないのちの通い合いを感じることができる。それは、人類にとって蝶が、太古から、親しき隣人として認識されてきたことの表れだろう。そのことを、多くの女の子たちが描く蝶は教えている。


ルーカス・クラナッハ(父)「アダムとエバ」(1526)
官能的な作風で知られるクラナッハ(父)は、このテーマを何作も描いている。エバから赤く色づいたリンゴを手渡されたアダムは、いささか困惑気味に見える。(コートールド美術館蔵)

 さて、ひとつひとつモチーフを追いながら女の子の絵に現れた楽園世界をたどるうちに、今回の字数が尽きてしまったが、次回も引き続き、女の子の自由画に現れた楽園世界について、考察を加えていきたいと思う。

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著者略歴

  1. 若麻績敏隆

    善光寺白蓮坊住職・画家。日本仏教看護・ビハーラ学会会長。
    1958年、長野市生まれ。1982年、東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。84年、同大学院修士課程修了。87年、大正大学大学院仏教学コース修士課程修了。94年、善光寺白蓮坊住職に晋山。2012年~14年、善光寺寺務総長。日本橋三越本店、大丸東京などでパステル画による個展多数。
    主な著書:『パステルで描くやすらぎの山河』(日貿出版社)、『浄土宗荘厳全書』(共著、四季社)

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