人は死んだらどこへ行くのか
「人は死んだらどこへ行くの?」
僧侶である私は、中学校時代の同級生から、以前にこのような質問を受けたことがある。
私は、長野善光寺の一山寺院(塔頭)で生まれ育った。地元の高校を卒業後は、仏教系の大学には進まずに東京藝大の絵画科に入学して日本画の実技や美術史などについて修士課程まで学び、その後、大正大学の修士課程で仏教学を学んだ。私の属する浄土宗では、宗門大学以外の大学を卒業した学生に対して、僧侶の養成講座を開講しており、それによって僧侶になるのに必要な知識と行を修めることができる。そこで私もそれを修めたのだが、この養成講座で初めて学んだ初期仏教と浄土宗の教義の差異に愕然とし、この教えを自分のものとするには、もっと仏教について深く学ばなければならないと思ったのである。藝大で仏教美術やキリスト教美術について学んでいたことも、仏教を改めて学びたいという思いに繋がった。
現代の日本には、様々な宗教が存在するが、それらの宗教の説く来世観は皆異なっている。家族がそれぞれ違う宗教を信仰していたら、死後は別々のところへ行ってしまうのか、というのが友人の素朴な疑問だった。仏教でも浄土教系の宗派であれば死後は極楽に往生すると説くが、禅宗や日蓮宗系の宗派は極楽を説かない。宗教の違うキリスト教や神道もまたもちろん説き方は異なるだろう。やはり、宗教、宗派が異なれば、みんな死後は別々になってしまうのか。そもそも教義の体系が異なるのだから、死後についての考え方が違っても仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、現実にそれが家族の中でおこったらどうなるのかという友人の疑問と困惑は、宗教の抱える本質的な問題を露わにするものだった。
かつて、こんなこともあった。ある友人の付き合っていた女性が両親から「結婚するなら同じ宗教を信仰している人でないとだめ」だと釘を刺されたというのである。その女性の両親はキリスト教の新興宗教の信者だったそうで、その教えでは、その宗教の信仰を持っていないと、死後に天国に入ることが出来ない。だから夫婦の両方が信者でないと死後には別れ別れになってしまう。そこで、彼女は、結婚は同信の人とに限ると忠告されたのである。彼は大いに悩んでいたが、結局、彼女とは別れてしまった。
私の属する浄土宗は、死後の極楽往生を説く宗派である。極楽へ生まれたいと願い、阿弥陀仏の本願を信じて「南無阿弥陀仏」と念仏しさえすれば、必ず、極楽へ往生できると説くやさしい教えだ。浄土宗では、念仏以外の行でも極楽に往生できるとしてはいるが、念仏こそが最良の極楽往生の道である。先ほどのキリスト教の新興宗教のように、その信仰が無ければ天国に入れないと明確に断定はしていなくとも、念仏の有無が極楽往生できるか否かを左右する重要な条件である。それでは、今や国民のかなりの割合を占める特定の宗教や宗派への帰属意識が希薄な人たちは、いったい死後どこへ行くのか。それについて、前述した新興宗教ならば、天国には入れないと明言するだろうが、日本の既成仏教各宗派は、はっきりとは語らない。
さて、ここで私の生まれ育った長野の善光寺についてもお話しておこう。善光寺は、昔から、「遠くとも、一度は詣れ善光寺、導き給うは弥陀の誓願」と御詠歌に詠われるように、参拝した者の極楽往生を約束する寺として信仰をあつめてきた、まさしく極楽の寺である。寺伝によると善光寺は、欽明天皇の時代、百済から伝えられた、わが国最古の仏像を本尊とする寺で、皇極天皇三年(六四四)の創建以来、千四百年近い歴史を持っている。善光寺の本尊は、善光寺如来ともいわれ、一光三尊、つまり一つの舟形光背の前に三尊仏が並び立つ形式を持っている。この仏像は、その後、秘仏になったので、現在はその姿を直接拝することは出来ないが、「善光寺縁起」ではこの三尊仏を、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩で構成される阿弥陀三尊像であると伝えている。この仏は、平安時代後期には、浄土信仰の隆盛とともに中央にも知られる存在となり、鎌倉時代になると、幕府の庇護や善光寺聖とよばれる僧たちの布教によって、その信仰は全国へと広まった。
数年前に各地の寺社の御利益が世間で話題になった時、テレビ取材の人から、「善光寺はどんな御利益のあるお寺なんですか?」と問われたことがある。質問した方は、商売繁盛とか、学業成就とか、厄除とか、そういった現世の御利益を期待したのだろうが、私が「そうですねえ。一番には極楽往生でしょうか。」と答えると、「えっ?」と言って一瞬言葉を失った。あまりにも予想外の回答だったのだろう。善光寺では、今日でも多くの方たちが亡き人の追善供養を行う。それは極楽の寺、善光寺の重要な役割だ。しかし、最近は、家内安全や厄除祈願など、現世の利益を祈願する人の比率が高くなっている。祈願の際に善光寺では回向文に必ず「現当二世安楽」と加え、現世と当来世の安楽(極楽往生)を共に願うのだが、今日の参拝者の思いは、現世の安楽の比重がずっと高くなっているのだろう。
一方、本堂の建築を見れば、善光寺が何よりも極楽往生をこそ願う寺であることは明らかである。現在の本堂は、今から三百年ほど前の宝永四年(一七〇七)に再建されたものだが、間口に対して奥行が深い撞木造りとよばれる独特な建築様式は、中世以前の善光寺の姿を伝えるものだと考えられている。南面する正面向拝から入堂すると、内部には板敷きの外陣から畳敷きの内陣へと続く天井の高い、広大な空間が参拝者を待ち受ける。この空間で参詣者の目に最初に飛び込んでくるのは、正面の欄間に燦然と輝く来迎の二十五菩薩像である。意匠化された雲と共に、蓮台に乗って楽器を手にとり踊りながら来迎する菩薩たちの姿をつぶさに見ていくと、向かって左側の区画の中央に誰も乗っていない蓮台が一基あることに気が付く(写真)。善光寺では、この蓮台を、善光寺に参詣した人が亡くなる時に乗って極楽往生するために空けてあるのだと説明している。
内陣からさらに奥の間を内々陣といい、ここでは毎日の法要が営まれる。その奥、向かって左側が瑠璃壇で、普段はお戸帳が下がったその奥のひときわ高いお厨子の中に御本尊が安置されている。また向って右側の三卿の間には、御開山親子の木像が安置されている。内々陣の右端を進むと、戒壇巡りとよばれる暗闇の回廊の入口がある。この回廊は、御本尊の安置される瑠璃壇直下の床下を巡るもので、その中ほどには〝極楽の錠前〞とよばれる法具が設えられている。参拝者はこの〝極楽の錠前〞を探り当てることで秘仏本尊と結縁し極楽往生が約束されるのである。かつては、この回廊を藁ぞうり(戒壇ぞうり)をはいて廻り、仏との結縁の証としてこれを持ち帰り、亡くなるときには自分のお棺に入れる風習があった。
天保十二年(一八四一)、九州筑前から仲間と連れだって、伊勢、善光寺、日光、江戸へと旅した商家の御寮さん、小田宅子さんの日記である『東路日記』からは、江戸時代後期の善光寺参詣の様子を知ることができる。この日記は、近年、田辺聖子さんの著した『姥ざかり花の旅笠―小田宅子の「東路日記」』で広く知られることになった。江戸時代の参拝者は、善光寺に到着し、宿坊で風呂と食事をとった後は本堂内陣でお籠もりをするのが慣習だった。宅子さんたち一行は、善光寺に到着しその日は宿坊に泊り、翌日朝から本堂に参拝し、先祖の供養をして、戒壇巡りは三度巡った。宅子さんの詠んだ歌からは、参拝を果たした彼女の静かな法悦が伝わってくる。
「たらちねのためにたむくるともしびのうちにも見まくほしきおもかげ」
「もらさじのみだのちかひにまかせてん露のこの身のつみおもくとも」
この日の夜、一行は、本堂にお籠もりをした。宅子さんはお籠もりの様子をこう綴っている。
「その夜は、人みな、御法の声とともにあかしぬ。/きくらんとおもへばうれしなき親もなき子もなきてとなへけるなを/かく広き寺のうちに、国々の人いくらといふ数をしらず。夜も八ッといふころは、あなたこなた、声立ててなくもあり。またそれをいさむるもありて、哀なり。」
宅子さんにとっての善光寺は、死後の極楽往生を約束してくれる生身の如来の在す霊地であるとともに、あの世(極楽)へと繋がる場所であり、懐かしい死者と出会える場所でもあった。宅子さんの時代、西国巡礼や四国遍路などと同様に、善光寺道とよばれた参詣路を自らの足で歩いて参拝する体験全体が〝善光寺まいり〞であり、時には急峻な山道を辿り、様々な苦難を乗り越えてはるばるやってきた人々は、この地で、後生への確かな安心を得たに違いない。
私たち一般的な現代人は、極楽往生についてかつてほど関心を持っていない。現世至上主義の現代人にとって、今日の暮らしこそが重要であって、普段から、来世のことに心を寄せる人など殆どいない。しかしどうだろう。現代人にも死苦は必ず訪れるし、ひとたび、死の足音が聞こえれば、自らの行く末に不安を覚えない人はいまい。ところが、極楽について理解したいと、根本経典である『浄土三部経』を紐解いたとしても、その教えが直ちにストンと腑に落ちる人は恐らくほとんどいないのではないか。科学的思考に慣れた頭でっかちの現代人にとって、仏典の内容や宗派の教義を素直に受け入れるのはたやすいことではない。何を隠そう、私自身がそうであった。
仏教には、方便という考え方がある。釈尊のさとられた法、つまり真理は、それそのものを、ことばで説くことが出来ない。その真理へと人々を導くために、何らかの手段を用いてあえて表現することを方便という。それは夜空に浮かんだ月を真理になぞらえたとき、それを指し示す指に喩えられる。指は月(真理)そのものではないが、それによって他者に月(真理)のありかを知らしめることが出来るのだ。文字で記された経典は、究極的にすべて方便である。極楽往生という教説もまた方便だ。その方便によって、いかに真理に近づくか。それはすなわち、生老病死という人間の根本苦を超克することでもある。極楽の教えにも、これらの苦を乗り越え、真理に至るための智恵が込められているはずである。
私は、藝大で学んでいた頃、カール・グスタフ・ユングの神話に対する考え方に共感をおぼえた。ユングによれば、神話は、集合的無意識の領域にある人類共通のイメージに根ざしている。その後、大正大で仏教を勉強し始めてから私には、極楽のイメージもまた集合的無意識に根ざした宝石のような知恵が込められているに違いないという考えが頭から離れなくなった。そして、あることをきっかけに、極楽のイメージの中に、教義だけではなかなか思い至れない生き生きとした豊饒な世界が横たわっていることを知らされた。「人は死んだらどこへ行くのか」という友人の問いも、教義にことさら拘泥せずイメージの世界から極楽にアプローチすることで、私なりの解決ができるかもしれない。
この連載では、極楽の寺に生まれ、仏教と美術というふたつの分野に関わりをもってきた者として、極楽とは何なのかを、特にイメージの世界から考えていきたい。
『春秋』2018年4月号