極楽はどこにあるのか
極楽を説く根本経典として『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』は、浄土三部経とよばれ、日本の浄土教において特に重んじられてきた。これらの経典のうち『無量寿経』と『阿弥陀経』は、一世紀頃にインドで成立したといわれ、『観無量寿経』については、四、五世紀に、中央アジアで成立したと推測されている。 極楽の教えが、釈尊の滅後五百年以上も経ってから編纂されたという近代仏教学の成果を最初に知らされたとき、私は大きなショックを受けた。浄土宗では、信仰上、極楽はあくまで釈尊によって説かれたものという立場を、現在もとっている。それは、長い伝統の上に成り立つ仏教の宗派として当然のことといわねばならない。しかし、一方で、私個人としては、近代仏教学の成果は決して無視できるものではなく、たとえ、極楽の教えが釈尊の直説ではなかったとしても、なお、それを奉ずるだけの、自分なりの理由、根拠を構築する必要があった。
そもそも、釈尊の見いだされた法(真理)は、釈尊が創作されたものではない。それは、この宇宙に、あるいはすべての人の心の中に、普遍的に内在する原理とでもいうべきものであり、それを見いだしたならば誰もが仏陀となれるというのが、仏教の基本的考え方である。であるから、釈尊以前にも仏陀は出現したし、釈尊の後にも仏陀は現れるとされた。そうであれば、大乗経典を生み出した人々の境地が仏陀の領域に達していたならば、その教えもまた仏陀の教え、仏教とよんで差し支えないことになる。
大乗経典を編纂し、大乗仏教の流れをつくった求道者たちは、仏陀とよんで差し支えないほどの高い境地に達した人々であっただろうと私は考えている。しかし、彼らは自らを仏陀とは表明せず、新たな教えを伝えるために、あくまで釈尊の説いた教えとして説く手法を用いた。もちろん、彼らには、その新しい教えが、釈尊の教えの本質を伝えるものだという確信があったのだろう。当然、大乗仏教は、それまでの伝統的な仏教側からは非仏説として批判された。しかし、今日では、伝統的な仏教の経典である初期経典類であっても、そのすべてが釈尊の直説とはいえず、歴史上の釈尊のことばは、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』など一部の経典のなかに見出せるのみだといわれている。
私は、今日伝わっている仏教という宗教は、釈尊を源流とする、真理を求め苦の超克を目指す人々、あるいは衆生救済の利他心に燃える人々の、思索と実践の大河だと考えている。仏教は、歴史的存在の釈尊を開祖としながらも、釈尊という個人的人格を超越した多くの求道者の智慧の集積というべきであり、大乗経典は、ユング的にいえば、人類の集合的無意識の中の、神とか老賢人のような超人的で象徴的な存在としての釈尊によって説き出された教えといえるのではないか。恐らく歴史上の釈尊は、極楽を説かなかっただろう。しかし、極楽は、神話の領域に在す釈尊の教えとして、仏教の中で大きな流れを形成していったのである。
それでは、極楽が経典に実際にどのように説かれているのかを、浄土三部経の記述から見ていきたい。
極楽がいかなる因縁によって成立したかについて説いているのは、『無量寿経』巻上である。それによれば、はるか昔、この世に世自在王如来がおられたとき、一人の王がいた。この王は、世自在王如来の説法を聞いて感銘を受け、王位も国も捨てて出家し、法蔵と名乗った。求道者(菩薩)となった法蔵は、世自在王如来のようにさとりをひらいて、すべての人々を救いたいと思い立ち、自らの浄土(仏国土)を開くために、他の様々な浄土の姿を説いて欲しいと如来に懇願する。如来は、二百十億もの浄土の有り様を示し、菩薩は、五劫を要して、それらの浄土の優れた特徴を取り入れた、より見事な浄土の荘厳と、それを実現する清らかな行について思惟した。そして、四十八の誓願を立て、それを成就するべく、とてつもなく長い時間の修行に入った。この修行は、釈尊在世から十劫昔に成就し、法蔵菩薩は阿弥陀如来となって極楽を建立されたという。
経典の記述から極楽を理解しようとする私たちは、この極楽の成立譚からして、おとぎ話のような言説に向き合うこととなる。この神話を子どものような純真さで史実として受け入れることができるならば、何も言うことはない。しかし、現代人の多くは、私がそうであったように、この神話をすんなり受け入れることはできないだろう。もともと、極楽往生の教えは、易しい行の教え(易行道)だが、信ずるのが難しい教え(難信の法)だと言われる。ただ、もしこれを単なる作り話としてはなから退けてしまえば、この神話に内在するであろう奥義に近づくことは出来ない。極楽とは何かを求める私たちは、この神話に込められた意味をこそ、探らなくてはならないのだ。これに関しては、いまここでは、詳しくは述べないが、法蔵菩薩の修行によって極楽が出来上がったという教説は押さえておきたい。
次に、極楽のありかについて経典の語るところを確認しよう。『無量寿経』や『阿弥陀経』では、極楽は、「西方十万億仏土」つまり、私たちの住む娑婆世界を一つの仏国土として、それを西の方に十万億置いた距離の彼方にあるとする。浄土宗では、「指方立相」といって、極楽は、西の方角に(指方)、具体的なすがたを持って(立相)存在するという立場をとっている。それに対する考え方として、「唯心の浄土、己心の弥陀」つまり、浄土も阿弥陀仏も実は、己の心が作りだしたものであり、己の心そのものだという立場もある。現代的な知性からすれば、この唯心浄土説は一見理解しやすい。西方に存在するといっても、地表面を西にどんどん進んでいけば、地球を一周してまた元へ戻ってしまうし、ひたすら直線的に西の方角を求めれば、そのベクトルは、地球の自転と公転によって宇宙の彼方を移動し続けて、一地点を指し示すことは出来ない。しかし、唯心浄土説のみをもって極楽を理解しようとするならば、経典が、なぜ、西方と定めて華やかな荘厳をもつ浄土があると説くのか、そもそもの理由が明らかにできない。
もう三十年ほども前のことだが、私にはこの「指方立相」の「指方」ということについて忘れられない思い出がある。その時、ある温泉旅館の会議室で「指方立相」を現代人にどう説くかという話し合いが行われていた。実は、詳細な議論については覚えていないのだが、恐らく、なぜ極楽は西方にあるのかということが教義上から話し合われていたように思う。しばらく時間が経過した頃、ふと、窓の外に目をやると、そこには、今まさに煌々と光芒を放ちながら、山なみの彼方へと沈もうとする太陽の姿があった。一日の最後の輝きを放ちながら沈んでいく太陽の、厳かな姿に感動を覚えながら、その時、私は、極楽の存在する方角が西方でなければならないわけを、啓示のように受け取った。その根本的理由は、経典の中に求められるものではなく、だれもが抱くであろう、この日没の感動にこそあると私は直感した。
かつて人間は、太陽は毎日、朝、東の彼方に生まれ、夕方、西の彼方に死ぬという観念を持っていたという。西方に死後の楽園があるという信仰は、極楽だけではなく、例えばギリシア神話でも、エリュシオンは西の彼方にあると考えられている。一方で、エジプトでは、死者の楽園アアルを東方の彼方とし、沖縄のニライカナイも東方にあると考えられている。これらは、太陽が西に沈んでも翌朝には東から復活することと、死者のいのちが楽園で復活することを重ね合わせたのであろう。世界各地の死者の楽園のありかには、太陽の運行が大きく影響したようである。
今日、私たちは、日の出や日の入りが地球の自転によって生ずる自然現象であることを知っている。しかしこのような知的理解によってその感動が消滅してしまうことはない。この感動は、私たちの心が大いなる宇宙リズムと一体となることからもたらされる非常に原始的な宗教体験だといえよう。私たちが日常的に体験する自然現象の中でも、特に、日の出と日の入りの光景は、小さな自我を超えた、大いなるいのちの世界に、私たちの心を導く力を持っている。毎日繰り返されるこのドラマは、太古から人々の心を捉え、その想像力をかき立てて、宗教や芸術の分野で様々な表現が生まれるきっかけとなった。その表れの一つが『観無量寿経』に説かれる極楽を観るための最初の瞑想である日想観だ。太陽が西に沈む姿を観ずることから入るこの瞑想は、ついには極楽の絢爛豪華な荘厳へと修行者の心を導いていく。
話は極楽から離れるが、私は、大学で絵画を学んで以降、主に身近な自然風景をモチーフとして絵を描いてきた。大学を出て間もない頃、描くべき風景を探していた私に、知人の写真家が、「カヤノ平に行ってみるといい」と教えてくれた。そこは、長野県北部にある見事なブナの原生林が広がる平坦な高地で、私は一目でその景色の虜になり、それから何度もこの地を訪れた。ある時、明るい草原に腰を下ろし鬱蒼とした森をスケッチしていた時のこと、突然、私の心を、目の前に広がる森に吸い込まれるような感覚が襲った。そして、森に対する強烈な憧れと、身震いするほどの大きな恐れという、全く相反する感情がわき起こった。その時、私は、私の感得した、この得体の知れない何者かこそ、私たち人間が太古から感じてきた神のイメージだと直感した。後になって、この体験は、宗教学者のルドルフ・オットーが「ヌミノーゼ」とよんだ原初的な聖なるものの体験であることを知った。
「ヌミノーゼ」のような特別な概念を知らなくとも、私たちは、自然の中に人智を越えた大いなるものの存在を感じる瞬間がある。恐らく、日の出や日の入りの光景に一度も感動したことのない人はいないだろう。落日の厳かさの余韻を引いた黄昏時も、去来する憧れや郷愁、希望、不安、畏怖、感謝、惜別といった様々な思いに心揺さぶられる一時だ。厳しい修行をした行者や特別な能力を持った人ではなく、ごく普通の人でも感じられるそのような感動こそ、極楽の瞑想の最初のステップには相応しい。思えば太陽もまた、私たちのいのちを育んでくれる最も大切な存在であると同時に、一方で灼熱の太陽は干ばつを引き起こし、晒される生物にいのちの危険さえもたらす恐ろしい存在である。私たちに恵みを与えてくれる存在でありつつ、私たちを蝕む恐ろしい面をも持つ両義的な存在だからこそ、私たちはそこに神的なものを感得して畏れ崇めてきたのだろう。極楽が西方十万億仏土にあるという教説は、太古から人類が感じてきた落日の感動と太陽への畏敬の念をその教えに内包している。落日の彼方に憧れの楽園があるという信仰は、科学的な知識を持たなかったかつての人々にとって、現代の私たちよりも、ずっと受け入れやすいものだったに違いない。
さて、『観無量寿経』では、極楽について、「去此不遠」(ここから遠くはない)と説く箇所がある。いわゆる「王舎城の悲劇」として知られる物語でのことである。王舎城の頻婆娑羅王は、悪友の提婆達多にそそのかされた息子の阿闍世太子によって、七重の壁を巡らされた部屋の中に幽閉される。そして、ひそかに王に食物を運び続けた韋提希夫人もまた囚われの身となる。韋提希の窮地を察知してその現前に姿を現された釈尊は、韋提希の求めに応じて、頭上の金色の台に、苦しみや憂いのない清らかな仏国土をいくつも出現させて見せる。夫人は、その中でも特に阿弥陀仏の極楽にこそ生まれたいと願うが、この時、釈尊は、「そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏のおられるところがここから遠くはないことを」と夫人に告げるのだ。続いて釈尊により説き出された日想観に始まる観想によって、極楽とそこにおられる阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の姿を目の当たりにした韋提希には歓喜の心が生じ、大いなるさとりの境地に到達したという。
この教説によれば、極楽へと生まれたいと願い心を向ける者にとっては、極楽は遙か遠い存在ではない。これは極楽の教説の唯心浄土的な側面を示している。そして、極楽の姿を目の当たりにした韋提希が、この世において苦悩を超克し、安心を得たことも重要である。死後の楽園として説かれる極楽のイメージが、この世においても覚知できるものであり、現に生きている私たちにも救いをもたらすイメージであることを示すものだからである。
『春秋』2018年5月号