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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

伝説の黄金郷を探して

 

 休日になるとよく山に登る。山と言っても、標高350メートルほどの小さな低山で、上り下りに三時間ほどしかかからない。高雄は西南に大きな国際貿易港と軍港を備え、それを巨大な掌で包み込むように、旗後山、寿山、亀山、半屏山というなだらかな山々が途切れ途切れに連なっている。普段は左営旧城近くにある半屏山に登るが、一回り高い寿山に登ることもある。戦時中、日本軍は台湾各地に多くの軍事施設を建設したが、街の喧騒から隔絶された山中では、今でも当時のトーチカや地下壕を見ることができる。

 「知り合いがさ、お宝を発掘するために政府に申請書を出したんだ」

 半屏山の山頂では、登山客たちが歓談していた。「やっぱり本命は寿山かな?」彼らが何を話しているのかすぐに分かった。戦後の台湾では、日本軍が莫大な埋蔵金を山中深くに隠していったという噂がまことしやかに流れ、新たな地下壕などが見つかる度に埋蔵金伝説が再燃していたのだ。

 「おい、そこの日本人に聞いてみろ」顔見知りの男が意地悪げに僕に目をやった。

 「国家機密だよ」ぼくの皮肉に男は声をあげて笑い、いずれ寿山も「半」屏山と同じように半分の大きさになるだろうなと言った。

 左営では有名な話だった。その昔、半屏山の麓に現れた老人が、湯圓タンユェン(もち米粉で作った団子)を「一碗六文、二碗無料」で売り出した。人々は当然二碗頼んで、頭の足りない老人をバカにした。しかしある日、無欲な若者が湯圓を一碗だけ頼むと、老人は清廉な彼を褒めて、他の客が口にしたものが実は半屏山の土くれだったと白状したのだ。見上げれば、半屏山は今のようにすり鉢状になっていたとか。

高雄市左営区の半屏山

 

 この島では、古来から黄金などの財宝が隠されているという伝説が絶えなかったが、最初にそれに目を付けたのは大航海時代のオランダ人だった。

 1624年、世界初の株式会社と言われるオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie、以下VOC)が、当時「大員」と呼ばれていた台南市安平区に進出、この入り組んだ港町をバタヴィア/平戸間を繋ぐ中継拠点に定めた。大員にはもともと平地原住民であるシラヤ族が暮らしていたが、VOCは新港社(台南市新市区)のシラヤ族と同盟を結び、その圧倒的な火力でもって近隣の集落を次々と制圧していった。新港社の人々に文字と聖書を与えて馴化しようとしたオランダ人であったが、その迷える子羊たちの胸に、黄金で作られた首掛けが掛かっていることに思わず目を丸くした。

――貴様らはこれをどこで手に入れたのだ?

 マスケット銃を担いだ植民者たちは目の色を変えて迫った。もしかすれば、これはスペイン帝国を支えた南米大陸のポトシ銀山に相当する大発見かもしれない。ベネツィア生まれの商人が語った黄金の国ジパングはまったくのホラ話であったが、16世紀に広まった「黄金郷伝説エル・ドラード」はいまだ外地を彷徨う植民者らの胸を熱くする話題だった。それがいま、目の前に確かな証拠としてぶら下がっていたのだ。

――よく知らない。ただ……

――ただ、なんだ?

――後山から来たものだと聞いている。

 それは台湾中央に聳え立つ2000~3000メートル級の山脈の裏側にある土地を指していた。雲をつくほど高いあの中央山脈を超え、東部にまで出なければならないということだ。当時の原住民族の間では、交易者同士が顔を合わせずに交換したい商品を特定の場所に置き、交易者がそれに見合った商品をその場に残していく「沈黙交易」が広く行われていた。そうなると当然、商品の産地に関しても詳しく知ることは難しかった。

 それでも、オランダ人たちは諦めなかった。なぜなら、中央山脈の南端に位置する恒春半島に伝わるある伝説がこの黄金伝説の噂をたしかに裏付けているように思えたからだ。大亀文王国に伝わる伝説では、太陽が昇るはるか東方の地に、パイワン族の祖霊たちによって守られた黄金郷があると信じられていた。ただし、神聖な黄金郷にはパイワン族しか足を踏み入れることができず、外来者は入ることが許されないとされてきた。大亀文王国とは、恒春半島北部に勢力をもっていたパイワン族を中心とした酋長社会で、VOCの資料では「フォルモサ11郡省」と記述され、清朝時代には「瑯嶠ろうきょう上十八社」と呼ばれてきた。


かつて大亀文王国があった屏東県獅子郷

 

 オランダ人たちはこの伝説に俄然色めき立った。

 1638年1月、ジョン・リンガ大尉率いる106名のオランダ兵は、大員のゼーランディア城を発った。海路で恒春半島の岬まで至ると、今度は太平洋に面した東部海岸沿いを北上していった。リンガ大尉ら完全武装した黄金調査隊は、台東県知本にある太麻里社など抵抗するパイワン族の集落を破壊しながら、プユマ族の暮らす卑南ひなん(台東市)まで辿り着いたが、そこでも黄金は見つからなかった。

 台湾東南部で大きな勢力を誇るプユマ族の協力を取り付けたVOCは、デンマーク人の医師マールテン・ウェッセリングを当地に残して調査を続けさせた。1641年9月、ヴェッセリングは不幸にも現地住民に殺されるが、黄金が卑南近辺ではなく、更に北方にある「タラボアン」と呼ばれる場所にあることを突き止める。1642年1月、VOC台湾長官パウルス・トラウデニウスは、自ら350余名の調査隊を率いて台湾東部を北上していったが、ここでもヴェッセリングを殺害した集落を討伐した以外に思うような成果は上がらなかった。翌年5月、どうしても黄金を諦められないVOCは、スペイン帝国が支配する北台湾にほど近い花蓮にピーター・ブーン大尉を派遣する。ブーン大尉はここでようやく「タラボアン」が現在の花蓮県新城郷にある立霧渓であったことを知るが、少量の砂金を発見した以外に期待した金脈は見つからず、1645年ころには黄金の探索活動を打ち切ってしまう。

 後世の歴史を知る者から見れば、彼らがさらに北上を続けていれば、北東アジア一の金山と呼ばれた金瓜石きんかせき鉱山に辿り着けていたのではないかと思うかもしれない。現在の新北市瑞芳区にある金瓜石で大量の金が発見されたのは、台湾省初代巡撫・劉銘伝りゅうめいでんによる鉄道建設が進められた19世紀末、日本時代を通じて当地はゴールドラッシュに沸くことになる。ちなみに、日本でも人気の台湾ニューシネマ『悲情城市』(侯 孝賢ホウ シャオシェン監督、1989年)の舞台となった九份もこの金瓜石の発見によって栄えた鉱山町であった。

 

 再び視点を南部に戻そう。

 黄金を発見するためにはるか東部にまで領土を拡張した結果、VOCは東西を繋ぐ陸路の建設を急ぐ必要に迫られた。細長い恒春半島の東西に広がる南シナ海と西太平洋は、無数の暗礁がある上に海流が激しく、季節風や台風の通り道としてこれまで数多の外洋船を屠ってきた場所であった。さらに、後山にはスペイン帝国の勢力圏内にある蘭陽平原あたりまで北上しなければ、大型船が停泊できる港はなかった。

――早急に恒春半島の中央山脈を超える陸路を見つけねば。

 東部へ渡ったジョン・リンガ大尉は、太平洋に面した卑南から南シナ海を望む枋寮に向けて探検隊を送った。その結果、現地に暮らすパイワン族の案内の下でいくつかのルートを発見することに成功した。そのうちのひとつが、台東県大武郷と屏東県枋寮郷を結ぶ路線で、現在「浸水営しんすいえい古道」の名で呼ばれている山道であった。

 この山道には、大亀文王国と友好関係にあったリキリキ社のパイワン族が暮らしていた。彼らからすれば、黄金に目の眩んだオランダ兵たちが自身の生活圏に土足で踏み込んでくることは決して心地よいことではなかった。植民者が抱く黄金への欲望と、異なる法治体系に基づく統治機構の確立は、やがてこの地にさらなる衝突を生み出すことになった。

 


リキリキ社があった浸水営古道。台湾の東西を繋ぐ数少ない陸路であった

 

 1657年6月、下淡水社(屏東県万丹郷)で平地原住民のマカタオ族を妻として四人の子どもまでもうけていた通訳官ヘンドリック・ノールデンが南路政務官に就任する。ドイツ生まれのこの政務官は、マカタオ語が話せる数少ない人材であったが、熱烈なキリスト教倫理の信奉者で、原住民族の偶像崇拝や自由な夫婦関係といったものをひどく憎む人物でもあった。そんな彼が南路政務官に就任して早々ある知らせを耳にした。

――リキリキ社が出草しゅっそうした。

 山地原住民の間では、敵対部族や異民族の構成員を殺害して、その首を斬り落とす行為を出草と呼んだが、そこには宗教行事や通過儀礼としての意味合いもあった。元々VOCの統治に組み込まれていたマカタオ族に強い反感を持っていたリキリキ社は、ことあるごとに出草を繰り返しては、大員から討伐軍を差し向けられていた。

 その知らせを聞いたノールデンは、すぐさま彼らを放索社に強制移住させることにした。放索社はマカタオ族が暮らす平地集落で、現在の屏東県林辺郷にあたる。すでにキリスト教の洗礼を受けていた同社はVOCの模範集落とされ、リキリキ社を同集落に溶け込ませることで、徐々に彼らを馴化させていこうとしたのだ。ところが当のリキリキ社の人々は何かと口実を設けては浸水営古道にある集落へ戻ってしまい、VOCに協力的だったマカタオ族に対して出草を繰り返した。

 1661年3月、腹に据えかねたノールデンは武装した手勢を引き連れて浸水営古道に分け入ると、そこで彼らに最後通告をつきつけた。リキリキ社の大頭目ポラロイアン・ダリソルポルは苦悩した。ノールデンの命令に従うべきか否か。集落を離れれば、大武山に眠るとされる祖霊の魂を慰める者がいなくなる。何よりも彼らは平地に蔓延する様々な病が恐ろしかった。リキリキ社の人々が感じた平地への恐れは、決して謂れのないものではなかった。実際、16世紀初頭にはスペイン人が持ち込んだ感染症によってアステカ帝国は崩壊しているし、18世紀には和人が持ち込んだ天然痘で多くのアイヌが命を落としていた。

 数日後、ポラロイアン・ダリソルポルは20名の戦士を引き連れて、平地にある加禄堂社(屏東県枋山区)に向かった。念のために、他の戦士たちも加禄堂社の周囲に潜ませることにした。加禄堂社は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。ポラロイアン・ダリソルポルらが集落の門を潜ると、すぐさま背後にいた門衛によって門が閉められた。加禄堂社はキリスト教に融和的な女性頭目によって治められていたために、VOCにも当然協力的であった。当地に駐在していたVOCの通訳官ディルク・ホルストマンがまずその来意を問うた。ポラロイアン・ダリソルポルは黙って周囲に目をやった。ノールデンがいないことを確認した彼は、ここの頭目と話がしたいと答えた。

――貴様たちが……

 ホルストマンが故意にその要求を無視して話を続けた。

――浸水営古道やまに住むことは許されていない。これ以上命令に違反すれば、わが社への敵対行為とみなすがそれでよいか?

――平地に暮らすことは祖霊の理に背くことになる。ここでは我らは病を得て死んでしまうしかない。

 ホルストマンは周囲のオランダ兵に目で合図を送った。周囲に隠れている者がいるはずだ。そのとき、従者である戦士の一人が大頭目の言葉に同調するように、己の腕と腰にぶら下げた番刀を激しく叩きながら叫んだ。

――われらが腕を、この刀を見よ! たとえ刃の下でこの身を散らしても、平地で病を得て生き延びようとは思わんぞ!

 目の前で啖呵を浴びせられた加禄堂社頭目の兄弟モランニンは思わず顔色を変えた。何と言っても、リキリキ社は平地の仲間の命を奪った仇敵であった。

――もう我慢ならねえ!

 平地の言葉で叫んだモランニンは、腰に吊るした番刀を横一線に引き抜くと、浸水営古道の大頭目に向かって飛び掛かった。

 紫電一閃、20名の戦士たちも大頭目を守ろうと腰に下げた番刀を抜いて駆けつけようとしたが、それぞれ目の前にいた敵に行く手を阻まれてしまった。加禄堂社の周囲に埋伏していた戦士たちも大頭目の危機を知って慌てて立ち上がったが、それに気付いたVOCの兵士らによって散々に追い払われてしまった。

 数日後、ポラロイアン・ダリソルポルと6名の戦士たちの首が下淡水社に戻っていたノールデンの下へ送り届けられた。VOCの公式日誌『ゼーランディア城日誌』には、大頭目ポラロイアン・ダリソルポルが、重症を負った戦士たちを最期まで鼓舞し続けていた様子が記録されている。翻って野蛮人を制圧して欣喜雀躍としていたノールデンは、リキリキ社の戦士たちの首を斬り落とした加禄堂社の人々に褒賞として大量の綿布を与えたと記されている。同日誌には、ノールデンがリキリキ社のような「頭を使わずに何の思想も持たない者はまず斬り殺さなくてはならない」ので、大員から褒賞としての綿布をもっと送ってほしいと書かれていた。

 事実、ノールデンはさらに大員からシラヤ族の戦士250名を動員して、浸水営古道に逃げ込んだリキリキ社に追撃を加えた。ノールデンのこの執拗なまでの執念と野蛮化した文明は、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』に登場して、コンゴの現地住民から神と崇められていたクルツが、その住処の周りを「謀反人」たちの生首で囲っていた光景を思い起こさせる。謀反とは主人がいて初めて成立する概念であるが、植民地における主従関係とは、謀反を「創造」することによってはじめて主のビジョンを明らかにするところにその特徴がある。

 一方、リキリキ社の人間の首を台南に持ち帰ったシラヤ族の戦士たちも長年禁止されてきた出草の儀式を盛大に行い、酒を呑んで大いに騒いだらしい。前述した『ゼーランディア城日誌』には、麻豆社(台南市麻豆区)で十数年も献身的に布教を続けてきたアントニウス・ハンブルク牧師が、キリスト教の洗礼を受けたはずのシラヤ族の戦士たちの蛮行に大いに激怒したと記録されている。しかし、彼らの「蛮性」を利用してそれを目覚めさせたのもまた文明の側であったのだ。

 

 1662年2月、38年に亘って南台湾を中心に権勢を誇ってきたVOCは、ゼーランディア城に襲来した国性爺・鄭成功の軍隊に散々打ち負かされ、台湾から撤退することになる。下淡水社にいたノールデンはわずか48名の兵士と十数名の家族を連れて後山に逃れようとするが、その道中にリキリキ社のある浸水営古道を通らねばなかった。かつて自らが手をかけた「野蛮人」たちの目の前を尾羽打ち枯らした状態で歩かねばならなかった一行は、おそらく生きた心地がしなかったはずだ。

 オランダ側の記録では、黄金郷の伝説を残した大亀文王国もリキリキ社討伐の1か月前にVOCの大軍によって懲罰的進攻を受けたと記されている。理由はリキリキ社討伐と同様、VOCに友好的な平地に暮らすマカタオ族や漢人との衝突が絶えなかったためとされている。詳しい経由については『ゼーランディア城日誌』の当該月日の記録が欠損しているので分からないが、黄金発掘とその路線確保のためにVOCがしばしば彼らの領域を度々犯してきたことへの反発が原因のひとつであったことは間違いない。


パイワン族狩人の銅像

 

 パイワン族の祖霊が眠るとされる大武山の南、恒春半島北部の山道はひどく起伏が激しかった。大亀文王国が栄えていた屏東県獅子郷にある文物館に足を運んだぼくは、そこで大亀文王国の末裔を自称する女性スタッフに当時の様子を尋ねてみた。オランダ側の資料では、確かVOCが200名の兵士を派遣して大亀文を討伐したことになっているが、当地ではどのように伝えられていたのか。大きな瞳をした女性スタッフは笑って答えた。

 「文字資料では確かにそうなってますが、vuvu(パイワン語で祖父母の意)はまた違った物語を語ってくれたんですよ」

 それは次のような物語だった。

 昔々、後山にあると信じられていた黄金に目が眩んだオランダ人らは、大亀文王国の頭目たちに黄金を探すために「道を借りたい」と述べた。しかし、頭目たちは祖霊が宿る黄金郷に足を踏み入れようとするオランダ人の申し出を拒絶する。これに激怒した大員のオランダ人は500名もの兵士を繰り出して大亀山王国に攻め入ってきた。ところが、勇敢なパイワン族の人々は、頭目の指導と巫女の巫術の力を借りてこの侵略者たちを散々に打ち破った。しかし、噂を聞きつけた心根の卑しい者たちが再び攻めてくるかもしれないと思った大亀文王国の人々は、偉大な巫女の力によって黄金郷への入り口を巨大な岩で塞いでしまったのだった。

 かくしてはるか東方の地、太陽が昇る場所にあるとされた黄金郷は永遠に見つからなくなってしまったが、それでもなお黄金の夢を求める者はいまなお絶えることがない。雲を抜く大武山の峰々を見上げながら、ぼくは帰路に就いた。あるいは、この島に聳える山々が半分に削り取られるまで、黄金郷の夢はこれからも人々の欲望を刺激し続けるのかもしれない。

 

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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