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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

清あるを知って日本あるを知らず⸺六堆客家興亡史

 暴力は怖い。腕力の弱いぼくなどは、大きな声で威嚇してくる人間にすらガタガタ膝を震わせてしまうが、脅えてしまう様を相手に見せるのも癪なので、無駄に虚勢を張ってしまう。すると相手は余計にカチンとくるので、さらに威嚇を強めてくる。しかしここで退いてしまえば、さきほどの虚勢まで元の木阿弥になってしまうので、ぼくは勝ち負けを度外視した抵抗してやるぞといった態度を示すことになる(もちろん、膝は震えたままである)。

 歩行者地獄と呼ばれるこの島で暮らして十数年、いったい幾たび交差点で鳴り響くクラクションをゴングに、「幹你娘ファック・ユア・マザー!」と威嚇してくる運転手にファイティングポーズをとったことか。たとえ虎であっても、必死の覚悟で抵抗するシカを無傷で捕えるのは難しい。よほど腹を空かしている場合でもなければ、虎を自認する者たちは、こうした弱者の抵抗を作り笑いを浮かべて見逃してくれる。もちろん、引き際を間違えればとんでもないことになるが、彼らだって暴力は怖いのだ。

 だが、世の中にはこうした駆け引きや人情などといったものが、まったく介入しない暴力もある。いわゆる国家による暴力である。かのマックス・ウェーバーは、主権国家の特徴を「合法的な暴力の独占」であると述べたが、近代国家とはまさにそれまで巷に溢れていた大小様々な暴力が、「ある一定の領域の内部」において独占された政治共同体であった。平和な生活を望む人々は、ヤクザや半グレの暴力には恐怖や嫌悪感を抱くが、主権国家の間で交わされるその数千、数万倍の火力の応酬、つまり彼らがそうした暴力を合法的に独占する事実については、不思議と許容してしまう傾向がある。

 暴力が主権国家によって合法的に独占される以前、この世界には様々な暴力が溢れていた。清朝皇帝によって治められていた台湾においても、それぞれの地域に暮らすエスニック・グループによってその規模や種類は大きく異なっていた。台湾統治に積極的ではなかった清朝の政治方針は、西部劇よろしく、この島に暮らす人々に自存自衛の社会風土を促したが、その最たる例ともいえるのが、下淡水渓東岸において結成された客家人の武装自治組織・六堆ろくたいであった。




 屏東平原に暮らす客家人が、武力をもって自立した背景には、羅漢門の鴨母王こと朱一貴の反乱がある。1721年、下淡水渓一帯で客家系移民の蜂起が起こると、朱一貴は破竹の勢いにあった彼らと協力関係を築いたが、やがてその指導者であった杜君英とくんえいと決別する道を選ぶ。ライバルを追い落として騎虎の勢いにあった鴨母王は、後顧の憂いを絶つべく自ら軍を南下させて、彼の地盤であった下淡水渓東岸に広がる客家人集落を攻撃しようとした。

 鴨母王の暴力に屈するべきか、抗するべきか?

 下淡水渓東岸に暮らす客家人は意見を交わし合った。しかし、杜君英の末路を目にしていた彼らは、閩南人が主体となったこの反乱軍に加担することなく、郷土防衛を掲げてこれを撃退することを決する。

 六堆と呼ばれるこの武装的連合組織は、右堆、左堆、前堆、後堆、中堆、先鋒堆の六つの地域からなっていた。「堆」とは「隊」を意味し、清朝初代皇帝ヌルハチの創設した八旗制度を模倣したものとも言われている。一旦外部勢力との間に抗争が起これば、各堆総理の推薦によって大総理が一名選出され、「いざ鎌倉!」とばかりに、武装した壮丁たちが中堆にある六堆忠義亭に集まって外敵を撃退した。南北に長く伸びたその連合体は、最北端にある右堆が高雄市甲仙こうせん区まで及び、最南端にある屏東県佳冬かとう郷の左堆とはおよそ90キロほども離れていた。

六堆客家文化園区入り口に掲げられている六堆旗

 

 屏東県内埔ないほ郷には、六堆結成のきっかけとなった杜君英の衣冠塚いかんづかが建立されている。六堆の位置関係でいえば、ちょうど後堆にあたる場所だ。朱一貴との権力闘争に敗れた杜君英は、遠く猫児干びょうじかん(現在の雲林県崙背ろんはい郷)まで逃れ、後に息子とともに羅漢門山中へと逃げ込んだ。清軍は命まではとらぬと再三の投降を呼びかけたが、北京に送還された親子は首を斬り落とされてしまった。生き残った杜君英の部下たちは、番仔厝ばんしさくと呼ばれていたこの土地まで逃れてくると、檳榔の木が生い茂る場所に遺品を埋めて、これを衣冠塚と称した。

 屏東平原を貫く幹線道路を走っていたぼくは、Googleマップに目を落とした。確かにここでいいはずだ。戸惑いながら古い民家の間にある細い路地裏に足を踏み入れると、小さな古墳のように盛り上がった衣冠塚が視界に飛び込んできた。裏口でスマホをいじっていた住人に見学してもよいかと尋ねると、男は軽くあごをしゃくって、退屈そうに手元のスマホをいじり続けた。

 
 逆杜君英庄界碑

 石碑に彫り込まれた文字は、杜君英の微妙な政治的立場を表していた。「逆」は朝廷に反旗を翻した逆賊を大っぴらに祀るわけにはいかなかった事情があるが、よくよく見れば、「杜」の「土」部分には「`」の文字が付け加えられていた。逆賊の汚名をきせられた杜君英の無念を慮った部下が、それを涙に見立てて刻んだものとも言われているが、真偽のほどは分からない。「勝てば官軍」と言えば凡俗に過ぎるかもしれないが、石碑に浮かぶ「`」の文字には、歴史から退場させられていった「逆賊」たちの悲憤が刻み込まれているような気がした。

杜君英の衣冠塚。杜の一字には「`」が付け加えられている 

 

 とまれ、下淡水渓東岸に暮らす客家人は、朱一貴事件を契機に、武装自治組織としての六堆を創設しただけに止まらず、朝廷と密接に結びつくことによって、自らの開拓地を「一所懸命」する政治的確約を得ることになる。鴨母王の死からおよそ10年後、台湾中部で大甲西社だいこうせいしゃ事件と呼ばれる平地原住民タオカス族による大規模な反乱事件が起こる。かつて朱一貴の部下であった呉福生は、これ幸いとばかりに当地の羅漢脚らと語らって、鳳山県(現在の高雄市)で再び反乱の狼煙をあげた。

 六堆の動きは速かった。

 彼らはすぐさま壮丁を招集して、反乱軍の六堆侵入を防いだばかりか、自ら結成した義勇軍を北上させて、呉福生の軍を打ち破る働きを見せたのだった。「三年一小乱、五年一大乱」と呼ばれるほど政情が不安定であった台湾において、六堆が義勇軍として地域の治安維持を引き受けてくれることは、朝廷にとっても大きなメリットであった。一方、六堆からしても、その暴力に政治的な正当性が加味されることは、マイノリティである自身の勢力が生き残る上で重要な武器となった。

 六堆忠義亭には「大清皇帝万歳」の神位が設けられ、その周囲には各種の反乱鎮圧や閩南人及び原住民族との「械闘なわばりあらそい」によって生命を失った義民たちの位牌が恭しく祀られた。命を落とした義民に個別の名前は与えられず、忠義亭を参拝する人々は無名兵士の忠勇に自らのルーツを求めることで、共同体内部の結束を強めていった。日本の英霊信仰にも似た祭祀形態は、やがて南台湾における弱小勢力だった六堆客家を強力な地域勢力へと変え、その暴力に公的な意味合いを持たせるようになっていった。

 


 六堆と朝廷。

 一見強固に見えた両者の関係であったが、やがてその強固さがかえって仇となる事態が発生する。

 光緒21年、日清戦争に敗れた清朝が、台湾を日本に割譲することを決定したのだ。

 朝野は騒然とした。台北では日本への割譲に反対する勢力が台湾民主国を建国、日本軍へ抵抗する構えを見せていた。しかし、物量や兵器の性能に勝る日本軍が台湾島の鬼門・澳底おうていから上陸してくると、台湾民主国総統に推されていた台湾巡撫じゅんぶ唐景崧とうけいすうら政府首脳陣は、蜘蛛の子を散らすように中国本土へと逃亡してしまった。ところが、清仏戦争でベトナムのフランス軍を破った武装組織・黒旗軍の創設者としても知られ、台湾民主国の大将軍にも任じられていた劉永福りゅうえいふくは、首都を台北から台南に遷して徹底抗戦の構えをみせていた。

 台北城を占領した北白川宮能久よしひさ親王率いる近衛師団は、黒旗軍が守る台南城へ向けて南進をはじめた。初代台湾総督・樺山資紀かばやますけのりは、「沿道の住民の良否判明せざるにつき」という理由から、ゲリラ活動に参加する住民の無差別殺戮を可とする掃蕩作戦を認可した。当時、能久親王とともに台湾占領に参加した陸軍局軍医部長・森林太郎鴎外は、後に「年少き女子の男装して戦死したるを見き」(『能久親王事跡』)と述べるなど、凄惨な戦闘の様子を書き残している。

 


 未曽有の暴力が迫っていた。

 倭寇の暴力に屈するべきか、抗するべきか? 六堆内部の意見は大きく揺れた。新竹しんちくが陥ち、苗栗びょうりつが陥ち、彰化しょうか八卦はっけ山で奮戦していた客家義勇軍の統領・呉湯興ごとうきょうも戦死した。

 降伏すべきではないか?

 倭寇に降伏などすれば、あの世の義民たちに顔向けできるか。

 ならばやるか?

 ああやる、やらいでか。

 


 住民の抵抗が思いのほか激しいことを知った征台軍は、南進する近衛師団とは別に、第二師団を南部から上陸させて、台南城を南北から挟み込む作戦を採ることにした。第二師団を率いるは、後の旅順要塞攻略で英雄となる乃木希典中将。

 乃木希典の上陸記念碑は、屏東県中部の枋寮ぼうりょう駅から海沿いの道を十分ほど北上した場所にある。週末にもなれば、屏東市内からの観光客でにぎわうこの町は、東西を海と山に挟まれているために、南北に細い管のような幹線道路と支道が伸びている。

 カタツムリの殻のような形をした記念碑の上では、数匹の台湾犬たちが退屈げに欠伸をしていた。第二師団の兵員を乗せた駆逐艦が海岸沿いに航行する様子を想像しながら、ぼくは潮騒かしましい海沿いの支道を走った。この道を北に向かえば、マグロ漁で有名な東港、そこから更に北へと進めば、インドシナ半島でその勇名を馳せた黒旗軍が待ち構える打狗たかおの軍港が視界に入って来るはずだった。

 上陸した第二師団は左堆に属する佳冬郷の義勇軍と衝突した。左堆総理であった蕭光明しょうこうめいは、自宅のある佳冬蕭家を本営に、清朝廷に仇なす「賊軍」を迎え撃った。午前中いくつかの小競り合いが続き、真っ白な太陽が中天に昇りかけた頃、日本軍の進軍ラッパの音が集落中に鳴り響いた。左堆義勇軍と楢原ならはら中尉の率いた前営隊は、蕭家が書房として使っていた歩月楼付近で全面衝突した。

 ぼくは「褒忠」と書かれた西隘門から佳冬の町をぐるりと回った。門には「銃眼」と呼ばれる鉄砲狭間が設けられ、六堆が長らく相異なる外敵との抗争の中に生きてきたことが感じられた。海岸線から佳冬蕭家まではほんの数キロしかなく、平坦な土地で起伏も少ない。野外決戦ともなれば、物量に劣る義勇軍が敗れることは明白だった。

屏東県佳冬郷にある西隘門。左堆は日本軍の上陸で最初の犠牲となった

 

 実際、路地を歩いてみると、彼らが人間の背丈よりもやや高い壁が続くこの複雑な町並みを利用して、土地勘のない日本軍に一撃を加えようとしていたのだと分かった。義勇軍は大砲の砲身が焼けるまで戦い、蕭光明の息子も戦死した。しかし記録によれば、戦力で圧倒していた日本側にも士官1名、兵士14名の戦死者が記録されている。

 10年ほど前、佳冬郷に暮らすある道士が、夢枕に若い日本兵が立つと言ってニュースになったことがあった。生年19歳にまかりなるというその若い日本兵は、自分は120年前にこの地で戦死した者であると道士に告げた。九州で暮らす家族に会いたい。道士はその少年兵の言葉をそのように伝えたらしい。

 主権国家の暴力とは、波間に押し寄せる波濤のように、彼我の境界線を不断に変化させながら、その「領域の内部」に取り込んだ者たちの身心を均質化させ、主体的な屈服を作り出してゆく。ぼくは、この島で銃を取って戦わざるを得なかった彼が、とりわけ六堆の人間を憎んでいたとは思えない。そもそも殺すほど憎む理由などないからだ。侵略者を追い払うべく、義勇兵の放った弾丸が身体にめり込んだ瞬間、彼はいったい何を考えたのだろう。名前も知らない異国の地に流れる自身の真っ赤な鮮血を目にした彼は、その刹那に兵士からひとりの人間へと戻ったはずだ。120年後、異国で「ぼうれい」となった彼は、ようやく本音を口にできたわけだ。小さなトーチカのような形をした歩月楼から見上げた空は、ひどく人工的で小さかった。

本営とされた佳冬蕭家。現在その内部は一般公開されている

 

 義勇軍敗走の報に、黒旗軍領袖は思わず天を仰いだ。光緒21年、あるいは明治28年10月、台南城で外国勢力からの干渉を期待していた劉永福は、欧米列強から積極的支持が得られないことが分かると、時利あらずと単身アモイへと身を隠してしまった。

 六堆は孤立した。各堆は抗戦派の邱鳳揚きゅうほうようを新たな大総理に推挙したが、頼みの綱であった黒旗軍は消失、平地原住民と連合して日本軍にあたろうとしたが、日ごろ六堆と敵対していた彼らはこれを拒絶する。11月末、抵抗を続ける六堆を鎮圧しようと、山口素臣もとおみ少将が前堆へと軍を進めた。義勇軍は前堆にある火焼庄かしょうしょう(現在の屏東県長治郷)に集結して抵抗を続けたが、日本軍が集落に向けて山砲を打ち込みはじめたことで防衛線は瓦解、六堆は降伏を余儀なくされた。

 中堆総理で六堆総参謀でもあった鍾発春しょうはつしゅんは、戦闘を停止したのち、歩兵第四聯隊第二大隊の桑波田くわはた景堯かげあき少佐に面会を求められ、抵抗を続けた理由を次のように答えている。

 

 少佐 「何故に戦争するか。」
 鍾  「清あるを知つて日本あるを知らず。」
 少佐 「どうして」
 鍾  「清帝からの諭告も知らず。地方官からの諭達もないから。」
 少佐 「今はなぜせぬか。」
 鍾  「兵器弾薬が欠乏したから。」
 少佐 「まだする気か。」
 鍾  「勇気はある。人もある。」

松崎仁三郎『嗚呼忠義亭』(1936年)

 

 通訳、それも筆談を介して交わされたと思われる会話からは、六堆客家の不撓不屈の精神が垣間見れると同時に、彼らの暴力があくまで北京の朝廷と結びつくことによってその正当性を得ていたことが伺える。「清あるを知つて日本あるを知らず」と強弁した鍾発春であったが、その結束と信仰の象徴であった忠義亭は、清朝皇帝の威光が消えた日本統治下において、太陽の光を失った月のように見る影もなく没落してゆくことになる。

 


 明治33(1900)年、台湾総督であった児玉源太郎が南部巡視した際、忠義亭に立ち寄った。児玉は忠義亭が「痛く荒廃し、屋根には草茫々と生えているのに慨嘆」し、随行者に向かって、自分が草を取るので梯子をもってくるようにと命じた。「忠義の二字は決して得易いものではない。今後幾百年となく、この二字を子孫に訓へ、且つ祖先の霊を祀らなければならぬ」と訓示を垂れた児玉は、義民を皇民となすべく、その精神を換骨奪胎しようとしたのかもしれない。

 きれいに葺かれた屋根を見上げたぼくは、森閑とした忠義亭内に足を踏み入れた。再建された忠義亭に歴史的な威厳は感じられず、むしろ威厳を演出しようとするいじましさのようなものが伝わってきた。新しく作り直されたとみえる神位の手前には、戦後新たな皇帝として台湾を支配した蒋介石による「民族正気」の扁額が掲げられてあった。戦後の六堆は、地域文化の復興・振興を掲げる文化集団として活動し、現在までその命脈を保ち続けている。毎年開催される六堆運動会に春の田植え体験など、そこにはもはや暴力が入り込む余地はなかった。

 六堆忠義亭をあとにしたぼくは、駐車場に停めてあった相棒に跨って、高雄へと続く県道を走り出した。次の瞬間、相棒の鼻先をかすめるように一台のSUVが荒っぽく左折していった。窓から顔をつき出した運転手が、「幹你娘ファック・ユア・マザー!」と叫ぶ。

 その感情的な暴力の発露に、ぼくは思わず笑みを浮かべて頭を下げた。


六堆忠義亭に祀られた義民たち。「褒忠」、「懐忠」の文字が並ぶ 

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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