web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

高雄版ドラゴンクエスト:曹公と龍の母子たち

「この街には龍がいるんです。」

 高雄にどんな生き物がいるのかと尋ねられたときに、そんなふうに答えたことがあった。嘘をついたつもりはなかったのだが、相手はバカにされたと感じたらしく、明らかに不機嫌そうな声で、「龍とはドラゴンのことですか?」と反問した。

「はい、それも一匹ではないんです。」

 高雄について詳しく知りたいと言ってくれた相手の気分を害することは決してぼくの本望ではなかったが、さりとて思ってもいないことも話せなかった。どう説明したものかと迷っていると、相手は早々にzoomの共有画面を立ち上げて、仕事の話へと入っていった。

 これはそのときに話すはずだった物語だ。




 いまでこそ市内全域に農業用灌漑が張り巡らされている高雄だが、かつては旱魃の度に農民がバタバタと倒れ、生き残った者も盗賊稼業に身をやつすほどに貧しい土地だった。それもこれも、独立した多数の零細農民と機能不全の行政組織しかなかったこの都市では、街全体を補完できる灌漑システムが構築されていなかったからだ。春秋時代の斉の宰相・管仲は、「善く国を治める者は必ずまず水を治める」と述べたとされるが、治水とは常に国家の一大事であった。ではいったいなぜ、高雄の街に巨大な灌漑設備が作られることになったのか。それを語るには、澄清湖ちょうせいこに暮らす龍の母子とそれを打ち倒したある人物について説き起こす必要がある。




 男には父親がいなかった。乾隆51(1786)年、河南省河内県(沁陽市)に生まれた彼は、片親の家庭環境で勉学に励み、やがて郷試と呼ばれる科挙の第一試験に合格した。晴れて挙人となった彼は、30代から中国各地の知県(県知事)に任命され、地方官吏としての人生を歩みはじめる。男の名は曹謹そうきん、字を懐璞かいはくといった。道光17(1837)年、清廉潔白なその政治手腕で周囲の信任を集めていた曹謹は、当時民衆蜂起や旱魃が繰り返して発生していた台湾に赴任、4年間を南部の鳳山県知県、4年間を北部の淡水庁同知(知府の補佐、海防の任も担った)として過ごした。腐敗した政治家が大半であった当時の台湾において、曹謹はめずらしく青史に名を残すほどの能吏であったとされる。

 19世紀初頭の台湾海峡では、蔡牽さいけんと呼ばれる大海賊が2万ともいわれる手勢を率いて幾度も台湾西部の諸都市を脅かしていた。築城されたばかりの鳳山県新城も、海賊勢力によって3か月近く占領される事態に陥るなど、行政機関の機能不全が続いていた。日本ではちょうど江戸後期、大塩平八郎の乱が起こった頃である。曹謹が鳳山知県として赴任したのは、ちょうどそんな混乱期であった。




 はてさてどうしたものか。

 各地を視察した曹謹は、貧困にあえぐ人々を見つめながら眉をひそめた。盗賊や海賊の類は貧しさが原因だ。その根本さえ断つことができれば……。曹謹はそれまでの知県のように城内にある県署に留まることなく、積極的に街を見て回った。ある日、下淡水渓を訪れたときのことだ。その参謀であった林樹梅りんじゅばいが、玉山から滔々と台湾海峡へ流れ込む川を指さして言った。


――これをうまく利用できれば、知県殿のお悩みは解決するでしょう。
――この巨大な川を?
――さよう。
――できるか?
――やるしかないでしょうな。


 金門島生まれで学識に優れたこの男は、林則徐りんそくじょをはじめとする朝廷の大臣らにその才覚を見込まれて参謀としての招聘を受けていたが、この時期は一地方官吏にすぎない曹謹の下で働いていた。葦原の中つ国を開拓したオオナムジこと大国主命が、知恵の神スクナビコナと協力して国造りをすすめたように、曹謹は息子ほども歳の離れた若い参謀の言葉に耳を傾けながら、この「不可能的任務ミッション・イン・ポッシブル」を遂行してゆくことになる。



下淡水渓。奥に見えるのは日本統治時代に建設され、当時東洋一を誇った下淡水渓鉄橋

 曹謹はまず、灌漑事業の重要性を当地の農民たちに説いた。彼らの目は猜疑心に溢れていた。唐山ちゅうごくから来た新たなお代官さまが、また自分たちからなけなしの金を搾り取ろうとしていると思ったのだ。曹謹は彼らの疑念を払拭するように、自らの給金を工事費用にあて、地元の有力者たちからも寄付金を集めて灌漑事業に取り掛かった。

 工事は道光18(1838)年にスタートした。まず下淡水渓に面した九曲塘きゅうきょくとう(現在の高雄市大樹区九曲堂)に堤と水門を築き、その水を「しん」と呼ばれる用水路へと流し込んでいった。2年間の工事で圳の全長は130キロに及んだ。後世「曹公圳」と呼ばれるこの灌漑水路は、旱魃の度に壊滅的打撃を受けていた高雄を、瞬く間に南台湾随一の穀倉地帯へと変えていった。

下淡水渓の畔に建てられた曹公圳跡

 

 パイナップル畑が広がる九曲堂から新城のあった鳳山区の繁華街へバイクを走らせていると、その肥沃な土地柄を身をもって知ることができる。農地の側には必ずといってよいほど灌漑路が張り巡らされ、すでに農業が行われなくなった市内にも「宝珠溝」と呼ばれる愛河の支流が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

 灌漑路沿いを走っていると、ふと以前に高雄市役所の関係者から、どうすれば高雄に観光客を誘致することができるかと尋ねられたことを思い出した。外国人の視点から忌憚ない意見を聞かせてほしい。職員はひどく丁寧な口調で頭を下げた。台北や台南に比べて、高雄を訪れる日本人の数は極端に少ない。しかし京都で学生時代を過ごしたぼくは、観光客の増加が必ずしも地域住民の利便性や幸福度に利するものではないことを身をもって知っていたので、すっかり言葉に詰まってしまった。


――ベネツィアを参考にしてはどうでしょうか?
――ベネ……
――市内に張り巡らされている圳をもう一度つなぎ合わせ、それを水上交通路にするんです。開いた運河には伝統的な帆船や竹船を浮かべてもいいし、端午節に使う小型のドラゴンボート、あるいはタオ族の作る木造漁船チヌリクランなんかを走らせてもいい。高雄の天気だと、冬場以外は直射日光が強いから、運河沿いにはホウオウボクやナンバンサイカチ、ブーゲンビリアのような鮮やかな花がなる木々を植えて、天然の屋根にすればいいんじゃないでしょうか。圳の壁面は創作場として自由に開放するか、それが不安ならアーティストを雇って創作してもらえばどうでしょう? 澄清湖を市内全域を走る小舟の船着き場として、そこに観光センターを設けて一日パスを販売するとか?


 職員は最初こそめずらしげに聞いていたが、やがてそれが空想の類でとても予算が下りるようなものではないことを知ると、礼儀を失わない程度の笑みを浮かべながら、話半分に相槌をうちはじめた。


――面白い案ですが、まあ、現実的には何といいますか……


 無理に引き上げた口角でなけなしの善意を表現しようとするその表情を見たぼくは、200年前日照りで苦しむ村々を訪れた曹謹を思った。いったい誰が、この不毛の地に巨大な灌漑システムを構築できるなどと思ったのか。諦めることにすっかり慣れてしまっていた新城の人々は、立派に結われた白髪交じりの辮髪を汗で湿らせながら、熱帯の街を走り回るこの「県老爺ちけんさま」を不思議そうな目で眺めていたはずだ。

 

 しばらくすると、下淡水渓から引かれた灌漑用水は新城にまで辿り着いた。ところが圳が北門近くにある赤山近くまで伸びると、突然工事が遅々として進まなくなってしまった。赤山まで足を運んだ曹謹は、なぜ工事が遅れているのだと問うた。すると、当地の耆老は如何ともしがたいといった様子で答えた。


――圳を掘ると、この土地の龍脈が変わってしまうんです。
――龍脈?
――はあ、ここには二匹の龍が住んでおるんです。母龍はそこの大埤だいひに、その子は向こうの草埤仔そうひこに住んでいて、あれらがおるうちはいくら掘ったところで何ともならんです。翌朝になれば、掘り起こした土がすべて戻されておるんですから。


 耆老はそう言いながら、目の前にある大埤と草埤仔を指さした。

 南国の陽光が毒々しいまでに輝き、真っ白な湖面の上で軽やかなタップダンスを踊り続けていた。そのあまりの眩しさに、ぼくは思わず目を細めた。現在「澄清湖」の名で呼ばれている大埤は、高雄随一の景勝地として知られてきた。蒋介石がひどく気に入って別荘まで建てた澄清湖は、日本時代に工業・軍事用水として使用され、戦後は中華民国海軍と陸戦隊の駐屯地となった。別荘のすぐ側には5000キロの重さをした鉄の扉を備えた戦時指揮所が作られ、核攻撃にも耐え得る地下壕が掘られている。複雑に入り組んだ別荘への路線とその手前に建てられた戦時指揮所跡を横目に、ぼくはかつて母龍が住んでいたとされる澄清湖に再び目をやった。


戦時指揮所の扉。現在は「海洋奇珍園」として一般開放されている

 

 その夜、曹謹は秘かに県署を発った。現在鳳明街と呼ばれる細い路地を歩けば、その左手には旧城にあった屏山書院を再建した鳳儀書院が見える。曹謹は鳳儀書院の隣にある城隍廟に軽く一礼して、周囲に人気がないことを確認すると、そのまま北門から大埤近くの工事現場へと向かった。

 この島の空気はひどく重い。夜半でも、小半刻も歩けば湿気と汗で身体全体が沐浴したように湿った。草木の陰でしばらく潜んでいると、豈図らんや、大埤と草埤仔から耆老が言ったように大小二匹の龍が姿を現した。二匹の龍は工事用に掘り起こされた土を次々と飲み込んでは、それを元あった場所へと吐き出していった。『聊齋志異』さながらの怪異を目にした曹謹は、すっかり手の打ちようをなくしてしまった。ところがしばらく経ち、曹謹は連絡用に残してきた羅漢脚から龍の母子が次のような会話をしていたとの報告を受けた。


――母上、もしもこの場所にある龍脈があの曹謹とかいう人間に変えられてしまえば、われらは居場所をなくしてしまいます。
――心配いらぬ。わが法術にかかれば、人間が掘り出した土を元に戻すことくらい造作もないこと。われらはこの地で龍脈を守ればよい。
――しかし万が一法術が破られてしまえば?
――戯言を申すな。銅の針と黒犬の血がこの龍穴に流し込まれぬ限り、わが法術が敗れることはない。


 一説には、「銅の針」とは男の赤ん坊が生まれて最初に切る髪の毛で、「黒犬の血」とは同じく男の赤ん坊が生まれてくる際に胎衣に付着した血とも言われている。羅漢脚の報告を聞いた曹謹はすぐにそれらを用意させ、昼間はいつもと変わらぬ調子で工事を続行させた。そしてその日の工事が終わる段になって、こっそりと「銅の針」と「黒犬の血」を地面に埋めた。

 翌朝、村人らは真っ赤に染まった大埤と草埤仔を目にした。母龍は命からがら逃れ、子龍はその場で絶命した。二匹の龍が消えたために工事は順調に進み、灌漑路は無事に高雄全土に張り巡らされることになった。

 外来統治者による治水事業とそれを阻む当地の水神といった構図は、高天原を追放されたスサノオとヤマタノオロチの闘いを思い起こさせる。食物の神オオゲツヒメを殺して五穀の種を手にしたスサノオは、出雲の国で稲の神クシナダヒメを助けて、荒ぶる国津神ヤマタノオロチを倒す。ヤマタノオロチは龍神の化身とも言われるが、「神殺し」をしてはじめて、スサノオは出雲の国に豊かな国家を建設することができた。はるか海の向こうからやって来た曹謹にとって、大埤・草埤仔で荒ぶっていた二匹の龍とは、打ち倒すべきヤマタノオロチであったのかもしれない。

母龍が潜んでいたとされる澄清湖

 

 割を食ったのは赤山の人々だった。龍脈が断たれた赤山の人々にとって、圳の完成は必ずしも幸多いばかりとは言えなかった。赤山一帯ではある不穏な噂が流れていた。

 最初に口を開いたのは、林樹梅だった。


――懐璞かいはく殿、龍喉山の噂は知っておられるか?
――ああ、聞いている。
――どういたしますか? いまならまだ間に合いますが。
――朝廷の禄を食む者としてはやらねばなるまい。


 二人が耳にした噂とはこうだった。龍の母子が守る大埤の北東に、龍喉山と呼ばれる山があって、そこに「樹王」と呼ばれる巨木が立っている。伝説によれば、そこから100本目の枝が生えてきたときに、赤山では天命を受けた新たな天子が誕生して、天下を転覆させるということだった。


――古くは鴨母王の例もある。油断はできまい。


 曹謹は窓の外に浮かぶ月を見上げながらつぶやいた。この地でとれる痩せた瓜のような月が、甦りつつある大地に微かな明かりを注いでいた。


――枝の数は?
――99本。時間は残されておりません。


 曹謹はわずかな供回りをつけて、再び深夜のうちに新城を発った。手術台に寝転ぶ患者のように五体に穴を開けられた大埤の惨状を横目に、曹謹ら一行は龍喉山に急いだ。緩やかな山道を進むと、巨木の影が三日月の明かりを背に薄い光を放っていた。曹謹が合図を送ると、お供の者は赤山の住人に気付かれないように、そっと枝のひとつにノコギリの歯をあてた。その瞬間、人間の腕のように太い枝からは鮮血に似た樹液がほとばしった。巨木の枝を切り落とした曹謹らは、樹王の一部を海岸沿いの林園まで運び、焼却してからその灰を地中深くに埋めた。

 翌朝、赤山の人々は隣人の嘆きの声で目を覚ました。


――あァ! 樹王さまが!


 樹王から流れる血は、真っすぐ南にある林園まで続いていた。人々はその下手人の正体を知っていたが、口をつぐむしかなかった。100本目の枝が出る直前に生命を絶たれてしまった樹王は見る見るうちに衰弱し、やがて無残に枯れ果ててしまった。樹王の死によって「赤山出皇帝せきざんうまれのこうてい」の夢は断たれ、長く発展から取り残された当地は、「赤山無賢人せきざんにけんじんなし」とまで言われるようになった。

 かつて赤山では、人材が出ない不運を嘆いた人々が、文衡殿に祀られている関帝(関羽の尊称)に指示を乞うたことがあったらしい。薄くその瞳を開けた関帝は、霊媒師タンキーの口を通じて、信徒たちの悩みに次のように応えたとされる。


――龍脈はすでに閉ざされた。問うたところで詮無いことである。


赤山文衡殿に鎮座する関帝像

 

 とまれ、曹公は高雄の人々にとっては英雄であった。新城の人々は、鳳山知県の任を終えて台北の淡水へと向かう曹謹の馬車にとりすがるようにしてその背中を見送ったらしい。道光29(1849)年、淡水庁同知での任務を終えた曹謹は、故郷河南省で永眠した。その後、鳳儀書院には彼を祀る「曹公祠」が作られ、毎年祭祀が行われるようになった。日本時代に入ると、鳳儀書院は陸軍の病院として一般人の出入りが禁止され、曹公祠も徐々に廃れていったが、明治33(1900)年には、台湾総督児玉源太郎がその偉業に感銘を受けて祠を修復、同じく台湾総督であった佐久間左馬太から「曹公祠」の扁額を贈られるなど、植民当局からも高い評価を受けてきた。民国81(1992)年、玉帝の神旨を受けた曹公祠は曹公廟へと改築され、曹謹は正式に神として祀られることになる。

 一般的な廟と違い、絢爛華美な内装が施されていない曹公廟は、向かい側にある小学校から響く子どもたちの笑い声まで聞こえるほど静寂に満ちていた。曹公巨木と呼ばれる巨大なアカギの樹がある曹公小学校は、かつて曹謹が務めていた県署の跡地で、廟の裏手にはかつて彼が築いた平成砲台が立っていた。そしてその足下を流れる曹公圳は、母龍の暮らしていた澄清湖にまで繋がっている。


曹謹を祀った曹公廟。付近の地名には曹公の名が冠されている

 

 曹謹にその法術を破られて以来、澄清湖には長らく龍がいない時期が続いたが、150年の歳月を経て、新しい龍がこの地に現れることになる。民国76(1987)年、澄清湖と秋田県田沢湖との間で「姉妹湖」協定が結ばれ、「辰子飛翔之像」がその湖畔に建てられることになったのだ。

 田沢湖近くで暮らしていた辰子は、類まれない美貌をもっていたが、永遠の美しさを願って泉の水を枯れるまで飲んだ結果、巨大な龍となってしまったとされる。田沢湖の主でもある以上、頻繁に澄清湖に留まるわけにはいかないのだろうが、それでも150年ぶりにおとずれた龍の帰還であった。同年、奇しくも台湾では戦後38年間にも及んだ戒厳令が解除され、澄清湖の一部を別荘として私有していた独裁者と、その血族による時代が終焉を迎えた。




 この街には龍がいるんです。ええ、はい、ドラゴンです。少し長くなりますが、話をお聞きになりますか?

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる