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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

客家と仮黎 よそ者たちが唱った故郷

 人は何かと他人との間に境界線を引きたがる。

 日本でしばしば東西における文化の違いが語られるように、台湾ではそれが南北間の相違として語られることが多い。東京と大阪、あるいは東京と京都といった文化軸が、台湾では台北と高雄、もしくは台北と台南といった構図で比較されるのだ。たとえば、日本でよく紹介される魯肉飯ルーローファンは、南部では肉燥飯ローツァオファンと呼ばれる。正確には前者は豚のばら肉、後者はひき肉を使っているのでまったく同じ料理とは言えないが、その分布地域は北部と南部できれいに分かれている。ぼく自身、台湾で十年以上暮らしていながら、魯肉飯を食べたことは数えるほどしかない。


高雄で一般的な肉燥飯。中北部では魯(滷)肉飯と呼ばれる

 ただ、台湾において文化的な差異が南北を軸に語られるようになったのは、日本統治時代に、縦貫鉄道が営業をはじめてからである。台湾を南北に走る中央、玉山、阿里山、雪山、海岸の五大山脈は、二千から三千メートル級の山々によって構成され、この小さな島を東西に分断してきた。さらにこれらの山々から台湾西部の平原地域には大小様々な渓流が流れ込み、長い間南北間の移動を困難にしてきた。19世紀末、台北から台南へ移動するためには実に三日間の船旅が必要で、それも直通便ではなく大陸のアモイ経由であった。鉄道という植民地近代を象徴する文明の利器がこの島を縦貫するまで、台湾における文化的な差異とは、南北よりもむしろ東西において顕著であったのだ。

 実際、相棒のスクーターで高雄市左営区から屏東へいとう平原を経て、大武山が聳え立つ中央山脈の南端に向けて走っていると、否が応でも南台湾の文化的な差異が東西に分布していることに気付かされる。海岸沿いや内陸の平原には伝統的な閩南びんなん系の寺廟などが多く建てられているが、市内を離れて山がちな地域にやって来ると、客家ハッカ人が信仰する三山国王廟や義民廟などが目に映る。そこからさらに西へと進めば、平地原住民であるタイボアン族やマカタオ族の信仰する「公廨クバ」と呼ばれる祠が現れ、平原を遮るように立ちはだかる中央山脈の山村には、山地原住民であるルカイ族やパイワン族が信仰する民族色豊かなキリスト教の教会が点在している。

 東西にグラデーション状に広がるこの民族、文化、宗教的な差異は、南台湾における移住民と先住者たちとの絶え間ない衝突と融合が歴史的に沈殿して生まれたものだった。十数分ごとに目まぐるしく変化する色彩豊かな南台湾のランドスケープは、さながら手回しの映写機で風景を映し変えていくような躍動感に満ち満ち、それはぼくにとってどんな映画よりも刺激的な光景であり続けている。




 冷房の利かない場末の食堂で、ぼくは山のように盛られた空心菜に箸をつけていた。すると、丸々と太った食堂の主人がどこから来たのかと尋ねてきた。

 高雄ゴーヒョン左営ツオインから来ました。

 台湾語と中国語の混じったぼくの言葉に頷きながら、主人は持っていた粄條バンテャオをテーブルに投げ捨てるように置いた。粄條とはきしめんに似た米で作られた麺で、客家の伝統料理のひとつだ。屏東県高樹郷。屏東市から向かって北東に位置するその街は、よそ者が歩き回るにはあまりに目立ちすぎた。玉のような汗を額に浮かべた主人は、隣のテーブルに座る常連客らしいグループに声をかけていたが、独特の声調からすぐにそれが客家語だと分かった。

 17世紀から19世紀にかけて台湾へ渡ってきた中国移民は、およそ閩南系と客家系に大別できる。「閩」とは福建省の別称で、同省南部に暮らしていた彼らは「閩」南人、あるいは福佬ふくろう人と呼ばれた。最初にこの島に居を定めたのは閩南人で、福建省泉州地方から来た者たちは西部の海岸沿いに、同じく漳州地方から来た者たちは平原へと広がっていった。その結果、広東省東部から遅れてやって来た客家人たちはさらなる奥地か、耕作には不向きな山裾などに集落を構えることになった。南台湾では、府城のある台南や県城のある打狗たかおを有する嘉南かなん平原に多くの閩南人が集まったが、客家人は更にその南にある屏東平原を流れる下淡水渓の東側へと集住した。同平原の背後には巨大な中央山脈が屹立しているために、南台湾の客家たちの生活圏は原住民族が暮らす「番界」と限りなく隣接していた。

 台湾の人口の15%ほどを占める客家人は、苦労を厭わず、質素倹約に励み、商売に長けた人々とされ、これまで多くの人材を生み出してきた。しかしその一方で、強情で独善的な吝嗇家といったステレオタイプも強く、しばしば多数派である閩南人と衝突を繰り返してきた。

 ある日、担任するクラスの学生たちと一緒に食事をとっていたときのことだ。ひとりの学生がとりわけ安価な弁当を持参しているのを見たクラスメートがニヤニヤと笑いながら、センセイ、こいつは客家なんですよと言った。ぼくは一瞬何のことか分からずに、てっきりそれが客家の伝統料理か何かだと思い、よれよれになったプラスチックの弁当箱の中身をまじまじと見つめてしまった。

 こいつらは、客家人おれたちがケチだって言いたいんですよ。

 半ば弁明を諦めたその笑い顔からは、ある種の諦観が感じられた。同じように節約してもあいつは客家だからと揶揄される。世界中どこに行っても「よそもの」とされてきた客家人たちは、民族のるつぼであるここ台湾においても、あらゆる移民社会のマイノリティが経験する否定的ステレオタイプを受け続けてきた。

 ぼくはお椀の中で湯気を立てる粄條に箸をからませた。南台湾の粄條は「面帕粄」とも呼ばれるが、文字通り「面帕ハンカチ」のような薄さをしている。困窮と流浪を繰り返してきた客家は、生活条件の厳しい地域で暮らさざるを得ないことが多く、それゆえに生鮮食品を口にできる機会も少なかった。度重なる飢饉や戦乱を経てきた経験から、客家社会では長期保存できる食料を備蓄しておく必要が生まれ、粄條のような加工食品が生まれたのだ。

 食堂のテレビではWBCの試合内容を解説する様子が流れていたが、中国語の実況がかき消されてしまうほど、店内は常連客らの話す客家語で満ちていた。野球は高雄市美濃区を中心とする南部客家の間では人気のスポーツで、これまでにも多くのプロ野球選手を生み出してきた。主人がふと思い出したように、これからどこに行くんだと尋ねてきた。

 三地門の方に向かおうかと思ってます。ぼくは赤茶けた50元玉を主人に渡しながら答えた。主人は汗だらけの額を拭いながら、ガソリン、しっかりと入れていけよと言った。番仔ファンナのお山にゃ、油を入れる場所が少ないからな。


客家の伝統料理「粄條」

  

 番仔。原住民を意味するこの台湾語は、たぶんに人種差別的な意味合いを含んでいる。もちろん、客家語にも同様の言葉がある。

 仮黎ガライ

 漢人世界と原住民世界のあわいで生きてきた台湾客家にとって、仮黎はひどく身近な存在だった。客家人作家・しょう 理和りわ(1915年-1960年)は、大好きだった祖母がパイワン族であると知った際の衝撃を、短編小説「仮黎婆」において描いている。日本統治時代、鍾理和が生まれた阿緱あこう阿里港ありこう支庁(現在の屏東県高樹郷)は、三地門と呼ばれるパイワン族が数多く暮らす「番界」と隣接していた。屏東平原に面しながらも海抜2000メートルを超える群峰が続く三地門は、南台湾における漢人社会と原住民社会の境界線上にあたる場所にあった。幼い「私」は、祖母が仮黎であることを知って衝撃を受けるが、それでも優しい祖母を慕い続けていた。ところが、山へと逃げた牛を探して「番界」へと足を踏み入れた「私」は、祖母がうれしげに口にする仮黎の歌に得も言われぬ不安を感じる。客家人の集落を離れて徐々に仮黎へと戻っていく祖母を見た「私」は、恐怖のあまりどうか歌わないでほしいと祖母に泣きつくのであった。

 1960年、鍾理和が亡くなるその年に書かれたこの自伝的短編小説は、何度か邦訳もされている。比較的手に入りやすいものとしては、日本初となる台湾原住民文学選『非情の山地』(田畑書店、1992年)と台湾の客家文学をテーマにした『客家の女たち』(国書刊行会、2002年)の二冊がある。原住民文学と客家文学の両アンソロジーにこの物語が収録されている点からも、客家人の生活がいかに「番界」と密接し、両者の文化と血統が不可分に交じり合っていたのかが分かる。少数派移民であった客家にとって、地縁や血縁を通じた結束は異郷で生き残るための重要な手段であったが、同時にその内部には、長い歴史の中で衝突と融合を繰り返して培われた異種混交性ハイブリディティも備わっていた。たとえば、同じ屏東県にある枋山ほうざん郷に戸籍を持つ中華民国第七代総統・さい 英文えいぶんも、客家人とパイワン族の血統を継いでいる。

 物語で「私」が感じたのは、関係性の崩壊がもたらす恐怖だ。「客家わたしたち」の世界にいたはずの祖母が突然「仮黎かれら」に変わってしまう。そのことによって自分の知る祖母、ひいては祖母を知る「私」自身が失われてしまうのではないかという恐れである。しかし、まだ幼い「私」には、こうした複雑な感情を言語化できるだけの能力はなく、ただただ泣きわめくことでしかその不安を表現することができない。

  

「唱わないで。お婆ちゃん、唱わないで」
 祖母は、私の急な変化にうろたえて「どうしたんだい」と繰り返し聞き、両手で私の顔を包むようにして持ち上げた。「阿和アホー、泣いているのかい、どうしたんだい」祖母は、私の目を見て驚いて言った。
「唱わないで……」私は、また叫んだ。
 祖母は不思議そうに私を見つめていたが、笑顔を作って言った。「お婆ちゃんの歌が、コロちゃんには怖かったんだね」
 祖母は、唱うのをやめた。それからは、物思いにふけって黙々と家までの道を歩いた。その顔は暗く沈んでいた。ただし、いったん家に着くと、すべてが消えた。落ち着きのある、穏やかで澄んだ表情をたたえた、いつもの祖母に戻っていた。

鍾理和著、澤井律之訳「祖母の想い出」

 

 
鍾理和旧宅の壁に書かれた小説「仮黎婆」の冒頭

  

 最初にこの話を読んだぼくは、虫も殺さぬほど優しかった祖父が、ある日何かの拍子に突然軍歌を口ずさみはじめたときに感じた恐怖を思い出した。戦争が何かも分からぬほど幼かった時分、もちろんそれが軍歌だとは知らなかった。ただ歌を通じて、祖父が自分の知らない「何か」になろうとしているのではないかと感じた。いまでもそれまで握っていた祖父の手が突然冷たい鉄の棒のようになってしまった感覚をはっきりと覚えている。祖父は不思議そうな目で泣き虫な孫を見下ろしていたが、ぼくはその手を払いのけて、見慣れた瀬戸の内海うちうみに向かって駆けだしていた。まるで、あの穏やかな海に向かって走っていけば、いつもの優しい祖父が戻って来てくれるとでもいうように。

 鍾理和の旧宅から、檳榔の木々を背負った墓石が立ち並ぶ県道を抜ければ、すぐに三地門郷への入り口が見えてくる。山道脇からは白腰鵲鴝アカハラシキチョウの鋭い鳴き声が響いていた。檳榔の木にへばりついていた赤腹松鼠クリハラリスたちが、それに合わせるようにクッ、クッ、クッと短い鳴き声を上げる。この山に暮らす誰もが己の歌をもっているようだったが、スマホのプレイリストの中には、ぼくと故郷を結び付けてくれるような歌は入っていなかった。

 振り返れば、眼下には霞たなびく広大な屏東平原。

 祖母の死後に「私」を訪ねてきた祖母の弟は、「古びた日本の軍服」を着ていたが、あるいは彼もまたぼくの祖父と同じように、ある日突然日本の軍歌を歌って、周りの人間をひどく困惑させたのかもしれない。インパールの白骨街道を這うようにして帰ってきたぼくの祖父は、戦争に勝とうが負けようが日本人であることができたが、「私」やその家族は、日本の敗戦によって「日本人」という枠組みからはじき出されてしまった。

  

くもはゆきます サンテイモン

かぜにビンロウがそよぎます

ムニさん ムニさん こんにちは

  

 サンテイモン。

 昭和9年、台湾総督府は台湾における国語普及のために、国民詩人として当時不動の地位を築いていた北原白秋を招き、日本語の宣伝曲の作成を依頼した。基隆キールンから上陸して反時計回りに台湾を一周した白秋は、三地門を訪れた際にこの童謡を書きあげたのだとか。

 民国49年、あるいは昭和35年。植民地台湾において日本語で教育を受けながら、後に中国へと出奔し、中国語の小説を書き続けた異色の郷土作家・鍾理和が肺結核で亡くなったその同じ年、白秋は台湾一周を回顧した『華麗島風物誌』を出版して、かつて宗主国の大詩人として熱帯に浮かぶ華麗島をめぐった往時を懐旧している。「深山の蕃地で蕃童の唄ふ我が童謡を聴」いて「悲喜交々」であったという白秋は、己の功績を誇るように台湾一周の旅を振り返っているが、ぼくには仮黎であった祖母や「私」が、「ムニさん ムニさん」と唱う様子がどうにも想像できなかった。

 ずいぶん昔、台南行きの電車で向かい合わせに座ったある老人が、日本語の本を読んでいた僕に向かって、突然「モモタロサン モモタロサン」と唱い出したことがあった。唱い終わった老人は、何か同意を求めるようなまなざしでジッとぼくを見つめてきた。狭い車上で逃げ場のなかったぼくは、「オジョウズデスネ」と意図的に目じりを下げて笑うしかなかった。いったいそのときの気持ちを何と表現すればいいのか。台湾に来て何を感じたかと問われた白秋は、「日本人に生まれてつくづくよかった」と答え、台湾の「土蕃」たちを「古代日本の幻影」を蘇らせたと述べている。『華麗島風物誌』を「日台を結ぶ橋」であって、「よき昔を偲ぶ記念碑」となると述べた白秋は、彼らのなかに暴力的な他者の声を埋め込んでしまったことにどこまでも無頓着である。しかしこうした無頓着さは、おそらく多くの日本人に共通する鈍感さでもあるのだろう。白秋の描く日本語の旋律は、むしろ祖母を「土蕃」という枠組みの中に閉じ込めることで、その「美しき野蛮性」を植民者の立場から愛でるものなのだ。




 歌とはときに、「私」のなかにある「他者」の部分を引き出してくれる。しかし、それは一度体内に潜伏したヘルペスウィルスが、ふとしたきっかけで宿主の身体に帯状疱疹を引き起こし、自らの存在を主張するのに似ている。それが悲鳴であるのかはたまた歓喜であるのか、痛みを感じている当人にすら分からない。

 勾配のきつい山道に入ると、相棒が聞えよがしにため息をつきはじめた。山地門の麓にある台湾原住民文化園区では、150元のチケット代さえ払えば、伝統衣装に身を包んだ原住民族がそれぞれの部族に伝わる歌を唱って聞かせてくれるらしかった。

 ふりさけみれば、三地門の青い山々の峰に雲がかかっていた。ふと故郷の空が懐かしくなったが、相変わらず口ずさむべき歌は浮かばなかった。

三地門郷に広がる険しい山々

  

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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