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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

羅漢門の皇帝陛下

本文中の写真はすべて著者撮影
バナーデザイン:張郁卿

 

 日本統治時代にバナナの生産で栄えた旗山きざん老街したまちを突き抜けて、羊の腸のように曲がりくねった細い山道を北へ進んでゆくと、にわかに視界の開けた大通りに行き当たる。かつて七つの流れ星が堕ちて、当地の龍脈を築いたといわれる七星塔を横目に、ぼくは肩で息をする中古のバイクを走らせていた。四半世紀もこの島の大路小路を走り続けてきた相棒は、山がちな地形に足を踏み入れる度に億劫そうなため息をあげる。

 ぎらぎらと輝く南台湾の真っ白い太陽が、陽炎で歪んだバックミラーの上を気だるげに泳いでいた。

 高雄市内門区。その昔、羅漢門と呼ばれたこの山間の小さな集落は、相異なる民族が織りなす奔放不羈な伝説の数々と、アヒル飼いの皇帝を生み出した場所だった。峻嶮かつ複雑な地形から、清朝時代にはあまたの山賊が跋扈したとも言われる羅漢門は、東に台湾島の脊梁とも呼ばれる中央山脈の山麓を背負い、西には「月世界」と呼ばれる泥岩地質の悪地地形が広がっている。羅漢門は漢界と番界のあわいにある土地で、かつては漢人とともに「熟番」と呼ばれたマカタオ族が暮らしていた。

 「熟」とは漢化した、「番」とは野蛮を意味する言葉だ。いまでも平地に暮らす年配者が無意識に山地の人間を「番仔ファンナ」と呼ぶことがあるが、そこには形骸化した差別の余臭が漂っている。北海道の地名の多くがアイヌ語にその起源をもつように、羅漢門ロハンブンという地名もまた、マカタオ族が内門区一帯を「Ruohan」と呼称したことに由来すると言われる。

 今は昔。

 太平洋に浮かぶ小さなこの島を形容するのにこれほど便利な言葉もない。1661年、反清復明を掲げてこの島に渡ってきた鄭成功の軍隊に路竹ろちく(高雄市北部)一帯から追いやられたマカタオ族は、天然の城塞をもつこの羅漢門に逃げ込んだ。しかし、清朝時代にはさらに南の地へと追いやられ、やがてこの猫の額のように狭い土地には、以降清朝の官兵や日本の役人など、様々な民族が出入りを繰り返すことになる。

  Ruohan

 羅漢ロハン

  羅漢らかん

 羅漢ルオハン

 上下左右に大きく揺れる山道を走りながら、ぼくはマカタオ語に台湾語、日本語に中国語を順繰りに口ずさんだ。羅漢門から一路西に向かえば、当時行政府のあった台南へと通じる。ぼくはGoogleマップに「台南 赤崁楼せきかんろう」と入力してみた。相棒の足でおよそ一時間。南へ向かえば、台湾仏教の聖地のひとつである大崗山超峰寺を経由して、高雄市左営さえい区にある鳳山県旧城、さらには阿猴と呼ばれた屏東へいとう市内へと至る。これもおよそ一時間の距離。峻嶮な山岳地帯にありながら、当時の羅漢門は交通の要衝でもあったわけだ。要衝には自然と人やモノが集まり、そして人が集まる場所には争いの火種が生まれやすい。




 1683年、台湾に拠った鄭氏政権を降した清朝はその去就に迷っていた。かつてスペイン人やオランダ人によって統治され、明朝遺臣たちが逃げ込んだその島にはあまたの風土病が蔓延し、さらには王化にまつろわぬ「番人やばんじん」たちまで割拠していた。統治者にとっては実入りの少ない土地でありながら、放っておけば海賊や外国勢力に占拠されかねない場所。大航海時代のポルトガル人たちが「麗しの島イラ・フォルモサ」と感嘆した台湾は、当時の北京からはそんなふうに見られていた。

 さて、どうしたものか。

 若き康熙帝は台湾島の棄留を迷った。朝臣の多くは領有に二の足を踏んだが、鄭成功の孫である鄭克塽ていこくそうを降した水師都督・施琅しろうだけが強固に台湾領有を主張した。結局、台湾は清朝の版図に組み込まれたが、統治には消極的で、短期赴任してくる役人たちも台湾赴任を腰掛程度にしか思わず、現地の統治機構の腐敗は加速していった。後に日清戦争の勝利によって清朝政府から台湾を割譲された日本政府も、一時期台湾を金食い虫としてフランス政府に一億円で売却しようとしたほどにこの島の統治は難しかった。

 17世紀末、人口爆発を続ける中国南部から黒水溝と呼ばれた台湾海峡を渡ることは厳しく制限されていたが、それでも島に渡る移民は日を経るごとに増えていった。「六死三留一回頭(六割が死に三割が残って一割が戻ってくる)」と言われるほど、過酷な渡海を経てようやく台湾に辿り着いた者たちも、しばらく経てば経済的に困窮する者が続出した。家族を伴っての渡海を禁止されていた移民の多くは、運よく「熟番」の入り婿になれた者を除けば、そのほとんどが生涯を独身で過ごさねばならなかった。

 ジリ貧に陥った男たちは、夜露のしのげる寺廟の軒先にたむろした。十八羅漢が描かれた寺廟の壁の下で眠る彼らは羅漢脚ロハンカアと呼ばれ、やがて台湾の移民社会を象徴する存在となっていく。羅漢脚たちは熱帯特有の疫病に苦しみ、日々「番仔ファンナ」の襲撃に脅えながら、同時に数を恃みに彼らの土地を奪い、移民同士で水利や地権をめぐっては、「械闘かいとう」と呼ばれる武力衝突を繰り返した。訴えるべきお上がいないこの島で、彼らは泉州、漳州、潮州と出身地域ごとに党派を形成して、不測の事態に備えねばならなかった。家族のいないその遺体はあつく埋葬されることなく、秋の空を知らずに死んでいく蝉のように、異郷の土くれとなっていった。




 有應公イウインゴン。この島に来たばかりの頃、路上の片隅に隠れるように立つそれがいったい何を祀っているのか気になって仕方なかった。「陰廟」とも呼ばれるそれが、祭祀してくれる家族や子孫をもつことなく死んだ羅漢脚たちが「孤魂野鬼おんりょう」の類となって人々を祟らぬようにするための仕掛けなのだと気付いたのは、ずいぶんとあとになってからだった。日本でいえば、化野あだしの念仏寺の無縁仏といったところか。祖先祭祀を重んじる伝統的な華人社会において、自らを祀る子孫をもたずに亡くなることは死後の安寧を保障されない恐怖へ結びつく。そうした不確かな未来への恐れが、不幸な隣人たちへの疚しさとなって、都市の各所に「予防線」を張らせていたのだ。

 ずいぶん昔、台湾の友人に、どうしてこの島にはこれほどたくさんの廟があるのかと尋ねたことがあった。友人は一言、「申し訳のたたないことが多いからだ」と答えた。当時は何やらはぐらかされたような気分になったが、不惑の歳まで生きれば、さすがに生きることは弁明の連続なのだと気付かされる。

 ぼくたちの生は、死者たちに対する弁明の上に築かれている。

 



 十年ほど前、デング熱に罹ったぼくは、頭痛と押し寄せる嘔吐に苦しみながら勤め先の大学に急いでいた。専任教員と違い、授業に出たぶんしか給与が出ない非常勤教員だったぼくは、日銭を取り損ねることを恐れて、発熱を隠したまま授業に臨んだ。

 600元。当時の円高レートで時間あたり1700円程度の講師料だったが、毎月国民年金の納入と奨学金の返済に追われていたぼくは、ある種自己脅迫的な心持ちで毎日を過ごしていた。その結果、帰路に危うく気を失いそうになり、偶然通りがかった老人に助けられて、そのまま近くにある栄民病院(退役軍人病院)に入院するはめになった。いまとなっては老人の顔もはっきりと憶えていないが、ただ彼の強い外省訛りだけが脳裏に残っている。

 時代を問わず、この島には常に孤独な羅漢脚たちの影がある。たとえばあの老人のように、戦後国民党とともに台湾へ渡ってきた外省人老兵たちの多くは、黒水溝の向こう側に残してきた家族を忘れられないまま、異郷の地で孤独な最期を迎えた。

 かつて抗日戦争で故郷の山東省を離れ、台湾に渡った後も政治的迫害を恐れて再びアメリカへと逃れた作家・王鼎鈞おうていきんは、郷里を離れた移民たちについてこんなふうに述べている。

 
故国を離れた者たちの背には、ことごとく一本の針が刺さっていたのだ。
 

 この島で暮らす人々の背中には、多かれ少なかれそうした傷痕が残っている。その老人と遇うことは二度となかったが、あれ以来ぼくの頭の中では同じ疑問がぐるぐると回り続けている。

 この島で生きることを決めたぼくの背中には、いったいどんな針が刺さっているのだろうか?

 


 ドン カッ ドン ドン

 太鼓の音が山中に響きわたる。南海紫竹寺前にはすでに多くの観衆が集まっていた。人口一万人足らずのこの集落にこれほど多くの人が集まる日は滅多にない。旧暦二月、内門区では観音菩薩の巡行祭と並行して、宋江陣の全国大会が開催される。武器や各種体術を駆使した武術パフォーマンスを上演する宋江陣は、台湾南部で盛んな伝統芸能の一種だが、その総本山がかつて羅漢門と呼ばれた高雄市内門区なのだ。

 猿叫のような雄たけびを上げた若者たちが手に手に武器を持ち、激しい太鼓の音に合わせて舞台に躍り上がる。毒々しい太陽に照り返されたその顔には、『水滸伝』の登場人物たちを模した隈取が施されていた。盧俊義ろしゅんぎの双刀に李逵りきの双斧、関勝かんしょうの青龍偃月刀に魯智深ろちしんの月牙鏟……香港の武侠映画でしか見たことのないような武器に武芸十八般が次々と繰り出され、観衆の間からは惜しみない拍手の波が沸き上がっていた。

 梁山泊によった豪傑たちのごとく、あるいは関東を開拓した坂東武者たちのように、この地に流れ着いてしまった羅漢脚たちは、お上に頼ることなく、ときには武器をとってそれと対峙せねばならなかった。


高雄市内門区で開催された宋江陣

 

 1721年1月、台南で巨大な地震が起こった。日本でいえば、八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が行われていた時期である。南台湾一帯を津波が襲い、社会全体に動揺が走っていたが、台湾県知府・王珍おうちんは、困窮した民の暮らしを助けるどころか、借金を取り繕うために息子に鳳山県知事を兼任させた上、不当に山林を盗伐したとして捕縛した人々の保釈金まで要求してきた。怨嗟の声は日増しに高まっていったが、「天高皇帝遠てんたかくこうていとおし」と言われるほどに版図が広大であった清朝の天子さまに、粟散辺地にある羅漢門の者たちが窮状を訴える術はなかった。

 皇帝が近くにいないのならば、自分がそいつになればいい。

 男はそう思ったに違いない。

 朱一貴。

 齢三十三歳、八年前に福建省漳州府から台湾に渡ってきた彼は、羅漢門でアヒルを飼って生計を立てていた。羅漢門には彼を慕う多くの義兄弟たちが続々と集まっていた。春秋戦国時代に食客三千と謳われた孟嘗君もうしょうくんをなぞって、「小孟嘗」とも呼ばれていた。

 朱一貴ンとこのアヒルが産む卵にゃ、黄身が二つあるらしいぞ。

 小孟嘗の奴ァ、アヒルの群れを軍隊みてえに指揮するらしいじゃねえか。

 朱の兄貴ンところでいくらアヒルを絞めても、その数が減らねえらしいぞ。


高雄市林園区に残る鴨母王廟。「鴨母王朱一貴、皇帝の言葉は霊験あらたかであった」の文字。

 

 奇妙な噂が羅漢門の中を駆け巡っていた。同年三月、下淡水渓(現在の高屏渓)一帯では、客家人勢力を糾合した杜君英とくんえいが赤山(現在の高雄市鳥松区)において官軍を打ち破った。羅漢門南方にある岡山で仲間を集めて挙兵した朱一貴は、すぐさま杜君英の反乱軍と合流すると、諸羅しょら県(現在の嘉義、雲林、南投一帯)に散っていた明朝の遺臣勢力を吸収して、そのまま一気呵成に台南にある台湾府を占領してしまった。

 俺は洪武帝の子孫だ。

 朱一貴は自らを明朝の初代皇帝・朱元璋の末裔であると自称した。中興王を名乗った朱一貴は国号を大明、元号を永和と建元して、大清帝国に反旗を翻した。実際、朱一貴が明朝皇帝の末裔であったかどうかは疑わしいが、乱世において大義名分さえ立てば、人は自然と集まっていく。それは後漢末期に涿の片田舎でムシロを編んで暮らしていた劉備が、中山靖王の末裔をかたって、遠く巴蜀の地に蜀漢を建国したことに似ている。

 羅漢脚たちは朱一貴に従った。

 半ば故郷を捨て、あるいは故郷から棄てられて、裸一貫でこの島を開拓してきた彼らにとって、朱一貴とは己の影であり光であり、希望でもあった。中興王を名乗って明朝の復活を唱えたのは朱一貴自身だったが、彼を台湾史上初の皇帝へと押し上げていったのは、間違いなくその背に多くの傷を負った羅漢脚たちだった。

 羅漢門の皇帝陛下。あるいは、羅漢の皇帝陛下というべきか。しがないアヒルを飼いの男が、天地をひっくり返したのだ! 俺たちの、朱一貴が。俺たちの、小孟嘗が。俺たち、羅漢脚が!

 首から吊るした太鼓を激しく打ち鳴らす男たちの額からぷつぷつと汗が噴き出していた。佳境に入った宋江陣はますますその激しさを増してゆき、男たちの手元で変幻自在に舞っていた棍が、激しい打ち合いをはじめた。まるで夢から醒めよとばかりに、羅漢門の空に干戈の音が響いていた。

 


  反乱はわずか二か月あまりで鎮圧された。

 杜君英率いる客家勢力と内ゲバを起こした朱一貴の反乱軍は、大陸から派遣された官軍によってあっけなく敗退した。反乱を鎮圧したのは、かつて鄭氏政権を滅亡に追いやって台湾領有を強固に主張した施琅の息子・施世驃しせいびょうだった。羅漢脚らの王となった朱一貴は、現在の嘉義県太保たほ市にある溝尾荘あたりで捕縛されたという。

 当地にはこんな伝説が残っている。

 ある日、康熙帝に三日間だけ退位するように進言した軍師がいた。台湾に「番王」が現れ、彼の者が台湾で放った矢が玉体を傷つける恐れがあるのだという。聡明な康熙帝は天文に明るいその軍師の助言を聞き入れて、三日間だけ退位することにした。するとあにはからんや、三日後その玉座に突如として鋭い矢が突き刺さった。康熙帝はこうして難を逃れ、反乱は無事に鎮圧されたという。

 現実に康熙帝が三日間退位したといった記録はなく、また羅漢門にも溝尾荘みぞに落ちた「鴨母王」を救い出すような鶏鳴狗盗の食客は現れなかった。アヒル飼いの皇帝は北京へと連行され、史上最も残酷な刑罰と呼ばれる「凌遅刑にくそぎのけい」に処されて死んだ。

 翌年、中国史上最高の名君とも言われた康熙帝が崩御する。以降羅漢門には巡台御史が置かれ、日本の台湾領有までおよそ170年近くをその統治下に置かれることになった。




 宋江陣が解散して観音巡行が終われば、内門区は再び山間の静かな集落へと戻っていく。一連の喧騒が過ぎ去れば、ここは何ら変哲のない南台湾の田舎町でしかない。

 麓の集落は日暮れが早い。ぼくは黒いため息を吐く相棒にまたがって、アップダウンの激しい羅漢門の山道を走った。黄昏時の山道には、沖縄の亀甲墓に似た墓石の影が延々と続いていた。もしもぼくたちの生が死者に弁明し続けることでしか存続できないのならば、いっそのこと彼らと正面から語り合えばいい。たとえそれが異郷の亡霊たちであったとしても、少なくともぼくたちは、お互いの背に刺さった針やその傷痕の形を教えてやることができるのだから。

 駆け足で訪れる夕闇にとり込まれまいとするように、眼前に横たわる稜線がうっすらと落日の残光を放っていた。ぼくが帰るべき場所は、この残光の向こう側にある。古里を遠望する背中がチクリと痛んだような気がした。

 

 


興安宮に祀られる朱一貴の神像、ガラスに映るのはその石像

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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