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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

亡霊たちの眠る町:タイワンザルと博物学者

 故郷を思うとき、ぼくはよく汽笛の聞こえる港町まで足を運ぶ。

 この島の他の都市と同様に、高雄という港湾都市は常に異なる人種や民族によって統治されてきた。その上、国際的な港湾都市として駆け足の発展を続けてきたために、どこを切り取ってみても、新しく生まれた光景と朽ちてゆく光景がグラデーション状に同じフレームの内で収まってしまう仕組みになっている。

 だからなのかもしれない。いつからかぼくは、この街に潜む生と死が混然一体となったそうした気息の中に、行き場のない自身の郷愁を浸しては、染師よろしくその染まり具合を観察するようになっていた。おそらくそうすることで、ときおり訳もなく滲み出す郷愁を相対化し、異郷でのひとり暮らしに折り合いをつけてきたのかもしれない。

 近代以降発展した東アジアの湾岸都市は、多かれ少なかれみな欧米列強や日本帝国による帝国主義政策の影響を受けているが、この都市の港にも実に様々な亡霊たちが漂っている。民国17(1928)年、当時の中華民国の首都南京に生まれ、戦後台湾文学にも大きな影響を与えた詩人・余光中よこうちゅうは、終の棲家として西子湾を望む高雄の港町を選んだが、浅学非才なぼくにも、「郷愁詩人」と呼ばれたこの偉大な詩人の気持ちが分かる気がする。高雄を文化砂漠と揶揄する人々からみれば、きっとその行動は理解に苦しむものであったはずだ。しかし、すでに喪われた事象としての「故郷」を求める者たちにとって、亡霊たちが徘徊する港町ほど心地よい場所もないのだ。

 故郷とは畢竟亡霊のようなもので、それを思う者もまた知らず知らずのうちに、果てのない冥界めぐりに足を踏み入れてしまっているのかもしれない。



  

 ある日、高雄港を望む哨船頭山の山裾を東に向かって歩いていたぼくは、登山街60巷と呼ばれる小さな路地にふいに吸い込まれてしまった。清代に整備された山道には、それらを上書きするように、日本時代に建てられた高雄築港出張所の官舎や、湾岸防衛のためのトーチカ跡などが点在していた。勾配のきつい坂道を登れば、大正12(1923)年に皇太子裕仁が台湾行啓の際に宿泊した寿山館があったが、いまとなってはその痕跡すら残されていなかった。徳島県祖谷の村落のごとく、急斜面に開かれた集落跡には、戦後浙江省や大陳島などからやってきた外省人の退役軍人たちが根を下ろしたこともあったそうだが、それも今は昔、その多くもすでにこの地を離れてしまっていた。

 集落を包み込む山から蝉の鳴き声が聞こえた。暦の上では、とうに晩秋と呼ばれる時期になっていたが、この街の空気は陽炎が立ち上がりそうなほどに暑かった。麓に広がる集落の狭い路地からは、気だるげな蜂の羽音のような生活音が漏れ出ている。一瞬、時間の止まった小さな箱の中に閉じ込められているような錯覚に陥った。ある民家の軒先に足を踏み入れると、そこには真っ黒なゴミ袋と洗濯物の影に十字架の入った墓碑が一基、寂しげに佇んでいた。

 同治9(1870)年、かつて潟湖が広がっていたこの場所に、欧米人の遺骨を埋葬する墓園が築かれた。旧打狗たかお外国人墓地。異邦人の墓碑が保存されることなく、かといって取り壊されるわけでもなく、ただひたすら生活空間の中へと呑み込まれていく様子は、この街ではありふれた光景の一つでもある。しかし、こうした生と死が交錯した路地の中に、ぼくは丁寧に管理された公共墓地には見いだせない、何やら慰めに近いようなものを感じる。

 網戸の内側から台湾語のニュース番組の音が聞こえてきた。どうやら、次の総統選挙の候補者について話しているようだった。この墓に眠る住人たちは、彼らの言葉を聞き取れるようになったのであろうか。ぼくは「ウィリアム・ホプキンス」と書かれた墓石に手をあてながら、彼に語りかけてみた。

 ――ウィリアム。彼らの言葉はもうずいぶん聞き取れるようになったかい?

 ――さすがに150年もあれば、いやでも覚えちまうよ。

 いずれこの島のどこかに埋められた自分の墓を見にやって来る物好きの姿を想像しながら、ぼくは南台湾の毒々しい日差しに焼かれたウィリアムの背をそっと触れた。資料によれば、北アイルランド出身のこの水夫は、小舟で打狗港に入ろうとした際海に落ちて溺れて死んでしまったらしい。なんとも間抜けな最期ではあるが、人生とは得てしてそのようなものなのかもしれない。もう一本の路地裏には、同じくロンドン生まれのマリー・ウォーレンにイングランド西部シュロップシャー生まれのコンウェイ・フレッチャーの墓が残っていた。しかし、コンウェイの墓は液化石油ガスのボンベの支柱に、マリーのそれは鉢植えの土台に変わってしまっていた。

 狭い民家の屋根がギシギシと軋んだ。見上げれば、集落の背後にある寿山から下りてきた数匹のタイワンザルたちが、屋根と屋根の隙間からこちらをジッと伺っていた。ぼくに気付かれていることに気付いたタイワンザルは、俺のあとについて来いとばかりにそのまま路地の奥へと消えいった。

 鉢植えの土台になってしまったマリーの墓碑に躓いてしまわないように注意を払いながら、ぼくは彼らのあとを追った。そう言えば、この墓園を作ったあの男はタイワンザルたちの名付け親でもあったのだ。そう考えると、めずらしく集落まで下りてきたサルたちが、冥界めぐりの水先案内人であったような気がしてきた。



登山街60巷の民家に残るウィリアム・ホプキンスの墓石

  

 男の名はロバート・スウィンホー。

 台湾の博物学の歴史について語る際、その名を避けて通ることはできない。高雄の寿山に暮らすタイワンザルに「Macaca cyclopis」という学名を与え、「タイワン・ロックモンキー」という通名をつけた彼は、英国の外交官で博物学者でもあった。彼によって直接・間接的に命名された台湾の生物品種は、鳥類227種、植物246種、昆虫400種、哺乳類40種近くと、まさに台湾博物学の草分け的存在であった。タイワンジカにウンピョウ、ジャコウネコにタイワンツキノワグマなど、現在絶滅に瀕している台湾固有種の多くは、スウィンホーによって標本にされ、また詳細にその生態が記録されてきた。とりわけ、台湾に暮らす鳥類の三割は彼の発見によるものとされ、この島の大空で羽ばたく鳥類の多くがスウィンホーの名を冠している。

スウィンホーによって「発見された」寿山のタイワンザル

 標高25メートルほどしかない哨船頭山には、スウィンホーの肖像が掲げられた打狗英国領事館が建ち、山上からは高雄港と台湾海峡が一望できる。高雄八景の一つにも数えられる西子湾を背景に、遠くアモイから運ばれてきた赤レンガを積んで作られた領事官邸はルネッサンス建築の意匠を用いた瀟洒な洋館で、現在は団体観光客や若いカップルたちで溢れている。台湾では咸豊8(1858)年に結ばれた天津条約によって、安平あんぺい(台南)、滬尾こび(淡水)、鶏籠けいろう(基隆)、打狗たかお(高雄)の四港が順次開港されていったが、この中で最も大きな発展を遂げることになったのが、最後に開港された打狗港であった。

 大陸との往来のみが許されていた時代、左営旧城や鳳山新城のような城塞都市は、貿易の利便性を考慮する必要はなく、むしろ外敵の存在をいかに防ぐかに重点が置かれていた。ところが19世紀中葉に台湾西部の湾岸都市が開港されると、大航海時代以降閉ざされ続けてきた台湾経済が再び世界経済の中に位置づけられるようになった。天然の良港を有する打狗港は、まさに各国の垂涎の的でもあった。

 しかし、彼が英国総領事として高雄に赴任していた時期に領事館はまだ完成しておらず、湾内の潟湖に浮かぶターネイト号上に臨時の領事館を設置していた。船上で半年近い歳月を過ごしたスウィンホーは、当初哨船頭山の麓に新たな土地を購入して、正式な領事館を建設することに決めた。ところがその場所は領事館としてはどうにも見てくれが悪く、また潟湖の広がる地形から交通の便も悪かった。やがて、打狗港を訪れた清国駐在公使で、幕末日本に関する見聞録『大君の都』を執筆したラザフォード・オールコックの建議を受けて、当地は外国人墓地に作り変えられることになった。

 ウィリアム・ホプキンスにマリー・ウォーレン、それからコンウェイ・フレッチャーらは、こうして登山街60巷の住人となったのだった。

寿山南部から見下ろした高雄港の光景

  

 ――紅毛人の船にめずらしい草花や生き物を届けたら謝礼が支払われるらしいぞ。

 港一帯の集落は上を下への大騒ぎになっていた。船内に設えられた領事館内には、麻袋に詰め込んだスウィンホーハナサキガエルやタイワントゲネズミ、サンケイやベニサンショウクイなど、西洋ではいまだ存在が知られていなかった鳥類や哺乳類が次々と運び込まれていた。打狗港に暮らす住民らは、この奇妙な「鼻高人アットガ」が毒にも薬にもならない昆虫や動植物を丁寧にスケッチし、わざわざそれらを標本にして、遠くロンドンにまで送っていたとは思いもしなかったはずだ。

 もちろん、スウィンホーの博物知への情熱は彼個人の趣味嗜好ではなく、植物帝国主義とも呼ばれた大英帝国の熱帯植物への欲望と大きく重なり合っている。19世紀英国で注目されはじめた博物学は、急速な植民地拡大とともに獲得された茶やコーヒー、バナナや砂糖、カカオやタバコといった南方植民地から収奪してきた植物資源をいかに宗主国の国庫へと還元していくべきかといった帝国主義的欲望に支えられてきた。その点において、当時の外交と博物学は表裏一体のものでもあったのだ。

 実際、外交官としてのスウィンホーは、台湾輸出産業の目玉となる台湾茶に関する報告書をまとめて、茶葉のサンプルを英国の専門家のもとまで送ったりもしている。この報告書を読み、台湾茶の可能性に気付いた英国商人ジョン・トッドは、後に「特製フォルモサ・ウーロン・ティー」を欧米に輸出して、「台湾烏龍茶」の父と呼ばれることになる。



領事館官邸と事務所を結ぶ珊瑚石の山道に設置されたスウィンホーの蝋人形

  

 スウィンホーの情熱が帝国主義に支えられていたものであったとしても、ぼくは彼が台湾の生物全般に抱いた愛情までが偽りであったとは思わない。思わないからこそ、その運命にある種の皮肉を感じてしまう。スウィンホーが台湾にまでやって来られたのは、大英帝国の力があってこそであったが、同時にその同じ力によって、わずか6年ほどで彼は台湾から引き離されてしまうことになったからだ。

 路地裏に消えた水先案内人を追って、ぼくは哨船頭山の背後に広がる寿山へ足を向けた。寿山は高雄西部の海岸線に沿ってそびえ立つ海抜356メートルの低山である。弓なりの山が隆起した珊瑚石によって形作られ、それらが巨大な菩薩の掌のように高雄港全体を優しく包み込むことで、類まれな天然の良港を生み出しきた。豊かな自然環境が残る寿山で、タイワンザルはその顔役的な存在でもある。1885年に英国人が作成した南台湾の地図で、寿山は「Ape Hill」と記され、大正9(1920)年に高雄を訪れた作家の佐藤春夫も寿山を指して、「旦暮、群をなして峰から峰を渡って歩く、その長い行列が四五丁もつづいている時もある」と述べている。

 日はすでに暮れはじめていた。

 海峡が一望できる山頂付近まで登ると、柑橘色に染まった台湾海峡に浮かぶつ国の貨物船を哲学的なまなざしで眺めるタイワンザルの群れがいた。果たして、この群れの中に麓で出逢ったサルがいるのか、ぼくにはどうにも判別のつけようがなかった。

 不愛想な案内人の隣に座って夕焼けを眺めていると、再びどこからともなく形容しがたい郷愁が滾々と湧き上がってきた。夕暮れの帳の裏でさえずるアカハラシキチョウの声に耳を澄ませながら、ぼくはガジュマルの樹が首を垂れたこの場所から、台湾海峡を見下ろしていたスウィンホーの姿を想像した。



寿山山道に生い茂る蔓。寿山は独特の自然景観でも知られている

  

 彼の隣には、英国長老教会宣教師で医師でもあったジェームズ・マクスウェルが腰を下ろしていた。1865年、台南で医療伝道を行っていたマックスウェルは、地元漢方医らの讒言によって古都を追われ、打狗港対岸に浮かぶ旗津の街に逃れてきていた。スウィンホーとマックスウェルは、奇しくも同い年で、両者はともに未知の土地へ足を踏み入れる剛毅さと知性を兼ね備えていた。

 ――ジェームズ。近頃、君はミスター・ピッカリングについて、左鎮の方まで足を延ばしたそうだね。わたしも冬頃には公務を片付けて、荖濃渓沿いを旅をしてみようと思っているんだ。

 夕焼けに染まる台湾海峡を眺めながら、スウィンホーが口を開いた。ピッカリングとは華南各地の言語を自在に操る英国ノッティンガム出身の探検家ウィリアム・ピッカリングのことで、この時期は南台湾各地を積極的に巡っていた。総領事である彼の頭には、台湾で活動する欧米人の名前が一通り入っていた。

 ――閣下。布教は郊外に暮らす平地原住民相手の方が期待がもてそうです。

 当時、台南にあったマックスウェルの診療所と礼拝堂は、「紅毛人は患者の目玉を刳り貫いて薬を作る」といった流言を信じた民衆によって打ち壊されてしまっていた。日本でも幕末攘夷運動のちょうど激しい時分、そのほんの数年前には、米駐日公使通訳官であったヒュースケンが攘夷派志士に暗殺され、御殿山で完成間近だった英国公使館も、高杉晋作ら過激派長州人らによって焼き討ちにされていた。しかし、後に台湾史に大きな影響を与える台湾基督長老教会の基礎を作ることになったこの若き宣教師の心は、その程度の迫害で挫けることはなく、漢人に生活の拠点を奪われていた平地原住民に向けて積極的な布教を続けていた。

 ――二人のときはロバートでいい。ところで、君は山でサンケイを見たか? 懇意にしている猟師の話によると、サンケイは全身を美しい藍色の羽根で覆われているらしい。この島を離れる前にどうしてもこの目で見ておきたい。

 ――ご帰還の命令が出ておられるのでしょうか?

 スウィンホーはそれに答えることはなく、軽く目を細めた。海峡に沈む夕日が水平線上に一本の赤い線を引き、昼間は一つであった海と空とを切り分けようとしていた。

 ――沿岸に住む中国の漁民は、浅瀬にあがったウミガメは捕まえないんだ。浅瀬にいるウミガメは、災難の到来を意味すると信じられているからね。地元の商人たちはわざわざウミガメを買い取って、その甲羅に「永遠自由エターナル・フリーダム」なんて言葉を書いて、放生しては功徳を積む。だが、放たれたウミガメは本当に自由なのか。結局はまた浅瀬に打ち上げられて、別の商人に捕まるだけじゃないか。

 マックスウェル牧師は、20代の若さで台湾総領事にまで昇りつめたこの英才が、博物学者と大英帝国官僚の身分のはざまで揺れているのだと感じた。どれだけ自由に見えても、結局のところ彼が行使できる自由とは帝国の手綱が届く範囲でしかないのだ。英領インドのカルカッタに生まれたスウィンホーにとって、原色に満ちたこの島に根付く独特の自然体系は、彼の記憶にある原風景に最も近いものであったのかもしれない。幼くして両親を亡くしたスウィンホーは、9歳から18歳までロンドンで勉学に励んだが、40度を超える灼熱の街で育った少年にとって、霧の都ロンドンは偉大な故国ではあっても、故郷とは呼べなかったはずだ。

 ――1年、いやせめてあと半年もあれば……ああ、ジェームズ。この島で君の布教活動が実を結ぶことを心から祈っているよ。

 薄い夜の帳が降りはじめた海峡を見つめるスウィンホーの瞳は、すでに次の赴任地であるアモイへと向かっていた。ところがアモイ代理領事に就任した彼は、そのわずか10年後に脳溢血でこの世を去ることになる。享年41歳、その遺体は故国ロンドンに埋葬された。

 仮にスウィンホーがその10年の余生を台湾で過ごしていれば、彼の人生、そして台湾の博物学の歴史はどんなふうに変わっていたのだろう。あるいは、台湾の山地深くに生きたサンケイやウンピョウをその目で見ることができたのかもしれないし、その遺骨は打狗外国人墓地に埋葬され、件のウィリアム・ホプキンスの隣で、一世紀半にわたって台湾語の政治談議を聞くことになったのかもしれない。




 日はすでに落ちていた。

 闇に沈んだ山道では、スウィンホーの名を冠した生物たちがそれぞれ異なる鳴き声を響かせていた。亡霊のささやきにも似たその声は、冥界めぐりにやって来た異邦人をあざ笑っているようでもあったし、冥府の底に引き留めようとしているようでもあった。宵闇が山道を覆ってしまわないうちに山をおりる必要があった。信じがたいことに、市街地からほど近いこの山では、いまでも神隠しに遭う登山客が後を断たないのだ。

  

 闇夜が吐き出す墨汁のような気息には、亡霊たちの思念が溶けやすい。

寿山西部から眺めた台湾海峡の夕暮れ

  

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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