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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

荖濃渓サバイバル:帰ってきた紅毛の親戚と合従連衡するマイノリティ

 一羽の大冠鷲おおかんむりわしになった自分を想像してほしい。

 限りなく黒に近い茶褐色の色合いを帯びたあなたの身体は、全長55センチから75センチほど、翼を広げれば鮮やかな白と黒のストライプが否が応でも人目を惹く。翼の両翼は成人男性を十分に包み込めるほどに広く、黄色い両目は常に好物の蛇を探し求めている。地上を往く人間たちはあなたを「食蛇鵰へびぐいわし」などと呼んだりするが、山地に暮らす原住民はあなたのその美しい羽根を集落の勇士たちの頭に飾ったりする。

 あなたは左右一対となった高雄市と屏東県を南北に切り裂く高屏渓を真っすぐに北上していく。かつて下淡水渓と呼ばれた河川の西岸には、曹公圳そうこうしんと呼ばれる灌漑路が血管のように伸びていて、周囲一帯にはバナナやパイナップル、サトウキビ畑が広がっている。東岸に目を転じれば、六堆ろくたいと呼ばれる客家人の集落が点在している。

 やがて川は二股に分かれる。北上を続ければ、高屏渓こうへいけいは玉山山脈と阿里山山脈の間を流れる旗山渓へと変わり、上流に暮らすカナカナブ族の集落へと至る。確か、日本時代には楠梓仙渓と呼ばれていたはずだ。高屏渓の北端でしばらく旋回を続けていたあなたは、やがて身体の中心を軽く右側に寄せて旗山渓に背を向けた。東へ折れた高屏渓は、六堆客家の「右堆」にあたる高雄市美濃区に沿って北上し、玉山山脈と中央山脈の間を流れる荖濃渓へと変わっていく。

 美濃区から六亀区へと至る山道には、十八羅漢山と呼ばれる険しく反り立った峰々が続いている。20世紀初頭、樟脳の一大生産地であった六亀の街には、北部からやって来た客家人たちが樟脳師として数多く生活していた。昭和12(1937)年には、伐採した大量の楠を輸送するために「六亀隧道」と呼ばれるトンネルが開通したが、現在はすでに封鎖されていた。あなたは進入禁止の警告板を無視して、暗いトンネルを突き抜けた。寝ぼけ眼のコウモリたちがキィキィと非難がましい鳴き声を上げたが、あなたはそんなものはどこ吹く風と、ただ真っすぐに荖濃渓の上空を翔け抜けていく。川沿いの省道を切り開いたのは、戦後国民党とともに大陸各地からやって来た外省人老兵たちだった。

 ブヌン語で「獰猛で安定しない川ラクラク」と呼ばれる荖濃渓は、中流に位置する六亀の街を経て、「四社生番」と呼ばれたラアロア族の暮らす高雄市桃源区へと至る。荖濃の集落上空までやって来ると、心持ち川幅も広くなったように感じた。空腹を覚えたあなたは、川沿いの断崖に生い茂る木々の隙間をジッと見つめる。以前ここで黄色い頭部に黒っぽいまだら模様をした黒眉錦蛇スジオナメラを仕留めたことがあったのだ。全長2メートルに及ぶ黒眉錦蛇は毒もなく、今晩の主菜として悪くなかった。

 ふと、あなたは川沿いに見慣れない人影があることに気付いた。巨大な荷物を背負った辮髪の苦力クーリーに台湾府城からやって来たシラヤ族は、これまで何度か目にしたことがあった。あなたの目を引いたのは、彼らの傍らに立つ奇妙な出で立ちをした二人の紅毛人だった。

 年の頃は20代半ばだろうか。一人は黒いスーツを身に着けて、きれいに撫でつけられた髪と口元に蓄えられた髭から社会的地位の高い人物であることが見て取れた。おそらく、ここ最近増えた宣教師の類に違いない。

 問題はもう一人の男だった。男はスコットランドのキルトを履き、汚れた外套の肩には最新式のスペンサー銃を掛けていた。よくよく見れば、腰元にはこの島ではほとんど見ることがないリボルバー拳銃までぶら下げていて、警戒心に満ちた青い眼孔は、あなたが獲物を捕らえる瞬間に見せる鋭さをたたえていた。

 すぐにこの場を離れるべきだと感じたあなたは、大きく旋回して、再び六亀の方角に向かって羽根を広げようとした。その瞬間、

 パンッ!

 と、乾いた銃声が荖濃渓沿いにこだました。振り返ると、さきほどの男が煙を吐くスペンサー銃を片手に、隣にいたシラヤ族の案内人に何やら大声で話をしていた。胸にどすんと鈍い痛みを感じたあなたは、何とか飛び続けようと両翼を羽ばたかせてみたが、天地は上下左右と目まぐるしく逆転と反転を繰り返し、気付けば目の前には堅く冷たい荖濃渓の水面が迫っていた。

 

高雄市六亀区を流れる荖濃渓

 

――どうにもしくじった。これじゃ、獲物をみすみす川下のやつらにプレゼントしたようなもんじゃないか。

 下流へと流れていく大冠鷲を眺めながら、男は流暢なシラヤ語でそばにいた男に話しかけた。しかしそれを聞いていた年嵩の案内人は、自身が持つ旧式火縄銃と男のスペンサー銃を見比べては、ただ舌を鳴らしてその性能を褒めそやすばかりだった。

――ピッカリングさん。紅毛人は皆こんな高性能の銃を持っておるんですか?

――こいつは新大陸で新しく開発された銃だから、まだ一般には行き渡ってないんじゃないかな。

――新大陸?

――海の向こうさ。漢人たちがやって来た唐山ちゅうごくは旧大陸で、新大陸はあのモリソン山の背後に広がる太平洋を渡った所にある。

 ピッカリングと呼ばれた男は、撃ち終わったスペンサー銃を肩に掛けなおすと、荖濃渓の東側に広がる峰々を指さしながら答えた。紅毛人が玉山のことを「モリソン山」と呼んでいることは知っていた。しかし、生来この川沿いの小さな集落で、彼らの縄張りを侵す客家人や山地原住民らと争って生きてきた案内人にとって、男の発する言葉は聞き取れる取れない以前にどこまでも理解のきわにあった。

――川下には四社熟番の集落があったはずです。獲物は彼らに贈ることにいたしましょう。

 口ひげを蓄えた男が口を開いた。「四社熟番」とは、川下の六亀に暮らすタイボアン族を指し、「熟番」とは漢化した平地原住民族を意味する。六亀に暮らすタイボアン族の勢力はシラヤ族のそれよりも更に小さく、彼らの多くは山地にほど近い渓谷に集落を作っていた。

――マックスウェル牧師は六亀にいる熟番にまで福音を伝えるおつもりですか?

 シラヤ族の案内人が驚いたように口を開いた。すると、案内人が肩にかけていた旧式の火縄銃をめずらしそうに眺めていたピッカリングがやや芝居がかった口調で言った。

――打狗たかお東部はスペイン人にもっていかれてたからな。信者を獲得したいなら、府城からモリソン山にいたるこの場所しかないんだよ。

 台湾西部の開港以降、この島に最初の福音を伝えたのは、スペイン領フィリピンのドミニコ会であった。咸豊9(1859)年には、フェルナンド・サインツ神父によって、打狗港にほど近い高雄市前金区に茅葺の伝道所が建てられた。伝道所は後に玫瑰ローズ聖母聖殿に改築され、台湾における近代カソリック教会発祥の地となった。サインツ神父は更に打狗港から屏東平原を横断する形で布教を行い、その教えは大武山の麓に暮らす平地原住民マカタオ族にまで広がっていった。屏東平原の東端にある萬金村には、今でも玫瑰聖母聖殿と双璧をなす萬金聖母聖殿が当時の姿のまま残っている。

 翻って、一歩遅れる形で南台湾に上陸したプロテスタント系の英国長老教会は、台南の府城から木柵(高雄市内門区)を経て、芎蕉脚きゅうしょうきゃく(高雄市甲仙区)、そして六亀へ至る山道を布教先として選んだ。実際、かつて鴨母王が明朝再興を掲げて挙兵した羅漢門北部には、マックスウェルの福音を聞いた信徒らによって建てられた教会が残っている。いわば、当時の南台湾には二つの巡礼路があったわけだ。

 マックスウェルと呼ばれた牧師は口元に笑みを浮かべながら語った。

――聖書の教えを望む者があれば、我々はただそこに向かうだけです。マカタオ族にもシラヤ族にも、等しく神のご加護があらんことを。

 牧師の言葉に、案内人の付き人であった数人のシラヤ族も祈るように軽く目を閉じた。

高雄市前金区に残る玫瑰聖母聖殿

 

 同治4(1865)年11月、英国の探検家ウィリアム・ピッカリングは、ジョージ・マックスウェル牧師を連れて荖濃渓沿いを調査していた。

 ピッカリングが台湾の歴史に名を残すことになったのは、その山師的な性格もさることながら、何よりも驚異的な語学力にあった。北京官話はもちろん、閩南語や客家語、広東語に原住民言語にまで精通していたピッカリングは、台湾島内で多くの騒乱を引き起こした後、海峡植民地(マレーシア及びシンガポール)で華民護衛司の職に就くなど、一介の水夫としては異例の出世を遂げている。彼は一本の導火線のような存在で、そこに着火した火種は容易に大英帝国という火薬庫にまで飛び火した。残されたその著作からは、彼の大言壮語ぶりと帝国的野心が感じられるが、見方によってはそれがある種の魅力に転じたのかもしれない。

 府城を発った二人は、かつてキリスト教伝道の中心地であった新港社(台南市新市区)でシラヤ族の頭目に面会し、山地探索の案内を乞うた。長年オランダ人と協力関係を築いていた新港社は、オランダ統治の影響を色濃く受けてきた土地柄として知られ、嘉南平原におけるその権勢は決して小さくなかった。ところが17世紀から19世紀にかけて、福建省南部から数多の漢人が台湾西部に渡って来た結果、平地原住民の多くは急速に漢人社会に同化してゆき、それを拒む者たちは東部に広がる山岳地帯へと散っていくしかなかった。

 しかし、彼らが逃れたその先には、当然ながらルカイ族やラアロア族などの山地原住民族が暮らしていた。そこに東部から新たな勢力として勇猛果敢で名を馳せたブヌン族が現れ、その上打狗港からは200年ぶりに紅毛人たちが上陸してきていたのだ。19世紀後半における荖濃渓沿いは、さながら異なる民族が縦糸横糸と駆け抜けることで編まれた長大な布帛の様相を呈していた。

――紅毛の親戚よ。あんたの銃の威力はすさまじいな。こいつさえあれば、府城でふんぞり返っている漢人も「出草くびかり」にやって来る生番やばんじんもまとめてぶち殺すことができるのに。

 年嵩の案内人はひどく興奮した口調で言った。ピッカリングの記録によれば、シラヤ族の多くは、彼ら白人を「紅毛の親戚」と呼んで歓迎したとされる。かつてオランダ人と同盟を組んでいたシラヤ族の中には、二世紀前に鄭成功の軍隊に追い払われてしまった白人を懐かしむ者もおり、とりわけ漢人に土地や言語まで奪われてしまったシラヤ族にはそうした気持ちが強かったのかもしれない。

 芎蕉脚から荖濃の集落へと辿り着いたピッカリングらは、久々に訪ねてきた「紅毛の親戚」として大いに歓迎を受けた。彼らが到着したその日、図らずもラアロア族とブヌン族も交易のために集落を訪れていた。双方から武器を預かった荖濃シラヤの頭目は、交易の期間中は面倒事を起こさないようにときつく言い含めた。

 普段は対立関係にあった三者も、交易の場では矛を収めて酒を酌み交わした。酩酊したブヌン族の族長は、これまで2、30人の人間を馘首したと云い、ラアロア族の頭目もそれに負けじと己の武勇を語った。饗宴は明け方まで続き、シラヤ族の頭目は彼らに浴びるほど酒をふるまった。彼らが酔えば酔うほど、交渉はシラヤ人側に有利に運ぶはずだった。かつて平地の漢人から受けた仕打ちを、彼らはそのまま山地の原住民に向けて意趣返ししていたのだ。

 翌日、宿酔する集落にハイセン社からの使者が訪れた。ハイセン社は荖濃渓上流にあるラアロア族の集落で、聞けば当地の頭目がひどいリウマチを患い、治療に来てほしいという知らせだった。当時台湾を訪れた宣教師たちの仕事は、伝道、医療、教育の3本柱で成り立っていたが、とりわけ医療のニーズは高く、牧師の神医ぶりを聞いた人々はこぞって彼の元下を訪れていた。府城で漢人相手の布教に失敗していたマックスウェルは、使者の誘いに一も二もなく了承したのであった。




 ラアロア族は400人ほどしかいないごく小さな部族で、かつてはツォウ族の支族とされていたが、2014年にその独自の文化と言語が認められて独立した。

 言葉も文化も異なる台湾の山地原住民族の間にはある共通した伝説がある。それは浅黒い肌をした小人族が、原住民に様々な知識を教えて、その暮らしを豊かにしてくれたといった伝承である。ラアロア族もその昔、彼らの先祖が「太陽が昇る地」で小人族たちと暮らしていたが、やがて増えすぎた人口が小人族の生活を妨げることになると考え、当地を離れることを決めた。その際、偉大な小人族は神々が宿る12個の「聖なる貝」をラアロア族に授けたとされる。現在一年一度行われる「聖貝祭」は、ラアロア族を守るそれらの聖貝に感謝の気持ちを込めて行う宗教行事である。

 この儀式を一目見るために、ぼくは市内から90キロほど離れた高雄市桃源区にある美蘭集落までバイクを走らせたことがあった。霧に包まれた山間の集落では、伝統衣装に身を包んだラアロア族の人々が互いに腕を組んで美しい歌声を響かせていた。キョンの皮で作られたどんぐり型の帽子には白い貝殻が埋め込まれ、そこにタカやミカドキジの羽根が差されていた。集会所では「聖貝」をめぐる儀式が粛々と執り行われていたが、儀式の合間に先祖伝来の「番刀」を披露してくれる者もいて、ぼくは興奮してカメラのシャッターを押したのを覚えている。

 ところが、荖濃渓を南下してネオン輝く高雄市内に戻ってくると、ほんの4、5時間前まで耳にしていたラアロア族の歌声が、まるで幻であったかのような感覚に捉われてしまったのだ。しかも、そこで撮影された写真や動画は主催者の許可なくインターネットなどにアップロードすることが固く禁止されていたために、今でもそのときに撮った写真はカメラの中で眠ったままになっている。

 問ふ。「今は是れ何の世ぞ。」すなわち漢有るを知らず、魏・晋に論無し。

 ふと、陶淵明の『桃花源記』の一節が頭をよぎった。もちろん、高雄の山中深くに眠る実際の「桃源郷」は、時代によって異なる政権が寝返りを打つ度に何度も傷ついてきた歴史を持ち、民族衣装に身を包んで儀式に参加する者たちも、ナイキやアディダスのシューズを履き、若者たちの中で先祖の言葉を覚えている者も少なく、話しかければ必ず流暢な中国語が返ってきた。

 日が暮れて、ほこりだらけになって帰ってきたぼくを見た隣人が、半ば呆れた顔つきで今度はまたどこに行っていたのだと尋ねてきた。

――桃源タオイェンにラアロア族の祭りを見に行ってたんだ。

――ラア……なんだって?

――ラアロア族。原住民族だよ。

――へえ、桃園タオイェンにも原住民族がいたんだ。

 ラアロア族の暮らす「桃源」は、国際空港がある北部の大都市「桃園」と同じ発音であるために、しばしば勘違いされることがある。ぼくはカメラに収めた儀式の様子を彼に見せてやろうかと思ったが、半導体企業に勤めて毎晩遅くに帰宅してくる彼にはきっと興味がないと思いそのまま別れを告げた。

 此の中の人語りて云ふ。「外人の為にふに足らざるなり」と。

高雄市桃源区の山道の壁に描かれた「聖貝祭」の様子

 

 葦で編まれたハイセン社の集会所の壁には18本の辮髪が掛けられていた。

 ピッカリングは興味深そうにそれを手に取って眺めていたが、そこに同胞の遺髪があるかもしれないと思ったシラヤ族の者たちは、ただ遠巻きにその様子を眺めていた。彼らはこの「紅毛の親戚」が訪ねてきたことが、果たして吉と出るのか凶と出るかはかりかねているようだった。一方、医療品と聖書を携えてやって来たマックスウェルはどこに行っても歓迎され、そのまま川向いのビラン社まで足を延ばすことになった。

 ところが、シラヤ族の案内人はすぐこの場を立ち去るべきだと告げた。

――マガ社の者がこちらに向かっているのです。

 マガ社とは現在の高雄市茂林区にあるルカイ族の集落で、荖濃渓沿いのシラヤ族とは敵対関係にあった。中央山脈から新たに勢力を伸ばしてきたブヌン族と対抗するために、荖濃渓南部に暮らすルカイ族は北部にいるラアロア族と同盟関係を結んでその進出に抵抗していた。勢力が小さく、完全に自立できないラアロア族は、府城の漢人と交流のあるシラヤ族から火薬や食料、武器などを手に入れる必要があったが、マガ社のルカイ族はむしろそのシラヤ族に土地を追われたタイボアン族と良好な関係を結んでいた。

――とにかく、マガ社やつらとかち合うのはまずいのです。

 事情を知らぬピッカリングらに、当地の複雑な勢力図を理解する時間を与える暇はなかった。案内人は急いで苦力たちに荷物をまとめさせると、早々に荖濃渓沿いに南下をはじめた。ところが数キロもいかないうちに、北上してくるマガ社の人間と遭遇してしまったのだ。

 男4人に女3人。

 案内人は胸に抱えていた火縄銃の用心金にそっと指を滑り込ませた。人数は互角だ。だが、こちらには紅毛人の新式銃がある。

――身内チンランだ!

 次の瞬間、張り詰めた氷のような緊張を叩き壊すように、ピッカリングが閩南語で叫んだ。両手を頭上に掲げ、抵抗の意思がないことを全身で示していたが、そのあまりにあけすけな様子に、マガ社の者たちも思わず声をあげて笑った。「訳者は役者に通ず」と言われるが、その点この男は一流の役者でもあった。腹の底にどれだけ帝国主義的な野心を秘めていても、現地住民の前ではそれをおくびにも出さずに、相手と固い抱擁を交わすことができた。

 チャウポーと呼ばれる戦士が歩み寄ると、腰に下げたキセルを差し出した。ピッカリングはそれを旨そうに呑むと、ポケットに詰め込んでいた火薬やらガラクタの類をチャウポーに手渡して友誼を示した。それから自分とマックスウェルを指さして、何度も自己紹介を繰り返した。シラヤ族の随行者たちは少し距離をとった場所で両者の交流を眺めていたが、やがて案内人が恐る恐る進み出てピッカリングの耳元でささやいた。

――彼らにいつ、どの道を通ってマガ社に戻るのか尋ねてもらえませんか? 我らとしても後日彼らと予期せぬ遭遇をすることは避けたいのです。

 ピッカリングは案内人の疑問をそのままチャウポーらに伝えた。平地の言葉が分かる女性が間に立ち、辛抱強く彼の疑問に答えてくれた。両者は再びビラン社まで戻って、そこで一夜を過した。翌朝、ピッカリング一行はビラン社を離れて、荖濃の集落へと戻っていった。




 集落に戻った翌日、狩りに出かけていたという案内人の息子たちが帰ってきた。銃を片手に高揚した様子の若者たちの痩せた肩には、不思議とイノシシ一頭、キョン一匹担がれていなかった。

――紅毛の親戚よ。あんたのおかげだ。やはりあんたたちはこの集落に福をもたらした。

 ひどく上機嫌な案内人の言葉にピッカリングは首を傾げた。

――はて、彼らは手ぶらで帰ってきたようだが。

――熟番われら生番やつらと違って、人さまの首を誇らしげに飾るような習慣はないのですよ。

 案内人の言葉に、ピッカリングはようやく自分が騙されていたことに気付いた。

――殺したのか! チャウポーたちを。

――我らが生き残るためです。

 ピッカリングの狼狽ぶりに案内人は声をあげて笑ったが、怜悧老獪なその両目は、どこか彼らが忌み嫌う平地の漢人のそれによく似ていた。

 はたして嘉南平原の故郷を追われ、荖濃渓で生存競争にさらされていたシラヤ族の者たちはこうして束の間の平穏を得た。翌年、山地資源の調査に再びマガ社を訪れたピッカリングは、そこで難を逃れたチャウポーと奇蹟的な再会を果たしたが、他の6人がどうなったのかについては記されていない。

高雄市茂林区にある旧マガ社。ルカイ族が暮らす

 

 山道には、「當心蝴蝶(蝶々に注意)」の標識が立てられていた。美濃区から茂林区を経て六亀の街に入ったぼくは、肩で息をする相棒を路傍に止めて滔々と流れる清流を眺めた。ふと、紫色の羽根をしたスウィンホー・ルリマダラが鼻先を掠めていった。

 チャウポーらが暮らした旧マガ社は、毎年全島から越冬するルリマダラが数十万頭単位で移動することで知られている。台風の度に真っ黒な濁流へと変わる荖濃渓の急流は、やがてシラヤ族やタイボアン族を歴史の片隅へと押し流してしまった。いまとなっては、荖濃沿いの集落では「公廨こんかい」と呼ばれる集会所の他に、彼らが生活していた痕跡を見つけることは難しい。マガ社と友好関係にあった六亀にも、かつては多数のタイボアン族が暮らしていたが、「漢化」することで民族言語や多くの文化を失ってしまった彼ら平地原住民は、いまでも台湾政府から正式な原住民族としては認められていない。

 川面には透き通るような空の碧さが反射され、その表面をルリマダラの群れが滑るように舞い踊っていた。水面に大空を旋回する大冠鷲の影が浮かんだ。突き抜けるような青空を見上げたぼくは、大冠鷲になった自身の姿を想像しながら、引き続きこの川を遡っていった。

スウィンホー・ルリマダラ。高雄市茂林区など荖濃渓沿いの渓谷では、冬場に数十万頭単位の蝶々が越冬することで知られる

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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