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カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す

第5回

 

第4章 形而上学(独在論)と超越論哲学

 

一 「私は考える」と「私は思う」

 

1 この章では第二版における「純粋悟性概念の演繹」を検討する。この版では、直観における把捉の総合、構想力における再生の総合、概念における再認の総合という、第一版におけるいわゆる三重の総合の構想は捨てられているように見える。議論はいきなり「結合一般の可能性について」から始まり、その「可能性」の根拠は「Einheit(統一、一性、一つであること)」にある、とされるからだ。

 

それゆえ、この統一の表象は結合から生じることはできず、むしろ[逆に]、統一の表象が多様なものの表象に付け加わることによって結合という概念をはじめて可能ならしめるのである。(B131)

 

これを読まれた瞬間に、前章で論じた渡り台詞の不可能性という問題を思い起こしていただけると、大変に喜ばしい。まさにそのような意味において、結合はじつは統一を前提としてはじめて可能になるのである。渡り台詞ではないこと、つまり渡らぬ台詞であることが、すなわち統一(一性)である。渡り台詞の場合は台詞であるから、台詞そのものは渡ることが可能であるが、それに対応する渡り思考はまったくありえない。思考自体が渡ればそれとともに統一(一性)が生じるので、(たとえ身体的には分かれていても)一つの主観、一人の人がそこに成立してしまうからである。とはいえもちろん、その思考もまた渡り台詞化可能なたんなる概念の結合(総合)に支えられて行われざるをえない。しかしそれでも、前章の二で論じたように、結合を誠実(正直、本気)たらしめる(すなわち台詞でも嘘でも冗談でもなくする)ものが、結合そのものとは別に必要なのである。それはたんに諸概念を結合するだけではなく、(わかりやすくいえば)その結合がそれしかない、、、、場で起こるがゆえに、その結合そのものとは無関係な、同時に生じる別の意識現象も、一蓮托生とならざるをえない、ということである。そうした全体を伴わざるをえないがゆえに、思考はもはや渡ることができない*。渡るべきそれの外部(=それとは別のもの)が存在しないからである。それが同時に世界の開けの唯一の原点でもあるからである。観点を逆にして言えば、結合(総合)それ自体は統一から離れても(渡りうる意味として)はたらきうるし、そのように離れてもはたらきうるからこそ統一的意識に属する個別的内容を形成することもできるわけである。

*この場合、思考を思と考に、すなわち思い的要素と考え的要素に、分けて考えることができる。考えは概念のたんなる結合であり、思いはそれに伴いうるすべてを含む、と区分することもできるが、むしろ、思いはそれに伴いうるすべてのほうだけ、すなわち概念の結合という要素を必要としない、たんなる現象の生起だけを指す、と区分するほうが後の議論における分類に適合する。この分類は段落3、4、5において再定義される。

2 それゆえ、なぜある特定の結合の組み合わせが、それだけが実効性をもって(=なんちゃってビリティを免れて)最終的に有効に働きうるのか、といえば、それはもちろん前段落で述べたように、統一という意味でのEinheitがはたらくからなのではあるが、しかしその統一そのものはどうして成立するのかといえば、それはやはり一つであること、一つしかないことという意味でのEinheitの現実性によって、でしかありえないことになる。もしそうでなければ、統一される理由はやはりそれぞれの結合と、そのまた結合の側に、究極的にはバラされてしまい、それらが一つになるのは、やはりそれぞれの結合が次々と繋がることによってでしかありえないことになるからである。それでは渡り台詞と同じであり、演技や嘘や冗談と区別がつかない。だから、そうした結合とは別に、そもそも原理的にその一つしかないという意味でのEinheitの場がどうしても必要なのである*

*ちなみに、『純粋理性批判』において結合(総合)と統一が別の根拠から出て来ることは、『実践理性批判』や『道徳形而上学基礎づけ』において定言命法で表されることがらのうち命法性と普遍妥当性とがじつは別の源泉に由来していることと並行的な現象である。もちろん定言命法が統一に、普遍妥当性が結合(総合)に対応する。結合を可能にするカテゴリーの内容や普遍妥当的な道徳律の内容そのものは、それに誠実に(本気で、冗談化不可能な仕方で)従わせる力を持たない。しかしまた逆に、従わせる力の側(定言命法性や統一性)がその内容を創り出せるわけでもない。Einheitは極めて重要だが、それがカテゴリーを創り出せるわけではない。

3 ここからすぐにわかることは、このはたらきは根源的に唯一(einig)でなければならず、すべての結合が等しくこのはたらきに拠るのでなければならないということ、また、総合の反対である分解、すなわち分析も、やはりこのはたらきを前提するものであるということ、これである。(B130)

ここでは、結合によって一つになるのではなく、一つであることによって結合が成り立つと言われている。直観に与えられる多様なものどもを結びつける場合も、複数の概念を結びつける場合も、それらは最終的には必ずこの「一つさ」によって繫がるのでなければならないのだ。

 

私は考える、、、、、は私のすべての表象に伴いうる、、のでなければならない。なぜなら、もしそうでなければ、まったく考えられないものが私の内で表象されることになってしまうからである。これは、その表象が不可能であるか、あるいは少なくとも私にとっては無に等しいことを意味する。(B131-2)

 

冒頭の「私は考える」の「考える」は、表象を結合することを意味している。したがって、この「私は考える」は、デカルトの「私は思う(コギト)」とはまったく違うことを意味している。この点に注意しなければならない。デカルトの「私は思う」の場合は、思われている対象あるいは内容はとくに結合されている必要はなく、また(まさにここが問題なのだが、あえて強調していえば)結合されうる、、必要さえもない、といえる。たとえば何らかのぼんやりした気分がただあれば、ただそれがある、、というだけで、それは必ず「私が思っている」対象あるいは内容であるから、それがあることはすなわち「私は(それを)思う」ということであり、そのことは即座に「(ゆえに)私はある」ということを意味する。「私」とは「思うもの」であり、現実に、、、思うものはそれ一つしかないので、現実に何か「思い」が生じれば、それは必ず私が思っていることになり、それゆえに私は存在していることになるからである。他人が思っていることは現実には表象されえない(それが自分と他人の違いである)のだから、これはまったくあたりまえのことを言っているにすぎない。カスタネダやシューメイカーの誤同定不可能性をめぐる議論もこのデカルト的伝統を引き継いでおり、それらはカントがここで始めようとしている議論とははっきりと断絶している。カントはこのデカルト的伝統を本質的な(それこそが哲学的に最も重要な)こととしては引き継がなかったのである*

*いま扱ってる第二版の演繹論の、後にもういちど論じることになる第25項の冒頭で、カントはこう言っている。

 

これに対して、諸表象一般の多様なものの超越論的総合において、すなわち統覚の総合的な根源的統一において、私が私自身を意識するということは、私が私に現象するとおりに意識するのでもなければ、私それ自体が存在するとおりに意識するのでもなく、私は存在するということ、、、、、だけを意識するのである。この表象[私は存在するということ、、、、、の]は思考、、であって直観、、ではない。(B157)

 

続けて、これはたんに「意識する」だけなのであって「認識する」のではないという論点が論じられていくが、その前にまず、これが直観ではなく思考であるという点が重要である。直観ではなく思考であるとは、何か単独の表象ではなく結合(総合)の表象であるということを意味する。しかし、結合(総合)の表象であるにもかかわらず、結合の内容の表象ではなくたんに結合作用の存在そのものの表象なのである。それが「私」の存在の意識である。さらに注では、

 

「私は考える」は、私の存在を規定するはたらきを表現している。それゆえ、これによって私の存在はすでに与えられているのではあるが、……」(B157)

 

ここでは、コギトならばすでにしてスムであるのだ、と形の上ではデカルトと同じことが言われているのだが、その言わんとするところは違っている。ここでのコギトは結合作用を指しているので、これは、結合作用がはたらいてさえいれば私は存在している、と言われていることになるからである。すでに述べたように、デカルト的な「コギトならばすでにしてスム」には結合作用など必要とされない。必要とされるのは直接的な確実性(不可疑性)である。だから、他者のコギト(すなわちコギタト)からはスム(すなわちエスト)は帰結しないのだ。そのことが前提されたうえで、次の段階ではこの階層差が形式化されて累進構造が成立する、という点が私が「デカルト的」と呼ぶ事態の基本構造である。カントにはこの視点がない。ここで言われていることは、つづめて言えば「結合することが「私」を作り出す、だからそのことを意識するだけで(認識しなくとも)私は存在することになる」ということにすぎない。この問題にかんするかぎり疑う余地なくそれらを超えて最重要である「で、誰が?」がそもそも問われないのだ。

4 それゆえ、次の「なぜなら、もしそうでなければ、まったく考えられないものが私の内で表象されることになってしまうからである」は、このカント的立場の強力な表明だとみなすべきである。前段落で対立関係に置いたデカルト的な立場からすれば、まったく考えられないものが私の内で表象されることになってしまっても、そこには何の問題もない。というか、私が表象するかなり多くのものは、持続する私によっては「まったく考えられないもの」であるともいえるはずである*。何とも結合されずにすぐに消えてなくなるからだ。それでも、それが起こったなら、デカルト的には「私は(それを)思った」のである。カテゴリーに従った結合などはそもそも必要とされない。カスタネダ・シューメイカー的にもそうであり、さらに言えばウィトゲンシュタインの「主体としての使用」における「私」の場合もそうである。それらにはそもそも結合や統一の問題などはまったく考慮されていない(あるいははっきりと一瞬にして忘れ去られてもかまわないと考えられている)。その場合、そのことは少しも「その表象が不可能である」ことを意味しないし、「少なくとも私にとっては無に等しい」ことも意味しない。たとえ何とも結合されなくとも、すなわち「考え」られなくとも、それを「思う」ことはでき、それは無ではなくはっきりと有なのである。問題把握の根底がヨコ問題的だからである。このヨコ問題的センスが、カントは著しく欠けている。

*カント的には、それらは私が表象したともいえない、ということになるだろう。それはそれで十分な根拠はあることを、ぜひとも噛みしめて味わってほしい。

5 ここには、日本語ならば「私は思う」と「私は考える」と訳し分けることもできるが、しかしもともとはまったく同義であるといわざるをえないego cogitoとIch denkeとの対立が存在し、そのことがそれの主体である「私」とはそもそも何であるかにかんする根源的な捉え方の違いを作り出しているのである*。しかし、続けてカントはこう言っている。

 

あらゆる思考に先立って与えられうるような表象は直観と呼ばれる。それゆえ、直観におけるすべての多様なものは、その多様なものがそこにおいて見出されるまさにその主観において、「私は考える」への必然的な関係をもつ。(B132)

 

この第二文は、ある意味では、まったくあたりまえのことを言っているにすぎないとも読めるが、別の意味ではあまり出来がよくないとも読める。第一に、この言い方だと、「…がそこにおいて見出される…主観」なるものが「私は考える」による統一以前に(それとは別に)存在するようにも読めるが、するとその「主観」とはいったい何なのか、という疑問が生じるからである。そういう「主観」は、先ほどの分類に拠れば、「私は思う」においては存在してよい(というかそれこそが疑う余地なく、、、、、、存在する)のだが、「私は考える」においては存在してはならない(というかそれこそが存在できない)と考えられるからである。この後者においては、もしそういう「主観」が存在しうるとすれば、それはまさに「私は考える」による統一によって初めて可能になるのでなければならず、それ以前に(それとは別に)同一的な「主観」なるものが存在しうると考えるのは、直証主義的迷妄が直に入り込んでいるかのようにも読めるからである。そして第二に、ここで「…まさにその主観(あるいは「…同一の主観」)」と言われると、当然、「…まさにその主観ではない他の主観(…同一でない別の主観)」たちもまた存在し、それらにおける「私は考える」もまた存在することになるだろうが、そうすると、まさにその(同じ)主観か、まさにそのではない(同じではない)他の主観かを区別する基準は、「私は考える」というはたらきとは別のところにあらざるをえないことになり、その差異そのもの(要するに自分である主観と自分でない主観との違いを作り出している根拠)は(両者ともに存在する「私は考える」以外の)いったい何にあるのか、という疑問の余地が生じざるをえないことになる。そんな根源的なところに疑問の余地があって、その答えがどこにも用意されていないとあっては、超越論的な哲学としては甚だ具合が悪いことになるだろう。

*これをヨコ問題とタテ問題の対立と呼ぶこともできはするが、とはいえ、〈私〉だけでなく〈今〉の問題を考慮に入れれば、ここでタテ問題とされている結合や統一の成立にも、それはそれでヨコ問題が伏在していることはいうまでもない。「私は考える」とは違って、「私は思う」には〈今〉の存在もまた明白にはたらいており、次の段落で述べるように、それはまた「私は考える」にもじつは暗にはたらくことになるからである。(この議論をここに含めると、話はさらに複雑になるので、必要最小限を除いて触れず行くが。)

6 この二つの疑念についてどう答えるべきか、カントのテキスト解釈を離れて、私自身の(とはいえ私自身がカント的だと思うという意味での)考えを端的に述べるなら、それはこうだ。「その多様なものがそこにおいて見出されるまさにその主観」であるかどうかは、まさにこの「私は考える」による統一によって決まる、とされねばならない*、と。しかし、その際には、その「私は考える」には「私は思う」から密輸入された要素も暗に含まれていなければならない。そうでなければ、統一(渡らぬ性)も成立しないし、後のデカルト批判も意味のないものとなってしまうからである。その密輸入によって、私とはこれ、、のことであるという基礎的なデカルト的直証性がまずは成立すると考えなければならない**しかし、それだけでは、それは持続できない。あるとき、世界の開けの唯一の原点(である者)が「これ、、が私である」と(現実にそうであるので)自己確証し、別の時にまた、やはり世界の開けの唯一の原点(である者)が「これ、、が私である」と(やはり現実にそうであるので)自己確証したとしても、その二回における端的な唯一性という事実の存在にもかかわらず、両者のあいだに同一性の関係は成立しない(という意味では、そもそも事態をこのように描写すること自体が不適切である)。繰り返すが、これが成立すると考えてしまうことこそがカントが告発する「誤謬推理」(の根幹)でなければならない。

 

*カントのもともとの文言をそのように読み込むことも可能であり、私が「カント研究者」であったならそう読んで、ここで言っているようなことを「カント解釈」として述べたく思うであろう。

**カントがこの捉え方に最も明らかに近づいていると思われる箇所は、『プロレゴーメナ』S.334の「私とは現に存在しているという感じのことである」と言っている箇所であろう。これは、段落3の長い注*で指摘した箇所よりもさらに一歩踏み込んで(口を滑らせて?)いるといえる。他人の「現に存在しているという感じ」は感じられない。それだから、その人は私ではなく他人なのである。それが「私」ということの意味でなければならない。それでも、他人もまたじつは(その他人自身にとっては)「現に存在する感じ」を感じているはずだ、というのはあくまでも人称カテゴリーが持ち込む根源的な規約にすぎない。さらなる問題は、この自他の対比はそれ自体が、「私」を〈私〉と取っても《私》と取っても成り立つということにあるのだが、ここではその議論にまでは進まない(でその点は曖昧にしておく)。

7 前段落の二回の「これ、、が私である」の「これ」は何らかの記憶を指していてもよいことに注意されたい。その場合、これらはどちらも、ここに唯一の端的な記憶が存在している(それはこれ、、である)という意味であることになる。もちろん、それらが記憶を指していようと感情を指していようと疑いを指していようと、そのようなことはそこから「私は思う、ゆえに私は在る」が成立することに変わりはない。ともあれ実際のところ、われわれは皆、それが記憶である場合のやり方で自分が誰であるか、何であるかを捉えているはずだ。それ以外の方法はありえないからだ。それにもかかわらず、その二つの記憶内容には何の繋がりもないことが可能なのだ。複数の「これ、、が私である」を繋げるのは記憶内容の側だからである。それゆえ、後に起こるほうの「これ、、が私である」の「私」にとっては、そのこれ、、(=この、、記憶)の内容、、の側に含まれている過去の「これ、、が私である」こそが過去の私であるほかはない。この問題にかんしては、それを超えた過去の事実というものは存在しないからだ。かりにそういうものが存在したと考えたとしても、その痕跡は原理的にどこにも残らないので、存在しなかったのと同じことになる。これこそが、独在性の矛を決して突き通させない超越論的統覚の盾の超越論的な力なのである*。にもかかわらず、最後の一点においては、デカルト的な「私は思う」とカント的な「私は考える」は確かに出合っており、出合っているのでなければならない。もし出会わければ「私は考える」も始まりえない(渡り台詞のような単なる有意味な語列、単なる可能的な思考に終わる)からである。

*それでも、このような過去の事実が存在しうるのではないか、と考えてしまうのも、やはり「誤謬推理」である。

8 その場合、その記憶の繋がりによって複数の「これ、、が私である」は繋がるのであろうか。繫がる、ということになるのだ。観点を変えれば、その繋がりはいつも最終回の内部で作り出されるにすぎない、ともいえるのではあるが、それでもやはり問題なく繫がると考えるべきなのである。それ以外に、繋げる方法は存在せず、しかもその繋がりこそがすべての基盤だからである。これが、「私は考える」が作り出す新たな一性(Einheit)である。それは、たんなる諸表象の結合(総合)とは異なり、複数の「私は思う」を、記憶という形をとって、あたかも直証的連関が現実に存在するかのように、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、すべて繋ぐのである。本当に、、、繋いでいるのか、という問いは立てられない。本当に、という問いが立てられるのは、身体との関係において、正しい記憶であるかどうかのほうだけである*。私の記憶は、記憶違いである(客観的事実とされるものとの関係で偽である)ことはどこまでも可能だが、その根幹的内容がじつは私のものでないということはありえない。その内容こそが私が誰であり何であるかを決定しているからである。要するに、私とはそれ、、のことなのである。ここでは、私とは端的に世界がそこから開けている(=端的にその目から世界が見え、端的にその体に痛みや痒みを感じ、…る)世界の開けの原点である、という第一基準的理解とともに、あくまでもその上に乗ってであらねばならないとはいえ、その際に端的に与えられている記憶の内容、、が作り出しているその人物でもあらねばならない、という第二基準的理解が効力を発揮しなければならないのである**

*この差異が後の誤謬推理と観念論論駁との差異である。

**すなわちここで、記憶というその一点において、その実存(端的に「それがある、、、」こと)とその本質(端的に「それである、、、」こと)が結合するのである。

9 あくまでもその上に乗ってでなければならないのであるから、まったく(あるいは本質的な点で)同一の記憶を持っている人が別に存在したとしても、その人もまた私であることは、それだけではできない。とはいえしかし、記憶が同じであるなら、私はすでにして――そんな人が存在することさえ知らなくとも――その人のその、、記憶を持っている、ともいえることに注意すべきである。つまり、現実に実存している唯一の記憶のその、、内容は、すでにしてその人の記憶でもあるのだ。実存と本質の結合はすでにしてそこにまで波及しうるのである。その意味においては、彼がいま殴られても蹴られても痛くも痒くも感じられなくとも(すなわちそこは結合していなくとも)、彼は今すでにして私である、ともいえるのである。それでは、私が突然死んだ場合は、私は彼になるのだろうか。なるといえる道筋はすでに確保されている。他の持続的要素が消えれば、もともと私であるとも言えた彼が私になるという(その描写が最も適切である)事態が実現するであろう。むしろ逆に、生前は決して彼になれないのはなぜか、という問いのほうがより根深い謎として残るはずである。いずれにおいてもたしかに超越論的構成の盾が見事にはたらいてはおり、それはたしかに独在性の矛に自分を貫かせぬようにしているように見えるとはいえ、第二の問いを深く考慮すれば、矛の存在そのものはむしろその盾の力で守り抜かれているといわざるをえないのではないか、という疑念が生じるはずである。ここには、明らかにむしろ形而上学の優位が認められるからである。(この議論の続きは、いくつかの他の検討を経て、段落19以下でなされることになる。)

 

二 デカルトのカント的補強とは何か

 

10 引用文のコメントとしては不相応に長く独自の議論を展開してしまったが、テキストに戻ろう。次にカントは、この「私は考える」という「表象」を「純粋統覚」「根源的統覚」と呼ぶと言って、それは次のような「自己意識」だと言う。

 

あらゆる他の諸表象に伴いうるのでなければならない「私は考える」という表象を産み出し、それゆえにあらゆる意識において同一であって、いかなる他の表象によっても伴われえない自己意識(B132)

 

すべてに伴いうるのに何によっても伴われえないのは、すべてはそれから開けており、その意味において、じつはそれしかない、、、、からである*。森羅万象はそこから開けており、その背後には何もない。ありえないのだ。一つの「私は考える」によって纏められうるのでなければならないことによる「統一」の根底には、このような事態が存在する。

*しかないことによって「本当にそう思っている」ことが成立する。たんなる結合(総合)だけでは本気かどうかわからないが、もし結合の繋がりがその一つしかなければ、それは本当に思っていることであるしかない。

11 それは、いま直接的に思い出されなくてもよい。たまたまその時は伴っていなくても、それはかまわない。とはいえ、意味的に(すなわち渡り台詞化可能な、、、意味的な繋がりで)繋げられることによって繋がる場合が中核的な役割を演じざるをえない。繋げるためには規則に従った結合が必要であり、それゆえに、この純粋統覚は超越論的統覚でもあらざるをえないことになる。前者は「私は思う」のデカルト的要素を受け継ぎ、後者はそれらをカテゴリーに従って繋げるカント的要素をそこに付加している。そこに付加している、とも確かにいえるとはいえ、むしろ逆に、そちらの側が可能的な(すなわち現実的ではない)デカルト的要素を(すなわちそのときデカルト的に直証的であったことに後からさせる要素を)そこに付加しているともいえる。意味的に繋がることによる場合が中核的な役割を演じざるをえないとはいえ、そうではない無意味な偶然の連鎖もそこに付随しうる*。ふと思い出されるだけでも、そこに「私は思っていた」が作り出され、「私は考える」の内に結合されうる。その意味では、この「私は考える」には「私は思う」の裏打ちがつねにはたらいている、ともいえるのである。あらゆる表象に伴い「うる」のは、「私は考える」が「私は思う」を繋げうるからだ、ともいえるからである。このことによって、デカルト的直証性と客観的有意味性とが不可避的に繋がる。この認識は画期的である。そのことが自己同一性の根拠と世界の客観性の根拠(とさらにその根底にある言語的有意味性の根拠)とを繋げることによって一挙に打ち立てるからである。

*段落16において具体例が提示される。

12 さまざまな諸表象に伴う経験的意識は、それ自体としてはバラバラであって、主観の同一性との連関をもってはいない。それゆえこの連関は、私がそれぞれの表象を意識することによってはまだ生ぜず、私がある表象に他の表象を付け加え、、、、てそれらの総合を意識することによって生じる。このように、私が与えられた諸表象の多様を一つの意識において、、、、、、、、、結合できることによってのみ、私がこれらの諸表象における意識の同一性、、、、、、、、、、、、、、、、、を自ら表象することが可能となる。すなわち、統覚の分析的、、、統一は何らかの総合的、、、統一を前提してのみ可能となるのだ。(B133)

 

これはもう、われわれがよく知っていることを繰り返しているだけだ、ともいえはするが、とはいえやはり繰り返して、これは常軌を逸した不思議なことを言っている、と捉え直す必要がある。まず、この「…それ自体ではバラバラで、主観の同一性との連関をもってはいない」という見地を、まったく当然の前提のように受け止めているカント研究者が多いように見えるのだが、それは私には不思議な現象である。ここでカントが非常に変なことを言っていると思わないならば、彼の議論の驚くべき達成もまた理解できなくはないだろうか。ごくごく普通に考えれば、「さまざまな諸表象に伴う経験的意識」は、それぞれが(それ自体としては!)ただバラバラで何の関係もなくとも、ともあれそれらがみな経験された、、、、、というただそれだけで、すでにして「主観の同一性との連関をもって」いることになるはずだからだ。理由は簡単で、他者の経験することはそもそも経験できないのだから、現実に、、、経験ができたのであれば、それらはすべて私が――それゆえ同一の主観が――経験したことにならざるをえないからである。だから、ともあれそれらを経験した、、、、のであれば、ただそれだけの関係で「主観の同一性との連関をもって」いざるをえないことになるはずなのである。しかし、ここではむしろ、そのような否定不可能に見える理路が「分析的」と呼ばれてはっきり否定され、そうした連関は必ず総合によって裏打ちされねばならない、と言われているわけである。

13 これはもちろん、前章の段落16で言及した「ウィトゲンシュタイン的見地」の否定でもある。が、それはまた同時に「デカルト的見地」の否定でもあるといえる。「現実に経験ができたのであれば、それらはすべて私が経験したことになる」は、そのまま「私は思う、ゆえに私はある(コギト・エルゴ・スム)」と翻訳可能だからである(正確に「直訳」するなら、「思いがあるならば、思っているのは私だ」であり、このほうがよりこの事態を正確に表現しているが)。このデカルト‐ウィトゲンシュタイン的見地は、それはそれで成り立つのではあるが、カントの見地から見れば、それはまだ、ただ「それぞれの表象を意識」しているだけであって、「他の表象を付け加えてそれらの総合を意識」してはいない、ということになるだろう。総合を意識するときに初めて「私は考える」が成り立つのである。このように、カントの見地からすると、「私」が成立するためには、複数の表象が結びつけられてその総合が意識されることが不可欠なのである。もっとくわしくいえば、それら複数の表象における意識の同一性それ自体が表象されることが、である。

14 それはたしかに不可欠であるかもしれないが、逆にしかし、デカルト‐ウィトゲンシュタイン的見地からすれば、たとえそのような総合が意識されるということが起こっていたとしても、それだけではまだ、その総合が現実的な総合か可能的(概念的な)総合かは、いいかえれば私における、、、、、総合か他者における、、、、、、総合かは決まらないではないか、と問えるのである。すなわち、カントの議論には、「私」の成立にかんして、最も枢要な点が抜け落ちているのだ。しかし、実をいえば、カント的見地はデカルト‐ウィトゲンシュタイン的見地から切り離されては意味がないだろう。なぜなら、その見地を密輸入することによってしか、渡り台詞可能的な総合を決定的な仕方で渡らぬ台詞に変換しうる方途は存在しないからである。これが人称カテゴリーが不可欠な理由である。人称カテゴリーのはたらきの問題を経由せずにいきなりこの総合の話をするのは、喩えていえば、デカルト号という沈みがちな船に乗ったうえでその船を遠洋航海可能な船に作り直すという(そうであれば極めて有意義な)仕事を、そもそもその船に乗らずにやり始めてしまうようなものであろう。そもそも乗っていなければ、沈まずに遠くへ行くことはやはりできないではないか!

15 とはいえ、もちろん、その逆も言える。デカルト号はカント的補強なしには即座に沈没してしまうからである。しかし、カント的補強とはそもそも何か。この箇所では、それは「ある表象に他の表象を付け加えてそれらの総合を意識する」ことだとか、「与えられた諸表象の多様を一つの意識において結合できる」ことだとか、「これらの諸表象における意識の同一性を自ら表象する」ことだとか言われているが、これらは要するには「繋がりを覚えている」ということであろう。「総合を意識する」とは文字どおりその意味であろう。そして、「一つの意識において」とは「覚えているその、、意識において」ということで、これは(「渡り台詞‐渡らぬ台詞」との繋がりでいえば)「渡らぬ意識」において、ということだろう。統一とはつまり渡り意識の不可能性=渡らぬ意識の必然性ということを言っているのであろう。

16 そうではあるのだがしかし、「渡り台詞―渡らぬ台詞」の場合のように、自ら語ろうとしてそれを語っている場合とは異なり、「覚えている」ことにかんしては、結びつける(総合する)という能動的な要素(すなわち「私は考える」の「考える」の要素)の介在なしにも、すなわちまったく受動的にも、たまたま起こったことをただ覚えているということが可能ではあるはずだ。そこには意味的な繋がりが必ずしもつねには必要とされない。①突然光が眼に入り、②そのとき鼻に痒みを感じて、③鼻を掻いていたら、④大きな音が聞こえ、⑤不安な気持ちになった、という(起こったことの)記憶がある場合、たしかにこの繋がりは、私がそれぞれの表象をただ意識することだけではまだ生ぜず、ある表象に他の表象を付け加えてそれらの総合を意識することによってはじめて生じる、とはいえる。与えられた諸表象の多様を一つの意識において結合できることによってのみ、私はこれらの諸表象における意識の同一性を自ら表象することが可能なのだ、ともいえるだろう。とはいえしかし、②③の連関は、①④⑤の連関とは因果的にも意味的にも無関係な、たんなる事実的な挿入事にすぎない。「一つの意識」の中にはあっても、意味的な(狭めていえばカテゴリー的な)繋がりはないといえる。それでも、この順番を明晰に覚えていることはできるはずである*。それしかない、、、、場で起こるがゆえに、その結合とは意味的に無関係な、たまたま同時に起こっただけの事象も、一蓮托生とならざるをえないからである。

*これは「私は考える」を介さない「私は思う」の直接的結合であるともいえる(また、第一版の最初の二つの総合だともいえる)。もちろん、後から反省されれば、それは「私は考える」に包摂されうる、、のではあるが。

17 何かを語る場合との類比でいえば、これは複数の文を織り交ぜて語るということに相当するといえるだろう。これは渡り台詞とは逆の関係である。一つの文が複数の意識によって飛び飛びに語られるのではなく、複数の文が一つの意識によって織り交ぜて語られるのだ。「語る」のではなく、ただ「考える」だけの場合であっても、これはなかなか難しいことではなかろうか。「三羽の、すべての、鳥が、石は、飛んでいる、冷たい」のようなことが、もっと遥かに長い文で起こることを考えてみれば、その困難は容易に理解されるだろう。ところがしかし、記憶されている内容においては、したがってまた記憶していくというはたらきにおいても、意味的には無関係なたんなる事実的な連続を、ただそのまま「把捉」して、ただその順番どおりに「再生」することは、さして難しい仕事ではない。これがつまり、第一版の「三重の総合」の最初の二つの総合(「直観における把捉の総合」と「構想力における再生の総合」)が言っていたことだ、と解釈する途がここから開ける。それらは必ずしも、、、、「概念における再認の総合」によってさらに再認されることを必要とはされないのである*

 *統一と総合(結合)の違いはここにあると考えることができるだろう。統一は「私は思う」だけの繋がりも認めて、それをも含んで全体を「私は考える」で統一しうる、、のである。すなわち、「思う」だけの結合も後から「考える」で纏めうる、、、ということだ。逆にいえば、「考える」で纏めうる、、ことだけを「思う」ことができる、と。

18 対して、記憶の場合であっても、渡り台詞に対応するほうの渡り記憶にかんしては、それはまったく不可能である。一系列の記憶が複数の主観によって飛び飛びに持たれるといったことは文字どおりありえない。その繋がりこそが一性を初めて作り出すのであるから、このありえなさはアプリオリである。すなわち、もし一系列の記憶が複数の主観によって持たれていたなら、そのことによってそれらは複数の主観ではなくなって、一つの主観になるほかはない(たとえ複数の身体に分かれていても、である)。

19 一系列の記憶が複数の主体によって飛び飛びに、、、、、持たれる場合には確かにそういえるのだが、同一の記憶が複数の主体によって同時に持たれている場合は、必ずしもそうはいえない。そのような場合、複数の、、、主体であることは現在における感性的・統覚的主体の相違によって、すなわち世界の開けの原点そのものの違いによって、相互に自ら確認することができ、また直前までの記憶の同一性のほうも、その二人が話すことによってどこまでも詳細に確認することができる。この二人のうちどちらかが〈私〉であれば、他方は〈私〉ではない人、すなわち他者である。それは現在の感性的経験が、カント風にいえば直観の多様が、現実に、、、はどちらに与えられているかによって、さらにいえば超越論的統覚が現実に、、、はどちらにおいてはたらいているかによって、容易にそして端的に確認しうる*。この端的な差異にかんして、相互確認された記憶の同一性は、その差異を無化してこの二主体を同一主体化する力を持たない。ここでは、先ほどのデカルト‐ウィトゲンシュタイン的見地の、そのまた根源にある独在性そのものが、直に効力を発揮するからではあるのだが、そのことは認めざるをえないとはいえ、決してそれだけではないだろう。それだけではありえない、ということこそがここの議論のキモである。それだけでは持続力をもたないからである。さらに必要なのは、共通の記憶以外の、現在に直接に繫がる短期記憶と、それと「一つ」になっている(あるいはなりうる)身体感覚や気分や欲求や意図や…の持続(すなわちまた記憶)である。これらなしには端的な独在性もはたらきえない**

*相手方も「こちらが私だ」と同じ、、確認をしているではあろうが、それはそう想定できるだけであり、現実に、、、それが起こるのはこちらだけである(というまさにその事実――すなわち無内包の現実性――の存在こそが、こちらを〈私〉たらしめている)。これに対して、他方もまた《私》でありうるのは、人称カテゴリーのはたらきに拠るほかはない(その結果として、最初の「同じ、、」が成立することになる)。

**このことは改めて言う必要もないほどあたりまえのことにすぎず、その意味で地味な論点ではあるが、やはり重要ではあるだろう。こういうことが不可欠なのだということも、私はほかならぬカントから学んだ。

20 当然のことながら、同じことは記憶だけでなく、いま現に発話する場合や思考する場合にかんしてもいえはする。まったく同じ発話意図や思想内容を持つ人が二人いても、どちらかが自分であってもう一人は他者であることは可能である。記憶の場合もそうであったが、この場合もやはり、それらを直接に現実に持つほうが私であり、そうでないほうが他者である、と言いたくなるかもしれないが、(すでに指摘してきたような事情により)それは違うのだ*。個数的には二個(身体が二つという理由による)の思考を、私は両方同時に持つことができ(むしろ持たざるをえず)、それでも一方だけが私の思考であることができるのである。そうでありうるのは、独在論的な理由(無内包の現実性の存在)に拠るとはいえ、(前段落でも述べたような理由により)それだけであることはできない。問題のその思考以外の(すなわち私のほうだけが持つ)諸表象の繋がりの存在が不可欠なのである。たしかに自他のこの差異は、現実の百ターレルと可能な百ターレルの様相的差異と同様、事象内容的レアールな差異とは完全に断絶した存在論的な差異なのではあるが、それにもかかわらず、その差異が現れるのは、その思考を現実に、、、持つのはどちらであるか、といった点においてではなく(それなら両方でありうるから)、その他の、すなわちなぜか私である**ほうだけが持つ(その思考とは意味的に繋がっていない)身体感覚や気分や欲求や意図や…との繋がりにおいてなのである。

*だれでも直接的だから平等だ、というような理由ではないので、注意されたい。そういう意味では、ここではそういう通常ののっぺりした視点からの把握はすでに問題にされていない。視点は現実の世界開闢そのものに戻されているのではあるが、それだけが剝き出しで現れるわけではない、という点こそがここで問題にされているのである。

**先の「現実に、、、」で言いたかったことはこの「なぜか私である」で表現されるほかはないのだ。

21 繰り返して言うが、もし記憶が同じであるなら、私はすでにしてその人のその記憶を持っているといえるし、もし思考が同じであるなら、私はすでにしてその人のその思考をしているといえるのであり、違いはただ、私のその記憶や思考は、私が感じる(すなわちそれだけが現実に、、、存在している)その思考以外の他の感覚や感情や欲求や意図や…と繋がって一つの「私は考える」に統一されているのに対し、その人の記憶や思考は同じその、、「私は考える」には統一されえない、という点にあるだけである。しかし、それら以外の、現実的に存在している唯一の記憶や、現に存在している唯一の思考は、すでにしてその他者の記憶や思考でもあるのだ。その意味においては、その人の感覚・感情・欲求・意図・等々を私が持たなくとも、その人はすでにして私であるともいえるのである。だから、その場かぎりの思考ではなしに、最近のある時点までの記憶を、私がその人と共有していた場合、すなわち(私の知らぬ間にであれ)そういう人が(どこかに)存在していた場合、私が突然死んだならば、私はその人になる*(その人が私になる*)といえるのでなければならない**

*「なる」といえる理由は単純で、その記憶以外の他の持続するものがすべて途絶える(という想定だ)からである。もともと何らかの内容の繋がりに依存せずに持続することができないものが、まだ存在しているほうの内容の繋がりを頼りに生き残るのである。とはいえ、「なる」とは身体に基準を置いた表現でもある。もしそうでなければ、ただいくらかのこと(三行前の表現では「その記憶以外の他の持続するもの」)を忘れて、ふつうに持続するだけのことであろう。

**この場合、〈私〉であることの繋がりは、前注の表現では「その記憶以外の他の持続するもの」(本文によればその「持続するもの」は「感覚や感情や欲求や意図や…」であるが)の存在によって保持されるにすぎない。だから、もしこちらも断たれたなら、〈私〉は消滅するほかはない。すなわち、ここで独在性の矛は超越論的構成の盾を貫くことはできない、、、、のである(できる、、、と考えるのが「霊魂不滅」等で表現されることになる「誤謬推理」であろう)。

22  このように考えてくると、私が死なないかぎりはそのようなことは決して起こりえない理由も簡単に理解可能となるだろう。内容とは無関係に(そいつが)〈私〉(であること)だけが他者へ移るといった想定には意味を与えようがないのであるが、重要なことは、その意味の与えようのなさこそが「超越論的に」と形容されるべきことがらなのだ、という点である。存在論的(形而上学的)に捉えれば意味のある想定のように見えることが、超越論的に捉えられると意味のない想定に転じるのだ。ここで、①いやいや、やはり意味はあるだろう(少なくとも想定は可能だ)と思う人にも、②そんなことには意味がないに決まっている(最初から想定不可能だ)と思う人にも、形而上学的有意味性が超越論的無意味性に転じる、このカント的議論は無縁のものであろう。超越論哲学とは、すでに成立して一般に受け入れられている常識的な世界観にいかにして到達するか*、の議論だからである。

*もちろん、形而上学的世界観から出発してである。なぜそんなところから出発するのかといえば、そこが(とらわれぬ眼を持つ者にとっては)所与の現実だから、である。

 

三 矛は盾に内在する

 

23 〈私〉も〈今〉も、カテゴリーに従って成立して性質をもったり変化したり他と関係したりするような諸事象の仲間ではない。だから、それらはカント風にいえば「規定され」ておらず、その意味で実在しない(だから時間の中でどこかへ移動するといったようなことはできない)のではあるが、そうした正規の(世界内的な)存在者たち成立の前提としては存在せざるをえない。それらすべてを起動させる出発点であり、それがなければ何もない(のと同じことである)からだ。そして時間は、統一されて持続する主観(それ自体が客観的世界の持続と相関的にしかありえない)と相関的にしか実在できないだろう。だから〈私〉が、それ自体として(諸条件から切り離されて)動いたり消えたりできる(そのようなことを考えることができる)ということもまた、カント的な意味での誤謬推理の一種なのである。

24 しかし、ただ移ることはできなくても、ただ消えることならできるのではないか、と思う人がいるかもしれない。ただ移ったとしても、ただその人である、、、だけで、移ったとはだれにも、、、、わからない(=何も移っていない)が、消えれば無くなる(=無になる)という立派な変化が起きるではないか、と。無になったとはわからないとしても、それは無になるからわからなくなるだけであって、少なくとも無くなるという実際の変化は起こりうるのではないか、と。しかし、ここで消える(無くなる、無になる)とは、その人自身はふつうに、、、、存在し続けているのに、ただ〈私〉でだけなくなる、ということを言っているのであるから、そう簡単にはいかない。ポイントは、この形而上学的には十分想定可能に見える変化こそが、まさしく超越論的にありえない(想定も不可能な)ことなのだ、という点にある。自明に(カント風にいえば「分析的に」)ありえないのではなく、超越論的にありえない、ということである。これは「風間くん問題」でもある。すなわち、〈私〉ではなくなって他の人々と平板に相並ぶただのその人、、、、、、となったはずのその人は、必ず「世界は〈私〉からだけ開けている」と(以前と同じように)思う、ということである。ということはつまり、パーフィットの火星旅行のように、それを実現する実験がありえたとしても、おそるおそる〈私〉でなくなってみたその人は、火星に行った人と同様、「実験してみたがやっぱり何の変化も起きなかった」と必ず、、思うことになる、ということである*。ここに、部分的には「一性」と訳されるべき「統一(Einheit)」の固有のはたらきがあると見るべきであろう**。いいかえれば、ここにはいかなる持続にも宿ることになる《私》の力が、つまり密輸入されたデカルト・ウィトゲンシュタイン的見地が、すなわち『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』の第8章の段落20の描けない図でいえば、その第三ステップの段階が、密かにはたらいているのである。ここでそれが効力を発揮するのは、通常の場合であっても繋がる(持続する)際には、そこにおいて、その水準において繋がる以外にはなく、それゆえ実際にその水準で繋がっているからである。過去や未来の〈私〉とは、そのような意味で中身込み、、でしか存在しえない(そもそも考えられない)者たちなのである。それゆえ、そこで繋がっていながら(すなわちいわば渡らぬ、、、台詞を語っていながら)〈私〉でだけなくなる、ということは不可能なのである。それが、この世界の本質構造であり、つまりは独在性の矛は超越論的構成の盾を貫けないように出来ているということなのではあるが、それはじつはその盾の内部にその矛のはたらきと本質的には同じものが埋め込まれてすでにはたらいているということでもあるわけである。

*思わない場合は意識を失う場合しかありえないだろう。

**「誤謬推理」におけるカントの批判は、じつは「風間くんの質問=批判」における風間くんの批判に対応しており、超越論哲学とはじつは「風間くんの質問=批判」の立場であるといえる。それは独在性を前提にしたときに初めて効力をもつ(その効力の意味が初めてわかる)批判であり、独在性の問題は確かにありはするが、それは世界の繋がり方には寄与することができないのだ、と言っているわけである。それがカントの総合と統一の哲学の真の意味であると私は解している。

25 一般に、〈私〉のいない、のっぺりした世界を想定することはまったく容易なことであろう。実際にも、つい百年ほど前まではずっとそうだったろうし、間もなくまたそうなるでもあろう。だから、それはただありうることであるどころか、現実にあることなのである。しかしまた、その逆に、現在においては、世界はなぜかそのようにのっぺりとしてはおらず、なぜかそこから世界が開ける唯一の原点が存在してしまっており、またそれはなぜかある特定の人間である、ということも疑う余地がない。そうであるのだから、この原点はいわば余計なものであり、その人物との結びつきもまた偶然的なことであるにすぎない、と考えられても当然なのである。それゆえ、その余計で偶然的なものは、他面から見ればそれなしでは世界が存在しない(のと同じことである)ような特別に重要なものでもあるとしても、急に消滅したり、特定の人物と結合しなくなったり、(さらには他の人と結合したり、人を渡り歩いたり、それだけで存在したり、…)することがありえてもよさそうにも思えるのである。この思考の道筋にも十分な根拠があって、カント的文脈に翻訳するなら、これを「合理的心理学」的な思考であると見なすことができる。つまり、それにもかかわらず、それはまさに超越論的に、、、、、ありえないことなのである。ここに、形而上学的(独在論的)出発点と、そこから何らかの規則のはたらきによって超越論的に構築される平板な実在世界との接合点があって、まさにその、、ありえなさこそがそこを繋いでいるからである。だから、いったん成立したそのような世界は、その人がいても〈私〉ではない世界には、すなわち開けの原点のないのっぺりした世界には、もはやなれない。なるには、その世界のルールに従って、その人自身が死ぬしかないのだ。

26 しかしここにはやはり、そんなものが存在し続け(られ)る、という不思議さは残っており、また、「その世界のルールに従って、その人自身が死ぬしかない」とはつまり、ちゃんと死にさえすればそうなれる、という意味であるから、なぜかその人と一緒に消滅できるという不思議さも残っていることになる。ここには形而上学的事実が剥き出しで登場しているといわざるをえない。これはいわば、世界内のある特定の人物が死ぬだけで、なんと世界そのものが無くなる(のと実質的に同じことになる)場合がある、ということなのだ*。 それはもちろん、死ぬのが自分である場合である。対して、死ぬのが他人である場合には、それは世界の中で起こる一つの出来事にすぎない。自他のこの差異の存在は、世の中で客観的な差異として――すなわち構造上の差異として―――認められている**。しかし、どうしてそんな差異が実在してよいのであろうか。そもそもこれは何の差異なのか。驚くべきことに、この単純な問いに答えられた人はまだいない。ここには剝き出しの形而上学的事実が直にはたらいている、と言わざるをえないのだ。実在世界の構成原理から言えば、そんな特殊な人物がいること自体がおかしなことであるはずなのだが、世界はこの事実の存在を隠すことができない。これは、独在性の矛が超越論的構成の盾を貫きうることが客観的に認められている事例なのである。

*だから、死をめぐる哲学的問題とは、すなわち独在性の問題なのである。

**もちろん、自分の死と他人の死の間にはいかなる差異もない、と言い張る人もたまにいるが、それは、自分と他人の間にはいかなる差異もない、と言い張っているのと同じことであるから、観察力か素直さの極端な不足か、あるいは何らかのイデオロギー的な理由に起因するとしか考えられない。

27 しかし、話を戻そう。なぜか今、ある人が世界がそこから開けている唯一の原点であり(すなわち、そいつの身体だけが殴られると現実に痛く、そいつの眼だけが瞼を開くと現実に見える唯一の眼である、等々の現実が存在し)、同様にして(すなわちそれらの事実の一部あるいは一例として)その人の記憶だけが唯一現に与えられている、としよう。「としよう」というか、だれでも現実にそうなっていることだろう。それこそが、いかんともしがたい端的な出発点であるはずだからだ。が、その出発点の存在、、そのものはともあれ、その位置づけは、それのもつ知覚(空間的位置づけの場合)や記憶(時間的位置づけの場合)によってなされざるをえない。ここに、実存と本質とが通常とは異なる仕方で結合されていることを認めるのはたやすい。ともあれ世界が現実にそこから開けている唯一の原点が存在している、ということが実存であり、そこから実際に何が、、開けているか(すなわち、何が見えて聴こえて…、何が記憶されているか)ということ、それらのことに基づいて、そもそもその開けは何であり、誰であるか、ということが本質である。そいつは、世界の開けの唯一の原点であり、何であるのかさっぱりわからないはずのものであるにもかかわらず、その原点自身によって初めて開かれたその世界の内部に、そいつ自身が通常の類型的存在者の一例として位置づけられうるような、そういう種類の知覚や記憶を持つことができ、それゆえにその世界の中の何か、、でもあり、しかも(特定の)誰か、、でもあることができるのである。したがってもちろん、そこには存在論的な矛盾があるといわざるをえないのではあるが、まさにその矛盾の存在のゆえにこそ*、世にも珍しい種類の不可謬性・不可疑性が生じることになるわけである。デカルト的コギトやシューメイカー的誤同定不可能性の存在はじつはこのことに基づいている。ただそこからだけしかも初めて世界が開かれる唯一の原点が、世界の中の一つのものとしても存在しているために、特殊な種類の不可謬性が生じるわけである。与えられた知覚や記憶は、見間違いや記憶違いである可能性はあっても、それがだれの知覚でありだれの記憶であるかにかんしては誤りの可能性がない、という特殊な事実がそこに生じるわけである。それはこいつ、、、であるという点が誤りえない(そもそも他の候補者がいないので)だけのことなのだが、だから「こいつだよ」と言って(唯一自由意志で動かせる)手を挙げれば、それは世界の中の何か(の一例)でもあり、(特定の)誰かでもあることになるわけである。①これ、、だけが存在している、といえるとともに、②それが何であるか(その存在の内容)も特権的に指定でき、③「それは私だ」と(「私」という他者からは世界内の一存在者を指すとみなされる語を使って、誰もが持つ口たちの一つから発声することで)限定することもできる、というわけである。

*いいかえれば、中心化された世界と平板な世界とが空間時間的に一つに合体して存在しているからこそ、ということである。

28 ともあれ世界が現実にそこから開けている唯一の原点が存在しているのではあるが、それは疑いえないとはいえ、その存在とともに、そこから現に開けている中身もまた存在しており、そちらも与えられてあるということもまた疑いえない。ここでは、記憶に問題を絞ってみよう。たとえばデカルトが『省察』で懐疑の対象としたはずの(10歳から18歳までをそこで過ごしたとされる)ラフレーシュ学院での生活の記憶などを考えてみるとよい。それらはすべてが誤記憶であるかもしれない。それでも今そう疑っているこの私が存在することは疑えない、とデカルトは考えた。それはまったくその通りではあろうが、その記憶が現にそのように与えられてあることのほうもまた、別の意味では疑うことができないであろう。その場合、デカルトの「私」はいま疑う余地なく在る、、だけでなく、疑う余地なくそれである、、、、、ことにもなる*。疑われているのは、それ、、は実際にあったことなのか、だけである。しかし、そもそもそれが実際にあったことかどうかは、それが現に与えられてあることを前提にしなければ何の意味もない。すなわち、その実在性・客観性は、まずはそれを大前提として、それに何かを付加することによって、そこから構築していくしかない事柄であろう。実際に、そうであるほかはないからである。

*実存とともに本質が与えられるわけである。欺く神(悪霊)に欺かれていても、思っている(と思っている)あいだは私は(思っているという仕方で)疑う余地なく存在しているのと同様に、思われている(と思われている)中身もまたやはり(思われているという仕方で)疑う余地なく存在しているのである。その思いの内容も、現れるがままに捉えられており、捉えているのは必然的に私であると同時に、捉えられているのは必然的にそれ、、である。疑いを入れる余地はない。その思われの内部から客観的な世界全体を作り出すことが、デカルトにとってもカントにとっても最大の課題であった。なぜそんなことが最大の課題なのかといえば、われわれは実際にそうしており、そうしているほかはないからである。(こういう箇所で「われわれ」と言ってしまうのは、もちろん論点先取ではあるが。作り出されるべきこの「客観的な世界全体」のうちには、特殊ではあるがその最重要部分として他者が含まれていなければならないからである。しかし、デカルトもカントもこの認識がなぜか著しく弱い。)

29 ところで、デカルトは若き日の学院生活の記憶の真理性は疑っても、懐疑中の短期記憶については疑っていない。たとえば、第一省察の末尾で悪霊の存在を想定したその記憶の正しさを、第二省察で「私は在る」と結論する際にまったく疑っていないだろう。それを疑ってしまったら、彼の議論は成り立たないだろう。そこを疑うと、その結論がそのもつ意味の重要な一部を失うことになる。疑ったとしても「私は在る」の確実性それ自体は成り立つでもあろうが、それがいかに極端なケースを想定しても成り立つのか、哲学的には最も本質的なそのポイントが消失してしまうからだ。その認識価値は著しく損なわれることになるだろう。それゆえ、何が疑うことのできないものとして残らざるをえないのかを示すためには、記憶の正しさが、というよりも意識の統一が*、前提されざるをえないのである。客観的な議論構築としてももちろんそれはいえるが、それ以上に、彼自身にとって避けることのできなかった真摯な実存的探究そのものにとって、そうであろう。

*この箇所の意味は「記憶が偽なる記憶ではないことがというよりも、過去における悪霊の想定と現在におけるこの結論が一つの思考で繋がっているということが」ということである。不可欠なのは、偽なる記憶ではないというよりは、いわば渡り思考ではないことが、なのである。繋がりこそが不可欠なのだ。記憶が偽でないことは、書いたことが残っていることによって自然法則の助けを借りて構成可能だが、それはこの信憑をもとにしてそこに付け足されるものである。さしあたっては、付け足されるものは無くてもよいのだが、誠実で本気ではなくてはならないのである。そのことは書かれたものが残っていることによって検証されたりはしない。

30 意識の統一は文の構成の不可欠の条件でもある。語と違って文は、その構成に(すなわち言うにも聴くにも書くにも読むにも)時間を要するからである。文を言うには(言わなくてもただ思うだけでも)意識の繋がりが、すなわち「私は考える」の統一性が必要不可欠なのである。だからこそ、ここには、持続する「渡らぬ意識」の存在への根源的な信憑が介在していざるをえないのである。それをも疑えるとしても、それを疑うことは自己破壊的な結果を引き起こすだろう。それを疑うにも、疑うということの本質からして、ふたたびやはりそれが(すなわち文的な持続が)必要とされるからである。

31 デカルトの思考のような意識の持続も、デカルトが発するような文の構成も、概念化して一般化することはたしかに可能である。だから、他人がそれを考え、それを言うのを理解することも可能である。だが、それは渡り台詞化だけは不可能であろう。たとえば七人の役者が次々と「私は、」「私の信じているすべてのことが」「じつは偽であると想定します。」「それでも、」「私がそう想定しているかぎり、」「そう想定している私が存在していることは」「偽でありえません。」と言っても、たとえば朗読のように捉えれば、その思想を伝達することはできなくはない。しかし、その意味するところをこのような形で「言う」ことはできない。一人の人間なら、それが他人の発言であっても、そのうえ演劇であってさえも、その意味するところを言える、、、のに、渡り台詞では駄目なのである。その不可能性はデカルト的不可能性ではなく、カント的不可能性である。というのは、デカルト的には、すべての役者がそれぞれまさにこのように思っているということは、ありうることだからである*。しかし、ここで不可欠なのは一続き性のほうである。同じく「私」の成立の問題であるとはいえ、こちらは、(他人であることとの対比において)私であることのヨコ的成立とは違う種類の、タテ的不成立の問題なのだ。たとえ他人であっても、むしろ統一性は不可欠なのである。これが(デカルト的不可欠性と対比された)カント的不可欠性である。カントもデカルトを必要としたが、デカルトもその議論構成において、じつはカントを必要としている。

*こういう場合、「役者」はすでにして比喩であり、複数の人間がそれぞれ、ということを面白く言っているにすぎない。だから、渡り台詞というよりはむしろ渡り思考が主題となっているといえる。

32 この必要性を短期記憶だけでなくラフレーシュ学院の記憶まで延長することは、可能でもあればまた必然でもある。この統一性の延長は、デカルト的には不確実であっても(それは彼が最初から外界の実在という世界像を前提にしているからであって)カント的にはむしろ出発点である(その出発点そのものの存在はデカルトにも確実である)。これは、自他の違いの問題(ヨコ問題)とは別種の問題である。それなしには一続きの思考が成り立たない、というタテ問題だからだ。カントはデカルトを前提にしていたが、デカルトもじつはカントを前提していた。自分が持続的な渡らぬ意識であること、すなわちそこに結合(総合)のみならず統一も成立していること*、それがデカルト的思考の隠れた前提であった。この統一性はラフレーシュ学院での生活にまで及びうるのは、現に与えられてある記憶は偽であることはできても嘘や冗談や演技であることはできないからだ。同様にして、その内部で(すなわち記憶内で)それが作り替えられる(すなわち作り替え過程も記憶される)ということができない。そのように対象化して取り扱うことができない即自態(べったりとそれ自体であるしかないもの)だからである**。端的な実存そのものに(端的な実存であるにもかかわらず)その本質もまたべったりと張り付けられた特殊な実存なのである。だから、端的ではあっても裸ではないのだ。消滅(死)に於いて移行が可能なのはそれゆえにである***

*とはいえ、結合(総合)もまた前提されていた。彼が書いた文は、渡り台詞にしても意味を失わない、客観的に意味的に結合された正規の文でもあったからである(それゆえ当然、そこにはカテゴリーも――とりわけここでは「実体」にかんするそれが――使われてもいる)。そして、彼が短期記憶や意図の継続性を疑わなかったことと、使用している言葉の意味の客観性を疑わなかったことは、連結してはたらいている。このことそれ自体が、デカルトが疑った客観的世界の存在を、巻き込んで成立させることになる、というのがカントの哲学上の最大の主張であった。私は、それは本質的に正しいと考えている(正しいかどうかを調べる方法はありえないが)。

**これは、もしわれわれが他者の心的状態を直接的に捉える能力を備えていたとしても、それをさらに、他者自身におけるその対応物と対比して(その正しさを)検証するなどということが不可能であることと対応している。これらを鳥瞰する視点はカテゴリー的に仮構されるほかはないのだ。なお、「記憶の変化は記憶できない」という主張は、2001年刊行の『転校生とブラック・ジャック』第8章以来のものである(もちろん実際にはもっと前からだが)。この問題に興味のある方は、ぜひそこをお読みいただきたい。しかし、その問題がこのような連関でこの議論に組み込まれていることに気づいたのは比較的最近のことである。

 この点にかんして、ここで若干の議論を付け加えておきたい。記憶の真偽は関係ないと言ったが、関係があるのは記憶内における過去との関係だろう(そこにもし真偽というものがあるとすればその真偽である)。たとえば、時間は刻々と経過するわけだから、記憶は刻々と変化していく(増加しつつも減少もし変質もしていく)はずであろう。私が少し前に持っていた、より前の出来事の記憶(記憶の真偽は問題にしないのだから正確には記憶印象とでも呼ぶべきであろうが面倒なのでたんに記憶と呼ぶ)を、今のこの記憶は正しく保持しているか、という問題である。この問題は立てられない。記憶がこの意味で、、、、、誤っている可能性はない。実は違っているということはありえない。もしありうるとすれば、それもまた記憶可能でなければならず、そうであれば、今度はその記憶にも同じ問題が起こり、その背進はどこまでも続いてしまうからだ。それはどこかで終わっていなければならず、実のところはここ、、で終わっているのである。すべては、ここから出発しているからである。(段落3の二つの引用文、特に二番目は、このように解するべきであろう。すると、それは極めて強い観念論的な主張であることがわかるが、少なくともこの議論においては初発に肯定されねばならないものだろう。)同様にして、記憶が実は(知らぬ間に)作り変えられているという可能性もない。(そういう「実は」がありえないのは、たとえば「マイナス内包」というものがありえないのと同じ種類の問題である。ここには、その種の「実は」性が入り込む余地がないのだ。「実は」性は、ここから出発して作り出されねばならないからである。)

***すなわち、それは端的に消滅することはできるにもかかわらず、その場合でさえ、消滅したとは思わない内容上の連続体がどこかに存在してしまえば、それだけで、消滅できないということにもなるわけである。持続においては、実存そのものがその本質に乗っ取られる(=乗ることによって保持される)のだ。通常の場合でも、〈私〉は、それが持続すると捉えられた時には、記憶というものに必然的に内在する《私》にすぎないので、それだけで十分なのである。(そうでない、端的な〈私〉そのものは、〈今〉においてしか存在できない。とはいえもちろん、そのこと自体が概念化・形式化されて《私》となり、それが連結されていくのではあるが。)

33 だから、ここで私とは誰かと問われたなら(あるいは自問したなら)、「出エジプト記」の「神」や『省察』の「私」のように、「私は存在する(ものである)」と(実存の側から)答えることももちろん大前提的な真理ではあるとはいえ、現に唯一与えられている記憶によって(本質の側から)答えることも同様に絶対的な真理ではあるのだ*。たんなる剝き出しの実存(それしかないという特徴によって十分に識別可能な)に、さらに本質(それによってもまた他から識別されうる)が、不可離に結合しているからである。その結合もまた、別の意味では疑う余地のない真理である。すなわち、「私はじつは存在しない」ということがありえないのと同様、「私はじつはこれ、、(経歴の記憶を指す)ではない」ということもまたありえない。それ、、こそが〈私〉、でもあるからだ。しかなさ、、、、はそこまで及ぶのである。この事実は、デカルト的な「私は在る」を拡張し、作り変えることになるだろう。これが独在性に接合された統一性(Einheit)である**。そのうえさらに客観的にもそうである(=その記憶が外から見られた事実と一致している)ことは、それを前提にして、それが確証されるという形でそこに付加されるほかはない。とはいえ、その記憶の構成それ自体にもすでにしてカテゴリー(原基的には出来事経過の類型性と文の渡り台詞化可能性)が***使われざるをえないので、その作業そのものはわりあい容易に為されうるはずである。

*とはいえ他人から問われた場合には、礼儀として、前者は省略して後者で答えるべきではある。(その点で、「出エジプト記」の「神」は、神だから仕方がないとはいえ、礼儀知らずである。そう見れば、デカルトの『省察』はその非礼さの指摘であるともいえる。道徳哲学上でこの『省察』に対応するのは「ヨブ記」であり、カント哲学はその両者を受け継いでいると考えられる。この点についてはいずれまた触れたい。)

**これによってシューメイカー的な誤同定不可能性もまた、過去へと拡張可能となるはずである。すなわち、「私」の主体としての用法にかんしては、そう感じた記憶があれば、そう感じた者が私ではなかった可能性は、ない。すなわち、現在の場合と同様、誤同定は不可能である。さらにここに、ある特殊な意味において、訂正不可能性もまた付け加わるだろう。現在の場合、そう感じていれば、そう感じていることもまた疑いえないのと同様、過去にかんしても、そう感じたと記憶しているならば、私が――すなわち持続する私が――そう感じてはいなかった(実は何も感じていなかった、あるいは実は違うことを感じていた)可能性はないことになる。すなわち、しかなさは両方向において成立することになる。過去に感じたことの記憶が誤記憶である可能性は、客観的な人物としての「私」が(すなわち認識される対象としての「私」が)構築される際に、後から作り出され、さまざまな外的手段によって考慮可能となる。

***すなわち統一(一つさ)とはまた別の根拠による結合(総合)が、である。「私は考える」は、「私は」(彼はではなさ)と「考える」(思うではなさ)の矛盾を孕んだ二種の否定性の合体によって成立している。渡り台詞でなさを作り出すのは「私は思う」だからだ。それはそれ自体としては何とも繋がっていない。繋がりは内容の側にあり、それはともあれまずは渡り台詞でありうる意味的繋がりに依存したものである。

 

四 結合は不可欠だがそれだけでは足りない

 

34 段落10の冒頭で、「引用文のコメントとしては不相応に長く独自の議論を展開してしまったが…」と書いたが、今回はそれ以上に不相応に長く独自の議論を展開してしまった。そのうえ、言いたいことはこれですべて言ってしまっており、今回はテキストに戻る必要さえもはや感じない。第二版の演繹論はこの後さらに、主観的統一と客観的統一の区別等々、諸々の議論を経由して結論に至るのだが、その途上、第25項の後半に、本章段落3の注*ですでに参照した「私」にかんする議論の続きがあるので、そこを瞥見して終わることにしよう。

 

それゆえ、自己自身を意識することは、一つの統覚において多様なものを結合することによって客観一般についての思考を作り出すすべてのカテゴリーをもってしてもなお、まだまだ自己自身を認識することからは遠い。私ではない客観的なものを認識するためには、客観一般、、についての(カテゴリーによる)思考のほかに、それを通じて普遍的な諸概念を限定する直観もまた必要とされたが、同様にして私自身を認識するためにも、意識のほかに、つまり私が私を考えることのほかに、それを通じて私がこうした思考を限定する、私の内なる多様なものの直観が必要とされるのである。それゆえ私は、自分のことをただ結合力としてだけ意識している知性者として存在するとはいえ、結合すべき多様なものにかんしては、内官(内的感覚)と呼ばれる制約条件に従っている。……(B158-9)

 

段落3の注*の二番目の引用文は、注からのものであったが、その注の続く部分では、これと同じことが、自発者そのものを表象することはできないが自発性を表象することはできる、というような言い方で表現されている。自発者(結合する主体)ではなく自発性(結合のはたらき)である。しかし、それができれば知性者(Intelligenz=英知者)である、とされている。これがすなわち超越論的統覚が実在するということである、と。

35 しかし、この議論では足りない。何よりも決定的に足りないのは、かりにもしこのような同型のものが複数あるのだとした場合、やはり他人の自発性(結合力)は表象できない、という点である。この差異の存在を無視しては何も始まらないだろう。逆にいえば、なぜか現実に表象できてしまう現実的自発性(現実的な結合のはたらき)が一つ(だけ)存在する!という点である。この驚嘆タウマゼインを取り逃がしては超越論的哲学のすべての試みは虚しい。この問題意識がなければ、段落14での喩えをふたたび用いるなら、それはそもそも肝心の船に乗らずに(あるいはじつは乗っているのだという議論をどこでもせずに)「私」号と名づけられた抽象的な船の補強作業をいきなりやり始めてしまうようなものであるだろう。

36 ほんとうに乗っていることとじつは乗っていないこと、現実的な自発性(結合のはたらき)と可能的な自発性(結合のはたらき)、自己と他者、の差異の問題を絡めた場合、カントのこの議論はどのように展開されねばならないか、その見取り図の一端を今回は提示してみたことになる。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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