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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

瑯嶠八宝公主譚:カミさまとなったおひいさま

 

 

 こんな奇譚がある。

 17世紀のオランダ統治時代、瑯嶠ろうきょうと呼ばれた現在の恒春半島の南端に一艘の難破船が流れ着いた。座礁したオランダ船の船員らは、上陸して救援を求める狼煙をあげたが、それを山上から見ていたクアール社に暮らすパイワン族の戦士たちは、集落へ侵入してきた「敵」の首を無慈悲に馘していった。難破船に積まれていた貨物は悉く奪い去られ、戦士たちは戦利品を高々と掲げながら山上の集落に戻っていった。

 ところがある若い戦士は、一番槍をあげられなかったどころか、目ぼしい戦利品ひとつ得ることができずに、肩を落としながら坂道を歩いていた。このまま集落に戻れば仲間や家族に合わせる顔がない。そう考えた彼はこっそり隊伍を離れ、ひとり首のない遺体が転がる浜辺へと戻っていった。真っ白な南国の日差しが、首のない遺体の肌をじりじり焦がし、波打ち際に浮かぶ木片は集落に暮らす雌犬の柔腹のように、優しく上下に揺れ動いていた。足下に転がっていた石ころを波打ち際目がけて投げつけようとした彼は、ふとそこに蠢く一つの影を認めた。

 しめた、まだ獲物が残っていたぞ!

 腰に下げた番刀を引き抜いた彼は、梅花鹿タイワンジカのごとき俊敏さで獲物へと飛び掛かった。ところが、組み臥した獲物の表情は明らかに戦士とは呼べなかった。

 否。それは男ですらなかった。か弱い獲物は彼には分からない言葉で何かを叫んだ。彼は須磨の浦で平敦盛を組み伏せた熊谷直実がごとく、振り上げた番刀をどうすべきか一瞬躊躇したが、抵抗する獲物の思わぬ力強さと、手ぶらで集落に帰る恥辱が一切の躊躇いを押し流した。黒鉄くろがねの切っ先が、柔らかな胸の肉へと食い込んでいく感触が指先まで伝わってきた。やがて、獲物は波打ち際の木片同様に動かぬモノとなった。

 彼はぼんやり浪の音を聞いていた。誇り高いクアールの戦士として、自分はやってはいけないことをやってしまったのではないか。額を流れる汗が目頭に流れ込み、視界がぼやけて歪んだ。しばらくして、我に返った彼は急いで獲物の身体から戦利品を奪い取ると、誰もいないことを確認してから人気の消えた浜辺を離れていった。

 木靴にシルクのスカーフ、真珠の首飾りに指輪、革鞄に耳飾り、羽根ペンに紙……

 集落に戻った彼は、仲間たちに8つの「戦利品」を披露した。どれもクアール社にはないものばかりで、仲間たちが得た戦利品にも似たようなものは見当たらなかった。集落の人々は口々に彼の勇敢さを褒め称えたが、そのまなざしは宵闇に浮かぶ海洋ラヴァクのように暗く沈んでいた。



かつて瑯嶠と呼ばれた恒春半島。現在半島南部は国立公園に指定されている

 

「このとき殺された女性が、現在墾丁こんていに祀られている『八宝はっぽう公主』の由来です」

 日に焼けた長い人差し指が、スマホに映し出された地図の上を忙しげに舞っていた。彼は高雄市内から100キロほど南へ下った場所にある恒春半島出身の学生で、八宝公主について知りたいというぼくの願いに応えてくれていたのだ。恒春半島の南端には、現在墾丁と呼ばれるリゾートエリアが広がり、真っ白な砂浜と紺碧の海が相まった光景から長らく「台湾のハワイ」と呼ばれてきた。

「八宝公主はオランダ王国に暮らしていた『公主おひいさま』と言われていて、当時アジアに赴任していた恋人に逢うためにわざわざ台湾までやって来たんです。そこで船が難破して、原住民の出草くびかりに遭ったわけです」

 学生はいかにも可哀そうな話だと言わんばかりに口元を歪めて見せた。大湾と呼ばれる砂浜のあたりを指さす学生の指の下には、第二次大戦中に「輸送船の墓場」と呼ばれたバシー海峡が広がっていた。ぼくはふと、わずか17歳で油送船帝洋丸に乗船して、軍属として南シナ海で戦死したとされる大叔父のことを思い出した。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というわけでもないが、どこか現実離れしたほど澄み切った墾丁の滄海には得体の知れない死の匂いが付きまとっている気がした。

「公主の名はマルガリータ。恋人はオランダ東インド会社VOCから台湾に派遣されていた理容外科医だったそうですよ」

 ぼくは彼の話す物語のディテールにいくつもの矛盾や錯誤があることに気付いたが、そこには触れずに話の続きを促した。

「恋人に一目逢うことも適わず、異郷の地で無念にも命を落としたわけです。マルガリータが亡くなったあたりは昔から海難事故が多いので、元々孤魂野鬼むえんぼとけを祀る『萬応公祠』があったんですよ。ある年、墾丁一帯で不幸が続いたので霊媒師タンキーに尋ねたところ、その霊媒師がなんと英語で話し出したんです。もちろん、彼は英語なんてできないですよ。そこで英語の分かる人間を呼んできて翻訳してもらったところ、自分は数百年前にこの地で殺された紅毛人公主であるが、船がなく故国に帰れないので、荒魂となってこの地に災禍を呼んだのだと語ったんですよ。そこで、地元住民たちは『紙船』を燃やしてその魂を送り返してやったんです」

「八宝公主は無事オランダに帰れた?」

 学生は何かを思い出すように、しばらくの間黙ってスマホの画面を見つめていた。長らくホコリのかぶった物語を、頭の片隅から取り出していたのかもしれない。

「いえ、結局『紙船』はオランダまで辿り着くことが出来ずに、墾丁に祀ることになったんです。センセイも見たでしょ? 萬応公祠にある八宝公主の神像を」

 ああ見たよ、とぼくは頷いた。観音菩薩のような表情をした神像には、幾重にも首飾りが巻かれ、その手前にはワインやオランダの木靴などが供えられていた。神像の背後には地元の絵師が描いたとされる白人女性らしき肖像まで貼られてあった。

「八宝公主が英語を話した理由は? それにどうして台湾に残ったのかな?」

 ぼくの質問に、学生は野暮を言うなといった表情を浮かべた。

「何にせよ、守り神としてこの国に居てくれるならいいことじゃないですか」

萬応公祠。祠の左側には八宝公主を祀った八宝宮が併設されている

 

 地元郷土誌などの資料によれば、八宝公主伝説は少なくとも1930年代には墾丁地方に広がっていたとされる。昭和6(1931)年、墾丁の地元民が浜辺である無縁仏の遺骨を見つけてそれを骨壺に入れて萬応公祠に安置したところ、付近一帯で立て続けに不幸が続いた。そこで霊媒師タンキーを呼んで事情を聴いたところ、まさに学生が語ったように霊媒師が突然英語でその来歴を語ったことで「オランダ公主伝説」が生まれ、萬応祠にその神像が祀られることになった(ちなみに、霊媒師の「英語」を通訳したのは、光緒9(1883)年に西洋人が建てた鵝鑾鼻がらんび燈台の建設に従事した地元の労働者であったらしい)

 また民国50(1961)年、車城に暮らすある男が膝の怪我が治らずに難儀し、符水(呪文の書かれたお札を水に溶かしたもの)を呑んだところ、無事回復することができた。男は神さまの指示に従って萬応公祠を再建すると、その側に紅毛公主の祠を建てた。ところがしばらくして、社頂に暮らす女性霊媒師が降霊術を行い、自らを八宝公主と名乗ったことで、「オランダ公主」は「八宝公主」と呼ばれるようになる。それまであったオランダ公主に新たな物語が接ぎ木される形で、八宝公主は再び萬応公祠の境内に祀られることになったのだ。このときに八宝公主を名乗った女性霊媒師の暮らす社頂とは、物語でオランダ公主の首を馘した旧クアール社を指している。

 図書館で恒春半島の地方誌をめくっていたぼくはGoogleマップを開き、物語の背景となる位置関係を確認していった。この伝説にはいくつもの真偽が糾える縄の如く交じり合っていた。そもそも、両国の資料にはオランダ公主が台湾にやって来たといった記録は残されていない。しかし、公主マルガリータの恋人とされたVOCの理容外科医マールテン・ウェッセリングなる人物は実在する。VOCで働いていたウェッセリングは1635年に日本で医者として活動し、翌年下級商務員として台湾に赴任している。1638年、ジョン・リンガ大尉率いる黄金探索隊が伝説の黄金郷を探して瑯嶠に上陸すると、反抗する原住民集落を徹底的に鎮圧しながら陸路後山を目指した。後にウェッセリングはプユマ族の暮らす卑南(台東)に駐留して黄金郷に関する情報を集めたが、数年後には現地の原住民族に殺害されてしまう。

 翻ってマルガリータの海難事故に関しては、光緒20(1894)年に書かれた清国朝廷の地方史である『恒春県誌』に似たような記事が記載されている。同治年間(1862‐1874年)、一艘の外国船が暴風雨で鵝鑾鼻に漂流し、多数の船員とともにある「番女」が上陸した。上陸した船員たちは皆クアール社の原住民に殺されたが、殺害された「番女」はある国の公主と呼ばれ……。

 台湾史に詳しい人間ならば、これが同治6(1867)年に恒春半島で起こったローバー号事件を指していることが分かるはずだ。日本列島で800年近く続いた武家政権が終わりを迎え、徳川将軍家から天皇家へと大政が奉還されようとしていた頃、恒春半島に一艘の外国船が漂着した。アメリカ船ローバー号は、広東省汕頭スワトウから遼寧省牛荘ぎゅうそうに向かおうとしていたところを暴風雨に見舞われ、はるか台湾南部にまで押し流された挙句に多くの沈没船が眠る墾丁南部で座礁した。ジョセフ・ハント船長とその夫人ら14名の船員はカッターボートに分乗してそれぞれ墾丁に上陸したが、それを集落への「侵略」だとみなしたクアール社のパイワン族によって殺害される。このとき唯一生き残った広東籍の船員は命からがら打狗まで逃れると、原住民による紅毛人殺害の急報を打狗英国領事館に届け出たのであった。

 

 パイワン族から「聖なる山」と崇められる大尖山を横目に、ぼくは海沿いの公道を駆け抜けていた。枋寮以南は、中央山脈と台湾海峡が背を預け合うような峻険な地形をしているために、旅行者はへその緒のような細長い一本道をひたすら南下していくしかない。その上、秋から春頃にかけては「落山風」と呼ばれる滑降風が吹き荒れるために、沿岸地域では常に軽度の台風ほどの強風が吹き荒れて、船舶による航海も困難となる。戦後屏鵝へいが公路と呼ばれる省道26号線が開通するまで、冬の恒春半島南部は長らく陸の孤島でもあったのだ。

 枋寮を起点とした恒春半島の西側には、北から楓港、車城、恒春鎮といった集落が視界に現れては消えてゆき、恒春県城を超えて南へと向かうと、現在台湾で唯一稼働している第三原発が見えてくる。現在国立公園に指定されている恒春半島南部には無数のリゾート施設が立ち並び、海岸沿いに延びる公道では、若い水着姿の男女がホテルでレンタルしたスクーターを楽しげに走らせていた。彼らのあとを追うように、紺碧に輝く南シナ海を尻目に十数分間ほどバイクを走らせると、ようやく八宝公主の祠が建てられた大湾の砂浜へと出た。

墾丁に建てられた台湾第三原発。すぐ傍には観光ビーチが広がる

 

 ぼくは目の前の大海原を眺めてゆっくりと背後の山々を振り返った。カッターボートで上陸したハント夫人はこの浜辺でクアール社の女性と出逢い、そこで救助を呼ぶように伝えたとされる。ところがクアール社の女性が連れてきたのは武装した集落の戦士たちで、彼らは問答無用でローバー号の船員に襲い掛かってきた。ハント氏らは反撃する暇もなく、次々とその場で首を馘された。その際ハント夫人を敵の「戦士」だと勘違いしたクアール社の戦士によって、夫人の首まで斬り落とされてしまったのだ。即ち八宝公主のモデルとなったのは悲恋のオランダ人公主などではなく、難破したアメリカ人の船長夫人であったのだ。

ハント夫人らが漂着した墾丁の海岸。当時、多くの欧米船が付近の海域で難破していた

 

 瑯嶠の「野蛮人バーバリアン」による米人襲撃を聞いた打狗英国領事館は、打狗港に停泊していた英国軍船コーモラント号を現地に派遣して行方不明者を捜索しようとしたが、クアール社の激しい反撃にあって上陸を断念する。やがて、米国人殺害の報は駐アモイ米国領事チャールズ・ルジャンドルの元へ届くことになる。

 フランス生まれのこの外交官は、結婚後にアメリカ国籍を取得すると、南北戦争に参加して赫々たる武勲をあげていった。やがて准将として名誉除隊すると、駐アモイ米国領事に任命されたが、幸か不幸か赴任直後にローバー号事件が起こったのだった。軍人としての来歴に幕を閉じ、新たに外交官として自らの力量を証明したいと考えていたルジャンドルは中国大陸を北へ南と清国朝廷に生存者の救助と殺害者の厳罰を要求したが、朝廷の動きは緩慢で彼の期待に沿うものではなかった。

  これに業を煮やした初代アジア艦隊司令ヘンリー・ベル少将は、日本から二隻の軍艦と181名の海軍兵士を引き連れて、墾丁海岸からクアール社に向けて軍を進めた。ところが平地での軍団決戦ならいざ知らず、山岳地帯における遊撃戦で米海軍がパイワン族の戦士に勝てるわけもなく、彼らは山中で散々鼻っ柱を掴まれて引きずり回された挙句、指揮官のマッケンジー中佐が銃撃されて全面撤退する羽目になった。マッケンジー中佐の遺体は、台湾で名誉ある戦死を遂げた初のアメリカ軍人として打狗外国人墓地に埋葬され、後にその遺骨は米本土に送還された。

 クアール社の支配地域は虎口のような墾丁の海辺を一望できる山々を有し、その集落は峻険で複雑な地形の中にあった。ぼくは熱中症で次々と倒れていく米軍兵士たちを尻目に、一撃離脱戦法ヒットアンドランを繰り返すクアールの戦士の背中を追うようにして、迷路のような社頂山道を駆け抜けていた。台湾原住民が米軍と矛を交えたのは、何も第二次世界大戦の高砂義勇隊がその嚆矢ではなかったのだ。墾丁国立森林遊楽エリアとなっている社頂山上からは、大尖山がその神々しい山影を見せつけていた。

片や敗軍の将となったヘンリー・ベル少将は、クアールの戦術性の高さと勇敢さを称して、「北アメリカのインディアンに匹敵する」と述べた。国内のネイティブ・アメリカンを征服してアジア太平洋に進出してきたアメリカ人が、太平洋の底にへばり付いていた島国で「インディアン」の悪夢を見たことは示唆に富むが、とにかく米国政府を代表するルジャンドルの手元からは、軍事的懲罰による解決のカードが失われてしまったわけだ。

 ルジャンドルは幾度も清国朝廷に事件の解決を求めたが、清国側は事件発生地が朝廷の関与しない「化外の地」であったとしてその責任を回避した。清国側は事件の犯人を「中国人」として朝廷に事件の解決を求めていたルジャンドルをいなしたわけだが、むしろルジャンドルは第三国による恒春半島/「無主の地テラ・ヌリウス」の植民地化を示唆することで朝廷に圧力をかけ続けた。そうしてようやく重い腰をあげた朝廷は、瑯嶠の「凶番」討伐の遠征軍を興すことを決定した。

旧クアール社のあった墾丁国立森林遊楽エリアから見た大尖山

 

 枋寮。

 ここは恒春半島の付け根に位置し、当時清朝が統治していた領土の最南端でもあった。ルジャンドルと遠征軍の指揮官で台湾鎮総兵でもあった劉明燈りゅうめいとう将軍は、太平天国の乱を鎮圧した子飼いの湘軍しょうぐん兵士500名を引き連れてこの地に進駐した。一方、遠征軍が瑯嶠へ南下しているという報せを聞いた瑯嶠の人々は大いに動揺した。

 当時の瑯嶠には大きく分けて4つの勢力がひしめき合っていた。

 第一に、柴城の平地集落に暮らす閩南人で、彼らの多くは官軍侵攻によって第三者である自分たちが最大の被害者となることを恐れていた。官軍はいなごのように庶民の財産を食い荒らしてしまうが、彼らが去っていった頃には、今度は官軍に協力したかどによって土地を貸与してくれている山地原住民から報復を受けることは目に見えていた。

 第二に、射寮の平地集落に暮らす「土生仔トセア」と呼ばれる閩南人と平地原住民マカタオ族の混血の人々で、普段は柴城の人々と争っている彼らの立場もまた、官軍による二次被害と戦後の報復を恐れていた。

 そして第三に、保力など山地集落に暮らす客家人たちだった。彼らは山地原住民と積極的に交流し、柴城や射寮の者たちと衝突することもしばしばであった。保力の客家は武器の製造にも長けていたために、当初は今回の擾乱を勢力を拡大する商機と見ていたが、事態が大きくなるにつれて衝突を回避しようと努めるようになっていった。

客家人集落のあった統埔に建てられた鎮安宮。関聖帝君(関羽)や客家人の信仰する三山国王を祀る

 

――そして四つの目の勢力が、言わずと知れた大頭目トキトク率いるスカロ族です。

 スコットランド・キルトを履いたその男は、憂鬱げな表情を浮かべるルジャンドルに向かって長年蓄積してきた自身の研究成果を饒舌に語った。

――瑯嶠十八社には、本来パイワン族を中心に様々な民族が暮らしていたのですが、これを現在のような酋長制国家へと発展させたのが、トキトクらスカロ族です。彼らは元々卑南に暮らすプユマ族でしたが、それが強力な巫術を持つ巫女と精強な戦士たちを引き連れて瑯嶠まで南下し、パイワン族やマカタオ族、アミ族などを従えて、瑯嶠十八社の長となったのです。スカロとは「担がれる者」を意味します。今回の事件の主犯であるクアール社も、大頭目トキトクが統治する瑯嶠十八社のひとつで、もしも将軍閣下が外交的勝利を得たいとすれば……

――ミスター・ピッカリング。

 ルジャンドルは左目に巻かれた包帯に手を当てながら口を開いた。

――軍人としての私はすでにここにはいない。将軍と呼ぶのはよしてくれまいか。

 ルジャンドルの左目には硝子の義眼が埋め込まれていた。1864年、ヴァージニアで起こった「荒野の戦い」において、後に第18代大統領となるユリシーズ・グラント将軍の率いる北軍の大佐として参戦したルジャンドルは、この激しい戦闘で左目を失った。軍人としての己のキャリアは、この瞬間砕け散ったのだと彼は思っていた。

――柴城の閩南人も保力の客家人も戦いは望んでいないと?

――まさに。彼らは何よりも官軍の南下を恐れています。

 この時期、瑯嶠一帯で活動していたピッカリングは、ローバー号事件が起こると米海軍と行動をともにしていた。米海軍がクアール社に敗れてからは、瑯嶠に残って情報収集を行いつつ、ハント夫人の親友であったジェームズ・ホーンとともにその遺骨の捜索を続けていた。四散したハント夫人の遺骨はクアール社の隣にある龍鑾社に留め置かれ、ピッカリングはそれを多額の「身代金」を支払うことで取り返しているが、おそらくこの辺りの事情が八宝「公主」伝説へと変わっていったのかもしれない。

――なるほど、解決すべき問題は二つということか。

 フレンチ・アクセントの残るルジャンドルの英語に、ピッカリングは大きく頷いた。この軍人上がりの外交官は思ったよりも利口なのかもしれない。少なくとも、地元の漢人を先に篭絡してから攻撃を行うべきだとした彼の建議を退けて上陸を敢行したベル少将などよりも、はるかに切れる人物なのは確かだった。ピッカリングは手元の地図を指さしながら話を続けた。

――閣下のご明察の通りです。第一にスカロ自身が和平を望んでいるのか否か。これに関しては問題ないはずです。いくら武勇に優れたスカロ族でも、食料や銃火器なしでは戦はできません。そしてそれらを提供している柴城や保力は官軍への恐れから戦いを拒んでいる。彼ら平地の漢人たちとはすでに話を進めています。

 ルジャンドルは無言で頷いた。問題は二つ目の課題だった。

――大頭目トキトクは清朝官吏との会談は拒否するでしょう。スカロ族は中国人、特に台湾府の役人を唾棄しており、交渉の相手として認めません。しかし、清朝軍かれらを奇貨として利用しつつ、「紅毛人」である閣下自身が交渉に赴けば事態は大きく変わるはずです。

――トキトクは出てくるか?

――やってみましょう。

 こうして、瑯嶠十八社を統べるスカロの大頭目トキトクとチャールズ・ルジャンドルの間で、和平会談の場がもたれることになった。

 

 

 枋寮から柴城に南進した官軍は、そこで一旦進軍を止めた。劉明燈将軍はあくまでクアール社殲滅を主張したが、同時に慣れない土地で多く湘軍兵士たちが病死していたこともあって、しぶしぶルジャンドルの単独会見による和平工作案を呑むことにした。

 劉明燈は会見に護衛をつけて行くように言ったが、ルジャンドルはそれを拒否して、2名の通訳と漢人の案内役1名だけを連れて、柴城から「火山」と呼ばれる場所へと向かった。ちょうど現在の恒春鎮「出火」の辺りに当たり、当時から天然ガスが地中から吹き出し、オレンジ色の炎がゆらゆらと燃え上がる奇観で広く知られている場所だった。

 「火山」には200名近い戦士たちが待ち構えていた。地べたに中腰で腰を落とした戦士たちは、それぞれ左右の膝の間に旧式銃を挟み込み、たった4人でやって来た紅毛人らの一挙手一投足に注目していた。スカロ族は勇者を貴びます。決して怯えた様子を見せてはいけません。ピッカリングの言葉を思い出したルジャンドルは、さながら燃え上がる炎を愛でるように、ゆっくり戦士たちの環に近づいていった。

 通訳として随行したピッカリングはその壮観に思わず息を呑んだ。大頭目トキトクだけでなく、現場にはクアール社のバヤリン頭目や射麻里社のイサ頭目、牡丹社のアルク頭目など、瑯嶠十八社の主たる頭目が勢ぞろいしていた。環の中心には瑯嶠十八社を統べる大頭目トキトク、そしてその隣に座る若い二人の戦士は、おそらく彼の甥で養子であった朱雷しゅらい潘文杰はんぶんけつだ。

――我ガ国人ヲ殺害セル事情ハ如何ニ?

 腰を下ろしたルジャンドルは単刀直入に尋ねた。その言葉は、ピッカリングらによって平地の言葉に翻訳なおされ、それをまたスカロ側で平地の言葉が分かる人間によって、トキトクへと伝えられた。

――往昔おうせき白人種来リテ、コアルツ人種ヲ鏖滅おうさつシ、僅カニ三名ヲ残セリ。此者共ノ子孫復讐ノ情願じょうがんヲ今ニ遺伝セリ。

 トキトクが重い口を開いた。ルジャンドルの残した『台湾紀行』によれば、トキトクは齢50ほど、その言葉は簡潔で聞き心地よく、背は低いが肩幅は広く、筋肉質の体格であったらしい。優しさに剛毅さが混在した表情の上には辮髪が蓄えられていたが、身なりは完全に原住民のそれであった。そばでトキトクの話を聞いていたピッカリングは、クアール社の先祖を「鏖滅みなごろし」にした紅毛人が、200年前に黄金郷を求めて瑯嶠から卑南へ向かったVOCの兵士であるのだと想像した。どうりで彼らは部外者、とりわけ白人に敵意を持つわけだ。クアール社にとって、それはある種の自衛的復讐劇であったのだ。

――予思フニ、斯ノ如キ復讐ヲ為サハ、恐ラクハ無辜ノ人ヲ殺サン。

 ルジャンドルの言葉にトキトクは何かをつぶやいた。側にいた従者が、その口元に己の耳を近付けてから、平地の言葉でその内容を語った。

――之レ予カ欲スル所ニ非ス、故ニ予ハポリヤクニテ、君ニ相見あいみシテ、遺憾ノ情ヲ伸ヘントセリ。

分かっている。今回のことは我らが間違っていた。だから、この私がわざわざ客家人ナイナイらが暮らすここ保力ポリヤクまでやって来たのだ。

――后来こうらいノ事、汝如何所置スヘキヤ?

――足下そっかモシ戦ヲ欲セハ、元ヨリ辞セサル所ナリ。然ル時ハ、其后ノ事ハ予ノ知ラサル所ナリ。モシ又平和ヲ好マレナハ、余モ又タ永ク其意ヲ守ルヘシ。

貴殿があくまで干戈を交えるというのならば、我ら瑯嶠十八社、一団となって受けてたつ所存だ。その結果は誰にも保障はできない。ただもし平和を求めるのであれば、私もまた永遠にその意思を守りたいと思う次第である。

 両者はここで、ローバー号の船員殺害の件はこれ以上追求しないこと、今後西洋人の漂流者が現れた場合に赤い旗を掲げること、その場合にはこれを攻撃することなく、近くの漢人集落へ引き渡すことなどが決められた。また、航海の安全のために見張り所と砲台をスカロの勢力圏外にある土生仔の居住地に建設することも同意された。

 ルジャンドル・トキトク間で結ばれたこの協定は、現在「南岬なんこうの盟」と呼ばれている。米国議会の承認を経ずにルジャンドルが個人的に結んだ盟約であるために正確には国際条約とは言えないが、それでも台湾史上初めて原住民族と外国政府との間で結ばれた国際協定であった。

 両者の間で和平協定が結ばれた後、ルジャンドルは劉明燈に撤兵を要請した。将軍はこれを了承し、アモイへと戻っていくルジャンドルに、部下に付近の集落で集めさせた望遠鏡と航海器具の残骸、それから一枚のモノクロ写真を手渡した。それは瑯嶠各地の集落に散らばっていたローバー号の漂流物の一部で、写真には事件の発端となったハント夫人が写っていた。こうしてルジャンドルは外交官として華々しくデビューを飾り、後に激動の東アジアの歴史に深くかかわっていくことになるのだった。

 

 

 若いカップルや家族づれの観光客で溢れるビーチを避けるように、ぼくはトキトクが暮らしていたとされるチュラソ社へと向かっていた。台湾最南端にある鵝鑾鼻燈台を抜けると、右手に広がっていた大海原が台湾海峡からバシー海峡、そして太平洋へと変わっていく。クアール社があった社頂を北上して、台湾最南端のお茶の生産地である港口を通過すると、チュラソ社のあった屏東県満州郷へ至る。河谷の地形をした満州郷は「落山風」の影響を受けず、リゾート地である墾丁からも離れているために、豊かな自然風景がそのまま残っていた。また灰面鵟鷹サシバと呼ばれるタカの生息地としても有名で、空にはストライプ柄の羽根が優雅に舞い踊っていた。



屏東県満州郷はタカの生息地としても知られている

 

 トキトクの死後、恒春半島の情勢は大きく変わった。外国の干渉を恐れる清朝政府は相次いで軍と役人を「化外の地」に派遣し、それまでスカロ族の支配下にあった瑯嶠にも多くの中国人が現れるようになった。トキトクの跡を継いだのはその養子の朱雷と潘文杰で、とりわけ客家人とスカロ族の混血であった潘文杰は、清朝末期から日本統治初期にかけて、瑯嶠十八社の大頭目として難しい舵取りを担ってきた。

 ルジャンドルが劉将軍から受け取った写真は、そのままハント夫人の遺影となってしまったわけだが、ぼくは知らず知らずのうちに、そこに萬応公祠で見たあの慈悲に満ちた八宝公主の表情を重ねていた。近代以降、恒春半島で急増した海難事故によって発生した多国籍の無縁仏が南台湾の歴史的背景と交じり合うことで生まれた「八宝公主伝説」は、この100年来語り手の民族性やその信仰によって様々な表情を見せてきた。

 

 

 数ある八宝公主伝説の中にはこんな話も伝わっている。

 八宝公主は真珠の服を身に着けていたが、この服には魔除けや防火の御神力が宿っていた。クアール社の戦士が八宝公主を殺してこの宝物を手に入れた後、これを瑯嶠十八社の頭目に進呈することにした。やがて、中国人が去って日本人がやって来ると、この宝物はトキトクの後継者であった潘文杰の息子である潘阿別はんあべつの手に渡った。瑯嶠十八社の大頭目となった阿別は、近衛師団長として渡台していた北白川宮能久親王を通じて、宝物を明治天皇へと献上した。明治天皇はその返礼として一振りの宝剣を下賜したが、阿別はその宝力を使ってしばしば横暴な日本人官憲を懲らしめるようになった。明治天皇は仕方なく宝剣を没収して、代わりに一本の杖を下賜することになったのだった。

 もちろん、これはすぐに歴史的に「正しくない」と分かる物語であるが、そこには長年自立自存で生きてきた瑯嶠十八社の人々が、時代の波に押し流されていく中で編みこんだ文字としては残せなかった物語の欠片が散りばめられている。

 宝剣の行方は誰も知らない。


萬応公祠に祀られた八宝公主像

 

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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