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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

浸水営古道クロニクル:忘れられた騒乱

 こんな奇譚がある。

 康熙こうき年間、場所は北京。日本で言えば、八代将軍・徳川吉宗の享保の改革がスタートした時分である。中国歴代王朝の中でもとりわけ名君の呼び名の高い康熙帝の御前に、ある男が跪いていた。褐色の肌をしたその男は、赤脚にして長く垂らした辮髪に百枚もの銅銭を括り付けていた。その傍らには一匹の駿馬に跨った清朝の騎馬兵。華やかな武具に身を包んだ兵士が馬上で何かを叫んだ。男にはその言葉が分からなかったが、何を問われているのかは理解できた。男の口元に不敵な笑みが浮かんでいることに気付いた兵士は、力強く鐙を踏んで駿馬の腹を蹴ると、一日千里は走ると言われる名馬の逞しい尻に鞭を入れた。

 一回。二回。

 駿馬は疾風のごとく駆けだした。

 三回目の鞭が駿馬の尻に触れた瞬間、男は弛緩させていた全身の筋肉を前方を走る駿馬に向けて爆発させた。まさに電光石火、男と駿馬の距離は瞬く間に縮まってゆき、やがて男の四肢が駿馬の影に重なった。そのあまりの捷足具合に、周囲の人間の目には髪に括り付けた銅銭が水平に浮かんでいるように映ったと言われている。やがて、男の影が駿馬を追い抜き、更にそれを突き放していくと、宮中からは万雷の歓声が上がった。

 男の名は程天与ていてんよ。台南府蕭攏しょうろう社(台南市佳里かり区)に暮らしていた平地原住民シラヤ族の青年である。俊足を美徳としたシラヤ族においてもとりわけ足の速かった程天与は、その噂を聞きつけた朝廷からはるか北京に召され、康熙帝の御前でその脚を披露することになったのだった。百枚の銅銭を髪に結びつけた程天与は、敢えて先行を許した駿馬を見事に追い抜き、生涯三度も天子に拝謁する栄誉を得たと伝えられる。

 

 シラヤ族は走る民族であった。

 明の儒学者・陳第ちんだいによって書かれた地理書『東番記』(1603年)には、大員(台南)にいた平地原住民族は「日夜走るを習いとし、足の皮は厚く、荊の上を平地の如く歩き、速き事奔馬に後れを取らず、終日休むことなく、数百里を行く」と記されている。彼らは新年に集落の周りを走ることで厄除けを行い、優勝者の家には錦が掲げられて顕彰されたという。シラヤ族の少年たちは飢えを抑えて速く走るために、幼少の頃から麻や竹の皮で編まれた腰ひもで固く腹部を括り、結婚するまでは決してそれを解かなかったと言われる。

 もともと野生馬が生息せず、家畜馬も飼育されていなかった台湾において、俊足で鳴らしたシラヤ族は、古くから公文書を配達する郵便業務を任されてきた。郵便業務を担った未婚の男性は「麻達マーダ」と呼ばれ、その頭には雉の羽根が差され、油紙の傘を背負い、腕には二枚の鉄環をぶら下げていた。鉄環が激しく響き合う音を聞いた市井の人々は、一刻一秒を争う麻達のために急いで道を譲ったと言われている。紫禁城で天子の龍顔を拝むことのできた程天与もまた、こうした麻達の一人であった。

台南市佳里区に残る「飛番」程天与の墓。付近にはシラヤ族の集落跡が残る

 

 果たして、俊足で鳴らした麻達にとっても、この島の背骨を貫く山々での配達業務は苦しいものだったのだろうか。ぼくは雲海に沈む山々の峰を眼下に、かつて浸水営しんすいえい古道と呼ばれた山道を歩いていた。台湾五岳のひとつである北大武山を枕に、切り立った山々が綿々と続く恒春半島北部に拓かれたこの山道は、古くはパイワン族とプユマ族の交易路のひとつであった。手つかずの原生植物が咲き誇る緑の隧道トンネルはまるで水に浸されたように泥濘み、伸ばした両手の指がぼんやりと見えるほどに霧がかっていた。

 17世紀には、オランダ東インド会社(VOC)によって管理された浸水営古道であったが、国性爺に駆逐されたオランダ人たちが立ち去ると、卑南ひなん(現台東市)のプユマ族によって支配されるようになる。清朝時代、台湾西部で大規模な反乱事件が起こる度に朝廷に積極的な協力を示してきたプユマ族は、長らく後山南部で特権的な地位を保持していた。1788(乾隆53)年、プユマ族の族長の息子ビナライは、林爽文事件の反乱鎮圧に功があったとして、程天与と同じく北京紫禁城に招かれて乾隆帝に謁見した。乾隆帝はこの無邪気な蛮人頭目をひどく気に入ったらしく、ビナライは六品の官服と山のような贈り物を携えて、枋寮の街から浸水営古道を通って故郷卑南へ凱旋した。当時は鳳山県城の役人でも七官相当の官位であったために、ビナライの官位はかなり破格の扱いであった。北京の皇帝からその地位が認められたビナライは、以降「卑南王」と称され、以来浸水営古道に大きな影響力を及ぼしてきた。

中央山脈の一端から眺望した台東。オランダ時代から清朝時代にかけて、卑南は勇猛果敢で知られたプユマ族の勢力圏下にあった

 

 清朝は原住民族と不用の摩擦を避けるために、平地と山地との間に「土牛界線とぎゅうかいせん」と呼ばれる境界線を設けて、これより先に漢人が開拓に入らないように取り決めていた。ところが、平地の漢人移民が急増して土地が足りなくなるにしたがって、しばしば両者の間で衝突が起こる。とりわけ、急増する漢人に土地を奪われてしまった平地原住民の人々は、新天地を求めて人口の少ない東部に移住するしかなく、彼らは家財道具一切を担いで浸水営古道を東へ向かった。時代の変遷に伴い、はしること飛ぶが如くと言われた「飛番」程天与の同族マカタオ族の人々もまた、走ることに意味を見出せなくなってしまっていた。農耕用の水牛を引き連れたマカタオ族は、新天地を求めてのろのろとこの暗く湿った山道を東へと向かっていったのであった。


浸水営古道の年間降雨量は5200㎜を越える(日本の平均降雨量はおよそ1700㎜)

 

 やがて19世紀後半に入ると、日本や欧米の艦船が度々南台湾の海域に出没するようになる。こうした動きと連動するように、外国人宣教師や清朝の官吏たちが、浸水営古道を使って次々と後山へと向かっていった。中国の新文学運動を指導し、抗日戦争期には中華民国の駐米大使としても活躍することになる哲学者・胡適こてきも、この時期に若い母親の胸に抱かれて、台東直隷州知州代理を務めた父親・胡伝こでんに従って古道を往復している。異族間の沈黙交易に黄金探索、移民に宣教、学術調査に公文書の郵送、出草に討伐……大航海時代以降、この古道は500年に亘って、異なる人種、民族、宗教、政治思想の人間を呑み込み、またこの閉ざされながら開かれた山道に様々な奇譚を生み出してきたのだった。

 歩みを緩めれば緩めるほど、自分の足が地面に深くめり込んでゆくように感じた。湿った山道には色とりどりの落ち葉が重なり、満足に腰を落ち着けられるような場所もなかった。時おり緑の天井が途切れて、淀んだ空から太陽が顔を出すこともあったが、それもすぐにレントゲン写真に映る肺のように、深く濁った霧によって遮られてしまった。巨大な素材のように見える「」の山々を眼下に望んでいると、そこにどんなものが隠されているのか無限に想像が膨む。自分が彫物師であれば、この極上の素材から何を彫りだそうとするのだろうか。掘りだそうとするのだろうか。一個の巨大な有機体が静かに寝息を立てている姿を想像しながら、ぼくは機械的に両足を繰り出し続けていた。


中央山脈の鞍部にあたる浸水営古道には深い霧が立ち込めることが多い

 

 近代中国の歴史に大きな足跡を残した胡伝・胡適親子が大陸に帰国するのと入れ替わるように、古道に新たな勢力が現れる。この島の新たな主となった台湾総督府は、台湾西部と東部を繋ぐ唯一の陸路であった浸水営古道を正式に官営郵便路として指定したが、配達業の一部は、すでに時代遅れとなった「麻達マーダ」にではなく、リキリキ社に暮らすパイワン族に委任した。この時期の郵便業務はまだ危険も多く、業務中に殉職する者も少なくなかった。ところが、この郵便配達が250年の間大きな騒乱の起こらなかった古道にかつてない波乱を呼び込むことになるのだった。

 

 明治33(1900)年1月、人類学者の鳥居龍蔵と森丑之助が浸水営古道に足を踏み入れる。南台湾に暮らす原住民族の調査をするために、二人は浸水営古道を通って、恒春半島北部に暮らす原住民族の各集落を渡り歩いていたのだ。当時の鳥居は30歳、森は弱冠23歳に過ぎなかったが、それは日本における人類学という新たな学問の若さを象徴しているようでもあった。二人がリキリキ社に到着すると、集落はひどい騒ぎのなかにあった。森がその訳を尋ねると、どうやら数日前に郵便物を配達中だった集落の若者が、敵対するボガリ社の人間に首をかくされたというのだ。

 ――我らはこれより出草しゅっそうに向かうつもりだ。
 ――仇討ちに、相手の首を馘すということか?
 ――いかにも。ちょうどお前たちがこの集落に現れたのは祖霊の導きだ。二人にもぜひこれに加わってもらいたい。

 森は年長者である鳥居に目をやった。すでに遼東半島や琉球、千島列島などでフィールドワークの経験をもっていた鳥居は、さしたる学歴を持たない森に人類学の「いろは」を教えてくれた大先輩であった。しかし森は、鳥居の目に困惑の色が浮かんでいるのが分かった。二人は何とか理由をつけてこれを固辞しようとしたが、そのことがかえってリキリキ社の不興を買ってしまった。

 ――我らはお前たちのために、命を懸けてこの「紙の束」を運んでやっているのだ。お前たちも我らのために命を賭すことは当然ではないか!


霧深い浸水営古道の山道。日本時代初期には、東部への郵便連絡路として使用された

 考えてみれば、郵便事業とは国家の外側に生きる者たちにとっては諸刃の剣である。それは、将来的に国民となる者たちの生活の利便性を保証するものであると同時に、戸籍や住所、家族構成などを提出することで、権力による支配を受け入れることを意味しているからだ。だからこそ、近代的郵便制度は植民地などの辺境においては、容易に「反乱」の導火線になりかねないものでもあった。台湾総督府は「文明」に取り込まれていない浸水営古道の郵便業務をいまだ「野蛮」の中にあったリキリキ社に委託してきたが、リキリキ社側の態度はひどく消極的で、ときにその配達人や警護員である警官を殺害することもあった。リキリキ社出草の現場に、偶然にも日本人類学の基礎を築くことになる二人の学者が同席していたことは興味深い。郵便制度の地均しともいえる住所や地図の作成は、フィールドワークを基本とする人類学者にとっては必須の作業であった。

 困り果てた二人は、結局出草前の祭祀に豚一頭を提供することで、何とかこの義務から逃れたらしい。

 

 古道には様々な鳥の鳴き声が木霊していた。しかし、薄い膜のような濃霧に包まれていることもあって、視界は思った以上に利かず、鼻腔にはただ植物の湿った匂いだけが粘着していた。数十年、あるいは数百年前に山道に積み上げられた石壁は、シダ類やコケによってすっかり元の色が失われていた。いまから360年前、わずかな部下を引き連れて後山へと逃れたVOC南路政務官のヘンドリック・ノールデンは、きっとこの米のとぎ汁のような空気に浸された山道を、焦燥に駆られながら手探りで進んでいたに違いない。あるいは、清朝の勢力圏外にある後山で再起を図ろうと、この古道に逃げ込んできた鴨母王や荘大田の残党は、山道をふさぐ「卑南王」の戦士らを恐れ、あえて獣道を選んで東進していたのかもしれない。そう考えると、すっかり人の気息が絶えた山道を歩く自分がひどく気楽に思えた。

 ふと、視界の端からふと黒い影が目の前に飛び出した。不安定な足場でバランスを保つことが適わず、ぼくは思わずその場で尻もちをついた。影の正体に目を遣れば、そこには人間以上に人間らしい驚きをみせた表情が浮かんでいた。

 藍腹鷳サンケイだ。

 それは山地に暮らす台湾固有種のキジの一種で、憶病な性格のために滅多に目にすることができない野鳥だった。目の淵が赤く、全身が褐色の羽毛で覆われている様子からメスであることが分かった。ぼくは周囲につがい●●●がいないか確かめた。サンケイのオスは鮮やかな藍色の羽根を持っているはずで、その美しさはサンケイの学名(Lophura swinhoii)のもとになった打狗たかお英国領事館の領事ロバート・スウィンホーが一目見てみたいと願いながら、結局直接見ることが適わなかったほどに希少な野鳥だった。

 ぼくは恐る恐るリュックに手を入れてカメラを取り出そうとした。しかし、その動きを敏感に察知したサンケイは、西部劇のガンマンが向かい合う敵をめ付けるように、全神経を真っ赤な眼孔に集中させてぼくを見つめた。

 次の瞬間、サンケイの背後にあった南洋沙羅なんようへごの枝が激しく揺れた。思わずそちらに気を取られたぼくは、サンケイが霧の中へと飛び立つ瞬間を見逃してしまった。

 木生シダの一種であるその巨木の裏にいったい何が隠れていたのか。ぼくはカメラを手に、しばらく霧の中でひとり佇んでいたが、結局南洋沙羅の背後からは何も出てこなかった。回り込んでその根元に目を遣ると、そこにはずいぶん前に誰かが腰を下ろした跡だけが残っていた。


山道に残されたサンケイの羽根。かつて乱獲されたために、いまでは目にすることが少ない

 

 明治41(1908)年、浸水営古道で郵便業務の巡邏をしていた日本人警官2名が殺害される。日本側はこれをリキリキ社の仕業として懲罰に乗り出した。翌年3月、浸水営古道に暮らす5人の頭目を水底寮の街に呼び出した日本の警察は、頭目らをそのまま阿緱あこう庁に拘束する。頭目逮捕の過程で、日本側は警官殺しの犯人がリキリキ社の人間ではなく、その敵対部族によってなされた犯行であることを掴んでいたが、これをオランダ時代以来「まつろわぬ民」であったリキリキ社を懲らしめる好機と捉えたのだった。

 大頭目アヴアヴは、囚われた5人の頭目たちを救うために、リキリキ社駐在所に勤めていた槙寺佐市警部補に仲介を乞い、平地にある枋寮支庁へ向かった。そこで、アヴアヴは10頭の豚と25丁の猟銃を賠償金代わりに提出させられた上、今後台湾総督府の方針に一切服従するといった誓約書に捺印までさせられた。

 屈辱に歪んだアヴアヴの顔を横目に見ていた槙寺の頭には、友人森丑之助の言葉が浮かんでいた。

 ――槙寺さん、そもそも蕃人を服従させようとすることが間違いなんですよ。彼らは自分たちを「独立の民」と信じているわけですから。ぼくたちがいくら帰順や服従を求めたところで、馬の耳に念仏というやつです。
 ――しかし蕃界に勤務する警官として、彼らを管理しないわけにもいきませんよ。
 ――知っていますか? 彼らの言葉には「帰順」や「服従」という単語がないんです。言葉がないということは、実体がないということです。実体のないことを強要するということは、ただ相手に無用の屈辱を与えてしまうだけです。となるとどうなるか。
 ――どうなりますか?

 森はそれには答えず、ただ悲しそうに笑った。

 かつて鳥居龍蔵の助手として浸水営古道にやってきた森丑之助は、この頃すでに「蕃界調査の第一人者」としてその名を台湾中に知られる存在になっていた。多くの警官や役人たちが次々と蕃界で命を落とすなかで、ひとり森だけは身に寸鉄も帯びることなく、山地に分け入っていた。

 ――へいさん、どうして武器を持たずに山に入るのです。一度火のついた蕃人がどれほど凶暴か、知らぬはずはないでしょう。

 槙寺は森を彼の二つ名である「丙牛へいぎゅう」の「丙」の字で呼んだ。歳が近く、また同じく山地蕃界を職場としていた二人は気の置けない関係であった。

 ――猿に銃器を担がせたところで意味はないでしょう。それに、ぼくは見ての通りの小男ですし、その上足が悪いときている。そんなぼくが銃をもったところで、蕃人たちには脅しにすらなりませんよ。
 ――なら、丙さんはどうやってこの山地で身を守ってきたんですか?
 ――誠の一字です。

 森の答えに槙寺は思わず眉をひそめた。

 ――そんなものでどうにかなりますか?
 ――彼らを理解し尊重してやれば、必ずそれは伝わります。ただ誠を以てこれに対せば、蕃人と云えども少しも恐れるところはないのですよ。

 

 リキリキ社駐在所の椅子に腰を落とした槙寺は、深くため息をついた。事態は個人の誠意で解決できる範囲をとうに超えていた。明治42(1909)年、台湾総督府は「五ヵ年理蕃政策」を打ち出した。自身もまた牡丹社事件において手づから「凶蕃」パイワン族を討ち取った過去を持つ第五代台湾総督・佐久間左馬太は、積極的に山地原住民への威嚇を繰り返し、反抗する部族を徹底的に武力で鎮圧していった。当初は北部タイヤル族をその標的としていたが、五ヵ年計画末期には南部原住民族に向けて、彼らが保有する銃器の提供を要求したのだった。

 大正3(1914)年9月、蕃人が保持する銃器の強制提供に関する通知を受け取った槙寺は、大頭目アヴアヴの暮らす石板屋を訪れた。きれいに石切りされた巨石を積み上げて作られたその家屋はパイワン族やルカイ族など、南部原住民に特有の建築スタイルで、大頭目の家ともなると、その入り口に立派な彫刻トーテムがほどこされていた。アヴアヴと顔を合わせた瞬間、数年前に彼が屈辱に満ちた表情で集落にある銃器を提供していた様子が浮かんだ。

 槙寺は簡潔に用件だけを伝えた。

 ――我らは命じられた労役を無報酬●●●で果たしている。郵便配達も恙なく行っている。なにゆえそのような無理難題を押し付けるのだ。

 槙寺は黙っていた。パイワン族にとって、銃がどれほど大切なものであるのか分かっていたからだ。彼らが銃を携えることは、さながら徳川時代の侍が大小二本を腰元に指しているのと変わらない。彼らにとって銃とは、生活の糧を得る重要な道具であり、また自衛自存のために必要な武器であった。あるいは、それは尊厳の問題といってもよかった。槙寺はただ同じ言葉を繰り返すしかなかった。

 ――話は分かった。だが我らにも都合がある。冬の備蓄に向けて最後の狩猟を行いたい。銃器の提供はそのあとだ。

 槙寺は開きかけた口を再び閉じた。数日の遅延など、台北の街に暮らすお役人にとっては大した問題でもあるまい。彼は黙って頷くと、万事任せたとその場を去った。アヴアヴはすぐさま頭目たちを集めると、狩猟隊を結成するという名目で、周囲の同盟集落に散っていた銃器と戦士たちを集めた。

 ――我らは十分我慢した。誠意を欠いたのはやつらの側だ。

 

 10月8日、浸水営駐在所に向けて、郵便配達の護衛をしていたリキリキ社の巡査酒井百太郎が、狩猟隊を装ったリキリキ社の戦士たちに遭遇した。酒井は集落の若者たちの興奮した様子を不審に思ったが、狩猟が実施されるという報告を受けていたので、そのまま黙って隊列の横を通り過ぎようとした。次の瞬間、酒井は古道が180度ぐるりと回転したように感じた。酒井百太郎巡査は、己の首が汗で黒く湿った制服を離れて、ぬかるんだ古道の上に転がり落ちたことに気付かぬままに息を引き取った。

 払暁、狩猟隊は浸水営駐在所に向かった。戦士たちは武器弾薬を奪うために、駐在所にいた照三市郎巡査夫婦と山岸実巡査を襲撃、幼児を除く3名の首を刎ねた。正午には浸水営古道の東側に位置する姑仔崙しゅうころん駐在所が山上の異変に気付き、すぐさま事態を上層部へ報告する。しかし、山地駐在所に通じる電話線はすでに断ち切られ、リキリキ駐在所への連絡は適わなかった。

 陸の孤島となったリキリキ駐在所にいた槙寺は、いまだ事態を呑み込めていなかった。酒井巡査の帰還が遅いことを不審に思った彼は、さらに2名の巡査を浸水営駐在所に派遣する。しかし、近隣の同盟集落と合流したリキリキ社の狩猟隊の数はこのときすでに150人を超え、十分な装備ももたなかった巡査たちは細い古道で逃げ場もなく、悲鳴を上げる間もなく首を刎ねられた。


古道脇にわずかに残る浸水営駐在所跡

 

 突如周囲から鬨の声に似た歓声が上がった。槙寺が駐在所の外へと目をやると、山道から武装したリキリキ社の戦士たちが駆け下りてくるのが見えた。駐在所には数名の警官しかおらず、とても応援が来るまで持ちこたえられそうになかった。逃げ出すべきかどうかと迷っていると、駐在所で下働きをしていたパイワン族の警丁らが、まるで事前に打ち合わせていたように次々と制服を脱ぎ捨て、槙寺たち日本人を玄関口に押し出した。

 槙寺は目を細めた。山あいを吹き抜ける風に、霧は千切れた綿菓子のように吹き散らかされ、翠緑の山肌には陽光がまだらに降り注いでいた。

 100名を超える戦士たちの先頭には、浸水営駐在所で奪った小銃を担いだ大頭目アヴアヴが太陽を背負うようにして立っていた。アヴアヴが軽く頷くと、若い戦士たちが実に手際よく駐在所に残っていた警官とその家族たちの首を次々と落としていった。別れの言葉をかける暇もなく落とされた妻子の首を見た槙寺は、冷え切った肉体とは別に、己の脳みそが熱く沸騰しているのを感じた。果たしてそれが憤怒なのか恐怖なのかは分からなかったが、数秒後に確実に訪れるであろう己の運命だけははっきりと分かっていた。

――では、丙さんはどうやってこの山地で身を守ってきたんですか?

 ぐつぐつと煮えたぎる脳裏で、彼は数年前に放った己の声を聴いたような気がした。隣にいた戦士に小銃を預けたアヴアヴが、腰に下げた蕃刀を抜いて歩みを進めた。その両目は、これから人を殺める者のそれとは思えぬほどに澄んでいた。槙寺は握りしめていた護身用の銃を地面に投げ捨てた。次の瞬間、急流で知られるリキリキ渓に飛び込むときのように大きく頬をふくらませたアヴアヴが、槙寺の首元に向けて、先祖伝来の蕃刀を水平に薙ぎ払った。黒鉄くろがねの切っ先が己の頸椎を断ち切る鈍い音を聞いた槙寺の意識は、そのまま転がるように闇の奥へと沈んでいった。

 

 ギャ ギャ ギャ

 遠くにキョンの鳴き声が聞こえた。まるで断末魔のようなその鳴き声は、いつ聞いてもひどく不吉だ。ぼくは山道を覆う枝を払いながら進んだ。無限に繰り返す「乙」字型の山道は遠慮を知らない植物たちによって半ば獣道へと変わってしまい、もうずいぶんと長い間人が足を踏み入れた形跡はなかった。かつてアヴアヴや槙寺たちが暮らしていた旧リキリキ社は、浸水営古道の手前にある大漢林道を北に下った場所にあった。

 パイワン族の習俗を理解していた槙寺は、きっと自分や家族の首が丁重に葬られるものと信じていたに違いない。森丑之助の言葉を借りれば、出草とは「神の審判に依る裁決」であって、「神聖なる行為」でもあった。蕃刀が降り下ろされるその瞬間、槙寺佐市の網膜には何が映っていたのか。空を見上れば、彼方に見える南大武山の深山まで燦燦と輝く陽光が降り注いでいた。獣道となった山道が尽きるまで歩き続けたぼくは、水筒に残っていた水を地面に撒くと、その場で軽く手を合わせて、再び同じ道を引き返した。



旧リキリキ社に至る山道。これより先には進むことができなかった

 

 浸水営事件、あるいは南蕃事件とも呼ばれたこの騒動は、やがて五か月にわたる騒乱に発展した。戦火は瞬く間に恒春半島全域に拡大し、日本側は台湾全土から2000名近い武装警官を動員して「反乱」を鎮圧しようとした。最終的には、帝国海軍の駆逐艦を動員して反乱に参加した「凶族」を海と陸から牽制した。鎮圧にあたって、日本側は107名もの死者を出したが、パイワン族側の死傷者に関しては記録されていない。本来の目的であった銃器の押収も着々と進められ、計8108丁の銃と2268丁の故障銃が没収された。当時のパイワン族の人口を考えれば、成人男性のほぼ全員が銃を保持していた計算になる。

 山地原住民族の蜂起事件といえば、昭和5(1930)年にセデック族が起こした霧社事件が日本でもよく知られているが、その規模と死者数から見て、浸水営事件もまたそれに比類するものでありながら、現在では日本人・台湾人を問わず、事件の存在そのものを知らない者が多い。騒乱後、台湾総督府は「反乱」を起こしたリキリキ社の人々を平地に近い帰化門社などに強制的に分散移住させた。オランダ時代から常に為政者に反抗してきたリキリキ社はこうして急速にその力を落とし、以降は「良蕃」として総督府の理蕃政策に従うようになった。


戦後、リキリキ社の人々は国民党政府によって再び移住を命じられ、現在はリキリキ渓南側にある平地集落に暮らしている

 

 では、大正3(1924)年に書かれた回想録『生蕃行脚』において、槙寺佐市警部補を「私の友人」と呼んでいた人類学者・森丑之助はその後どうなったのか?

 誠意さえあれば身に寸鉄を携えずとも山地の蕃人と分かり合うことができると述べていた森は、総督府の武断的理蕃政策に加え、関東大震災で己の研究成果の多くが灰燼に帰したことも加わって、鬱々とした日々を過ごしていた。大正15(1926)年7月、台湾の深山に「蕃人の楽園」を作りたいと願っていた森は、基隆港から内地に向けて出発した笠戸丸船上で入水自殺する。山で傷ひとつ負わなかった幻の人類学者は、皮肉にも海の上でその生命を断ったのであった。以降、2000年代にその研究成果が楊南郡ら台湾の研究者によって発掘されるまで、彼の存在もまた浸水営古道で起こった惨劇と同様に、長く日台両国の人々から忘れられることになったのであった。

 

 浸水営古道を離れたぼくは、相棒のバイクに跨って、細い獣道のような大漢林道を西へと下っていった。対向車両を心配していたが、人煙の絶えた山道でそれはまったくの杞憂だった。やがて、屏東平原を西の大海に向かって流れるリキリキ渓が見え、山裾に広がる小さなパイワン族の集落を抜けて、枋寮の街に降り立った。古道での静寂が信じられないほどに、平地ではバイクと自動車のエンジン音がかしましかった。

 交差点で信号待ちをしていると、緑の制服に身を包んだ中華郵便の配達員が、ぼくの隣に止まった。「野狼125」と呼ばれる緑のバイクに跨る郵便配達員の皮膚は浅黒く、濃い眉毛の下には意志の強そうな瞳が輝いていた。ふと、映画『海角七号』に主演していたアミ族の俳優で歌手でもある范逸臣ヴァン・ファンを思い出した。信号が赤から青に変わると、件の范逸臣は野狼125を猛スピードで走らせていった。ぼくは先行する野狼125が三度エンジン音を立てるのを聞いてからアクセルを回したが、屏東平原を東奔西走する駿馬は、鈍足の相棒をあっという間に引き離してしまった。

 

 弓手ゆんでには紺碧の大海原が横臥し、馬手めてに切り立つ山々は又候またぞろ白霧を吐き出していた。

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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