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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

「鬼」をもって神兵となす

 

 数週間前、偶然海辺に立てられた招軍旗を目にした。

 確か、恒春半島を枋寮から楓港ふうこうを経て、牡丹郷に向かう途上だった。屏鵝へいが公路と呼ばれる台26線の幹線道路上では、近くの集落からやって来た農業従事者たちが並べられるだけの商品を並べて、法定速度+αで疾走する旅行者たちの車を呼び込んでいた。

 芒果マンゴー蓮霧レンブ皮蛋ピータン洋葱たまねぎ玉荷苞ライチ蜂蜜はちみつ釈迦しゃかとう菱角ひしのみ

 手書きで書かれた巨大な看板の文字が、するすると背後へと流れ落ちていく。細切れになった言葉を口にすると、何やら念仏を唱えているような気がした。

 馬手に広がる大海原には毒々しいまでの陽光が降り注ぎ、剥き出しになった首元や手の甲をチリチリと焦がしていた。ヘルメットのフェイスガードの下に、ぼくは夜市で購入した厚手のサングラスをかけた。どうにかまともに運転できるようになったが、それでも視界に映る景色は強烈な日差しのためにうっすらとぼやけて見えた。

 真っ白な海岸線に黒い影が映った。

 それは、のっぽの人間が俯くように海を眺めている影だった。

――招軍旗だ。

 相棒を路上に止めたぼくは、玩具売り場に駆けていく子どものように、幹線道路から砂浜へと飛び降りた。周囲には誰もいなかった。あるいは、「招軍請火」の儀式はすでに終わってしまったのかもしれない。

 どうしてまたこの招軍旗はこんなにも暗い色をしているのか。眉間に皺を寄せて旗を見上げたぼくは、自分がサングラスをかけていたことを思い出した。言い訳するように苦笑いを浮かべて見せたが、いまここに「生きている」人間は自分ひとりであるのだと思い直し、作り笑いを収めて素直にサングラスを外した。

 陽光がひどく目に染みる。まるできつく搾り取ったレモンの汁を一滴一滴、目じりに注ぎこまれるような痛みだった。ゆっくりと瞼を開けたぼくは、再び風にたなびく招軍旗を見上げた。招軍旗は落山風と呼ばれる恒春半島独特の暴風に晒されて、何度も深くお辞儀をしていたが、決して額を地に擦りつけることはなかった。旗上には笹の葉が括り付けられ、鮮やかな赤色に「勅令」の文字が躍っている。以前、高雄市内で見たことのある旗とはどこか違って見えた。具体的にどこが違うのかは分からなかったが、ただそこにこの世ならざる者たちがいるのだということだけは分かっていた。


屏鵝公路脇の海岸でたなびいていた招軍旗

 

 いわゆる招軍旗とは、「グイ」を招集するために立てられる神具である。

 中国語で「鬼」とは幽霊を意味する。つまり、招軍旗がある場所には、幽霊が集まるということだ。ではなぜ「鬼」など集める必要があるのか。中華文化圏において、霊魂には「神」、「鬼」、「祖先」の三種のタイプがあるとされる。この三位一体モデルは、1960年代頃から欧米の人類学者たちによって提唱された概念であるが、台湾における霊魂を説明する上で非常に分かりやすい。

 まず、生前善行や偉業を成し遂げた者の霊魂は、「神」として古代中国の官僚制度になぞらえた天界組織の中に位置づけられて祀られることがある。例えばそれは、三国志の英雄・関羽を祀った関帝廟や、霊験豊かな巫女であった林黙娘を祀った媽祖廟などがそれにあたるが、この点は日本における英雄神と似た原理を持っている。

 翻って、「祖先」と「鬼」は、ともに亡くなった一般人の霊魂を指しているが、その違いは祭祀する子孫の有無が大きい。定められた儀式に従って、男系親族によって祀られた霊魂は「祖先」となって子孫を守ってくれるが、祭祀する者のいない霊魂、あるいは横死や自殺など、異常な死を遂げた者たちの霊魂は「陰間」と呼ばれる世界において、常に腹を空かして彷徨い続けることになる。

 台湾ではこうした「鬼」を「好兄弟きょうだいぶん」と呼ぶが、地獄の門が開くとされる旧暦7月になれば、この「好兄弟」たちを盛大にもてなす必要がある。なぜなら、もしも「好兄弟」が自身の待遇に不満を感じれば、彼らはやがて祟りをなす「厲鬼れいき」となって現世の人々に様々な災いをもたらすからだ。「鬼月」と呼ばれる旧暦7月、水辺に近づく者はいなくなるし、夜半に洗濯物を洗い干すこともなくなる。さらには結婚式場のスケジュールは真っ白になって、引っ越し業者は開店休業状態となる。まるでこの世界を薄皮一枚めくった場所にある別の世界が、いまある現実を侵食するのを畏れるような緊張感が社会全体に蔓延していくのだ。路上には様々なご馳走や紙銭が並ぶだけでなく、「好兄弟」が顔を洗うための洗面器や濡れタオル、櫛や鏡、歯磨き粉から歯ブラシまでが用意される。台湾に来たばかりの頃、ぼくは物珍しさからこのタオルは何に使うのかと問うたことがあった。ある日式ラーメン屋の主人は、「好兄弟かれら」に使ってもらうためだよと言って笑った。

――まァ、あんたみたいな外国人には分からないかも知れないけどな。

 主人はそう言いながら、軍人がベッドメイクをするときのように、タオルの端々をきれいに揃え直してみせた。

 彼らがこれほど「鬼」に気を遣う理由は、「好兄弟」が「厲鬼」となって祟らないようにするためであるが、他にもこうした「鬼」たちが、ときと場合によっては神さまを超える強力な力があると考えられているためでもある。だからこそ、台湾各地にはこうした「好兄弟」を祀った有応公ゆうおうこう(他にも、百姓公、万姓公、万善爺、万善媽、大衆媽、聖媽など、死者のエスニシティや性別によって様々な呼称が存在する)が建立され、それらは神々を祀った一般の廟と区別する意味で「陰廟」と呼ばれている。「有応」とは「有求必応」の略語で、「求むる処有れば必ず応ぜらる」とされるために、病気治癒や商売繁盛だけでなく、ときには賭博など「正神」にはお願いできないような卑俗なことで拝まれたりもする。

 件の招軍旗は、この陰廟に祭祀されていない「厲鬼」に向けた招集令シグナルである。神さまが陰間に漂う「好兄弟」たちを召喚し、その軍勢に加えるための神具として使用するのだ。神さまの軍勢に加えられた彼らはその尖兵として地域の安寧を維持し、あるいは陽間の人々を困らせる別の「厲鬼」を懲らしめる役割を与えられる。謂わば、「鬼」をもって神兵となすわけだ。この「鬼」による軍勢が少なければ、神々もまた十分にその霊験を発揮することが適わず、場合によっては「厲鬼」に敗れる場合もある。だからこそ、招軍旗を用いた招軍請火と呼ばれる儀式は重要な意味を帯びてくるわけで、単に「鬼」が眷属神となり得るかどうかといった問題だけはなく、当地における安寧秩序が維持されるかどうかといった現実の社会問題とも深く関わっているのだ。

 

 誰もいない海辺で、ぼくは真っ白に燃え上がる恒春半島の大海原にそっと指を伸ばしてみた。水辺には「鬼」が集まりやすいとされ、それに合わせて、招軍旗も水辺に立てられることが多い。海から吹き付ける風に揺れる招軍旗は、どこか縁日に現れる綿菓子機を思わせた。いまこの旗の周りでは、おそらく有形無形の「鬼」たちが、くるくると宙を舞う綿菓子のように搦めとられているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふと幼い頃に見た映画『霊幻道士』に出てくるキョンシーのことを思い出した。ぴょんぴょんと跳びはねるキョンシーが怖くてたまらなかったあの頃、ぼくはお墓の前を通るときには必ず指先を隠して歩き、布団に入る前には息を止める練習をしては、何とかキョンシーに見つからないようにしていた。そもそも、日本で辮髪を結ったキョンシーに出遭うはずはないのだが、まだ小学校にも上がっていなかったぼくは、とにかくそれが怖くて仕方なかったのだ。

 そんな肝っ玉の小さな孫をからかうように、祖父はこの山寺の麓には、たくさんの白骨が埋まっているのだと言った。

――ハッコツ?

――うなったもんの骨じゃ。ここの山寺は昔お城じゃったきん、侍がぎょうさん死んだんじゃ。いまでもお寺の土を掘り返したら、なんぼでも出てきよるが。

 なんでも天正年間の時分、長曾我部元親の讃岐侵攻があった際、山寺があったお城はだまし討ちされて、抵抗した城内の住人はことごとく撫で斬りにされてしまったのだとか。それは地元ではわりかしよく知られた物語だった。

――ほんだきん、この町ではいまでもひな祭りはせんじゃろ。お城が落城したんがちょうど3月3日やったきんな。

 祖父の話を聞いたぼくは、怖くてテレビの前にあった炬燵の中に身を隠した。窓の外では、400年前お城であった山寺の石垣が、昨日の今日だと言わんばかりの表情を浮かべてこちらをねめつけていたからだ。

――ハッコツっちゃどんな形しとるんじゃ。じいちゃんは見たことあるんか?

 その刹那、祖父の表情から悪戯っぽい笑みがふっと消えた。

――ぎょうさん見た。あななあんじゃるい(気持ち悪い)もん、もうとはない。

 それだけ喋った祖父は、そのままむっつりと黙り込んでしまった。遠くビルマ戦線に動員された祖父が、かの悪名高い「白骨街道」を這うようにして帰国してきたことを知ったのは、ぼくが中学校に上がった頃だった。

 長曾我部元親率いる一領具足の猛者たちに滅ぼされた旧城の中腹には、「全国無比」と刻まれた「靖国忠魂の埤」が建てられ、その背後には日清戦争から第二次大戦にかけて亡くなったこの町の住人たちの墓が、地区名、氏名、死亡日、戦没地を刻んだ上で、幾何学的に配置されていた。それは、人口1万人にも満たない小さな町には似つかわしくない規模の軍人墓地だった。幼い頃、ぼくは祖父とよくこの山寺に参って眼下に広がる瀬戸内海を眺めたが、不思議とそこにあったはずの軍人墓地を一緒に見上げた記憶はない。

――戦争で亡うなったんは、ほとんどが飢えと病気じゃ。銃弾たまに当たって死んだもんや、どればもおらん。

 祖父がいったいどんな表情をしてその言葉を吐いたのか、正直覚えていない。ただ、絞り出したようなその低い声だけはいまでも耳の奥に残っている。祖母の話によれば、インパールから復員してきた祖父は、マラリアに罹った後遺症からか、夜中にしばしば譫妄状態に陥って、生きている人間のそれとは思えないような言葉を吐き続けていたらしい。祖父の顔を思い出すぼくの脳裏に、ふとこの島の廟宇で、死者や神々の神託を伝えようと恍惚トランス状態となる霊媒師タンキーの表情が浮かんだ。

 落山風にたなびく招軍旗は哭いているように見えた。

 病死餓死自死溺死戦死縊死横死獄死客死頓死情死轢死

 この場所には、少なからぬ「鬼」が漂っているはずだった。空と海が交わる境界線、ちょうど陽光が反射するその裂け目に爪をかけたぼくは、チーズを割くように、ゆっくりと現世の膜をはぎ取ってみた。輝く海岸線に薄暗い陰間がスッと顔を覗かせると、空には「好兄弟」たちがくるくると舞っていた。足下にもまた同じように、何らかの理由から陰廟に入ることが適わなかった「厲鬼」たちがわらわらと集まっている。果たしてこの招軍旗を用意したのが、どこの廟宇の何の神さまなのかは分からなかったが、国籍も民族も、人種も宗教も異なる様々な「鬼」で溢れたここ恒春半島において、「神兵」の補充はそれほど難しいことではないように感じた。

 青い目をした米国「鬼」に、辮髪を結った中国「鬼」、その背後には大きな耳を揺らしながらこちらを伺っているパイワン「鬼」までいた。次々と招軍旗に吸い寄せられる彼らを見つめていたぼくは、やがてそこに、ざんぎり頭をした一人の日本「鬼」の姿を見つけたのだった。

 

 明治7(1874)年11月、『東京日日新聞』に一枚の奇妙な錦絵が掲載された。深夜ひとり洋酒を傾ける男の背後に、先頃「遠国」で病死した義弟の幽霊が現れる。鉄のように青ざめた顔をした義弟は、何やらひどく恨めしげな表情を浮かべている。胸にはスナイドル銃を抱き、腰にはサーベルを差しているが、その両足は描かれていない。男は冥界の住人となった義弟の訪問に眼を剥き、驚嘆の表情を浮かべている……

 作者は幕末から明治初期にかけて活躍した浮世絵師・落合芳幾よしいく

 残忍な殺人事件や各種伝奇を写実的な手法を用いて描いてきた当代一の鬼才が描く幽霊画だ。普段から怪奇事件や奇談の類を取り上げてきた『東京日日新聞』にとって、太閤秀吉の朝鮮出兵以来の外征と喧伝された台湾出兵において、異郷で病死した兵隊が化けて出るといった怪談はまさにうってつけの話題であった。

 ぼくは招軍旗の下で寂しそうにうずくまっていたあの「鬼」が、この義弟であるのかもしれないと思った。青ざめた顔で海を見つめる彼は、死してなお病魔に苛まれているかのようだったが、なぜ義弟かれは華々しい戦死ではなく病死とされてしまったのだろうか。

 清朝との間に和議が成立して、5か月に及んだ台湾出兵にようやく終止符が打たれると、瑯嶠に駐在していた日本軍とその軍属・従僕らは、万歳三唱を叫びながら長崎に向かう輸送船に乗り込んでいった。台湾出兵で動員された兵士は3658名に上るが、そのうち「生蕃」との戦闘において死傷した者は十数名に過ぎない。ところが、マラリアなど当地の熱帯病に罹って亡くなった者は500名以上にも及ぶ。他にも日本軍の兵站を担っていた政商・大倉喜八郎の集めた人足たちも、120名近くが「台湾病」と呼ばれた熱帯病に罹患して病死したとされる。そう考えれば、『東京日日新聞』に掲載された幽霊は、病死である方がより霊異の輪郭を太くする効果を持っていたに違いない。

 近代日本において、国家のために殉難した人々の魂は、「英霊」として全国各地の招魂社こと護国神社、そして後に靖国神社へと祀られることになったが、その発足時においては、祀られる霊魂は戦死者に限られていた。同じ死者にも厳然とした序列があったのだ。やがて、日清戦争で多くの戦病者を出してからは、ようやく病気で亡くなった人々も「英霊」の一端に祀られることになったが、靖国神社がまだ東京招魂社と呼ばれていた台湾出兵当時、異郷の地で病に倒れた兵士たちの魂は、容易にその行き場所を失っていたのかもしれない。

『東京日日新聞』第851号に掲載された錦絵

 

 招軍旗の下を離れたぼくは、屏東県枋山郷にある港町・楓港ふうこうに向かった。楓港は人口1000人ほどの小さな海岸集落で、目につくものといえば、王爺を祀った楓港徳隆宮と蔡英文総統が幼い頃に過ごした小さな旧居くらいだった。集落全体が小さなサービスエリアのようなこの町は、台北を起点に、台中、台南、高雄など、西部主要都市を繋ぐ西部幹線(台1線)に加え、同じく台北から宜蘭、花蓮、台東など、東部主要都市を繋ぐ東部幹線(台9線)の終点である。さらに、恒春半島を南下する屏鵝公路(台26線)の起点でもあるために、集落のはずれでは、ポケットに入れたイヤホンにように絡まり合った幹線道路が折り重なっていた。

 この地で「鬼」となった異邦人は、日本兵だけではなかった。

 日本軍が瑯嶠から撤退すると、当地には清朝湘軍の遊撃・王開俊おうかいじゅん将軍が進駐した。パイワン族による「蕃害」を訴え出た地元の漢人系住民たちの訴えを聞いた王開俊は、光緒元(1875)年2月、200名の兵士を率いて大亀文王国に属する獅頭社を「懲罰」に向かった。しかし、その帰路を獅頭社の戦士たちに急襲されて部隊の半数が戦死、さらには王開俊自身も馘首されるという大惨事を引き起こした。当時、欽差大臣として台湾に赴任していた沈葆楨しんほていが唱えた「開山撫番かいざんぶばん(山を開きて番を撫す)」政策は、ここにきて「剿番そうばん(番人討伐)」政策へと切り替わり、対日本軍用に鳳山県新城(現在の高雄市鳳山区)に駐屯していた清朝の精鋭部隊・淮軍6500名と大亀文王国は、以降3か月に及ぶ激しい交戦状態に突入することになったのだった。

 大亀文王国とはパイワン族を中心とした酋長制の連合集落で、スカロが統治する瑯嶠「下」十八社に比して、瑯嶠「上」十八社とも呼ばれていた。下十八社同様尚武の気風高く、降伏することを潔しとしなかった彼らとの戦闘で、清朝は虎の子であった淮軍兵士1918名を失うことになる。大亀文側の被害は資料に残されていないが、獅頭社の役と呼ばれたこの戦闘において、多くの戦士たちが鬼籍に入ったことは想像に余りある。ちなみに、第7代中華民国総統である蔡英文は、清朝淮軍と死闘を繰り広げた大亀文王国の血を継ぐパイワン族の祖母を持ち、目下台湾原住民族の血を継承ひいた唯一の中華民国総統といえる。

楓港に残る中華民国総統・蔡英文の旧居

 

 彼ら異郷で戦病死した霊魂が「厲鬼」とならないように、淮軍司令・唐定奎とうていけいは南台湾にいくつもの祠を築いてその霊魂を慰撫顕彰した。淮軍が駐屯した屏東県枋寮郊外には「白軍営淮軍義塚」が建立され、獅頭社の役がはじまる前にマラリアなどで病死した769名の淮軍兵士を祀った。さらに、淮軍本営が築かれた鳳山県新城には、この戦いで戦病死した1149人を祀る「鳳山淮軍昭忠祠」も建立されたが、日本時代に入るとそれを祀る者も途絶え、縦貫鉄道建設を機に祠は取り壊されてしまった。枋寮の白軍営も当初はほとんどその形跡を失くしていたが、地元の元高校教師が土地を購入して養殖業をはじめようとしたところ、400体以上もの白骨が掘り出されて数々の怪奇現象が起こったために現在の形に再建されることになったらしい。

 陰間を彷徨う「好兄弟」たちを祀ることは、ときにこうした国家による「歴史」から零れ落ちてしまった人々の無念を掘り起こすことがあるが、それは同時に、国家による慰霊や顕彰といったものが、無数の「好兄弟」を生み出していく呼び水でもあったことも意味している。とりわけ、目まぐるしく為政者が変わり続けた台湾の近現代史において生まれた「鬼」は容易に「神」へと変わったが、畢竟その逆もまた然りであったわけだ。

枋寮郊外に残る「白軍営淮軍義塚」

 

 台湾出兵の際、日本軍が清朝への抑えとして駐留した楓港は、当時「風港」と呼ばれていた。亀山本営にいた兵士がマラリアでバタバタと倒れていった頃、「風港分営に於ても約二百の兵員悉く同病に侵され」、全軍高熱に悩まない者はないと言われるほど罹患者たちで溢れていた。日に日に病死者が出るので、洋酒を入れた樽までばらして棺桶を作ったらしい。本国から補充の兵隊がやって来ても、しばらく経てば先任者と同じようにただ床に横たわってうなされるばかりで、とても戦争をするどころではなかった。結果的に、風港分営に駐屯していた日本軍のおよそ半数が棺桶に入れられて内地に送り返されることになったほどだった。

 ところが、日本軍が撤退してからも、当地では相変わらず疫病が猖獗を極めていた。地元の人々は「是れ全く日本軍死没者の霊魂、未だ昇天するを得ず、風港の上空に徘徊し居るためならん」と「大に恐怖」した。つまり、彼らは病気で亡くなった日本兵らが、「好兄弟」となって当地を彷徨っていると考えたのだ。やがて、洪再生なる地元住民の手によって「大日本衆好兄弟碑位」と書かれた墓碑が建立された。『台南新報』の当時の記事によれば、以来楓港では疫病などが起こる度に、「附近の島民は此の碑に線香を捧げ禮拜した」と記されている。まさに「有求必応」、異郷の地で「厲鬼」となってしまった日本の「好兄弟」たちを祀ることによってその加護を求めたのであった。

 果たして、日本の「鬼」を「神」へと変えたこの墓碑はまだこの町に残っているのだろうか。ぼくは資料を片手に道行く人に尋ねてみたが、その存在を知る者はすでにいなかった。とっくに捨てられてしまったか、それとも破壊されてしまったか。招軍旗の呼びかけにでも応じない限り、異郷の地で病に倒れた日本の「好兄弟」たちは、誰かの夢枕に立つか、あるいは地元の霊媒師タンキーによってその存在が掘り起こされる日まで、まつ毛を焦がしかねない陽光赫灼たるこの町の陰間で漂い続けるしかないのかもしれない。

 

 ぼくの脳裏に、再びあの義弟の恨めしげな表情が浮かんだ。彼は死して「護国の鬼」となったのか。あるいは人々に災厄をもたらし、同時にそれを加護する「異郷の鬼」となったのか。そんなことを考えていると、バイクはいつの間にか車城郷を経由して、牡丹郷の入り口にある石門古戦場跡に到着していた。

 昭和10(1935)年、かつて日本軍と牡丹社の戦士たちが衝突した古戦場跡には「西郷都督遺績記念碑」と書かれた巨大な石碑が建てられた。戦後国民党の施政下において、記念碑の碑文には、民族色の強い「澄清海宇還我山河(澄んだ大海原山河を我に還せ)」の文字が刻まれたが、蔡英文政権が総選挙で二度目の勝利をした民国109(2020)年には、再び「西郷都督遺績記念碑」へと書き直されることになった。死者を巡る記憶の位置づけほど政治的な行為もないが、どれだけ大きな風呂敷を準備したところで、そこから零れ落ちる者は生まれてくる。

「西郷都督遺績記念碑」の石碑が建設された昭和10年、同地には台湾出兵において戦病死した500名以上の人々を顕彰する「征蕃疫戦死病没忠魂碑」も建立された。ところが南台湾各地に築かれた淮軍の祠と同じように、その記念碑はいつの間にか失われて、現在は首を奪われた遺体のように、ただ台座の石だけがぽつねんと山上に残されていた。

 ゆめゆめ我を忘れまじと迫ってくるような「西郷都督」に背を向ける格好で、ぼくは首無し台のそばから眼下に点在する地元住民の共同墓地を眺めた。草むらに潜む散兵を思わせるその墓地は、定規を引いて作ったような故郷の軍人墓地とは明らかに違っていた。何にせよ、彼らの「鬼」はこの土地で丁重に「祖先」として供養されているために、「好兄弟」としてこの土地の陰間を漂う必要はないのだ。

 それが虚構であると知りながらも、ぼくの頭の中ではあるくだらない妄想が生まれていた。もしかすれば、あの義弟の魂もある日、招軍旗の呼びかけに応えて、どこかの神さまの下で、この突き抜けるように青い空をした土地を守っているのかもしれない。それは、東京にあるあの狭い社の中で「英霊」として恭しく祀られているよりも、いくぶんか幸せであるような気がした。同じ「神」でも、国籍によって境界線が引かれるかの神社と違い、この島ではあらゆる人が「鬼」から「神」、あるいはその眷属神たる「神兵」となる可能性を秘めている。あらゆる人間と結び付く可能性を秘めているという点において、「鬼」とはどこまでもアナーキーな存在なのだ。祭祀してくれる子孫を持たず、ひとりこの国で暮らすことを決めた自分もまた、いつの日か故郷の山寺に眠る侍や英霊たちと同じ「ハッコツ」と成り果て、海辺に立てられた招軍旗の呼びかけに応じる日が来るのかもしれない。

 しかし、招軍旗を掲げる神々はいったい何語で話すのだろうか。

 日本語か、せめて中国語でコミュニケーションを取れるといいのだけど。いつか来るその日のためにも、ぼくは台湾語をもう少しだけきちんと学んでおこうと思った。


石門古戦場跡から見下ろした共同墓地

 

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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