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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

1871漂流民狂詩曲

 

 この文章を読む前に、手元にあるスマホでGoogleマップを開いてもらいたい。

 台湾南西部。

 古都・台南。工業都市・高雄。

 さらにその南。松明の把手のような恒春半島。

 そこに一本の横線を引いてほしい。

 例えばその起点を西側にある車城福安宮ふくあんぐうに置き、終着点を太平洋側にある九棚きゅうほう大砂漠に定めるとする。台湾海峡と太平洋に挟まれた中央山脈を超えるおよそ30キロを超える道程である。

 150年ほど前、フルマラソン一回ぶんにも満たないこの短くも長い道程で、東アジア全体を揺るがす大事件が起こった。その道程で多くの人間が命を救われ、そして奪われた。被害者は誰で、加害者は誰だったのか。あるいは、そもそも加害者などいなかったのか。これはそんな物語である。

 

 左営駅から「墾丁快線」と呼ばれる長距離バスに乗車しておよそ2時間、車城の街までやって来たぼくは、福安宮近くにある民宿でレンタルバイクを借りた。早くも17世紀には建立されたとする福安宮は、土地の神さまである「福徳正神ふくとくせいしん」を祀る土地公廟の一種である。数ある台湾の土地公廟でも最大規模を誇り、人口1万人にも満たない辺境の集落にあるにも関わらず、参拝者の捧げる線香の煙が日々絶えることなく続いている。廟の出入り口には、かつてアモイ米国領事チャールズ・ルジャンドルとともに湘軍兵士500名を引き連れてクアール社討伐に向かった劉明燈将軍が銘文を刻んだ石碑が立ち、当地が古くから帝国の縁辺にあったことが伺える。

 その昔、この集落は柴城さいじょうと呼ばれていた。廟の背後には台湾海峡が広がっていて、ここから海沿いに延びる省道26号線を北上していけば楓港ふうこうに至り、交通事情の悪かった清朝時代にはそこから打狗たかお港、そして台南にある台湾府まで船が出ていた。

 信号越しに偶然軍事演習に向かう中華民国軍の戦闘車両の隊列を見送ったぼくは、車城郷の中心にあるこの福安宮から2時の方向に走っていった。レンタルバイクはすぐに客家人の入植者たちが数多く暮らした統埔とうほ保力ほりきの集落を横切ったが、かつては栄えていた集落もいまは昔、ひどく閑散として門前雀羅もんぜんじゃくらを張るといったありさまだった。

 統埔、保力の集落をさらに進んでいくと、台湾四大名湯のひとつ四重渓しじゅうけいの温泉街が見えてくる。昭和5(1935)年、昭和天皇の弟である高松宮宜仁のぶひと親王が徳川慶喜の孫娘・徳川喜久子氏を連れてハネムーンに訪れた当時の温泉宿は、現在も変わらず営業を続けていた。

 「日本人? こんなところにめずらしい。温泉浸かっていきなさいよ」

 従業員の気さくな言葉に、ぼくはそっと料金表に目を落とした。「えぇ、ありがとうございます。でもちょっとさきを急いでいるんで」。いかにも日本人らしくお辞儀をしてみせたぼくは、宮様の入った湯殿には浸かることなく、お山に向かって真っすぐに延びた一本道を進んでいった。

 西郷隆盛の弟・西郷従道つぐみちが率いる日本軍と牡丹社の戦士たちが衝突した石門の古戦場跡を過ぎれば、小さなパイワン族の集落が見えてくる。小学校に派出所、教会にセブンイレブン……どこにでもある山地の集落。ただその背後には、恒春半島各地に生活水を供給するために作られた牡丹水庫と呼ばれる巨大なダムの堤が聳え立つ。マラソンで言えば、ちょうどこのあたりが最初の給水所拠点だ。

 牡丹水庫から先は太平洋側に至るまで人煙の絶えた山道が続く。アップダウンの激しい山道の二車線を走る車両もなく、山道を並走する渓流の潺の他に聞こえるものと言えば、名前も知らない鳥獣の鳴き声くらいだった。シチク林が続く山道を走っていると、やがて見晴らしのよい山上に真っ白な鳥居が見えてくる。昭和14(1939)年、天照大神を祀神として建立された高士神社は戦後一旦廃社となるが、10年ほど前に日台交流を進める政治団体によって再興されたらしい。平地からやって来た旅行客が珍しげに鳥居や社殿を背景に動画や記念写真を撮っていたが、ぼくはいかにも時代錯誤アナクロニズムなそれには目をくれることもなく、神社後方の高台から遠く東に目をやった。

 真っ白な鳥居の背後に広がった山裾の奥に、青い海が燦燦と輝いていた。海に出るまであと半時間といったところか。眼下に煌めく太平洋の碧さは、台湾海峡の青さとはどこか少し違っているような気がした。

高士神社から見下ろした八瑤湾

 

 

 屏東県牡丹郷東南部。

 この一帯はかつて「高士佛クスクス社」と呼ばれていた。スカロの大頭目トキトク率いる瑯嶠下十八社に属する集落で、その北側にあって、勇猛果敢で知られたアルク頭目率いる牡丹社とは強固な攻守同盟を結び、十八社でも比較的大きな発言力を持つ集落であった。ところが、この山裾にある八瑤湾に流れ着いたある難破船が、瑯嶠下十八社及び東アジア全体の運命を変えてしまうことになった。

 神社のある山上から八瑤湾の浜辺に下りてきたぼくは、バンザクロの生えた雑木林からしばらくぼんやりと海を眺めていた。当然そこには難破船どころか漁師一人もいなかった。太平洋の荒々しい浪は、無人の浜辺にその変幻自在な碧い身体をぶつける度に真っ白な波しぶきを吐き出していた。

 六十六人陸ニ登リ人家ヲ求メテ徘徊ス。

 150年ほど前、この場所に66名の琉球人が上陸した。

 一週間海上で漂流した彼らは渇き、かつえ、憔悴しきっていた。漂流者らは皆絶望したように、ぼくがついさきほど下りてきた山を見上げていた。ここはどこで、どうすれば故郷に戻れるのか。まさかここは人を喰らうと言われる「大耳人」が暮らす南台湾ではないのか。やがて、ある年配の男性が宮古島の言葉で何かをつぶやいた。それは不満をこぼしているようでもあったし、皆を勇気づけているようでもあった。その言葉に応えるように、浜辺に座り込んでいた男たちも次々と立ち上がっていった。

 ゆらり、ゆらり、幽鬼のごとく。

 彼らはまるでぼくの動きをトレースするように、先ほどぼくが来た道を遡るように進んでいった。西、西へ。漢人たちの住む車城の町まで、およそ30キロの道程だった。

琉球漂流民たちが流されてきたとされる八瑤湾

 

 明治4(1871)年、あるいは琉球王府に倣えば同治10年と言うべきか。

 八瑤湾に69名の宮古島漂流民たちを乗せた船が流れ着いた。船は首里王府に織物や穀物などの年貢を納めた宮古島と八重山諸島の人々を乗せた大型ジャンク船で、そこには首里や那覇から来た役人や商人も便乗していた。ところが、那覇から宮古島へ向かう途上暴風雨に遭った山原やんばる船は、はるか恒春半島にまで流されてしまったのだった。

 心身ともに疲弊しきった彼らは、壊れたジャンク船を捨て小舟で上陸を試みた。その際3名の乗員が溺死したが、何とか66名が無事上陸に成功した。上陸したはいいが、人煙絶えて久しい海岸沿いに集落らしきものは見当たらなかった。

 しばらくして、海岸に二人の漢人が現れた。

 地獄に仏とばかりに一行は彼らへ助けを求めたが、男たちは手ぶり身振りを交えながら「西方ニ行ハ大耳ノ人アツテ頭ヲ斬ルヘシ」と述べ、自分たちと南へ進むよう伝えた。西のお山に向かえば、人喰い人種に首を切られるぞ。一度は感謝した一行だったが、やがて二人は漂流者らの衣服や持ち物を奪い、その言動もひどく横暴になっていった。

 漂流者たちは顔を合わせた。

 ――どうする?

 もしかしたら彼らは盗賊の一味で、自分たちを彼らのアジトに連れていこうとしているのかもしれなかった。日本では江戸時代以降すっかり廃れた海賊稼業であったが、中国沿岸部から東南アジアにかけてはいまだ多くの海賊が跋扈し、アヘン戦争以降その数は増え続けていた。海洋民であった琉球漂流民がその危険性を知らぬはずはなかった。

 日が暮れかけると、二人の漢人は路肩の洞窟を指さして今夜はここで泊まれと言った。漂流民らがそれを拒むと、漢人たちは声を荒らげて激怒した。それまでジッと考え込んでいた宮古島島主・仲宗根玄安がここにきてようやく重い口を開いた。

 ――我らは西へ向かう。

 村おさにあたる「与人ゆんちゅ」らは、すぐさま頭の決定を助役である「目差めざし」らに伝えた。一行は彼らを大声で罵る漢人たちを背に海岸線を離れて山へ登った。宮古島でも、台湾南部には人食い人種がいるという噂があったので心中穏やかならざるものがあったが、それ以上にこのままこの場にいては餓死する者が出かねなかった。何よりも、飲み水がなければ二日ともたない。一晩休息した彼らは、八瑤湾からクスクス社のある西に向かって山道を登っていった。

八瑤湾からクスクス社のある西へと向かう山道付近

 

 東台湾の日暮れは早い。壁のように立ちはだかる中央山脈が、否が応でも日の入りを早めてしまうのだ。太平洋に沈む夕日を見慣れていた人々は、きっとこの島の夕闇の暗さに暗澹たる気持ちを抱いていたに違いない。やがて山中で小さな畑を見つけた漂流民たちは、そこで耳に大きな木片をはめ込んだ男に出遭った。

 ――大耳人だ。

 一方畑を耕していた大耳人も、身元不明の多くの異人たちが現れたことに狼狽を隠せない様子だった。男は彼らを集落へ連れて帰った。集落の大耳人たちもその様子にひどく驚いた様子であったが、それでも彼らを歓待してやることに決めたようだった。

 そこで漂流民たちは水を受け取った。

 遭難以降、ほとんど真水を口にしていなかった彼らはそれを一気に飲み干した。どういうわけか、その様子を見たクスクス社の者たちの表情も心持ち明るくなったようだった。貝のお椀に盛り付けられた芋と米を手に、仲宗根玄安は「著者」と呼ばれる書記係に感謝の意を伝えるように命じた。著者は近くにあった小枝を使って地面に感謝の言葉を記そうとしたが、ポカンとした様子で彼が書きかけた文字を見つめるクスクス社の人々を見て、ただぼんやりと笑うしかなかった。

 思いがけないほど友好的なクスクス社の歓待ぶりに、一行の中にはきつく結んでいた心の帯を緩めようとする者もいた。相変わらず言葉は通じなかったが、クスクス社の者たちが凶悪な大耳人とは思えなかった。

 やはりあの漢人たちは海賊の一味で、嘘をついていたのだ。

伝統的なクスクス社の集落を描いた壁画

 

 ところが、深夜ある事件が事態を一変させた。

 夜半此一人左手ニ薪ノ火ヲ握リ、右ニ刀ヲ携エ戸ヲ推開キ入来リ、二人ノ肌着ヲ剥取去ル。

 番刀をさげたクスクス社の人間から、衣服をはぎ取られたと訴える者が出たのだ。疑心暗鬼に陥った彼らは、眠りに就くこともままならず、夜露に濡れた己の首を震える両手で覆い隠すしかなかった。

 払暁、太平洋の水平線上に真っ白な太陽が昇る頃、小屋で休んでいた彼らの下に完全武装したクスクス社の男たちが入り込んで来た。一行は緊張した面持ちでその来意を問うた。言葉が通じないことは分かっていたが、それでも問わずにはいられなかった。

 ――我等狩りニ行カントス、帰エルマテハ必ラス留滞スヘシ。

 おそらくそのような内容であったのだろう。クスクス社の男たちはそのまま振り返ることもなく集落を発った。残された一行は、暗い小屋の中で声をひそめてその去来を話し合った。

 ――いますぐ逃げ出すべきだ。あれは間違いなく人の肉を喰らう大耳人だろう。

 ――しかし、殺すつもりならなぜ我らを歓待した。すぐに殺せばいいではないか?

 ――鶏と同じさ。肥えさせてから喰った方がうまいに決まってる。

 ――数だ。いくら空手とはいえ、66人もの成人男性が集落に入って来たんだ。見たところここの集落は300人もいない。だから、俺たちを小分けにして殺すつもりなんだ。

 ――しかし、施しを受けて逃げ出すなど信義にもとる。

 ――ならば己だけ残ればいい。首をなくしてからは文句も言えんぞ。

 結局未知の恐怖に感染した彼らは、集落から逃げることを決めた。数人ずつ気付かれないように集落を離れ、あとはただひたすら西へと向かった。彼らは「乙」型の獣道を転がるように下っていくと、渓谷を流れる渓流に沿って走った。

 竹林渓ちくりんけいを西に向かっていた漂流民らは、現在牡丹水庫がある場所まで逃れた。双渓口そうけいこうと呼ばれていた川沿いにはその頃から小さな集落があった。中央山脈を水源とする竹林渓と四重渓が交わる合流点で、ちょうど現在の牡丹郷役所がある辺りである。そこに5,6軒の人家を見つけた一行は、とりわけ大きな建物に滑り込むように逃げ込んでいった。

 薄暗い屋内、翁が一人。

 見知らぬ異人たちが息せき切ってやって来た様子を見た老人は次のように問うた。

 ――琉球ナルヘシ。首里カ那覇カ?

 齢70を超えるこの老人は凌老生りょうろうせいと言い、平地の集落とパイワン族集落の間で商いをしている客家人の番産物交換商人だった。琉球本島から来ていた役人や商人の中には、不自由ながら片言の閩南語を介す者もいた。事情を察した凌老生は、宮古島の人々に奥で休むように伝えると、隣人の鄧天保とうてんぽうに彼らを台湾府城まで送り届けるように言った。一行は干天の慈雨とばかりに息せき切って感謝の意を伝えた。

 那覇から来ていた仲本加那が筆をとって漂流者たちの名前を記すことになった。しかし漂流者の氏名を書いたリストを鄧天保に手渡そうとしたまさにその時、クスクス社の男たちが続々と翁の家の庭先に駆けこんできた。10人、15人、20人……その数はどんどん増え続けた。興奮したその手には番刀や槍が握られていた。

 凌老生は片言のパイワン語で落ち着くように諭したが、まるで埒があかなかった。

 パイワン族の文化では、相手の同意なくその家に足を踏み入れることはタブーである。武装した彼らが凌老生の家に入り込んでくることこそなかったが、それでも琉球人たちは一人また一人と庭先へ引き摺りだされ、逃げ出した理由を「尋問」されていった。部屋に残された人々はどうするべきか分からずに呆然としていた。ただ凌翁だけが、何やらひどく緊張した面持ちで彼らに必死で目配せを送っていた。やがて庭先に連れ出されていた一人の男、那覇から来ていた新城朝憲が丸裸にされた状態で室内に飛び込んできて叫んだ。

 ――あァ! みんな、表で、こ、殺されている。はやく逃げろ!

 パニックに陥った人々は、室内から飛び出すように四散した。それを見たクスクス社の男たちもまた、大武山の岩肌を駆ける雲豹リクラヴの如く、その俊敏な身のこなしで彼らの跡を追った。

 ――パパツァイ、パパツァイ!

 後方から飛んでくる怒号に搦めとられるように、逃げ出した人々の剥き身の肉体に重い刃が食い込んでいった。気が付けば、クスクス社の男たちの数は40人を超えていた。やがてクスクス社の異変を知った牡丹社からも100名近い戦士たちが駆けつけて、普段はひどく穏やかな双渓口は異邦人らの鮮血で赤く染まった。

 那覇から来た仲本加那や島袋次郎じらーらは、そのまま凌老生の家に身をひそめて難を逃れた。生き残った者は鄧天保に伴われて、双渓口の西側にある保力庄村長・楊友旺ようゆうおうの下に匿われた。双渓口に向かった楊友旺や統埔の通事つうやく林阿九りんあきゅうら地元客家人の顔役たちは、そこで更に2人の琉球人を保護したが、「侵略者」らの引き渡しを要求する牡丹社の人々に水牛一頭、豚数頭、酒樽10個に反物6反を送ることでその身柄を引き受けた。

 双渓口に残された琉球人の遺体から首を斬り落とした牡丹社の戦士たちは、それを大きなアコウの樹に括り付けて神々に祈りを捧げた。

 1つ、2つ、3つ、4つ……

 最終的に54級の首がアコウの樹にかけられた。アコウの樹は現在の牡丹郷石門託児所の近くにあったとされる。祈りの儀式を終え、54級の首はやがて牡丹社やニナイ社に分けられて、そこで丁重に祀られた。

 八瑤湾に上陸してから3日、30キロの道程を最後まで踏破できたのは、わずか12名に過ぎなかった。

牡丹郷役場前を流れる渓流。虐殺があった双渓口であったとも言われている

 

 琉球漂流民の首がかけられたアコウの樹があった場所から客家人集落のある保力・統埔の集落までは、距離にしておよそ10キロほどの距離だった。統埔にはいまも「大日本琉球藩民五十四名墓」と書かれた墓碑が残っている。

 事件後、楊友旺らは河原に散乱していた首のない遺体を集めて墓を作ったが、その3年後、「凶蕃懲罰」に来た日本軍が遺体を掘り起こし、そこに新たに集めた頭骨を合わせて墓を建立した。台湾蕃地事務都督・西郷従道が揮毫したと言われる墓標の文字はほとんど消えかけていたが、墓そのものは掃除が行き届いていた。いまでも当時の漂流民たちの子孫たちが墓参りに訪れるらしい。墓前には台湾の米酒や沖縄の泡盛などが供えられ、黒糖や日本のスナック菓子も置かれていた。お墓に立てかけられた卒塔婆には「牡丹社事件犠牲者追善供養也」と書かれてあったが、いかにも日本的なその祈りの形式が、この南国における国境の最果てにおいてはひどく異国情緒あふれるものに見えた。

統埔の集落にある「大日本琉球藩民五十四名墓」

 

 明治7(1874)年、征韓論によって国論が二分していた日本政府は、この事件を渡りに船とばかりに維新後初となる外征を行い、もって琉球王国を自らの版図に組み込むことに成功した。謂わば、偶発的に起こった悲劇を最大限利用したわけだ。その意味において、琉球「藩」民を殺害した「生番やばんじん」は、懲罰に足る絶対悪であらねばならなかった。

 戦前何度か芥川賞の候補にもなった作家・中村地平は、昭和16(1941)年に琉球漂流民殺害事件から台湾出兵にいたる歴史を長編小説『長耳国漂流記』として発表した。南方を憧憬し、「南方文学」の旗手として多くの台湾関連作品を残した中村は、「パッションとキュリイオシティ」を抱き、膨大な資料と現地でのフィールド調査を基に「長耳人」ことクスクス社のパイワン人がなぜ琉球人を虐殺するに至ったのかを考察した。しかし、日本側の資料と聞き取り調査によって書かれた本作は徹頭徹尾、日本政府の視点から描かれている。「作者の空想をまじえることなしに、言わば小説的粉飾をほどこすことなしに、記録と見聞とによった事実を」描いたとする本作を、中村は「紀行的な歴史的な物語」と述べて、本作について言及した作家坂口安吾も「全然、作者の空想を殺した」「完成された」歴史小説だとしている(ただし、自身も多くの歴史小説を書いた安吾はそれを肯定的に捉えていない)。

 物語において、中村は「本島人町どくとくの汚らわしい、じめじめした部落」である車城を起点に、琉球漂流民の墓を訪ねるところから物語を説き起こす。ここで描かれた原住民たちは単純で親しみやすいが、同時に情緒的かつ暴力的な存在でもある。彼らの駕籠に担がれてクスクス社に向かった中村は、「山では絶対の権威者である大人たいじん(巡査)」の仲介で、地元の頭目と長老相手に事件当時の様子を聞き取っている。

 

 山野警部補は、ふとった、まるい顔にいくらか声を荒々しくし、切りこむように、蕃語でたずねた。

「それでは凌老生のところで、蕃人たちは、琉球人に対してどういうことをしたというんだね」

 すると、それまではひどく流暢にしゃべっていた長老と頭目とが、急に慌てたように言葉をとめた。そして、しょげこんだように、口をつぐんでしまった。警部補は酒のまわった赤い顔に微笑をうかべて、僕の方をふりむいた。

「蕃人たちでも、人を殺すのが悪いことだ、ということは知ってはいるんですよ」

 馘首が罪悪であることは、現在では十二分に、徹底的に教えこんである。だから、彼らは、よしそれがふるい、歴史上の事実であっても、告白して、万が一災いが身におよんだりしては馬鹿らしいと考えたものであるらしかった。滑稽にもいわば歴史と現実とが、素朴な頭のなかでは混乱しているのである。

中村地平『長耳国漂流記』

 

 植民地政府の管理する資料や人類学者の調査報告によって構成された「客観的事実」を基に書かれた『長耳国漂流記』は、小説という小さな空間に植民者たちの声を響かせ、やがて跳ね返ってきた己の声を事実と誤認する典型と言えるかもしれない。

 台湾山地を駆け巡るぼくは、己もまた原住民の歴史と文化への「パッションとキュリイオシティ」に捉われていないかという疑いを抱きながら、「歴史と現実」とが入り混じった目で琉球漂流民たちが走った道程を眺めていた。

 恒春半島に暮らすパイワン族の習慣では、集落の外からやって来た人間に水と食料を与える行為は、彼らを仲間として受け入れたことを示すとされている。クスクス社の者たちは「無断」で集落に侵入した部外者は殺すべきだという従来の掟に反してまで、貧しい蓄えから貴重な食糧の多くを提供した。蓄えだけでは足りなかったので、急遽狩りに出かける必要まであった。にも関わらず、漂流民たちは集落から「無断」で逃げ出した。クスクス社の人間もまた、言葉が通じない中で深い疑心暗鬼に捉われていた。

 ローバー号事件を持ち出すまでもなく、三方を広大な海に囲まれた恒春半島には、当時様々な外国勢力が侵入を繰り返していた。クアール社を殲滅しようとした米国アジア太平洋艦隊や清朝湘軍など、実際彼らは幾度も外部勢力による侵攻にさらされてきたし、海賊による被害も少なくなかった。南方から流れ来る漂流者に関しては、数年前スカロの大頭目トキトクが赤い旗を掲げた紅毛人についてはその命を助けるように伝達つたえてきたが、琉球人は紅毛人とは違い、どちらといえば平地の「パイラン」たちに近かった。パイランとは閩南語で「悪人」を指す言葉であるが、パイワン族は彼らを欺き、土地を奪う漢人たちをパイランと呼んで信用しなかった。漂流民たちが侵略者、あるいは大規模侵攻の前哨部隊でなかったと判断を下すのは、決して簡単なことではなかったのだ。

 

 この事件に関して、台東県卑南郷出身のプユマ族の軍人で作家でもあるパタイは、長編小説『暗礁』(2015年)において、パイワン族側の視点も交えながら、双渓口の悲劇に至る過程を詳細に描いている。琉球側の視点は宮古島下地村出身の野原茶武ちゃむに、パイワン族側の視点はクスクス社頭目の息子カルル、牡丹社頭目の息子アルク、シナケ社のアディポンの三者を中心に進行していく。

 中村の作品が植民統治下における「客観的事実」を集めて事件の真相を明かそうとするものであるのに対して、パタイのそれは予期せぬ虐殺を従来のような凶悪な「生番やばんじん」が起こした猟奇事件ではなく、積み重なった誤解と文化習慣の違いによるディスコミュニケーションが生み出した悲劇として捉えている。

 クスクス社頭目の息子カルルは異郷の地に漂流しながらも、強い意志で活路を切り開こうとする野原茶武らに敬仰の念を覚え、父親の頭目チュルイとともに、族長や長老たちの反対を押し切って漂流民に水や食料を与える。先述したように、パイワン族の文化では集落の水を飲んだ者は大切な客人であって敵ではないことを示すが、当の琉球漂流民たちは集落の水を飲んだにも関わらず、彼らを裏切る形で逃げ出した。カルルにとって、それは頭目たる父親の面目を潰す大きな侮辱でもあった。何よりも万一彼らが海賊や侵略者であった場合、集落の詳しい位置や人間関係、武器の有無などがすべて外部に漏れてしまうことを意味していた。

 パニック状態に陥った双渓口において、野原茶武らは通じないとは知りつつも、命を救ってくれたクスクス社への感謝と誤解を伝えようとするが、事態はすでに後戻りできない状態にまで進んでいた。凌老生の暮らす集落までやって来たカルルらは、言葉が通じない状態で言い合いをしているうちに相手を斬り殺してしまったのだった。

 

「この人が何を言っているのか、わしにはわからない。このふたりもわしらの言葉がわからないんだ。でもまず落ち着いてくれ。みんな座ってくれ。なんとかして。わかりあおうじゃないか」

 カルルは凌老生にはとりあわず、野原に向かって言った。

「おまえたちはこんなふうに、あいさつもせずに、勝手に逃げ出した。どういう意味だ。おまえたちは何者なんだ。なんでおれたちの部落に来て、それからこっそり逃げたんだ。おれたちを敵だと思っているのか? おれのおやじが、おまえたちが腹を減らしたり凍えたりしないように、ほかの族長を説き伏せておまえたちを受け入れたのを知っているのか。そして部落の半月分の食糧を出して食わせてやったんだぞ、お前たちは礼を言ったか? 今、おやじは族長たちの笑いものになっている。おまえたちは一言も言わずに逃げた。おれのおやじに、これからどんなふうに生きて行けって言うんだ。おれたちの部落のやつらに、このことをどう考えろって言うんだ」カルルは最後には怒鳴るように言った。

 ふたたび「パパツァイ」という声が広がった。

パタイ著、魚住悦子訳『暗礁』

 

 パパツァイ、パパツァイ。

 コロセ、ころせ、殺せ!

 クスクス社側からすれば、侵略者の可能性がある彼らを一人でも生きて帰せば、かつてクアール社が受けた一族「鏖滅おうさつ」の憂き目に遭うかもしれなかった。しかし、クスクス社の者たちが放つこの悲壮な言葉も、野原茶武ら異邦人の耳には、ただ無意味な音の組み合わせとしてしか響かなかった。

 実際、生き残った人々もなぜ自分たちが殺されなくてはならなかったのか分からずにいた。当時日本側が記録した報告書には、生存者の話として「生蕃は肉を食うという説もあり、また、脳は薬用にするという説もある」と記してある。彼らが和解を果たしたのは事件発生から130年以上が過ぎた民国94(2005)年、パイワン族遺族とその関係者が沖縄県を訪れ、犠牲者遺族に直接謝罪をして和解の式典を行ってからだった。

石門古戦場跡に建てられた「愛と平和の記念埤」。記念碑には日本語で「琉球の民と台湾原住民が共にひとつの杯で(粟酒を)飲み干す像」と書かれている

 

 虐殺の現場であった双渓口から2時の方向、クスクス社の北側には瑯嶠下十八社で最も精強で平地人たちから恐れられた旧牡丹社がある。明治7(1874)年、征台の役と呼ばれた台湾出兵では、琉球漂流民を殺害したクスクス社ではなく、その首を馘した牡丹社が攻撃対象とされた。アルク頭目率いる牡丹社の戦士たちは、現在の牡丹水庫の南側にある山間の狭所「石門」に埋伏して、進撃してくる日本軍と衝突した。

 ぼくが車城を出たときには雲ひとつなかったが、牡丹社に差し掛かる頃には、さめざめと空がすすり泣きしはじめていた。雨宿りがてら、山道わきにあった小さな書店に足を止めた。玄関口のないむき出しの書店には、道の駅に置かれた野菜のように原住民関連の書籍や日本時代の古い資料などが並べられてあった。パイワン族とアミ族の混血であるという老齢の店長は若い頃原住民の社会運動に参加して、平地で原住民新聞の発行などに尽力してきたのだと話してくれた。この奇妙な訪問者が日本人であると知った店長は、恒春半島の歴史や原住民族の現在、それから彼のお気に入りである柄谷行人の本について語ってくれた。

 雨はしばらく止みそうになかった。

 笑顔がすてきな店長夫人がコップに入った高山茶を差し出してくれた。ぼくはクスクス社で手渡された水を飲み干した漂流民の心情を想像しながら、差し出されたお茶を一口一口ゆっくりと飲みほした。やがて書店に地元の小中学校で教鞭を取る夫婦が訪れ、ぼくたちは150年前にこの半島の運命を変えた事件について話した。

 「牡丹社事件から今年で150周年になるでしょう。いま、地元の小学校ではその副教材を作ってるんです」

 牡丹水庫近くにある小学校で教鞭を取る女性教師が言った。

 「けどどの視点から事件を見るかによって受け入れ方もずいぶん異なってしまうんでしょうね」

 ぼくの言葉を聞いた彼女は、はっきりとした口調で応えた。「受け入れる必要はないんです。ただ子供たちにこの事件を知ってもらい、色々考えてもらえば。どうして琉球人たちは逃げ出してしまったのか。どうして私たちのご祖先は琉球人たちを殺さなくてはいけなかったのか。集落で部外者に水を与えることにはどんな意味があったのか……」

 雨音は激しさを増していたが、山地に暮らす彼らにとってこうした驟雨もまた日常の一幕であるかのようだった。

 何杯かお茶をおかわりした後、ぼくは店長夫婦たちに別れを告げた。今度来るときは少しはパイワン語もしゃべれるようになっておけと言う店長の勧めに従い、積み上げられた本の山から『屏東県母語教材 排湾パイワン語』と書かれた本を一冊購入した。雨に濡れて少しカビくさい本の奥付には、民国81(1992)年発行と書かれてあった。

 別れ際、ぼくは唯一知っているパイワン語を口にした。

 「masaluありがとう!」

 下手くそなパイワン語を話す日本人を見て、彼らは優しく笑ってくれた。あるいは150年前にこの半島に漂流した人々の中にこの言葉を知っている者がいれば、その後の歴史も大きく変わっていたのかもしれない。雨に濡れた山道は殊の外走りにくかったが、眼下に広がる平地にはすでに陽の光が差していた。

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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