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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

ワタシハダレ? 台湾出兵と忘れられた拉致事件

 それは実に不思議な被写体だった。

 その日、従軍写真家の松崎晋二は、急遽亀山にこしらえられた台湾番地事務の本営へと呼び出された。それは山と呼ぶには低すぎる場所であったが、それでも周囲に点在する集落を展望するには十分な高さがあった。西に目を向ければ大陸を望む台湾海峡が、東に目を転ずれば「生蕃」たちの暮らす山々を睥睨することができた。

 本営近くでは、昨日牡丹社討伐から帰還した兵士たちの興奮した声が響いていた。独特のリズムをもった薩摩訛りから、幕営を取り囲んでいる兵士の多くが元武士たちによって構成された「徴収兵」だと分かった。九州各地から志願してきた彼らの多くは、粗末な草履を履き、腰にはわざわざ内地から携えてきた日本刀を差すなど、その風貌は熊本から来た鎮台兵たちと明らかに異なっていた。

 一週間ほど前、松崎ら非戦闘員は、台湾番地事務都督・西郷従道らとともに、瑯嶠下十八社の西側の町・社寮に上陸した。その前日、四重渓に武力偵察へ出かけた部隊が、石門と呼ばれる山間の狭小地で「生蕃」の待ち伏せに遭ったらしい。日本軍を迎え撃ったのは今回討伐の対象とされた牡丹社の者たちで、勇猛で知られた頭目のアルク親子が、集落の戦士たちを率いて日本軍を埋伏急襲したのだ。部隊が壊滅の危機に陥っていると報告を受けた佐久間左馬太参謀は、急遽亀山本営にいた手勢を率いて加勢にかけつけると、峻険な石門を駆けのぼって見事頭目親子を討ち取ることに成功したという。

 本営にいた徴収兵らは「生蕃」の大将首を掲げて帰営した仲間を見ると、地団駄を踏んで悔しがった。手柄を立てられなかったことを悔やんでいるのであろうが、それを聞いた松崎は、時代遅れも甚だしいと思った。御一新からすでに7年が経っているのだ。西郷都督が敵の「生首」を掲げて帰営した者たちの武功を褒めるどころか、露骨に不快感を示したということも十分理解できることであった。

――おお、松崎さん。こちらです。

 本営に張られたテントに腰を下ろしていた水野遵が声をあげた。その周囲には社寮の町に暮らす土生仔トセアたちがいて、松崎に向かって暗いまなざしを向けてきた。平地原住民と閩南人の混血である土生仔らは、今回の山地討蕃で日本軍の先導役を担わされていた。松崎は現地の言語を自在に操るこの若者を不思議なまなざしで見つめた。日本軍の出兵前から台湾に潜伏して盛んに諜報活動を行っていた水野は、現地の事情にもひどく精通していた。20年後、台湾総督府民生長官として再びこの島に戻ってくるこの男も、この頃はまだ創建されたばかりの帝国陸軍の一通訳官に過ぎなかった。

――実はこの子の撮影をお願いしたいのです。

 ふと目を落とすと、彼の傍らにひどく怯えた様子の少女が立っていることに気付いた。どこから持ち出したのやら、小さなその体躯には日本の浴衣をあてがわれていたが、蕃地の人間であることは一目瞭然だった。

――この子は?

――先の総攻撃で、谷少将率いる左翼わが軍が牡丹社北部にあるニナイ社を焼き討ちした際に見つけたのです。老婆もひとりいたのですが、どうも逃げられてしまって。生蕃はまるで幽鬼ですな。少女とは言え、貴重な生捕です。どうかご自慢の撮影機材でひとつ記録しておいてもらえませんか。

 本営の兵士らを騒がせていたのがこの年端もいかない少女であることを知った松崎は、何やら肩透かしを食らったような思いがした。てっきり、討ち取った敵蕃頭目の首でも撮らせてくれるのかと思っていたからだ。用件だけ伝えると、水野は再び土生仔らと流暢な閩南語で何やらぼそぼそと話し込みはじめた。

 松崎はしばらく呆然と少女を眺めていた。その肌は黒く、不安に揺れる両目は落ち窪んでいた。充血した目玉は眼病を患っているようにも見えた。目を患っているのならば、岸田吟香ぎんこう氏からもらったヘボン博士直伝の点眼薬が効くかもしれないと思ったが、あるいはただ恐怖で泣き腫らしただけなのかもしれない。耳朶には日本では見慣れない紅珠を穿ち、頭には粗末な布が巻かれていた。周囲を見回してみたが、山地蕃語を介するような者はいなかった。松崎は仕方なく助手の熊谷に撮影準備をするように合図を送った。

 湿板写真の露出は10秒ほど時間がかかる。舞い上がる砂塵の中、松崎は決して動かないようにと指示を出したが、土台無理な話であった。何度静止を要求しても、言葉の分からない少女はすぐに不安げに身体を揺らしてしまうのだ。むべなるかな。恐怖で神経が昂っているところに、数百人もの兵士に取り囲まれているのだ。遠巻きに撮影の様子を興味深そうに眺めていた兵士らが、少女に向かって卑猥な言葉をかけて囃し立てた。兵士たちを追い払った松崎は、近くにあった熊手を少女の手にもたせてみたが、それでも震えにも似たその動きは止まらなかった。仕方なく少女の頭を抑えつけるように指示を出した。

 そばにいた兵士が、この「目病み」は長崎往きの船に乗せられるのだと言った。それを聞いた松崎は到着早々に郷愁の情が湧いてくるのを感じたが、なにゆえ少女が内地に連行されなければならないのかまでは分からなかった。もしかしたら、自分は遺影を撮らされているのかもしれない。そんな考えも頭をよぎったが、これから蕃地の戦場写真を撮って功名を上げたいと考えていた松崎にとって、無名蕃女の運命など気に病むほどの問題でもなかった。

 後に日本初の戦場カメラマンとも言われる松崎晋二は、半年に渡る台湾遠征生活において、「蕃地有名の風景、車城瑯嶠の実景亀山本営の縮図より石門の奇嶮きけん相思木の異状其他蕃酋ばんしゅう男女粧飾しょうしょくの像」をことごとく写して日本に持ち帰ったと言われるが、皮肉にも台湾出兵に関して現在残されている写真はこのときに写した一葉だけである。「湾島牡丹小女年十二歳」と書かれた写真は、当時1葉10銭で販売されたらしく、現在の貨幣価値に直せば4000円ほどであったとされる。

 額から止めどなく流れ落ちる汗が目に染みた。

 水無月を迎えた瑯嶠半島は、さながら蒸籠の底に横臥するがごとき蒸し暑さであった。

 


松崎晋二が撮影したとされる「湾島牡丹小女年十二歳」の写真。動かないように、脇から延びた手がその頭を抑えつけている

 

 屏東県車城郷にある国立海洋生物博物館(海生館)の駐車場裏に立てられた小さな石碑を前に、ぼくは150年前にこの地で交わされていたかもしれない、そんな情景を想像していた。年季の入った石碑にはいまにも消えそうなほど薄い字で、「明治七年討蕃軍本営地」と彫り込まれていた。海生館の裏手にこうした史跡が立っていることに気付かない観光客たちは、一秒でも早く毒々しい南国の陽光を避けようと、冷たい冷房の効いた館内へと吸い込まれていった。

 数年前、日本の八景島シーパラダイスが桃園で都市型水族館を開くまで、台湾で大型水族館と言えば、この海生館のことを指していた。海生館は、珊瑚王国館、台湾水域館、世界水域館の三つのエリアに分けられていて、その総面積は96ヘクタール、東京ドーム20個ぶんほどの大きさがある。鑑賞コースの流線に身をまかせるように、ぼくは珊瑚王国のエリアに足を踏み入れた。円筒型の水槽に展示された珊瑚のエリアを抜けると、海底隧道と呼ばれる80メートルにも及ぶトンネルが現れ、青白く光る水槽内には台湾近郊の海洋に暮らす様々な海洋生物たちが舞うように泳いでいた。人気のシロイルカがトンネル内に現れる度に、観光客らは大きな歓声をあげてスマホのカメラを向けていた。「バブ」と「エンジェル」と名付けられた二頭のシロイルカは人懐っこく、観光客たちの頭越しに何度も宙返りをしてみせていた。



バブとエンジェルと名付けられた海生館で人気のシロイルカ

 

 海生館の細やかな演出は観光客たちの目を大いに楽しませていたが、それが大自然の状態に近づけば近づくほど、ぼくはそのすぐ外側に広がる「本物」の海を思わずにはいられなかった。生態ごとに細かく隔てられた水槽の内側で暮らす海洋生物たちの多様性とは、あくまで人間によって運用された疑似的世界であって、ここで働く職員たちは、創造から破壊を一手に握る神にも等しい役割を担っていた。一見自由に見えるバブとエンジェルも、そうした環境からは逃れられずにいた。

 珊瑚王国館を離れたぼくは、飲食店の立ち並ぶテラスの欄干にもたれ掛かりながら、コバルトブルーに輝く恒春半島の海を眺めた。本来ニセモノはこちらであるはずなのに、チューブの中の絵の具を1ミリも余すことなく使って描かれたような太い輪郭を持ったその光景が、むしろ現実感を失わせてしまっていた。視線を海生館から南へと向ければ、そこには150年前日本軍が上陸した小さな砂浜が広がっていた。

海生館裏に建てられた「明治七年討蕃軍本営地」の記念碑

 

 明治4(1871)年に起こった琉球漂流民殺害事件を口実に、日本政府は総勢3658名の征蕃軍を瑯嶠(現在の恒春半島)に派遣した。閩南人、客家人、土生仔が分かれて暮らしていた平地の集落を見下ろす亀山に本営を設営した日本軍は、さらに鳳山県新城(現在の高雄市鳳山区)に集結しつつあった清国軍に対応するために、北側の楓港にも部隊を派遣してその動きを牽制した。当時の瑯嶠はこの楓港を境として、北が瑯嶠上十八社、南が下十八社に分かれていた。どちらもパイワン族を中心とした山地酋長制の連合集落であるが、南に位置する下十八社は、大頭目トキトクらスカロ族がその連合体における中心的役割を担っていた。今回日本軍が攻撃対象としたのは下十八社に属するクスクス社と牡丹社で、亀山からは北東へ30キロほどの距離があった。

 上陸した日本軍はまず十八社の分断工作を進めた。今次の出兵は、無辜の琉球漂流民を殺害した「凶蕃」を懲らしめるものであって、それ以外の蕃社とは友好関係を築くものであること、日本軍に「帰順」した集落には多くの贈与品が贈られるが、「凶蕃」に味方した集落に対しては徹底的な制裁を加えることなどが伝えられた。瑯嶠下十八社の頭目たちは、3年も前に起こった出来事を何をいまさらと知らぬ振りを決め込もうとしたが、やがて漢人パイランたちが暮らす平地の集落に繁殖期のミナミオカガニのように集まってくる日本軍の兵士たちを見て、その態度を改めざるを得なくなった。

 この時期、瑯嶠下十八社の大頭目トキトクはすでに鬼籍に入っていたとされる。跡目を継いだのはその養子・朱雷ツジュイであったが、いまだ若い大頭目の後見として、射麻里社のイサ頭目が日本軍との交渉を担った。長年トキトクを補佐してきたイサは、最終的に瑯嶠下十八社を守るために日本軍に「帰順」する道を選んだ。イサはなぜよそ者であるはずの日本軍がここまで正確に各集落の位置やその数、更には瑯嶠における複雑な民族関係を把握できているのか不思議に思っていた。「帰順」のためにチュラソ社の文杰ブンキらを連れて亀山の本営を訪れたイサは、そのことをパイランたちの言葉が分かる水野遵に尋ねてみた。

――我らには協力者がいるのですよ。

 水野はそう言って、サッとその手で左目を隠してみせた。

――あなたたちがよく知っている紅毛人です。

 水野のその仕草を見たイサは、日本軍の背後にルシャンドルがいるのだと知った。7年前、わずか数人で「火山」に乗り込み、トキトクとの交渉をまとめ上げたあの隻眼の紅毛人が今度は日本人の味方をしているのだ。どうりで、日本人は我らの土地を自分の庭のように歩き回れるわけだ。

 この時期、厦門アモイ米国領事の職を離れたチャールズ・ルシャンドルは、明治政府の外交顧問となっていた。外務卿よりも高い俸給をもらっていたルジャンドルは、琉球漂流民の殺害事件を受けて、日本軍による台湾出兵を強く主張した。当初、明治政府は清国領台湾を攻撃することで大国清と全面衝突する事態を恐れていたが、清朝廷の外交政策を熟知していたルシャンドルは、かの老国は枋寮以南の土地を「化外の地」として関与することはないので戦争になる心配はないと説き、日本軍による台湾出兵の詳細な計画まで描いて、その上陸地点をここ瑯嶠亀山にすべきだと訴えた。

 イサは日本軍に「帰順」することを決めたことを我ながら賢い選択だと思った。ルジャンドルは何度も彼らの集落を訪れては、その位置や規模、頭目や戦士の数などを調べ上げていた。トキトク亡き今、彼らと正面からことを構えることは得策とは言えなかった。彼のあとを継いだ朱雷ツジュイは、この困難な状況で若くして酒に溺れ、同じくトキトクの養子で聡明で知られた文杰ブンキッがそのあとを継ぐにしてもまだときが必要だった。実際、「帰順」の動きに最後まで反対した牡丹社とクスクス社は集落を焼き払われ、あまつさえ頭目親子らは無残にも石門マツァツクスで日本軍に首を持ち去られてしまった。このとき持ち帰られた牡丹社戦士たちの首は、軍事顧問として台湾出兵に参加した米国軍人ジェームズ・ワッソンが「戦利品」として取得し、それが何人かの手を経て、最終的に英国のエディンバラ大学へと送られた。頭蓋骨が旧牡丹社の人々に返還されたのは、民国112(2023)年11月、事件から実に149年後のことだった。

 続々と亀山に上陸してくる日本軍の兵士たちを横目に、イサは先祖が守り続けてきた瑯嶠下十八社の土地が小さく切り刻まれていくような気分になっていた。標高が70メートルほどしかない亀山から見下ろした海はずいぶん小さかった。果たして、先祖から受け継いできた土地や文化を失ってもなお、我々は我々であり続けることができるのであろうか。若い文杰ブンキッに向かって吐き出しかけた言葉を呑み込んだイサは、黙ってそのまま亀山の本営をあとにした。


石門古戦場跡。日本軍によって持ち去られた戦士たちの首は、2023年に英国エディンバラ大学から地元のパイワン族たちに返還された

 

 松崎晋二が撮影した少女は、日本軍によって「生擒せいきん(生捕)」とされた後、陸軍少将・谷干城に付き添われる形で、瑯嶠から長崎に連れられ、神戸・横浜を経て、東京へと送られた。「生蕃」の捕虜が内地へ送られてきたことは、当時発行されたばかりの新聞紙上を大いににぎわし、とりわけ日本初となった従軍記者・岸田吟香を擁する『東京日日新聞』などは、連日その様子を報道して大いに売り上げを伸ばしていった。

 新聞誌上で「其性ノ愚魯ぐろナル殆ト豚児とんじ蠢々うごめきタルガ如シ」と散々な批評を加えられた当該少女は、台湾出兵の兵站を担っていた政商・大倉喜八郎預かりとして東京府へと送られた。ところが、鹿鳴館や帝国ホテルの建設にも携わったこの御用商人は日本軍の輜重事業を千載一遇の商機と捉え、その「公務」に忙殺されていた。そこで、喜八郎は少女を東京府本革町に暮らす知人で退役軍人の上田発太郎なる人物のもとへと預けた。

――名を何というのだ?

 発太郎はできるだけ優しい口調で問うたが、少女はうんともすんとも答えなかった。

――どうだ? 何とか言ってみろ。

 見たところ、齢はすでに12、13に届いていそうだったが、大倉邸では毎晩寝小便をして、お世話の者たちを辟易とさせたらしい。

――台湾から来たのだから、オタイさんでどうかしら?

 発太郎の細君がそばから口を挟んだ。その表情は思いのほか明るく、これからどのようにして、本邦の美徳を学ばせるべきかと思い悩んでいた発太郎は思わず苦笑してしまった。蕃地事務局が文章案を作成した教育方針において、当該少女は「皇国ノ美風ニ化」すべしと明記されたが、生真面目な発太郎はそのことをひどく気にかけていたのだ。このとき、蕃地事務局長官・大隈重信に宛てた報告書において「生擒」とされていた部分は、すでに「迷子」を保護して日本に送ったと書き換えられていた。上田家にはこの迷子の教育費として、月々15円もの大金が大蔵省から振り込まれることになっていた。

――今日からあなたはオタイちゃん。オタイちゃん。ほら、言ってみて。

 夫人はまるで拾ってきた野良犬を躾けるような口調で同じ言葉を繰り返した。

――ワタシハオタイデス。ほら、言ってみなさい。ワタシハオタイデス。

 しばらくの間、ぼんやりと二人のやり取りを見ていた少女がふいに口を開いた。

――ワタシハ……

 発太郎は驚いた。新聞誌上で散々に書かれていたオタイは、てっきり「白痴」の類だと思っていたからだ。

――オタイデス。

 上田夫婦は肩を叩き合って喜んだ。しかし、己に吐きかけられた言葉をただオウム返しに繰り返したオタイの目には何の感動も浮かんでいなかった。興奮の色を隠せない上田夫婦を見上げながら、少女は再度その音の羅列を繰り返しつぶやいてみせた。

――ワタシハオタイデス。

 

 学習の見込みありと考えた発太郎は、オタイに日本語の読み書きや裁縫などを学ばせることにした。この上田発太郎なる人間がどのような人物であったのかについて、正直よく分かってはいない。しかし、蕃地事務局宛てに作成した報告文章を見る限り、彼が律儀な性格であったことは分かる。オタイが日本にやって来てひと月あまり経った頃、発太郎は蕃地事務局宛てに日常生活に必要な簡単な日本語を口伝えで教えて礼儀作法を享受すると、「言語モ相通」し、徐々に「皇国ノ人情ヲ察」するようになったと報告している。オタイの「進歩」に気をよくした発太郎は、9月末には東京府青物町16番地に居を構える士族・佐々木支陰しいんの下に通わせて、習字や読書などを学ばせることにした。この佐々木支陰なる人物はかつて昌平校で学んだ詩人で、日本橋にあった京橋親柱に「きやうはし」の文字を揮毫したことでも知られている。

――聞けば近年、北海道にいた「旧土人」も、青山の農業実験地に連れてこられて、日本語を学ばされていると聞く。オタイもこれに続くべきだ。

 長い髭を剃らされ、慣れない洋服に身を包んだアイヌたちを遠目に見たことのあった発太郎は、そこに何やら諷示ふうじのようなものを感じ取った。「皇国ノ人情」を学ばせるためにはまず身に染み付いた「蛮習」を文明によって改めさせるべきだ。そうしてこそ、清国が長年向化することのできなかった「生蕃」を、わが大日本国が「教導誘導教化」したことになるのだ。

――ともかく言葉だ。日本語が通じないことにはどうにもならない。

 発太郎はしばしば虚ろな瞳を中空に投げかけるオタイの肩を強くゆすって言った。

――さァ、言ってごらん。ワタシハオタイデス。ワタシハオタイデス、ワタシハ……

 

 台湾水域館にある大洋プールには、幅16メートル、高さ5メートル近くに及ぶ巨大なアクリル板の水槽が設置されていて、シュモクザメやオニイトマイエイなど、大型の海洋生物たちが泳いでいた。頭部がハンマー型に張り出したシュモクザメが近づいてくる度に、アクリル板にへばりついている子どもたちはうれしそうにはしゃぎ回っていた。

 数年前、ぼくは日本からやって来た交換留学生たちを連れて、この場所を訪れたことがあった。キラキラと輝く恒春半島の海を見た留学生らはすぐさまスマホを取り出して、興奮した様子で写真を撮りはじめた。海生館の館内に足を踏み入れると、沖縄に行ったことがあるという留学生が、まるで「ちゅら海水族館」みたいだと大きく両手を広げてみせていた。台湾水域館にやって来た留学生たちは、それぞれ思い思いの場所で再び写真や動画を撮りはじめた。歩き疲れたぼくはひとり大洋プールの前にある長椅子に腰を下ろして、ぼんやりと中空を泳ぐ海洋生物たちを眺めていた。すると、そばに座っていた老人がふいに日本語で話しかけてきた。

 「日本人?」

 頷くぼくに、老人は右手に握った杖を胸に抱くような格好で、ここまで息子夫婦に連れてきてもらったのだと言って笑った。そして、アクリル板の前で楽しげに騒ぐ学生たちを指さして、あれはあなたの友だちかと尋ねてきた。

 「学生です。ぼくは高雄ガオションで日本語の教師をやっています」

 「おお、高雄たかお。わたしも昔そこで勉強していたよ」

 老人は多くの高齢者たちがそうするように、初対面のぼくに、結婚や子供の有無について尋ねてきた。曖昧な笑みを浮かべながら適当にその話を聞き流していると、写真を撮り終えた学生が戻ってきた。彼女は興味深げにぼくと老人のやりとりを聞いていたが、やがて思いもよらない言葉を吐いてぼくたちを驚かせた。

 「おじいさん、日本語がずいぶんお上手なんですね」

 その学生が何らの悪意も持っていなかったことは保証できる。しかし、ときに悪意なき言動ほど人を傷つけることもない。老人はかなりの高齢で、植民地時代に簡単な日本語を学ばされたことがあることは容易に想像できた。ぼくは老人の顔を直視することができず、ただ耳の悪い彼にも聞こえるような大きな声で、「日本は台湾を植民地にしていたことがあるんだよ」と言った。しばらくすると、老人は迎えにきた家族に連れられてその場を離れていった。深い皺が刻まれたその顔にはきっと様々な感情が渦巻いていたはずだが、渦の中へと飛び込む勇気がなかったぼくは、いまでもそこに流れていた感情の流れがどのようなものであったのかを知らずにいる。

 5か月間にわたって日本語を学ばされたオタイも、きっと善意に溢れた隣人や教師たちからその日本語能力を褒められたことがあったはずだ。それを聞いた本人の胸には、果たしてどのような感情が去来していたのであろうか。オタイがその老人と違った点は、老人の周りにはそれでも同じような境遇の仲間たちが数多くいたが、幼いオタイの周りには言葉が通じる同胞が一人としておらず、そして現在にいたるまで、家族どころかその存在を覚えている者がほとんどいないということだった。

 広い館内では、シュモクザメの「異様」な容姿を笑い合う子供たちの声が残酷に響いていた。

海生館の目玉の一つである大洋プールを眺める子どもたち

 

 暦はすでに明治7年の神無月を迎えていた。

 難航していた清国との和議がようやく成立し、明治政府は正式に瑯嶠からの撤兵を決定した。そこで和議のお荷物となったオタイは、台湾に送り返されることになった。11月13日、オタイは横浜港から東海丸で出航し、来日したときと同じように神戸・長崎を経て、瑯嶠へと戻っていった。その日の『東京日日新聞』には、「麗服盛装」したオタイを「観る者競うてかきの如し」であったと書かれている。世話係の上田発太郎からは、餞別として、女子用小学書、錦絵、立派な首飾り、玩具などが手渡されたらしい。記事には、「上田夫婦永訣を悲しんで愁然なり」と書かれているが、オタイの心がどのようなものであったのかは知りようもない。

 11月19日、長崎を発った東海丸は25日早朝に瑯嶠へ到着、そこで現地の宣撫工作を任されていた水野遵に再び引き渡された。後年水野は当時のことを記録した『征蕃私記』において、「専ら開智の術をつくされ」たオタイが、当初の「山猿顔を一変し、東京新様の女装をなし、足にくつを穿」っていたことにひどく驚いたと記している。オタイさんと呼べば、「ハイ」と答え、人と逢えば、「旦那サンお早う」と話したとされるオタイは、夜間にもしばしば「旦那サン御手水」と、世話役の水野を困らせたらしい。

 11月28日、オタイはついに故郷のあるニナイ社へと戻っていった。帰郷したオタイがどんな人生を送ったのかについての記録はほとんど残されておらず、わずかに残された資料もあからさまなプロパガンダを謳ったものが多い。例えば、かつて蕃地事務都督であった西郷従道が逝去したことを受けて、明治35(1902)年7月の新聞『台湾日日新報』漢文欄には、次のような内容の追悼文が掲載された。

 台湾出兵の目的を果たした西郷従道が凱旋帰国するにあたって、当地の酋長がその公主を都督に預けて、三年ほど日本に留学させることにした。それから十数年、台湾が正式に日本帝国の植民地になって西郷候が再び当地を訪れると、一人の蕃婦が涙を流しながらその前に跪いた。よくよく見れば、それは当時西郷候が日本に連れてきたあの蕃女であった……。

 あまりのご都合主義に、ぼくは鼻白む思いでその資料をしまい込んでしまった。ところが、実際恒春半島を渡り歩いてみると、オタイがどのような人生を辿ったのか、現地の人々の間でもほとんど知られていないことを知った。1990年代から現地の耆老などにインタビューした地元の郷土史家らの調査によると、その最期はずいぶんと悲惨なものであったらしい。故郷の人々から日本の悪習を持ち込んで同胞を堕落させると思われたオタイは、集落に溶け込むことができず、ひとり山に隠れて暮らしていたが、数年後にはガジュマルの樹の下で首をくくって死んでいるのを発見されたという。パイワン族の伝統社会では、一般に非業の死を遂げた人物は後世には語り継がれないことになっているが、このあたりの事情もオタイが歴史から忘れられた原因のひとつとも考えられる。しかし、もしもそれが本当であれば、あまりにも辛い最期といえる。

 亀山から旧ニナイ社があった場所までは、バイクでおよそ40分ほどかかった。ぼくはかつて水野遵らが所属した左翼軍が進軍したルートをなぞるように楓港からニナイ社を経由し、牡丹社へと至る山道を進んでいた。確か『東京日日新聞』には、「風港口ヨリ牡丹ニ進入セシ道ニテ爾乃ニナイ生蕃ヲ放火セシ」と書かれてあったが、旧ニナイ社にいたる山道は現在はすでに廃道となり、オタイたちが暮らしていた集落も、山々に青々と生い茂る木々に呑み込まれてしまっていた。小雨そぼ降る山道は平地に比べて肌寒く、楓港渓沿いにはるか台東市内まで延びる南廻公路には、山地とは思えないほど多くの自動車がひっきりなしに行き交っていた。

かつて谷干城少将率いる左翼軍が進軍した楓港渓沿いの山道。山道奥にはニナイ社があった

 

 オタイの本名は、ヴァヤユンといった。

 日本軍に破壊された集落に戻ってきたヴァヤユンは、上田夫妻から買ってもらった「東京新様」の洋装に身を包み、赤脚には沓を穿ち、亀山から引きずってきたスーツケースには大量の日本土産が詰め込まれていた。得意顔のヴァヤユンは、東京で流行していた錦絵を取り出してはそれを集落の人たちに見せ、何かを尋ねられると、一々日本語を折り混ぜながら答えた。上田夫妻から「人々の手本となるように」と教えられたオタイは、懸命に集落の人たちを「教化」しようとした。ところが伝統を重んじる長老たちは眉間に深い皺を寄せ、日本のパジャに家族を殺された者たちは背を向けて唾を吐き捨てた。

――ワタシハオタイデス。

 無数の冷たい目が、この異郷から返ってきた少女を眺めていた。

――ワタシハオタイデス。

 あるいは、パジャの下から大量の土産を持って戻ってきたこの者は、すでに異郷の男と交わっているのかもしれない。性に厳格なパイワン社会において、異族と交わった者が再び同胞と結ばれることはなかった。ヴァヤユンを囲んでいた輪からは、一人また一人と人が離れていった。スーツケースの中には、まだまだ集落の人たちが見たことのない宝物が入っていたが、気が付けばそれを見せる相手もいなくなってしまった。

 幼くして両親を亡くしていたヴァヤユンにはこの孤独を正面から受け止めてくれる家族もおらず、その社会階級も決して高いものではなかった。あれほど懐かしかった楓港渓沿いの山々はどこかよそよそしく、今ではむしろ銀座通りの煉瓦街が懐かしく思えた。舗装のされていない山道を毎日歩いていると、上田夫婦から買ってもらった靴も服もすぐに破れて使い物にならなくなった。

 すっかり話し相手のいなくなったヴァヤユンは、集落の人間たちが寝静まる時分までひとり深山に身を隠し、楓港渓の水面に映った己に語り続けるしかなかった。

――ワタシハオタイデス。

――ワタシハオタイデス。

――ワタシハオタイデス。

――ワタシハ……ティマスン

 水面に映ったその容貌はかつて松崎晋二が撮った写真の表情とほとんど変わらなかったが、その瞳に往時の怯えはなく、ただ行き場のない孤独だけが滲み出していた。

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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