霊魂
霊魂は存在するのか。
この問いに真っ正面から答えている言葉が、今から百二十年以上も前に書かれた、アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』の中にある。
「精神はどうしても、物質とは独立の実在である」
そしてこうも言っている。
「記憶そのものは、脳から完全に独立している」
僕達は日頃そんなふうには考えていない。記憶は脳の中に蓄えられている、と思っている。僕達は魂を軽んじているのだろうか。
魂の行方ほど重大な問題がほかにあるはずがないのだが、僕達はこの問題にかかずらっていては生きて行けない。
だから、魂を自らの目からも隠して、俗世界を快活に生きている。
しかし、これはまた、一番大切なものを、言葉や他人の目という外気に晒して劣化させたくない、ということでもあるだろう。
生命現象は、物質に晒されて物質と共に解体されて終わるプロセスである。が、そうやって物理的化学的現象を装って、物質世界に紛れ込もう、食い入ろうとするある種の努力でもある。生命は、必ず物理的化学的現象を纏わずにいない。
と言うことは、大切なものを晒したくないという生き方は、生命の最も根本的な道を通ろうとしているとも考えられるのである。
生命は、多かれ少なかれ、外見と内なるものとの違和感を抱え込まずにいない。
ベルクソンは、存在と言葉との間で生じる違和感を出発点とした哲学者である。晩年に、自らの思索を振り返って、「私が哲学の方法に開眼した日は、言葉による解決を投げ棄てた日だった」と記しているのは、その出発点を端的に表現している。
これは、詩人の覚悟だと言える。
僕達は日頃言葉で周囲を塗り固められて、その中で生きている。
自分では、じかに物を見て、触れて、感じているつもりでいる。でも実際には、僕は、物が纏った言葉を捉えているだけである。物ではなく、その言葉が喚起する決まり切った反応をして、僕は日々を送っている。自分が隠した物が何であったかを、すっかり見失った状態である。
例えば詩人アルチュール・ランボーは、そんな書き割りの世界を破り棄てて、神だけに許された物そのものへ、あるいは原始の野人達が恐怖していた剝き出しの物の世界へと、躍り込んだ。そこで、言葉が誕生する瞬間に立ち会ったのである。
ランボーは、物から出たばかりの、じかな芽である言葉だけで、まだ糞尿の匂いが漂うような言葉だけで、詩というものを構成した。
こんな、詩人と同じことを、ベルクソンは哲学でやってのけたのである。
すべては、考えさせられるのでなく、考えるため、行動させられるのでなく、行動するためであった。
この世はヴァーチャルリアリティに過ぎず、僕達は外を知らずに生きているのでは、という発想は、決して今に始まった話ではない。天才デカルトの懐疑から数えれば約四百年来の発想である。
それどころか、何もかもが夢だったのではないのかと嘆く僕達凡才の抱いて来たもどかしさから数えるなら、デカルトよりも遙かに昔から、人間は巨大な悩みを負っていたことになる。
僕達は脳内の夢に於いてではなく、物に於いて物を知覚している、ということが、もしも証明されたなら、僕達の人生観の根底が一変する。ベルクソンはこれを成し遂げたのだが、その証明の鍵は、記憶が脳の中に蓄えられているという現代人の常識を覆せるかどうかにあった。
僕達はつい、脳が世界の映像の記憶を蓄積している、と考える。
この考えは、脳細胞の活動と、記憶の映像との間に、機械的な対応関係を考えることに繫がり、そうなったらもう、知覚像も脳から生まれる、と考えることに何らおかしな点は見付けられなくなってしまう。
ベルクソンは記憶の病に関する臨床データを分析した。その病理学的データも分析した。それらはすべてこれまで、脳が損傷したことによってその部位に蓄えられていた記憶が失われた、と考えられて来たケースである。
症例は厖大かつ多様であった。ベルクソンは丹念に分析した。患者達の個々の症状、彼等が思い出そうとして、ある事柄については成功し、またある事柄については失敗する様子、更には記憶を追うときの感情に到るまで。
そうしてベルクソンは、茫漠とはしているが、大きな世界が立ち現われるのを確かめた。
記憶自体は失われていなかった。それは無傷のまま、患者の意識のいわば背後に控えていることがわかった。
失われたのは、記憶を現在化する働きだった。つまり、記憶を、それが生じたときと同じ状況でとる身体的態度や身体的反応へと引き継いで、現在へと引き込む働きに過ぎなかった。
しかも驚くべきことには、記録された患者達の言によれば、どうも脳は、過去の映像を思い出すどころか、それを闇へと追い遣る働きをしている。
身近な例で言うなら、よく知っている顔を思い浮かべて、それを線や色で描こうとすると、途端にその顔の記憶がもどかしい靄の向こうに後退してしまうようなものである。あんなに強烈な夢が、起きてから思い出そうとすると、強い胸騒ぎだけをあとに残してどこへやら引き揚げてしまい、さっぱり思い出せないのも、実によくある経験である。
現在が要求している身体的運動へと引き継がれ得た存在以外は、すべて追い払ってしまう。それが、脳の役目だったのである。
そこからベルクソンは大きな結論を導き出す。記憶がこうして脳から独立した存在であるなら、肉体の死後も、記憶は在り続ける、と。
死は避けられない。記憶を現在化させるための器官は、早晩、失われてしまう。それでも、正に過去に置いてきぼりの形で、記憶は失われることなく、存在し続ける、とベルクソンは言っているのである。
霊は存在する。
僕は、普段、そんな考えを馬鹿にしている。
けれども、心のどこか、体のどこかで、この考えを完全には否定し切れずに、僕は生きている。ほかに誰もいない深夜の部屋で、背後を振り返る勇気がなくなったり、机の下で足を伸ばせなくなったりする。
こんなふうな、自分が感じずにはいない事実をも、昼間の僕は、馬鹿にしてしまう。仕事を休む理由は、体調不良なのであって、昨晩、霊に悩まされたからなのではない、ということになる。
あの世のことと、この世のこととは、断じて混ぜてはならないのである。昼間の世界が、そう命じている。
そもそも僕達が霊を怖がることこそ、僕達の生活の知恵だと言える。霊を拒絶せず、霊がこの世に忍び込んで来るままに任せていたら、僕達の正常な日常生活が脅かされる。
ならば、逆にこうも考えられないだろうか。この世の理屈が霊の世界に持ち込まれれば、霊の世界が脅かされる、と。
実際、霊がこの世に忍び込むことよりも、僕達が、知らぬ間に物質世界の論理を霊の世界に対して持ち込んでいることのほうが、よほど多いと考えられる。僕達は、物の世界を語る言葉で、魂についても語るほかないのだから。
霊が、物質と似た性質の存在に変容して、正に化けて出るのでなければ、僕達は霊に出会うことすらない。ひとたびこの世で出会ってしまえば、霊はすべて科学的に説明がついてしまう。霊的現象ではなく、物質世界での現象に過ぎない、というわけである。
困ったことに、霊を信じると言う人であっても、物質と、物質でないものとの間の、本質的な違いを見詰めることに、もどかしくて堪えられない。怪談の下手な語り手は、霊の世界を垣間見ているつもりで、ついついあの世に「この世」化を施してしまう。
目に見えなければ、存在していない、と僕達は判断するが、見えないというのは、この世では役に立たないというだけのことであって、決して、存在していないということにはならない。あの世にはあの世の理があるはずである。
何かが顕わに見えるとしたら、必ず、この世での生の役に立つように、外界の運動を濃縮して一つのイメージへ引き止めたり、切れ目などない世界を刻んで様々な輪郭を付けたりと、要するに見える存在の仕方へと、存在の変質を行なった結果である。
結局、僕達が目を向けるところすべてが、この世と化さずにいないのである。
僕はあまり視力がよくない。と言っても、眼鏡を掛けずに日常生活をしていて何の不便も感じない程度の、軽い近眼なのだが、でもだからこそ気付けることもある。
自分では普通に外界が見えているつもりでいて、実はほぼ見えていなかった、と気付かされることがよくあるのである。
ふいに人から呼び止められて、目の前の顔が誰なのかが、とっさにわからないことがある。
一瞬の間をおいて、それが誰であるかが飲み込めたと同時に、眼前のぼんやりとしていた像のチューニングがさっと合う。
目を凝らして、ようやく見えたから、それが誰であるのかわかった、というのではない。誰であるかがまずわかって、それから顔が急にくっきりと形作られたのである。
視力のいい人もこういう経験をするのだろうか。
恐らくは、知らず知らずのうちに、誰もがこういう認識の仕方をしているのだと、僕は考えている。
僕達は外界を見ているようでいて、見ていない。長年の、外界との付き合いで裁ったり縫ったりして仕立てて来た枠組みを、外界へ投影して生きている。
思うに、外界は、この枠組みに流れ込み嵌まり込むことで、初めて見える形を得る。僕はこの枠組みの中で生活しているおかげで、じかに肉眼を働かせる必要がない。それで、少々近眼であっても、それほど不便せずにいるのだろう。不意の、予期せぬ顔に声を掛けられるまでは。
この便利な枠組みは、外界との関わり合いで身に付けた言動の青写真だと言える。したがって、言葉や動きが衰えて来れば、外界の輪郭がぼやけ、まるで寝ぼけた状態で過ごすことになる。そうなったところで、自分ではまさかそんな状態でいるとは気付けない。近眼を不便だと感じずに生活している僕のように。
僕は、自分に役立てられるふうに外界を知覚する。役立てられないものは知覚の外に置く。これを、生命が身に付けて来た態度だと考えてみるなら、逆に、感覚器官や感覚神経や言葉や論理に適応しない即ち役に立たない外界の刺激も、本当は始終、僕達に気付かれぬまま、僕達の体に降り注いでいることになる。
可視光線以外の電磁波が、たった今も、僕の体に衝突したり、透過したりし続けているようなものである。宇宙からは宇宙線と呼ばれる存在が降り注いでいる。それは、地球や僕の体を、串刺しにして通り抜けている。僕達は何も感じないが。
無論、電磁波なり宇宙線なりを、物理学者が観測するときには、僕達の思考の役に立つ形、粒子という、物体の形で捕らえ、そしてそれを感覚器官に適合する存在に仕立て上げる。観測という操作で生み出されるのは常に粒である。
けれど、だからと言って、存在が始めから粒子や粒子の集合体の姿をしている、と考えるのは、あまりに人間に都合のいい話だと思われる。
アインシュタインの関係式によれば、物体はエネルギーと同等である。
そもそも存在はどれも、物体である以前にエネルギーであるのかもしれない。
二十世紀初頭のアメリカで、ある医師が、人が死ぬ直前と直後の体重を測定してみた。六人の死を看取ったところ、死の瞬間に人の体重が減少するのが見られた。それは平均して二十一グラムの減少であった。その医師は、これが、死と共に失われた魂の重さだと考えた。
今、その重さを、アインシュタインの式に従ってエネルギーに換算してみよう。すると、0が十五個も付く巨大な値のエネルギーとなる。
このエネルギーを使ってお湯を沸かすと、競泳用五十メートルプール五百六十杯ぶんの水を沸騰させることが出来る。
もし本当に、死ぬとき体重が減ったのならば、そしてそれがすべてエネルギーに変換されたのならば、こんな恐ろしいエネルギーが体から放出されたことになる。
測定された二十一グラムの正体については、体外へ蒸発した水分量だったのでは、とも言われている。死んで循環器が機能を停止した瞬間の体は、細胞が作り続ける熱の調節が出来なくなって体温が上昇するとかで、そのため、体から水分が急激に蒸発して失われるらしい。
医師がもっと初歩的なミスをしていて、単に測定が適切に行われなかっただけで、はなから体重の減少など起こっていなかったのだ、という説もある。
仮に、その医師の測定法が正しく、しかも、遺体から水分が抜けたりすることもなかったとしてみよう。
体というのはただの物質と違って、崩壊への坂を下って行くことがないように何らかの力がこれを纏め上げ、成長と維持を成し遂げている。
エントロピー増大の向きに逆らって体を維持するこのエネルギーが、仮に莫大なものであれば、確かにそのぶんだけわずかだが重さが測定に掛かって捉えられると考えられなくもない。
が、エネルギーは霊なのか。
漫画で描かれる魂は、ふわふわした気体の塊の姿をしていて、登場人物の口から抜けて行く。
僕の小学生時分には、発光した気体の塊が体内から抜け出る瞬間の実際の写真というのが、雑誌を介して全国の小学生の間で話題になった。
これなどには、僕のクラスの男子達も夢中になっていた。僕は、不用意に見て祟られるのが怖かった。それで、横目で、ちらりと見てみた。
グロテスクだった。日本で写されたものには見えなかった。ヨーロッパの、まるで降霊術が行なわれていそうな古い屋敷で、呻きながら椅子に座った人が、飛び交う光に貫かれているような、包まれているような写真で、白黒の不鮮明なものだった。
魂は天のお星様になるとか、地獄に落ちた魂は針の山を登らされるとかいう童話や教訓で語られるものとは、雰囲気が随分違っていた。
近頃は全く目撃談を耳にしなくなってしまったが、戦前、戦中生まれの人は、必ずと言っていいほど、火の玉を見ている。僕がいなかで聞いた話では、一抱えもある真っ赤な玉が、庭と墓地を隔てる茂みにぽっかり浮かんでいたと言う。また、裏の家の軒先から火の玉がすっと上昇して行った、という話も聞いた。
これは何かで読んだのだが、火の玉が飛んで来ると、その家でじきに子供が生まれるという言い伝えのある土地もある。
ともかく、こうした光の塊を、多くの人が迷わず魂だと見るという事実が、大変興味深い。
さて、人間は、自分が経験してしまった魂との遭遇を、なんとか視覚化して感覚し、何とか言葉にして伝えようとすれば、光や塊といった物質的な様相を借りて来ずにいられないのか。それとも、肉体という隠れ家から出た魂は、かろうじて、光の塊という姿を取ることで、この世に、この物質世界に、現われていられたのか。
恐らくその両方だと思う。
物理的には、それは燐光に過ぎないと言われて来たし、この頃ではプラズマだとも考えられている。いずれであれ、そういう物理的現象を借りるのでなければ、僕達は魂を語れないし、魂は僕達の前に姿を現わせない。
魂は何とかして物質の世界に食い入ろうとしている。物質とは本質的に異なる存在が、物質に化けてこの世に忍び込もうとしている。
その際は、魂は固体によりも流体に化けやすいのではないだろうか。化学反応が起きやすい故に、エネルギーの放出と吸収が行なわれやすいのも流体の状態においてである。更に、気体か液体かで言ったら、同じ流体であっても、液体のほうが纏まりやすくて扱いやすい。
その証拠に、生命は、物質世界の中に、液体が循環する小世界を作って、そこに宿り、それを分裂させ増殖させることで、物質世界に入り込んで行く。
手っ取り早く言えば、生物そのものを指差して、正に魂が物質の世界に食い入っている証拠だと説くなら、もう本当はこれ以上に魂の存在をはっきり指し示す方法はない。
しかし、魂も意識も存在せず、それはある種のコンピューターが展開する世界だとか、身体は、頭部にそのコンピューターを積み込んだ機械だとか言われたら、反論するのは難しい。
事実、生命は、あたかも物質世界の道理に従うことで物質世界に忍び込む。僕達は、魂の存在などにお構いなく、物質的な成功にばかり目を奪われて存在しているが、そうなった責任は、半ば、魂のこのやり方にあると言うべきだろう。
大体、魂が何で魂とは全く異質な世界にわざわざ入って来ようとしたのかが、わからない。
恐らくは、この世に物質的な論理を超えた自由を実現するためである。
でも、何でわざわざ自分とは別の世界にまで、自由を広めに来るのだろう。
もしかしたら、あべこべなのではないのか。本当は、物質世界のほうこそ、魂無しでは存続できないのではないだろうか。物質が存在であるためには、魂の存在の仕方を分けてもらう必要がある、ということではないだろうか。
そもそも物質とは何か。
少なくとも、僕達人間にとっては、知覚することが出来、考えることが出来る対象であるものが、物質と呼ばれている。
一方、二十世紀になって物理学は、それまで粒だと考えられていたミクロの物質が、僕達のよく知る粒とは別物で、波としても見なければならない、という事態に立ち到った。と同時に、物質をエネルギーと等価だと見做し得ることも、明らかになった。物質と呼ばれて来たものから、そこに収まらぬものがこぼれ落ち始めた。
存在は物質を超えている。
こうなると、存在イコール物質という僕達の知覚と論理の図式が、この世の自然に対してすら、適合しないことになる。
この世に命が生命体を切り取り、この生命体との相対関係を反映させた世界が、物質世界である。ならば、物質とは、存在という絶対性を捨てた相対的な世界に過ぎないのである。
言い添えておくと、アインシュタインの相対性理論というのは、相対関係に左右されない絶対的な法則を扱った理論、という意味の名前である。
その理論の中で、アインシュタインが、物質の質量はエネルギーと等価だと見破ったのは、物質から莫大なエネルギーを取り出せる可能性を示した点で重要なのではない。物質を捉えるのに、エネルギーにまで遡って捉え得たという点で、偉大なのである。
とは言え、このエネルギーという概念にしたところで、絶対的なものとは言えない。エネルギーは、物質世界において利用し得る可能性を示した量だろう。利用するとは、相対関係を結ぶことの言い換えである。
つまりそれは、存在そのものを役立てることではない。利用するとは、常に、代用することを意味する。もっと役に立つものが見付かれば、すぐ捨てられる。物質は脱け殻だけを残して、魂などは抜け出してしまっていたほうが、利用するのに都合がいい。存在することと、役に立つこととは、対立する。つまり、物質に欠けているのは、存在なのである。
何の役にも立たないものなど、存在していないのと同じではないか、と胸を反らせて唱える人もいる。けれど、あべこべなのである。役に立つものほど、存在が欠けている。
他を利用しようとする生き方が駄目なのは、それは、他を存在として見ようとしない生き方だからである。
こんな甘いことを言っていては、社会人はやって行けないだろうか。
確かにそうかもしれない。
けれども、どんなに科学が発達して、合理的な生き方が僕の意識を浸蝕しようとも、意識の最深部に逃げ込んだ存在は、僕にも思い出せない記憶となって、脳の機能を超えて溢れ出ていることだろう。
存在は、常に知性の影に潜んでいる。僕達はどのくらいかわからぬ大昔から、これを魂と呼んで来た。そして今夜も、僕達は怪しい気分にさせられ、昼間のまともなシステムがすべてではないことに戸惑う。それは、抑圧した霊の存在が信じられているからである。