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存在の手ごたえ 渡仲幸利

『罪と罰』論

 

 小説には、とても不思議なところがある。

 自分が感動したその本を、家族や、あるいは全国の子供達に、更に世界中の子供達に薦めるかと問われたら、僕は首を捻ってしまう。

 世にも悲しい物語があるとして、その悲しみを知ることは、果たして良いことなのか、悪いことなのか。

 一人一人にとって小説を読むのが素晴らしいことであるのは、全く否定しない。読書は、一人一人にとって、どんなに感動的で他に替えがたい体験であるか。

 けれども、世の中に向かって、読書は素晴らしいことなのだと勧めるとなると、僕には何だか、本末転倒のような気さえして来るのである。

 そもそも小説は、悪徳が書かれているものでないのか。

 悪徳だから、みんなそれぞれ一人になって、これを隠れて読む。それが最高の読書でないのか。

 たとえ非常に美しい物語であったとしても、その美しさで読む者を日常生活からは隠されていたある深みへと誘惑する優れた本である限り、悪徳の書だろう。

 ピアニストのグレン・グールドは、幼い日、深夜に一人こっそり蓄音機を弄っていて、ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》を聞いてしまった。

 静寂で始まる曲の中に、甘い弦が、ぼろん、と響き出たとき、子供の彼は、涙を流して打ち震えたという。温かい家庭に居ながらにして、この世に独りぼっちとなった日の、戦慄の思い出なのである。

 感動は、これまでの自分と、自分を包んでくれていたすべてへの裏切りである。

 だから、出来ることなら感動は、当時まだ幼児だったグールドがしたように、自分が慣れ親しんだ生活のただなかにありながら、隠れて行なわれなければならない。

 読書する姿というのは、正にそういうものだろう。

 

 読書に耽っている人は、見掛けは日常生活に身を置いている。そうでありながら、彼は一人だけ全く別の世界に没入している。

 実は、そういうことを最も激しく行なった人物が、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフなのである。

 尤も、ラスコーリニコフは既に本すら手にしていない。大学も辞めてしまって、貧乏長屋の屋根裏部屋で、来る日も来る日も、もの思いに耽っていた。十九世紀末のペテルブルクの騒がしい生活の中に、一人こっそりと、底無しの穴を穿つようにして。

 彼は、近代化という歪みに踊らされた者と虐げられた者とが集うペテルブルクの片隅に潜んだ。息苦しいほどの生活のど真ん中に身を置いて、一人、考えに耽ったのである。

 僕が『罪と罰』を初めて読んだのは、確か、高校を卒業してすぐだった。最初の一行目が始まると、もうラスコーリニコフから目が離せなくなったのを、鮮明に記憶している。

 舞台は、建設ラッシュの熱と埃が澱む夏のペテルブルク。S横町。

 安普請の五階建てのアパートがあり、そこに住む主婦が又貸しをしている屋根裏の、狭苦しい船室のような小部屋から、一人の青年がのろのろと階段を下って来る。彼は押し付けるような暑さの立ち込める通りへと降り立った。

 『罪と罰』は有名な作品だから、ラスコーリニコフという大学生が出て来て、彼が殺人を行なう、ということは既に承知の上で、この大作に挑もうという人も少なくないと思う。僕もそうだった。

 何が起こるかは知っている。それなのに、最初のページで、青年が恐る恐る階段を降りて来るのを読み始めるや否や、僕はもう、彼に五感が吸い付けられ、体全体で彼を追って行かずにはいられなかった。

 その後も、何度も読んだ。三十年以上経った今でも、この本を手に取ると、やはり僕は、彼と共に暑気を呼吸して、彼の目と彼の足で歩き回らずにいられない。

 人々の匂いと声が混ぜこぜの薄汚れた繫華街。

 べたついた薄暗い料理屋。

 申し立てするありとあらゆる職種の人々で満員の警察署。

 彼が行くところ行くところの空気を、僕は嗅ぐ。

 ドアを細く開けてこちらを窺う金貸し老婆の、七面鳥の頭蓋骨ほどの頭と、鶏がらのような首を、彼の代わりに、僕は本能的に嫌悪する。

 犯行後、自室の暗闇で、彼は寝ているのか醒めているのかわからなくなる。何か殺人の証拠を残したまま、うっかり数え落としているのではあるまいか。もはや自分の正気さえ信用できない。正気を保とうとするあまりに、気が狂う寸前の彼と共に、僕は意識の惑乱に堪える。

 

 繰り返すが、最初に部屋からおどおどして出て来た彼に、これから一体何が起きるのか、そんなことは、よく知っている。殺人を犯し、自白に到り、シベリアに流される。それでも、読むたびに、何やら不思議な冒険が始まるのを感じて、僕は彼から目が離せなくなる。

 通常、人間は、内面の外に、社会や外的事物に応ずる機関としての外的な自分を育て上げているものだと思う。ところが、彼はどうしたわけか、最初の一ページが始まるともう、内面の化身となって登場している。

 彼は柩にそっくりな小部屋から生れ出たばかりの、外界に怯える子馬のようであり、あるいは外界が目に入らなくなった不敵な精神異常者のようである。

 いずれにせよ、ペテルブルクの喧騒やアパート界隈の人いきれとは全く異質な幽霊が、今、何の気紛れか、何を決意したのか、外界へ出て来てしまったのである。

 彼は物乞いのなりをしている。そして始終何やらぶつぶつ独り言を続けている。

 若くて、瘦せていて、背は高めだろうか。顔は青白く、なかなかの美しさだが、その目には、異常なまでに思い詰めたような、放心したような、凝り固まった何かが現われていた。

 要するに、この謎の異常者が、金貸しをしている老婆を斧で殺すのである。

 老婆は、町の恵まれない人達の足元を見て高利を毟り取り、小金を貯め込んで暮らす、町に巣食う虱だった。だとしても、この世から駆除していい理由はどこの国の法律にもない。

 老婆はまた、齢の離れた気弱で心美しい妹を召し使いとして打擲して使って生活している鬼だった。だとしても、退治しこの世から滅することは許されていない。

 仮に、老婆と較べ、ラスコーリニコフが前途有望な大学生であって、ほんの少々の金品を手にしさえすれば世の中のためになる事業に着手できる能力を有しているのだとしても、だからと言って、老婆を殺してお金を奪うことを、この青年にだけ許す法律はこの世のどこにもない。

 いくらラスコーリニコフが私欲を知らない純粋な心の持ち主であったとしても、彼は殺人犯なのである。

 なのに、僕は彼から目が離せなくなる。彼に深い愛情さえ抱いてしまう。

 彼には、人と関係を築くための外的な自我が欠如している。本質的に無垢なのである。

 こういう彼が、ペテルブルクの街へ踏み出した。彼はこの世でどう生きて行くのか。

 殺人者にこれほど夢中にさせられる小説が、一体、あっていいものなのか。

 確かに、世の中には、殺し屋を主人公にして、その猛者ぶりや、時にその人生の悲哀を描く小説や漫画や映画があるだろう。何の疑問もなく、それらは一種の英雄譚として、また、悲劇として、受け容れられているように見える。何と言っても、すかっとするし、涙のカタルシスも味わえる。

 しかし、『罪と罰』は、それとはもっと別の、全く異質な引力によって、ラスコーリニコフという中心へと、僕を吸い寄せてしまって放さない。

 これを共感と呼んでいいのか、わからない。

 通常の小説で主人公が読者に抱かせる共感を、ラスコーリニコフは僕に抱かせているのだろうか。

 ラスコーリニコフという存在は、およそ主人公が持つべき性質を、悉く剝ぎ取った末に出て来た、と思われる。

 彼は、外的支えを手放した人間の、最も弱い芯棒の部分でしかない。彼は人間と言うより、ある懐疑として存在している。解決しようのない懐疑が、最後にぽかりと取り残された格好である。

 いや、これはもう、懐疑と言うより、底知れぬ憂愁と呼ぶべきかもしれない。

 

 『罪と罰』は、この世に生まれて来た者の、どうしようもない悲しみを歌う歌だった。

 一見、その哀愁は、自分が殺人犯であることを秘めて生きる者の、社会に対する孤立から来るようにも思われた。

 でも、元々彼は、罪を犯したから孤独になったのでなく、孤独だったから殺してみたのではないのか。孤独なあまりに、敢えて殺人強盗という強引な社会的行為を、社会に加わるための極端な実験を、彼は試みたのではないだろうか。

 もちろん、彼にはとっても気位が高いところがあるから、逮捕や処刑という形で、社会の法システムに組み込まれることは、屈辱である。絶対捕まらずに、ただ僅かでいいから、金品を手に入れさえすれば、自分は社会に堂々と参入することが出来る。これが、彼の計画だった。

 丹念に練り上げた計画だった。

 現場までの歩数に到るまで計算し尽した。きっかり七三〇歩。その上で思考実験を繰り返した。そして、決行。

 犯行を終えて部屋に帰り着くや、堪え切れず、精神が押し潰され、すっかり彼は熱病を病んで眠り続ける。実は、そこから目醒めたときが、悪夢の再開である。

 凶行を終えてみたが、社会に届くと思って振り下ろした斧は、あまりに虚しかった。事件前と後とで、何一つ変わらなかった。

 あろうことか、殺人という犯行までもが、これまで屋根裏部屋で見続けていた悪夢の続きとなってしまった。この悪夢から社会へと乗り出すために、決死の行為に打って出たわけだったのに。

 何もかもが、連続した悪夢の中での無駄な足搔きと化して終わってしまったのである。

 犯行の証拠は何一つ残さなかった。もしかしたら、そのことがいけなかったのだろうかとすら思われる。

 大体、せっかく強奪した金品を、彼は凶行の翌日、まだ熱病が去らぬ体で、証拠湮滅のために建設資材置き場に埋めてしまう。金輪際、それを掘り起こして手で触れようなどとは、彼はもうこれっぽっちも考えていない。

 確かに殺人は行なってみた。その記憶だって鮮明にある。ところが、例えば僕達が自分の決定的に重大な出来事に対して、これは本当は夢なのでないのか、と怪しい気分になるのに似て、ラスコーリニコフの中で、おかしな分離が生じている。

 悪夢に飲み込まれて悪夢の続きと化してしまった殺人行為が、現実の町での老婆殺し事件から分離し、よそ者となるのである。

 正気づくと彼は、殺人現場に取って返す。老婆の家のドアベルを引きちぎらんばかりに引いて、現場の隣近所の者達に不審に思われるのも気にしない。あんなに頭が壊れそうなほど意識を張り詰め、人前でぼろを出さないために必死だったにもかかわらず。

 その帰宅後はまた熱に魘された。

 と、気付けばまたしても現場に向かっている。犯行に及んだ部屋の中に入ってみる。すると、殺したはずの老婆が蹲っている。彼は今度こそはと斧を何度も叩き付けるが、老婆は斧の一撃ごとに、顔を俯けたまま体を揺らして笑い始める…

 社会の、この世の手ごたえが、すっかり彼から分離して、それを取り返しに行った先でも、彼はただ悪夢の中でもがく。

 老婆の亡霊に怯えて、もがいたのではない。屋根裏部屋で練り上げた悪夢が破れず、世の中の手ごたえが得られず、もがき苦しむのである。

 もし亡霊が、よくも殺してくれたな、と怨みを言ってくれたのなら、まだしも彼は、殺人の手ごたえを取り戻せたかもしれない。

 実際、小説終盤で、彼は、せめて運命が悔恨の情を送ってくれたなら、とさえ希求している。心を焼く悔恨を感じることが出来たのなら、彼は嫌でも、自分が存在しているという手ごたえを得られたに違いない。

 作中、予審判事をしているポルフィーリイという人物が登場して、ラスコーリニコフを追い詰める。

 ポルフィーリイは、今回の事件を独自に調べていた。

 折しもポルフィーリイの誕生会が、ポルフィーリイの自宅で開かれ、先客の当地区担当の警察官が、非番の晩に遭遇した大学生の話を披露していた。

 その大学生は、酒場で相席したこの警察官に、強く奇妙な印象を残した。繊細で、優秀で、発作的で、気難しく、突然、悪魔のように顔をこちらに寄せて来て、こう冷たく嘲うのだった。あの事件は僕がしたことだと言ったら、さてあなたはどう思うか。

 話を聞いて、ポルフィーリイは、俄然、まだ見ぬ大学生ラスコーリニコフに興味を持つ。

 ラスコーリニコフの名は、共通の友人ラズーミヒンを通して、以前から聞き知っていた。訳あって、妙に関心を擽られる大学生だと思っていた。そこへ、事件直後からの彼の異常な行状について聞かされたわけである。

 そこへいよいよ、友人ラズーミヒンと連れ立って、誕生会への、ラスコーリニコフの登場となる。

 実は、ポルフィーリイがラスコーリニコフに前から関心を持っていた一方で、ラスコーリニコフのほうも、事件に興味を持っている判事の噂を聞き込んでいた。ラスコーリニコフは、何かを察知したかのように、対決の意を固めて、ここまでやって来たのである。

 ラスコーリニコフを迎え入れて、瞬時に、ポルフィーリイは確信する。こいつが老婆を殺した犯人だ、と。

 なぜかと言うと、ちょっと向き合い、ちょっと言葉を遣り取りするだけで、ラスコーリニコフの体の動きが、既に犯行を自供している。

 直覚というのは恐ろしい。

 一旦犯人だと見てしまえば、どんなに些細な違和感も、もはや明瞭な自白である。ラスコーリニコフが計算し尽したところではない身体と無意識が、犯行を雄弁に自白するのである。

 犯行の翌朝からして、張り詰めた意識とは裏腹に、体が暴れた。寝込んでいたところを起こされて、警察署への呼び出しの書状を受け取る。行くと、溜め込んだ家賃の支払い命令である。その署内で彼の体は、大暴れした。善良な苦学生から一転、自暴自棄な狂人と化す。殺人を洗い浚い白状したくなったり、卒倒もする。もう無茶苦茶である。

 ポルフィーリイとの会話では、それが、更に尖鋭化した。

 二人は、最後の一言だけは、お互い喉まで出かかっているが飲み込んで、化かし合いを続ける。

 さすがに二人の友人である陽気で実直なラズーミヒンも、二人の異様な遣り取りに、わけはわからぬとも、恐怖し、叫び出した。

 何だって君達はそんなことをしているんだい!さっきから見てれば嬲り合いをしているじゃないか!なぜだ?とラズーミヒンは怒る。

 なぜかと言ったら、ラスコーリニコフは、嫌でも、ポルフィーリイと相対さずには、いられないからである。

 ラスコーリニコフはこのあと何度でもポルフィーリイの職場に行く。行って、毎回、すべてを自供して帰って来る。僕が殺した、という一言以外は。

 彼の体は、ポルフィーリイという役人を、自分の社会化の唯一の窓口と見定めてしまったかのようだった。

 ラスコーリニコフの犯行を、社会の側の立場から説明してみるならば、次のようになる。

 自分は特別な存在だ、と考える一人の大学生が、非凡人は、大きな目的のためには、凡人達のための法律や道徳などを踏み越える権利を持っている、と思い込み、これを実行に移したのだと。

 そしてその実、大それたことを考えていた割には、近所の、そのまま放っておいても死ぬような老婆を、無我夢中で叩き殺したに過ぎないと。

 あるいは、同じく社会の側からもう一つ、こういう説明も出来る。

 あまりの困窮から、すっかり判断力を失った大学生が、ただただ生きるための金欲しさに、犯行に及んだのだ、と。

 ところで、この二つの説明の前者については、ラスコーリニコフは少し前にそれをテーマにした論文を書いていて、かれこれ二か月前、雑誌に発表していた。ポルフィーリイは、それを読んでいた。そのときからポルフィーリイは、今度の事件を予期し、待ち構えていた、とも言える。

 ポルフィーリイはラスコーリニコフの初来訪を受けた日も、早速、その論文を引き合いに出して、ラスコーリニコフを追及したのだった。

 また別の来訪時には、ポルフィーリイは、ラスコーリニコフが犯行を実行した結果、持ちこたえられず、そもそも自分には踏み越える力はなかったこと、自分は凡人に過ぎなかったことを知って、深く傷付き自殺するに違いないとまで予期し、心配する。

 因みに、有名な《刑事コロンボ》の作者によれば、コロンボというキャラクターはポリフィーリイをモデルとしているそうである。

 言われてみれば、ポルフィーリイは、ラスコーリニコフの抱えた疑念、存在することに対する疑惑には、敢えて一歩たりとも踏み込まない。ひたすら、人生と社会に泥臭いまでに通じた者の一種冷徹な分析能力を以って、この若者を追い込む。そうやって、ラスコーリニコフの犯行を社会人の言語で組み立て直してみせるのである。

 けれど、ラスコーリニコフが大学を辞め、一か月も例の屋根裏部屋に籠って考えに考え抜いたことは、何だったか。

 それはまさしく、自分をどうやって社会の中へ食い入らせるか、という一事である。自分がしたことについての社会の側からの批判など、とうに彼が前以って屋根裏部屋で何度となく試みた自分との対話そのものだったに違いない。

 

 世の中の人は皆、道徳が大切だという顔をしている。彼等の説くところはこうである。自分の受け持った小さなレンガ一つを積み上げて、社会を建設する一助となれ。

 けれど、自分のなけなしのレンガ一個を、社会のために、家族のために、積もうとして、我が身を滅ぼす人達がいる。そういう者達は、不平も、そして苦痛さえも口にすることなく、いやそういう感覚を発達させる暇もなく扱き使われて、社会に虫けらのように押し潰されて行く。

 誰も、そういう存在を見ようとしない。それでいて、道徳がさぞ大切だという顔をしている。どれだけの犠牲の上に道徳は乗っかっているのか。

 道徳も法律も踏み躙って、人を殺して金を奪って、一挙にレンガを積もうとするのと、どこに違いがある?なぜ、超人主義という僕のこの皮肉に気付こうとしないのか。

 世の中の人は、みんな、根も葉もないものを、確かな手ごたえのあるものとして疑わず、満足気である。超人主義を、狂人の頭に湧いた物騒な空想だと言うなら、人々が信じて疑わない道徳だって、同じ残酷な空想である。

 それなのに、何だってこんな社会に、人々は身を置いて平気でいられるのか。社会から顧みられず、虫けらのような運命を生きる、あの哀れな者達ですら、そういう哀れな居場所を得ることで、ちゃんと社会に身を置いている。僕が殺そうと計画している虱などはもう、虱として社会に強烈に食い入っている。

 僕にはこの世の何もかもが手ごたえを失っている。この世に食い入ろうにも、足を下ろそうにも、この世のどこにも実体のある場所がない。僕の存在するための場所がない。

 虱として生きる金貸しの婆さんと較べ、僕は、虱ほどにも存在が確かでない…

 屋根裏で、毎日同じ壁を見詰めながら、ラスコーリニコフは、せめて超人主義が、自分の犯行の動機に育ってくれるなら、と願ったことだろう。しかし、そんなものは、自分の存在、社会の存在を、確かなものにしてくれる力のない、ただの妄想に終わってしまった。

 犯行の理由が搔き消えたのである。

 と言うことは、この世の手ごたえを失って出口のない悪夢は、すっかり彼を飲み込んで、今や彼は外界に対して完全に白痴と化したわけである。

 先程、犯行の社会的な説明として書いた二つのうち、後者を見ると、そちらは、極度の困窮によって正常な判断がつかなくなったゆえの犯行だというものだった。

 ラスコーリニコフは逮捕後、裁判にかけられた際は、淡々と事実を述べることで、後者の犯行理由を自ら受け容れた。

 実際、自分の姿は、社会から見たら何の嘘偽りもなく、心神耗弱の状態である。

 出来れば本当に自分が狂人であることを、彼は心から願っていたのかもしれなかった。ところが、彼の知性は痛いくらいに冴えていた。眩暈がするほどこの世への疑惑を深めていた。

 存在しているということがどういうことなのか。それが彼にはわからない。

 知性は存在を探し回るだけで、存在の手ごたえを決して得ることはないから。恐らく知性は、存在を得るための能力ではない。

 僕達はそんなこととは露知らず生活している。だが、人生の一大事に当たっては、僕達は知性にでなく、運命と慣習に、すべてを委ねないだろうか。

 病が致命的であることを宣告されたとする。

 僕達の知性はきっと、それがこの医師の、更にはこの医師を中心としたチームの、限界を語っている言葉に過ぎないと判断し、だったら隣の都市の病院でなら、別の診断が出て、別の治療が可能なのでないか、と考えることだろう。

 そこでも駄目なら、日本のどこかに、世界のどこかに、これを治せる医師と機材の揃った病院が見付かるのではないか、と。

 そんな考えがよぎるが、それだけでは状況を纏められない。病状と精神状態に始まって家族、金銭、仕事のこと、社会の慣例、医療制度、これらに人間関係という糸が縦横に絡まって、わっとばかりにこの一身に問い詰めて来る。

 このとき必要なのは知性の回転ではない。今にも逃げ出しそうな自分が、この世のすべての手ごたえを受けて立つ覚悟だろう。

 そうなったら重い手ごたえにすっかり押し潰されていい。

 胸がいっぱいで、もうどうしていいやらわからなくなって、ただ心許した人と泣きじゃくるのも、手ごたえの立派な得方だと思う。

 この期に及んで、心許した人にこそ心配を懸けまいと一世一代の芝居で平静を装う人。残る人への心配事で胸が張り裂けてしまいそうになる人。そのどれも、自分の全力での手ごたえの得方だと思う。

 より良い治療を諦めよと言っているのではない。治療を横滑りさせていずに、何から何までひっくるめてその全手ごたえのもとで存在しようとする、このあまりにつらいけれど、これまで多くの凡人が行なって来た生き方は、知性だけを使っていては想像もつかない覚悟を秘めていないか。

 人生の一大事にあっては、例えば慣習に従うにも、覚悟が要るのではないのか。

 選んだのでなくて従っただけだ、と見えるかもしれない。しかし、すべてのことには、二種類の受け容れ方を可能にする表面と中身があって、しかもこの二つは今にも分離するばかりとなって、僕達が働き掛けるときを待っているものである。

 事物の説明に精通するのが、事物の表面的な受け取り方だろうと思う。

 一方、事物の手ごたえを得なければその存在を納得できない受け容れ方がある。事物の名前や知識を超えた中身としての事物そのものの受け容れ方である。

 ところが、僕達は事物の説明に気を取られるや否や、事物そのものは目に入らなくなる。

 確かに、僕達はこの世が存在していることも、自分がこの世に身を置く存在であることも、よく知っている。当然のことなので、知っているということなど意識したことがないくらい僕達はよく知っている。

 けれど、ひとたび意識すれば、存在は意識から閉め出されて、ただ名前とその説明だけを残す。

 毎日の時間という存在が、大抵、何時何分という目盛りの名とその計算としてしか意識されないように。

 日頃聞く、死亡者が出たことの知らせも、既にどれもこれもただ数字である。

 極めて自分に親しい者の死に当面したときは、そんなことは起こり得ないように思われるかもしれない。

 が、ふと精神は大事な何かを忘却した感、忘却してはならないという焦りの感に、たびたび陥る。ふっと世の中のすべての存在が中身を失って、ただの映像となったかのような印象の中に、ぽつんと身を置くことになる。

 やがて、中身のいっぱい詰まったかけがえのなさが、人生経験という訓話に置き換えられて行く。それはもはや、どの家庭にもどの人にも訪れる定めとして。

 自分の死さえ、どの人にも必ず訪れる死の一つとして数えられて行く。

 すべての存在が中身を失った印象の中に、僕はぽつんと立つ。

 あらゆる瞬間を、一期一会の精神で生きることが出来たとしたところで、存在の手ごたえを捉え続けることは無理だと思う。ポール・ヴァレリーはこう言った。私は、ときに考え、ときに存在する、と。存在を保つことは難しい。

 それを補おうとするのか、意識は、世界が存在している理由を追い求める。因果関係を辿り、存在に説明を付けようとする。

 そのとき、この世は、因果関係の精妙な絡み合いで成っていることが予想される。絡み合い方はほとんど無数にある。

 つまり、この世があることの必然性を説明しようとすると、この世は今ある姿で存在するのと同等の確率で別の幾つもの姿のどれかで存在することだってあり得たこと、偶然、現在の形で存在しているということに、僕達は思い到らずにいられなくなる。

 

 要するに、宇宙はまた別様でもあり得たのである。

 つまりどういうことになるか。

 結局、存在の説明が行き着くところは、無をどう埋めるか、でしかなくなる。

 無を前提とすることによってしか存在が考えられていない。そうなってしまったらもう、元を糺せばすべては無に過ぎないとか、存在がいかに偶然の産物に過ぎないかとかいう、投げやりな懐疑や否定に、必ず逢着する。

 無を前提としている限り、存在を考え始めるたびに、知性は、存在の根を絶ってしまう。これは、近代に流行り出した疾病なのか。

 問題は、僕達現代人は、もはや無を前提とすることなしには存在を意識することも出来なくなっていることである。この問題が過激に抉り出され、人の形をとって歩き回れば、何と名付けようか。

 ラスコーリニコフの痛いほどに張り詰めた意識が、外界の手ごたえを一切退けた悪夢に育つまでに、屋根裏での思考がどのような過程を辿ったかは、書かれていない。けれど、作者ドストエフスキーは、僕達が誰であれ持っている、こうした知性の根本的な、過激な機能を、ただ純化させて、無垢で哀れな大学生に植え付けてみたのである。僕はそう読む。

 ラスコーリニコフは、近代化に忙しいペテルブルクの街を、何かに取り憑かれた様子でうろつく。

 彼がネヴァ河に架かるニコラエフスキー橋に立ち尽くす姿は、誰の目にも物乞いに見えた。水はコバルト色をしている。寺院のドームが鮮やかな輪郭を見せている。彼はこの華やかな画面に向き合って立ち尽くしていた。

 彼の目にはこの画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちていた。

 大学に通いながら、優に百度はちょうどここに立って、この画面に見入ったものである。そのたびに、彼はぎょっとし、慌てて疑念を仕舞い込んだ。

 今また、その執拗な謎を思い出し、彼はほとんどおかしいくらいの気持ちもしたが、同時に痛いほど胸が締め付けられるのだった。

 眼下の深い川底に、過去の感情、過去の思い、過去の考え、過去の知覚、そして今目の前に拡がる大画面も、橋の上に立つ彼も、一切が飲まれて見え隠れした、と感じられた。自分がどこか遠いところへ飛んで行って、足元のあらゆる存在がみるみるうちに消えて行くような気がした。

 ここに引用した、ネヴァ河のパノラマを巡る彼の心の描写は、米川正夫訳で読んだ記憶を頼りにしている。

 「口もなければ耳もないような」という形容に、戦慄が体を走る。

 恐らくラスコーリニコフは、ここに立つたびに、死ぬことを考えて来た。そのたびに一切から自分を断ち切ることを繰り返して来た。

 そして今、この世の一切から、それまでの自分自身からも、自分を断ち切ろうとしていた。

 橋をここまで来る途中、彼を物乞いと思い込んだ敬虔なロシア正教の信者母娘が、呆然として歩く彼の手に、大枚二十カペイカ銀貨を握らせていた。川底に吸い込まれそうな彼は、思わず手を動かすと、ようやく拳の中にその二十カペイカ銀貨を感じた。

 手のひらを開いた。

 じっと銀貨を見詰めた。

 そして、大きく手を一振りして銀貨をネヴァ河に投げ込むと、くるりと踵を返し、帰途に着いた。

 彼はまた死ななかった。けれど、ドストエフスキーはこう言い添えている。彼はとうとうありとあらゆる存在から、自分をぶつりと切り離したのである、と。

 なぜラスコーリニコフは自殺せずにここまで来てしまったのか。多分、彼を閉じ込める悪夢を完成させて彼を『罪と罰』の主人公とさせるために、作者ドストエフスキーが彼に死ぬことを許さなかったからだろう。ドストエフスキーは、それほどまでに愛着を持って、この哀れな青年を育て上げた。

 ラスコーリニコフは、死を目前に据えて、あらゆる存在が空疎となる様を見た。

 すべては夢で、何もかもが結局は無と帰すとしたら、僕達がこの世ですること考えることすべてが無意味である。ならば、罪などあり得ないはずではないか。一体、罪とは何なのか。

 イエスにしかわかってもらえない背徳の実験を、ドストエフスキーはラスコーリニコフに託したのである。

 ラスコーリニコフは、この冷徹な愛の目に強いられ、正に迷える子羊として、「口もなければ耳もない」世界に堪えている。

 シベリアへ流された後も、最後の最後までラスコーリニコフは罪を悔いるということはなかった。ドストエフスキーの実験の手が緩められることはなかった。

 ラスコーリニコフには、自分がとうとう自首することになり、こうして、流刑囚の身に甘んじているのも、ただそれは、自分には自己の信じる歩みを「持ちこたえられなかった」からであって、自分が愚劣だったからだとは、どうしても考えられなかった。

 もし、持ちこたえられたのなら、自分は正しい。正不正は、持ちこたえたか、否か、それだけのことである。

 自分は確かに負けた。が、負けただけである。決して悔い改めたわけではない。

 負けたとは言え、これだけは認めたくない。道徳に、根があるなどと。そんなものが絶対的であるはずがない。状況に応じ、相対的になされた遣り繰りに過ぎないではないか。

 でも彼は気が付いていない。死なずに、自首し、刑に服すことを、自分が決断したという事実に。

 そういう将来の可能性を、ドストエフスキーは付与せずにいなかった。人物を創造するに当たり、それを付与しなければ、人間となって歩き出してくれなかったからである。物語の終わりのほうでそれを失った登場人物スヴィドリガイロフは、すぐさま自殺するほかなかった。

 ラスコーリニコフは、いつでも、ぎりぎりのところで何かを信じたのかもしれない。

 しかし彼は、その転機を了解しない。

 と言うことはつまり、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフを救わない、ということである。いつでも、ぎりぎりの縁へラスコーリニコフを置いてみるだけである。そうしておいて、付与した可能性、人間であることの可能性から、芽が吹く瞬間を見届けてやろうとしたのだろうか。

 それは相対的でなく、微かな現われであれ絶対的で、ほとんど、信仰の誕生する瞬間である。

 もちろん、ラスコーリニコフは悔悟の念など、これっぽっちも感じていない。

 流刑の地、シベリアの大地を見晴るかすと、荒涼とした大河の彼方の草原に、遊牧民の天幕が、ぽつぽつと点をなしている。アブラハムとその牧群の時代を、彼はそこに見る。すると、何とも知れない憂愁が吹き抜けて、彼を興奮と懊悩へ攫った。

 ネヴァ河岸のパノラマを見据えたときと全く同じことが起きたのである。

 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフをもう一度ぎりぎりの縁に立たせてみた。作者は、ラスコーリニコフに悔悟が訪れた、とは、ここでも書いていない。しかし、転機が芽を出す苦難の土壌は準備が整った、と言っているのである。

 

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著者略歴

  1. 渡仲幸利

    1964年静岡県生まれ。随筆家。著書に『観の目』など。

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