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存在の手ごたえ 渡仲幸利

『物質と記憶』の人気

 

 アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』と聞いても、多くの人はぴんと来ないだろう。全く聞き覚えがないという人も少なくないと思う。

 しかし、知る人ぞ知る本なのである。

 知る人の間ではなかなか人気も高い。おかしな言い方だが、地味に人気がある。しかも殊に最近、人気が上がり気味のようなのである。

 この点、僕は不案内だが、フランス哲学の学会が日本だけで閉じているはずがないから、どこの国でも同じような現象が起きている可能性が高い。

 それでも僕は何となく、日本はベルクソンの人気が特に高い国の一つのような気がしている。

 僕が知っているだけでも、哲学者では澤瀉久敬が、文学者では小林秀雄が、ベルクソンに傾倒し、多くのことを書いた。ドゥルーズの有名なベルクソン論よりも前の話である。

 高名な二人が日本の読者にベルクソンを広めた、という以上に、日本を代表する学者と物書きが、自分の考えと言葉を形作るためにベルクソンを欲した、というところが僕には気になる。

 こんな大問題を解くには遠く及ばずとも、僕もベルクソンを欲した一人として、駄文を物して、山の賑わいとさせてもらおう。

 

 日本では、ベルクソンが『物質と記憶』を書いて約二十年後の一九一四年(第一次世界大戦勃発の年)に、この本の初の邦訳が出たのに始まって、およそこの百年間に九種類の訳文で『物質と記憶』が出版されている。(岡部聰夫がその都度、一から訳している二度の訳業は、二種類と数えた)

 それも、十年に一冊のペースではない。九冊のうち五冊が、二〇〇〇年以降に出されている。

 紀伊國屋書店を覗いてみた。

 現在、五冊とも手に取れた。しかもそのうちの三冊は、何とここ五年間に出されたものなのである。

 ずっと有名なドストエフスキーの『罪と罰』ともなれば、近年も、舞台化され、テレビドラマ化され、漫画化され、とますますヴァージョンを増やしつつある。

 では、『罪と罰』の邦訳は、と探してみたが、四種類だった。

 現在、書店で買える邦訳本の種類では、『物質と記憶』は『罪と罰』に負けていなかった。難解な哲学の書物であるにもかかわらず。

 もちろん、人気があるというのが、爆発的に「社会現象」を引き起こすことであるなら、『物質と記憶』などは、現在、その対極にある読まれ方をしている。

 「社会」は名声に群がる。群がることで立ち昇るお金の匂いに興奮し、もっと群がれとばかりに名声を煽り立てる。

 名声を捏ち上げてでもそれに群がりたがるのが「社会」である。

 『物質と記憶』は、こういう「社会」のサイクルを脱して、永遠に価値のある古典の世界に、プラトンやデカルトと共に収まっているように見える。けれども実は、こんな話が知られている。

 『物質と記憶』が出版されたのは一八九六年。

 その翌年からベルクソンはコレージュ・ド・フランスで講義を行なっている。

 この学校は学位や資格の授与を目的としていない。ここでは研究成果が講じられ、その聴講が市民に開放されている。

 ベルクソンはここで長らく講義をすることになる。その内容を速記したものが文章に起こされていて、今ではそれを邦訳したものまで出され、名講義と評されている。

 さて、伝記によれば、ベルクソンによる講義は、評判が上がるにつれて、講堂に聴講者が入り切れない状況となって行った。

 学者や学生が腰掛けている中に混じって、名士や貴婦人に代わって席取りをする従者の姿も目立ち、講堂から溢れ出た者達は押し合いながら講堂を取り巻き、窓から覗き込んでいた。

 ベルクソンが登壇する。すると貴婦人達の用意した花束がベルクソンに手渡されたというから、スターのステージさながらである。

 堪りかねたベルクソンは、私は踊り子ではありません、と端正な声を放った。

 確かに、こうした生前のベルクソンの人気と、近年なされているベルクソンに対する再評価とは、同じレヴェルで扱うべきものではないだろう。

 何より、このほんの数年で『物質と記憶』の翻訳が数種類出されることの元となった研究者達の努力は、実に地道な営みだったはずである。

 そんな仕事を夢中で読むと、ベルクソンの倦むことのない論じ方が、そのままベルクソンという人間の全幅の現われであることが、翻訳の文面からも味わえる。研究者達は、ベルクソンという人を誤解しようのないように、訳文を作ってくれている。

 ところが夢中になって読むほどに、ベルクソンの理論の魅力を知れば知るほど、現代社会の諸困難を読み解く鍵が、そこにはあるように見えてくるものである。

 もともと、この点では一般読者以上に研究者こそ、この傾向を免れがたいとも思われる。

 研究者は理論化に長けている。研究者は、粘りと決断の態度が表われているベルクソンの文章を、ただ好きだ嫌いだと言っているだけでは気が済まないだろう。

 ベルクソンはと言えば、彼はいかなる対象をも、理論化即ち言葉上の解決で終わらせずに、自ら実感しようとした。彼は恐ろしい粘りと気迫で言葉のうねりを泳ぎ切り、物が言葉と化す現場へと、経験の源泉へと、物を求めに行く。

 この泳ぎが彼の文体となっている。

 が、そういう論じ方となって表われるベルクソンの気性以上に、論じられた内容と言うか、結論のほうが輝かしく見えて、これに目を奪われるということが、夢中で読めば読むほど避けがたい。

 ベルクソンの理論が持つ、現代へ、未来へ向けた意義に熱中してしまうことは、大いにありそうなことで、そもそも、そうすることが悪いはずがない。ベルクソンの理論が孕む可能性を追究することは、重要すぎる研究テーマだろう。

 ベルクソンは根気強く言葉の限りを尽くした。

 彼は経験の源泉に迫るためにそれをした。経験を言葉で置き換えるためでなく、言葉を撓めて言葉の向こう側へ戻るために、論じた。

 世の中は、日常生活ですら、駆け引きや小さな権力闘争ばかりである。特別な場に限らず、ありふれた自分だけの経験の場にあってすら、経験をより有利な状態に読み換え、巧みに掏り替えてしまうことが、僕の生活のほとんどである。

 気付かぬうちに、せっかくの経験を手放している。何でもかんでも置き換えて生きている。

 こういう中で、ベルクソンは、言葉の上での解決など物ともしない、と自らに誓った人だった。

 小林秀雄は、こういうベルクソンの方法を、完全に詩人の方法であるとし、ベルクソンの仕事を高度な経験文学だと称えた。

 僕も、書くことにおいて、そして生き方として、ベルクソンの方法を選びたいと思った。

 極言すれば、これは僕にとって、僕の大切な小さな日常を、学問へと変形してしまうことを禁ずるための方法である。無論、ベルクソンは学者の中の学者であって、彼は、大切なものを大切な状態のまま考究する哲学のあるべき姿を見出した、と言っているわけなのだが。

 ベルクソンは、恐らくアリストテレスを乗り越えようとしていた。プロティノスが出来なかったことを自分の仕事としたのである。

 アリストテレスははっきりと、個別なものの学問はない、と言っている。

 学問と学問にならないものとの違いが、アリストテレスにはよく見えていたのだろう。だとしたら、ベルクソンはアリストテレスの仕事を継いだとも言える。ベルクソンは、科学の方向とは別な、近代における真の哲学を、単独で開始した人だった。

 

 ベルクソンを長いこと読んできたが、そうするうちに僕の中に出来上がった、知性に対する考えは、以下のようなものである。

 知性とは、置き換えを行なって、代替物で対象を再構成する働きにほかならない。知性はモデル化を好む。この働きを、分析とも言ってもいい。分析は置き換えを前提としている。

 何やら偉そうな働きであるが、要するに、動物の体内に、胃を、腸を、心臓を見付けて取り出すような働きである。機能ごとに部品が見出され、肉体が、機械の構造に掏り替えられて行く。

 そもそも生き物は、自らの身体の機能に応じて、この物質世界の中に働き掛けられる対象を切り抜き、知覚する。だから、生き物の種類によって、知覚している世界に違いがある。

 ここから、知性がもともとどういう働きかが窺えないだろうか。

 知覚は物質の利用なのである。自分に利用できない存在は見に入らない。自分に利用できる存在を、利用できる形に切り抜く。それが知覚である。

 体の反応に合わせて、存在が捉えられるのである。そこから、こんなことも起こる。

 大きな音は、思わず収縮した全身の筋肉の分量と混同される。小さな音は、知らぬ間に顰めた顔面や、傾げた頸の筋肉の疲労度と釣り合わされる。

 しかし何より自分が使用している言葉に応じて、存在が切り分けられることが起こる。言葉にならないことを知覚するのは極めて難しい。

 すべてがこんな感じだとすれば、僕達には、自分の生存や生活に利用できるか否かで世界を構成しようとする傾向がある、と言わなければならない。

 物質を切り分け、縫い合わせる知性という働きの芽が、ここにある。とすれば、思いの外、知性が行なう学問は、人気という社会現象と相性がいいのかもしれない。

 僕が思う知性の正体は以上のようなものである。

 言葉による解決を投げ棄てて哲学の道に踏み出したベルクソンだった。が、名講義と名文を残してしまったのだった。彼は矛盾した仕事をしたのだろうか。

 コレージュ・ド・フランスに集った人々は、人気の匂いに呼び寄せられ、人気の匂いを煽り立てていた。

 そうすることが社交の場で役に立ったから。

 人気のベルクソンの講義を聴いたという話が自慢の種になっただろうし、聞き知っていたベルクソン用語をベルクソンの口からじかに聞いてみたいという欲求を満たして、これまた自慢の種になったことだろう。

 本当は、ベルクソンの書くものにベルクソン用語などあり得ない。それでも、持続とか、純粋記憶とか、自由とか、やがては生の跳躍とかいう語が、彼の本のタイトルと共に有名になろうとしていた。

 そういった語に、ベルクソンの理論として纏められた決まり文句のいくつかが絡み合うようになる。

 想像するに、それは生き生きとしていて、風通しのいい哲学だという評判から出来ていて、ベルクソンの著書へ、講堂へ、と人々を殺到させた。

 ベルクソンに纏わる何もかもが絶妙なキャッチコピーとして働いたのであろう。

 こんなふうに想像したくなるのも、現在、ベルクソンの本に飛び付くにあたって、現代社会を読み解くキーワードを彼の文章の中に見付けることで彼の本を理解したとする傾向を、僕自身、免れようがないからである。

 ベルクソンは、役に立つものに目敏いそういう知性の暴走に唆されるな、と注意してくれた人である。そしてそこが、彼の人気の下地となっているはずである。

 奇妙なことに、この下地の上に最新の言説が高層ビルのごとく建てられて行く。

 時代と共にキャッチコピーも変化する。現代では、時代の複雑になった側面と呼応させるには、本から取り出すべきキャッチコピーもより精巧なものでなくてはならない。

 そんな現代でも、キャッチコピーを取り出せる恰好のテキストとして、『物質と記憶』が重宝しているように見える。

 通信手段が大きく変わって、それ以上に通信手段の利用法が様変わりした。

 また、計算機を超え、人間が癖や習慣を身に付けるときのやり方を真似た人工知能が、碁を打つようになった。そのうち小説を創作するようになるとか聞いた。

 脳科学が、医学、物理学、工学から、言語学、哲学、宗教学までの、いくつもの研究領域を跨いで活潑になり、マスメディアに取り上げられるようになった。

 現代は、社会の様相が数年単位あるいは一年単位でがらりと変化してしまうように感じられる。大体、誰も彼もが掌に平たい機器を乗っけてじっと俯いている世の中は、僕が学生時代に全く思いもしなかった社会の様子である。

 固定電話がけたたましく鳴る玄関まで、待って下さーいと家の中を走り抜け、飛び付くようにして受話器を耳に当てた時代があったのである。

 それに、こうして文章を書くのに、万年筆を握り、原稿用紙に向かっているなどとは、もう恥ずかしくて言えない時代になった。僕はそのあと清書をする段階になって、慌ててキーボードを叩き始める。

 そうこうしているうちに雑誌そのものが電子化するという事態になった。これにはかなり衝撃を受けた。紙でないと味気ないとか、読むということが薄っぺらに変質するのじゃないかとか、あれこれ文句を見付けて悶々とした。

 今ではこうして楽しく書いている。紙の雑誌では出来なかったことが試せているので、文句ばかり言うつもりはない。

 思えば、列車に乗るのに切符切りの駅員さんを見なくなり、そのうち切符を買うことがなくなった。何と便利になったものか。自分がいくら払っているのか知る気持ちすら失ったのが、困ったものである。

 実は今、ここ数年の社会の大きな変化を拾い上げてみようと思って、試みているのだが、大きな変革が起こっていると思っていた割に、どうも本質的なところの変化が僕には全然捉えられていないことを、自ら曝露するばかりのようで、おや?と手を止め、きょとんとしている。

 結局、僕には、昔のクーラー無しの夏の生活から冷暖房完備の今の生活への変化のほうが、現代の人工知能の問題などより、よっぽど身に沁みる。

 どうも僕は社会の変化に無頓着なので、歴史や民俗の大家の力を借りてでも、現代をしっかり見据える必要がありそうである。

 

 歴史家の網野善彦は、この列島での生活様式の大転換期は二つあると見ていて、一つは十四世紀の南北朝の動乱、もう一つは、今が正にその大転換の進行中だと書いている。第二次世界大戦でも、明治維新でもないのである。

 網野は二〇〇四年に亡くなった。最晩年に書いた書物の中で述懐している。自分と四十歳隔たった学生達が持つ常識と、自分の持つ常識とが、全く異質なものとなりつつあると。

 この日本史家は、十三世紀以前のこの列島での生活には、自分の常識が通用しないことを、何度も試して身を以って知っていた。十三世紀以前には、十三世紀以降のいわゆる「日本」とは完全に異質な世界があった。

 歴史家としてこれを痛感した上で、正に現在この列島は、「日本」とは全く別の世界への転換が進んでいる、と言っているのである。

 高度経済成長期のど真ん中に生まれ育った僕の世代が、その第一世代なのかもしれない。

 道が幅を拡げられ自動車用にアスファルトで舗装された。鉄道を横切っていた箇所では、陸橋と地下道の大規模な建設工事がなされた。まだ幼稚園に上がる前だったろうか。建築物と見紛う重機が地面を揺するさまをあんぐりと見上げ、母に自転車に乗せられ買い物から帰った。家に入って初めて、二人揃って煤けた顔に気付き、顔を見合わせ笑った記憶がある。

 町が様変わりしたのだろうが、それ以前をほとんど僕は忘れた。

 昔からの記憶を何一つ持たない人間達が作る社会へと、この列島での生活は変わった。

 つい先日も、親戚の老人が雑談の折、ふと、年寄りが生きづらい世の中になったな、とつくづく九十五の高齢を後悔するかのように溜め息をついていた。

 ベテランになるほど社会の仕組みに精通するという、社会生活の核と思われる成熟の場が、今では、限りなく年齢を不必要とする場へ、つまり生活のない生活の場へと置き換えられてしまった。

 経験が必要とされないばかりか、悲しみと喜びで成る人間の尋常な営みが、営む場所を失ってしまった。言い過ぎだろうか。

 生きづらくなっているのは、老人だけではない。先祖の生活の記憶を失った社会に、これからの人間は生き方を探らなければならない。

 この問題は、法的整備や公共事業の発足を必要とするに留まらない。

 生活を作り上げることは創造にほかならず、それに必要なのは、現在を横に拡がる社会のシステムだけではない。現在を縦に貫く生活の記憶、つまり過去を持続させ、未来を祈る足場となるような、あれやこれやの生活の些事の実感が必要なはずである。

 この実感は、言葉とは馴染まない。

 しかし、それでも、失われた記憶に代わって些事を語る言葉の創造が、どうしても現代の課題でなければならないのである。

 柳田國男の仕事は、早くもこの事態を予見してのものだったのではないか。

 

 昔の便所は臭かった。

 何の話だ、と訝られるかもしれない。下らな過ぎて、こんな常識は捨て去られてしまうことだろう。でも、生活はそういう実感の記憶で出来ている。

 柳田國男は、わらじの底から沁みてくるという旅路の土が含んだしっとりとした湿りけの感触について語っている。語らなければ、忘れ去られてしまう感触なのである。

 彼は、新しく生まれる生活の中でもそれを忘れようとしなかった。わらじの思い出を、わらじのない時代の生活への足掛かりとした。

 過去を持たなければ、現在の経験が空洞となる。

 僕は、ベルクソンの『物質と記憶』という書物の周囲を歩き回っているつもりでいた。それがどうやら、その中心部にすっかり引き込まれてしまっているようである。

 そもそも『物質と記憶』という書物の味わいは、人間という心と体の結合体が、どう生き、どこへ行くのか、という問いに立ち帰らせてくれるところにある。

 ベルクソンが明らかにしたところによれば、脳は仮想世界を生む装置ではない。むしろ脳は、僕達を存在に食い入らせるための道具である。

 重要なのは、存在は過去を本体とし、現在をその表面としているということである。

 その中で脳は、物理的な作用と反応が行き交う現在の中の一点としてある。脳は、僕を取り巻く現在の中から、僕に関わりのある存在を選んで取り出してくれる。

 と同時に脳は、膨大な過去の存在が現在へと突き立てた尖った一点である。脳は、体に過去を再演させることで、過去を現在に送り込んでいる。

 ベルクソンはこういうことを粘り強く論述する。

 その文章のうねりの奥底からは、科学やあるいは知性ではどうすることも出来ない存在の手ごたえが湧き上がって来る。

 それは、浮かび上がっても、知性の光を浴びるとたちまちのうちに輪郭だけを残してもぬけの殻となってしまうのだけれど、このことは要するに、科学がどんなに発達しようとも捉えられず、掠めることすら出来ない何かが存在することを示唆している。

 脳の中に知覚があるのではない。僕達は対象において対象を知覚している。

 つい僕達は、脳が外界からの刺激を映像に変換している、と考える。しかしそれは、知性の役割が、存在から存在を除き去って、像や観念や言葉しか残さないことにあるからで、これをベルクソンは看破していた。

 脳は僕達にとって意味のある現在に僕達を集中させるだけである。

 意味のない物事は、脳によって忘却される。と言うことは逆に、物事自体は、僕が集中している現在に関係なく僕を取り囲み、僕に流れ込んでいる、ということになる。

 先祖達が営んだ生活が、僕という人間の儚い願いに丸でお構いなく、僕を貫き僕を越えて行くようなものである。

 本当は、社会生活の端々に、僕の言葉と動作の端々に、先祖たちの生活がちゃんと残っている。たとえその正体を僕が知らなくても。

 ベルクソンの言う記憶という語に、僕は過去そのものの存続を読んだ。僕は巨大な記憶の中の些細な先端を生きている。

 ちょうど、柳田を読むと、親から学んだ言葉や遊びやちょっとした仕来たりや年中行事の中に、自分以前の過去を見出せて、一種の懐かしさを味わうのと、どこか通ずる。

 そうは言っても、柳田が生まれ育った時代からもう始まっていたことだが、一世代のうちに生活がすっかり変わってしまう時代が来ている。それを思うと、僕はどこまで柳田の本を味わえているのかは怪しい。

 ベルクソンの本にしても、僕は過去を現在化せずには捉えない知性に流されずに、読めているのか。字面の解釈でなく、ベルクソンが指し示したものを感じることが本当に出来ているのか。

 僕は、ベルクソンを読むとき、とりわけ『物質と記憶』を読むときには、自分が避けることの叶わないある危機感を覚えながら読んだ。

 その感覚は、柳田を読んで懐かしみながら、もう取り返しがつかないという思いに抉られるのと、余りに似ていた。

 『遠野物語』の扉を捲ると、「この書を外国に在る人々に呈す」と記されている。

 しかし、「外国」人となった僕にもまだ、いくばくかの過去の血は紛れ込んでいて消えず、過去を懐かしむ手掛かりをこの生活に残していないのだろうか。

 ここには難しい問題があると思う。

 例えば、職人は、自分の手仕事を、合理化によっては決して再現できず、継ぐことは出来ないと感じている。こういう問題に近い。

 当時、フレイザーが大著『金枝篇』を完成させている。柳田がこれを入手したのはいつごろか。柳田に関する解説書の中に写真があって、フレイザーのこの何巻にもなる書物がよれよれの姿で並んでいる。

 熟読玩味していたと思われるのだが、それでいて柳田は、周りの者にはフレイザーを読むことは禁じたという。これを読むと民俗学を間違えてしまうから、という理由だった。

 どういうことだろう。

 日本のことをやるのと、西洋のことをやるのは、別だと言ったのか。西洋人の成果に頼るな、日本人のオリジナルの学問を作れと言いたかったのか。

 違うと思う。こういうものを読んでしまうと、たちまち比較人類学が始まってしまう。恐らく柳田はそう考えた。

 知性というのは、たちまち較べ出そうとする。

 そうすること自体は必要なことで、それが学問の始まりと言ってもいいだろう。

 でも柳田がやろうとしていた学問は違った。彼は決して、過去の生活や民間信仰を分析して、比較し、体系化することを目指していたのではない。

 たとえそういう学問が延いては現代の生活を解明する助けとなるとしても、柳田が本当にやろうとしていたことは、それとは本質的に異なる仕事だった。そんな印象を僕は受けている。

 念のために強調しておく。フレイザーがやろうとしていたことと柳田がやろうとしていたこととが別だというよりも、ずっと問題は微妙だったのである。

 フレイザーを読めば、日本の研究者達は、いくらでもそこに日本での事例と同じ事例を発見することだろう。日本だけの習慣だと思っていたものが、ヨーロッパの古い習慣の中に見出される、ということはざらである。こういう発見はそれだけでも楽しい。突き詰めて行けば、人類共通の心的現象の根を掘り当てるようで、感動をすら覚える。

 何より柳田が書く本自体、そういう面白い発見に満ちていることは事実である。

 が、そうであっても、柳田がやりたかったことは、過去の生活の比較、分析ではないのである。

 この列島の現代人は、この列島での過去からの生活の持続を、生きられるのかどうか。この列島での生活は切羽詰まった事態となっていて、一刻の猶予も許されない。柳田が気に懸けていたのはこの一点である。

 晩年の『先祖の話』は、柳田の仕事の一貫した動機に関わるこの思いに、全篇が染め上げられている。

 古来の伝統とか言われるものは、近代的大戦争とセットで、近代国家とその国民によって作り上げられた。『先祖の話』は、この、内と外からの生活の記憶の破壊に抗って書かれた。正に、連日の空襲警報下、柳田はこの書物の原稿を書き進めていた。

 記憶の消滅に焦って、慌てて記録をつけたのだろうか。

 いや、それ以上の危機感を以って、それは書かれている。終章に、こんなことが書かれている。

 時の古今にわたった生活の持続が希望されていなければならない。それが未来に対する計画なのであり、遺志なのである。そうやって、自分も無名の先祖代々に溶け入って、子孫達の先祖となる。この平凡な信仰の消滅を何とかせねばならぬ。

 柳田のこうした思いが、一見、悪しき精神論とも、戦時下にあっては呑気な話とも読めるとしたら、それはそもそも小さな平凡な信仰の問題は、合理的に解くことが不可能だからである。

 こんな問題を、役人も政治家も相手にしようとしない。彼等は今も昔も実際的問題で忙しい。政治による道徳や信仰の要請及び整備なら、彼等の領分だろう。が、こんなちっぽけな信仰の問題だったら、暇人の頭の中に留めておくべきなのだろうか。

 近代国家に口があるとしたら、こんな因習の元はさっさと忘れて、合理的で、知性に照らして恥ずかしくない能率的な社会のシステムを作り上げなくてはならないのだ、と言うことだろう。

 正式な歴史は、ちゃんと国家が導いてくれる。

 なるほど。僕達の物の判断の仕方はそれに沿っている。

 僕達は、先祖というと、名のある、あるいは権威のある特定に個人と結び付ける系図を、ついつい思い浮かべる。僕達の知性は、それほどまでに、人気にたかったり、人気者になりたがる傾向がある。

 何のことはない。知性の射程距離は、卑近な権力闘争の中に、すっぽり納まってしまう。

 知的で建設的と見える議論も、所詮はどちらが優位に立つかの争いである。電車の乗り降りと変わらない。電車に乗ったときの、巧みな席の取り合いを始めとして、立ち位置についても、よりよい場所の認識が多くの乗客たちの間で確立され共有されていて、そこをいかに自然に手に入れるかの争いは、当人達にとってはその瞬間、この世のすべてと言える。

 また、どんなに広い道も、通行人にとっては、大体狭い。そこをいかにして自分の所有物として、他の人に構わず歩けるかは、そのとき、その人にとって一大事である。

 知性が足りないのではないと思う。

 知性が強すぎ、その働きがほぐせず、短絡せずにいないのである。

 ソクラテスには聞こえていたと伝えられるダイモンの禁止する声は、いつも、知性がこわばったときにソクラテスを正気づかせる、何か知性の外にある声だったと思われる。

 放っておくと知性は、その場その場で優位にあるもの、優位であることに、血眼になる。先祖と聞いても、権威ある人物と繋げた系図しか思い出せないように、歴史と聞いても、要するに大掛かりな系図を思い浮かべる。

 系図に生活の記憶はない。先祖達の小さな日々がない。

 本当は、系図を見ていて一番興味深いところは、因果関係ではない。自分が知らない大勢の先祖達が実際にある期間この世に生きていたことが、その平凡な名前の連なりとなって、証明されているところである。その名前の裏に、過去の生活がある。

 因果という短絡を得意とする知性をほぐし、過去に寄り添わせなければならない。知性の誘惑から、自分の先祖の日々の暮らしへと、自分を引き戻さなければならない。

 比較し分析することで、自分の先祖の生活について、これまでよりもクリアーな知識が得られるということはあるだろう。けれども、何でもいいが、自分が一番大切にしている思い出に、外から分析を加えられ、説明されるのを聞くとする。途端に、かけがえのない思い出は、よそよそしい知識と化すだろう。

 

 さて、ベルクソンは科学の成果を重視していた。様々な自然科学に精通していた。

 『意識に直接与えられたものについての試論』では心理学が、『物質と記憶』では生理学が、『創造的進化』では生物学が、『持続と同時性』では物理学が駆使された。

 まあそんなことは今並べたタイトルからもある程度見当がつく。もっと光り輝いているのは、ほとんどすべての著書の中に見られる、物理学の成立条件に対する鋭い洞察と、量子力学の萌芽と言える十九世紀の物質理論に対する深い理解である。

 そうではあっても、ベルクソンがそういう本を書いた根本の動機はそこにはない。

 分析ではない能力が僕達にはあるとベルクソンは言う。

 精神の努力とベルクソンはそれを呼ぶのだが、どう呼んでもいい。その能力によって僕達が引き戻されるところ、そこを真に芸術的な意味で、表現することに、彼の動機はあった。

 言葉も、論理も、彼が作品を制作するための鑿あるいは木材だったのである。彼はただ言葉を超えて知り、肉眼を超えて見る努力を、弛まず行なった。

 なるほど、知性がなかったら、僕達は存在に飲み込まれたまま、前も後ろもわからない。気を失った状態がその際たるものである。

 はっきりとした知覚は、既に知性の現われであり、つまり、知性が現在を作っている。

 しかし、そのとき存在の手ごたえは、現在という有効性で置き換えられている。

 存在から存在を取り除いて、利用しやすい状態にされたものが、現在なのである。その結果、過去は専ら存在を担わされる。存在は過去と現在とに分離することで進む。

 存在が過去と有効性とに分離され、過去はただ存在し、現在に覆われる。頭だけでは受け継げないものがある。

 ベルクソンが言う「純粋記憶」と、柳田が言う「理を以って説き伏せることの出来ない信仰」とを、同じ物とするつもりはない。

 純粋記憶は、いかなる型で掬おうとも抜け落ちる。型に嵌ったとき、それはもう現在である。

 一方、過去からの生活の持続を支えてきた信仰は、言葉や慣習といった生活の形を通じてのみ、伝わろうとする。

 けれどもこのことから、現在が、過去を守っていることがわかる。過去が現在を支えているだけでなく、現在が過去を支えている、と考えてよさそうである。

 だとしたら、存在を救い出すのは現在の使命だと言える。現在の役割は、存在を保証することにある。ここに、二人の仕事の仕方の通奏低音が聴き取れる。

 現在の役割は、効率化の傾向の中そのままでは本質を壊されてしまう存在を入れて保持するための形を作ることと、その形を未来へ手渡すことである。

 要するに、現在を効率性の内に閉ざさず、単なる存在たる過去へ向かって開くことで、現在は、存在する必然性を得、未来を支える基盤となり得るのだろう。

 

 繰り返そう。現在が過去をつまり存在を支えるのである。

 二人の周りには、多くの賛同者が集っていたことだろう。しかし、自分を過去のために捧げた二人の仕事を理解した者は、多くなかったと思われる。

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著者略歴

  1. 渡仲幸利

    1964年静岡県生まれ。随筆家。著書に『観の目』など。

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