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存在の手ごたえ 渡仲幸利

眠りにつくとき

 子供時分、夏休みの午後は、居間で腹這いになって本を読んだ。

 たまにカーテンがふわりと膨らむ。

 じっとり汗ばんだ腕や腿を外の空気が拭ってくれるのを感じながら、本の世界に夢中になった。

 今でも、一日の活動を終え、お風呂上がりに蒲団の上に身を投げ出してする読書は、自分の時間に帰る心地がする。

 ところで、仕事が長引けば順に時間は遅くなる。蒲団に寝転ぶ頃には真夜中になっている。こんなふうにして読書をしていると、困ることがある。

 一ページも進まぬうちにうつらうつらとして来るのは構わない。それはそれで幸福な感覚である。

 だが、意識の中の些細な一点に過ぎないのだが、ここが何やら活動を開始してしまう瞬間がある。この瞬間が訪れてしまうと、困ったことになる。全く眠れなくなってしまう。

 いけない、いけない、と一生懸命に目を瞑ってみる。昼間には仕事に集中したくても容易にとろけてしまう意識が、一旦こうなると、びくともしない。助けの睡魔が、すっかり姿をくらましたままである。

 もう埒が明かない。試しに目をそっと開けてみる。すると、暗闇へ向けて徒にらんらんとしている目を自覚することになって、心底がっかりする。

 もう、どんなに体が疲れていようと、そしてどんなに瞼が熱くなり、重くなろうとも、眠ることは無理なのである。

 フランスの哲学者アランは、こういうときの対処の仕方として、猫の真似をしろ、と言った。眠っている猫の顔と姿勢をじっと真似していれば、これを受け皿として眠りがやって来てくれる、というわけである。

 僕は常日頃からアランの言葉を頼りにしている。例えば、気紛れや、荒れ狂う感情を、自分だと見るな、必要以上にそんな感情を尊重するな、と彼は書いている。

 感情などは、精神でなく身体に分類して、身体の運動によって克服すればいいのである。僕達は成長するにつれて、猛獣使いの腕を身に付けて行かなければならない。困難だが、それが、成熟することの根幹だろう。

 アランを真似て、眠れないときの焦りも、身体の内部の蠢きとして受け止めてみる。

 身体を、活動から、あるいは活動に備えた緊張状態から、解放してあげればいい。うめいたり、寝返りを打ったり、足をばたつかせたり、呼吸を乱したりして、身体を怒らせてはいけない。猫になれ。

 この心掛けで、かなりの場合、眠ることが出来る。

 体を余計な活動から解放してあげるという心理状態が、僕をゆったりとした気分にしてくれるから。いや、それ以上に、ゆったりとした気分自体が、正に緊張を解かれた身体の感覚そのものなのだから。

 

 しかし、この心掛けでも、なお全く眠気が生じず、我慢できずに体をよじってもがいてしまうことも、なくはない。

 そういうときも、ゆったりと解き放たれた気分を演出する心掛けは、しないよりはしたほうがいい。して損はない。聞くともなく、音楽をただ流しておく、というのは、有効かもしれない。

 音楽という、日常のいわゆる活動のリズムとは別のリズムが、体をほぐしてくれる。

 以前はよく、休日になると、さっさと用事を片付けて、ゆっくりくつろぐ時間を作った。グレン・グールドが弾くバッハの《ゴルトベルク変奏曲》を聴くためだった。約一時間のピアノ独奏曲である。

 集中して聴き始める。と、気付かぬうちにうとうとし、やがて終盤になって目と耳が冴えて来る、ということがしばしばだった。

 ほぼ眠っていたとしても、一時間集中力を保てたときと同じくらい、それは僕の贅沢な時間だった。

 もちろん、ひとたび不眠状態になった夜には、音楽をかけても、逆にますます目が冴えてしまうことも多い。そうであっても、どうも音楽を聴いているときの状態には、眠りと覚醒を出入りするときの感覚と通ずるところがある。

 グレン・グールドは、アリアを魂から絞り出す。震える神経でじかに鍵盤を弾いているかのよう。じっくりと音を空間に沁み入らせる。これが《ゴルトベルク変奏曲》の開始である。

 アリアに続いて、ぱんっ、と弾けるように第一変奏が奏でられる。どこか引き摺るところのあるテンポが、こちらの意識のテンポを制禦しに来る。

 それは遅いのでもなく速いのでもない。ただ、僕のテンポをグールドのピアノが、一瞬だけ先に刻み始める。僕は、自分をそこに任せてしまえばいい。

 と同時に、これは僕の中に、僕とは異質の、しかし紛れもない僕の歌が出現して、歌い出したかのようでもある。

 各変奏は、人生の中の些細な日々の記憶を、次々と巡るかのようにして移り行く。こうして変奏曲は、徐々に全貌を出現させて行く。

 揺り籠のようだと言えばそうだが、こんなにきびきびとした心地を感じることはほかにないし、またこんなに的確に聴覚の一枚下にまで触れて来て、まるで僕の欲しい音楽が遂にここから引き摺り出されてしまう、と感じることもほかにない。

 これが揺り籠と言えるだろうか。

 あるいはこれこそ揺り籠なのだろうか。

 第二十五変奏に到って、音は極度に遅く、小さく弾かれる。ぽつり、ぽつり、と音が置かれて行く。音楽が限界まで削られ、ぎりぎりの姿で現われる。

 もう止まるのかと思われる。

 けれども、こんなに豊かに拡がる音の世界があったのか、とも思わざるを得ない。それは、音楽が、音楽でないものへと、突き詰められた境目を垣間見せずにいない演奏なのである。

 これ以上先に行ったら音楽でなくなるところ、あるいはそこは音が音楽となる現場、どちらでもいい。この究極の境目での微妙な往還が、僕を、覚醒と睡眠との間での振動の中へ、言い換えれば、睡眠の中での極度の覚醒へと、誘い込む。

 ここを潜り抜けて歌い上げられる第三十変奏クオドリベットは、もう単に自由で陽気な演奏なのではない。朗々としつつ人生を振り返るようである。人生の痛みをも歌おうとする歌になっている。

 最後は、音楽がぎりぎりまで削られた姿から、本当に音楽が消えて、アリアが終了する。余韻の中で僕は悟らずにいない。《ゴルトベルク変奏曲》全曲は、音楽が誕生し入滅するまでのグレン・グールドによる実演だったのだ、と。

 グールドは、一九八一年に行なったこの《ゴルトベルク変奏曲》のレコーディングについて、一見奔放な全曲をパルスによって統一した、と語っている。パルスによって、であって、テンポによって、ではないのである。

 テンポだったら、意志の力でどうにでも細工できるだろう。

 ところがパルスは、意図を超えた心拍である。それは、こちらの思惑にはまるで関係なく歩を進めて行く。音楽に魂を込めるとは、もしかしたら、人間的な魂をほんの少し超え出たときにだけ可能な、奇跡の体験なのかもしれない。

 グールドは、パルスという語でしか表わせない重大なぎりぎりの境目を辿ったのである。

 音楽が睡眠に効く薬であるように言われることがある。それは、もともと音楽には、何らかの重大な境目を揺れ動いて、何事かを暗示する働きがあるからではないだろうか。

 《ゴルトベルク変奏曲》のように純粋にそうした働きだけで生きている音楽はなかなか見当たらないにしても、僕達を覚醒と睡眠との間で揺さぶることは、きっと、あらゆる音楽の基礎となっている働きなのだろう。

 僕達はここに身を任せれば、自らの重大な臨界に深く降り立つことが出来るのである。

 それにしても、うっかり、途轍もない話になってしまった。眠れぬ夜に、蒲団の中でもがき続けて、そのまま朝を迎えてしまうという、絶望に近い思い患いから救われるための、何か良い方法はないものかと考えていたのだった。

 もっとも、僕の文章は、文字を追い始めると、じきに瞼が閉じて来る種類のものらしい。

 何やら理屈っぽく、退屈で、読むのが苦痛な文章だからだと思われているが、実は重大な境目に触れては揺れる文章だから、読むと眠くなるのである。眠くなるように上手に拵えた文章なのだから、もし読んでいて眠くなったら、この妙技に感服してもらいたい。

 まあ、冗談は措いておく。眠ろうとしたのに、あれやこれや気に懸かることが心全体を占領してしまって、眠ってからでなく、眠るよりも先に悪夢に陥った具合になる。もうそこから抜け出せず、眠ることなど出来ない。そういうことがよくある。

 昼間は、同じ気懸かりや心配事が、こんなに肥大化しなかった。活動へと注意力が向いていて、気懸かりがさほど気懸かりでなく、心配事があまり心配にならなかった。

 蒲団の中では、活動でないところへ注意力が引き戻され、心配事が心全体を浸食するのを自分で後押ししてしまう。

 既に活動への注意力は休んでいる。これは、既に半分眠っているのと同じでないのか。そう思っていれば、眠れぬ夜の焦りを、少しでも抑えられないだろうか。いざ、眠れぬ時が来てみれば、そんな気楽なことを言っていられなくなるほど苦しいのだが。

 

 もしこの文を、若く体力のある人が読んでくれているとしたら、首を捻っていることだろう。睡眠なんてものは、いつでもどこでも襲って来る。寝てみろと言ってくれれば、十何時間でも眠り続けられる。そんなふうに考えていることだろう。

 よくわかる。僕も以前は、親や祖母が嘆くのを、半分笑って聞いていた。

 今、ようやく僕にも、眠りを、自分の問題として考えるときが来たのである。

 とは言え、眠りの問題は、深刻に考える一方なのもどうなのか。眠りの問題は、眠くなるように書かなければ、実際には意味がない。それも、僕の文章のように退屈なあまり瞼が下がる種のものもいいけれど、そんな肩の凝るやり方でなく、マッサージしてあげて安眠を誘うやり方もあるだろう。

 意識を、心配事で凝り固まった状態から、解き放てば、眠れないだろうか。

 昼間は、活動することへ注意が凝り固まっている、と言ってもいい。だからこそ、眠っていない。心配事に注意力が向いたまま凝り固まっていれば、やはり眠れないのは、もっともな話である。

 だから、活動に疲れれば眠りが訪れるように、気懸かりも行くところまで行けば力尽きて、眠りを呼ぶ可能性はなくはない。思い切り深刻な文学を読み耽ることが出来たなら、やがては眠りに就けるはずである。

 しかし、疲れさせるのでなく、逆に、疲れた体へのマッサージが、もっと確実に眠りを呼び込む。病気で魘された子供の体をさする親の手が、子供に安堵の眠りをもたらす。

 これなどは、最高のマッサージで、なかなかこれに敵う方法はない。でも、手軽に心をマッサージする方法としては、漫才やコントを見る、という手もある。

 まさか安眠の薬としてもらうことを意図しているわけではないと思うけれど、例えば東京03やサンドウィッチマンといった人気のある芸人達のラジオ番組は、毎週ネット配信もされている。お蔭で、自分が蒲団に潜り込む時間に合わせて、手軽に聴ける。

 いや聴いているはずだった。が、気付けば眠っていた、ということが、僕は何回もある。

 はっとして目を開け、眠っていたことを知り、欠伸とも伸びとも着かぬ息を吐いて、頭を枕に据え直す。あとは一気に眠りに入る。

 彼等のコントや漫才には、退屈して眠くなるなどということは起きそうにない。面白さが、安眠を呼び寄せてくれる。

 つまり、消極的な理由でなく、何か、積極的な力が働いていて、それが僕に効いている。

 お笑いは、意識をマッサージする効果を持っている。恐らく、お笑いの本質はそこだと思う。

 笑うことは、もともと、いわゆる正常な生活からのずれに反応して生じる一つの現象である。その目的は、このずれを気付かせ、修正させることである。

 と言うことは、笑いは、社会からずれたところのある人に浴びせる警戒音なのである。

 だから、笑うことは、仲間外れにしていじめることと切り離せない。ここはどう取り繕っても無駄で、笑うことは社会とともに生じた排他的攻撃性の現われ以外の何物でもない。この点で、笑うことの始まりは、知性の始まりと重ならなくもない。

 知性は、社会生活を能率的に送るための能力だろう。能率を上げるためには、知性は多くを切り捨てる。

 例えば、僕達は悩み事を抱えて、ああでもないこうでもないと考え込む。こうして考えれば考えるほど、悩みは解決されるどころか、ますます入り組み、膨れ上がり、手に負えなくなる。そんなときに、そういう思考では役には立たない、と呆れ顔を見せるのが知性である。

 悩む僕達は、悩みのただなかに身を置いて考えている。何も解決はしていなくても、悩みを悩みのままに真に捉えているのは、こういう思考である。ところが、知性は、これを馬鹿にする。

 嘆いていても何の役にも立たない。悩みに浸かっていないで、逆に悩みを引き摺り上げて、これを誰にでもわかる共有の言葉、概念、論理に変えよ、と知性は命じる。悩みと向き合って解決するとはそういうことだ、と。

 自分だけの特別な悩みのように思い込んでいるのは大きな間違いで、既に多くの人が悩んで来たのと同じいくつかの悩みの型の、どれに自分の悩みが当て嵌まるのかを見付けなければならない。そんなふうに知性は考えるだろう。

 僕達は、悩みの、自分だけの特別な色をこそ、この悩みの悩みたるところと見ている。でも知性は、そこを、くだらないものとして嘲って、拒絶する。共有するのにふさわしくないもの、知性の枠に嵌らないものを、知性は排除する働きをする。

 こういう知性の冷たさが、笑うことの排他的攻撃性と無関係でない。

 しかし、知性の始まりはこんな否定的な機能であっても、僕達は、内的な存在を外的な存在に変質させるその知性の働きを活用して、悩みの中に見晴らしのいい光景を切り拓くことが出来る。

 本当は手探りで歩くしかなかった悩みという非空間的な闇の中を、知性という松明を掲げて、闇を後退させながら進み入ることが出来る。闇から闇を追い出して、闇を空間の奥行きに変えるのが、知性なのである。

 なるほど知性には、悩みを悩みとして捉えることは出来ない。知性は、置き換える働きである。知性は、共有できるもので悩みを置き換えてしまう。

 けれど、そうすることで、悩みは、みんなの目という外からの視点を与えられる。これはもう、悩みではない。悩みが、昇華され、心の重荷であることをやめている。

 ちょうど笑いも、同様の働きをしないか。

 と言うより、もうはっきりこう言ってしまおう。笑いは知性の働きによる、と。

 笑いは知性の本質的な表われである。知性が悩みに外気を送り込んで、悩みを吹き飛ばしてくれるとき、実際に生じていることが、笑いである。知性の働きを励起しているのが、笑いである。

 

 お笑いの三人組、東京03の、多くのコント原案を書いているのは、主に、メンバーの一人である飯塚悟志だと言うが、テレビのあるトーク番組でこんな場面を見た。

 メンバーの豊本明長と角田晃広が、その飯塚に照れ臭い思いをさせて困らせようとして、こう叫んでいた。どんなつらいことも、みんな飯塚さんが笑いに変えてくれる、と。

 わっとばかりに三人で抱き合って冗談の涙を流し合っていたのだが、東京03のコントが好きな人は、このさまに大笑いしながらも、しかしこれが彼等の本心なんだろうなと、ふと真剣に頷いたはずである。

 もちろん笑いは、社会において、社会からのずれが生じた部分に反応して鳴る警報である。悩みの中に引き籠って社会に気が回らなくなっている者を見たら、社会は彼を笑う。残酷なものである。

 しかも、彼の悩みの本当のところは、誰からも触れられていない。そんなものはないものとして、彼自身でさえ手が届かない彼の奥深くに、闇は忘れ去られている。その結果、彼の代わりに、単に、悩む人間という商品名を貼られた、動作のぎこちないロボットが、衆目に晒される。

 悩みを笑いに変えるということは、悩みを解き放っているようでいて、その実、否応無しに悩みを誰の目からも隠してしまっている。

 けれど、東京03のコントを見ていると、それでは終わらない。登場人物の悩みが変質させられて、こわばった殻だけが示されるという、この過程に共鳴して笑いが観客に生じるとき、変質してしまったものだけの遣り取りで成るコントが、何となくだが、もう触れられるはずのない元の何かを暗示している、ということが起こっている。

 文学が、言葉で出来ていながら、言葉から零れ落ちた存在を表現しているのと同じように。

 東京03のコントに登場する人物が抱えた悩み、また悩みに限らぬ様々な思いは、社会的に大したことではない。大したことでない思いが狙われていて、なおかつそれを薄っぺらに仕上げる変質が行なわれて、もう全く大したことでないものの遣り取りが展開される。大したことがなければないほど、観客の中でむずむずと笑いの種が芽を出そうとする。東京03のコントの特徴である。

 彼等の毎年の舞台が映像化されると、僕は必ず購入している。そこには、会社員の日常生活が多く採られている。会社員としての生活の中の一齣なのであり、それは社会的な生活の一齣である。そこに、私的な、取るに足りない思いを抱えた人物が登場し、ちょっとしたぎこちなさから、仲間にあれこれ詮索される。

 おかしな遣り取りが始まり、そのうち、詮索されるほうだけでなく、詮索する側も、社会生活中のかなり私的な思いに近いところへ、つまり社会生活の中に紛れ込んだ私的なものへと、引き込まれて行く。社会人なのか子供なのかわからない三人の揉め事となる。

 彼等のコントが、仲良しの学生がじゃれ合っているように見えるのは、正にそのためだろう。東京03のコントは、日常生活に現われる、社会的なものと私的なものとの境目を、敢えて狙っているのだと思われる。

 彼等は、触れようのない私的なものが社会に晒される現場を捉えている。ここが、彼等の笑いの種子なのだが、また、それは触れようのないものを暗示する表現にもなっていて、しかもそれが実にくだらない些細な事柄に集中しているので、学生の頃の気分を思い出させる。

 もう一度言うが、生命の進化における笑いの始まりは、仲間外れの者に向けた社会的なお仕置きだったはずである。でも、どうやら笑いという機能は、上手く使用すれば、日常生活にひそむ心の機微に反応するセンサーとすることが出来る。東京03はそれを狙って、見事なのである。

 日常を探ってみよう。僕達はかわいいものを目にして、顔を綻ばせる。生活の中に受け容れられていながらも社会生活の効率を上げる働きに反している存在を、見付けたからである。

 当然、笑いが発動する。だが、もう攻撃ではない。それどころか、攻撃とは逆の、笑いの用い方がされている。

 もっとも、かわいいものも、商売になり、社会的な役割を担い得る、などと考え始めたら、途端に、かわいさが作り物めいて来る。笑いは、商売っ気を見破り、そのがめつさに辟易して爆ぜることになる。

 けれども、かわいさに、商売と無縁な反社会的な本質を察知するのも、やはり僕達の笑いの働きによるのである。

 社会的に完璧で、部下からは少々恐れられている上司がいるとする。この上司のデスクに、いつもの上司の代わりに、かわいらしい幼児が着席しているのを見たら、僕達は笑うだろう。

 僕達は、必要以上に格式張った人にも、必要最低限の動作すらぎこちない人にも、どちらに対しても、社会化に失敗した様を見て笑うが、会社で幼児を見付けて笑うのは、それとはもはや笑いの性質が違う。

 赤ちゃんが一人、社内に入り込んだだけで、普段は綺麗に封じられて存在を現わさなかった非公式なものが、本当はいつだって社員一人一人の背後に控えていたことに、気付かされる。そのとき起こる笑いは、あの、けたたましくて、社交的で、権力闘争する笑いとは別物である。

 公的なものになり損ねたものを叩く笑いもあるが、一方、非公式なものがあちこちに隠れていることを知らせてくれる笑いもある。社会を宥め、そっと緩めてくれる笑いもあるわけである。

 いずれにしても笑いは、質的に差があるところに反応する機能のようである。かなり微妙なところにまで反応できる機能だと思われる。

 僕達は、自分の中の、知性と共感という二つの働きの境目に、反応しているのかもしれない。

 

 考えてみれば、笑うのには、頭の体操が必要になることも多い。知性が共感から分離するときが、笑いが込み上げて来る瞬間である。

 元はと言えば、事物に上手く対応するためには、知性が行き過ぎたり、共感が深みに嵌ったりすることを、両方とも警戒し矯正しなければならなかっただろう。そこに、笑う機能の存在理由があったと考えられる。

 この理由が、笑いをちょうど、知性と共感とに精神が分離する現場に、公と私との境目に、外的なものと内的なものとの差異に、鋭敏に反応する機能ともしている。

 笑いという反応の働きによって、質的に差のあるところへと、僕達は導かれる、と言ってもいい。覚醒と睡眠との境目へも、笑いが導いてくれる、と言ったら言い過ぎだろうか。

 目醒める地点が、眠りに就く地点であることは、間違いない。覚醒と睡眠は紙一重であるような気がする。

 紙一重であるこの本質的な差に魘され、僕は幾度となく寝返りを打つ。眠れない。一大事である。

 怪しい境界でもがくそういうときに頭をよぎるのは、死んでしまうとはどういうことなのか、と問わずにいられなくなる嫌な感情である。

 大体、それまで生きていた者が死んでしまうということが、何とも納得が行かない。存在していたものが、なくなる。恐怖でしかない。どういうことなのだろうか。わからない。怖くて知りたくない。でも、考えが、そこに吸い付いて離れない。

 かけがえのないものが、なくなるなどということが、あるのだろうか。

 一体、存在しているとは、どういうことなのか。

 さて、笑いは、生と死の境目でこそ、効き目を現わしてはくれないのだろうか。

 こうして書いているうちに、死は、生の反対の意味ではないのかもしれない、とも僕は思い始めている。

 生と反対なのは、自由でない状態、機械的な状態であり、ロボットとなった状態なのかもしれない。なぜなら、この境目になら、笑いが飛び付いて来るから。

 生命は、機械化に反撥する力だと見ていい。

 しかし、生命は現われると同時に、機械化される危機に晒される。

 物理の原理である慣性の法則を破って現われ出るのが、生命である。動いている物は動いたまま、止まっている物は止まったままでいるのが、慣性の法則なのだが、生命は、これに反撥する。反撥して生まれ出た。と見る間に、頻繫に物理法則に絡め取られそうになる。この危機に、笑いは警報を鳴らして反応する。

 

 東京03に、角田が「さとーし!」と叫ぶコントがある。三人は大の大人だが、くだらぬことで揉め始める。

 角田は豊本が羨ましい。豊本は、角田が飯塚と知り合うよりも前から、飯塚と知り合っていて、飯塚のことを下の名前で、「さとし」と呼んでいる。角田は飯塚のことを未だに下の名では呼べないでいる。

 舞台は、事故で負傷し入院している飯塚の病室である。

 この日、角田は、飯塚を「さとし」と呼んでみる決心をするが、ベッドの上の飯塚は、今更呼ばれ方が変わるおかしな気分に堪えられず、猛烈に嫌がる。それを豊本が宥めに入るわけである。

 嫌がる飯塚が文句を口にしようとするそのたびに、豊本は、宥める声で「さーとーし!」と制する。

 この二人の様子にもう堪らなくなって、角田が、「さとぉーし!」と叫んで、間に飛び込んで来る。病室内であることなんか、お構いなしである。これが延々と繰り返される。

 豊本の静かだがしつこい「さーとーし」の声がスイッチとなり、角田ロボットは作動し、絶叫する。

 「トォーシ!」

 このコントを見ていると、思い出す感覚がある。

 子供の頃、机に着いていると、勉強している時間よりも、文房具やら何やらをいじっている時間のほうが長かった。ノック式のボールペンのノック部分を机面に押し付けて放つと、ボールペンが、ぴょんっと飛び上がる。これを飽きもせず繰り返した。

 ボールペンは強く机に押し付けるほど、あたかも物理法則に打ち勝った生き物であるかのように反撥して高く飛ぶが、もちろん、これはばねに蓄えられたエネルギーを解放しているだけであるし、生き物っぽい以上に、押し付ければ必ず飛び上がる機械的なところが、面白くなっても来る。

 生き物的な動きを追ううちに、機械的な動きが現われて、意識はそこに釘付けにされる。まるで猫が遊んでいるようだ、と思う人もいるかもしれない。

 猫は、虫が素速く這い回るのを見付け、軽く虫の動きを制しては、また放す。逃げ出す虫に再び飛び掛かって制し、また放す。それを繰り返して猫は遊んでいる。人間がばねを弄んだり、コントを見て喜ぶのと、全く同じだと思われる。

 生命体は、生命が機械と化すぎりぎりの境目に、どうしようもなく惹き付けられるように出来ているのではないだろうか。

 恐らくそれは、生命が生命を防衛して機械化に抵抗するためなのではないのか。その際のセンサーが生命には備わっていて、猫も人間も、きっと、その感覚の働きを大いに満たして遊ぶのだろう。

 猫には、これがちょうど狩りの練習にもなっている。しかし、遊ぶその姿には、単なる狩りの習性を超え出て来るものが感じられる。

 自由と機械化のぎりぎりの境目に魅せられて夢中の意識が、そこには見える気がする。それほど敏感に、生命は生命が機械化する現場に反応する。

 思えば、物質世界に自由を持ち込むために、生命は物質に食い入った。物質界に潜り込むためには、分子レヴェルでもいいからとにかく機械的な現象があれば、そこを生命は狙って忍び込み、自分の活動として行なって来たはずである。

 そう考えれば、生命が機械的な動きに敏感であるのは、尤もなことである。

 しかもその際、機械的な現象を利用して物質界に食い入りたい生命が、うっかり機械的な現象に飲まれて終わったりしたら、元も子もない。だから、余計に生命は、機械化に敏感でなければならない。

 

 生命現象は、物質現象と区別できないぐらいまで巧妙に物質を利用することで、物質界に食い入っているが、生命の本質は、物質の本質と、互いに否定し合っていると言わなければならない。

 自由は結局、自動から身を翻さなければ、自由でなくなる。

 ところで、人間が陥る機械的な様とは、ぎこちない体の動きであり、反復される反射的言動であり、短絡したあるいは暴走した論理であり、類型化を待つ性格と感情である。

 今、類型化という言葉を出したが、実際、機械化はすべて類型化だと言っていいと思う。

 性格で言えば、けちん坊、うっかり屋さん、臆病者、威張り屋。これらそれぞれの型の機械へと、生身の人間が堕している様が面白い。考え方にしろ、言葉遣いにしろ、仕種、動作にしろ、物真似が可能なものが、笑われる。物真似するとは、型を作るということだろう。

 その意味で、生命が機械化してしまうことは、生き物がまず自分を真似し始めたことだと言える。反復し始めるのである。

 真似ること、同じものを並べることが、笑いを誘うのは、機械化に敏感な生命の警戒能力に働き掛けるからである。笑いで警戒を増幅しなければならないほど、同じものの出現は生命のピンチである。

 パスカルは、少しもおかしくない顔が、よく似たもう一つの顔と並んだだけで途端におかしくて仕方なくなるのは、なぜだろう、とこの問題の核心を突いていた。

 おしゃれに気を遣う女性は、仲間と会うとき、同じ服装になることがないように衣装選びをする。色が同じになることを避けたがる。パスカルのいわゆる「繊細の精神」と「幾何学の精神」との境目を、働かせているに違いない。

 生命の本質は、またとない、二度と来ない時に、身を置いていることにあり、生きることは、時間が単に経過することは、別である。どんなによく似た二人の人生であっても、置き換えることは出来ない。それが出来るかのように扱うと、たちまち、生命は反撥を起こし、笑いが生じる。

 たとえ自分の人生であっても、繰り返すことは、既に、かけがえのない存在を別のもので置き換える行為となる。

 僕達は、上手に生きて行くために、手本となる特別な人生を、また自分の過去の貴重な成功を、真似てみる。そうすること自体、少しも否定すべきことではないはずである。ただ、かけがえのなさへの執着が、そのまま真似事と化す危険を孕んでいることは、注意しなければならない。

 かけがえのなさを感じ続けることは、驚くほど難しい。

 僕達は、存在しているということを、説明することは出来ない。何かが存在しているのを感じたら、それを類型化する。つまり、型に嵌めて、存在そのもののほうは手放す。

 存在している、と感じたのは、紛れもなく、かけがえのないものを捉えた、ということである。でも、すぐさま、かけがえのなさを手放すのでなくては、僕達は存在を、理解すること即ち活用することも出来ない。

 理解するとは、置き換えを完成すること。活用するとは、性質によらず他の似た道具と同じ用を足させること。これをするのが、人間の偉大な能力にほかならない。

 存在という、かけがえのないものに縛られたままだったら、僕達はどうなっていたことだろう。そんなふうだったとしたら、生命が物質の世界に食い入ろうとするその時点で、物質を活用できず、生命をこの世に実現することは諦めざるを得なかったろう。

 けれども、そうやって、かけがえのないものを手放し続けていては、虚しい苦しみに取り憑かれないとも限らない。存在しているということは、どういうことなのか。その答え、と言わないまでも、その感覚を、もう一度取り返さずに生きることは、たとえ便利でも、薄ら寒さを覚える。

 置き換えの利く存在を考えることは、数種類の共通の粒子で成る物質世界に行き着く。どんなに特別なところのある存在でも、物理学的には、他と同一の諸粒子で出来ている。ということは、理論的にはかけがえのなさも再構成が可能ということなのか。

 すべては粒子によって再生できる。いや、これほど存在を素通りした考え方もないと思う。

 しかも科学的事実として、この世はある時点から発生したと言われている。発生したからには、発生しなかった場合のことも、発生前のことも、考えられるような気がし、つまりこの世の消滅という語が頭に浮かぶ。

 すべては無になる。大体、自分が数十年のうちにいなくなる。いつかすべては、在っても無くても同じだったことになる。ならば、存在とは何か。何のためにこの世は存在し、何のために自分は生きねばならないのか。

 人生のあまりに短いことを思って、体が恐怖し、どうしていいかわからなくなる。

 寝苦しい夜は、もう本当に碌なことを考えない。なすすべ無しである。

 ひたすら身も心も猫になったつもりで、今この瞬間、蒲団に横になれることの贅沢な幸福感を味わうしかない。好きな音楽ベストテンでも頭の中で数え挙げながら。

 

 

 最後に、そのベストワンを発表して、この稿を締め括るとする。

 僕はやっぱりバッハを好む。先程触れたグレン・グールドが弾く《ゴルトベルク変奏曲》は最高だし、同じくグレン・グールドによる《平均律クラヴィーア》全四十八曲も、同じく《インヴェンションとシンフォニア》全三十曲も、一位に推すに十分である。

 でも、《ゴルトベルク変奏曲》には先に言及してしまったし、今は、《マタイ受難曲》を挙げたい気分である。

 またか、と笑われてしまうかもしれないが。

 カール・リヒターが指揮する《マタイ受難曲》は、僕の知り得る最高の音楽である。旧録音も新録音も、堪らなく、いい。

 しかし、眠れぬ不安な夜を共に過ごしてくれるのは、夜をこよなく愛したグレン・グールドであって欲しい。グールドは、自室で自分一人のためにピアノに向かうと、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの楽劇やオペラを鍵盤に移して、夜を徹して弾いていたと言われている。

 そんなとき、バッハの作品が弾かれなかったはずがない。数々の器楽曲、合唱曲、未完の《フーガの技法》。グールドが自分だけのために鍵盤に乗せたい曲が、バッハの作品にはいくらでもあったろう。

 ワワの別荘に籠ろうと、トロントのアパルトマンに潜もうと、真に自分だけのために《マタイ受難曲》を、グールドはピアノで夜通し弾いていた、と僕は想像してみる。

 羊の数を数える代わりに、《マタイ受難曲》を、グールドのピアノを聴いているつもりで頭の中に鳴らしてみる。

 なかなか上手に想像できないが、この楽曲の壮麗さを支える音楽の絡み合いが、改めて僕を驚かす。

 十字架を背負わされたイエスの止まらぬ歩み、嘲笑と投石、信じる者の嘆き、沈黙した天が、そのどんなささやかな表われまでも丁寧に辿られ、慎重に絡め上げられて行く。

 眠れぬまま寿命を数えてしまって身も心も震える夜、じっと堪えて頭の中でこの長大な全曲を鳴らして、僕も共に歩む。

 もたらされるのは痛切な感動の連続である。巨大な悲しみが与えられる。

 罪とは何だったのか。

 やがて来る死を免れようがない僕にとってこの世など結局在っても無くても同じだ、と考えれば、罪など、どこにもないはずである。何をしようと、結局すべては無になるのだから。

 しかし、罪はある。

 このぎりぎりの思いが、《マタイ受難曲》の感動の中から、確かな手応えとして湧き起こって来る。

 イエスは、罪人として磔にされ、殺された。全人類の罪を負って。

 罪はある。

 イエスは自分の存在を賭してこれを肯定した。この世は在っても無くても同じだ、だから何をやっても同じだ、という知性に巣食う考え方にとどめを刺したのである。

 罪はある、ゆえにこの世は確かに存在する。

 

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著者略歴

  1. 渡仲幸利

    1964年静岡県生まれ。随筆家。著書に『観の目』など。

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