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存在の手ごたえ 渡仲幸利

浅田次郎を楽しむ

 行きつけの喫茶店で友人とコーヒーを啜りながら、最近、歴史がわかった気がする、という言葉がふと口を突いて出てしまった。

 歴史事実に詳しくなったのでも、歴史とは何かという問いに答えられるようになったのでもない。就寝前に楽しみにしている読書で、昭和の大戦期や幕末を題材にした小説に、このところ大いに心を揺さぶられ、とりわけ、その中の何冊かには、その時代の空気が吸えたように感じさせられた。

 この思いが、何とも上手く言葉になってくれなかったのである。胸の動揺が治まらず、それで出てしまったのが、歴史がわかった気がする、という言葉だった。

 友人は、また何とも大胆なことをぬかすものだ、と啞然としたに違いない。目を見開いて、僕が何か喋り出すのを、待つ素振りを見せてくれた。が、僕にこれ以上のことを告げる準備はなかった。

 何か書けそうだね、と言われて、いやそんなつもりもないが、とか何とか答えた気がする。やがて四方山話となり、そしてお開きとなったのだった。

 もともと歴史は嫌いではない。政治史ばかりの教科書の歴史には全く興味はなかったが、昔から、年寄りが聞かせてくれる話は、教訓めいてさえいなければ、好きだった。

 母の実家は海辺の集落にある。村をそこで堰き止めるように浜辺まで迫り出した山が、海に向かって崖になっている。崖の下部には大きく深い裂け目があり、ゴザアナと呼ばれていた。祖母は、そこに行くなと、怖い顔をして僕に釘を刺したものだった。

 なんで、と訊くと、答えてくれたが、さて、なんで行ってはいけなかったのか、記憶が定かでない。そこには何かがいたということだった。何が棲んでいたのだったか。

 海賊だったか、権現さんだったか、オコンジサンだったか。

 祖母はそこをはっきり口にしなかったのかもしれない。

 が、不気味なあるいは神聖な、とにかく「おっかない」何かがいた場所だということはよくわかった。

 好奇心が湧かないはずがなかった。けれど、いつも勝つのは不気味さであった。この不気味さには、何やら昔の匂いがした。

 そこを「おっかないところ」として、口伝てにして来た幾世代ものご先祖様の生活が、祖母の口を通じて働き掛けていたように思う。

 これこそが僕にとっての昔だった。いつも祖母の生活の端々で祖母に重なって現われているご先祖様の生活こそが。

 おばあちゃんは昔人間だ、と僕はよく笑った。今にしてみれば、そうして感じ取れた昔以外は、たとえ昔と呼ばれていようとも、そんなものはただの言葉に過ぎないのである。まあ、過去にあったことなのだろう。が、少なくとも僕が匂いを嗅げるような昔ではない。

 何代前のおばあさんか知らないが、大層お風呂が好きで、夜更けにのんびり風呂に浸かって眠るおばあさんがいたそうである。その話を聞けば、今にもそのおばあさんが土間から上がってくる様がごく自然に想い描かれたものである。

 山を中腹まで行くと、色褪せた仁王門が現われる。ここで、唾で丸めたちり紙を投げて、仁王さんに貼り付けた。ちり紙がくっついた仁王さんの体の部位と同じ自分の体の部位が、強くなると言われていた。決して、単に子供のいたずらでやっていたことではない。いつの頃からか知らないが、ご先祖様達は、子供時代に必ずそれをして来た。昔を負って、僕は思い切りちり紙を放ったのだった。

 下らない話ばかりで恐縮だが、就寝前の読書で、そこに扱われている時代の空気が吸えたと感じたその感じを、何とか言葉にしようとすると、どうしても、こんな話が引き摺り出されてしまう。

 昔というのは、現代に溶け込んでいないなら、本当は昔ですらない。歴史とは思い出だ、と言ったほうがわかりやすいだろうか。現在へと思い出さなければならない。僕は蒲団の上に寝転びながら、昭和の大戦までは、更に幕末までは、思い出せた、と実感したわけである。

 浅田次郎が新選組を扱った三部作の中のひとつ、『輪違屋糸里』の文庫版に、輪違屋十代目当主と浅田が行なった対談が収録されている。その終わりのほうで、浅田が「たぶん僕は島原を描くことができたぎりぎりの世代だと思う」と話している。

 この言葉に、僕ははっとした。そして、やはり、とひとり頷いた。

 輪違屋は現在京都島原に残る唯一の置屋である。浅田は、執筆の六年前、当主の協力で、今なお置屋として生き続けている輪違屋を自分の目で見たと言う。

 そのとき浅田には、幕末の芸妓や太夫が島原の大門をくぐって輪違屋の台所に入って来るのが見えたのだろう。太い梁に支えられた高天井のもと、太夫は式台に上がり、梯子段を登って細く入り組んだ廊下を進んで行く。浅田はその姿を目で追うかのようにして、幕末の京を感じ取ることが出来たのだろう。

 浅田の経験は、幕末の置屋というのはこういうものだったのですね、と見学したのとは全く異なる経験だったと、僕は思うのである。

 幕末の島原の芸妓とそこに出入りした新選組隊士達が呼吸していた幕末の事実は単なる歴史の事実ではなく、現在の自分に繫がっている、という切々とした感覚に、浅田は襲われたのである。

 いや、これでは言い足りない。思い出した百五十年前の芸妓達を現に歩かせる場所を、浅田は見付けたのに違いない。

 思い出したら目の当たりに歩かせてみたくなるというのが、当然の心の働きだろう。そうやって現在の中へと過去を思い出すことに浅田の小説が成功している、という点が重要だと思われる。

 浅田にとって昭和の戦争は、彼の親が成人した時代の出来事であり、幕末は、彼の祖父がそのまた親から、その親の親から直に聞いた話を幼い浅田に語り伝えたお家の末期と、同時代であった。浅田は戦争を、幕末を、思い出すことが出来る「ぎりぎりの世代」だった。

 僕は浅田より一回り下で、親が戦中に幼年期を過ごしている。非常時を日常生活としていた子供の、ある意味で最も直接な体験と知恵を、僕も自然と耳にして育った。

 僕の父方は長寿の家系だった。僕の曾祖父は嘉永四年の生まれである。清水次郎長と黒駒勝蔵の決闘を弁当片手に富士川まで観に行った話を、よく孫達に聞かせてくれたという。僕はそれを更に父から聞いて育った。

 高度成長期が始まるとともに生まれた僕の世代で、曾祖父まで辿るだけで江戸時代に遡れるというのは、僕のちょっとした自慢だった。今にして思えば、そこまで珍しくないのかもしれないが、父は、幼い日をこのおじいさんと一緒に過ごして見たり聞いたりしたことを、よく話してくれた。

 おかげで、僕には、遠いはずの幕末が遠い昔とは思えなくなるときが多々あって、自分と幕末とのこの親しい感覚が、今では年とともに大きくなっている。

 このところ、浅田が中国の近代を描いた物語に、僕はどっぷり浸かっている。この長大な物語も、幕末から昭和の戦争への時代の空気を、これをすっぽりと包み込んだ途方もないスケールの中で呼吸させてくれる。伝え聞いた僕のご先祖様達は、紛れもなくこの空気の中の東の片隅で、日々の暮らしをしていたのである。

 この感覚をまずはっきり意識させてくれたのは、浅田次郎の小説の中でも、『終わらざる夏』と『壬生義士伝』だった。

 彼の『日輪の遺産』や『地下鉄に乗って』が、一方が古い手帳による、もう一方がタイムスリップによる、戦争の時代の思い出し方の小説であったように、『終わらざる夏』では、生活様式も感覚もまるで現代人であるような出版社勤務の翻訳家が、正に戦争に翻弄されるのだが、これを読む者は、自分が暮らす現代に戦争が持って来られたように、戦争を〈思い出す〉。

 ここに出て来る学童達は僕の親と同世代である。市電の新宿車庫の前に建っていた伊勢丹の建物は、焼け残ってそのまま現在の伊勢丹となっている。戦争の時代は今へしっかり繫がっている。つまり僕には二代に渡る記憶がある。

 『壬生義士伝』でも、幕末を思い出すための手掛かりが、物語に絡めてある。生き延びた者やその子供が、幕末を語っている。読んでいると、髷と二本挿しが明治を超えて現代に迫って来る。

 幕末は、僕が親にその出自から最期までを聞いて育った曾祖父が、少年期を生きた時代だった。

 『壬生義士伝』中、僕の曾祖父と同じ頃に生まれた人物が出て来て、新選組隊士だった父親について語る場面がある。と言うことは、僕も、曾祖父の一代前まで遡れば、新選組隊士達と同じ世代のご先祖に行き着くことになる。

 このご先祖様は、ヤジュウ、という名の流れ者で、廻船問屋の渡仲家の用心棒に落ち着いた。じきに隣の村に身を潜めてしまったと言う。その際、脇差を残して去った。僕の父達兄弟は、これでちゃんばらごっこをして育った。この人の娘だった曾祖母は、自分の親を思い出しては、ただの町人じゃあない、と言うのが口癖の気の強い人だったと聞く。

 ここまでが、僕に辿れる限界だが、嘉永から昭和までを生きた曾祖父のおかげで、僕は、幕末と戦争と現在を繫げて思い出すことが出来る。その繫がりは、歴史の教科書に説明されているものとはまた別の種類のものである。そこには政治的因果関係という一種の分断が見られず、かつ、英雄も現われない。

 僕が『壬生義士伝』を気に入っているのも、いわゆる英雄伝ではないからである。

 主人公吉村貫一郎は、南部盛岡から京へ出稼ぎに来た貧乏百姓のようで、ちっとも武士らしくない。テレビドラマ化されたときのタイトルには、新選組でいちばん強かった男、と謳われているが、最強であるにもかかわらず全く英雄でないというところがこの本の大切なところである。

 吉村貫一郎は、何一つ成し遂げることなく、次の時代に何の影響も残したわけでない。戦争を終わらせることの叶わなかった『終わらざる夏』の登場人物達と、通ずるところがある。

 貫一郎は、〈思い出す〉という歴史の核となる働きが具現化した人間として、浅田次郎が作り出し得た、僕達の先祖なのである。彼は英雄となることも、時代を変える人間となることも禁じられている、と言っていいだろう。

 戦国大名の活躍を知ることに、歴史の醍醐味はない。ご先祖様と協力して生活をすること。これが歴史を〈思い出す〉醍醐味だろう。

 歴史家の網野善彦がこういうことを書いていた。現在の僕達が言うところの日本という国の感覚は、室町時代までしか遡れない、と。

 これは、現在残っている地域名はほとんどが室町時代に出来た村の名前であることからも想像されるように、この列島での地域生活の現在の形が、室町時代に始まっている、ということなのである。だが、僕には、この稀有の歴史家の言葉が、自分は何とか室町時代までは思い出すことが出来るが、それ以前を思い出すことは出来ない、と告げているように読めた。

 歴史に対してなんと誠実な学者だろう。こういう史観を僕は信じる。

 何も特別な力なのではない。

 小林秀雄はこう言った。ささやかな遺品を前にして、死んだ子供の顔を想い描く母親の能力だけでいい、と。歴史家にとって一番大切なのは、複雑な仕事に当たっても、この最小限度の力を常に保持して忘れないことだ、と小林は断言している。

 小林はこの言葉が出てくる文章を序文として『ドストエフスキイの生活』を書いた。このタイトルの「生活」という語が、考えさせる。

 作家の「作品」と「生活」とに分けて評論を書こうというだけのことなのかもしれない。実際、それまでに小林は、作品論を既にいくつか書き始めていた。しかし、そもそもどうして「作品」と「生活」とに分けたくなるのか。

 創作の秘訣とそれを作動させる原動力を、作家の「生活」の中に探ろうというのだろうか。『ドストエフスキイの生活』という本に、そういう面は確かにある。

 が、小林が戦後に書いた「「罪と罰」についてⅡ」と「「白痴」についてⅡ」を読んだ人は、創作の秘密について『ドストエフスキイの生活』よりも深く鋭く丹念に書かれているのを見たはずである。ならば小林は、『ドストエフスキイの生活』において何をしたかったのか。

 例えば、僕はデカルトを敬愛していて、有名な『方法序説』など繰り返し読んだものであるが、そうしていると、気になることが出て来た。時代など関係がないかのように僕を感動させる『方法序説』と、デカルトが生きた十七世紀前半のヨーロッパとを、どうにも噛み合わせることが出来ないのである。

 と言うより、デカルトが滞在し、生活した十七世紀前半のヨーロッパ各地の普通の街路、普通の家、普通の日常が知りたくてたまらなくなったし、そういう普通の街路を歩いているデカルトの姿を、僕は見たくてたまらなくなった。

 デュマの『三銃士』が映画化されれば、十七世紀前半のパリの再現を見たくて飛び付いた。都内でフェルメール展があれば、絵の中の十七世紀の日常の光景を食い入るようにして見た。

 デカルトはどんな服を着て『方法序説』を執筆したのか。未だに僕にはそこがぴんと来ない。デカルトには肖像画が残されて、デカルトの普段着はともかくとしても、正装ならわかる。それでも、今一つわかった気がしない。デカルトの「生活」が知りたい。

 小林秀雄が『ドストエフスキイの生活』を書いたのも、僕のこういう思いと通ずるような動機からだったのではないだろうか。十九世紀、帝政末期のペテルブルクを歩くドストエフスキーの姿を見たかったからではないだろうか。

 ファンとしては、スターの生家を見たくなる。こんな言い方をしたら、あの世から小林に怒られそうだが、僕が言いたいのはファン心理のことなどではない。飽くまでも、歴史の手ごたえを求める心を言いたい。

 ドストエフスキーという人間がかつて確かに生きていた、その証しは、もちろん、彼が残した傑作群にあるだろう。そうでないはずがない。少なくとも僕などは、自分の生きた証しとすることを僕なりに意識してこれまでものを書いて来た。

 実は、そういう気持ちで書くことは、自分のありのままの人生を糊塗することでなかったか。それは否定できない。しかし、小林秀雄は、創作とは人生の純化だとした。決して文学は人生に着せる装飾品ではないのである。

 小林は、人生の純化という言い方で、まるで人生を押し潰して人生のエキスを絞り出すかのような行為を、文学と呼んだ。

 人生を素材としているけれど、そこから、異質なものを創出している。それが文学である。

 その道具である言葉は、極めて抽象的な道具である。この、言葉という、空気の振動や紙の上の筋でしかないものと、言葉が対象としているものとの、埋めようのない差を思えば、文学を構成している材料は、どうしても観念だろう。観念が、言葉とその対象との間隙に舞い散っている。これは、初めにあった人生という対象の素材とは、別物なのである。だから創作と言う。作品から実人生へと帰る道はもうない。

 ポール・ヴァレリーが看破したように、作品から生まれたのは作者という存在であり、この作者という存在と実人生とは、全く別の存在である。

 偉大な創作物ほど、偉大な作者を生まずにいない。そのぶんだけ、作品から実人生への道が絶たれる、と言っていい。もしかして、文明に何らかの足跡を残した偉人ばかりが記される歴史の教科書が詰まらないのは、教科書の記述法以前に、ここに原因があったのか、とも思われる。

 偉人がなした仕事の、歴史的な位置付けよりも、偉人が時に垣間見せたとされ言い伝えられた些細なエピソ-ドのほうが、断然面白いことが多い。偉人と言われる人にも、僕と変わらぬ凡人の側面を見付けられて、安心できるからだろうか。いや絶対に、そんなことではない。

 小林秀雄は、死んだ子供のささやかな遺品を前にした母親の思いに、歴史の核がある、と見たのだった。母親が、戻るはずのない子供の生を、思い出さずにいないように、小林も、私淑するいわば文学上の亡き兄とも言うべきドストエフスキーが、思い出されてならず、この思いが一つの本となったのであろう。

 『罪と罰』を生み出したドストエフスキーではなく、嫉妬深く、癇癪持ちで、浪費癖のある、少しも褒められるところのない人、しかしそれゆえ確かに生活し、この世に存在していたと言える人であるドストエフスキーを、上手に思い出したかったのであろう。

 小林はこう言っている。子供を亡くした母親に、世の中には同じ様な母親が数多くいた、と語ってみたところで、何の役にも立つまい、と。

 ならば、こうも言えるだろう。子供を亡くした母親に、あなたのお子さんには世の中のどの子供よりも優れたところがあったと語って聞かせたところで、母親には、子供との日々のささいで何気ないやりとりのほうが今となってはこの上なくかけがえのないすべてであろう、と。

 現代に与えた影響の大小で、存在していたことの意味が決まりはしない。僕が言いたいのは、大作家だから彼が存在していたという事実が現代人にとって大きいなどということでないのはもちろんのこと、人に知られることはなかったけれど、陰で、未来のために仕事をなした人だから、その人が存在していたという事実に大きな意味を見出せる、ということですらない。

 もっとこうしていたなら、とか、あのときこうでなかったのなら、といった取り繕いが、一切出来ないのが歴史であることは、誰もが身に沁みて知っている。様々な偶然が重なって絡み合って、現在がある、と思い込みやすい一方で、ずっと深く、歴史の必然とも言うべきこの世の存在の仕方が、自分を貫いているのも、僕達はしっかり感じて生きている。

 偉大だったり、無名だったり、影響を与えたとか与えなかったとか、そういうことはすべて、存在することにとって偶然のことでしかない。ところが、存在しているということは偶然ではない。

 存在しないこともあり得たが、偶然この世界は存在している、とか、偶然自分は存在している、などというのは、人間の頭の中だけでもっともらしいただの言葉に過ぎない。

 存在しているということは、然るべく存在しているということであり、それ以外ではない。

 僕も、そして数々のご先祖も、更には現在を作り上げているあれもこれもそしてあの人この人も、存在すべくして存在し、ささやかな偶然を夢見ている。叶うも破れるも、偶然である。自然科学が教える因果律や必然も、この偶然の類でしかない。

 存在という必然を狙うのは、ただ文学だけか。

 しかし、ヴァレリーも言うように、文学から実人生への道は閉ざされている。作品という偶然は偉大だったり詰まらなかったりする。人生という必然に、良いも悪いもない。しかしそれでも、ただ文学が人生を狙って作品と化す。そうして文学は人生への道を閉ざすが、それでも人生を狙うのはただ文学であり、…

 文学のよく考えられた内容は、たとえ人生を扱っていようとも人生とは異質で、文学で人生たり得るものは、内容という偶然を乗せて運ぶ何かなのか。

 知性はどうしても因果律の物差しを当てがって、必然である存在を切り刻んでしまう。持続性を切り刻まれた存在は、既に存在とは名ばかりのもぬけの知的残像になって、抽象的な空間に並んでいる。存在は、無に付け加わって、たまたま存在しているに過ぎない、と見えて来るのは、そのせいである。

 途切れさせてはいけない。つまり、思い出さなくてはならない。そのとき、存在がわかる。

 僕達は、昔の生活を引き継げず、持続させることができなくなった現代人である。思い出すための手掛かりとなる有形無形の遺品をほとんど失っている。本当は現代人に限らない。諸事情によって根無しで生きることを余儀なくされて来た人達も、決して少なくないと思う。

 それでも、存在の何かしらを思い出すための手掛かりは、どこにでも潜んでいると僕は信じたい。

 幸い僕は、母を、父を思い出すことで、その数世代前までの生活を辿れる気がしている。僕が存在しているということは、親が、そのまた親が、更にそのまた親、そのまた親が存在したということなのである。何を当たり前のことを、と笑われるだろうか。しかし、四代前までの生活を、本当に思い出すことは、やさしくない。

 自分が存在しているということが、すとんっと肚に落ちるようにしてわかるということは、歴史を思い出して、現在を歩むことにほかならない。それを歴史などと歯が浮くような名で呼んでいるうちは、思い出せないに違いない。

 

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著者略歴

  1. 渡仲幸利

    1964年静岡県生まれ。随筆家。著書に『観の目』など。

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