坂井泉水頌
ZARDが18枚目のシングルを発表したのは1996年5月である。
今でも憶えている。新宿地下街を通行中のことだった。
毎日嫌でも通行していると、ブティックの様子も、押し寄せてきて擦れ違う人のことすらも、もう大して目に入らない。僕はただ虚ろな状態で足を規則的に進めていた。各店舗で流しているBGMも右から左に抜けていく。そういうときだった。簡潔で少し引き摺る感じの音楽が開始された。
と思っていると、女性ヴォーカルの話し掛けて来るような歌声が、どこかから現われ、こちらへすっと入り込んで来た。
音楽が流れて来たというふうな印象ではなかった。もっと実体のあるものが現われ出た感じだった。歌声でなく、懸命に胸の内を告白する声を聞いてしまったと思った。
そのとき目に映っていた辺りの情景は、カメラのシャッターを長押ししたかのようで、僕はふと、僕の内と外とで時間の流れ方が違ってしまったのではないかと怪しんだ。
以来、《心を開いて》は、二十数年経った今でも、切ないくらいに大好きな曲である。
ヴォーカル坂井泉水の魅力は、息づかい一つで楽曲を支配してしまう独特の歌唱力にある。ZARDのどの作品でも、それは聴き取れる。中でも《心を開いて》は、坂井泉水のそういう素朴な歌唱力だけを核として生まれた作品のように、僕には思われ、この地下街での一事件で、初めてZARDを意識した。
この核が聞こえて来てからというもの、僕にとってZARDの音楽は、J-POPと呼ばれるジャンルにも、ロックにも入れられないものとなった。ZARDそのものが単独で一つのジャンルになってしまった。
他より優れているから一緒に出来ないというのではない。事はもっと深刻で、この生々しい感動を、どう位置付けたらいいのやら、いや、どう鎮め、どう捉えたらいいのやら、さっぱり僕にはわからなくなったのである。
それは、はっきりとこちらに迫って来る。なのに、追えば霞のようで摑めない。もどかしい。大切なものは、みんなこんなふうにして存在するほかないのだろうか。
ZARDという音楽ユニットが、初めて楽曲を発表したのは1991年。《Good-bye My Loneliness》がデビュー曲だった。この年はバブル崩壊が始まった年とされている。
このころ撮られた映像には、思い切り肩の張ったジャケットを着けて歌う坂井泉水が映し出されている。あのファッションは、彼女と同世代の僕には、何とも恥ずかしくも眩しい青春時代のシンボルだったスタイルである。
テレビでも、街でも、みんなが実体以上のあれやこれやを、目一杯自分に纏って生きていた。のちにバブル景気と呼ばれることになる世の中の風潮と、青春時代の脳天気と鬱屈とを、奇妙に重ね合わせて僕達は生きた。ZARDも、同じその時代の中から登場している。《Good-bye My Loneliness》のサウンドは、肩肘を張ってでも実直に生きていこうとする女性ロックヴォーカリストの登場を告げていた。
この名曲も、今から振り返ってみるなら、ZARDの完成形ではなかったのかもしれない。坂井泉水節とでも言うような、彼女の声の表情、発し方、響き方は、確かに既に確立している。でも、その後のZARDを見てしまえば、まだ第一歩だった。
彼女の一生を辿っていくにつれて、歌というものは、彼女を彩るのでなく、逆に、彼女が纏わなければならなかったものを脱ぎ捨てるための唯一の手段だったように感じられてくる。
デビュー曲は、彼女が最初から、そうして生きる必要を深く理解していたことを、教えてくれる。以後、強かったり弱かったりする人間の芯のような部分を、歌という手段によって、見栄や駆け引きなどの底から、大切に救い出していったのである。
この過程が美しい。ZARDはそこに存在を表わした。
時代が景気の頂点からバブル崩壊後へと移行するのに並行し、ありきたりの青春の頂点から勇気を以って踏み出し、虚飾を脱ぎ捨てて進むことが、以後、ZARDの仕事となった。僕はそう見ている。
ところで、バブル崩壊開始の年と言われるZARDデビューの年は、即ち好景気の雰囲気の頂点に位置したと言っていい。きょうよりあしたが悪くなるはずがない。惰性で我を忘れて生きるのが本性の人類にぴったりの、そんな雰囲気の中で、僕は呼吸していた。
ただ若かったからなのか。しかし、若さと好景気が重なっていたというのは、何という巡り合わせだったのだろう。だから、景気の下落は、僕には、単なる経済問題でも社会問題でもなかった。
生まれてこのかた、このまま続くものとずっと思っていた僕の世界から、かわいがってくれた年長者が一人また一人と去る時が、ちょうどこのころから始まった。
歳を取れば死ぬ。そんなことは当たり前の話だが、これが他人事でなくなってみれば、実はこれほど受け容れ難い事実もない。意識のすぐ裏側にひやりと不安が走った。以来、これが消えず、次第に意識を浸食して行った。
僕のバブル崩壊とは、こういう不安の進行だった。極言するなら、死の予感が自分の世界のあらゆる物事の陰にちらつくようになってしまったのである。
いつまでも今が続くことは出来ない。健康にもすっかり自信を失った。これが僕のバブル崩壊だったのであり、どんなに優れた経済学者や立派な評論家でも、バブル崩壊をここまで自分に重ねて感じ得たはずはない、と今では勝手に解釈している。
もちろん当時は、ただ個人的な不安が迫る中で、何とか気分を取り繕うのに精一杯だった。生きるとは、どんどん何かを剝ぎ取られていくことのようで、無性に心細くなっていった。
ひたすら作家になることだけを考えていた。大学を出ても、全く就職のことは頭になかった。だから、景気がどうなろうと、そんなことは痛くも痒くもないつもりだった。そのつもりのはずが、人生の得体の知れない不安に襲われるようになってしまった。
もう怖かった。一向に先の見えない生活をただ繰り返していた僕は、初めて、人生は永遠でないことを思い知らされた。時は帰らない。
実は、ZARDの歌は、世の中が低迷するとき僕を励ましてくれたわけではない。
ZARDの歌は、僕が、存在に付き纏う影を見ずにいられなくなってしまったとき、黙ってこの切なさへと降りてきてくれて共振する響きを持っていた。
ZARDに魅せられた人達は、例外なく、そういうふうにZARDの歌の響きを捉えた人達だったと思われる。
不況の中、あるいは塞いだ気持ちの中、ZARDの歌は何も助けてくれたわけではない。ヴォーカル坂井泉水のその虚飾を捨てた歌声は、ただ確実に僕達の一番素直な芯棒へと響き渡った。そして僕達の誰にも見せない悲しみまでをも、それどころか僕達が自分の目からも隠す悲しみまでをも、その歌声はじっとただ見届けてくれる。それが、歌の力なのであって、坂井泉水の歌声は、それを驚くべき素朴さで、やり遂げている。
本当のところを言うと、僕はZARDのあの有名な《負けないで》を、頭から拒絶し、ほとんど聴こうとせぬまま来た。
臍曲がりの僕はこう思っていた。この作品に飛び付く人は、ザビの「負けないで」という歌詞に、まるで信号を見せられたように反応して、励まされたつもりになるのだ、と。
メッセージソングなんて不純だと僕は思った。今だって、そう思っている。
ミュージシャンは、言葉と音楽という、形あるものを手掛かりにして、何とか微妙な存在そのものを暗示しようとする人のはず。そうやって僕達の中に、それに到達しようとする自発性を生じさせる。
なのに、安易に意味を喧伝してどうするんだ、とZARD最大のヒット曲に僕は反撥していた。
坂井泉水の本領はそんなところにはない。言葉を、経験の源泉と非常に近いところで使って歌っているのが、彼女の凄さである。お仕着せの意味も、気取った意味も、入る隙間がなくなる。これが突き詰められるとき、例えば《心を開いて》のような素朴な形を取る。素朴だが、こんな生々しい心を歌うことは、社会を逸脱している。社会はもっと取り繕った心で出来ているものである。
言い換えると、ZARDの歌は本質的に「不良っぽい」。文科省検定教科書には似合わない。これを聴いて、こんなに心を直に歌っていいのか、と途惑うのでなければ、何も聴いていなかったに等しい。ZARDが好きになった人というのは、素朴さの極でどきりと来るそこのところに惹かれた人達だったと思う。
それを思うと、《負けないで》は、大ヒットする要素があることはわかっても、どうしても、これがZARDの一番ではあるまい、と僕は反論したくなった。
坂井泉水は、そのメロディーを渡されて、繰り返し聴いて歌詞を考えるうちに、これは応援歌だと強く感じ、そうしたらすらすらと歌詞が書け、自然にサビのメロディーが「負けないで」と鳴るのを聞いたのだと言う。彼女と一緒に仕事をしたディレクター寺尾広がそう語っている。
プロデューサー長戸幸大によれば、その歌詞は、遠距離恋愛をする女性の気持ちを歌ったものだったと言う。
僕は今になって、よく聴き返してみた。
そして納得した。僕こそ、心を覆う意味に取り憑かれていたのだった。
どの部分からも、ZARDの楽曲からは、紛れもなく、切なさに直なところを歌う歌が聞こえて来る。「負けないで」と歌う応援の言葉だって、切なさのただなかを指差す虚飾のない言葉だったに違いない。
織田哲郎によるメロディーにも、坂井泉水による歌詞にも、更に、坂井泉水によるそれらを融合した歌声にも、切なさの影が、この応援歌のそこかしこに響いていた。思いのほか細かなコード進行で出来ている。織田哲郎らしい細かさで、と言っていいだろう。
坂井泉水の言葉も、それに合わせて絶えず微妙に表情を変えて行く。「負けないで」という歌詞は、そういう変容の中で単純すぎるくらいにストレートなコードに回帰したとき迸り出たストレートな響きだったのである。
今回、ZARDについて書こうと思ったのは、ZARDがデビューして30年の記念の年となる2021年へ向け、改めて色々振り返ってみたくなったからである。
毎年、5月27日になると、坂井泉水が亡くなってもう何年になるんだと、感慨なのか、まだ飲み込めぬ喪失感なのか、よくわからない感情を味わわずにいない。
ところが、このほんの数年、私事に激震が走り、正直なところ、ZARDの曲を思い出すこともほとんどなくなりかけていた。それが、今回、政府から緊急事態宣言が出る中、かえってこの数年間の私事の非常事態から、束の間の平常時に引き戻された気がした。
僕は実に気紛れな一愛聴者に過ぎない。この数年のぶんを取り返そうとしたわけではないが、片っ端から聴いた。そうしたら、自分の平凡で、鬱々としていて、それでもときめいていた90年代が蘇って来る始末で、何やら、心の収まりが着かなくなった。
これはもう書く以外に方法はない。
そんなわけで、今、往時受けた感動をまた新たにしている。
これは飽くまでも僕個人が受けた印象なのだが、リリースされた順番でシングルを聴いていくと、ZARDの楽曲がZARD色全開となったのは、1992年の《眠れない夜を抱いて》からではないだろうか。四枚目のシングルである。《負けないで》は、その翌年に発売の六枚目のシングルになる。
まるで、デビューして三枚の全力疾走を経て、《眠れない夜を抱いて》で遂に飛翔したかのようである。デビューしてわずか十か月の間に発売された、飛翔前の三枚のシングルと二枚のアルバムは、聴くほどに発見があり、なんと力強く豊かな疾走だったかを思い知らされる。
この力強さこそが、四枚目のシングルから始まる坂井泉水の等身大の、素朴なまでに心と直なところを指し示す歌を可能にした。それは、二枚目のシングル《不思議ね…》にしっかり予告されていたように聞こえる。
1993年、八枚目のシングル《揺れる想い》などともなれば、もう坂井泉水節だけで出来上がっている。
1995年1月の早朝、阪神淡路地方を大地震が襲った。
地震ほど無情な災厄はない。これに連動して、仏教の某教団による無差別大量殺人も行なわれた。
日本中の人々が、この年、漠然とだが、この世の無常を思っただろうし、すべてを失って自分に常なる何が残るのかを、顧みずにいなかったのではないだろうか。以降、この雰囲気は、更なる大災害によって醸成されながら、現在まで着々と歩を進めている。
ただし、常なるものを失ったぶん、得体の知れない不安に苛まれた僕達は、いよいよ短絡的になってしまったような気もするが。
この震災の翌年、1996年から、1998年にかけてのZARDの活躍は、聴き手に息をつく暇を与えないくらいだったから、いくつか拾って並べておく。
《マイ フレンド》《Don’t you see!》《君に逢いたくなったら…》《永遠》《My Baby Grand》《息もできない》《新しいドア》《GOOD DAY》等々。
ファンでなくとも耳に残っているだろう。坂井泉水に何が起こったのだろう。これらの作品群がみな、震災後のこの期間に出されている。
これほどの心との直接さの維持は、いかなる努力から生まれたのだろうか。本当に頭が下がる。
僕が新宿地下街を歩行中に耳にして身震いした《心を開いて》も、この時期に出た。
それにしてもこの《心を開いて》という歌、これが8ビートと言えるのだろうか。子供がぎこちなく歩いて行くかのようである。
歌詞にしてもそうで、気の利いたことは一つも言えていない。これはただ必死の告白なのか。それとも海と空の境目を金色に染める太陽へ放った誓いなのか、祈りなのか。
子供のような歩みと、子供のように素直な言葉が、かえって独特の迫力を帯びてこちらに届く。
試しに、楽器なしで、鼻歌でいいので、歌ってみて欲しい。坂井泉水の、甘い倍音の響く高い声を真似るのは、男性の場合難しいなら、作曲者の織田哲郎の、語句の頭とお尻で軽くシャウトするかっこいい歌い方をイメージして歌うといい。とにかく実際に歌ってみると、子守歌に近い素朴なメロディーの曲である。
しかし、切々とそのメロディーが積み重なっていくところに現われ出る高揚感は、ZARDの楽曲の中でも群を抜いて痛切なものなのである。
感動は、メロディーから来ているのか。それとも、歌詞の響きから来ているのか。歌というのは、メロディーと歌詞を区別することが出来ない奇跡の一致だと言うほかない。
坂井泉水が作詞に傾けた情熱には、容易には計り難い深さがあったと想像される。
彼女の仕事を内的に辿ってみるための道標となる遺品が、いくつか公開されるようになってきている。またZARDデビュー30周年に向けて、ZARDの音楽ディレクター寺尾広による番組が、何本もネットに配信されている。現場での坂井泉水の表情、振る舞いについて、思い出話がつい先日の出来事のように語られている。つい先年は、正に坂井泉水の作詞活動に焦点を絞った長篇ドキュメンタリーが、NHKから放送された。
《心を開いて》を聴いてびっくりした当時、僕は友人に、よくこう話した。坂井泉水は息づかい一つで楽曲を支配する。このことをZARDの作品の核と見て、僕は一冊ZARD論が書ける、と。
もし書けたとして、僕の文章で一冊読まされるほうもいい迷惑だろうが、それはともかく、坂井泉水の歌の核については、今も、僕の考えに変わりない。
楽曲を支配する声であるところに、彼女の歌声の特徴がある。支配する、という言葉が上手くないなら、もっとふさわしい言葉は、支える、だろうか。彼女は、歌いながら、意識のどこかで、自分に向かってリズム付けをするもう一人の演奏家ともなっている。
レコーディング姿が撮られた映像作品を見ていると、彼女は、目を瞑って、ヘッドフォンの上から両耳を両手のひらで包み、フィルターに語り掛けるようにして歌っている。CDを聴いて感じた通りなのである。彼女の歌声は、優しく楽曲を伴奏している。これは、彼女が熱唱するタイプの歌手であることと、少しも矛盾しない。自分の中で言葉と音楽を出会わせるのが、坂井泉水の歌唱法なのだろう。
伴奏する楽器のようでもあり、語り掛けてくる囁きのようでもあり、彼女の歌声には音楽と言葉が鬩ぎ合っている。彼女の歌声は、聴く者の耳を素通りしようとしない。音が、ある方向に、あるテンポで、流れて行きたがっているときに、言葉の意味的な抑揚が、音をきゅっと堰き止めたり、ぱっと弾けさせたりする。そこに、僕達の心を揺らす何物かが生じている。
要するに、音楽と言葉が、互いを支え合っている。どちらもなくてはならない、とその歌声は訴えてくる。とりわけ、楽曲のサビへと向かういわば助走をしている部分で、歌詞が、着実にビートを刻む動きになっている。
冒頭でサビを予告して始まる《揺れる想い》でも《君に逢いたくなったら…》でも《息もできない》でも、中間のフレーズが見事な助走を形作っている。
でも特に《心を開いて》。それは楽曲全篇が力強い助走であり、つまり全篇が既にサビでもある。
当然、作曲者の織田哲郎がそういうふうに作った。が、同時に、作詞者の坂井泉水の言葉によるビートが効いている。音楽と言葉が互いに支え合うことで、一切の無駄なく互を完成させている。編曲も、ZARDらしくギターとドラムをびんびん鳴らしながら、簡潔さ、清冽さを放っている。モチーフを叩いているピアノは、彼女の歌声を引き出し、これを乗せて進んでいくと見えて、やがて、彼女の声の余韻として鳴りながら、フェイドアウトしていく。
ZARDを生み育てた音楽プロデューサー長戸幸大は、メインヴォーカルに坂井泉水を据えるに当たって、彼女に、自分の言葉で歌うことを、つまり自分で詞を書くことを、約束させたと言う。彼女が、学生の頃から詞を作っていて、びっしり書きためたノートを持ち歩いていた、という話は、ファンの間でもよく知られている。プロデューサーも、その事実を知って何かを感じ、彼女に作詞の担当を約束させたのか。
先年放送されたドキュメンタリーでは、彼女が単語や一文や長い文章を記した大量の紙片が映し出された。これを素材にして、歌詞が作られたのである。紙片の山はテーブルいっぱいに拡げられ、その中からZARDの音楽ディレクター寺尾広が一枚一枚手に取っては、感慨深げにコメントしていた。ノートと紙片がもう鞄に入り切らず、それらを彼女は、キャリーバッグに詰め込んで持ち歩いていたと言う。
紙片の種類はまちまちだった。いつでもどこででも出くわしたり思い付いた言葉があれば、手近なところにある紙切れに夢中でペンを走らせたのだろう。紙切れさえ見付ければ、スタジオにいても病院にいてもどこにいても、気持ちを綴ることに没頭したのだろうことが、窺われる。
自分の言葉で歌うこと。
彼女は、長戸プロデューサーからの提言を、歌手となるとはそういうことだと、実に素直に飲み込み、実践した。16年間、最後までその約束を守り続けた。歌手という存在にとって言葉がどんなものかを、彼女は最初からよく知っていたのだと思われる。
ここはもう、僕の乏しいながらも作家としてのこれまでの経験すべてを賭けて、想像するしかない。
言葉というのは、何の支障もなく機能しているのでは、消費されて、役目を終えてしまう。ところが、例えば、恋する者の張り裂けんばかりの想いは、言葉に無理をさせずにいない。言葉が、湯気を吹き上げた自動車のように機能不全に陥って、立ち往生してしまう。古来、こういう言葉だけが、歌となって残って来た、と言ったら言い過ぎだろうか。
僕はただ、こんなふうに考えるのである。言葉を書き止めるということは、言葉を、役に立って消費されていく運命から、切り離す行為ではないか、と。
もちろん、そこから切り離しただけでは言葉は歌詞にはならない。日常生活の便利な道具であることをやめさせられ、必要以上の何物かを負わされて軋むそうした言葉を、それと同時にメロディーに乗せなければならない。言葉の通常の働きがメロディーによって撓み、到るところで言葉は弾けることになるだろう。言葉のあらゆる便利な働きが破綻させられたあとに残るのは、意味するよりもむしろ存在することの手ごたえ、非常に微妙な観念の形自体の響きである。
坂井泉水は、親友の歌手大黒摩季と、作詞について話をしていたとき、こんなことを口にしたと言う。メロディーを何百回も聴いているとね、摩季ちゃん、メロディーが言葉をくれるよ、と。
何百回も聴く、と言っているのである。これは到底、メロディーの上がり下がりに一致する発音の言葉を見付ける、というふうな話ではない。
渡されたメロディーは素材である。ドレミの代わりに言葉で歌われるのを、メロディーはただじっと素材のまま待っていたわけではない。言葉が撓められて歌詞が完成するのと同じように、メロディーは、通常いうところのメロディーではなくなるまで、繰り返し聴かれなければならなかった。メロディーは作詞家によって初めて完成される、と言わなければならない。もっと言うと、作詞家坂井泉水の完成が、歌手坂井泉水の完成だった。
坂井泉水没後十年の2017年、プロデューサー長戸幸大がインタヴューに答えている記事がある。読むと、2000年から一年半、坂井泉水は休養期に入っていたのだと言う。理由はいくつかあるのだけれど、一つは、日本のポップス界の流行りが、90年代後半に、8ビートから16ビートへ移ってしまったことにあったと言う。彼女は、16ビートに乗って歌うことが苦手で、ポップス界を席捲し始めた新しいこの流行には、とても悩んだらしい。
インタヴューでのプロデューサーの話し方は抑え気味だが、彼女の悩み方は尋常ではなかったと想像される。実は、8とか16とかという数字の移り変わりが問題なのではない。彼女には、作品作りの根幹が大きく変わってしまう事態だったのである。
言葉とメロディーを、軋ませ合って、弾けさせ合って、言葉が言葉を超え、メロディーがメロディーを超えたとき、初めて言葉が言葉として、メロディーがメロディーとして完成する。そうして二つは一致し、歌となる。こういう坂井泉水の歌作りは、16ビートに象徴される歌作りとは、完全に相容れなかったのだと思う。
8ビートには乗れたが16ビートには乗れなかった、という話ではないのである。ZARDが大活躍していた日本ポップス界に、それとは別のジャンルの音楽を持ち込んで流行らせようとする、次なるミュージシャンによる当然の戦略が、あまりに自分の信じる歌作りと異なっていて、すっかり彼女は打ちひしがれてしまったに違いない。
この16ビートが象徴している音楽とは何か。
それは、作詞を基盤としないダンスミュージックだろう。無機質な音楽の繰り返しが、無機質なままで終わらず、異常な高揚感を生むのが、ダンスミュージックだと言っていい。
言葉を歌作りの基盤とするか、ダンスを基盤とするか。
彼女には、歌手を続けるか辞めるかの、死活の大問題を背負わされた思いだったろう。
このとき彼女が悩んでいたことなど、一愛聴者の僕に知る由もなかったし、一年半の休養の話も、最近知った。知っていたことは、1999年に船上ライヴが行なわれたことと、2004年に、ZARD初の全国ツアーが行なわれたこと。当時どちらも大きなニュースとなっていた。
ZARDは、質の高いレコーディングを活動の主体としていて、テレビにも人前にも出ない音楽ユニットである。そこが、僕はとっても好きだった。歌作りに徹する妥協のなさが魅力的だった。だから、ニュースで、ライヴを行なうと聞いたとき、ショックだった。ZARDよ、お前もか、と思ったりもした。
今は本当に申し訳ないと思っている。ZARDのプロデューサーや関係者は、きっと坂井泉水の目の前に、彼女が妥協なく作る歌を楽しみにしている人達に集まってもらって、彼女の悩みが和らぐことを願った。ただそれだけだったのだろう。
一年半の休養期を経て、坂井泉水の歌はやはり坂井泉水の歌だった。デビュー時からの、彼女のいわば歌唱の文体とでも言うべきものは、全く揺らぐことはなかった。
でも、今になって聴き返してみると、この長い休養後の歌からは、90年代のものと比べ、軽快さがなくなったように感じられる。もちろん聴かせる歌である。試行錯誤の時代に入ったと見るべきなのか。いや、もっと断固としたものが、復帰後の歌にはある。《さわやかな君の気持ち》《明日を夢見て》《もっと近くで君の横顔見ていたい》《悲しいほど貴方が好き》《ハートに火をつけて》などである。彼女にしか届かないところに届こうとしている歌ばかりである。
彼女にしか届かないところ。そこはどこだろう。
もともと坂井泉水の歌には、影が付き従っていて、それがなんとも言えない味わいとなっていた。ある意味で、それは自然にそうなっていた。けれども、休養を経て、どうやら彼女は、影を意識するようになった。
休養という孤独な苦悩の期間がどのようなものだったのかは、わからない。影はそれまで彼女の後ろにいた、と言っていいだろう。それを、眼前に置かなければならなくなったのである。
歌手だった彼女にとって、物を見るとは、詞を作って、物が纏う既成の言葉を超えて物へと深まっていくことだっただろう。これまでは自然に出来ていた。1998年の《息もできない》では、実に伸び伸びとやってのけた。ところが、ある時から、曲の影であったものをそのまま曲として歌わなければならなくなった。更に深く物の影の部分を見詰める方法を手に入れるために。
2004年の《かけがえのないもの》は、敢えて、と言いたいほどに極度に直接的な歌詞が印象深い。2006年の《ハートに火をつけて》は、一見、ダンスをしたくなる軽快な曲調の中で、正に何かに届こうとしていないか。
影が見詰めてきたら、こちらからじっと見詰め返してやる。彼女の中には、そういうお茶目なところと生真面目な頑固さが同居している。
2006年4月9日に、《ハートに火をつけて》のプロモーションヴィデオ撮影を一日かけて行なった直後、体調が急変して彼女は救急搬送された。その後、手術し、回復に向かうかと見えたが、一年後、癌の転移が見付かった。
彼女から電話を受けたアートディレクター鈴木謙一は、恐くて震える彼女の声を聞いている。
その三週間後のことだった。入院先の病院で、人目を避けて、早朝、一人のんびりとお気に入りだったスロープの手摺りに腰掛けようとして、後ろ向きに落下した。発見されて集中治療室に入ったが意識は戻らず、翌日、息を引き取った。復帰して五年後、2007年5月27日のことだった。まだ40歳の若さだった。
亡くなる二日前、プロデューサー長戸幸大と電話で話した際、今も詞を書いています、と話していたと言う。その十年後、長戸はインタヴューを受け、坂井さんが存命だったら、どんなシンガーソングライターになっていただろうかという記者からの質問に、「言葉をいっぱい書いていると思います」と答えている。
きっとそうだろう。僕達が何気なく使って放り出したままにしてしまう言葉達を救い出して、彼女は、やっぱり様々な紙切れにいっぱい書いていたことだろう。その紙切れをお守りのように大切にして持ち歩いていただろう。詞を書く約束をしてデビューしたときと何も変わりなく。
物事の一番つらい部分を語るには、日常で役に立つ言葉では駄目で、言葉は歌とならなければならない。これは、作詞家であり歌手である坂井泉水にとって、自明の理であったと思われる。
坂井泉水の詞は、その歌唱は、たった一つの思いから出来ていたと、僕は見る。想いは深ければ深いほど、切ないものとなる。一体なぜだろう。彼女の仕事のすべては、この問いから生まれた。そしてこの問いは、本当は、僕達存在するものの永遠のテーマである。