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戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

夢のモダンライフとその痕跡——表参道ヒルズ同潤館

出典表記のない写真は筆者による

1.はじめに

 惜しまれながらも失われた、かつての夢の話をしたい。いや、もしかするとその夢は、今も形を変えて我々を魅了し続けているともいえるだろう。今回は原宿・表参道にあったひとつのアパートが舞台だ。

 今回、現存しない建物を取り上げるのは、それが建築の保存や継承の問題を端的に反映しているからだ。モダン・ムーブメントに関わる国際学術組織DOCOMOMOの目的のひとつに、「モダン・ムーブメントの建築、環境群の保存とリユース(再利用)を推し進めること」がある。現実には、学術的・社会的・文化的価値のために保存や再利用が望まれながらも、様々な理由によって解体される建物も多い。その足跡をたどるため、まずはその跡地を散策することからはじめたい。

 現在の表参道には、世界の有名建築家たちが手がけた高級ファッションブランド店が立ち並ぶ。さながらファッションと現代建築のショーケースのような街並みだ。

現在の表参道ヒルズ 建物上部の二層は、住居になっている

 JR山手線原宿駅表参道口に降り立ったとしよう。明治神宮を背後に、表参道へと入ると最初の大きな交差点で明治通りと交差する。ラフォーレ原宿の向かいには、東急プラザ表参道原宿(設計:中村拓志)。さらにこの交差点から150メートルほど登ったところにある歩道橋から、高級ファッションブランドのランウェイがはじまる。ここから青山通りの交差点までおよそ500メートルの緩やかな登り坂に、GYRE(設計:MVRDV)、ディオール表参道(設計:SANAA[妹島和世+西沢立衛])、エルメス表参道(設計:RDAI)、ルイ・ヴィトン表参道(設計:青木淳)、ケリング本社(旧TOD’S表参道ビル 設計:伊東豊雄)、HUGO BOSSが入る表参道けやきビル(設計:團紀彦)、COACH表参道(設計:OMA/重松象平)、明治安田生命青山パラシオ(設計:リカルド・ボフィル)など、国内外の有名建築家によるデザインが並んでいる。しかも、これらはみな、大通りの南側(明治神宮に向かって左側)に建っている。ファッション業界ではその理由を、大通りの南側には地下鉄表参道駅の出口から出やすいからだと説明する[1]

 では、これらの建物の反対側、つまり北側には何が建っているのか。それが今回取り上げる建物、いや厳密にいえば、今ある建物の場所に以前あった建物だ。

表参道周辺の地図表参道周辺の地図 (クリックで拡大)
©OpenStreetMap Contributes CC BY-SA

 現在は商業施設が建ち並ぶこの通りに今世紀のはじめ頃まであったのは、意外にも戦前に建てられた鉄筋コンクリートの集合住宅だ。同潤会青山アパート(1927年竣工)である。建物の老朽化などの問題から、2003年に解体。跡地には、表参道ヒルズ(2006年竣工、設計:安藤忠雄)が建った。東端のレトロな外観が特徴的な表参道ヒルズ同潤館は、かつてここにあった同潤会青山アパートを再現したものだ。 

昭和初期の同潤会青山アパート。
出典:「朝日クロニクル 20世紀 第2巻」朝日新聞社(Wikimedia Commons/ Public Domain)


現在の表参道ヒルズ同潤館

 

2.アパートメントのイメージ

   多くの人が当時の同潤会アパートに抱いていた感覚は「アパートメント」という言葉によく表れている。アパートというと木造の集合住宅を思い浮かべるかもしれないが、当時「アパートメント」といえば、アメリカで発達したガス・電気・電話・給湯・暖房など文明的な設備を備えた近代的な集合住宅を指す言葉だった[2]

 よく知られる例としては、関東大震災前から計画されていた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって建てられた御茶ノ水文化アパートメント(1925年竣工)がある。これは、北海道帝国大学教授で経済学者の森本厚吉によって計画された、アメリカ式のアパートメントだった。もちろん建物は鉄筋コンクリート造。バスタブ、水洗トイレはもちろん、給湯設備、ガスレンジ、冷蔵庫、暖炉などが備えられ、ベッド、テーブル、椅子、食器戸棚など家具まで置かれていた。備えている設備は、今とほとんど変わらない。ある意味では身一つで生活を始めることもできるホテルのような建物だったともいえよう。土足でも生活できる西洋式の部屋だったためか、入居希望者は、洋行帰りの日本人や外国人が多かったという[3]

 ヴォーリズは1923年に次のように書いている。

これから地面はだんだん高くなり、高くて手に入れることができなくなって別々の家に住むとなれば勢い遠い郊外にでなければならず、それがためには毎朝毎晩電車なり汽車なりで、3、40分ならまだよい方、1時間もそれ以上も通わなければならぬので、交通費および時間の上に多大の負担と損害を被ることになりますから、どうしても将来はアパートメントハウスの必要が具体的の問題となるに違いありません。[4]

今読んでも、違和感のない指摘である。都心の土地は高くて手に入らない。そこで戸建ての住宅を勤務地から離れた場所に建てるから通勤ラッシュが待っている。しかし、都心の集合住宅ならば設備を共有でき、ひとつの土地に複数の家族が入るのでコストが抑えられる。通勤時間の問題も解消される、というわけだ。

 同潤会アパートも、横浜、三田、青山、代官山、虎ノ門、大塚、日暮里といった都心に建てられていた。同潤会アパートは、規模や戸数はそれぞれのアパートで異なり、配置も多様だったが、道路からの景観を意識して街路に沿って建物が配置された点では共通している。これと対照的なのが、都市中間層向けの集合住宅として各地に作られた戦後の団地(公団住宅)である。団地では通風と日照が平等になるよう、南に面して住棟が配置されている[5]。同潤会アパート内部をみてみると、風呂はなく、洗濯も共用だったが、水洗トイレと台所は各戸にあった。また室内も和洋の生活を選択できた。もちろん私たちのイメージする日常生活の便利さや豊かさとはやや距離があるが、電気が普及し始めた1920年代に、すでに台所には水道・電気・ガスを備えており、当時の都心部の住まいとしては画期的だった。入居者の多くは、いわゆるサラリーマンと呼ばれる都市の新中間層だった。大塚女子アパートには職業婦人が多く住み、江戸川アパートは竣工当時から「東洋一」と名高かった。同潤会の集合住宅はいわば憧れのモダンライフを示す建物だった[6]

 


各地に建てられた同潤会住宅の分布図(クリックで拡大)
出典:同潤会編『昭和11年度 事業報告』(国立国会図書館デジタルコレクション)

青山および渋谷アパート内部の様子
出典:同潤会編『大正15年度 昭和元年度 事業報告』(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

3.同潤会とは 

 同潤会はなぜこういうアパートを建設したのだろうか。建主である同潤会について、基本的なことを確認しておこう。同潤会は、1924(大正13)年5月に創設された民間の財団法人で、関東大震災の義捐金の一部を用いて設立された。民間とはいえ、事務局は内務省社会局にあり、内務大臣が会長を、内務省社会局長が理事長を兼務するなど、実質的には国の監督下にあった。活動期間はそれほど長くなく、1924年から1941年までの18年間に過ぎない[7]

 同潤会の事業の主な柱は2つ。社会的弱者である都市下層民の住環境改良と、都市中間層(サラリーマン)のための良質な住宅供給だ。前者は、バラックをいったん取り壊し、その跡地に鉄筋コンクリートの集合住宅を建設するという手法を用いて実行された[8]。後者の目的で、東京13ヶ所、横浜2ヶ所に建設された鉄筋コンクリートの集合住宅が「アパートメント・ハウス」と呼ばれ、一般に「同潤会アパート」として知られる。関東大震災では 、耐震耐火性能の高い鉄筋コンクリート造の建設を進める大きな契機となった。同潤会のアパートメント事業は都市の不燃化を推進する一翼だった[9]

 現在から見て、同潤会アパートが高く評価された点のひとつに、集合住宅としてコミュニティを形成するのに有効活用できる「場」が提供されていたことがある。住戸だけではなく、集会場、食堂、理髪店、浴場のほか、店舗付きの住棟、児童公園の設置など、大勢の人々が生活するのに必要な共用施設が備えられていた。

 

 4.同潤会青山アパート

 1927年竣工の同潤会青山アパートは、3階建ての鉄筋コンクリート造。全6棟あった。同潤会の活動のなかでも初期につくられたアパートだ。ツタの絡む外観が、けやき並木とうまくマッチして「表参道の同潤会アパート」といえば判る人も多いほど、同潤会アパートを代表する存在だった。竣工時から人気は高く、同潤会報によれば、申込受付時には137戸に対して1066名の申し込みがあったという[10]

 青山アパートがここまで有名になったのは、やはり表参道という立地にあるだろう。表参道は、1920年に明治天皇を祭る明治神宮への参道として整備された。天皇の行幸もある神聖な参道で、1926年には日本最初の緑地・景観保全のための風致地区に指定されている。

 建設中の有名な逸話がある。ある軍人が神聖な表参道に貧民窟を造るとはけしからん、と怒り、近隣住民を巻き込んだ反対運動をおこなった、というのだ。洗濯物などが外に干されては風致景観が損なわれるし、天皇行幸の際には陛下を見下ろすという不敬行為がなされるおそれがある、とのこと。同潤会の設計者たちは、アパートを参道から後退させ、屋上の手すりを高くした。これで、屋上からは下の道路が見えず、下からは屋上の洗濯物も見えなくなったという[11]

 他の同潤会アパートが上に挙げた種々の共用施設を有していたのに対し、青山アパートの共用施設は、児童公園のみであった。しかし、1964年の東京オリンピック以降、表参道周辺では商業施設が増え、青山アパートも住居用途から店舗・事務所への転用が進む。ギャラリーやブティックなどが入居し街路の一角をなしたことで、青山アパートは表参道という街を象徴する存在になっていったのである。

2000年頃の表参道と同潤会青山アパート
© User:Rs1421 / Wikimedia Commons / CC-BY-SA-3.0

 

 5.モダンライフへの憧れ

 1920年代に各地で建てられた同潤会アパートは、築後70年を過ぎたころから徐々に建て替えが進み、2013年に最後に残った上野下アパートが取り壊された[12]。「戦後を譲りわたす」と題した連載で、なぜ戦前の、今や存在しない建物を取り上げるのか。

 それは同潤会青山アパートが、戦後に実現していく「憧れの生活」を戦前に提供していたからだ。この「憧れの生活」とは、御茶ノ水文化アパートメントで過ごすような、庶民には叶うべくもない夢の近代的洋風生活ではなく、日本人のそれまでの生活を洋風化・近代化した、庶民にも手が届きそうな便利で豊かな生活だった。

 私たちの住まいはとても便利になった。たとえワンルームでも、電気・ガス・水道は基本的に整備されている。部屋には水洗トイレとお風呂があり、洗濯機が置ける。キッチンにはコンロがあって簡単に火が使える。蛇口をひねれば水が出るし、ガス給湯器があるからお湯もでる。この生活は、第二次世界大戦の敗戦から半世紀以上かけて実現してきたものだ。それに比べて同潤会青山アパートの生活は、風呂がなく洗濯機が置けなかった。戦後に建てられていった団地に比べると、同潤会アパートは狭く、台所設備も不十分で、生活する上で若干の不便を感じたかもしれない。1970年代に入って建て替えが検討され始めたことは、ある意味では自然なことだった。もっとも青山アパートの場合は、1970年代に住居からギャラリーやブティックへの転用が進んだため、住まいと建て替えとの関係はもう少し複雑なものであったが。

 同潤会アパートに先立って、似たように憧れの生活を体現した住居として話題となった「文化住宅」がある。大正時代の住宅として「文化住宅」を思い浮かべる人もいるだろう。ちょうど100年前、1922年に上野公園を会場として開かれた平和記念東京博覧会に展示された住宅が、その名前の由来と考えられている。会場の一角に文化村と名付けられた住宅展示場があり、そこに展示された14棟の住宅が、やがて「文化住宅」と呼ばれる住宅と住まいのイメージを形成したようだ[13]。文化包丁、文化鍋、文化風呂など、「文化」は大正時代の新しいものを示すキーワードだった。「文化住宅」も、それまでとは違う新しい住宅のイメージを示した。内田青蔵によると「文化住宅」のイメージは次のようにまとめられる。

洋風の小規模な住まいで、その立地は郊外。そこでの生活は、科学的で合理性を追求したもので、起居様式は立居振舞が機敏にできる椅子座とし、書設備は充実し電化されたもの。間取りは、家族生活の場としての居間が中心で、お客を対象とした応接間や客間はなく、子供部屋は独立して存在。[14]

このイメージは、現在の我々の住まいとかなり近い。むしろ今日の住まいの原型が「文化住宅」であり、現在の住まいは100年前の理想だったともいえる。我々の住まいは、100年かけてこの理想に近づいてきたのだ。

 戦後になると団地が、リビング・ダイニングキッチン、ステレンス製流し台、洋風便器などを導入する。nLDKと呼ばれる、今なお一般的な間取りの住まいを提供したのも団地だ。集合住宅における住まいのイメージやスタイルについて考えるとき、同潤会アパートと戦後の団地は地続きの風景をもっている。

 より良い生活を提供していくことがモダン・ムーブメントの目的の一つだった。その意味で、間違いなく同潤会青山アパートは、文化住宅と並んで 戦後も引き継がれる住まいのモダン・ムーブメントの嚆矢だったのである。

モダン・ムーブメントにおける同潤会青山アパートの位置づけ

 6.おわりに

 同潤会青山アパートそのものは無くなったが、同潤会アパートがもたらした生活への憧れや夢は、かたちを変えて表参道に残っているように思う。ハリー・ハルトゥーニアンは、戦間期(1919-1930年代)の日本の思想について述べた本のなかで、文化生活と呼ばれたライフスタイルは「新しい商品によって導入される物質的生活のたえまのない変化」をもたらし、「いまだ生きられたことがないような現実をファンタジー化」したと述べている[15]。モダン・ムーブメントが求めたより良い生活は、このような消費や欲望と密接な関係があった。雑誌、新聞、映画、写真、デパートといったメディアが常に新しい商品を紹介し、ひとびとの消費意欲を刺激し、現実を目まぐるしく変えていった。同潤会青山アパートの生活も、そのような都市のモダンライフの一部を形成するものだった。

 同潤会青山アパートのあとにできた表参道ヒルズもまた、そのようなひとびとの消費意欲を刺激する場所だ。表参道ヒルズを設計した安藤忠雄は、ケヤキ並木と高さを揃えるために、建物の過半を地下に埋設して建物の高さを低く抑え、表参道の緩やかな坂道をそのまま建物内部のスロープに取り入れた。安藤は、これによって同潤会青山アパートという「都市の記憶」の継承を試みた、と述べている[16]。確かに表参道ヒルズは、ケヤキ並木と揃えたスカイラインによって、存在感を抑えられている。存在を環境や風景に溶け込ませる、まさに現代建築だ。

  各務太郎は、表参道の緩やかな坂道こそが表参道を表参道たらしめている、という。明治通りから表参道を登る時、人は顔を上に上げて歩く。必然的に歩く人の全身が目に入る。服や頭が気になる。青山通りから表参道を下る時、自然と先を行く人の足元に目がいく。靴が気になる。

自分が身に着けているものを、みんなに見てもらいたい。そして、他人が身に着けているものを見てみたい。そんな人間の根源的な欲求に、表参道の地形が応えている。安藤忠雄は、その傾斜を、そのまま建築の内部に引き込んだ。[17]

内部は、緩やかなスロープが各階をつなげている。表参道のストリートがもつファッションと消費のディスプレイがそのまま建物の特徴になっているかのようだ。

 かつて、こうした物質的豊かさや消費文化への憧れは、デパートが担っていた。ルイーズ・ヤングは、戦前に都市中間層の文化とみなされた商品の多くは、戦後にデパートを通して大衆へ売り出されたと指摘するが、それとモダン・ムーブメントの関係については稿を改めよう[18]。同潤会青山アパートがかつて持っていた都市文化における役割の一部は、表参道という場を通して、いまでも表参道ヒルズへと受け継がれているように思えるのだ。表参道ヒルズが開館して10年以上が過ぎ、表参道ヒルズ同潤館のツタもだいぶ伸びてきた。60年後には、どのような風景が広がっているのだろうか。  

表参道ヒルズ同潤館の北面

参考文献

W・M・ヴォーリズ『ヴォーリズ著作集1 吾家の設計』(創元社、2017年)

内田青蔵『同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン』(王国社、2004年)

内田青蔵『消えたモダン東京』(河出書房新社、2002年)

西山卯三『すまい考今学』(彰国社、1989年)

藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)

橋本文隆+内田青蔵+大月敏雄『新装版 消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2011年)

 

 註

[1] レジス・アルノー「高級ブランドも参戦!「表参道」不動産争奪の内幕」(東洋経済ONLINE)2022年2月12日アクセス

[2] 西山卯三『すまい考今学』(彰国社、1989年)、215頁

[3] 内田青蔵『同潤会に学べ』(王国社、2004年)、75頁。

[4] W・M・ヴォーリズ『ヴォーリズ著作集1 吾家の設計』(創元社、2017年)、147頁。

[5] 橋本文隆ほか『新装版 消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2011年)、24頁。

[6] 大塚女子アパートについては藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)を、江戸川アパートについては、橋本文隆ほか『新装版 消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2011年)をご覧いただきたい。

[7] 1941年に同潤会の事業は、全国的展開をおこなう住宅営団へ引き継がれ解散し、住宅営団もGHQ/SCAPにより1945年に解散した。

[8] 一部の地域では、震災前から飲酒・賭博がはびこるなど生活環境の劣悪さが問題となっていた。震災後も、焼け跡に元の住民が戻って地主・家主に無断でバラックを建てていた(西山、前掲書、229-230頁)。

[9] 同潤会といえばアパートのイメージが強いが、東京・神奈川の20ヶ所で木造分譲住宅も供給していた。ほとんどは取り壊されたが、江古田に分譲住宅が一棟だけ残っており、登録有形文化財になっている。

[10] 栢木まどか「戦前期の日本における集合住宅の歴史」『理大科学フォーラム』(34巻5号)、2017年、27頁。http://doi.org/10.20604/00001315

[11] 大月敏雄『集合住宅の時間』(王国社、2006年)、194-195頁。

[12] 住宅内部の一部はUR都市機構の住宅歴史館(八王子)で復元されているが、2023年春に赤羽台へ移転予定である。

[13] 内田青蔵『消えたモダン東京』(河出書房新社、2002年)、55頁。

[14] 同上、57頁。

[15] ハリー・ハルトゥーニアン『近代による超克(上)』(岩波書店、2007年)、57頁。

[16] 安藤忠雄『安藤忠雄建築展2003』(デルファイ研究所、2003年)、34頁

[17] 各務太郎「表参道ヒルズ(安藤忠雄)/ 現代建築の覚悟

[18] ルイーズ・ヤング「『近代』を売り出す」バーバラ・佐藤編『日常生活の誕生』(柏書房、2007年)、221頁。

 

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著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

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