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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

土匪と観音、ときどきパレスチナ

 

 その仏像は満身を漆黒に塗り固められていた。陽が落ちれば、すぐに夜陰に溶け込めるように、ご丁寧にも八哥鳥(ハッカチョウ) の羽根のような黒で総身を擬装(カモフラージュ) されていた。

 黒銅聖観音像。

 明治35(1902)年、台湾製糖株式会社の社長で、「日本製糖業の父」とも呼ばれた鈴木藤三郎によって、高雄市橋頭区に建立されたこの漆黒の観音像は、かつて台湾初の近代製糖工場として植民地経済を支えた橋仔頭製糖所跡地を見つめていた。台湾糖業公司に接収されることになった同所は、戦後橋頭糖廠と改名されて、民国88(1999)年まで一世紀の長きに渡って製造を続けたが、当時の面影を残したその広大な敷地は、現在台湾糖業博物館として広く一般に公開されている。

 領台当初、観音信仰は日台両国の人々が共有できる数少ない共通文化であった。

 黒弥陀とも呼ばれた黒銅聖観音像は、「土匪」の襲撃を恐れる日本人職員を慰めると同時に、台湾人職員の職場への帰属意識を高めるために、遠く奈良県薬師寺東院堂にある聖観音像を模倣して建立されたものであった。ところが、高価な銅で作られた観音像を「土匪」に奪われることを恐れた製糖所は、その身を件のごとく真っ黒に塗りつぶしてしまったのだった。

 美しき黒弥陀は、生まれた瞬間からその身に大いなる矛盾を孕んでいたわけだ。

 ぼくは120年前にこの場所で念仏を唱えていた人々の様子を想像してみたが、どうにも上手くいかなかった。黒弥陀は胸の前で左の掌を広げて、右の掌をだらりと垂らすいわゆる「与願(よがん)施無畏印(せむいいん) 」の印相を結んでいたが、それは衆生の恐れを取り除き、その願いを受け止める印相とされている。しかし、この仏像を拝んだ人々がいったいどの言葉で祈りの言葉を唱えたかによって、彼らが何を恐れて何を願っていたのか、その意味するところは大きく変わってしまうはずだった。

 黒弥陀の背後には当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートで作られたコロニアル様式の社宅事務所が残っているが、その屋上には「土匪」の襲撃に備えて作られた無数の銃眼が設置されている。昭和14(1939)年に編集された『台湾製糖株式会社史』によれば、製糖所建設当初、「工場の周囲には土壁を繞らし、事務所の屋上には万一の場合に備へて大砲を据付け得る設備を施し」た上で、在郷軍人から訓練を受けた社員らは自警団を組織して土匪の襲来に備えていたとされる。橋仔頭製糖所から東に10キロほど離れた場所には「土匪」の巣窟と呼ばれた観音山があって、製糖所は山間部から台湾海峡に抜ける海岸に出るちょうど間に位置していたために、度々その襲撃を受けることになったのだった。

 休日のハイキングコースが「土匪」の巣窟であったことを知ってから、ぼくは折につけて彼らの暮らしを想像するようになった。その山影が観音菩薩が端座する様子に似ていたことから、かつては「鳳山八景」のひとつに数えられた観音山であったが、一世紀以上かけて何度も山肌が削り取られた結果、いまではステゴサウルスの骨板(プレート) のような山影だけが残されていた。

 ぼくは銃の照準器を覗き込むように、カメラのファインダーを覗き込んだ。

 黒弥陀の漆黒の肌には木漏れ日が作り出す水玉模様の陰影が浮かび上がっている。廃墟然とした製糖所跡には馥郁としたプルメリアが馨り立ち、燃え上がるようなホウオウボクの木々は愉快げに肩を揺らしていた。銃眼が彫り込まれた旧社宅事務所の前を、数人の子どもたちが駆け抜けていく。園内に残る防空壕跡地からは、かくれんぼに興じる子供たちの甲走った声が響いていた。迷路のような工場跡は彼らにとって格好の遊び場であった。

 気が付けば、薄い衣の襞から足を覗かせた美しい黒弥陀の足下に、観音山から下りてきた「土匪」たちが潜んでいた。社宅事務所の屋上を見上げれば、腹ばいになった日本人自警団員たちが緊張した面持ちで、型落ちした歩兵銃を握りしめている。

 両者は真っ黒な観音像を挟んで、同じ祈りを違う言葉で繰り返し唱えていた。

――南無観音菩薩(なむかんぜのんぼさつ)

――南無観音菩薩(ナモグァンセインポッサ

 音を() ると言われる観音菩薩は、果たして衆生の相矛盾するこうした願いに、どのように耳を傾けていたのであろうか。

台湾製糖博物館にある黒銅聖観音像と社宅事務所跡。社宅事務所跡の屋上には無数の銃眼が残る

 

 そもそも、橋仔頭製糖所を襲ったとされる「土匪」とは何者なのか。

 それは領台当初、日本の支配に抵抗する台湾各地の民間武装組織に冠された呼称で、正確には抗日ゲリラと呼べるものだった。明治28(1895)年11月、台湾民主国を武力鎮圧した初代台湾総督・樺山資紀は、東京の大本営に向けて「今ヤ全島全ク平定ニ帰ス」との報告を行ったが、皮肉にも「土匪」や「匪徒」と呼ばれる民間武装組織は、この平定宣言以降その動きを活発化していった。

 昭和13(1938)年に発行された『台湾総督府警察沿革誌』によると、「土匪」は以下の三種類に分類されている。

 ⑴台湾民主国に参加した旧清国兵の残党

 ⑵博徒的性格を持った盗賊団

 ⑶日本軍の討伐によって家族を殺されて前者に合流した者

 台湾総督府は彼らを「性来奸黠(かんけつ) 、剛胆、矯捷(きょうしょう) 、怠隋の徒」で、匪首によって組織された武装集団を使って「村庄を劫」すが、「軍隊警察憲兵の討伐捜索に遭へば」すぐに「深山幽谷に竄入(ざんにゅう) して暫く消息を絶」ってしまうので、その根絶は容易ではないと考えていた。さらに、自身の縄張りにおいて住民から「保庄税」や「十二税」と呼ばれるみかじめ料を取るなど、独自の徴税権まで有していた。もちろん、「土匪」の側からすれば、ある日突然外国からやって来て彼らを武力で支配しようとする台湾総督府こそが問題の根本だった。清朝時代から常に自力救済を求められてきた「土匪」たちにとって、台湾総督府の命ずる帰順と武装解除とは、畢竟、自身の生命と自己決定権を放棄するに等しいものであったはずだ。

 領台初期、台湾総督に就任した樺山資紀、桂太郎、乃木希典らは、この「土匪」鎮圧に追われて十分な実績を残せないままに内地へと戻っていった。「土匪」対策が本格的に行われるようになったのは、第四代総督・児玉源太郎の時代(1898年2月‐1906年4月)で、自身は台湾を留守にする時期が長かった児玉は、日清戦争後における検疫体制の確立で名を馳せた医師・後藤新平を台湾総督府民生局長(後に民生長官に改正)に据えることで本格的な「土匪」対策を講じた。

 植民地支配を「生物学の原則」に沿って進めるべきだと考えていた後藤は、まず乃木希典の総督就任期に設定されていた「三段警備」体制を廃止して、警察主体の「土匪」鎮圧を行った。それまで抗日ゲリラの討伐は軍隊・憲兵が主体であって、警察はあくまでその補助的な位置づけだったが、後藤は警察組織を準軍隊化することによって、警察権力の強化と命令系統の一元化を目指した。その上で、積極的に「土匪」への投降を催し、さらに保甲条例に基づいて「良民」と「土匪」との分断も図っていった。明治31(1898)年8月に出されたこの制度は、清朝時代における住民の自治組織を警察の下部組織として取り込むことで、住民の連座制や相互監視、密告などを推奨して「土匪」を孤立させようとしたもので、日本で言えば江戸時代における五人組にも似ていた。

 それでも抵抗する者については、同年11月に発布した匪徒刑罰令に基づいて、徹底的な討伐が試みられた。同法令において「何等の目的を問わず、暴行又は脅迫を以て其の目的を達するため多衆結合した」者は、ただちに「匪徒令」を適用するものとされた。すなわち、政治的目的か単なる強盗目的かを問わずにすべてを「匪徒」の枠組みに押し込めることで、抗日ゲリラを一般的な強盗団と同一視したのだった。

 

 

 凶暴、粗暴、怠隋、奸黠、狡猾。

 軍警の資料に記録された「土匪」の個人情報を読んでいると、つくづく人間は人間を殺すことはできないのだと感じる。だからこそ、植民者たちはこうした「客観的」な資料を積み上げることによって、己の暴力の正当性を肯定しなければならなくなる。資料の山に記された死者の数はやがて単なる数値の羅列へと変わってゆき、その加減が自身のささやかな生活を守ってくれるのだと信じるようになるのだ。そうなれば、もはや自分たちと同じ「人間」を殺しているのだといった意識も薄れていくからだ。マルティニークの詩人で政治家でもあったエメ・セゼールが述べたように、いわゆる植民地主義とは、それを実践する植民者たちを不断に非人間化していくものであるのだ。

 後藤新平の民生局長官就任(1898年)から「土匪」が殲滅された明治35(1902)年にかけて、匪徒刑罰令によって処罰された「土匪」の数は32000人を超えたが、これは実に当時の台湾総人口の1%近くにあたる。強大な権力を与えられた警察は軍隊並の軍事力を保持し、司法の裁きを待つことなく、現場判断で対象を処刑することが黙認されていた。彼らは「土匪」を更生可能な犯人ではなく、殲滅すべき「敵」とみなした。

 「生物学の原則」に従って台湾に一個の健康な身体を与えようとしていた後藤新平にとって、「土匪」とはさながら多くの内地人を苦しめたマラリアやペスト同様、植民地において最初に滅すべき「病原菌」でもあったわけだ。

 

 黒銅聖観音像がある台湾製糖博物館から西へ3キロほど進んだ場所に、「六班長」と呼ばれた小さな集落がある。この風変わりな呼称は、かつて野外劇で使用する演劇用の竹籠を作る6人の「班長」がこの場所で暮らしていたことに由来するとされる。橋頭駅前に残る老街(したまち) を抜けて水田が点在する集落に入ると、「三徳里(六班長)11.14紀念公園」と書かれた文字が目に飛び込んでくる。鯉の泳ぐ小さな池がある公園には、誰が持ち込んだのか野外カラオケ機器が置かれ、数人の老人たちが楽しげに台湾語の歌を歌っていた。

 ぼくは公園の奥にあった三山国王を祀る廟の前に相棒を停めた。

 公園には小さな碑が建てられてあって、そこにはだいたい次のようなことが書かれていた。

 明治31(1898)年末、日本の憲兵がこの六班長にやって来て次のように告げた。

――この集落には土匪が潜んでいる。大人しくその身柄を引き渡すように。

 六班長の住民たちは困惑した。保正(そんちょう) の劉買と地元の紳士・陳樹は思わず顔を見合わせた。日本の憲兵に口答えするわけにもいかず、ひとまず彼らには憲兵隊屯所まで帰ってもらうことにした。ところが一週間後の12月26日(旧暦11月14日)、憲兵たちは再び六班長にやって来た。劉買たちは(むら) に土匪はおりませんでしたと伝えた。すると、憲兵たちはみるみる顔色を変え、村人に向かって空気を震わせるような声を張り上げた。

――これより戸籍調査を行うゆえ、15歳以上の男はすべて集会所に集まれ!

 劉買はどうにもまずいと思った。しかし、下手に抵抗しては余計に憲兵の不興を買うと思い、黙って従うことに決めた。やがて集会所には百人近い男たちが集められた。憲兵たちはいい加減な尋問を行いながら、ひどく慣れた手つきで、村人たちを三人一組に縛りあげていった。すべての村人が拘束されたことを確認した憲兵が再び口を開いた。

――ここ六班長には確かに土匪がいる。にもかかわらず、貴様らはその引き渡しを拒んだ。土匪の協力者はこれと同罪と見なす。

 通事越しにその「死刑宣言」を聞いた劉買は、突然のことに己の耳を疑った。憲兵たちが抜刀した軍刀を村人の首元にあてる段になって、ようやくそれまでの朦朧とした胸騒ぎは、確かな輪郭をもった恐怖へと変わっていった。

 一人目の村人の首が斬り落とされ、六班長の大地が赤く染まった瞬間、集会所は阿鼻叫喚に包まれた。しかし、三人一組に結ばれた縄は容易には解けず、逃れようともがけばもがくほどに、縄はきつく身体を締め付けていった。やがて憲兵たちの軍刀には血脂がこびり付き、刃は毀れて刀身は折れ曲がってしまった。

 憲兵は、村人たちをまとめて焼き殺すことにした。

 殺された村人は100を数えた。

 遺体は丁重に弔うことも許されず、その場に慌ただしく埋葬された。

虐殺があった旧六班長(現高雄市橋頭区三徳里)にある記念公園

 

 碑の文字を読み終わった瞬間、遠くから老人たちの笑い声が聞こえた。カラオケに興じる老人たちのそのすぐそばに、かつての虐殺現場があった。

 民国101(2012)年1月、虐殺から110年以上が経ってからようやく事件現場の遺骨が掘り起こされた。現在橋頭区三徳里と名前を変えた旧六班長の村人たちは、三山国王廟に鎮座する神々に遺骨掘り起しの吉日を尋ねて、祖先の遺骨を集めることにした。当時の新聞記事によれば、虐殺現場からは頭蓋骨や歯、大腿骨などが次々と出土し、焦げた衣服の跡なども見つかったらしい。最終的に掘り出された遺骨は、大型のアルミ盥5個ぶんにも上った。

 ぼくは、昭和7(1932)年に編集された『台湾憲兵隊史』の当該日の記録を捲ってみたが、そこには各地の「土匪」討伐の記録が記述されているだけで、六班長の虐殺に関しては何も書かれていなかった。もちろん、明治29(1896)年6月に雲林で起こった虐殺事件のように、よほど大きく国際的な注目を集めない限りは、自国の虐殺が正式な公文書に記録されないことなどはままあったはずだ。110年越しに掘り返された大量の遺骨は、そうした統治者によって記録された文字資料が、必ずしも歴史的事実とは限らないことを物語っているのかもしれない。

 

 

 地元住民たちの間で語り伝えられてきた六班長の惨劇は、現在ガザで起こっているジェノサイドを想起させた。首を斬り落とされた胴体に皮膚の焼け焦げた死体、そしてそれらを黙々と埋葬する遺族たち。そこには、日常の薄皮一枚めくるだけで浮かび上がってくるような、瘡蓋にすらならない生々しい死の影が貼り付いている。

 以前、ガザ地区を完全封鎖したイスラエル国防相が、「我々は動物のような人間と戦っている」と述べたことがあった。イスラエル兵が無抵抗のパレスチナ人を「誤殺」し、病院や難民キャンプを「誤爆」することに良心の呵責を感じないとすれば、それはパレスチナ人を自分と同じ人間としては見ていないからだ。植民地主義は常に相手を己とは異なる敵と見なし、敵はやがて人ならざる動物へと変わっていくが、六班長の住人の住民を虐殺した日本人憲兵たちの目にも、「土匪」(とみなされた人たち)は、ただ人の言葉を喋る動物程度にしか映っていなかったのかもしれない。

 ガザにおけるイスラエル兵はなぜかくも残酷たりえるのか。

 この問いかけは、なぜ日本人はかつて台湾の「土匪」とその協力者にそこまで残酷な仕打ちをできたのかといった問いかけとして跳ね返ってくる。ただし、日本人の多くは「親日」的な台湾人からそのような問いを突き付けられることはほとんどないし、台湾人自身もガザの惨状に自らの過去を重ね合わせて考えることは少ない。

 

 

 ある日、授業中にパレスチナ問題が話題に上ったことがあった。

 ちょうど、台北の立法院(国会)前で、民主的な議論が十分になされないまま問題のある法案が通ろうとしたことに対して、大規模なデモ活動が行われていた時期だった。台湾の民主主義を守れと叫ぶデモ参加者たちは、主催者発表で10万人を超えていた。

 学生たちはイスラエルの行き過ぎた軍事行動を非難しつつも、どこか他人事といった感が否めなかった。クラスの中には「巴勒斯坦(パレスチナ) 」と「巴基斯坦(パキスタン) 」の違いがついていない学生もちらほらいた。ぼくはイスラエル政府と中華民国政府が、民主主義や自由など核心的な価値観を共有する「緊密な二国間関係」を結んでいること、台湾が長年イスラエルから軍事兵器を購入していることなどを伝え、現在のガザにおける惨状に台湾人がまったく無関係だとは言えないのだと話した。

 「でも、結局どっちもどっちなんじゃないですか。イスラエルは確かに酷いけど、さきに手を出したのはハマスなんだから」

 学生の言葉にぼくはそれほど驚かなかった。ただ、ロシアによるウクライナ侵攻であれほど多くの台湾人がこぞってウクライナへの連帯を表明し、はるかウクライナに渡航する台湾人義勇兵までいたことを思えば、パレスチナへの同情の低さは、意外を通り越して不思議ですらあった。同じ祖先を共有する「同胞」を謳う隣国から侵略されたウクライナを自国の未来と考えることはあっても、シオニズムという名の植民地主義に晒されているパレスチナを己の過去と結び付けて語る台湾人は稀であった。

 「たとえば、日本が台湾を領有したときに、たくさんの台湾人が抵抗したよね。当時日本人が作った法律に従えば、『土匪』と呼ばれる人たちの行為は違法になる。けどだからと言って、日本の植民地支配を正当化できるわけじゃないし、何よりも台湾人自身が自衛に基づく武力権を行使したことを否定できないんじゃないかな?」

 歴史に詳しいある学生が「霧社事件もあるぞ!」と合いの手を入れた。ぼくはできるだけ平静を装った声で話を続けた。「いま現在、ガザで行われているのは『大屠殺(ジェノサイド) 』であって、どっちもどっちと中立を装うべき問題ではないはずだよ。『天井のない監獄』と呼ばれる国で暮らしているガザの人たちの苦しさは、同じような被支配の歴史を経験した台湾人だからこそ分かる部分もあるはずじゃないかな」

 すると、最初に意見を述べた学生が眉間にしわを寄せながら言った。「私たちは付き合う相手を選べるような立場にないんです。相手がどんな国であれ、台湾を助けてくれる国なら歓迎しますよ」

 ぼくが口を開こうとしたのを見た学生は、機先を制するように言葉を継いだ。

 「結局、センセイは日本人だからそんなことが言えるんです」

 

 

 この島では、「台湾人であること」を理由に自己決定権が奪われる時代が長く続いた。植民地支配とは、そもそも相手の自主権を暴力的手段によって奪い取るものであって、おしなべて「天井のない監獄」に相手を収容する構造的暴力であるとも言える。こうした監獄を脱する手段として、大正10(1921)年には台湾文化協会が設立されて、言論活動に訴える台湾人が現れはじめるわけだが、日本の植民地統治初期においては、あらゆる反植民地運動は十把一絡げに「土匪」として鎮圧されていった。

 阿公店は古くから「土匪」が跋扈する土地としても知られていた。

 それは当地が台南と高雄市内をつなぐ交通の結節点に位置していたことに加え、その東側には複雑な地形をした無数の低山や「月世界」と呼ばれる独特の悪地地形が広がっていたことも影響している。阿公店とは、元々平地原住民族の言葉で「トキワススキのたくさんある場所」を意味するが、その範囲は現在の岡山区、橋頭区、弥陀区、田寮区、梓官区などほぼ高雄市北部全域に及び、とりわけその中心である高雄市岡山区には、現在ネジやナットなどモノづくり関連の中小工場が集まっている。黒弥陀の建立された橋仔頭製糖所も虐殺が起こった六班長も、行政区分上はこの阿公店に位置していた。

 明治31(1898)年12月、南台湾では軍隊と憲兵隊、警察を総動員した大規模な討伐作戦が展開されたが、「土匪」の巣窟と見なされていた阿公店はこのときとりわけ大きな被害を受けた。『台湾総督警察沿革史』によると、阿公店において「被殺を受けしもの2053人、傷者数知らず、家屋を焼毀せられしもの全焼2783戸、半焼3030戸、家財焼失、禽畜の亡失を合わせて其の損害過客3万8000余円」と記述されている。事件当時、南台湾にいたヨーロッパの宣教師たちはこぞって日本の軍警による住民虐殺を非難し、香港の新聞『デイリーニュース』にその惨状を投書して国際問題にまで発展したが、130年近い歳月が流れた現在、その痕跡を見つけることは容易ではない。

旧阿公店に属する小崗山から遠望した朝ぼらけの東部山岳地帯

 

 旧六班長の集落から西へ2キロほど進んだ場所に「典宝渓」と呼ばれる川がある。観音山北部にある烏山頂を源流とし、高雄市内を蛇行しながら北高雄の漁村・蚵仔寮まで伸びる川だ。

 ぼくはこの典宝渓沿いの小さな路地にある廟の前に相棒を停めた。

 典宝橋聖安宮と呼ばれる廟はあいにく改装中で、境内にあった諸神像は斜め向かいにある仮小屋の中に移されていた。仮小屋に鎮座する盧府千歳に向かって、ぼくは軽く手を合わせた。真っ赤な顔に立派な髭をたくわえた像は関公(関羽)のようにも見えたが、ぎらりと見開いた両目からそれが王爺の一種であることが分かった。

 廟の隣には、第二次大戦時に米軍の南台湾上陸を防ぐために建設された防空塔も残っていた。ぼくは防空塔横の駐車場に貼られた「聖安宮 盧石頭烈士‐典宝渓抗日事績」と書かれた紹介文の文字を目で追っていった。

 同治7(1868)年、鳳山県仁寿上里(高雄市岡山区)で生まれた盧石頭は、幼い頃から家業の農作業に励んでいたが、長じて「歌仔戯(ゴアヒ) 」(台湾オペラと呼ばれる舞台演劇)の一団を結成して南台湾各地を巡業するようになった。日本人が台湾を支配するようになってしばらく経ったある日、盧石頭が白馬に乗って劇団を率いているところに、日本の憲兵たちと出くわした。彼らは台湾人の盧石頭が御大層に白馬に跨っていることに腹を立て、大いにこれを辱めた。憤慨した盧石頭は、地元阿公店を拠点に抗日義勇軍を結成、彼の下には日本の支配に不満を持つ300名近い人々が集まった。

 明治31(1898)年8月、同じく抗日ゲリラとして活躍していた李少開の部隊が、楠仔坑(高雄市楠梓区)で日本軍に包囲されていることを知った盧石頭は、阿公店から手勢を率いて急遽救援に向かった。ところが、楠仔坑の手前に流れる典宝渓で日本軍に行く手を阻まれて激しい戦闘となった。近代兵器を備えた日本軍を相手に、旧式銃や刀剣しか持たない盧石頭の部隊は徐々に押されてゆき、李少開を包囲していた日本の部隊が応援に駆けつけてくると、彼らは善戦虚しく全滅してしまった。

現在改修中の典宝橋聖安宮の側には、日本時代末期に建設された対米軍用の防空塔跡が残っている

 

 この紹介文にはいくつかの創作と記述ミスがある。

 まず盧石頭が率いていたとされる「歌仔戯」だが、これは20世紀初頭に北部宜蘭で誕生した舞台劇であるために、19世紀末に南台湾に暮らす盧石頭が率いていたとするにはやや無理がある。また台湾にはもともと在来馬がいないので、白馬に乗っていたという記述にも違和感がある。さらに典宝渓で「土匪」と日本の憲兵・警察隊の間で大規模な戦闘があったのは事実であるが、日本側の資料によれば、その時期は明治31(1898)年12月14日で、彼に救援を求めた李少開もおそらく当時阿公店一帯で名を馳せた匪首「魏少開(あるいは魏開)」の間違いだと思われる。

 戦後国民党が主導する抗日教育によって、多くの「土匪」たちは日本の植民地支配に果敢に抵抗した民族的英雄とされていったが、「中華民族」という壮大な虚構を前提として組み立てられた物語は、ある意味で日本による植民地支配同様、当事者たちの声を軽んずるものでもある。そもそも彼らは清朝から見捨てられた「棄民」であって、その出発点においてすでに「身捨つるほどの祖国」など存在しなかったのだ。

 ただし、抗日英雄譚として描かれたこの物語には、少なからぬ事実も隠されている。現在「盧府千歳」(王爺)として典宝渓畔に祀られている盧石頭は、阿公店街付近に出没する「抗日首領」と記録されていて、死亡時の年齢はおよそ30歳、怠惰な性格で正業に就かずに土匪へ身を投じたなど、確かに日本側の資料においてもその存在を確認することができる。『台湾憲兵隊史』によれば、12月13日に阿公店阿嗹庄(高雄市阿蓮区)の派出所を襲撃した600名ほどの「土匪」は、その後も神出鬼没の奇襲を繰り返し、翌14日には匪首・魏少開と盧石頭が200名ほどの手勢を率いて右沖庄(高雄市楠梓区右昌)を襲撃したとある。

 日本の憲兵隊と警察は、これを海岸沿いの援中港庄まで撃退したが、盧石頭らはここで反撃に転じ、逆に日本側の部隊を包囲・殲滅しようと試みた。日本の部隊は一時間近く盧石頭らの猛攻を受けたが、楠仔坑の部隊が応援に駆け付けたことで形勢は再び逆転した。日本側は逃走する盧石頭らを典宝渓まで追いつめると、川を渡って阿公店の根城まで逃れようとする盧石頭らに、「猛然一斉射撃を加へ忽ち賊魁盧石頭以下三十余名を(たお) し二十余名を傷けた」としている。『台湾日日新報』などは、ある上等兵が筏に飛び乗って典宝渓を泳いで渡ろうとする「土匪」たちに向けて次々と銃弾を放ち、「五、六匪を殪し」た様子をさながら「一大活劇」であったとスぺクタクルに報じている。川下へ流れてゆく死体のせいで、当時典宝渓の河口は紅く染まったとされた。

 典宝渓の北に位置する高雄市弥陀区の郷土誌によると、盧石頭の手勢の中には、日本側の追撃を躱して上手く逃げ延びた者たちもいたが、これが後に六房長(六班長)の虐殺に繋がったのではないかと記されている。この記述が正しければ、六班長にやって来た日本人の憲兵たちは、典宝渓で討ち漏らした盧石頭の残党を探していたことになる。

現在の典宝渓。彼岸に広がる路地の中に盧府千歳が祀られている

 

 典宝渓を北上して、高雄市岡山区にある繁華街を横切ったぼくは、岡山東部に位置する小崗山と大崗山の間にある谷間の集落を抜けて、人煙まばらな田寮区へと向かった。

 旧阿公店を一望出来る大崗山を地図で俯瞰すれば、それが台湾島に酷似した形をしていることに気付く。300年ほど前に建立された古刹・超峰寺を有する大崗山には、現在も数多の仏教寺院が立ち並び、古くから「台湾仏山」として付近一帯の人々の信仰を集めてきた。

 小さな台湾島の山裾を走るぼくは、その南端を東海岸に沿うように北上した後、太平洋側に抜けるように細い山道を東進していった。人気の絶えた山道には、無縁仏を祀る来歴不明の小さな陰廟がぽつりぽつりと立っていて、何やら黄泉平坂を下っているような気分になった。何でも台湾で宝くじが流行った頃、多くの人がこの地域に建てられた陰廟を訪ねては当たりくじを尋ねていたらしい。

 高雄市田寮区新興里。

 130年ほど前、この場所は打鹿埔庄と呼ばれていた。

 ぼくは黄金色に輝くナンバンサイカチが揺れる龍鳳寺の駐車場で相方を休ませてやった。寺内に足を踏み入れれば、観音菩薩像が目に入った。橋頭製糖博物館にいる黒弥陀と違って、ここの観音像はいかにも台湾らしく豪華絢爛な衣服を身にまとわされていた。

 複雑な地形をした山々に抱かれた打鹿埔庄は、かつて「土匪」の拠点であった。

 盧石頭らが典宝渓において日本の部隊と衝突していた頃、ここ打鹿埔庄でも大きな衝突があった。『台湾日日新聞』及び『台湾憲兵隊史』の記述を読み合わせて当時の様子を察するに、典宝渓で戦いが行われていた同日、台南市内から蕃薯寮(高雄市旗山区)へ向けて出発した日本の守備兵が、打鹿埔庄において多数の「土匪」と会敵、両者の間で戦闘に発展した結果、日本側に多数の犠牲者が出た。日本側は援軍の到着を待って打鹿埔庄の「土匪」を討伐すると、ここ龍鳳寺のあたりでその残党と協力者たちを皆殺したと言われている。

龍鳳寺の観音菩薩像。観音菩薩を主神とするが、境内の構造は一般的な廟に近い

 

 ぼくは観音像の右手に鎮座する神像に目を遣った。真っ赤な顔にカッと見開いた両目は意思の強さを感じさせると同時に、王爺独特の厳めしさも備えていた。

 劉府千歳。

 寺の伝承によると、観音像の隣に侍るこの王爺は、打鹿埔庄に暮らした劉何某と呼ばれた人物で、義賊よろしく、金持ちから奪ったお金を貧しい人々に分け与える英雄であったとされる。ところが、台湾が日本の植民地になると、彼は「土匪」として日本軍に殺されてしまった。村人は彼のために小さなあばら家を建てて、これを「劉元帥」として祀ったが、以来村では様々な奇蹟が起こるようになったらしい。1930年代に村で疫病が流行すると、村人たちは大崗山にある超峰寺から観音菩薩を呼んで厄払いを行い、これを祀ることにした。その際、劉元帥も「劉府千歳」に格上げされて共に祀られたのだそうだ。

 いまとなっては、この劉何某が何者であったのかは分からない。

 ただし、民国81(1994)年に旧高雄県各地の耆老の話をまとめた『高雄県郷土資料』によると、当時打鹿埔庄で日本軍の虐殺から逃れた別の劉氏のエピソードが語られている。

 男の名は劉朝栄。

 彼の所属する抗日義勇軍は、旗山方面からやって来た日本軍を打鹿埔庄で打ち破ったが、増援を得た日本軍はやがて彼らを圧倒して、武器を捨てて降伏するように迫ってきた。劉朝栄らが武器を渡して降参すると、日本軍は前言を撤回して丸裸となった「土匪」たちを捕え、見せしめにその首を落としはじめた。若く壮健な肉体を持っていた劉朝栄は、日本軍の敷いた包囲網を駆け抜けると、そのまま川の中へと飛び込んで難を逃れた。仲間を失った悲しみから首を吊って死のうとしたが、首にかかった縄が切れてしまい生きていくことにした。

 ほとぼりが冷めた頃に集落へと戻った劉朝栄は、ある日本の役人が、旗山の役場へと向かう輿を担ぐことになった。到着後、日本の役人は代金を支払おうとしたが、劉朝栄は日本人から金をもらうことを固く辞した。名前を尋ねられた劉朝栄は、偽名を用いることなく正直に己の名前を告げた。

――劉朝栄? そいつはこのあたりの「土匪」の名前じゃないのかね?

 日本の役人は、目の前の男が嘘をついてはいないことが分かった。誠実そうなその人となりを目の当たりにした彼は、結局その「罪」を問うことはしなかったという。

 この話は、民国22(1933)年生まれの劉朝栄の婿が、直接本人から聞いた話と記録されている。80歳まで生きたとされる劉朝栄は、龍鳳寺に祀られている劉府千歳とは別人に違いないが、あるいは「土匪」時分の劉府千歳(かみさま) を知る数少ない人物であったのかもしれない。

 

 

 お寺の向かいにある小学校から、鈴が鳴るような笑い声が聞こえてきた。

 人気のないお堂の中では、藤籐椅子に横になった管理人が立てるいびきが響いていた。管理人の側では、つけっぱなしにされたテレビから空爆で廃墟となったラファの様子が映し出されていた。蛍光色のスーツを着た台湾人アナウンサーが、まくし立てるような早口の中国語で報道内容を伝えていた。

 「……軍による難民キャンプの空爆によって、ラファでは少なくとも45名が死亡、数百人が重傷を負いました。イスラエルの政府報道官は、民間人の犠牲は悲痛であるが、これはハマスが望んではじめた戦争だと述べて……」

 ぼくはお寺の壁に掛けられていた「龍鳳寺沿革」に目を遣った。すると、劉府千歳の起こした数々の奇蹟の中に、劉府千歳が天兵を差配して、米軍の空襲から郷土を守ったと記されていることに気付いた。音を観る観音菩薩は、見えないものや聞こえないものを自在に見聞きして、衆生に救いの手を差し伸べてくれるとされるが、まさか王爺となった「土匪」が、地上に降り注ぐ爆弾から人々を守ってくれるとは思わなかった。

 南無観音菩薩(ナモグァンセインポッサ)

 かつて虐殺があったこの場所で、ぼくは観音菩薩と劉府千歳に向けて、そっと手を合わせた。テレビから流れるニュースは、いつの間にか隣国がこの島の周辺海域で大規模な軍事演習を行った報道へと変わっていた。

高雄市田寮区にある田寮義民爺亭。打鹿埔庄で殺された人々の遺骨はこの場所で埋葬されたと言われている

 

 

 

 

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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