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カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す

第6回

 

第5章 図式について

 

1 前章の議論を、今回は落穂拾いではなく、一言でまとめてみよう。それはこうなる。

 

理由や証拠によって私であることはできないvs.理由や証拠による繋がりによってしか私であることはできない(デカルト的vs. カント的)。しかし、この二つは両立しなければならない! 

 

ある観点から見ると、本章の議論はこのことを背後から強力に補強する議論であるともいえる。

 

2 第一編「概念の分析論」(カテゴリー論と演繹論)が終わって、ここからは第二編「原則の分析論」に入る。そこは図式論と原則論から成るが、そのうち本章では図式論を対象とする。図式論の章では、判断力一般の説明に続く形で、その特殊事例としてのカテゴリーの図式機能が論じられるが、それに先立って、カテゴリー(純粋悟性概念)以外の、通常の経験的概念の場合の図式機能についても論じられており、ここでは、前段階のその議論についても比較的くわしく検討することになる。しかし、まずは判断力について。

 

一 判断力のはたらきと超越論的論理学

 

3 悟性は一般的に規則の能力であるといえるならば、判断力は規則のもとに包摂する、、、、能力、すなわちあるものが与えられた規則に従っている(その規則の事例である)かどうかを判別する能力である、といえる。(A132、B171)

 

たとえば、「子供は午後9時より前に寝るべし」という規則が与えられていたとしても、たしかにその規則の意味そのものは明晰ではあるが、そこにいる人間が「子供」といえるか否か(さらに今が9時より前かどうか)は、それだけではわからない。「もしその人が子供であるならばその人は午後9時より前に寝るべきである、そしてその人は現実に子供である、であるならば、その人は午後9時より前に寝るべきである」という規則が与えられてもなお、それがもしなおも規則であるならば、目の前に与えられている人が現実に子どもと見なされるべきかはそれだけではやはりわからない(もちろん9時前であるかどうかもわからないが、いまはそこは問題にしないとして)。もしこれが規則ではなく現実になされた判断の表現であるならば、「その人は現実に子供である」という部分において、この言語表現を超えた(何かしらそれ以上の細部のある)決定が為されていることになる。規則を実際に適用する際には、規則の理解そのものを超えたある種の跳躍(と言うと大げさだが何かしら規則を超えたこと)がつねに必要とされるのである。これをする力が判断力である。だから、そのはたらきはもはや規則化できない*。言ってみればそれはコツのようなものであり、練習によって体得するほかはないものである。

*もしそれがさらに規則化されたなら、今度はその規則の適用にかんする、規則化できない判断力が必要となる。この過程はどこかで終わっていなければならない。

4 一般論理学は判断力にいかなる指示も与えないのに対して、超越論的論理学はまったくそうではなくて、それどころか純粋悟性が使用される際の判断力を一定の規則によって正確かつ確実にすることこそがその本来の仕事であるとさえ思われる。(A135、B174)

 

超越論哲学の特性は、悟性の純粋概念の内に与えられている規則(あるいは規則のための一般的条件)だけでなく、その規則が適用されるべき場合をアプリオリに提示できるという点にある。(A135、B174)

 

しかし、もし純粋悟性の規則がどのような場合に適用されるべきかを定めるさらなる規則が存在するのであれば、こんどはその規則にかんして、それの適用の仕方のコツと熟練が必要とされることになり、判断力はそちらにおいてはたらくことになるであろう。だから、ここでカントが提示しようとしている規則はじつは判断力のはたらき方の規則ではなく、それはいわば比喩的な説明にすぎず、これはやはり適用の仕方のコツに類するものの提示なのだと解することもできる。私見によればその両方であり、これはやはり適用の仕方の例示にすぎないのではあるが、それがまた規則の形態をとりもするので、その適用にもやはり判断力が必要とされることにもなるだろう、と思う*

*言うまでもないことではあろうが、カントがそう言っているというわけではない。また、この種の無限背進性は後の(独在性や現実性に関係する)議論においては累進構造(A事実がどこまでもA系列化していく等の)となって表れることになるので、その繋がりも留意していただけるとたいへんに有難い。判断力の問題性は図式のそれにつながり、図式のそれは独在性の累進構造のそれに繋がることになるはずである。

 

二 経験的概念の図式機能について

 

5 カントはまず、経験的概念の場合と純粋悟性概念の場合とを対比させている。最初は経験的概念の場合である。

 

対象を概念のもとに包摂する場合にはつねに、その対象の表象はその概念の表象と同種的でなければならない。すなわち、概念はそのもとに包摂されるべき対象において表象されるものを含んでいなければならない。なぜなら、このことこそがある対象がある概念のもとに含まれるということが意味していることだからである。そういうわけなので、皿という経験的概念は円という純粋幾何学的概念と同種性を有するが、それは、皿という経験的概念において、円という純粋幾何学的概念において考えられている円さが、直観されるからである。(A137、B176)

 

「対象を概念のもとに包摂する」とは例えば、目の前に見えているもの(や思い浮べているもの)を「木」とか「テーブル」とかとして(分類して)捉えるということであろう。その際、「その対象の表象はその概念の表象と同種的」であるとはどういうことだろうか。木であるというそのことを、あるいはテーブルであるというそのことを除けば、同種的な要素は何もないように思える。カントはこれを「概念がそのもとに包摂されるべき対象において表象されるものを含んでいる」とも言いかえている。しかしふたたび、もし木という概念が個々の木において「表象される」ものを「含んでいる」とすれば、それは「木である」ということ以外にはないように思える。植物学的な「木」の定義を知っていればまた別だろうが、普通の人はそのようなものは知らない。それでも、明らかに木の概念は持っており、木を他のすべてのものから識別でき、また木というものについての話もできる。「表象される」ものの内に、「木である」こと以外にも、それを構成する細部も含まれうるとしても、それらは結局、「木」概念に含まれているものを分析して反復しているにすぎないだろう。そういう意味において、対象の表象はその概念の表象とは「同種的」であるにしても、それは何か同種的な要素が実在的リアルに含まれているということではなく、まさに「木である」という仕方においてしか捉えられえない(ゆえに、それ以外には語りえない、、、、、)、極めて特殊な(とはいえすべての根底において暗にはたらいている)同種性であらざるをえないはずであろう。

 

6 続けてカントは、「そのように、皿という経験的概念は円という純粋幾何学的概念と同種性を有するが、……」と言うが、これは素直に読めばそもそも話の続け方がおかしい。いまは「対象を概念のもとに包摂する場合」についての話をしているはずだからだ。皿の例で言うなら、皿という一つの(経験的)概念のもとに個々の皿が包摂される、ということが問題になっていることであるはずだ。「皿という経験的概念において、円という純粋幾何学的概念において考えられている円さが、直観される」かどうかは、そもそもこの問題とは別の問題であろう。それはある一つの概念とそれに包摂される諸対象の同種性の問題ではなく、純粋幾何学的概念と経験的概念との同種性の問題であろうからだ。またもしこの例が、ある概念とそれに包摂される諸対象の同種性の問題の一例として提示されたのであれば、すなわち概念と諸対象とが純粋幾何学的概念(円さ)を共有する場合が提示されたのであれば、その例は不適切であろう。まず第一に、そんな場合はあまりなく(すなわち例外的なケースであり)、また第二に、例に挙げられた皿の場合でさえ、実のところはその例であるとは言い難いだろう*からだ。そして、かりに皿の場合が正しくその例であり、そのうえそういう場合がよくあるのだとしても、必然的にそうであるわけではないことは明らかであるから、そういう場合には、幾何学的概念以外のその共通要素があらねばならない、ということにならざるをえないであろう。

*当然のことながら、皿は円形であるとは限らず、かりにもしカントの時代のドイツの皿がすべて円形であったとしても、「皿」の概念に円形性を含めるべき理由はないであろう。カントが外国に旅行して長方形の皿に出合えば、すぐにそれが皿であるとわかるであろうからだ。皿のような人工物は、テーブル、スプーン、家、等々もそうだが、本質的にその使われ方(使用目的)によって定義されるはずである。

7 テーブル、スプーン、家、等々のような人工物の場合は、われわれの側がその概念を最初から完全に所有しており、個々のテーブル、スプーン、家、等々は、ただたんに、見たり触ったりできる、空間時間内に実在するそれの実例であるにすぎない(そのこと以外にはいかなる同種性もない)が、木、石、鳥、星、…、のような自然物の場合はどうだろうか。それらにかんして、その概念的把握と感性的把握が一致することには、後者を学知的にとれば謎があるともいえるだろう。すなわち、植物学的に「木」と分類されるものと一般人(植物学などまったく知らない)が眼で見て「木」と分類するものがほぼ一致する(石の場合も、鳥の場合も、星の場合も、…!)のは、少々話がうまく出来すぎているように思えるからである。われわれはもともと木とは何か、石とは何か、等々を知らずに(すなわちその概念を完全には所有せずに)、もっぱら一般人の見かけ上の分類を頼りに、学知的探究を開始したはずだが、探究の結果においても、一般人の見かけ上の分類に則した科学的分類が成立することは、ある意味では驚くべき「偶然の一致」であったといえるだろう*。しかし、その問題を別にすれば、現在でも通常、多くの一般人はその種の学知をまったく持たずに、木、石、鳥、星、…の経験的概念を持ち、その個別的事例を捉えていることに間違いはない。そこに概念と個々の対象を仲介する、どちらとも同種の何かが存在するといったことはないだろう。むしろ、興味深いのはそのなさのほうではなかろうか**

*もちろん、ときにどう見ても石のように見えてじつは木であるような物もあるではあろうが。

**同様の問題は、政治、規則、愛、類型、等々の抽象名詞や、飛ぶ、見る、無視する、検討する、等々の動詞や、柔らかい、遠い、優れた、洒落た、等々の形容詞や、おそらく、きわめて、なんとなく、どうにも、等々の副詞などについても、存在するといえるだろう。

8 カントの議論の進め方とは順番が変わるが、純粋悟性概念の問題に入る前に、まずは段落5の「木」と段落6の「円」の問題にそれぞれ対応させて、カントが少し先で挙げている「犬」と「三角形」の事例を検討しておきたい。その前提として、まずは「数」を例にとって形象と図式の区別を導入する箇所から。

 

図式はそれ自体としてはつねに構想力の産物にすぎない。しかしこの構想力の総合が目指していることは、個別的な直観ではなく感性の規定における統一なので、図式は形象からは区別されねばならない。それで、私が五つの点を・・・・・と次々に打つなら、それは五という数の形象である。これに対して、とにかく私がなんらかの数をただ考えるなら、それが五であろうと百であろうと、この思考はむしろある概念に従ってある量(たとえば千)を形象として表象する方法の表象であって、その形象それ自体ではない。千のような量の場合はその形象を見渡してその概念と比べることはほぼ不可能であろう。そこで、ある概念にその形象を提供する構想力の一般的な手続きについてのこのような表象を、私は概念の図式と呼ぶ。(A140、B179)

 

図式はあくまでも「形象として表象する[一般的な]方法の表象」であって、ある特定の形象としては表象できない、と言われている。一つ一つ数えるという手続きなしに、「・・・・・・・・・・・・・」を見ただけで、これを十三と見て取ることはまずできまい。一つ一つ付け足すという操作を十三回おこなうという手続きが必要だろう。この議論にはすでにして、純粋悟性概念としての数の図式にかんするカントの考え方が先取りされている。そこで私も少し後の自分の議論を先取りして言っておくなら、一目では分からなくても、どうして「数える」という操作はできるのかといえば、数えるという操作のうちで現在が累進する(端的なA事実が次々と――「A系列」なる中間態を経由して――B関係化される)からであろうと思う*。記憶という現象はもともとそのことを含み込むことによって成立するものなので、現在の数と対応させて物の個数を「数える」という操作が可能になるのだと思うわけだ。つまり、時間を用いた図式化の内にはつねに必ず独在的な端的な現在の存在とその累進が含まれていると考えられる。そして、これにはもちろん意識の統一(渡らぬ意識)の存在が不可欠である。しかし、話が先走り過ぎているので話を戻せば、数は平板に形象化することはできない、すなわちじつは絵にはできない、ということであろう。

*時間においては形象の限界が乗り越え可能なのは、時間が動的でこの矛盾を内在させているからであろう。時間の概念には後に詳述する「現在」の二義性が内在しており、それをそのままで像化する(イメージする)ことはできない。(このことはもちろん段落4の注*で触れた問題にも関連している。)

9 話が先走って純粋悟性概念の問題に入ってしまった(カント自身も先走っているとは思うがそれに便乗してさらに)が、三角形の問題に戻ろう。

 

実際、われわれの純粋な感性的概念の根底には、その対象の形象ではなく、図式が存在している。三角形一般の概念には、三角形のいかなる形象もけっして適合しないだろう。なぜなら、三角形の形象が三角形概念の普遍性に達することはありえないからだ。三角形概念の普遍性は、直角三角形であろうと不等辺三角形であろうと、すべての三角形に妥当する必要があるのに反し、三角形の形象はつねに三角形という領域のある一部分に制限されるからである。三角形の図式は思考の内にしか存在せず、それは空間における純粋形態にかんする構想力の総合の規則を意味する。(A141、B180)

 

子どもに対して、さまざま種類の三角形を描いて見せ、「このようなものが三角形なのだ」と言っても、三角形が何であるかが、正しく伝わるとは限らない。三角形の一つの角がほんの少し欠けて、正確には四角形であるような図形も、三角形の仲間に入れられてしまう可能性は高い。三角形の本質はその形象にではなく概念にあるからである。その概念を特定の絵として描くことはできない。(とはいえしかし、純粋な感性的概念の場合は、純粋な悟性的概念の場合と違って、時間と関連づけて図式化できるわけでもない。)

 

10 それでは、経験的概念である「犬」の場合はどうか。

 

ましてや、経験の対象あるいはその形象は、けっしてその経験的概念に達しない。むしろ、経験的概念はつねに、ある一般概念に従ってわれわれの直観を規定する規則としての構想力の図式に直接的に関係しているのである。犬という概念は、私の構想力がそれに従えばある四つ足の動物の形態を一般的に描き出すことができる一つの規則を意味するのであって、……(A141、B180)

 

しかし、「ある四つ足の動物の形態を一般的に描き出すことができる一つの規則」とは何であろうか。それは言葉で言うことのできない一種の暗黙知なのであろう。それは、ある一般的な特徴の組み合わせではなく、犬的としか形容しようのない特徴の集まりであろうからだ。この場合、犬概念と個々の犬対象のあいだに成り立つ同種性はまさにそれ、すなわち犬性(犬っぽさ)であって、そうでしかありえない。「木」の場合も同様である。その把握もまた「人間の魂の奥底に秘められた技」(A141,B180)でもあろうが、われわれがそれを識別できることとはまた別に、世界にそのような独自成類的なものが(多数)存在していることにもまた驚くべきではあるまいか。世界は一般的な性質の組み合わせではなく独自成類なものから成り立っているという事実にも、である。これはいわば「世界の奥底に秘められた技」でもあろう。カントにおいては、それもやはり「図式」であるといわれている。しかし、それは怪しいといわねばならない。円や三角形のような純粋感性概念とは違って、それらは純粋な概念自体がそもそも与えられていないのだから、その概念と個々の事例との関係は図式的な関係だとさえも言い難いであろうからだ。

11 それなら、円や三角形に類するものとも木や犬に類するものともまた異なる、皿やテーブルや家に類するものの場合はどうだろうか。このような人工物の場合は、木や犬のような自然物の場合とは逆の問題が存在するだろう。皿やテーブルや家は、そもそもわれわれ人間が作り出したものであり、その概念はわれわれの側が完全に専有している。皿とは何であるか、テーブルとは何であるか、家とは何であるかは、すでに全面的に明らかであり、これから研究してはじめてわかるような何ものもそこには存在しない*。すでに述べたように、個々の皿やテーブルや家は、ただたんに見たり触ったりできる、空間時間内に実在するそれの実例であるにすぎず、単純に(直接的に)その実例であるということ以外には特段の同種的媒体はない。その意味において、こちらも自然物とは対比的な意味で図式の介在はありえないだろう。

*国家や結婚や哲学といったものもそうであるとはいえるが、これらは全面的に明らかとは言い難い。これらももちろん人間がつくったものだが、人為を離れた自然生成的な独自成類性があるだろう。

 

三 夕焼けの介入

 

12 カントが挙げている例の中には含まれていないが、図式という問題を考えるに際して、私がぜひとも付け加えておきたいと思う種類の物が、この世界には存在している。それは、皿や木と並べて物としての例を出すなら、(しょっぱいものとしての)塩や(赤いものとしての)夕焼けのような物である*。空を見上げて、「夕焼けだ」と思うとき、たしかにある一つの空間時間的な対象をある一つの経験的概念(すなわち「夕焼け」)のもとに包摂している。このとき、「概念はそのもとに包摂されるべき対象において表象されるものを含んでいる」とは、ちょうど「皿」という概念が「そのもとに包摂されるべき対象において表象されるもの」、すなわち「円さ」を含んでいたように、「夕焼け」という概念が「そのもとに包摂されるべき対象において表象されるもの」、すなわち「赤さ」を含んでいる、ということを意味しうるはずである。他の点では夕焼けと分類されるべき基準を満たしていても、それがもし赤くなければ夕焼けではない、と考えることは十分できるだろうからだ**。すると、円さの場合と同様、概念における「赤さ」と知覚される「赤さ」とが「同種的」である、ということになるはずである。一般的にいって、概念(という概念がよくつかめない方は言葉の意味のようなものを思い浮かべていただいてもよいが)と、その概念によって括られる、見たり聴いたり触ったり味わったりして「これ」と捉えられる個々のものとのあいだには、何かしら同種性があると考えうる(かもしれない)が、それが何であるかを追究していけば、この場合もやはり、それは赤さそのものであるとしか言いようがないのではあるまいか。赤さやしょっぱさの場合、概念としてのそれらは、実際に感じられるそれらを「こういう種類のもの」として総括しているだけである、としか考えられないからである***

 *塩は味覚、夕焼けは視覚(特には色覚)に関係しているが、聴覚に関係する雷鳴とか、嗅覚に関係する麝香ジャコウとか、が挙げられる。だから、物としての例ではなく、円や三角形とならぶ性質としての例そのものを出すなら、しょっぱさや赤さ、となる。当然、痛みや痒みのような身体感覚等々も考慮に入れられてよい。

**塩の場合なら、「しょっぱい」を含んでいることになるだろう。学知的な基準を持ち出さないかぎり、これらは「夕焼け」や「塩」の概念に含まれているものをたんに分析して反復しているにすぎない分析的真理であると(少なくとも皿の丸さよりは)いえるであろう。段落4において、「「表象される」ものの内に、「木である」こと以外にも、それを構成する細部も含まれうるとしても、それらは結局、「木」概念に含まれているものを分析して反復しているにすぎないだろう」と指摘したが、この場合の赤さやしょっぱさは、「木」の代わりに「塩」や「夕焼け」を置いた場合のそれらにあたることになる。

*** 最初の注*では、赤さとしょっぱさ以外のいくつかの例を挙げたが、この分類に属するものは、直接に感じることによって「これ(およびこの種のもの)」と捉えるほかはないすべてに広がるはずだろう。すると、たとえば前章段落6の注**で参照した「私とは現に存在しているという感じのことである」(『プロレゴーメナ』S.334)のその「感じ」なども含まれることになるはずである。「私」もまた「これ(およびこの種のもの)」と捉えられるほかはないものの一つとなる。そうなると、「現に存在しているという感じ」すなわち「現存在感」という概念と、それの包摂する個々の事例のあいだに認められる同種性とは何か、したがってその図式とは何か、という問いが立てられうることになるはずである。(次第に明らかになるように、それこそが本章の主題であるともいえる。)

13 しかし、ここには明らかに問題がある。他人の感じる赤さやしょっぱさは感じられないからである。「こういう種類のもの」と言われても、どういう種類であるのか、じつはわからないのだ。幾何学的な概念、円や三角形であれば、たとえ他人に円や三角形がどう見えるかわからないとしても、「一点から等距離にある点の集まり」とか「三本の直線で囲まれた図形」といったその「概念」は共有でき、それを使って「そのように、、、、、見えている」と考えれば、その意味での同種性(概念と感覚的諸対象のあいだの)は共通に確保されるといえるが、赤さやしょっぱさの場合は、そのような知的な定義の側から感じそのもの(どのように、、、、、感じられているか)に迫るルートも存在しないのである。それゆえに(=他のルートがそもそも存在しないがゆえに)また、与えられたそれが間違っているという可能性もないことになる。すなわち、じつは正しい赤とは違う色に見えていたり、じつは正しいしょっぱさとは違う味を感じていたり、といったことは起こりえないことになるのだ*。赤とは、他人たちが何らかの根拠によって赤と分類する**ものにかんして、自分にそう見えるそれ、、のことにほかならない、ということにならざるをえないからである。 

*たとえば円の場合なら、眼の疾患等によって円が楕円に見えるということが起こりえ、自分がそうであることを他者に対して証言できる。他者がそれを客観的に確証できるかどうかといえば、それはそう簡単なことではないだろうが、円とされるものが楕円に見え、楕円とされるものが円に見えるといったことを、その概念を使って、、、、、、、、自己確証すること自体は明らかに可能であろう。対して、赤さやしょっぱさや匂いや音色や痛さ等々にかんしては、そうしたことは不可能、つまり起こりえない、、、、、、のである。

** 夕焼け、完熟トマト、消防自動車、日本国の国旗(の真ん中の丸い部分)、……に共通の何かを感知できないとこの(すなわち「赤さ」をめぐる)言語ゲームに参入することはできない。しかし、皆がそこに共通の何を感知しているのかは、(このゲームにどれほど熟達しても)決してわからない。

14 しかし、そうではあっても、そもそも夕焼けというものは赤さを他の色から識別できなければそれとして捉えることができず、塩というものはしょっぱさを他の味から識別できなければそれとして捉えることができない、とはいえるはずである。何を、、識別しているのかはわからないにもかかわらず、である。木や犬、皿や家、等々にかんしては、これにあたるものはない。いや、どんな場合にも必ずあるともいえるのだが、だとしてもそれらは決して本質的な役割を演じない。この種の感覚的要素が本質的な役割を果たすことはありえないのだ。犬にも皿にも、必ず色も臭いもあり、触れば感触も、舐めれば味もし、それぞれ音も出すではあろうが、犬が犬であるために、皿が皿であるために、それらが本質的な(=不可欠な・関与的な)役割を果たすことはない。それらを捉えるのに最も必要なのは、類型識別力という意味での判断力であろうが、それは最初から皆に共通のものであらざるをえない(共通の要素を抽出しているからである)。それはたとえば、5足す2が7であることは、その計算をする際に各人がどんな感じを感じるか等々とはまったく関係なく、皆に共通であらざるをえないのと同じことであるといえる。

15 類型的識別を実行する際にその前提となるのは、区切れた個物というものの存在*、その持続**、その属性の可変性***、その個数****、それが組み込まれうる因果連関*****、といった純粋悟性概念による支えの存在であろう。それらなしには、類型的識別能力そのものが機能しない。経験的な諸概念にかんしても、概念とそれが妥当する感覚的諸対象とのあいだの「同種性」は、じつはこうしたカテゴリーの支えなしには成立しえないだろう。もちろんその他のカテゴリー、否定や様相も、同じく前提となっており、そちらほうがより根源的だともいえはするが、それらはむしろ、この種の実体的なものの成立機構を超えたより広い領域の成立の前提としてはたらくことになるだろう。円や三角形の場合は、その種の実体としてではなく、実体の持つ性質として存在するのが普通であろうが、その点にかんしては色や味の場合も同じである。しかし、円や三角形は、やはり5足す2が7であることと同様に、皆に共通であらざるをえないのに対して、色や音や味などはそうではない。きわめて驚くべきことだといえると思うのだが、これらの概念もまた皆で共通に使用しているにもかかわらず、その本質的な構成要素の内に皆に共通であるとはいえない特殊な要素が本質的に、、、、組み込まれている。どうしてそんなことができるのであろうか。

*もし類型的な区切れた個物(としてわれわれに現れうる物)が存在していなければ、われわれの側にその識別能力があっても役に立たないだろう。

** もしそれが持続しないなら、それを識別できても何の意味もないだろう。

*** ある木はその木であるままで、その属性を変え、たとえば紅葉したり、一本の枝が折れたりできるのでなければ、属性と区別して実体を立てる意味がないだろう。

**** その個数を数えられないなら、類型的な区切れた個物が持続的に存在しているとはいえないだろう。

***** その類型が固有に組み込まれる因果連関自体があるのでなければ、その類型の実在を信じる根拠は薄弱であろう。

16 すなわち、もし皿において円さが概念と諸対象に同種的であるといえるのであれば、夕焼け(や消防自動車や郵便ポスト)において赤さがそうであるといえるはずなのだが、円の場合とは違って概念としての赤さは対象の感覚的な赤さをまとめて「この種の感じ」と言っているだけで概念の側はいかなる積極的な規定力も持たず、そのうえ、その感覚的な赤さそのものがどのようなものであるかはだれもが自分自身の事例においてしか知りえない。これは一体どういう事態なのだろうか。夕焼けの赤さそのもの、塩のしょっぱさそのもの、雷鳴の音色そのものとはいったい何なのか、ともあれまずはこの事態の意味を直接的に理解しようとしてみてほしい。

17 前々段落、前段落の問いに答える前に、この議論連関のうちでは注的な介入にすぎないともいえはするが、それ自体として独自の重要性を持つと思う論点を付言しておきたい。それは、いま問題にしている色や音や味や臭いや痛みや痒みや…といったものを「クオリア(感覚質)」と捉え、それぞれに特定の質感が(たとえ私的にしか同定できないにしても)存在している、という考え方はここでは必要とされず、したがって問題にもされていない、という点である。そういう意味でのクオリアなるものは、たしかに存在するかもしれないが、ここの議論に関連性をもたないという意味で、必要とはされないのである。たとえば、音にかんして、多くの人は絶対音感を持たず相対音感しかもたないから、ある特定の音の直接所与とされるものはじつは存在せず、そうしたものはじつは相対的な関係(の実体化された錯認)にすぎない、といった(種類の)議論がなされることがある。その議論についての細かい話はここではしないが、ともあれその種の議論はここでは関係がない、ということである。そしておそらく、少なくとも哲学的議論として見るかぎり、本当はもともと関係なかったであろうと思われる*。クオリアなるもののそれとしての実在性がじつは相対的な関係だけから生じる錯覚(のようなもの)であっても、ともあれそれ(もし錯覚ならばその錯覚)はやはりあるだろう。すなわち、ともあれ聴こえている音や味わわれている味や見えている色というもの(他の人には決して聴こえず味わわれず見えないそれら)はやはり存在しており、存在せざるをえないであろうからである**。それらが何らかの仕方で相対的な関係性の内に位置づけられうることが、それらの客観性を可能ならしめているのではある***が、どこまでそれらが客観化できたとしてもやはりその私的な要素は残らざるをえない、と考えられる。他人には覗き見ることができない(とされる)それらはいったい何なのかが、ここでは問題なのだ。

*議論が細密になっていくにつれて、もともとは何が問題であったのかがわからなくなり(あるいはわかっていない人が議論に参加し)、議論の焦点がいつのまにかずれてしまうということがよくあるが、これもその例であろうと私には思われる。

**本当の問題は、そうした何かがあらざるをえないという点にある。たまに、(自然物の分類についてさえ)夕焼けや塩のようなそのような「クオリア」の識別が本質的な要素となっているものもあるとはいえ、識別のための本質的な要因とはなっていないあらゆる場合にそれは存在しているはずである(その意味では、「「5足す2は7」感」だってもちろん存在するだろう)。「クオリア」的要素はすべてに伴っているが本質的な(=識別のために不可欠な)役割を果たしていないだけのことである。すべてに伴う(にもかかわらず何が伴っているのかわからない)それらはいったい何なのか、が問題なのだ。

***色もまたそうであるからこそたとえば色覚異常者の客観的検出も可能なわけである。とはいえ、赤と緑が識別できない人にそれらがどう見えているかはやはりわからないのは、識別できる人たちにもどう見えているのかはわからないのと同じことである。

 

四 純粋悟性概念の図式について

 

18 とはいえ、例によってというべきか、話が勝手に先走りすぎたようである。この議論の続きはその後で主題的に、ということにして、ここでは純粋悟性概念の図式の問題に進もう。純粋悟性概念の場合は事情が異なる、とカントは言う。

 

ところが純粋悟性概念は、経験的(それも一般に感性的な)直観と比較するなら、まったく異種的であり、なんらかの直観において見出されうるようなものではない。それでは、純粋悟性概念のもとへの経験的直観の包摂、、は、したがってカテゴリーの現象への適用、、は、いかにして可能なのであろうか。カテゴリーたとえば因果性もまた、感官を通じて直観されることができ、現象に含まれているのだ、などとはだれも言わないだろうからである。ところで、このきわめて当然で重要な問いこそが、判断力の超越論的理説が必要である真の理由であって、この理説によってこそ、いかにして純粋悟性概念、、、、、、は諸現象一般へと適用されうるか、その可能性が示されるのである。(A137-8、B176-7)

 

ここから、純粋悟性概念と経験的直観とに共通のもの、そのどちらとも同種的でありうるもの、それは時間である、とカントは言う。

 

時間は、内官(内的感覚)の多様なものの、すなわちすべての表象の結合の形式的条件として、あるアプリオリな多様なものをその純粋直観の内に含んでいる。ところで超越論的な時間規定は、それが普遍的でアプリオリな規則に基づくかぎり、カテゴリー(時間規定の統一を作り出すところの)と同種のものである。しかし、他方においてこの時間規定は、時間が多様なもののどのような経験的表象にも含まれているかぎり、現象と同種的でもある。したがって、現象へのカテゴリーの適用が可能となるのは、超越論的時間規定を介してであり、この時間規定は悟性概念の図式として、カテゴリーのもとへの現象の包摂を媒介するのである。(A138-9、B177-8)

 

時間は感性の形式だが、規定は悟性のはたらきなので、時間規定はその両者を併せ持つ。すなわちカテゴリーと同種的であると同時に現象と同種的でもあるわけである。

 

われわれは、悟性概念がその使用に際してそれに基づくように制限される、感性のこのような形式的で純粋な諸条件を、悟性概念の図式、、と名づけ、悟性がこの図式によっておこなっている仕事を、純粋悟性の図式機能、、、、と名づけよう。(A140、B179)

 

悟性の結合するはたらきによって感性に図式が描かれ、それによって悟性概念の使い方が制限される。そういうはたらきが図式機能である。これは、経験的な水準で個々のものの概念がそのものの像(Bild)を作り出すのと同じことである。

19 現象とそのたんなる形式にかんする、われわれの悟性のこのような図式機能は、人間の魂の奥底に秘められた技である。その真の秘技の何たるかをわれわれがいつか自然から推察し、白日の下に曝すことは難しかろう。(中略)これらに対して純粋悟性概念の図式は、けっして形象化されえず、むしろ、カテゴリーが表現する概念一般による統一の規則に従った純粋総合にすぎない。それゆえにそれはまた、構想力(Einbildungskraft)の超越論的な産物でもあって、この超越論的な産物は、すべての表象にかんする内的感官の形式(時間)の諸条件に従って、この内的感官の規定一般に関係するのである。一切の表象が統覚の統一に従ってアプリオリに一つの概念の内で繋がらねばならない限りにおいては。(A141-2、B180-1)

 

これは、カテゴリーは空間的な絵(Bild)には描けないが、時間的な像(Bild)として描くことは可能であり、われわれはそれを使ってカテゴリーを経験に適用している、と言っていると解しうるように思われる。これを、絵画化は不可能だが音楽化は可能だ、と表現しても間違いともいえないだろう*が、その際には、われわれの知っているあの音楽ではなく、まずは聴覚における音というものを表象し、それに対して(以下にカントが述べるような)諸条件を与えていくことでカテゴリーが図式化されうるかを考察してみるべきであろう。少なくとも、数や因果性はこのやり方で図式化できるように私には思われるが、どうであろうか。

*音楽化であって動画化ではない。動画は時間的であると同時に空間的でもあるから。

 

20 まずは、量のカテゴリーから。

 

しかし、悟性の概念としての量(quantitas)の純粋図式は数であって、数とは一に一を(つまり同種的なものを)次々と加えていくことを総括する表象である。(A142、B182)

 

「音楽」で考えるなら、これは同じ(と捉えられる)音が、例えば、カン、カン、カン、…、と続けて鳴り続けるとき、それを順次「加えて」いくことだろう。しかし、たとえば石ならば、これ、これ、これ、…、と実際に一つ一つ集めてきて、集まった集積を「これら全部」と捉えることができるが、音では、ということはつまり時間においては、そんなことはできない*。それを集めて集積を「これら全部」と一括するには、一回一回を記憶して保存するほかはない。すなわち結合(総合)という作業がそのまま「全部」をつくりだすことになる。繰り返して起こる同一の(と自分に感じられる)感覚でも、われわれはそれらを数えるということができる。逆にいえば、それによって時間を測るということが可能になる。一種類の繰り返す音(に類するもの)を「単位」とすることで、それによって他の時間経過を「測る」ことが可能になるからである。

*音楽ではなく動画であれば、その空間的要素を利用して、空間における石の場合と同じことができてしまうだろう。

21 しかし、そんな芸当がなぜできるのか。ここにたしかに「…秘められた技」があるだろう。ここで、その正体とまではいえまいが、たしかに秘められているとはいえる一つの真実を明るみに出すことができると思う。前段落で論じたことの内にもじつはそれが暗にはたらいていたのだが、「数える」ということ(がどうして可能なのか)を考えることで、そこではたらいている秘技の本質を明るみに出すことができる。カン、カン、カン、…、という音の連鎖を聞くとき、どの「カン」も、当然のことながら、今(現在)に於いて聞かれるだろう。今(現在)とはしかし「じつはその時しかない、、、、時」のことである(それ以外の基準で今を他の時から識別することはできないだろう)。では、なぜその時しかない時が、カン、カン、カン、…と複数回続く、、などということができるのだろうか。もちろん、時が「経過する」からである。われわれはもうこの捉え方に馴染んでいる。しかし、そもそもこの「経過する」とはどういうことなのか。それこそが真の謎なのだ。それは、空間的に横並びになるような場合と同様に、それぞれの「カン」が(時間的に)対等に存在するようになるということなのか。明らかにそうではないだろう。それでは「経過」にならない。必ずそのうちただ一つの「カン」だけがしかなさ、、、、という形で突出していなければならないからだ。ここに「経過の矛盾」とも呼ぶべきものがある。一方ではもちろん、このように、現に一つの「カン」がしかなさ、、、、という形で突出していることも、つまりじつはそれしかない、、、、ことも、身をもって全面的に体験していなければならないが、他方ではまた、まさにそれとともに、各「カン」の生起を完全に対等視する非感性的な、、、、、視点をも併せ持たねばならないのである。すなわち、現に身をもって体験しているはずのそのしかなさが(しかしいつもそれと「同じ」ことが起こっているという仕方で、すなわちいつでも、、、、しかないのだ、という仕方で)連鎖しうるためには、現実的・絶対的なしかなさが形式化・相対化、すなわち概念化されねばならないのである。現実的なしかなさから概念的なしかなさへと、いいかえれば、実存的なしかなさから本質的なしかなさへと、その意味を変えねばならないのである*。第二章の後半の段落4および段落6で導入された時制カテゴリー概念を使って表現するなら、これはまさにその時制カテゴリーがはたらいているということだ、ともいえる。

*この両義性にこそ「図式」というコンセプトの本質が隠されているはずだ、と私は思っている。悟性と感性を繋ぐ隘路も本当はここにあるはずだ、と。

22 概念的なしかなさといえどもあくまでも現実的なしかなさそのものの概念化でなければならないのだから、それは「概念化された「現実的なしかなさ」」でなければならないこととなり、それと同時に、現実的なしかなさのほうも、そう捉えられた以上、すでにして「概念化された「現実的なしかなさ」」でもなければならない、ということになる。強調点は逆であるとはいえ、結果的に同じものになるわけである。そうではあるのだが、そう捉えられた後でもやはり、現実的なしかなさと概念的なしかなさの対比は(それゆえにもはや「語りえぬこと」として)厳存し続けざるをえない、ということこそがこの問題のキモである。この端的な現実的現在のむきだしの存在は、通常の平板な概念的理解(において理解されたかぎりでのあくまでも概念的な現実的現在)の側から見れば、もはや概念的理解を超えた、いわばこの世ならぬ(=この世的な理解を超えた)超越者であることになる。どこまで概念化、平板化をしても、最後の一点では、その捉えがたき現実性にぶち当たらざるをえず、翻ってじつはまさにその事実こそが、当の概念化の運動全体を究極的に支え駆動している根源でもあるからである*。カントに反して、形而上学の源泉はここに見て取るべきであり、すると、それはむしろこの世の成立に根深く組み込まれていることになる。

*以前、この問題をアキレスと亀の対立として説明したことがあったが、世の中にはこの問題をどうしても亀的視点からしか見ることができない人が一定程度存在することがわかって興味深かった。しかし、亀を決定的に引き離すアキレスの突出こそが亀の運動をはじめて可能ならしめもする、という点を決して見逃してはならない。

23 現実的(実存的な)なしかなさの存在を感性的と見なし、概念化(本質化)によるそれの平板な連結を悟性的と見なせば、この事態こそが諸々の図式化の根源にある「秘められた技」であることになる。とはいえおそらく、この事態は感性と悟性の繋がりなどということよりも遥かに根源的な事態を表現しているはずである。おそらくは、われわれがこの世界の像を描きうるのは、このように、(端的な)唯一性とそれの、、、(平板な)連結、という矛盾した運動の図式を描くことができるからなのである*。これを時制の図式と見なすこともできると思うが、ともあれこのことこそが感性と悟性、直観と概念の繋がりをもまた可能ならしめていることは疑う余地がないだろう。これが可能であるのみならず、さらに(世界構成上の)必然でもある以上、われわれの感性はすでにして概念化されていなければならないことになる。これはまた端的なA事実からA系列を経由してB関係を構成し、おのれ自身をB化し、この両義性を保持したまま(すなわち矛盾を含んだままで)保持することである、ともいえる。時制を含んだ意味での時間とは要するにこの矛盾のことであろう。A系列には過去と現在と未来しかないはずなのに、その過去や未来の内部にもやはり前後関係が存在しており、その前後関係は過去と未来の関係をモデルにして理解せざるをえない、と同時にまた、それでもやはり端的なA事実そのものの現実的突出は、すべてはそれを根拠に成り立っているのであるから、やはり必ず存在していなければならない、からである**

*ここでぜひとも再び、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』第8章段落20のあの描けない図の話を思い出していただきたい。もし思い出せない方は、是非ともここでもういちど、そこを再読して再確認していただきたいと思う。さらにできれば、出発点をのっぺりした世界のほうではなく、そこでは「異様なあり方」と言われているほうに置いて(したがって少しも異様ではなく当然のことと見なして)、その描けない絵の描けなさを描き直そうしていただけるとなお有難い。本章の議論は全体として、この描けない絵こそがカント「図式」概念の隠された本質であるとの直観に裏づけられている。

**この問題はもちろん、マクタガートによってはじめて剔抉されたものだが、それは一に係って、どこまでも概念化されえない(いいかえれば、もはや繰り返される構造の内部にはなく、それを超出している)現実的現在というものが厳存している(ことによって時間は初めて可能となる!)という認識によるものである。平板に理解された時間というものに、だから矛盾が内在せざるをえないのである。この論点を外して、一般的にA系列論とB系列論を対立させてみたり、ましてやどちらかの立場に立ってみたりすることには、何の哲学的意味もない。

24 回数を数えるとはそれしかなさ、、、、連結、、(という矛盾)が可能ならしめる事態であり、それなくしては数というものは(一見してわかる四つ五つを超えては)ありえなかっただろう。物(空間的事物)の個数といえども、この「しかなさの連結」という秘められた技を使って「数える」以外には、その個数を調べる方法は元来なかったはずである。個数は回数に基づき、回数は唯一性の平板化に基づいている。数えるということを例にして述べたが、このことはつまり、記憶すること一般にもあてはまるはずである。記憶それ自体が、(端的な)唯一性とそれの(平板化された)連結という矛盾した像をいわば一枚の絵(エッシャーのような)に描きうることによって成り立っていることは疑えないと思われる。それゆえ、カント超越論哲学の根幹を為す「総合(結合)」もまた、じつはこの仕組みを根底に置くことで成り立っているにちがいない。諸々のカテゴリーが時間的に図式化されざるをえない(されうる)との理解の根底には、この事実が隠されていると見るべきであろう。

25 しかしながら、これらすべてのことにはさらに、平板な世界そのものの側にも、もう一つの不可欠な源泉を持っていざるをえないことを、ここでいまいちど確認しておきたい。それは、空間的に表象すれば、区切れた同型のものが複数個存在しているという、時間的に表象すれば、区切れた同型のことが繰り返し起こるという、事実の存在である。その種のことがまったく起こらない世界もまた十分に可能ではあることに鑑みれば、数の成立のためにこちらもまた不可欠であったことは疑えない。数の可能性は、否定や様相とは違って、そして関係の諸カテゴリーと同様に、世界の側のこの偶然的な(=他であることも可能であった)事情に依存せざるをえないのである。

26 量についてはこの程度にして、つぎに質のカテゴリーについて考えよう。質のカテゴリーの中心は否定であった。

 

否定性は、そのものの概念が非存在(時間における)を表示しているような、そのようなものである。それゆえ、実在性と否定性の対立は、充実した時間か空虚な時間かという、同一の時間の区別において生じる。(A143、B182)

 

数の場合に比べると、これはかなり非洞察的な見解であるといわざるをえない。否定性を非存在といいかえ、それに「(時間における)」という限定を付け加えているが、それはしかし付け加える前から理解されていたことをただ時間にも適用したというだけのことにすぎない。「非存在(時間における)」の理解は否定概念そのものに全面的に依拠しており、すでに理解されていることを時間にも適用しただけのことで、数の場合のようには、それが否定の本質を新たに鋭く抉り出す、という要素がない。第二文の充実した時間と空虚な時間の区別にかんしても、同じことがいえるが、多少内容を付け加えただけますます欠陥が目立つようになっているともいえるだろう。そもそも充実と空虚はたんにあり方の違いにすぎず、その空虚を充実の否定と見たとき、その二つの事態の関係を捉える仕方こそが否定であろう。だから、充実の側を空虚の否定と見れば、それもまた(否定される側と否定する側が入れ替わっただけで)否定の関係ではあるだろう。否定のそのような想定的な理解は、時間の理解においてもすでに、、、前提されているはずである。時間の経過ということの理解には、すなわち時間の理解には、否定性の理解が含まれていざるをえない(それは必然的に何かでなくなる、、、、ことであらざるをえないからである)。すでに否定の理解を前提して理解された時間概念を使って、充実した時間か空虚な時間かという事象内容的な区別によって否定を捉えるのは論点先取、あるいはもっと素朴に表現すれば、手遅れであろう。否定は、時間を含めて何ごとを理解するにも、その(すなわちおよそ何ごとかの理解ということそのものの)前提としてすでにはたらいており、それを時間にだけ固有に、、、関係づけることは無理であろう。

27 どれほど基礎的ではあっても、時間といえどもやはり、一つの実在性(事象内容)レアリテートにすぎない。「神の現存在についての存在論的証明の不可能性について」におけるカントの「存在は実在的(事象内容的)レアールな述語ではない」(A598/B626)という主張を転用して、「否定は実在的(事象内容的)レアールな述語ではない」と主張することができるし、実際そうであらざるをえない。存在と同様、否定にもいかなる事象内容もありえない。「……ではない」と否定されるべき事柄(「……」の部分)は何であってもよいのだ。そして、「……ではない」と否定されるべき事柄の絵が「…である」と肯定される事柄の絵と同一でなければならないことは、その現実存在が主張されるべき事柄の絵がそのたんなる可能性が主張されるにすぎない事柄の絵と同一でなければならないのと同様である。否定は、いかなる事象内容にかんしても、その外から与えられるほかはない(空虚といえどもそれ自体はむしろ肯定であろう)。

28 この点については、さらに第二章(連載第2回)の段落21(とその注*)の議論との関連が、重要である。そこでは「否定の場合にも様相の場合にも、その言語のはたらきをもってしても描き出すことができない、言語的な対比では描出しえない、究極的な現実性が存在しており、繰り返すなら、それが無内包の現実性である。」と言われており、その注*においては、カントの「存在は実在的な述語ではない」にかんして、「これは……素朴に……「~がない」ことの絵が描けないのであるから「~がある」ことの絵も描けない、という意味に解することもできる」が、「そういう証明によって到達される「存在」は、結局のところ、無内包の現実性としての存在そのものには到達できない、と言っていると解することもでき」る、と言われていた。ここでまず第一に強調されるべきことは、まさにこの二段階性こそが――すなわちその二つを架橋できるということこそが―――図式化の運動の根底にあるものだろう、ということである。否定もまた、端的な現実性そのものの否定とそれとは無関係なたんなる概念的な否定とを同時に意味しうるのである。前者を感性的、後者を悟性的と解しうるなら(解しうるだろうが)、それは図式であろうからだ*

*否定は、数とは異なり、時間とはとくに関係しないが、にもかかわらず構造は同型である。こちらは抽象度がより高く、現在ではなく現実そのものに、すなわち現実の現在ではなく現実の現実に関係するわけである。(この点にかんしてはさらに、段落46以下の「様相」にかんする議論を参照のこと。)

29 しかし、第二に強調されるべきことは、まずはもっと基礎的で初歩的な確認がカント自身のこの存在論的証明批判の議論からあからさまに引き出されなければならない、という点である。時間であれ何であれ、否定を世界の事象内容の側から捉えることは決してできない(のは存在の場合がそうであったのと同様である)。否定という最も抽象度の高い操作を空虚さといった事象内容に重ねて理解することは決してできない。数えられる数や持続する実体や因果関係の場合のようには、否定は時間という実在に関連することはできない。世界がどうなっていようと、そうはなっていないこととの対比においてしか、そうなっている世界は把握できない。それはいかなる(たとえば区切れた同型のものごとがあるかどうかといった)実在的(事象内容的)な事情とも本質的には関係しないのだ。

30 カントはさらに、この問題を感覚における度の問題に関係づけて論じているが、そしてたしかに感覚がすべて度をもつということは非常に興味深い問題であるとはいえるとはいえ、カテゴリーとしての否定の問題とはじつはまったく関係がない。度(内包量)についての議論は、この連関においては余計なので、後に機会があれば別の連関で考察したい。

31 関係のカテゴリーに進もう。まずは実体の持続について。

 

実体の図式は時間における実在的なものの持続であり、(中略)それゆえこの基体はあらゆる他のものが変化しても不変に留まる。(A144,B183)

 

たしかに、ある実体の属性が変化するということ、たとえば色が褪せるとか、形が歪むとか、大きさが縮むとかいったことは、実体そのものの不変性がそのことの前提となっているとはいえる。しかし、それでは、実体そのものの変化やそもそも実体属性関係と無関係な変化はありえないのであろうか。前者にかんしては、セーターの色が褪せ、形が歪み、大きさが縮んで、ついにセーターの機能を果たせない、たんなる縺れた毛糸の束になってしまう(すなわち実体変化を起こしてしまう)、といった場合が考えられるだろう。後者にかんしては、世界全体が暗くなるといったような(何か特定の実体の変化ではないが、しかし変化ではあるといえるような)ことが考えられるだろう。

32 縺れた毛糸だけが残る前者にかんしては、これは形相が消滅して質料(素材)だけが残る、といいかえられる。このような場合、他方で別の素材から、消滅したセーターと性質的に極めて似た(区別がつかない)セーターが再度つくり出されたなら、どちらがもとのセーターと同一だといえるか、といった問題が提起可能であるが、このとき興味深いのはただ、われわれの世界が概してそのような問題提起が可能な造りになっているという点だけであり、やはりどちらかの立場に立つといったことには何の意味もない。しかし、どちらで考えても、実体は持続してその属性だけが変化するという捉え方を適用することができ、できるだけでなく、ある意味ではそうせざるをえない、という点は興味深いともいえる。やはり不変の実体があらざるをえないということだからである。しかしそれを、おそらくはわれわれの世界の構造とわれわれの言語の構造との組み合わせが作り出す偶然の事実にすぎないだろうと見れば、さほどの本質的な問題がそこに存在するわけでもないともいえる。

33 後者の場合、与えられた世界の全体に全体的変化が起こるだけだが、これはもちろん与えられた世界というものを不変の実体と考えればよいことになる。しかし、世界そのものが実体であるとは何を意味しているのだろうか。セーターが縺れた毛糸と化するといった変化の場合でさえもじつは同じ問いが問われうるのだが、その変化そのものを支えている不変の基体はじつのところは何だろうか。もちろん、それは世界そのものの同一性であると答えても間違いではないのだが、問題はしかし、それはじつのところは何が変わらないということなのか、とさらに問われざるをえないという点にある。その問いに抽象的に答えるなら、それはいわばB系列的なものの存在、すなわち年表やカレンダーや時計の文字盤などが表現しているようなそれ自体は変化しないと考えられている何かの存在である、と答えられはする*

*とはいえもちろん、年表やカレンダーや時計の文字盤といったものは、世界の中に存在する特定の物理的な周期運動を一定のものと見なすことによって成り立っているのであるから、それ自体が変化する際には、当然のことながら、その変化そのものはもはやそれを使っては表現できない、という問題がある。何を基準にしようと、その問題は存在するだろうから、その意味では、いかなる実体も暫定的なものにすぎない、といえる。この暫定性は自明で不可避のことのように思われるかもしれないが、われわれが認識できるかぎりの世界のあり方にかんするかぎり、必ずしもそうとはいえない。それが暫定的であるとはいえないこと(すなわち決定的であるといえること)の論証こそが超越論哲学の課題であったといえよう。

 

五 実体の持続から話が逸れて主体の側の持続と自己触発について

 

34 世界そのものの抜本的変化でさえも、たしかにそのような不変のB系列(がありうるならばそれ)を基盤にして表現することができるだろう。が、そのようなB系列を抽象的に想定してみてもさしたる意味はなく、それは何らかの実在に関連づけられねばならないであろうし、さらにまた、かりにそのようなものが存在したとしても、われわれがそれを経験(認識)できないのであればやはり何の意味もないだろう。それゆえ、むしろ逆に、問題を経験の可能性の条件の側から見直してみるとどうなるかを考えなおしてみなければならないことになるだろう。その場合、自然に内在する周期的変化以上に、それに先んじてより重要なものがあることに気づかざるをえない。それは、その変化を「数える」ことができるということ、さらに根底的には、そもそも記憶ということが可能であるということ、である。とはいえしかし、すでに論じたように、記憶*が可能であるためには、周期的変化とまではいかずとも、少なくとも外界における類型的・法則的変化の存在は不可欠なのであった**。すると、ここで必要不可欠なのは、この相補的な関係を含んだ記憶の存在であることになる。相補的な関係とは、記憶は外界における類型的・法則的変化の存在に拠って可能となり、外界における類型的・法則的変化の存在は記憶の存在に拠って可能となる、という関係である***

*これは事実としてわれわれがもつ(=われわれのこの世界に実在している)記憶についての話をしているのではなく、およそ記憶とみなすことができる存在者の可能性の条件の話をしている、ということをお忘れなく。事実としてのこの記憶機構の成り立ちの話ではなく、本質存在としての記憶なるものの論理的に不可欠な仕組みについての話である。つづめていえば、哲学的議論をしている、ということである。

**法則的連関というものがあるだけで時間が一般的に測れるほどではなくとも、記憶は可能ではあるだろう。

***この点については、第二章後半の「落穂拾いと全体の展望」(すなわち連載の第三回)の三「いかにして記憶は可能か」(とりわけその段落16~19)において比較的くわしく論じられているので、忘れてしまった方はここでぜひ再読して確認してほしい。

35 第二章後半の「落穂拾いと全体の展望」の段落16~19の議論を、第一次内包の先行性と第0次内包による逆襲という観点から縮約的に再論しておこう。子どもが転んで膝から血を出して泣いていたらその子はそこが「痛い」のだ、というような認定の仕方は、観点を変えてみれば、外的な因果連関の中に内的感覚を埋め込んでそれに客観的な意味を与える作業であるといえる。記憶の成立にもこれに相当する、それを支える外的因果連関(に類するもの)の存在が不可欠であろう。内的感覚(子どもが感じる痛みそのもの、すなわち痛みの第0次内包)が、いつも外的因果連関と重なって起ることによって次第に自立性を獲得していくことができるようになるのと同様、内的記憶(外的根拠のないなまの記憶、記憶の第0次内包)もまた、いつも外的因果連関(に類するもの)と重なって生じることによって次第に自立性を獲得していかざるをえない*。記憶の成立にも、第0次内包の「逆襲」過程が必要なのだ。そして、どちらの場合にも、それが循環に陥らないためには、前提されざるをえない最終的な基盤がある。それが超越論的なカテゴリーである。それが世界の変化と記憶の成立の相補的な関係を最終的に支えているわけである。

*その外的連関といえども必ずだれかの記憶によって支えられていざるをえないことは、転んで膝に怪我をする場合も必ずだれかに目撃されなければならない(すなわち視覚が使用されざるをえない)のと同じことで、その記憶や目撃にかんしても同じ問題は存在しつづけるので、どちらの場合も他者を巻き込んださらなる循環を想定せざるをえない。

36 その結果、感覚にかんしていわゆる第一人称特権が成立するのと同様に、記憶にかんしても第一人称特権が成立することになる。通常そう考えられていないのは、後者に関しては、客観的事実との対比がなされて、それによって訂正されることがどこまでもありうる、と考えられているからである。もちろん、それはありうる。対象との関係においては。しかし、主体との関係においては(主体の側の「何であるか」にかんしては)、それがありえない(地点が必ず存在する)。記憶として現れている通りであることしかできない地点が存在せざるをえないからだ。それゆえ、欺く神(悪霊)に対するデカルトの応答は、正しかったとはいえまだ足りなかったことになる。デカルトは、欺く神(悪霊)にかんして「私が私を何かであると思っているあいだは、彼は私を何ものでもないもの(無)とすることはできない」と言った。これは、独在性に基づく(あるいは誤同定不可能性に基づく)*端的な存在主張(実存の自己確証)であり、それ自体としては問題なく正しいのではあるが、じつはこれだけでは足りない。このデカルト的論証には、むしろカント的な補足がなされざるをえない、、、、、、のである。あるかないか、という実存をめぐる論点だけでなく、何であるか、という本質をめぐる論点についても、またけっして誤ることができない部分があり、あらざるをえない、、、、、、、、からである。たとえ悪霊に欺かれて捏造されたものであっても、私が、、私を何かである(何であれ)と思っていさえすれば私は必然的に存在する、、、、**といえると同時に、たとえ悪霊に欺かれて捏造されたものであっても、私が私を何かであると思っていさえすれば、私は必然的にその何かである、、、、ともいえる(地点が必ず存在する)のである。「がある」ことを超えて「である」ことにかんしても、疑いえなさはある。これがデカルトに対するカントの小さな、しかし決定的な補足であった。それがなければ一瞬前とさえ繋がるということができないからである。客観的世界の全体がそこから構築可能となることは、哲学の議論としては、あくまでもそのことの帰結にすぎない。ともあれ、補足された要素を基盤とすることによって、すなわち動かぬものと(すなわちいわば実体化)することによって、はじめて客観的世界認識もまた可能となるのだ。そこを固定しなければ(固定していると見なさなければ)、世界の側に起きる客観的な変化をそれとして経験、、することができず、したがって何が客観的に変化したのかを認識、、することはできず、したがって客観性そのものが成り立ちえないからである。

*独在性に基づくことと誤同定不可能性に基づくこととはさしあたっては別のことではあるが、後者は結局のところは前者に収斂せざるをえないという点については『世界の独在論的存在構造』や『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』などで詳論したのでそちらを参照されたい。

**ここで「私が私を…」という表現を、決して一般的に(=だれに於いても)成り立つ平板な反省的自己意識の成立のように理解しないことが、まずは何よりも重要である。冒頭の「私が、、」の一声は驚きとともに発せられなければならない。なんと(他人ではなく)私である!、私という(変な)ものが現実に存在している!、というようにだ。すべては、そこから始まるのである。(ここでの主要論点ではないが、繰り返し論じてきたことをこの機会をとらえてまた繰り返しておくなら、そもそも一般的な反省的自己意識などというものはありえない。そのように見えるものは必ず独在性(しかなさ)を媒介にして成立している。その点も何度も論じてきたが、やはり忘れないでいただきたい。)

37 疑う余地なくそれがある、、、だけでなく、疑う余地なくそれである、、、。そのことがすべての出発点で、しかもそれしかない、、、、ことから、すべては開始される。それを不変のものとして根底に置くことによってはじめて、それ以外のすべての変化を変化として捉えることが可能となる。もしそこが揺らげば、それ以外の何ごとも捉えられなくなるだろう*。だから、当然のことながら、もしこの記憶そのものもまた先ほど想定したような世界の抜本的変化の内に含まれているというようなことがもし起ったならば、もはや変化を変化として捉えることはできず、世界を経験(認識)することはできなくなる。しかし、最も根源的な意味においては、そのような想定はそもそもすること自体ができない。それは一見考えられることのように見えて、じつは文字どおりの意味で考えられない、、、、、、ことだからだ**これ、、の固定性を信じることがすべての出発点なのである。この事態を描写できる言葉はないが、ともあれ信じるという言い方ではまったく足りない。信じない可能性はないからである。もしかりに自分の記憶がいつのまにか変化していたとしても、その変化を知る方法は、究極的には、存在しない。自分のという捉え方(したがって言い方)自体がすでにして最低限の記憶的持続を前提にしているからである。たしかに、「自分の記憶」とは、まずは独在する(=そもそもそれしかない)唯一の記憶という意味ではある。そもそも他は存在しないからそれが「自分の」であるわけだ。それは確かだ。しかし、それに加えて、そういえるためにも、そこに最低限の持続はそなわっていなければならないのだ。だから、「自分の」と言ったときにすでにして「の記憶」がもう含まれていざるをえないのである。「自分の記憶」は、だから「この記憶のもつ記憶」という構造を持ってしまっているわけである。その記憶が自分なのであって、それにはもはや対比されるべきさらなる本体は存在しえないのであるから、それが贋物であったりすることはできない、それはそういう記憶である***

*かりに実は(=物自体としては)記憶そのものが抜本的に変化しているとしても、変化した側のほうがすべての出発点となるので、その変化はないものとして、すなわちそちらは不変であるとして、すべては開始されざるをえない。(しかし、そもそも記憶そのものが抜本的に変化するとはどういうことであろうか。身体を基体的な実体と置く以外に意味の与えようがないであろう。)

**それを考えようとしても背後から必ずそれが前提されてすでにはたらいてしまっているからである。

***なぜかあまり強調されることがないように思えるのだが、まさにこの事実(=この段落で述べたような事実)こそが「超越論的統覚」がその固有のはたらきを為しうる(そして為さざるをえない)根拠であるだろう。それは実際につねにはたらいているし、はたらかざるをえないのである。

38 とはいえ、この根源的な出発点もまた、一個の存在者であるかぎりにおいては、それに基づいて初めて成立するはずの客観的世界の内部へ(やはりカテゴリーとして分類されるべきある種の規則に基づいて)置き入れられ、客体化されねばならないだろう。そうでないと、自分自身というものもまたこの世界の中に存在しているという事実のほうが作り出せないからである。それは、端的な現在(A事実)という突出点を他の一般的な現在と同等なものとして並列させて一般的な時制(A関係)という客観的な仕組みを構築したのと同型のやり方で、一般的な人称というカテゴリーを構築することによって為されるべきことである。が、カントに於いてはこの問題もまたタテ問題化されて、自己触発という仕組みとして説明されている。それは本来前章で論じるべきことであったのだが、さしたる重要性もないと見て割愛したので、ここでこれを中島義道の解釈に即して解説しておこう。

39 超越論的統覚の綜合作用は、ふつうは物自体からの触発によって諸表象を結合して客観的世界を構成するわけだが、それと同時に、そのはたらきそれ自体が内官(内的感覚)を触発して自分自身の主観的世界を構成し、それを客観的世界の内部に位置づける、とされる。中島義道の要約によれば、こうである。

 

私は物自体によって触発されて、世界時間を他の人々と同様に構成し、「そのことによって」つまりこうした私自身の構成作用によって触発されて、この世界時間のある特定部分を自分の時間として、他の人々と同様にでなく切り取り、そしてその内に私の特定の過去、特定の現在、特定の未来を秩序づける。(中島義道『カントの時間論』岩波現代文庫、193~4頁)

 

そして、この「自己触発」のはたらきは「私の無規定的な現存在が、客観的時間の中に規定された私の諸状態の先後系列へと転化する」(同書189頁)際の、その「転化」の根拠であるとされている。かくて自己意識以上の自己認識がはじめて可能となるわけである。これは、先ほどまでの話と連結するなら、その不変性を前提として世界を構築するあの記憶の主体を、構築された世界の中に位置づけるという仕事にあたる。この仕事はたしかに必要ではあり、それを担当するのがカントに於いては自己触発であるともいえるだろう。この自己触発概念にかんする中島のカント解釈は(私の知る他の解釈に比べて)哲学的価値の高いものだと私は思うが、(とりわけこの引用箇所などは)カントが明示的に語っていないことも語ってくれているため、カントのこの議論の欠陥をも(語ることなく)ともに示してくれてもいるように私には思われる。

40 最初にどうしても気になるのは、引用文冒頭の「私」とはだれのことなのか、という問題である。これは中島義道を、あるいは彼にとっての彼自身(だけ)を指しているとも取れるが、主観一般を指しているとも取れる。私が哲学を学び始めたときにいちばん気になった(=気に入らなかった)のがこの種の曖昧な「私」の使用法であった。この用法の存在によって最も重要な問題が飛び越されてしまっている、と強く感じたからである。しかし、その点については何度も繰り返し論じてきたので、ここではそこを深く掘り下げることはせず、実は同じ問題であるともいえるのではあるが、ここで固有に興味深い問題に進もう。それは「他の人々と同様に」と「他の人々と同様にでなく」との対比である。冒頭の「私」が中島義道(にとっての自己自身)を指しているなら、「他の人々」とは彼以外のすべての人を指し、主観一般を指しているなら、「他の人々」とは一般的なその主観にとっての他者を指すことになる。前者を絶対的解釈、後者を相対的解釈と呼ぼう。中島自身が前者である可能性は高いが、カントがこれを言ったとすれば、相対的解釈を取るほかはないだろう*

*カント自身の問題点は以下に論じることになるが、中島の問題点は、この絶対的に解釈されざるをえないような意味での「私」の存在はそもそもいったい何であるのか、たくさんの「私」と発話する主体たちのうちに一人だけ本物の、、、「私」がいるとはどういうことなのか、その違いはいったい何の、、違いなのか(それはどのように知られるのか、それを発話して伝達が成功する際には何が伝わるのか)といった問い――すなわちヨコ問題の問い――がまったく問われていないことにある。

41 カントに於いては、当然のことながら、自己触発そのものはだれにでも起こることであることになる*。もちろん、物自体からの触発による客観的世界構成の場合とは異なり、自己触発による場合にはその内容は各人それぞれ異なる。しかし、あたりまえのことだが、内容がそれぞれ異なるということは他人同士の場合であっても同様であろうから、それらの中に一人だけ私(であるという他とは異なるあり方をしたやつ)がいるとはどういうことなのか**、という問題にはこの種の議論によっては答えられない。自己触発という議論からわかることは、たんに(それぞれに)内的な世界をつくるということだけである。その「それぞれ」の中に私がいるかいないか、もしいるとすれば何に拠ってそうであるのか(また何に拠ってそうだとわかるのか)という問題は、そもそも扱われていない***。そうすると、要するには、皆に共通の客観的(外的)世界とそれぞれに異なる主観的(内的)世界とが存在している、というだけのこととなる。その「それぞれ」の中に一人だけ他と違うあり方をした(しかしその違いは主観的世界の内容の違い、、、、、に拠るのではない)人がいるのはどういうことなのか、という方向の問いはそもそも問われていないのである。問われていないだけならまだしも、時に、なお悪いことには、それぞれに異なる内的世界もまたあるということがその答えでもありうるかのような誤解を与えることになる。じつをいえば、その誤解こそはこの議論にとっては致命的である。どれが私であるかはそのような事象内容的、、、、、な違いによっては与えられない、ということこそがこの問題のキモだからだ****。どの時が今(現在)であるかは、それぞれの時にどのようなことが起こっているかによっては決まらないのと同じことである。

*中島義道も恐らく自己触発は私にしか起こらないとは言わないであろう(しかし何故?)。そうであるならばやはり、前段落の注*に述べた意味での「私とは何か」という問いは自己触発という事実の存在によっては答えられないことになるわけで、そのことをこれから論じることになる。

**この問いは、中島義道の例に即して語るなら、「非常にたくさんの人間がいるのに、なぜよりにもよって中島義道という男が私なのか?」となるが、それよりもまず、「非常にたくさんの意識的存在者が存在したし、これからも存在するであろうが、それらのいずれも私ではない(私はそもそも生じない)可能性もありえた(中島義道という男もまた私ではないただの一人の人間にすぎない可能性もありえた)のになぜそもそも私が生じたのか?」のほうが先行すべき問いである。

*** カントの場合はその問題が存在せず、中島の場合はその問題が問題としては扱われずにそのような存在は自明の前提とされている。

**** ここではそこまではまだ論じていないのではあるが、しかしまた逆に、各人それぞれの主観的(内的)世界とはそもそも何を意味するのか(それが何故に「主観」的で「内」的であるとされうるのか)は、ここで論じられているような意味での「私」(すなわち〈私〉)の存在の意味を理解した後でしか(すなわちそれをさらに一般化・概念化するという経路を経ることによってしか)、その真の意味は理解できない、という点は決定的に重要である。(これについても色々な形で論じてきたが、『世界の独在論的存在構造――哲学探究2』の終章の「「私秘性」という概念に含まれている矛盾」から後の部分が、この問題にかんする「古典」である。)

 

42 段落36で論じた、私が私を何かであると思っていさえすれば、それだけで必然的に存在してしまい、同時にまた必然的にその何かでもあってしまうような、そういう「私」のあり方は、この(=以上述べてきたような)問題の存在によってはじめて可能ならしめられている。私の存在とはしかなさの存在のことだからである。すべて、、、がそこから出発するのでなければならないからである。事実、すべてはそこから出発している。その事実を誤魔化さずに丁寧にたどるのが超越論的哲学の仕事である。そこにはおそらくカントが自己触発と呼ぶような種類のはたらきもまた介在しているにはちがいないが、それはしかし他人の場合でも同様であることになるだろう。自他の違いという問題はこの種の仕組みの介在によっては解明できない。さらにいえることは、まさにそれゆえに(=自他の違いという問題はこの種の仕組み介在によっては解明されないがゆえに)、この自己触発の仕組みが為すべき仕事は決して完全には成し遂げられないのだ、ということである。すなわち、私の現存在を客観的世界の中に埋め込むという仕事は完全には成功しないし、成功しないのでなければならない。それが完遂されないことこそが、世界の開けの原点としての私が現に存在してしまっているということだからである*

*精確に言い直すなら、タテ問題に翻訳するなら、それが完遂されないこととして翻訳されるしかないことこそが世界の開けの原点としての私が現に存在しているということなのだ、となるだろう。それゆえ、現実の世界にはすでにして形而上学が内在している、と考えざるをえないことになる。

43 この問題を直観的に理解するためには、身体交換(見方によっては記憶交換)というよくあるSF的なお話を思考実験的に使って考えてみるのが近道である。テレビドラマ等では、たいてい二人の男女のあいだで身体が(見方によっては逆に記憶が)入れ替わるのだが、もちろん男女間であることはここで論じる問題には関係がない。まず重要なことは、「身体が(見方によっては逆に記憶が)」とは言うものの、そのどちらであるかは状況によって必然的に決定されるともいえる、ということである。客観的に見ればまったく同一の事態であっても、当事者二人のどちらかが自分であれば、この事態は必然的に身体交換として現象し、その二人がどちらも自分でなければ、すなわちそれが他人同士のあいだに起こった事件であれば、それは必然的に記憶交換として現象するほかはないからである。この事態は、世界の客観的な記述という観点からすれば、二人の人間の精神に異変が起こった、のように見るほかはなく、それが起こったことのすべてであるはずである。その場合、不変の基体的な実体は身体であるほかはない。ところがしかし、もしどちらかが自分であったなら、自分の、、、身体が突然他人の身体になって、、、しまった、と捉えるほかはないであろう。この際、その「自分、、」とはその持つ身体を変えうる記憶連続体のことであらざるをえない。この場合、身体を基体的な実体とする通常の見方は(取りたくても)取れない。端的に与えられている記憶の側を基体とする以外には事態を把握する方法がない。そして、驚くべきことにと言ってもよいと思うのだが、事態をそのように把握することはできる、、、! できるどころか、実のところはそのような捉え方こそがすべて、、、の出発点でもあるのだ!* それができる、、、ような例外的な存在者が世界内にひとつ存在しているということが、すなわち自分が存在しているということの意味である。自分が存在するかぎり、このような把握の仕方の、したがってこのような描写の仕方の不可避性は、けっして除去できない。それが除去可能な状況になったなら、それはつまり、すべてが無に帰したのと実質的に同じことである**。このことを逆からいえば、自分を客観的世界の内に位置づけるという作業は究極的には成功しない、ということである。そんなことが成功してしまったら、無であることと実質的に同じことになってしまうからだ。

*これを「デカルト+カント的な驚き」と呼びたい。が、その際、後半の驚き以前に、前半の「できる、、、」の驚きを正しく驚くことこそがとりわけ重要である。前半では(世界解釈の公式見解からすれば)ありえないはずのことが現にある、ということが発見されており、それが同時に後半に示されているような、超越論的統覚というものがはたらかざるをえない理由ともなっている。前半と後半の相互依存的な関係はとりわけ重要である。ときにこの相互依存関係を忘れて、いきなり後半の作業から「哲学」を開始する人がいるように思えるが、それは不思議な現象である。

**そこから世界が開けている原点が存在しなければ、世界は存在しないのと同じことである、という意味において。

44 この事実を一般的に自己触発(に類すること)が存在することによって説明することも、ある意味ではできはするだろう。他人同士の場合であっても、彼らそれぞれにとっては、、、、、自分自身の場合と同じこと(すなわち身体という属性の側の変化)がそこで起こっていると考えることもできる(どころかある意味ではそうも考えざるをえない)からである*。しかし、それにもかかわらず、現実にそれが起こる場合(すなわち自分の場合)とそのように想定できるという場合(すなわち他人に起こる場合)との違いが存在するということは(そういう違いが存在せざるをえないということは)、自己触発に類するタテ問題的な仕組みの存在によってだけではけっして説明できない問題が存在することを示している。それがすなわち、存在(あるいは実存)の問題、いいかえれば無内包の現実性の問題である。この問題を無視したり、たんに(無自覚のうちに)前提してしまうことは、最重要の問題を取り逃がしてしまうことを意味する**

*他人同士の場合の身体交換を(それを身体の側に異変が起こることとして)理解するとき、そのような事態は「想像できる」と言ってよいかどうかは、じつはかなり微妙な問題である。(感性を伴った)想像ではなく(もっぱら悟性的な)理解であると考えるのが正しいと私は思うが、この事例に即してそのことを説明するにはかなり複雑なことを言わなければならず、余計な混乱を持ち込まないため、ここではそれは控えて、より単純な例で問題の在処だけを示しておくことにする。私は私としての記憶を持ったまま身体が黒柳徹子のそれになってしまった状態を想像することができるが、この世界の開けの原点が(すなわち〈私〉が)黒柳徹子(という人)になってしまった状態を(考えることはできるが)想像することはできない。また、今この世界の開けの原点である(すなわち〈私〉である)永井均(という人)が、そうではなくなってただの普通の人になってしまうことを(考えることはできるが)想像することはできない。これは、例として出された事態にかんして何か新しいことを言っているのではなく、その点にかんしては私がこれまで論じてきたことを前提にして、「想像」という概念についての主張をおこなっているので、誤解なきよう。と書いたら、そのことでもう一つの例が思い浮かんだので、それも追加しておく。今これを書いているというこの体験が今ではなく過去や未来であるという状況も容易に考えることができるが、それを想像することはできない。これらはみな、新しい別の像(絵)を描くことには(別の絵を付け加えることにも)ならないからである。〈私〉であることや〈今〉であることは、像の一部ではない=事象内容的、、、、、な述語ではない、からである。まさにこういう場合にこそ、カントのいう「図式」化が必要となるのではないだろうか。その意味では、カントのEinbildungskraftを「想像力」ではなく「構想力」と訳す風習には、十分な根拠があるといえるように思われる。

**ところで、いまここでなされているこの議論それ自体も、全体としては(想像上のといえるかどうかの議論は別にして)想定上のものであることは明らかである(身体交換など現実には起こっていないのだから)。にもかかわらず、現実の場合と想定の場合との対比が想定上でなされうるということは重要である。これは累進構造という問題で、ここでは主題的に論じないが、もしこの構造がなかったならこの種の議論はすべてまったく不可能であることを忘れてはならない(と同時に、この種の議論の全体がその不可能性によってつねに浸食されているという点も忘れてはならない)。

 

六 純粋悟性概念の図式の議論へ戻る

 

45 やっと因果関係に入れるぞ! とはいえ、実体持続の問題から話が逸れて延々と論じてしまったので、因果性の話は簡単にすますことにしたい。

 

……原因および因果性の図式は、それが任意に措定されると、いつでも他の何かがその後に引き続いて起こるような、実在的なもの、である。(A144、B183)

 

因果性については、これまで論じてきたことに付け加えるべきことが、本質的にはあまりない。重要な点は、関係のカテゴリーは、量のカテゴリーとともに、そして否定や様相とは違って、与えられた世界の事実に多くを依存している、という点である。因果性もそうなのである。因果性という概念を構想させる類型的継起連関がまったくないような世界も十分に可能だからである*。もう一つの重要な点は、因果という捉え方のうちにも、時間の経過を一般的な(平板な)A系列において見る平板化力がはたらいている、ということである**。さらにもう一点つけ加えるなら、類型の継起という事実の認識には主体の側の持続的意識の存在が前提されざるをえず、しかしそれが(第0次内包として逆襲的に)確立されて独自の権限を持つにいたるためには、まずは(第一次内包としての記憶を可能ならしめるものとして)客観的因果連関の存在が前提されざるをえない、という循環的構造がある点も重要である***。しかし、これらのことは、少なくとも本質的な点はすでに論じられたので、ここで繰り返すことはしない。

*関係のカテゴリーは、量のそれ(数を数えること)と並んで、世界の時間的持続という自明とさえいえる事実が、その世界のもつ偶然的事実に基づいている、ということを理解するには、きわめて重要であるといえる。

**端的なA事実と一般的なB関係とを一つに統合して見るものの見方がすなわちA系列というものの見方であるといえるだろうが、それはすなわち「図式」であろう。

***出来事Aが起きるといつでも引き続いて出来事Bが起きるといえるためには、Bが起きた際に先にAが起きたということを「覚えて」いなければならないが、しかし「覚えて」いるという事実が成立しうるためには(その可能性に客観的な支えを与えるために)、Aが起きるといつでも引き続いてBが起きるという客観的な類型的継起の存在がその前提とされざるをえない。その結果として、単独の(非類型的な)出来事もまた「覚えて」いることが可能となりうる。これは超越論的相関関係とも呼ばれるべき事態である。

 

46 第四のカテゴリーである様相に移ろう。

 

可能性の図式は、さまざまな表象の総合が時間の一般的な条件と一致することであり、(中略)、したがって任意の時間におけるある物の表象の規定である。

現実性の図式は、ある特定の時間における現存在である。

必然性の図式は、すべての時間における対象の現存在である。(A144-5,B184)

 

否定の場合と同様、様相もまた時間という一つの特殊な存在者と特権的に結びつけることはできない。たとえば、ある対象がすべての時間において存在しつづけているとしても、それはただいつもある、つねにある、というだけのことであって、それだけで必然的に存在するとは言えない。それだけではまだ、たまたま(=偶然的に)いつもあるのか、必然的にそうであるのかは、わからないからだ。必然性という概念は、本質的に時間性を超えた形而上学的概念であり、時間に(のみ)関係づけてその意味を理解することはできない*。カントの提示する図式によって必然性の意味を理解した(と思った)人は、必然性の意味を誤解したといわざるをえない。可能性、現実性にかんしても、その点は同じである。現実性にかんしては、それゆえにさらに、その累進構造という重大な問題があるわけだが、それはすぐ後に触れる。

*したがって「カテゴリーには結局のところ可能な経験的使用以外のいかなる使われ方もない」(A146、B185)というのもまた、この意味において誤りである。様相には時間性とは独立の形而上学的な使用法があり、このような(これと同型の)形而上学的諸要素は客観的世界構成の各所で有効にはたらいているといえる。それらは累進化されることでわれわれのこの客観的現実世界の構成を根幹において支えており、そのことが超越論哲学と形而上学の同根性の根拠をなしている。時間性それ自体も(したがって数を数えるということも因果連関も…)、この種の形而上学的要素(時間の場合には端的な現実の現在の存在)の累進化的把握が可能であることによってはじめて可能となるのだ。

47 様相の存在は、数や関係の場合とは違って、そして否定の存在と同様に、与えられた世界のあり方には依存していない。たとえば、ある一つの対象がすべての時間に存在しつづけているような世界であっても、あるいはいかなる類型的継起もまったく存在しない、混沌とした、流体から成る世界であっても、そうであると捉えられうる以上、そうでない可能性はあったし、あるし、あらざるをえない。それは、捉える(begreifen=概念的に把握する)ということの本質に由来することだからである。ところでいま、われわれは二種類の可能世界を例示したが、その際、われわれはそれらが(現実には現実世界でないにもかかわらず)現実世界である場合を考えたことになる。否定と同様、このような適用の仕方ができることこそが、様相カテゴリーの一大特徴である。それは、これらが事象内容的なカテゴリーではないことを示している*。

*否定と様相は、音楽(段落19で語った意味での)によっても表現することはできない。

48 繰り返し論じてきたように、時間それ自体にもその同じ特徴があって、まさにそのことによってカテゴリーの図式化も可能となっている。時間において、様相の場合の現実にあたるのはもちろん現在である。現実には現実でない事柄にかんして、かりにそれが現実である場合を考えることができるように、現実には現在でない時にかんして、かりにそれが現在である場合を考えることができ、それだからこそ、一般的な可能的現在と端的な現実の現在を同じ一つの文の同じ一つの語で指すことができるわけである。ものごとのこのようなA系列的把握の可能性こそが「図式」一般の可能性の根拠であるだろう。この場合、大雑把にいえばもちろん、A事実が感性でB系列が悟性にあたるわけで、A「系列」という捉え方は端的なA「事実」の存在を形式化(=累進化=概念化=悟性化)した捉え方であることになる(とはいえ重要な点はそこには端的なA事実そのものが内含されてもいることではあるが)。悟性と感性のあいだに「同種性」が成り立つのはここでしかありえないように私には思われる。

 

七 人称カテゴリーの不可欠性

 

49 時間のもつこの仕組みは様相と同型であるから、様相(や否定)それ自体はその図式を時間から借りてくる必要はない。しかし、ここでもう一つ、やはりそれらと同型であり、ある意味ではそれら以上に必要不可欠なのは、人称というカテゴリーである。これの介在なしには、そもそも経験という一般概念自体が成り立たないからだ。カントの議論はすべて、このカテゴリーが有効にはたらいた後にはじめて成り立ちうる議論である。

50 まずは、それが不可欠な理由を一応はカントの発言に即して解説してみよう。前章段落6の注**で引用した「私とは現に存在しているという感じのことである」(『プロレゴーメナ』S.334)を思い出していただきたい。じつのところ、この文は、本章段落40で「私が哲学を学び始めたときにいちばん気になった(=気に入らなかった)のがこの種の曖昧な「私」の使用法……」と言ったその「使用法」の典型例である。カントのこの文の場合も、この使用法によって「最も重要な問題が飛び越されてしまっている」ことは疑う余地がない。この文の「……現に存在しているという感じ……」には明らかな二義性があるからだ。カントはおそらく自分の「存在しているという感じ」を感じながらこの言明を為したに違いない。だが、この言明はまた他人もまたそうである、とも言っているであろう。どうしてそれがわかるのだろうか。それはわからないではないか、と言いたいのではない。他人もまたそうであることは、他人(他我)の概念からして(分析的に!)明らかだともいえるからである。だから、他人にもその感じはやはりあるのだと言ってもよい。のではあるが、たとえそうであるとしても、それは自分自身の場合とは違うこと、、、、を言っている(という側面が存在する)ことを無視することだけはゆるされない。それはちょうど、現在(今)の意味が現実のこの現在(今)の場合とその時点におけるその時点という意味での現在(今)である場合とでは違っていることや、現実の意味が、現実のこの現実そのものの場合とある想定における(そこから見ての非現実とは区別される)現実の場合とでは違っていることと同じことである。この区別の存在は決して否定できない。なぜなら、まさにこの落差の存在こそが「私」の存在の真の意味だからである。

51 じつのところは「私とは現に存在しているという感じのことである」もまた、まさにその落差の存在こそを表現しているとも読める(し読まざるをえない)。それは、他の人には現に存在しているというこの感じは感じられないこととの対比において、現に存在しているというまさにこの感じこそが私が存在するということなのだ、と言っているはずだからである。とはいえ、さらに重要なことは、それと同時に(なんと同時に!)それと同型のことが、他の私とその私にとっての他者たちのあいだにも起きているということが併せて言われてもいる、ということなのである。すなわち、累進構造を同時に働かせているわけである。あえてカント風の捉え方を当てはめると、前者が直観(感性)で後者が概念(悟性)にあたる。すると、この累進構造こそがすなわち図式であり、その同時成立(この二種のあいだの落差を度外視してそれらを同一視すること)こそが人称カテゴリーの生成の秘技であるといえることになる。しかし、そのようにしか使ってはならないという「教え」は、この場合、まったく役に立たない。もし、そこの隠されてある落差の存在が完全に忘れ去られてしまったなら、このカテゴリーを実際に使用するということができなくなってしまうからである。どちらにしても、、、、、、、だれかを私たらしめているのはその落差の存在そのものであるという構造認識そのものがここでは重要で、それは少なくとも二回、可能的には無限回、使われることになる。とはいえ、それはつねに破られてもいるともいえるのである。収まると同時に脱し、脱すると同時に収まるという構造がここにはある。すなわち、われわれはまたつねに形而上学の実践者であるわけである。この問題にはどこまでもこの二面性、この両義性、この矛盾が付いてまわることを忘れてはならない。これがわれわれの世界構成の根底に隠された秘技であるといえる。

52 それゆえこのことには二様の見方があることになる。すべてはいま端的に存在する〈私〉からはじまっており、それに起こっていることを累進的に同型拡張化している(という秘技をおこなっている)と見ることもでき、そう見ざるえないのではあるが、逆に見ることもできる。逆にも見ざるをえない。その場合、すべての根源であったはずの〈私〉の、それだけに現に起きていることはすべて、「余分な」こととなる。というより、そもそも〈私〉の存在という現象そのものが余分なのだ。そんなものはなくても、すべてはそれがある場合とまったく同じでありうるからである。「現に存在している」というその「感じ」はもはや〈私〉ではない(と想定された)永井均氏もまた持つはずだからである。繰り返していうが、これが名にし負う風間問題である。繰り返しでなく、ここで新たに言いたいことは、風間問題の提起は「図式」の提示でもあるのだ、ということである。その図式の存在によって、この問題はいわば直観的かつ概念的な(どちらも不可欠な)問題となるからだ。また、その問題は、私だけにあるのでなければならないと同時にだれもにあるのでなければならない、ということになるからでもある。前者は「語りえぬもの」となるとはいえ、それもまた即座に、だれとってもの「語りえぬもの」に変換され、だれもが語りえぬものを持っていることにもなるわけである

*それがわかりやすい人のためにウィトゲンシュタイン・ジャーゴンを使っていいかえれば、この事態は「駒に被せた冠は即座に箱の中のカブトムシに変換させられる」とも表現できる事態である。さらにもう一つ、それがわかりやすい人のために時間論用語を使っていいかえるなら、この不思議なカブトムシに当たるのは時間論における「A系列」という奇妙な中間的表象形態でもあることになる。それはA事実とB関係の中間的表象であるから、これが発動した場合、そのことによって「語りえぬもの」とされてしまうのは端的なA事実である。とはいえ、A系列という矛盾を内含した表象こそがA事実とB関係とを繋いで、どちらも時間の表象たらしめていることは確かなことである。箱の中のカブトムシも同様である。何度か論じてきたように、その箱のうちの一つは(必ず)裏返っており、それがA事実に相当するからであり、それの存在こそがそれぞれの箱の「中」ということに真の意味を与えてもいるからである。

53 ここで、自己触発という問題に戻るなら、この際、触発を為すのはだれもが為すような結合作用一般などではなく、冠やA事実に当たる「物自体」でなければならないことになるだろう。結合作用などという一般的なものが触発したところで、それぞれに内的世界が作られてしまうだけのことだろう。それはカブトムシが入った箱たちを最初から作り出してしまうことにあたる。その描像は錯認である。触発は駒にかぶせられた唯一の冠のような、まったくこの世ならぬものからなされるので、そしてそれこそがすべてを初めて開いているので、それを世界内的に馴化させる必要が生じ、カブトムシが入った箱たちのような中間的な(ヌエ的な)形象が後から作り出されることになるのである。ゲームの中に位置づけを持たない冠がゲーム全体を触発し、その全体を初めて〈現実〉化するわけである。それだから、世界の中にただ一人だけ私であるという奇妙なあり方をしたやつが存在して(できて)しまい、後からその事実をうまく埋め込む方策が考え出されざるをえなくなるわけである。

54 さて、ここでようやく、段落18で「その後で主題的に」とされていた、あの夕焼け問題にもどることができることになる。段落51で語ったことは、その本質構造を変えずに以下のように言い換えられるだろう。「他人の見る赤色は見えない」「他人の感じるしょっぱさは感じられない」等々には二重の意味がある。a私にとってそうであるという意味と、b一般的にそうであるという意味と、である。(aの場合は、他人同士のあいだではどうなのかはそもそも問題圏に入っていない。)ところが、この二重性にまた二重の理解があるだろう。①これはいま偶然的に生じている二重性であるという理解と、②これはつねにそうであらざるをえない必然的な二重性であるという理解と、である。(①でありうるのは、私というあり方をしたやつは存在しない場合もありうるからであり、②でありうるのは、そうであってもこの構造はやはり不変であるともいえるからである。)①と②との対立が風間問題である(aとbとのではなく)。とはいえもちろん、a対bと①対②とは同じことを繰り返しているだけだ、と見ることもできる。しかし、それがそのように(どこまでも)繰り返す、ということは重要である。そしてこれらはもちろん、これらのうちのどれが正しいか、といった問題ではなく、どれもがそれぞれの意味で正しくあらざるをえない、という問題である。これはまた、時間にかんしても様相にかんしてもそれぞれに変形されて同型の事態が成り立っているともいえる問題である。いずれにしても、この図式に示されている「同種性」によって、他者たちもみな「現に存在しているという感じ」をもつ主体であらざるをえないこととなり、その結果また、私が生き生きと見ている赤、私が生々しく感じているしょっぱさ等々と「同種的」な赤やしょっぱさを見る主体であらざるをえなくなるわけである。これが人称カテゴリーの成立構造であろう。そのことで赤さやしょっぱさはいわば円や三角形と同等の身分を持つことになるわけだが、それと同時に「第一人称(the first person=最初の人)」という一般概念が成立するわけでもある。すなわち、赤やしょっぱさの場合のその同等の身分は、あくまでも人称カテゴリー(という特殊な方策)を介して、その力に与って、成立するわけである*。それは要するに、②におけるaという中間的な地位の介在によって、そのおかげであるといえる。「A系列」という考え方もまた②におけるaという捉え方の一種であろう。すなわち、それらはみな「図式」であるともいえる。しかし、とりわけ人称というこの図式は、「経験」という一般概念の可能性の根拠でもあるから、実体や因果など、もろもろのカテゴリーを語る際にもその前提とされているものだ、と言わざるをえない。

*それが円さと赤さとの根源的な違いであるということになるであろう。感覚を皆に対等に分け与えるためには、その段階ですでにしてカテゴリーの介在を必要とするのだ。このことには疑う余地がないと私は思う。しかし、蛇足かもしれないことをさらに付け加えておくなら、通常の統覚の結合(総合)作用においても、これと同型ともいえる時制化(という特殊な方策)がつねにはたらいていることも忘れてはならないだろう。ここにA系列図式が介在しなければ、人称の場合と同様、時間性も平板化してとらえることができないであろうからだ。

55 この章の最後に、カントの図式論の結論ともいえる文を引用しておこう。

 

かくしてたとえば実体は、持続性という感性的規定が除去されてしまえば、(中略)主語として思考されうる何かあるものという以上の何ものも意味しなくなるだろう。(中略)それゆえカテゴリーが図式を欠くならば、それはたんに概念のための悟性の機能であるだけのものとなり、いかなる対象も表象しないことになる。そのような意義がカテゴリーに与えられるのは感性からなのであって…(以下略)。(A147 、B186-7 )

 

これは後の「誤謬推理」の議論を予告するものだが、やはり全面的に正しいとはいえないと思う。図式を欠くカテゴリーがいかなる対象も表象しえないというのは正しいとしても、それは直観の裏打ちを欠いた概念の暴走のようなことではないはずだからだ。それは明らかにカントの誤診である。そこにはたしかに、正当な言語によっては表現できないものがありはするのだが、それはしかし、さまざまな形而上学の源泉でもあるとはいえ、われわれのこの共通世界の成り立ちそのもの内にも深く組み込まれて日々不可欠的に使用されてもいるものでもあるからである。

 

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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