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フォルモサ南方奇譚⸺南台湾の歴史・文化・文学 倉本知明

フォルモサ水滸伝

  

 同治4(1865)年、男は鳳山県港西下里万丹街(現在の屏東県万丹郷万全村)に生まれた。

 肥沃な屏東平野でもとりわけ農畜産業が盛んな当地は、現在でも小豆やサトウキビ、加工乳などが数多く生産されている。かつて平地原住民族が暮らしていた万丹は、マカタオ語で「市」や「売買の場」を意味し、古くから市街地を形成して栄えてきた場所であった。

 男の名は林苗生といった。

 物心つく頃から肉屋で屠畜業を営む父親について、万丹街北部にある阿猴(屏東市)の市場で肉や魚の販売を行っていた。荒くれ者の父親は地元「鱸鰻(ヤクザ)」の顔役でもあった。自然と彼もまたそうした荒くれ者たちの中で生きる術を学んでいった。

 男には商売の才覚があった。やがて独立して商いをはじめた彼は、肉や魚の販売だけに留まらず、若くして精米工場まで経営するようになった。面倒見がよく、男気に溢れた彼の周囲には常に仲間たちが集っていた。

――おい、肖猫!

 人々は親しみを込めて彼をこう呼んだ。閩南語で「狂猫(クレイジー・キャット)」を意味する言葉だ。

 屏東平野各地の海の幸山の幸が集められた阿猴の市場では、閩南語だけではなく、客家語やパイワン語、ルカイ語まで飛び交っていた。阿猴のすぐ東側には六堆客家の集落が広がっていて、その奥の山地には瑯嶠上十八社のパイワン族や茂林のルカイ族が暮らしていた。上下左右に抑揚する言葉が飛び交う阿猴の市場はさながら一隻の巨大な船であった。10数年後、日本の官憲から「少猫」と称され恐れられた青年は、このときはまだ自身が向かうべき先を知らずにいた。

 林少猫。

 19世紀末、北部の簡大獅、中部の柯鉄と並び、「抗日三猛」最後のひとりとして、台湾総督府から最も危険視された「土匪」である。

  

 台湾総督府民政長官・後藤新平は、かつて領台初期における「土匪」の割拠状態を評して、「水滸伝ノ活劇ト申シテ差支ナイ」と述べた。それほどまでに、領台初期における台湾は、中央政府の権威を屁とも思わない「土匪」が群雄割拠する状態にあった。

 明治28(1895)年11月、初代台湾総督・樺山資紀による「全島平定」宣言以降、台湾各地における「土匪」の動きは活発化した。同年12月末には、北台湾各地の「土匪」が台北奪還を企てて、大規模な攻勢をかけて日本側を大いに慌てさせた。林李生、陳秋菊、胡嘉猷ら、台北から宜蘭にかけて一斉蜂起した「土匪」の部隊に包囲された台北城では、軍夫・文官まで銃をとってこれに反撃する必要に迫られた。台北城包囲戦の総指揮を執った胡嘉猷は、檄文に清朝「光緒」の年号を用いながら、蜂起は「上国家に報じ」たものであると、大陸朝廷への忠誠を強調しながら蜂起の全島的拡大を狙った。

 翻って朝廷の支配が相対的に弱く、歴史的に「土匪」の活動が最も活発であった中部では、「土匪」たちの武装蜂起は必ずしも中国ナショナリズムに結びついた政治的闘争ではなく、むしろ「乱世」を奇貨に、自己の実効支配地の拡大を狙ったものでもあった。現在の雲林県東部から南投県西部にあった太平頂では、抗日義勇軍を率いて各地を転戦していた簡義に、地元で任侠の徒として名高い柯鉄らが「鉄国山」を建国、年号を「天運」と改めて台中、斗六から進軍してきた日本の討伐隊を翻弄していた。

 業を煮やした日本の討伐部隊は、「雲林管下に良民なし」と宣言した斗六支庁の言葉を免罪符に、明治29(1896)6月20日から23日にかけて山中集落一帯で無差別攻撃と民家の焼き討ちを行った。この際、4295戸の民家が焼き払われて数千から1万人が虐殺されたとされているが、『台湾警察沿革史』には「土民殺戮の数の如きは(つまびらか)にすべからざりき」とのみ記されている。日本軍によるこの虐殺はむしろ現地住民を「土匪」の側に靡かせ、斗六はむなしく鉄国山の手に落ちた。

――鉄国山が日本軍を駆逐した。

 その情報が各地に伝わると、台南東部の山岳地帯・蕃仔山に割拠していた黄国鎮も手勢を率いて嘉義の街に襲撃をかけるなど、中部地域で暮らす日本人は長らく眠れぬ夜を過ごすことになったのだった。

鉄国山が勢力を誇った太平頂一帯は阿里山山脈に属し、現在台湾茶の一大生産地として知られる

  

 台湾南部。

 この地で最初に猛威を振るった「土匪」は、鄭吉生であった。

 『台湾憲兵隊史』によると、港東下里水底藔(現在の屏東県枋寮郷水底寮)に生まれた鄭吉生は、下淡水渓一帯に出没しては「官憲に抵抗し、或は民財を掠奪し或は人命を害する等不逞の限りを極め」ていたとされる。ときに1000名近い「匪群」を糾合しては、しばしば政府機関への襲撃を繰り返す鄭吉生の出没範囲は下淡水渓全域にまで及んだ。

 興味深いのは、南部「土匪」の首魁であった鄭吉生が「熟蕃より成れる匪団と閩粤烏合の匪群」を率いていた点である。「熟蕃」とは平地原住民マカタオ族を指し、「閩」とは福建系移民の閩南人、「粤」とは広東系移民の客家人を指している。

 日本側の資料によれば、この多民族混成部隊を率いる鄭吉生は、六堆客家出身の林天福や「大匪魁」林少猫など、後に頭角を現す若手「土匪」たちと「雁行」の関係を持っていたとされる。分類械闘と呼ばれるエスニシティ間の抗争が絶えなかった当時、民族的な相違を越えて、抗日混成部隊ともいえる武装集団を率いていた鄭吉生は、日本側にとっては非常に頭の痛い人物でもあった。

 「土匪」を討伐対象としていた軍警の資料に鄭吉生の背景について踏み込んだ記述がないが、『後藤新平文書』「臺灣ノ土匪」にはその背景が簡単に記されている。

 鄭吉生の父親は漢人で、母親は「蕃婦」であった。枋寮水底寮の出身という背景を考えれば、瑯嶠十八社に属するパイワン族であった可能性が高い。水底寮は清朝統治が及ぶ最南端の枋寮北に位置する漢人の集落で、いわば大清帝国と「蕃界」の境界線にあたる。漢人であった父親のエスニシティに関しては言及されていないが、鄭吉生が複数の言語を操れる「多言語話者(マルチリンガル)」であったことは想像に難くない。

 鳳山県下で「蕃語通訳」を務めていた鄭吉生は、日清両国の間で戦端が開かれると鳳山県令から民兵を集めるように命じられた。ところが、県令は彼に給金を支払うことを渋った。鄭吉生は県令に直談判して民兵らの給与を支払うよう訴えたが、逆に県令から「衆ヲ以テ人ヲ脅カ」したと、仲間たちが捕らえられてしまった。これに反発した鄭吉生は日本軍の南下に呼応する形で自らの手勢を率いて台南城を攻撃、その功が認められて台湾副総督・高島鞆之助らとも面会した。「忠勤者」と呼ばれた鄭吉生は、地の利人の和にくらい日本軍のために様々な人材を斡旋した。ところが、紹介した人物が窃盗の罪で捕まってしまったことをきっかけに、鄭吉生自身も「連累ヲ以テ一朝忽チ獄中ノ人ト成」ってしまったのだった。日本側の処置に激昂した鄭吉生は、「我ヲ辱カシム帝国ハ恩無キナリ」として、以降南部第一の「匪魁」へ変貌した。

 帝国の周縁で生きてきた鄭吉生にとって、天下の大清帝国も新興の大日本帝国も、秤にかけて選択すべき協力者に過ぎなかった。米西部開拓時代のように、中央政府の権力が弱く、常に自力救済が求められた時代において、鄭吉生のような地元の有力者が率いる民兵組織は台湾中いたるところに跋扈していた。彼らにとって大切なのは、あくまで自身の利権と面子を尊重してくれる協力者であって、国家への忠誠などは二の次だった。少なくとも、帝国の周縁で「官」の保護を受けることなく常に独立不羈で生きてきた鄭吉生にとって、自身の身体を流れる漢人の血は良くも悪くも彼を束縛するほどのものではなかったし、また自身を「辱カシ」めた大日本帝国を許すことなどできなかった。

 彼にとって、抗日とは潰された面子を取り戻す意地であった。この意地を突き通せる力がなければ、誰も彼についてきてはくれなかった。

 明治29(1896)年6月以降、鄭吉生は熟・閩・粤の混成部隊を率いて水底寮、東港、阿猴、鳳山など、下淡水渓一帯に点在する弁務署や憲兵駐屯所などを強襲した。『台湾憲兵隊史』によれば、その部隊は「神出鬼没巧みに踪跡(そうせき)を晦ま」すために追撃が難しかったと言われる。鳳山各地には、「官衙(かんが)、守備隊憲兵屯所等を襲撃し日本人を(みな)(ごろ)すべしとの檄文」が張り出され、日本の官憲は匪賊の捜索討伐に追われた。

 しかし、日本軍の包囲網が狭まる中で鄭吉生にも最期のときが訪れることになった。

 明治30(1897)年1月、600余名の手勢を引き連れた鄭吉生は、鳳山新城に駐留する日本軍を一気に屠ろうとしたが、日本側は鳳山の守備兵と警察を総動員してこれを鳳山新城東門外にある渓畔で迎え撃った。「交戦殆ど三時間に亘りたる」後、鄭吉生たちは数多の死傷者を出して大寮(高雄市大寮区)に撤退、重症を負った鄭吉生は故郷水底寮に潜伏したが、銃の暴発による怪我がもとで翌月帰らぬ人となった。

 南部第一の匪魁が死んだ。

 ところが、南台湾における「土匪」の動きはこれ以降も沈静化するどころかむしろ活発化していった。『台湾総督府警察沿革史』は、その理由を次のように記している。

――鄭吉生の死後、南路土匪の勢力漸く大なるものは林少猫なり。

鳳山県新城の東門。かつて日本の守備隊と鄭吉生率いる抗日軍が衝突した

  

 『水滸伝』さながら「土匪」が跋扈してきたこの島に、大きな変化が訪れようとしていた。鄭吉生が死去したその翌年、台北では児玉源太郎・後藤新平による新体制がスタートした。後藤は乃木希典の時代に行われた三段警備体制を見直し、更に乃木時代に考えられた「土匪」招降策を積極的に推し進めていった。後藤の意見を聞き入れた児玉も「予ノ職務ハ台湾ヲ治ムルニ在テ、台湾ヲ征伐スルニ非ス」と述べ、「招降」の使者を全島各地の「土匪」指導者の下へ送った。使者は各地の指導者に「招降」に応じた者には投降準備金を支給すること、投降後は公共事業などで仕事の斡旋を行って、その生活を保障する旨を伝えた。

 最初にこの要求に応えたのは北部の「土匪」たちだった。

 古来から中国には「招撫」という考え方がある。広大な中国大陸を統一した数々の王朝は、その政権に属さない地方の独立勢力を「招き撫す」、つまり帰順させてしかるべき地位と待遇を与えることによって、彼らを政権内部へと取り込んできた。たとえば、鄭成功の父親で東アジアの海を荒らした海賊・鄭芝龍は、明朝から招撫を受けて明朝の武官となっているし、台湾民主国の第二代総統となった劉永福も、本を正せば太平天国の乱に参加した「賊軍」であった。ところが、後にベトナム北部で黒旗軍を創設して独立勢力を築くと、一転清朝から招撫されて官軍側として活躍することになったのだった。

 日本を軍事的に転覆させることが困難と悟った宜蘭の林火旺や大屯山(台北市北投、淡水区一帯)の簡大獅、文山堡(台北市文山、新店、深坑区一帯)の陳秋菊など、北台湾の大物「土匪」たちは次々と帰順を決めた。これに喜んだ後藤新平は自身も丸腰で帰順式典に参加して誠意を示そうとした。もちろん、帰順を違えた際の保険として、彼らの名簿を作成して、その写真撮影を行うことも忘れなかった。現在まで残る「土匪」指導者たちの写真は、ハリウッドのサスペンス映画などでよく見られる「逮捕後に撮影される写真(マグショット)」であったわけだ。

 北部の「土匪」たちは帰順を伝統的な「招撫」の一環とみたが、日本側が要求する帰順とは、「土匪」たちの私的暴力を唯一の合法的暴力組織を有する近代国家内部に回収する過程を意味していた。ところが、「土匪」たちが望む招撫とは、己の私的暴力を維持した上で、中央政府に属することを意味していたのだ。帰順と招撫はいわば同床異夢の関係にあったが、そのことに気付かない「土匪」たちは、帰順まもなく破滅の道を転がり落ちることになるのであった。

『台湾総督府警察沿革誌』に掲載された「土匪」たちのマグショット

  

 北部の「土匪」が次々と投降していた頃、中南部ではいまだこれに応じる者たちは少なかった。自勢力の独立不羈を求める中南部の「土匪」は勢い強く、帰順は時期尚早として軍事討伐が優先された。明治31(1898)年11月から12月末にかけて、台湾総督府は雲林、嘉義、台南各地の「土匪」を討伐した。大規模な討伐部隊はやがて現在の高雄市北部にある阿公店にまで及び、六班長や打鹿埔庄などでは、雲林を彷彿とさせる虐殺も発生した。

 虐殺はいつの時代も難民を生む。

 鳳山以南には多くの「土匪」や家々を焼かれた流民が流入していた。鄭吉生の軍勢を引き継いだ林少猫の下にも多くの流民が流れ込んだ。日本側の資料でも「(阿公店など)管内掃蕩の結果として土匪多く南方に竄入し、淡水以南従来匪害殆んど稀なりし地方は、却って不穏の状を呈する」状態と記されている。

 下淡水渓西岸から渡ってくる流民の群れを見た林少猫は思わず苦笑した。

 台北で台湾民主国の建国が宣言された際、自分はそれまでため込んできた私財を投げうって南下してくる日本軍と戦う決意を固めた。「祖国」復帰を唱えていたお役人らがケツをまくって「唐山(たいりく)」へ逃げ帰ってからも、俺たちや、吉生の旦那のような「土匪」だけがこの島に留まって戦い続けてきた。

 自分はただ肉屋の倅に過ぎない。

 身内以外には平気で手を出す鼻つまみ者の「鱸鰻(ヤクザ)」だ。

 それなのに、時代は止まることなく彼を押し上げてゆき、気が付けばそれに従う人々は数百を超え、いまなおその数は膨らみ続けていた。林少猫の脳裡にはかつてこの下淡水渓の畔で覇を称えた「鴨母王」の雄姿がよぎったが、彼はすぐにその不吉な連想から想起される暗い未来をかき消した。

――兄弟、どこから来た?

 林少猫は全身煤だらけになった流民に尋ねた。汗と埃で茶色くなった辮髪から、ようやくそれが男性だと判別できた。

――阿公店、北の抗日隊は壊滅だ。典宝渓では盧石頭も死んだ。

――盧石頭が? 嘉義を攻めていた黄国鎮はどうなった?

――知らねえ。オレは魏少開ンとこにいたんだ。鳳山より北にいたもんたちは皆殺されちまったか、さもなきゃ投降しちまったよ。

 雨に濡れた犬のような表情をした男は膝の間に顔をうずめると、そのままいびきを立てて眠ってしまった。下淡水渓を渡ってくる流民の数は止まるところがなかった。流民たちは、あの林少猫が勢力を誇る下淡水渓東岸なら安全だと思ったのかもしれない。

 阿公店がある北西の空には、幾筋もの黒い煙が立ち上がっていた。

――すぐに戦える者たちを集めろ。これから阿猴街の日本人を急襲する。

 林少猫が言った。

――これからですか?

 林少猫の実弟・林必が驚いたように言った。阿公店で虐殺があったのは、昨日の今日なのだ。

――いまなら日本軍はみな下淡水渓の西岸に集まっている。やつらが東岸に入ってくる前に一泡吹かせてやるんだ。

 日本軍から鹵獲した村田銃を杖替わりに立ち上がった林少猫は、下淡水渓の濁流に背を向けて言った。目の前には、壁のように屹立する北大武山が聳え立ち、山頂は厚い雲で覆われていた。

――俺たちは、この土地でしか生きていけないのだ。

 彼は近くで流民たちへの炊き出しに奔走していた幼い息子・林雄の肩を掴んで言った。

――気に食わねえが、今回ばかりは林天福の野郎に協力してやる。阿猴街を襲撃したら、そのまま林天福の部隊と合流して潮州に攻め込むぞ。

  

 六班長で虐殺事件が起こった翌日、林少猫は手勢300を率いて、阿猴街の日本人を襲った。さらにその翌日には、客家系の林天福と協力して、阿猴街南にある潮州庄弁務署及び憲兵屯所を襲撃した。潮州を襲撃した林少猫・林天福の連合部隊は1000名を超えた。彼らは税金の取り立てに厳しく、現地住民から大きな不興を買っていた潮州弁務署長・瀬戸晋を殺害すると、「悉く肋骨を抜き臓腑陰部を抉出して備さに凌辱を加へ」た。果たしてその凌辱が前日阿公店で起こった虐殺への報復であったのかは分からない。しかし、少なくとも彼らは猟奇殺人鬼でもなければ、押し込み強盗のような刑事犯でもなかった。日本側の資料にも、襲撃に参加した林少猫の部隊は「号令厳格にして毫も良民を侵害せず、一に日本文武員弁を屠ふるを以て旨とせり」と記されている。標的は日本人の官憲だけに絞られていたのだ。

 鳳山から駆け付けた日本軍が潮州を奪還できたのは、実に襲撃から4日後のことだった。日本側の報復が恐れられる中、潮州襲撃の主犯でもあった林天福は六堆客家「後堆」にあたる内埔庄において逮捕され、そのまま日本に帰順させられた。ところが、帰順して数年後には、数々の咎によって「誅」されることになる。翻って林少猫は一時さらに南にある恒春へと向かったが、そこでの騒乱が鎮圧されると山中に潜んで消息を絶ち、その行方は杳として知れなくなってしまった。

屏東県潮州鎮に残る後藤松次郎巡査の墓。林少猫らの襲撃事件で殉職したとされる

  

 潮州駅から東へ1キロほど進んだ場所に、潮州日式歴史建築文化園区と呼ばれるエリアがある。林少猫らが襲撃した旧潮州弁務署跡で、弁務制度が廃止されてからは官営宿舎として使用されていた。戦後も引き続き中華民国交通部の公務員宿舎として使用されたが、住民がいなくなった後は長らく廃墟となってしまっていた。民国107(2018)年、朽ちかけていた宿舎は地域復興を目指していた潮州鎮役場によって日本らしさを強調した観光地としてリノベーションされ、一般開放されることになった。

 園区の入り口には、真っ赤な鳥居や必勝印のダルマなど、キッチュな日本らしさが溢れていた。台湾の大学にある日本語学科などでよく見る、ステレオタイプ的な日本像だ。当時の潮州襲撃に参加した「抗日義士」たちを称える扁額が飾られた案内所前には、林少猫と思われるキャラクターが頭に猫をのせて立っていた。台湾人観光客が記念撮影する鳥居越しに「ゆるキャラ」となった林少猫を眺めていると、ぼくは何とも言えない気持ちになった。

 造花のサクラが飾り立てられた道を抜ければ、戦後建てられた巨大な貯水槽があって、その下にはなぜかパイワン族の絵が飾られていた。更に奥へと進むと、潮州襲撃事件で殺害された「後藤松次郎巡査」を祀った墓碑が当時のままに残されていて、崩れかけた宿舎の壁には林少猫の事績を謳った紹介文がイラスト付きで掛けられていた。まったく整合性を欠いた空間は、むしろこの土地の民族的多様性と歴史解釈の難しさを物語っているようでもあった。この場所を訪れた台湾人観光客がいったい誰の視点からこの場所を振り返っているのかひどく気になった。

 潮州日式歴史建築文化園区から更に東へ700mほど進むと、日本統治時代に潮州郡役所があった警察署が見えてきた。ぼくはしばらく躊躇してから、署の入り口で睨みをきかせていた警官の視線を避けるようにそっと駐車場奥へと進んだ。それは「コ」の字型をした駐車場のドン突きにあった。

 潮州警察廟。

 祭壇には5柱の神々が祀られていた。民国92(2003)年に潮州鎮内で遺棄されていた神像の所有者が見つからなかったために、同警察署内でこれを祀ることになったのがその由来とされる廟だ。分署に勤務する警官がローテーションで管理している祭壇には、中華民国警察の鳩のマークが入った神々の当直台が設けられていて、5柱の神々が交代で当直を担当しているらしかった。

 ぼくは警察廟の隣にある小さな祠に目を遣った。「各界神霊 鎮守将軍 霊位」と書かれた祠には、かつて潮州鎮内で殉職した日本の官憲と戦後潮州で亡くなった外省人兵士たちの霊が祀られていた。例の潮州襲撃で亡くなった日本側の死者たちも、おそらくこの場所で合祀されているのだ。あるいは、治安維持を目的とする警察の特質上、現在の警察もまた「土匪」よりも当時の日本人警官の方に共感を感じるものかもしれない。

 祠の前で手を合わせようとしたぼくはふと襲撃に参加した「土匪」たちの魂はいったいどこで、誰によって祀られるのかと思った。

潮州日式歴史建築文化園区。鳥居の奥には林少猫を模したと思われるキャラクターが立っている

  

 林少猫はすっかりその行方を晦ましていた。

 鳳山、阿猴の両弁務署では、林少猫の目撃情報が出る度に討伐隊を差し向けたがどれも空振りに終わった。台湾総督府は「林少猫を捕縛せしものへは賞金五百円を給」するとその首に多額の報奨金をかけた。当時の警官の初任給が10円いかないことを考えればかなりの高額だ。『台湾日日新報』には、「若し抵抗せば斬殺を許し首にても宜し」と記されているが、まさに「生死を問わず(デッドオアアライブ)」である。

 『台湾警察沿革史』によると「少猫遂に蕃界に遁入し、蕃酋を籠絡して自ら固くせり」とある。この時期、彼は鄭吉生時代のツテを辿って、中央山脈のパイワン族の頭目に匿われていたのかもしれない。領台初期、平地の「土匪」討伐に明け暮れていた日本はいまだ山地の原住民族を制圧できていなかったので、日本側としては山地に潜伏されると手の出しようがなかった。

 明治31(1898)年12月20日の『台湾日日新報』では、林少猫が南台湾で最も勢力のある「土匪」と紹介しながら、「若し彼を帰順せしむるを得ば、其餘は相率ゐて帰順するに至るべく」と述べている。北部の「土匪」を帰順させていったように、枝打ちを終えたいまこそ台湾最後の大匪魁・林少猫に帰順を迫るべきだというのだ。

 台湾総督府はすでに林少猫の「帰順」に動いていた。

 様々なチャンネルを使って林少猫とコンタクトを取ろうとしたが、少猫帰順の仲介役を担った士紳(名望家)のひとりに、南部の豪商・陳中和がいた。

 台湾五大家族の一角を占める高雄陳家の創設者・陳中和は、日本を含む国際貿易によって財をなした新興財閥だった。10代の若さで厦門や香港、さらには開国直後の横浜などで台湾赤糖の売買を行ってきた陳中和は、台湾総督府とも良好な関係を築き、はじめて台湾資本による製糖会社を興すなど、植民地期を通じて南台湾の重鎮として大きな影響力を誇ってきた。戦後も国民党と親密な関係を築きながら、その子孫は現在でも政財界で活躍するまさに華麗なる一族である。

 同時代、南台湾における二人の風雲児が相まみえた記録こそ残ってはいないが、両者の間で帰順をめぐる何らかのやりとりが交わされたことは想像に難くない。警察廟で潮州襲撃事件で亡くなった人々に思いを馳せていたぼくは、植民地台湾を代表する「豪商」と「土匪」が互いに顔を突き合わせている様子を想像した。

  

――潮目を読み間違えるな。

 最初に口を開いたのは、すでに知命(50)の年齢に近づいていた陳中和であった。いまだ而立(30)を過ぎたばかりの林少猫は腕を組んだまま黙ってその話に耳を傾けていた。

――帰順したのは簡大獅や陳秋菊たち北部の「土匪」だけじゃない。鉄国山の柯哲も温水渓の黄国鎮も降った。世の趨勢をよく見るんだ。いま帰順しておけば、少なくとも帰順の授産金を得て、それを元手に商売だってできる。お前ほどの才覚があれば、たった数百の手下なんてケチなことは言わずにこの島に暮らす300万の腹がふくれる方法を考えろ。

 陳中和は己の息子ほども歳の離れたこの男を不思議な思いで見つめた。「土匪」とは思えないほど白い肌に切れ長の両目はどこか気品すら感じさせた。

――陳の旦那。愚弄するなら相手を選ぶことだ。日本人が帰順した「土匪」を放置しておくと思うのか? 爪や牙のない虎を誰が怖がる? 俺は腐っても「肖猫」、日本人の飼猫になるのはごめんだ。

 林少猫の言葉に、陳中和は皮肉な笑みを浮かべた。この男は何ら間違っていない。ただし、道理だけでこの浮世を渡っていくことができないことは、己の力だけを頼りに生きてきた「土匪」だからこそ分かる道理であった。自身の才覚だけを頼りに東シナ海の荒波を乗り越えてきた陳中和は、目の前の男にどこかシンパシーのようなものを感じていた。

――いずれにせよ、これ以上逃げ続けることはできない。いま抵抗している「土匪」もいずれ枝打ちされて、糾合できる勢力はどこにもなくなるぞ。

――俺は、俺の筋を通して生きるだけだ。

――鄭吉生のようにか? 

 今度は林少猫が不敵な笑みを浮かべた。あるいは、己の意地を貫いて故郷でおっ死んだ鄭吉生の旦那はそれなりに幸せだったのかもしれない。だが、自分はまだ己が何者なのか分からずにいた。一生屠畜業者として生きていくことができたはずが、いったい何の因果か「土匪」の頭目として数百の人間を率いる立場に立っている。この「豪商(あくとう)」が言うように、自分には商いの才覚もある。機会さえあれば、台湾一の大富豪にもなれるような気がしていた。ここで意地を突き通すのは早計なのかもしれない。

――生き残りたいなら帰順しか道はないぞ。

 彼の心に広がった僅かなさざなみを敏感に感じ取った陳中和の言葉に、林少猫は笑って応えた。

――前言撤回だ。ここはあんたの面子を立ててやる。

 口を開こうとした陳中和を遮るように林少猫が言葉を続けた。

――ただし、保険をかける。それも世に残る形でだ。いまから伝える内容を日本側に伝えてくれ。第一、鳳山後壁林の一地に居住することを許す。第二、後壁林の荒蕪地を……

――ちょっと待ってくれ。文字にしたものはないのか?

 林少猫はあきれたような表情を浮かべた。

――文字? あんた、俺たち「土匪」が文字を書けるとでも思ってるのか。その忘れやすい頭にようく叩き込んでおくんだな。台北にいるゴトーにちゃんと伝えるんだ。

  

 林少猫が提示した内容は十か条に及んだ。

 ⑴ 鳳山後壁林の一地に居住することを許す

 ⑵ 後壁林の荒蕪地を墾藝せば納税を免租す

 ⑶ 少猫所在の地に旧路あるにあらざれば官吏と雖も往来せず

 ⑷ 部下の過悪は少猫をして之を捉出せしめ官自ら捜捕せざるべし

 ⑸ 少猫住地に土匪あり若は逮逃の者あらば少猫自ら捉へて官に致すべし

 ⑹ 少猫の党生業に依りて外出するとき軍器を挟帯し官の捕に逢ふも少猫の保証あらば釈さるべし

 ⑺ 少猫前の債権及被奪物件は少猫に還取することを許す

 ⑻ 少猫の族党にして官吏の姓名を識れるものは前罪を免さる

 ⑼ 官は誠を推して少猫を待ち少猫は前過を改め報効を務むべし

 ⑽ 官は少猫に授産金2000円を与ふべし

  

 日本側ではこの挑発的な帰順要求に意見が噴出した。これでは我らが「土匪」に降伏したようなものではないかという反論も出たが、最終的には「帰順の実を得れば条件の如きは自ら空文に帰すべきものなり」としてそれらを受け入れることになった。一度首に縄をかけてしまえば、あとは煮るなり焼くなり好きにできるというわけだ。

 明治32(1899)年5月12日、阿猴街にて鳳山・阿猴両弁務署長や憲兵分遣隊長らの立ち合いの下、林少猫の帰順式が行われた。伝説の「土匪」林少猫を直接目にした『台湾日日新報』の記者は、その容貌を「色白く眉目秀麗眼に一種の光あり」としながら「無学の徒」ではあるが「義侠の風を負」った林少猫は、「人望の上より云はば本島匪徒中有数の首魁たり」と述べている。

 やがて、根拠地の渓洲庄(屏東県南州郷)から部下を引き連れて後壁林に入植した林少猫は、当地で甘蔗の栽培をはじめた。元々阿猴の市場で精米工場などを経営していた林少猫は商才にも長けていて、日本側の資料にも「治産貨植の才能は諸匪中稀に見る所なり」と記されている。

 後壁林。

 現在高雄市小港区と呼ばれる同地区は、北部に高雄国際空港があって、高雄港に面した南部は大型船が出入りするコンテナ倉庫や発電所、鉄鋼会社の工場が立ち並んでいる。更にその南側に広がる林園区との間には、高雄の重工業の心臓部ともいえる石油化学コンビナートが展開している。当時の新聞報道によれば、林少猫は部下200名以上を使って農業、漁業、酒造業など様々な事業を手掛けて、石鹸の製造にまで着手していたとされる。日本初のブランド石鹸となった花王石鹸が発売されたのが明治23(1890)年で、台湾島内に石鹸工場が建設されはじめるのが昭和初期であることを考えれば、彼には先見の明もあった。

 あるいは、彼には本当に「土匪」から豪商に、第二の陳中和になる道が残されていたのかもしれない。

林少猫らが入植した後壁林。その根拠地は現在台湾最大の鉄鋼会社である中国鋼鉄の工場あたりにあったとされる

  

 「土匪」の時代が終焉を迎えようとしていた。

 林少猫が帰順した翌年、帰順「土匪」たちが次々と逮捕・処刑されていくケースが増えていった。明治33(1900)年2月、鉄国山の柯鉄が病死、指導者を失った鉄国山は再び日本側と軍事衝突を繰り返すようになる。また、同年3月には一度帰順した宜蘭「土匪」の頭目・林火旺も捕縛されて死刑となった。同じく日本に帰順した台北の簡大獅は、再び日本に抵抗しようと大陸アモイに渡ったが、そこで清朝官憲に捕縛されて、台北で絞首刑となった。

 様々な風聞が流れるなかで、林少猫は動かなかった。

 明治34(1901)年になると、帰順「土匪」への攻撃は中南部にまで迫ってきた。中部の嘉義や雲林では再び離反した「土匪」の動きが活発化し、雲林の崙背支署や嘉義の樸仔脚では「土匪」による襲撃が相次いだ。明治35(1902)年3月には、同じく帰順「土匪」の大物・黄国鎮が日本の奇襲部隊に攻撃され、数名の部下たちとともに無残な射殺体として山中で発見された。

 台湾総督府から忠誠を疑われていた「土匪」たちは不安に駆られた。5月25日、旧鉄国山を含む中部の「土匪」たちは、日本側の呼びかけに応じて再度帰順式への出席を決めた。当日斗六庁で行われた帰順式では、「土匪」総代として張大猷が帰順証を受け取ったが、式場にいた警務課長が突然、「爾等の誠心甚だ疑ふべし」と、出席者の一斉拘束を命じた。丸腰で帰順式に臨んでいた60数名の参加者たちからは怒号が飛び交った。ところが式場裏手で待機していた歩兵部隊と憲兵隊の一斉射撃を受けて、「土匪」たちの怒声は悲鳴へと変わり、やがて日本人を呪う断末魔となって消えていった。同じ頃、中部地域の林圮埔や土庫、他里霧や西螺などでも、同様の手口で200名近い帰順「土匪」たちが一掃されていった。

 林少猫は動かなかった。

 日本側との帰順条約を公文書として残していた彼は、それを担保に日本側の挑発にはのらず、ただひたすら沈黙を貫いていた。

  

 高雄市小港区鳳宮里。

 現在電力発電所や鉄鋼会社、製油所などが林立するこの臨海工業地帯が、林少猫の最大にして最期の根拠地であった。

 ぼくは相棒で周囲一帯を見て回ろうと思ったが、エリアのほとんどが工場や輸入コンテナの倉庫となっているために、大型トラックが頻繁に往来する幹線道路以外自由に行き来できる道さえなかった。120年前、この後壁林にはぐるりと壁が張り巡らされ、さながら城壁のような様相を呈していたらしい。数百人の部下が暮らす市街地には、賭博場や遊郭まであったとされる。人間臭い往年のにぎわいを想像すると、現在の無機質な景観がまるで擬死した昆虫のように思えた。

 「土匪」討伐の総責任者であった大島九満次(くまじ)警視総長は、斗六での「土匪」騙し討ちを前に、児玉源太郎総督に次のように伝えた。

――中南部はあらかた平らげて、斗六での「処分」もこれから決行されます。これが成功すれば、ただちに鳳山の林少猫を片付けるべきです。

 日本側は林少猫討伐の理由として、いまだ日本に抵抗する「土匪」と連絡を取っていることや、度重なる襲撃事件を罪状に挙げたが、それらは帰順前の出来事であって、本来犯罪の根拠とするには正当性の乏しいものだった。

 明治35(1902)年5月30日、伝染病拡大による部隊の配置を装った鳳山の守備隊は、後壁林と渓洲庄に向けて秘かに南下をはじめた。

 早朝、まず警察隊が大島警視総長の出迎えを口実に林少猫をおびき出して、その場で腕利きの巡査たちによって林少猫を斬殺しようとしたが、その企みは異常を感じ取った林少猫の部下たちに見破られてしまった。暗殺に失敗した警察隊はすぐに後方に控えていた守備隊に合図を送った。午前11時、後壁林を完全に包囲した日本軍は壁内に向けて執拗な砲撃を行った。日暮れになって市街地に突入した日本軍は、生き残った残党を掃蕩しながら林少猫の死体を探した。

 翌日、西門近くに林少猫の死体を発見した。

 周囲には男41名、女25名、子供10名の死体が転がっていた。死体を調べたところ全身に5発の銃創が見つかった。腰部に当たった弾丸が致命傷となって、西門近くの田んぼに崩れ落ちて、そのまま出血多量で死亡したと推測された。同じ頃、息子の林雄も渓州庄にある自宅で殺害された。

 資料によると「此時少猫身には帰順証一票帰順条件一通を帯び」ていたらしい。彼は日本側が発行した帰順証と十か条の条件が記された公文書を最期までその身に帯びていたのだ。しかし、「土匪」殲滅を政治的に正しいと信じる日本人相手に信義に基づいた保険は結局効力を発揮しなかった。

 享年37歳。林少猫の死をもって、後藤新平に「水滸伝ノ活劇」と呼ばしめた「土匪」の時代はここにその幕を下ろした。

  

 高雄忠烈祠。

 辛亥革命や抗日戦争で国家に殉じた「烈士」たちを祀ったこの場所には、戦前高雄神社が建立されていた。忠烈祠へと至る乙型の山道を登っていくと、中国風にデザインされ直されたかつての高雄神社の鳥居が目に入ってくる。相棒を展望台横の駐車場に止めて、長い階段を上がっていくと、中国北方の宮殿を模した高雄忠烈祠の入り口が見えた。「LOVE」の形をしたモニュメントの前では、若いカップルたちが眼下に広がる高雄港を背景に記念写真を撮っていた。

 案の定、薄暗い忠烈祠の敷地内には誰もいなかった。ずらりと並ぶ位牌を詳しく見てみたいと思ったが、館内は立ち入り禁止になっていた。清潔だがひどくうらぶれた館内は、官営の陰廟といった感じがした。

 戦後に国民党がこの島の新たな支配者として君臨すると、日本の支配に抵抗した林少猫は高く評価されて、旧高雄神社を改築した高雄忠烈祠に「烈士」として祀られることになった。かつての「土匪」が「烈士」へと様変わりしたのだ。ところが、民国73(1984)年にはこの林少猫をめぐって小さな事件が起こった。高雄市議会上で、ある議員から林少猫を日本に帰順させてその情報を売った陳中和は「漢奸」ではないかといった意見が出されたのだ。この意見に高雄市議会議長・陳田錨が猛反発して訴訟騒ぎにまで発展した。陳田錨は陳中和の孫にあたり、高雄市議会では林少猫が「烈士」か「土匪」で激しい議論が交わされた。最終的に専門家を集めて調査を行った結果、林少猫は「烈士」であると結論付けられた。似たようなケースは近年でも起こっている。民進党の大物議員で行政院長も務めた元屏東県県長の蘇貞昌が、民国107(2018)年に新北市長に立候補した際、ネットなどで蘇貞昌の祖父にあたる蘇雲英が林少猫を日本人に売った「漢奸」であるとの流言が流れたのだ。蘇貞昌はこれを即座に否定して噂はやがて沈下したが、新北市長に選ばれることはなかった。

 高雄忠烈祠をあとにしたぼくは、長い階段を下って相棒の下まで戻ってきた。階段前の巨大な石碑には「大東亜戦争完遂祈願」の文字が残されていた。10年ほど前、高雄を訪れた日本の地方議員の通訳アルバイトをした際に、確かこの場所を訪れたことがあった。真っ黒なスーツに身を包んだ議員たちはひどく恭しげにその文字を見上げていた。

――戦前、この場所には北白川宮能久親王や崇徳上皇を祀った高雄神社が建立されていたんですが、戦後には抗日烈士たちを祀る忠烈祠へと改築されました。

 中国語のガイド越しにぼくの説明を聞いていたある議員がため息をついた。彼は憤懣やるかたないといった表情で、台湾人はもっと親日だと思っていたのにとこぼした。

――なに、これを建てたのは外省人だよ。台湾人は基本親日的だから。

 台湾を何度も訪れたことがあるという議員が言った。高雄を訪れる前日、彼らは台南で八田与一が作った烏山頭ダムを見学したらしく、日本人がかつて植民地台湾の建設にどれほど邁進してきたのかを熱く語りはじめた。

 ぼくは黙っていた。経験上、一通訳者の政治的意見など、雇い主にとってはノイズとしてしか認識されないことを知っていたからだ。何よりも、機嫌を損ねた雇い主から報酬をケチられるのはごめんだった。

 南国の街中でパリッとしたスーツに身を包んだ議員たちは、さながら『注文の多い料理店』に出てくる紳士たちのようだった。忠烈祠に続く長い長い階段を上っていく彼らの汗ばんだ背中を見つめながら、ぼくは心の中で小さくつぶやいた。

――祠の中には化け猫ならぬ「肖猫」が一匹隠れています。どうぞお気をつけて!

高雄忠烈祠入り口にある旧高雄神社の鳥居跡

  

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著者略歴

  1. 倉本 知明

    1982年、香川県出身。立命館大学国際関係学部卒業、同大学院先端総合学術研究科修了、学術博士。専門は台湾の現代文学。2010年から台湾在住、現在は高雄の文藻外語大学准教授。
    台湾文学翻訳家としても活動している。主な訳書に、蘇偉貞『沈黙の島』(あるむ)、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)、王聡威『ここにいる』(白水社)、呉明益『眠りの航路』(白水社)、 張渝歌『ブラックノイズ 荒聞』(文藝春秋)、『台湾の少年』(岩波書店)など。中国語翻訳作品に高村光太郎『智恵子抄』(麦田出版)などがある。

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