web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

世界平和への祈り——広島世界平和記念聖堂

 1. はじめに

 広島平和記念公園がつくられていく過程で、明確に否定されたもののひとつが、死者への「祈り」であったことを、前回は見てきた。しかし、第二次世界大戦の記憶がまだ生々しい時期、戦争中に亡くなった者への弔いこそが世界平和への祈りにつながると考える方がむしろ自然だったろう。平和記念公園と同時期に、そんな人々の祈りの場として、ひとつの宗教施設の建設計画が広島で登場している。

 今回取り上げる、広島市の世界平和記念聖堂(1954)だ。キャロル・グラックが『戦争の記憶』(講談社現代新書)で述べているように、日本の戦後はヒロシマとナガサキから始まる。戦場での死だけではなく、空襲などによる身近な死者の存在が、戦後日本において反戦と平和への思いを強くしてきた。半世紀以上におよぶ戦後日本の歩みの中で、ヒロシマとナガサキは反戦と平和の象徴的存在へとなってきたのである。この建物は2006年に、広島平和記念資料館とともに戦後復興の先駆的建築として、はじめて国指定重要文化財となっている。

2. 世界平和を願い、死者を弔う

 広島世界平和記念聖堂の正式名称は、カトリック幟町教会世界平和記念聖堂。爆心地より1.2キロのところにある。現在は、エリザベト音楽大学が隣接する。原爆投下前から現在と同じ場所に教会はあったが、原爆によりすべての建物は全壊。その後、仮聖堂を建設して祈りを守っていた。現在の聖堂を建設するにあたって建設予定敷地を従来の2倍以上広くしている。カトリック広島教区が戦前から広島市内に分散してもっていた土地を、戦後に集約させたからである。その裏で、それまでの教会周辺に土地を持っていた地主たちには、代わりの土地が与えられたとはいえ、移転を余儀なくされたため、教会の土地を集約させるなかで多くの軋轢が生じたのであろう。「被爆後、所有地にひとまずバラックを建てて住んでいた人が、直接幟町教会へ抗議に及んだこともあった」と石丸紀興は記している[1]

 こうした軋轢を抱えながらも、世界平和記念聖堂の建設は、フーゴ・ラサールというひとりの神父の強い意志をもって行われた[2]。ドイツ出身のラサール神父は、戦前にイエズス会より日本に派遣され、戦時中も日本に留まり続け、広島で被爆した。1948年3月に日本へ帰化し愛宮真備えのみやまきびと名乗り、坐禅を宗教生活にとりいれて実践するなど、カトリックへの信仰を通して日本文化や禅宗への興味を抱いていた。

 神父は、原爆投下により重傷をおったものの一命を取り留めた。やがて信者らの訃報に接し、被曝の実態を知るにつれて聖堂建設の意志を固めていった。石丸は、自著の中で、聖堂建設後援会事務局長をつとめた土井正夫の回想を引用している。

雪のチラチラ降る日だったと思いますが、現在の神父館が建っている所が元の神父館で、その高い土台の上にたって夕暮れの街をずっと眺めておられるのがラサール神父様でした。(略)その時に、神父様は私に「土井さん、沢山の人が死にました。この死んだ人の霊魂はどうなっているのでしょうか」。こう云われた時に私は、頭から冷や水をかけられたようにジーンとしました。神父様は、その時に、「私はこれから世界中を廻ってこの被爆者のために、その霊を慰める聖堂を建てたいと思う」とおっしゃいました。[3]

しかし、聖堂再建のためには解決すべき困難が多くあった。例えば、誰がどのような聖堂を建てるのか、十分な建設材料は手に入るのか、建設費用はどのように工面するのか。

 建設費用と材料の確保にはとても苦心したようだ。工事期間は1950年から1954年の5年にわたった。この間、日本経済はインフレによる資材価格の高騰に直面し、聖堂の工事もたびたび中断している。当然、建設費用も当初の想定を越えて膨れ上がっていった。そのため聖堂建設資金への募金が日本だけではなく世界中に呼びかけられた。国内では、池田勇人を会長に迎えて「広島世界平和記念聖堂建設後援会」が設立され、政財界人に寄付が呼びかけられた。最終的には、総額1億円が寄付により集められたのである。

竣工直後の平和記念聖堂

 聖堂の設計は、第3回で取り上げた日本橋高島屋の増築を手掛けた村野藤吾が担った。建物は、中央の身廊をふたつの側廊がはさむ三廊のバシリカ(長方形)の平面をもち、非常にオーソドックスである。東西に伸びる建物の全長は57メートル。敷地の北西寄りに鐘塔があり建物に隣接する。建物の東端には花弁型のドームが立ち上がっている。

聖堂と正面と鐘塔 写真:arch-hiroshima

聖堂内部 写真:arch-hiroshima

 建物の外観には、鉄筋コンクリートの柱と梁があらわれていて、その隙間に中空のモルタル煉瓦(コンクリートのブロック)を積み上げた。このモルタル煉瓦の後ろには鉄筋コンクリートの構造壁があり、柱・梁と一体化して建物を支えている。いわば巨大な箱のような形をしたコンクリートの壁の外側に、モルタル煉瓦がくっついているのだ。モルタル煉瓦の色は、柱や梁と異なるものが用いられ、ところどころ突出させることで壁面に微妙な陰影をつくりだしている。内陣のドームの上には、鳳凰がとりつけられた。鳳凰の造形は、宇治の平等院を参考にしたという。ステンドグラスやローズウィンドウ、パイプオルガン、鐘などは、ドイツを中心に世界各地から寄贈されたものである。もし広島のこの聖堂が傷つけられたとしたら、それは世界のどこかの国の善意を傷つけることになる。この聖堂はまさに世界平和を願って再建されたのだ。


ドームと鳳凰 写真:arch-hiroshima

3.「私の努力が死ぬまで枯れずに続くように導き給え」

 村野藤吾の略歴については、第3回「現在を過去と未来から引き寄せる—— 日本橋髙島屋S.C.」のなかで触れているので、そちらも参照してほしい。実はそこでは述べられなかったが、村野の処女作は、プロテスタントの教会堂だった。1928年に大阪で建てられた日本基督教団南大阪教会(旧礼拝堂・教会塔)がそれである。当時、村野はまだ渡辺節事務所の所員であった。現在の教会堂は1981年に建てられたもので、これも村野が晩年に設計したものである。村野自身もキリスト教徒であり(実際に洗礼を受けたのは晩年になってからといわれているが)、ルーテル学院大学(1970年竣工)、宝塚カトリック教会(1965年竣工)など、この世界平和記念聖堂のあともキリスト教関連の宗教施設を設計している。

 村野とキリスト教会堂にまつわるよく知られたエピソードがある。1953年、ストックホルムを訪れた村野は、ヘガリット教会を訪れた。その時の感動を、村野は建築家の今井兼次(今井もまたクリスチャンだった)に書き送っている。村野は、この教会を訪れて「どうか、私に此の教会の作者のように才能を与え給え、どうか私の努力が死ぬまで枯れずに続くように導き給え」と祈ったという[4]。村野は亡くなるその日までペンを握っていたというから、この村野の祈りはみごと聞き届けられたのだろう。

4. 設計競技

 当初、聖堂の設計者は設計競技で決まる予定だった。日本近現代建築史ではよく知られているが、この設計競技はやや物議を醸すこととなった。それは、聖堂建設の設計競技を行ったものの1位該当者がなかったのである。普通は設計競技の1位該当者が設計者となるのだから、1位がいない場合は競技として不成立とみなされてもおかしくはない。当時、建築学者で東大教授の岸田日出刀はそう述べて批判している[5]。おまけに設計を担当した村野は、審査委員のひとりであった。審査を担当した建築家が、結局設計を担当したとなれば、なおさら余計な憶測を生じかねない。もちろん村野も設計を引き受けることに躊躇があったというが、最終的には引き受けることを了承した。ただし設計料は受け取らなかったという[6]

 このようなことになった理由は単純ではない。例えば、この設計競技の主旨に問題が潜んでいた。建物は「モダーン、日本的、宗教的、記念的という要求を調和させる事」であったが、石丸紀興はこの主旨に疑問を呈する。

そのような要求を全て満たすことが可能であろうか。そもそも無理な要求を解決せよといっているのではないか。この種の用語を使用すれば、どのような応募でも、欠陥の理由づけになりはしないか。[7]

言い換えるなら、どのような案が提出されても1位を選ぶことはできなかったのではないか、という疑問である。宗教的、あるいは記念的であることを求める理由については、被爆地のカトリック教会ということから容易に想像がつく。モダーンであり、日本的ということも、それが建てられる場所と時代を考えれば妥当であろう。例えば、モダーンで日本的という建築表現は、第1回「人間のための建築——鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」でとりあげた坂倉準三が1937年のパリ博日本館で実現していた。丹下健三も広島ピースセンターで同じ建築表現に取り組んでいる。どちらもキリスト教の教会ではないが、伝統的な柱梁構造を近代的な建築表現に置き換える、という方向は共通するものがあった。一方で、記念も宗教もモダン・ムーブメントが苦手とするものだった。第1回を思い出してほしい。そこで筆者はモダニズムが人間のための建築であったと指摘したが、これは言い換えれば、合理主義や機能主義は人間を超えるものを表現することが得意ではないということだ。機能主義的なモニュメントとはどのようなものを想像できるだろうか。

 その一方で石丸は、設計競技の募集要項と実際の設計段階で設計条件が根底的に変わっていたことを指摘している。具体的には、敷地と建物の規模である。1948年の募集要項では敷地面積が5,947平方メートルだったが、1951年の敷地取得完了時点では12,686平方メートルまで拡がった。富岡義人・田端千夏子・内川和泉による論文に掲載されている fig.1に示されているとおり、当初より相当に敷地が拡大していることがわかる。もうひとつは建物の規模である。1948年の設計競技募集時点では、建設費を1500万円としていた。しかし実際の建物はその2倍以上の規模をもつ建物になった。つまり単純計算でも建設費は2倍以上になる。

これだけの条件が変化したのでは、たとえ一等案が選出されていたとしても、そのまま実施案とはなり得ず、コンペそのものが何だったのかという問題にもなろう。[8]

戦後復興のさなかである。区画整理や換地作業が複雑に進行しているなかで、設計条件は飛躍的に向上していったことが、設計競技そのものが不成立となった要因のひとつとして推測できる。

 では、村野に設計が依頼されたのはなぜだったのか。考えうるのは、この設計競技の準備段階から教会関係者と村野との間にすでに信頼関係が出来上がっていたのではないか、ということである[9]。設計競技要項の詳細を詰めていくなかで、村野によって記念聖堂の予備的な設計が進められていたことが残された図面からわかっている。このなかで、村野は教会建設案としてさまざまなパターンを試していた。妄想を逞しくすれば、設計競技の募集要項を決める過程で、すでに教会関係者と村野の間で実際にできる聖堂のイメージが共有されていたのかもしれないとも考えてしまう。あくまでこれは残された図面を時系列で整理し、その内容を分析することから指摘されている可能性であり、今後の研究進捗を待つのみである。

 

5. モダーン、日本的、宗教的、記念的

 竣工した建物に戻ろう。この建物のどこを見れば、「モダーン、日本的、宗教的、記念的という要求」に村野が答えようとしたのかがわかるのだろうか。コンクリートという工業的な材料を使った不燃化と耐震化は近代の特徴といえるだろう。全体として装飾が少なく幾何学的な形態であることも、建物を近代的に見せるだろう。一方で、壁面にリズムがあるとはいえ全長57m、高さ20m(鐘塔は45m)という規模は、マッシブな印象を与えて建物の存在感を意識させる記念的特徴を生み出す。三廊のバシリカ平面、あるいは横につけられたフライングバットレス、十字架のある鐘塔など、荘厳なキリスト教会堂としての基本要素も踏まえている。

 村野が苦労したのは日本的という点であった。鳳凰はいうまでもないが、エントランスの格天井や欄間は日本建築の要素であるし、外壁の柱梁とモルタル煉瓦は木造建築の真壁構造にもみえてくる。もうひとつ、村野が日本的であることを意識した点があった。それは聖堂へのアプローチである。ラサール神父とともに被爆したチースリク神父は、次のように回想している。

彼[村野藤吾]は聖堂設計の日本的な要素について、「神道の古い神社や仏教の寺院などを見ると、まず直接に道路から入らず、あるいは山を登り、あるいは橋を渡って聖域に入る。その途中で、心を世間から話してこれを清め、黙して聖域に入るようになっている。こうして、神の家に入るときにも直接に道路からではなく、心を神に向けながら橋を渡って聖域に入ることにした。」と述べていた。([]内は引用者補)[10]

 確かに、聖堂の敷地に入るには鳥居のようなゲートをくぐって太鼓橋を渡らなければならない。建物自体ではなく敷地の神聖性を高めるという村野の方法は、戦時中の丹下健三の設計とも共通するものだった。装飾的なボキャブラリーのみならず敷地へのアプローチという空間構成の観点から、村野は聖堂に日本的な特徴を与えようとしたのである。


エントランスの欄間と格天井 写真:arch-hiroshima


太鼓橋 写真:arch-hiroshima

6. おわりに

 広島という地に戦後建てられた世界平和記念聖堂を通して、戦争の犠牲者を弔い、世界平和を願う想いはいうまでもなく次世代にも渡すべきものである。それとともに、この聖堂建設が計画され工事が行われた占領期という時代を理解しつつも、戦後の村野がもちつづけたある態度からも我々は学ぶべきものがあるように思われる。建築評論家の長谷川堯は村野についてこう述べていた。

戦前戦後を通じて、自分自身の外●●●●●●にあるなんらかの価値、たとえば《主義》や、それに伴う〈主張〉に自らを同調させて行動し、そうした集団的で示威的な動きの中で設計活動を行ったことは一度としてなかったし、常に「少数派」の極限的状況としての、たった一人の「自己」の身体●●●●●●●●●●●●●を基点として、自らの力のみを恃んで行動し、結果として驚くほどの数に及ぶ彼の作品のすべてを創出してきた[11]

 長谷川がいう少数派とは、「《モダニズム》と呼ばれるような、近代工業化社会との同調を目指しながら、《合理主義》の建築論や《工業主義》的設計手法を確立して広めることに成功した」建築家たちに与しない、という立場を指す[12]。1950年代から1960年代にかけて、いわば多数派の建築家たちは少数派の村野に激しい攻撃や批判を行った。いわく、村野の建築は「構造的でなく、装飾的である。アーバンデザイン的でない」[13]。例えば、キリスト教会堂のディテールに欄間や格天井をもちいて「日本」を表すことは、折衷的で装飾的である。エントランスを格天井にする機能的・合理的理由は本当にあるのか。キリスト教会に欄間を用いるのは安易な折衷ではないか。しかもそれをコンクリートで作るとは。同じような批判は、1930年代にも「日本趣味建築」批判としてすでになされていた。村野がそれを批判するモダニズムからやや距離をとっていたことも知られている。少なくとも戦後の村野からすれば、こういった批判は「自分自身の外にあるなんらかの価値」に自らを同調させるものと見えたに違いない。        

 人間のための建築を作ろうとするモダン・ムーブメントは、社会改良的な視点をもつがゆえに社会主義や共産主義といった政治思想とも近くなる。今となっては想像しにくいかもしれないが、終戦から1950年代にかけては特に大学生、文化人、知識人を中心に社会主義や共産主義へのシンパシーが非常に高かった。たとえばこの設計競技の結果を受けて、建築家の池辺陽は、まず問題になってくるのは「社会主義思想(現在のはこの思想のもっとも大きなものとしてコミュニズムによって代表される)とカトリシズムの関係の解決であろう」と書いている[14]。しかし、村野にとってこういった考えは自らの判断を自らの外にある価値に従わせてしまうものとみえたのではないか。モダニズムと社会主義を同一視することが問題なのではない。自分の判断が自分の外側にあるものに基づいている、ということに気づいていないことが問題なのだ。

時流に乗るな、多数派になるな、多数派に巻き込まれたら脱皮して必ず少数派になれ[15]

1972年に語られた村野の言葉は、終戦直後の「我々は騙された」という民衆の声に対して、とるべき態度を示しているかのようではないか[16]

 

[1] 石丸紀興『世界平和記念聖堂』相模書房、1988年、65頁。

[2] フーゴ・ラサールは1940年にドイツ西管区から派遣された神父で、1948年には日本に帰化した。帰化名は愛宮真備(えのみやまきび)。

[3] 同上、34頁より引用。

[4] 1960年代から1970年代に発表された文章のなかには、村野がヘガリット教会を訪れたのは、この広島の教会を設計する前あるいは設計中とするものが見られるが、石丸が指摘するように、時系列としてこの教会の設計を終えてから村野は渡欧しているので、これは誤りである。

[5] 岸田日出刀「論説:一等必選論」『建築雑誌』(1948年7月号)

[6] 石丸、前掲書、105頁。

[7] 石丸紀興『世界平和記念聖堂』相模書房、1988年、84頁。

[8] 同上、108頁。

[9] 富岡義人・田端千夏子・内川和泉「村野藤吾の広島世界平和記念聖堂(1954)の設計過程その1」『日本建築学会計画系論文集 第87巻 第802号』(日本建築学会、2022年12月)。とくに注18を参照。

[10] 「聖堂建設のシリーズ」『世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース』(Vol.1 No. 8 9月号)http://www.hiroshima-diocese.net/hp/kw/50/pdf/50th08.pdf 

[11] 長谷川堯『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(鹿島出版会、2011年)、9頁。

[12] 同上、7頁。

[13] 村野藤吾「受賞有感」『建築雑誌』(1972年8月号)、798頁。

[14] 池辺陽「教会建築と近代建築」『建築雑誌』(1948年7月号)、24-25頁。

[15] 村野藤吾、同上。

[16] ジョン・ダワー「惨めさを嗤う」『忘却の仕方、記憶のしかた』(岩波書店、2013年)

バックナンバー

著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる