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戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

団地の自然を譲りわたす——竹山団地

出典表記のない写真は筆者による 

はじめに

 JR横浜線鴨居駅で下車し、竹山団地行きのバスに乗ることおよそ10分。竹山団地が見えてくる。竹山団地中央というバス停で降りてしまいたくなるが、その次まで我慢しよう。バスから降りると、ユニークな形のピロティをもったベランダのある集合住宅が目の前に現れるはずだ。ピロティの下は駐車場になっている。建物に近寄ると、その奥には池が見える。手前には楕円形のスロープ。池に向かって降りてみよう。スロープを降りると、商店街に入る。この集合住宅は、商店街の上に駐車場があるという面白い構成になっているのだ。ユニークな形のピロティは、住宅、駐車場、商店という構成をダイナミックに支えている。

 


特徴的なピロティと楕円形のスロープ


上層階が住宅、駐車エリアの下には商店街がある。

 

 池に面して商店と住宅の高層棟が集まっているこのエリアが、今回取り上げる竹山団地(設計:群建築研究所、竣工:1970年)のセンターゾーンだ。竹山団地は、総面積は約45ヘクタール、総戸数2490戸、計画人口9000人の住宅団地だ。神奈川県住宅供給公社によって大規模開発され、1970年から入居がはじまった。竹山団地の全体構成をみよう。センターゾーンにはスーパーマーケット、商店などとともに巨大な人工池と高層住宅を置き、センターゾーンの周辺に中層住宅が配置されている。


竹山団地全体図。フォントがレトロでかわいい。

 この竹山団地センターゾーンは、文化庁が現在行っている近現代建造物緊急重点調査の調査成果に含まれており、またDOCOMOMO Japanによる「日本のモダン・ムーブメント250選」にも選ばれている。DOCOMOMO Japanはこのセンターゾーンをこう評価した。

 大規模住宅団地の中央部に人工池を設け、豊かなオープンスペースをつくっている。そこに展開される立体的な動線もユニークなもので、公共住宅では他に見られない個性がある。その建築とランドスケープが一体となった風景は地域のシンボルとして長く親しまれてきた。

竹山団地は、この人工池を中心とする豊かな自然環境と居住環境が一体となって開発され、それが半世紀以上も維持され続けていることが大きな魅力といえるだろう。

 

憧れの団地生活

 「団地」という言葉の由来は、1919年の都市計画法施行令に記された「一団地の住宅経営」という文言にあるという[1]。しかし、この言葉がひろく世間一般へと広がったのは、第二次世界大戦後のこと。鉄筋コンクリートの集合住宅が、広大な土地に、同じ方向に向かって(多くは南向きで)一定間隔で大量に並んでいる。「団地」という言葉からは、おそらくこうしたイメージを思い浮かべるのではないだろうか。

 おそらくこのイメージは、日本住宅公団が終戦後の住宅不足を解消するため、大量かつ迅速な住宅供給を行う目的で建設した集合住宅からきている。日本住宅公団は、関東大震災後の住宅供給を担った同潤会(第2回「夢のモダンライフとその痕跡——表参道ヒルズ同潤館」を参照)を参考にして、1955年に設立された法人で、とりわけ「住宅不足の著しい地域、すなわち大都市圏における勤労者のための住宅供給」を目的とし、「耐火性能を有する集合住宅、すなわち非木造集合住宅の建設を使命とした」[2]。初年度より2万戸もの住宅設計が求められたという。そのため、「個々の住棟や団地の設計、建設に当たっての業務量を減らせるよう、各住戸の間取りや住棟内でのその配列などをあらかじめ決めておき、住棟や団地の別を問わず共通に使える」手段として、「標準化」が行われた[3]

 食事と寝室を分ける「食寝分離」と、成人同士の寝室を分ける「就寝分離」を原則として、ふたつの個室をそなえた2DKのダイニング・キッチン(DK)が日本各地へ広がっていく。同潤会アパートが戦前、憧れのモダンライフの象徴だったように、1950年代、この2DKの鉄筋コンクリート集合住宅は高嶺の花だった。例えば、団地の魅力再発見をかかげて、2018年に「第二次団地ブーム」をうたった照井啓太は、第一次団地ブームの頃の団地生活についてこう書いている。

 国家公務員の初任給が8700円の時代に、公団第1号である『金岡団地』では、なんと月収2万5000円(家賃の5.5倍)以上が入居要件となっていた。高収入の団地族は、当時まだ普及途上だった三種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)を月賦で購入し、真っ先に近代的な暮らしを満喫していたという。[4]

さしずめタワマンの高層階にも通じるような、高家賃感と高級感が初期の団地にはあった。しかし、タワマンと違うのは、初期の団地が賃貸住宅だったことである。例えばマンモス団地の先駆けとして1959年に造成されたひばりが丘団地は、全戸賃貸住宅だった。戦後日本の住宅政策は、そのメインストリームの終着点として住宅所有を掲げたことが知られている[5]。人々のマジョリティは、ライフコースにあわせて、賃貸から持家へ、マンションから一戸建て住宅へと、住まいの梯子をのぼっていく。それゆえ賃貸の団地住まいは、ゴールである持家に向かう通過点に過ぎなかった。

 もうひとつ、原武史が指摘するように、団地が高嶺の花だった理由は自宅用浴室とシリンダー錠にあった。日本住宅公団は、1965年に浴室とシリンダー錠を備えた公団住宅こそが庶民の近代的意識を成長させる役割を担った、と述べている。

浴室とシリンダー錠はいわば公団住宅にとってもたらされたプライヴァシーの概念を端的に象徴するものであった。多くの庶民がまだ浴室はおろか便所や台所すらも共用しなければならないような戦後の貧しい住宅状況に悩んでいる時、浴室のある住宅が庶民の手の届くところにもたらされたという実感は、入浴というような行為が持っているプライヴァシーの概念を日本の庶民の暮らしの中にはっきりとした形で浮き上がらせた。扉一枚でそこから先には門も塀もなく、ただちに公的な空間に接続するということは、これもまた日本の庶民の暮らしの実感の中に公的な空間と私的な空間の区別の概念を明確化させるきっかけとなった。[6]

 しかし、このような団地生活への憧憬は、10年ちょっとで終わりを迎えた。そのメルクマールとしてしばしば言及されるのが、1971年公開の日活ロマンポルノ「団地妻 昼下がりの情事」である。サラリーマンの夫がいない昼間の専業主婦が欲求不満と好奇心から売春をおこなうという内容は、コンクリートの壁によるプライバシーの確保がもたらしたものであると同時に、他者への無関心とコミュニティ帰属意識の希薄化を示すものとされた[7]

 一方で、団地での生活に着目してみると、平日昼間に外で働く夫と団地で子育てをする妻という家族の風景が見えてくる。核家族化と性別役割分業にもとづく近代的な家族像である。「団地妻」への劣情は、このような家族像を背景として生まれたものといえるだろう。その一方で、緩やかにではあるが、男女同権の意識も浸透しつつあった。社会学者の渡邉大輔によれば、教育社会学者の橋爪貞雄は、自著『変わりゆく家庭と教育』(1962年)のなかで、「ダンナ様のエプロン」というエピソードを紹介しつつ、実際の生活行動は伴わないながら夫も台所仕事を手伝うべきだとする男女同権の意識が団地居住者に広まっていたことを指摘している[8]

 

量から質へ

 こうしたなかで、日本住宅公団は、1960年代末以降、賃貸ではなく分譲住宅団地の建設を進めていくようになった。終の住処として、団地に住まうという選択肢を提供し、団地への定住意識を高めようとしたのである。

 団地に定住するとなれば、気になるのは居住環境である。1960年代末になると、初期の団地にあった高家賃感が減少し、珍しかった各住戸の自宅用浴室、シリンダー錠、ステンレス製の流し台も、家電の普及に伴って高級感を失った。食寝分離と就寝分離によるプライバシーの増大は、更なる個室への要求を生み出す。「このような住まい方全般の変化に伴って、公団住宅に対する要望も変化してきた。その重点は従来のように家賃が高すぎるという主張から「より広い、より近代的な住まい」という意欲に変わってきた」と日本住宅公団は分析する[9]。1973年度には、住宅戸数が世帯数を上回り、住宅の絶対的戸数不足が解消された。量から質へと住宅問題は変化しつつあったのだ。

 当然ながら、ひとびとの関心は住宅の質だけではなく周辺環境にも広がっていく。とりわけ、1960年代に入ると、公害や温暖化、騒音や土壌・水質汚染といった環境問題が大きく注目されるようになった。1971年には、現在の環境省の前身である環境庁が発足し、環境問題は政治課題として扱われることになる。

 竹山団地の開発は、まさにこのような時期にはじまった。団地の建設には広大な敷地を必要とする。豊かな自然の丘陵を切り、谷地を埋める宅地造成は、自然破壊にほかならない。竹山団地は大きな人工池を中心に自然の復権を試みた、ユニークな分譲住宅団地だった。

人工池による住環境の創出

  竹山団地センターゾーンの設計を担当したのは群建築研究所(所長:緒方昭義)。神奈川の学校施設や、労働会館、市民会館など公共施設を設計していることで知られる。竹山団地計画で緒方が試みたことは、限られた予算内での住宅の大量建設がもたらす高密化と均一化・画一化への批判であった。

確かに性能と呼ばれる住居の物的品質は管理され、その質当たりコストが低廉化することにはメリットがあるが、それから不可避的に生じる均一化・画一化の傾向と、今後ますます住居に要求されてくる個別化・多様化の方向とは、必ずしも一致しがたい困難が内包されている。[10]

  そこで緒方は、高密化の課題についてはオープンスペースの確保によって、均一化と画一化については個別性・多様性が保証される住環境計画手法の開発によって、それぞれ解決しようとした。前者については、人工池と造成前からあった緑地の保全が意味を持った。後者については、一般的な片廊下型ではなく階段室型の集合住宅にすることで対応した。

 とりわけ緒方が重要視したのは、センターゾーンの中心におかれた池だ。緒方は「既存の住宅地の中で自然の保護再生ということが考えられている街はほとんど存在しない」と述べ、自然について考えることから「今後の都市づくり住宅づくりのあり方」を考えるべきだと主張する[11]。自然は「道路や上下水道などと同じように、必要欠くべからざる」都市のインフラ(緒方の言葉では「都市施設」)であるにもかかわらず[12]、団地の自然といえばせいぜい建物と建物の間に植栽を設ける程度ですませている[13]。しかし、緒方曰く、それでは不十分だ。ひとつの家には必ず庭がある。つまり、家とある規模の自然はセットであるべきだ。

アパートは、つみ上げられ、空中に重ねられた住居であるのですからその一棟は、決して一軒の家ではないのです。ですから、アパートの場合、戸々の庭に自然を別に「共有の自然」として確保し、自然との触れ合いの場を保障すべきであるのは、住居地の造成、住居環境の造成、都市施設の整備としては、むしろ当然のことであるといわなければなりません。[14]

 団地に広大な自然が必要である理由の説明として、集合住宅が庭付き一戸建て住宅の積層だからだとする緒方の記述は興味深い。我々は土から離れては生きていけないのだ。

 土と共に自然の多様性を担保するのは、緒方によれば、水である。したがって、水と土は団地に不可欠な「ワンセットとしての自然」だとして、広大な人工池とそれに面した里山の傾斜地を団地に必要不可欠な要素とした。事業主体である神奈川県住宅供給公社も、この人工池構想についてこう述べる。

せっかく池を造るなら、トンボも、ホタルも、魚もいる池にということで、東京多摩動物園昆虫館の矢島稔氏に池の設計の前に現場にお招きし、その可能性、池の断面、つくり方、管理などのアドバイスを受け、更に植物については横浜国立大学の宮脇昭氏にも水辺における植物社会の意見を取り入れ、計画・建設した。給水を主体に、自然の湧水、雨水の利用によって給水されている。(略)池の設置については公社内部でも是非論があったが昭和47年5月に完成し、居住者にも相当好評のようである。(略)当初心もとない人々が池に紙クズなどゴミを捨ててあったが近頃ほとんどないと聞く。自分たちの池という意識、いや自分たちの住む生活環境を自分たちの手でより良くしてゆこうとするものである。[15]

自然の複雑な生態系を保持するためには「ある絶対的な寸法」があり、それを崩してしまうと「複雑な自立的な自己再生能力を持った生態系の鎖は切断されてしまう」[16]。それゆえ、ある一定規模の自然は団地には欠かせない。このような構想からつくられたセンターの人工池は、「いわば自然の復権を考えた住宅地」としての竹山団地のシンボルとなった[17]

 ランドスケープと一体化した住宅地の形成は、いまや当然の考え方だが、竹山団地が造成された頃には、実践されることはそれほど多くなかっただろう。とりわけ、人工池による自然と住環境の創出は、実験的な試みだったはずだ。入居開始から50年以上が過ぎて、人工池を中心とした竹山団地の計画は、改めてその価値が再注目されている。

 
竹山団地センターゾーン

おわりに

 団地は、居住世代の均一化と高齢化、あるいは居住者の多国籍化といった視点から、社会学の研究でも取り上げられることが多い。デザイン的な視点から「団地」に関心を寄せる動きもある。例えば、大山顕の『団地の見究』などは、その古さへのノスタルジックな魅力も含めて即物的な視線で団地を捉えている。原武史の『団地の空間政治学』など、西武鉄道沿線沿いの団地に注目した研究は、高度経済成長の団地にいわば社会文化史的価値を認める。

 一見すると交わらないように思えるこれらの動きには、「継承」という共通点があると思われる。国や地方自治体などが住宅政策または社会福祉政策の一環として建てた「団地」を、いかに次世代へ引き継ぐか、という問題だ。とりわけ昭和30年代から40年代(1955–1974)にかけて建てられた「団地」は、その数も多いため、この問題の中心となるだろう。もちろん容易な問題ではない。居住者、家族のあり方、生活スタイルの変化も関わってくるからだ。そもそも、なぜ築50年以上を過ぎた集合住宅を引き継がなければならないのか、という問いも生まれる。

 建築の世界でいえば、居住世代の均一化や高齢化は、建物や設備の老朽化の問題ともつながる。これはそのまま耐震性能の不安につながり、建替え方針へと舵が切られやすい。事業主体が地方公共団体であることも、安全性への確保が優先される背景にあるだろう。その一方で、立地条件などから、例えば子育て世代の入居を促すためにリノベーションを行う、あるいは入居者のコミュニティを(再)活性化させる、といった提案がおこなわれることもある。こちらの方は若手の建築家による活躍が目立つような印象がある。

 竹山団地でも居住者の高齢化が進み、2022年現在の高齢化率は40%を超えている。その対応として、2年ほど前からは神奈川大学サッカー部が団地の賃貸棟を寮として使用し、団地の住民とのコミュニケーションを試みる、といったこともおこなわれている[18]。なかでも、100年団地を目指す竹山団地16-2ブロックの自治会活動が興味深い。建物のサッシ改修や外断熱工事を行い、築50年以上過ぎた団地の居住性や快適性を高めようとしていたり、あるいはペット飼育を可能にすることで、住民の積極的な勧誘を促した。半世紀にわたって住民が手入れし続けてきた団地の自然を次世代に譲り渡すための試みがはじまっている。

 

[1] 祐成保志「団地と「総中流」社会」『総中流の始まり』青弓社、2019年。

[2] 松村秀一『「住宅」という考え方』東京大学出版会、1999年、167頁。1981年に解散したが、その業務は都市再生機構(UR)に引き継がれている。

[3] 同上。

[4] 照井啓太『日本懐かし団地大全』、119頁。

[5] 平山洋介『住宅政策のどこが問題か』光文社新書、2009年、7頁

[6] 『日本住宅公団10年史』日本住宅公団1965年、138頁。

[7] 原武史『団地の空間政治学』NHKブックス、231–232頁。

[8] 渡邉大輔『総中流の始まり』青弓社、2019年。

[9] 『日本住宅公団10年史』日本住宅公団1965年、142頁。

[10] 緒方昭義「竹山団地センターゾーン」『建築文化』1972年12月号、314頁。

[11] 緒方昭義「住民の憩いの池」『宅地開発』第21号、1970年、23頁。

[12] 緒方昭義「竹山団地センターゾーン」『建築文化』1972年12月号、314頁。

[13] 緒方昭義「住民の憩いの池」『宅地開発』第21号、1970年、24頁。

[14] 緒方昭義「住民の憩いの池」『宅地開発』第21号、1970年、26頁。

[15] 同上、31-33頁。

[16] 緒方昭義「竹山団地センターゾーン」『建築文化』1972年12月号、314頁。

[17] 神奈川県神奈川県住宅供給公社「竹山団地」『宅地開発』第36号、1973年、29頁。

[18] https://www.city.yokohama.lg.jp/midori/kusei/kucho/r04/message32.html  

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著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

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