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戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑

人間のための建築——鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム

 

出典表記のない写真は筆者による

1. はじめに

 最初の舞台は鎌倉。言わずと知れた有名な観光地だ。まずは観光客の目線で、鎌倉駅に降り立ったところから始めてみよう。東口を出るとすぐ先に見えるのが、土産物屋の立ち並ぶ小町通り。若宮大路と平行して走る通りで、鎌倉駅からこの道を進むと、源頼朝ゆかりの神社として知られる鶴岡八幡宮にたどり着く。小町通りを途中で折れて若宮大路に向かってもいい。若宮大路を鶴岡八幡宮方面へ歩くと正面に鳥居が見える。鳥居をくぐると、目の前には平家池。参道に入り大石段へ向かって歩く。左手に白い四角い建物が見えてくる。今回ご紹介する、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムだ。「あれ? そんな名前だったかな……」と思った方、正解です。この建物は、かつて「鎌近(カマキン)」の愛称で親しまれた神奈川県立近代美術館 鎌倉本館を改修したもの。神奈川県立近代美術館は、国指定史跡・鶴岡八幡宮境内の平家池に面して建つ、日本で最初の公立近代美術館で1951年の竣工。2016年に惜しまれつつ閉館し、建物の処遇をめぐって議論が起きた。最終的には改修・再利用が決定し、「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として転生。2019年に開館した。

 東側正面入り口
東側正面入口

 白いパネルで構成されたキュービックな建物に細い鉄骨の柱が印象的な外観。キューブの部分は2階にあたり、それを大谷石の壁と細い鉄骨が1階で支える構造になっている。真ん中には吹き抜けの中庭があり、展示室は中庭を囲むようにロの字に配置されている。現在は東側が正面入口だが、かつての正面は西側。西側階段から2階にのぼり、展示室を巡って1階に降りる。目の前には中庭と平家池に面したテラスがみえる。水面の輝きが天井に反射し、とても美しい。ついさっきまで建物の中にいたので感覚としては建物の中にいるが、中庭と平家池が目に入るからか、外にいるような、ある種の不思議な感覚になる。

 
平家池の水面が天井に反射する

 

2. 人間のための建築

 モダン・ムーブメント(近代建築運動)についての連載を始めるにあたって、最初にこの建物を取り上げたいと思った。この美術館は大きな建物ではない。むしろ小さい美術館だ。けれども、その小ささこそ、この建物が人間のために作られたことをよく示している。この美術館は、戦後直後に白く眩しい姿で焼け跡に立ち上がった。この小さな美術館は、戦後日本が人間性を取り戻すために作られた建築だ。この建物が鎌倉に立ち上がった頃、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、翌年4月の主権回復を控えていた。つまり、アメリカ軍はじめ連合国軍による占領の終わりが見えていた時期、いわば「戦後」がまさに始まろうとしていた頃だ。

 20世紀前半に世界中へ広がったモダン・ムーブメントは、人間の暮らしを豊かにするための建築運動だった。しかし同じ時期に、世界は2度の世界大戦を経験した。戦争は人間であることを否定する。だから戦争が終わった時、人びとは自分たちが人間であることを回復しようとした。まずは感情を取り戻そうとしたのだろう。食べるものも満足にない中で、美術館を作ろうとした。美術作品は、それと向き合う時間を必要とし、心の余裕を必要とする。そして作品と向き合う時間は、感情を刺激する。

 鎌倉に美術館の建設を訴える声があがったのは、1949年6月のこと。神奈川県が美術展を企画したものの会場の当てがなく[1]、神奈川県在住の画家や評論家から当時の内山岩太郎神奈川県知事に美術館建設の要望が寄せられた。翌々月には「神奈川県美術家懇話会」が設立し、建設敷地検討の結果、鎌倉の鶴岡八幡宮境内に決定した。「占領軍政策で社寺地が国家保有に移管されていた当時、鎌倉八幡宮側から平家池畔に県立美術館誘致の提案がなされた」という[2]。翌1950年、県会で2850万円の建設費予算が可決し、5月には建築家5名(坂倉準三、谷口吉郎、前川國男、山下寿郎、吉村順三)による指名競技設計(コンペ)が行われた。審査委員長は、吉田五十八。最終的には、坂倉準三案が採用された。コンペ発表から提出締め切りまで6週間、坂倉案採用の決定は提出当日という速さだった[3]。坂倉は、アスベスト・ボードと大谷石を用いた鉄骨造を提案し、他の案より経済的かつ機能的であることが評価された[4]。戦後の復興期にあって建築材料が不足する中、なるべく工夫して建てようとしたのが、この建物であることを示している。

 

3. 戦後の始まりに

 この建物の設計者、坂倉準三さかくらじゅんぞう(1901-1969)は、国立西洋美術館を設計した建築家のル・コルビュジエと、いわば師匠と弟子の関係にある。坂倉は造り酒屋の四男として岐阜県羽島に生まれた。第一高等学校文科2類独文科を卒業後、東京帝国大学文学部美学・美術史学科に入学して美術史を学ぶ。下宿の自室にはボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」の複製画を飾っていたというから、イタリア・ルネサンスに関心があったのかもしれない。しかし、坂倉の関心はやがて美術史から建築史へと移り、建築史を学ぶ中でしだいに建築家をめざすようになった。大学卒業間際、坂倉は同級生の富永惣一に手紙を書き、卒業後すぐに渡仏し、ル・コルビュジエのもとで働く決意を伝えている。富永は、フランス語もほとんど知らないのに渡仏すると聞いてその時の印象を次のように書いた。「平常の坂倉の格好から見れば、むしろ重厚で、時には少し鈍重な所さえ感じられたのだが、彼はまた思い切った飛躍をする大胆な男だったのである」[5]。坂倉は1931年から一時帰国を経て1939年までル・コルビュジエのアトリエで働き、その後帰国。1969年に胃がんで亡くなるまで設計活動を続け、岡本太郎記念館(旧 岡本太郎邸)(1954年竣工)、新宿駅西口広場(1970年竣工)などを残した。故郷の岐阜県にも建物が残っている。今回取り上げる鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムは、坂倉の建築活動のなかにおいても戦後の始まりを画する重要な作品といえるだろう。

 坂倉はこの建物にどのような思いを込めたのか。設計主旨をみてみよう[6]。坂倉は、まず現代美術館の役割について述べている。現代美術館に展示されるものは、「現代の中に生きているもの」であり、私たちは今の「主観的な価値」から展示品をみる。つまり、現代美術館では、時代の新旧に関係なく、「現代の眼で過去を見る」。この「現代の目で過去を見る」という現代美術館の役割は、現代の美術文化を世界に宣伝するだけにとどまらない。たとえ過去の伝統的なものであっても現代と通い合うものは展示し、現代の文化にいかなる意味を持ちうるかを示すのが現代美術館の役割だ。

 現代美術館は、現代の中にある永遠なるものを展示するのだ、と坂倉はいう。この美術館がモダニズムのデザインで建てられるべき理由もそこに求められる。「歴史のある古い森の中の風景にマッチする形式は、かえって現代的なもの、最も永遠に通ずるごとき新しさを持ったものがよい」[7]。それゆえ、この美術館もまた「新しい時代に生きる伝統的日本建築の新しい姿」でなければならない[8]

 坂倉は、鎌倉の近代美術館が戦後にふさわしい「伝統的日本建築の新しい姿」だ、と説明する。しかし一般的に伝統的日本建築といわれると、奈良の法隆寺や京都の金閣寺といったお寺、あるいは伊勢神宮や出雲大社といった神社、そして白川郷の合掌造りのような古民家を思い浮かべるだろう。白いキューブの建物の、いったいどこが「伝統的日本建築」だというのか。それを知る手がかりは、坂倉のデビュー作、1937年のパリ万国博覧会日本館 にある。坂倉は、当初この建物に関わるはずではなかった。では、なぜ関わることになったのか。そこには少しややこしい経緯があった。

 1937年のパリ万博参加に際して日本側事務局は、「日本文化ヲ世界ニ宣揚スルニ足ルベキ」日本館の建築デザインを、建築家などから構成される専門委員に委嘱した。専門委員は、前川國男のモダニズムによるデザインを決定したが、事務局はそれが「日本的」ではないとして却下。その代わりに、塔屋とうやを瓦でき、漆ぬりの大黒柱に周り廊下を配した前田健二郎案が採用されて、物議を呼んだ。坂倉は、前年にフランスから帰国したばかりだったが、長期の滞仏経験をかわれて、前田案の現地での施工・監理を行うために再渡仏することとなった。ところが、実際の敷地を見て坂倉は困ってしまう。敷地には樹木が繁茂し、前田案は周囲の環境にうまく合わない。坂倉は再設計を行わざるを得なくなった。坂倉は鉄とガラスによる近代的な建築技法によってモダニズムの日本館を実現させ、日本側事務局を慌てさせた。しかし、各国の批評家や建築家からは、日本の伝統美の近代化に成功した建物として、注目の的となった。

 坂倉は、神奈川県立近代美術館とパリ万博日本館に共通のものがあると書いている。「われわれの手になる現代建築とは如何なるものであるべきかという私の建築精神の表示の一つとして共通のものを持っている」[9]。それは、建築史家の松隈洋によれば、「構成の精神」ともいうべき方法で、「白い抽象的な箱に還元された展示空間を環境の中に的確な形で配置することによって、人が歩むに従って次々と周囲の風景を切り取り、内外の空間を結びつける開かれた建築を実現することができる」という[10]。展示室から階段を下り、平家池に面したテラスに出た時のあの不思議な感覚は、坂倉がまさしく意図して設計したものだったのだ。

 
《パリ万国博覧会日本館》 出典:『一九三七年「近代生活ニ於ケル美術ト工芸」巴里万国博覧会協会事務報告』(国会図書館デジタルコレクション)

 

4. 解体の危機から改修による活用へ

 1951年11月の開館に合わせて、最初の展覧会が開かれた。セザンヌ20点とルノワール18点を国内のコレクターから借用して開かれた「セザンヌ、ルノワール」展である。会期はおよそ2週間弱と短かったが、1日平均800人を超える入館者があったという。以降、2015年の閉館まで、開かれた展覧会の数は525を数える。

 開館当初は収蔵品がなかったものの、美術館としての活動がはじまると徐々に増え、1966年には展示室と収蔵庫を兼ねた新館と附属屋が増設された。収蔵品の第1号は、フランスの画家アンドレ・ミノーの《コンポジション》(1949年)。その後は、活動に応じた改修工事によって展示機能と展示スペースの向上が図られてきた。その一方で、開館50周年を迎えた2001年頃から、施設の老朽化などの理由で施設の存続が話題に上るようになる。実際、県立美術館としての機能的役割の多くが「カマキン」から失われつつあった。1984年には建築家の大高正人の設計による鎌倉別館が開館。2003年には葉山館が開館している。この一連の動きを受けて存続への懸念が高まり、日本建築学会、日本建築家協会など建築の学術団体や専門家をはじめ、多くの市民からも保存の要望が寄せられていた。

 とはいえ、施設を存続するには、複雑に絡んだ問題を解決する必要があった。まずは耐震性能と防災面。公共建築である以上、使用し続けるならば、安全をはっきり確認する必要がある。老朽化が認められれば、当然ながら耐震改修工事を行わなければならない。

 だが、容易にそれを行えない制約があった。神奈川県と1986年に結ばれた賃貸借契約である。この契約には、30年後の賃貸借満了時に、対象地を更地にして返還する内容が含まれていたのだ。多額の工事予算の出どころは税金である。あと15年程度しか使えないのであれば、耐震改修工事をする必要が本当にあるのかが問われることになる。

 このまま建物を使い続けるとしても、存続のための補強や改修が必要になる。しかし、その補強や改修を簡単に認められない事情があった。鶴岡八幡宮の敷地は国の史跡に指定されているからだ。例えば耐震性能向上のために、建物の基礎を補強する工事が必要だとする。そのためには、建物の地下を掘らなければいけないが、八幡宮の敷地の下には鎌倉時代の遺構が眠っており、地下の遺構を保護するために、これ以上地盤を掘ることは難しかった。じつはカマキンの建物は、ある意味で地下遺構の史跡をすでに破壊していたのだ。70年前のものを守るために、900年以上前のものを壊してよいのか。そう言われると、これは苦しい。さらに鎌倉市が文化財保護法に沿って策定したガイドラインでは、建物の現状変更は宗教活動や史跡に不可欠なものに限られていた[11]。この視点にたつと、カマキンは古代遺跡の上に建てられたオフィスビルのようなものになってしまう。

 まるで残すなといわんばかりに改修への障壁が高く思えるが、解決方法はひとつ。既存の建物が、破壊している地下遺構と同じくらい価値のあるものだと示すことである。具体的には、この建物が重要文化財に指定されれば、上に挙げた法令上の制約は解消される。そのためには、この建物の文化的価値を明確にさせる必要があった。

 肝心の鶴岡八幡宮では「取り壊しの意思はなく、建物の継承を委ねられたときの活用方法を想定する検証は神社内で行われていた」[12]という。2014年には、神奈川県と鶴岡八幡宮が共同で建物調査を行い、現在の基礎より深い部分に影響を及ぼさずに耐震補強が可能という見解が示された。地下の遺構を掘り下げなくても建物が保存できる可能性が明らかになり、これによって、この建物の行方は、保存の方向へ大きく動いた。

 2015年9月、神奈川県は旧館を保存し、鶴岡八幡宮へ引き継ぐことを発表した。八幡宮側の対応が発表されないまま、土地の賃貸借契約が満了した2016年3月末に旧館は閉館。神奈川県立近代美術館としての活動は終了した。内部の彫刻や壁画などは葉山館へ移設され、新館と附属屋が解体・撤去された。

 同年11月には神奈川県の重要文化財(建造物)に指定、12月には八幡宮側が旧館を保存し文化施設として活用することを表明し、神奈川県から鶴岡八幡宮に、土地の返還と合わせて建物が無償譲渡される運びとなった。

 その後2年半にわたる改修工事の末、2019年に「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館。2020年には、国の重要文化財の指定を受けた。

 戦後の日本と共に歩んできたこの建物の役割は、美術を通して人間性を回復し、文化を継承することだった。規模は小さいながらも、日本初の公立近代美術館として人間の記憶を引き継ぎ、未来に託すための器としての役割を果たしてきたといえよう。この建物は、昭和・平成と二つの時代を生き、元号が改まる年に新たな名称で復活した。鎌倉の近現代の歴史をつたえる記憶の器として、鶴岡八幡宮のなかにあり続けることを願う。

 

参考文献  

神奈川県立近代美術館『鎌倉からはじまった。』(建築資料研究社、2016年)

神奈川県立近代美術館『空間を生きた。』(建築資料研究社、2015年)

鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム『図録 新しい時代のはじまり』(鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム、2019年)

 大きな声刊行会『大きな声』(鹿島出版会、2009年)

神奈川県立近代美術館『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる 人間、都市、空間』(建築資料研究社、2010年)

 

[1] 『大きな声』、93頁。

[2] 同上。

[3] 同上。

[4] 『新しい時代のはじまり』、24頁。

[5] 『大きな声』、21頁。

[6] 「鎌倉の現代美術館」『芸術新潮』1951年3月号(再録『新しい時代のはじまり』、31-33頁)

[7] 同上。

[8] 同上。

[9] 「佐賀県体育館/鎌倉近代美術館」『建築文化』1963年6月号(再録『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる』建築資料研究所、2009年、74頁)。

[10] 松隈洋「神奈川県立近代美術館―モダニズム精神の生きた結晶」『鎌倉からはじまった。』17-18頁。

[11] 「守れるか、現代建築の源流」『朝日新聞』2014年1月28日朝刊。

[12] 『新しい時代のはじまり』、37頁。

 

 

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著者略歴

  1. 岸 佑

    1980年、仙台市生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。博士(学術)。
    現在、東洋大学、青山学院大学などで非常勤講師を務める。専門は、日本近現代史、日本近現代建築思想。
    主な論文に「モダニティのなかの『日本的なもの』:建築学者岸田日出刀のモダニズム」『アジア文化研究 別冊20号』(国際基督教大学アジア文化研究所、2015年)など。共著に、矢内賢二編『明治、このフシギな時代3』(新典社、2018年)、高澤紀恵・山﨑鯛介編『建築家ヴォーリズの「夢」』(勉誠出版、2019年)、訳書にマーク・ウィグリー著坂牛卓他訳『白い壁、デザイナードレス』(鹿島出版会、2021年)などがある。

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