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希望のディアスポラ――移民・難民をめぐる政治史 早尾貴紀

ディアスポラとジェンダーをめぐって

 

はじめに 

 第1回の「序論」で連載の全体像を描いたように、第一部が日本・東アジアにおけるディアスポラを主題にして4回、第二部が欧米・中東におけるディアスポラを主題にして4回、それぞれ論じてきた。そして今回が総論となる。隔月の連載であったから、全10回となると20カ月、すなわち連載開始から2年弱の時間が経過している。この間のさらなる状況の変化、そして振り返って見えるもの、あるいは見落としてきたものを拾ってみようと思う。そのことが、このディアスポラの視点から世界を思考し直す大切な契機を提示することになるだろう。

1「移民社会」の到来?

 第一部のとくに日本の移住労働者の受け入れ状況に関して言えば、やはりこの春、2019年4月から新しく始まった「特定技能」という在留資格の開始が大きい。これまでは、「日系人」「技能実習生」「留学生」を事実上の労働力として活用することで、一般的な労働市場の開放を回避し、「移民国家」となることを拒否してきた。日系人は日本国籍者の実の子か孫に限定することで「みなし日本人」として扱い、技能実習生は名目上「技能を学びにきている」ことにしつつ現場では法定最低賃金も適用されない超低賃金労働者として働かされ、留学生は労働目的での入国滞在を偽装する隠れ蓑となってきた。「外国人労働者」を公然と受け入れることを否定したい日本政府と、いつでも解雇できる使い捨ての低賃金労働者を欲している日本企業にとって好都合な「抜け道」であった。

 しかし日系人労働者の数は増加せず、これまでの二世・三世に加えて「四世ビザ」を2018年から発行しはじめたが、申請数わずか数件という完全な見込み違いに終わった。低賃金にとどまらない技能実習生に対する数々の人権侵害が告発されるようになり、また留学生が事実上学校に通っていない(学校側も留学生数に対応した教員・教室を持っていない)あからさまな労働目的の偽装就学がたびたび告発されるようになってきた。つまり完全に手詰まりとなったのだ。

 そこで今度の「特定技能」という外国人労働者の在留資格の登場となる。特徴としては、対象業種を、①建設業 ②造船・舶用工業 ③自動車整備業 ④航空業 ⑤宿泊業 ⑥介護 ⑦ビルクリーニング ⑧農業 ⑨漁業 ⑩飲食料品製造業 ⑪外食業 ⑫素形材産業 ⑬産業機械製造業 ⑭電気電子情報関連産業、の14業種とかなり範囲を広げ、かつ実習ではなく「労働雇用」を認めたことである。たしかにその点では「移民労働」へ市場を開く方向へ舵を切ったかのように見える。

 そのため、「移民社会」をテーマにした雑誌・書籍が大量に刊行された。ビジネス系の週刊誌、そして人文社会系の月刊誌の特集をザッと見るとこんな具合だ。『ニューズウィーク日本版』特集「移民の歌」、『週刊東洋経済』特集「“移民”解禁」、『環』特集「開かれた移民社会へ」、『現代思想』特集「新移民時代」、『Journalism』特集「移民社会へ」。書籍では今年に入って出されたものだけでもこのようなものが目についた。高谷幸(編著)『移民政策とは何か』、是川夕(編著)・駒井洋(監修)『人口問題と移民』、内藤正典『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』、望月優大『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』、永井隆『移民解禁』などなど。百花繚乱の様相を呈していると言っていいほどだ。

 だが本当に日本社会は「移民労働」を解禁したのだろうか。上記の論者たちの多くも指摘しているところだが、この「特定技能」によって得られる在留期限は通算で5年を上限と定めており、かつ家族の帯同は認められない。何より日本政府は繰り返し「移民政策ではない」「労働移民の開放ではない」と強調しており、この法改正でも「外国人材の活用」という表現にとどめている。「移民」はもちろんのこと「外国人労働者」という言葉さえ避けているのが現状だ。結局のところ、「人材」は足りない労働力を埋め合わせるのに使われるにすぎず、日本社会に定住することはまったく想定されていない。家族も持たずに単身で出稼ぎ労働に来て、在留期間が5年に到達したらすみやかに出国せよ、というわけだ。

 従来の技能実習と比べると雇用契約と業種拡大と年限延長の3点で進展が認められはするものの、排外主義的なところは根本的に変わっていない。「外国人」は日本に定住するな、と言っているのに等しいからだ。

 しかしこの外国人労働政策は、二重の意味で政府の思惑を外れるだろう。

 第一に、この制度で来日するのは抽象的な「労働力」ではなく生身の「労働者」、つまり人間であるために、予測不可能な事態がありうる。どれだけ生身の存在を無視しようと、5年近く日本社会で生活をすれば生活基盤ができてくるし、さまざまなかたちでの結婚や出産もありうる。企業によってはそれを理由とした解雇方針を示しているところもあるが、法令違反である。国際結婚や非婚での出産なども含めて、さまざまな家族形態と二世世代の誕生が生じ、そう単純に「5年で帰れ」と追い返せるとは思えない。

 第二に、日本の経済的地位が世界的に見て相対的にどんどん下がっていること、言葉の壁や外国人差別など排外的風潮があること、長時間労働やサービス残業などの労働慣習があること、などから、日本が外国人労働者にとってもはや魅力的な国ではなくなっている。いわゆる先進国や経済大国のなかでは日本の給与水準は決して高くはなく、しかも実質賃金はむしろ年々マイナスになっている。英語が通じる場面が日常的な生活空間には少なく、観光客=消費者として歓迎されはしても、生活者としては暮らしにくい社会である。そして長時間労働のみならず、勤務時間外にもつきあいなどを強いてくる伝統もまた、敬遠される理由となる。すなわち、日本の経済社会は、殺到してくる外国人を選別するような状況にはもはやなく、むしろ条件を良くしてアピールしなければ「海外から労働者に来てもらえない」という状況が強まってくる。

 根本的に日本政府が間違っているのは、来てもらいたい産業分野に必要なだけ海外から労働力を動員でき、不要になれば追い出すことができるというふうに、まるで道具のように考えていることだ。だが人は、好むと好まざるにかかわらず、来るときには越境してでも来るし、その理由も形態もさまざまだ。人は道具でもなければ、定められた枠のなかに従順にとどまりつづけるものでもない。

2 資本主義とジェンダー

 生身の人間として想像していないということは、越境的に移動する人間を抽象的な労働力としての側面でしかとらえていない、ということを意味する。それは、その人がどのような個性や背景をもっているのかを見ないということだ。そうした姿勢のなかで無意識に片付けられがちなのが、「ジェンダー」(さまざまな性差)の問題だ。たとえば日本の「外国人材」政策において、単身出稼ぎという想定で家族の帯同を認めないところにもそのことが露呈していると言える。

 だが、実のところ「ディアスポラ」には、本質的なところで「ジェンダー」の問題が幾層にもわたって関わっている。

 そもそも資本主義下における労働者には、民族・階級・性の三要素が差別的に作用しながら動員力がかかる。越境的移動には、もちろん民族的差異を架橋する経験が不可避であるが、それだけではなく、富裕層では富裕層なりの越境する(越境を欲望する)動機と方法があり、貧困層には貧困層なりの越境する(越境せざるをえない)動機と方法がある。とりわけ、グローバル化とポスト・コロニアル状況の織りなす現代世界では、政治経済的誘因は越境の好機にもなれば越境の危機をも生み出す。自在に越境し差異を利用して最大の利益を得ようとする資本家・経営者がいる一方で、生存の危機を感じるほどの混乱状況から難民となる人びとがいる。だが、難民として危機を逃れたことが新天地で新しい生活を手にする好機になることもありうる。

 こうして「ディアスポラ」(移民/難民)を、民族と階級の絡み合いのなかで見ていくことはできるが、そこにジェンダーはどう関わるか。もちろん、先に「民族・階級・性」の三要素が複合的にかつ差別的に作用すると書いたように、資本主義にも性差別が動員されている。世界的にどの国でも性差別があるのに加えて、経済大国と貧困国とのあいだで、あるいは民族的マジョリティとマイノリティのあいだで、性差別が作用する、あるいは性差別が利用される。たとえば女性たちは、家庭での不払い家事労働や、企業での周辺的・補助的な低賃金労働や、性産業での搾取労働を、担わせられたり強いられたり甘受させられたりするのだ。

とりわけ移民女性は、介護労働や家事労働やセックスワークといった領域に就くことが多く、「再生産労働のグローバル化」あるいは「親密圏のハイブリッド化」と呼ばれる現象を起こしている。「再生産労働」というのは、つまり、企業における生産労働と対比的に、人(労働者)を生み育てるという「再生産」の場としての家庭での労働を意味し、また、「親密圏」というのは、やはり企業も含む公的社会を指す「公共圏」と対比的に用いられ、家族を典型として私的な関係空間を指す。つまりそうした再生産や親密圏に移民女性が多く入ることが「グローバル化」「ハイブリッド化」と特徴づけられているのだ。

 エドワード・サイードに牽引されたオリエンタリズム研究においても、西洋と東洋という対比、西洋による東洋の支配、西洋における東洋に対する優位、といった構図のなかに、「西洋」=白人(無徴)/男性的/上位(中心的)/理性的/科学的/能動的、それに対して、「東洋」=有色(有徴)/女性的/下位(周縁的)/感情的/神秘的/受動的、といったカテゴリー分けの視線が権力的に作用していることが指摘されてきた。西洋が東洋を、他者化し、欲望し、支配し、搾取する、というオリエンタリズムの構図は、近代に植民地支配が進むなかで発生・強化されてきた。

 つまり、オリエンタリズムはコロニアリズムの産物であるわけだが、法的な植民地支配が終わった後にも植民地主義の影響が色濃く残る旧宗主国と旧植民地との関係性、「北」の経済大国と「南」の貧困国との関係性においては、なおも作用し続けている。すなわちそれが現代的な「ポスト・コロニアリズム」の問いである。

 資本主義のもとで、民族・階級・性が複合的かつ差別的に動員されるのは、コロニアリズムとポスト・コロニアリズムの時代を貫いて作用する、このオリエンタリズム的な支配権力のためである。

3 国民国家とジェンダー

 ところで、「ディアスポラ」の思想というのは、たんなる地理的国境を越えた離散を意味するにはとどまらない。たしかに辞書的定義だけにもとづくと、ある民族集団が故郷から離散すること、ということになろう。したがって、人びとが国境を越えて移民・難民となっている状況をディアスポラと呼ぶこと自体が不当とは言えない。だが、ディアスポラとはまさにその思想の根底において、「ジェンダー」の問題と密接につながっているのだ。というのも、ディアスポラの反対概念がネイション、ディアスポラ主義の反対概念がナショナリズムだとすれば、近代国民国家を形成するナショナリズムのなかに含まれる「マッチョな男性中心主義」あるいは「健全な男女による異性愛主義」を批判する思想内容が、ディアスポラ概念に必然的に含まれているはずだからだ。

 近代における国民国家形成の過程で、国家と国民の強い一体化、そして国民の均質化が求められるようになった。そのとき「健全な国民」「良い国民」という思想が登場する。国民国家において求められる国民像とは何か。近代国家形成は、たんなる政治体制の確立だけではない。政治体制だけの問題であれば、国民は「市民権を持つ者」「国籍を有する者」という形式的な定義にとどまったであろう。しかし国民国家の形成にはさまざまな事柄が内在したり付随したりした。

 第一には市民革命とほぼ時を同じくする産業革命があり、産業資本主義の到来が、国民経済の形成を促し、生産力至上主義をもたらしたことである。強力な経済力こそが、国民国家の強さを支えるものでもあった。強力な産業資本主義は、当然ながら大規模な労働力を必要とする。言い換えれば、資本主義が労働者を生み出し、労働者が資本主義を拡張させる。つまりは、「健全な国民」とは「生産性の高い労働者」であるということになる。ここでも屈強な肉体労働者を理想とするマッチョイズムが作用する。さらに労働力の長期的な維持・拡大には、労働者階層の再生産、つまり労働者が各家庭において子どもをたくさん生み育て次の世代の労働者を増殖させることが求められる。つまり「産めよ殖やせよ」の思想であり、近代家族は「健全な異性愛夫婦」による出産・育児が大前提とされるようになる。ナショナリズムとジェンダーが、経済的生産性という点で密接に結びついている所以である。

 第二に、国民国家は国家規模に応じた強力な軍隊の形成を必要とし、またその軍隊の形成を国民動員によって現実的に可能にしたことが挙げられる。まさにここでも要請されるのが、屈強な兵士たちであり、それは暴力を行使する心身を兼ね備えたマッチョな男性国民たちである。同時に女性たちは銃後を守る(つまり兵士として取られた男性に取って代わって町や社会を守る)役割を担うことが求められる。それまでの傭兵時代に傭兵たちがカネとリスクを天秤にかけていたのに対し、国民軍の時代になると国のために命を捨てるまで勇猛に闘う英雄的振る舞いが賞賛されるようになる。ここでもナショナリズムとジェンダーの絡みが見られる。

 第三に、この国民国家+資本主義+軍隊は、海外膨張による植民地主義を促進させる。これが、すでに前節で見たように、越境の意味でのディアスポラを、すなわち宗主国と植民地とのあいだの、旧宗主国と旧植民地とのあいだの、双方向的な人間の移動と混淆を生み出した。いちはやく国民国家となった西洋諸国は、東洋を植民地として欲望し、眼差し、支配した。そこに西洋=男性的、東洋=女性的という表象がつきまとったことについても、すでにオリエンタリズムとして確認したとおりである。こうして、ナショナリズムは根深いところでジェンダーと絡み合ってきたのであった。

4 ディアスポラとジェンダー

 さらに言えば、ディアスポラ概念はもっと本質的なところで、ジェンダー概念と結びついている。ディアスポラとは、古代ギリシャ語に由来し、地中海世界の各地に入植したギリシャ人コミュニティの離散状況を表わす言葉であったが、その言葉は、古代ユダヤ人が王国を滅ぼされ亡国の民となったことを指す言葉へと翻訳された。いわゆる「ユダヤ人ディアスポラ」あるいは「ディアスポラのユダヤ人」は翻訳によってできたものだ。

 これについては私と友人の赤尾光春さんとで共訳したジョナサン・ボヤーリンとダニエル・ボヤーリンによるユダヤ教論の本『ディアスポラの力』で議論されている。ちなみに、ボヤーリン兄弟は宗教的なユダヤ人である。概要だけを記すと以下のようになる。古代のユダヤ王国が戦争で滅ぼされユダヤ人が亡国の民となったことの意味を宗教的に解釈すると、神がユダヤ人の傲慢さを罰したものであり、離散・流浪は神が与えた試練であるということになる。異教徒・異民族と武力で争い支配を強めようとしたため、神の逆鱗に触れたというわけだ。それがいわゆるユダヤ人ディアスポラの始まりである。

 それゆえ、その神に赦しを求めるならば、敬虔に生きて反省を示すことしかない。そこでユダヤ人の宗教指導者らは解釈に解釈を重ねて、ユダヤ人が守るべき戒律を体系化していった。これが『タルムード』であり、それはいわば歴史の教訓でもあるのだ。たとえば異教徒・異民族と争わないこと、異教徒・異民族を支配しないこと。これは、傲慢な戦争で自ら国を失った、つまり神に罰せられたことから得られた教訓だ。そうしてユダヤ人は、自らの国をもたなくとも、異教徒たるキリスト教の支配するローマ帝国のもとで、ムスリムの支配するオスマン帝国のもとで、その他各地で、権力に逆らったり異教徒と争ったりすることなく、しかし同化もされることなく、適度な距離を取り、ときには協力もして、そしてユダヤ人の文化やアイデンティティを守り発展させてきたのであった。このディアスポラ文化こそがユダヤ文化の真髄である、とボヤーリン兄弟は言う。

 彼らが厳しく批判するのは、ユダヤ・ナショナリズムであるシオニズム、そしてシオニズム運動によって建国されたイスラエルだ。ディアスポラを地理的離散としてのみ捉え、したがって結集して建国すれば亡国・離散のディアスポラを自らの手で終わらせることができるという考えに、ボヤーリン兄弟は反論する。

 シオニズム運動のなかで、ユダヤ人は典型的なナショナリストとなりマッチョイズムを発揮するようになる。それは二つのイメージとなって喚起される。ひとつは開拓者、もうひとつは戦士である。前者は放浪を経て古代ユダヤ王国のあった場所に「帰還」し新しい国を創る。農地を開墾していく力強いイメージだ。後者は、入植と建国に反対する先住パレスチナ人、そして周辺アラブ諸国と委任統治者イギリスと戦闘を繰り広げながら土地を獲得していく。勇敢に闘う兵士のイメージだ。しかもこの兵士は、新生国家のために命を捧げることを厭わない愛国者であるとされる。後者のイメージ醸成には、古代ユダヤ王国を滅亡させた戦争さえも、負の教訓ではなく、むしろ「最後の一兵卒まで戦って死ね」という軍隊思想の源泉として利用される。

 これはボヤーリン兄弟に言わせれば、明らかに近代ヨーロッパの国民国家のイデオロギーを導入したにすぎず、ユダヤ教文化とは本来相容れないものだという。ユダヤ教による古代の滅亡戦争の解釈では、わずかに生き残ったユダヤ人たちが密かに落ち延びて生き残ったために、ユダヤ文化は受け継がれて繁栄できた。そして、異教徒・異民族と争わないことによってむしろユダヤ教徒のコミュニティを守ることができた。さらには、各地で異教徒・異民族に囲まれながら文化・経済・政治の活動を重ねるなかでユダヤ人は発展し、多くの人材も輩出してきた。古代滅亡戦争の教訓は、「落ち延びよ、生き延びよ」であって「戦って死ね」ではない。

 しかし近代シオニズムは、この伝統的ユダヤ教文化をこそ否定しなければならなかった。なぜならこの伝統は近代ナショナリズムと相容れないからである。ヨーロッパ・ナショナリストたちから差別的に、ユダヤ人は「女々しい」さらに「同性愛的」と蔑まれるようになってきた。だからこそヨーロッパでシオニストとなった近代のユダヤ人たちは、過去の「女々しい」あるいは「同性愛的」イメージを劇的に転換しなければならなかったのである。筋骨逞しい開拓者・兵士というマッチョなユダヤ人像が意識的に導入されていく。

 また、ヨーロッパ・ナショナリズムから生まれたシオニズムは、宗教的ではなくひじょうに世俗的なものであった。そのため、シオニストらがユダヤ教の戒律を捨て去ることは容易なことであった。異教徒と争うな、異教徒を支配するな、ディアスポラを自ら終わらせるな(神罰であるから赦しは神にしか与えられない)、といった戒律や禁忌はあっさりと無視され、むしろ不都合なものとして忘却された。そのことによって、公然と先住のパレスチナ人を虐殺・追放し、あるいはイスラエル建国後は国内のマイノリティでありながらパレスチナ人を支配し、さらにはヨルダン川西岸地区やガザ地区を軍事占領した。支配の暴力に全面的に依存するようになったのだ。

 この状況に対してボヤーリン兄弟は、ユダヤ人として、敬虔なユダヤ教徒であるがゆえに批判する。むしろ「女々しい」「同性愛的」なディアスポラ主義のユダヤ教文化こそが、血で血を洗う民族紛争や領土を奪い合うナショナリズムに対する有力な対案になるのではないか、と。ディアスポラ主義は、こうして近代国家のマッチョイズムに異論を唱えるのである。

5 竹村和子さんの問題提起

 こうしたボヤーリン兄弟のディアスポラ主義の意義を敷衍すべく、共訳者の赤尾光春さんとともに2009年にシンポジウムを開催した。「ディアスポラの力を結集する――ギルロイ、ボヤーリン兄弟、スピヴァク」という開催タイトルであった。私たちとしては、『ディアスポラの力』の意義を、ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』とガヤトリ・スピヴァク『ポストコロニアル理性批判』という二冊の大著の翻訳者らを交えて議論することを意図していたのだが、そのメンバーでは十分には補えないジェンダー論・フェミニズム論の観点から参入していただこうと、フェミニズム理論研究者として鋭い議論を展開されていた竹村和子さんに参加をお願いした。

 開催当時は海外滞在とのことで、残念ながらご参加いただけなかったが、このシンポジウムの記録をもとにして、さらに論考や翻訳を加えて書籍にする際、竹村さんが執筆を快く引き受けてくださった。私個人にとって竹村さんは、何より『ジェンダー・トラブル』をはじめとするジュディス・バトラーの翻訳紹介者である。バトラーは反シオニストのユダヤ人思想家として尖鋭的な議論を展開していた人物でもあり、ユダヤ人論とジェンダー論との絡みではボヤーリン兄弟とも少なからず接点があった。まったく面識もない若輩者の依頼にもかかわらず、竹村さんがとても寛大な応答をしてくださったことを感謝した。

 2010年のどこかの時点で一度執筆状況をうかがったところ、「病床にあるために遅れていますが書き進めています。少し待ってください」という返事があり驚いた。ただ原稿を待つしかなかったが、ほどなく、とても目配りの届いた丁寧な原稿が届けられ安堵した。おかげで予定していたすべての原稿が揃い、2011年春の刊行を目指して赤尾さんと編集・校正の作業を進めていたが、3月11日の東日本大震災で、私が被災・避難移住をしたために、結局刊行が2012年にずれ込んでしまった。竹村さんは刊行前の2011年の年末に亡くなってしまっていた。わずか1年ほどの闘病での急逝ということもあり、生前に形にすることができなかったことは本当に申し訳なかった。

 竹村さんの遺された論考は、「ディアスポラとフェミニズム──ディアスポラ問題、女性問題、クィア問題、ユダヤ問題」と題されている。病床で最後の力を振り絞って書かれたのだろう。広範にわたる論考や文学作品に批判的に言及し、注もしっかりと付けられた論文スタイルのコラムであった。竹村さんはフェミニズム理論研究者として、慎重に批判的にディアスポラを論じる。移動という契機だけで見れば「男性主体の移動をディアスポラ形成の一義的エージェントとして特権化する」ことになり、「その結果、ディアスポラの概念化のなかで男性中心主義をさらに普遍化してしまう危険性をもつ」ことを指摘する。

 そして竹村さんが注目するのは、やはり女性の身体である。「女の身体は、境界維持と境界浸食の緊迫状況を永続化させるトポスとなり、そこでディアスポラたちの親族関係や家族関係は、空間的距離を時間的距離に変換させて反復されることになる」、と述べる。すなわち、ディアスポラ状況が世代間で引き継がれるときに、女性に対する身体的負荷が生じるという。

 たとえば竹村さんは、スキ・キム『通訳/インタープリター』の描く韓国系アメリカ人女性に着目する。両親へのトラウマ的負い目、一世世代の貧しさと怨嗟、韓国系コミュニティの閉鎖性、幼少期に自身が移住したことによる韓国語と英語のハイブリディティの隙間。そういったディアスポラ状況は、「その状況に置かれた女たちにとって、彼女たち自身の身体の上でいやおうなく繰り広げられる境界権力の緊張関係だと言える」、と指摘している。

 ディアスポラの身体には苦境が刻み込まれている。それを竹村さんは、「傷つきながらも、まだ見ぬ身体、まだ見ぬ親族関係を、自らの上に創り出そうとする動き――それを創り出そうとしないかぎり、存在することさえできないという彼女たちの苦境」と表現する。そこには、病床に横たわりながらこの原稿を創り出した竹村さん自身の姿が重ならざるをえない。ディアスポラとジェンダーとの絡み合いに関して大きな課題を、竹村さんは身を賭して私たちに遺していったのだと強く感じる。

おわりに

 したがって、ディアスポラは希望ではない。少なくとも、単純に希望とは言い切れない。むしろディアスポラは生き抜かざるをえないアポリアである。

 竹村さんによると、ガヤトリ・スピヴァクが「グローバルな労働市場で下級階級に置かれている女たち」を「ディアスポラ」と呼び(事実上のサバルタン)、その苦境を「故国を追放された者の苦境」と名づけるとき、ディアスポラは肯定的な概念ではない。逆に、「新たなディアスポラ」としての「~系アメリカ人」と呼ばれる人たちも、「搾取の犠牲者ではなく、搾取の行為者(エージェント)になりえる者」とされ、そのときも肯定的概念ではないという。「~系日本人」もまたそうだと言いうるだろう。

 この二重の否定的なディアスポラたちは、一方ではグローバル化に晒されながら、他方ではなお国家に規定されている。このアポリア、明快な出口のない引き裂かれた隘路のなかで生きていかざるをえない。

ディアスポラそのものが希望なのではなく、このアポリアを生き抜くためにディアスポラ論があるのではないか。ディアスポラ論が、民族と階級と性、この三要素と複雑に絡んでいるということは、ディアスポラがあらゆる人間にとっての生存の課題であることを示している。ディアスポラになることは希望ではないが、しかしディアスポラを思考すること、ディアスポラを論じること、ここにかろうじて希望があるのではないだろうか。

 

 【参考文献】

竹村和子「ディアスポラとフェミニズム──ディアスポラ問題、女性問題、クィア問題、ユダヤ問題」(赤尾光春、早尾貴紀編『ディアスポラの力を結集する ――ギルロイ・ボヤーリン兄弟・スピヴァク』(松籟社、2012年)

 

スキ・キム『通訳/インタープリター』(國重純二訳、集英社、2007年)

リサ・ゴウ、鄭暎惠『私という旅――ジェンダーとレイシズムを越えて』(青土社、1999年)

是川夕(編著)、 駒井洋(監修)『人口問題と移民――日本の人口・階層構造はどう変わるのか』(明石書店、2019年)

巣内尚子『奴隷労働――ベトナム人技能実習生の実態』(花伝社、2019年)

ガヤトリ・スピヴァク『ポストコロニアル理性批判――消え去りゆく現在の歴史のために』(上村忠男、本橋哲也訳、月曜社、2003年)

高谷幸(編著)『移民政策とは何か――日本の現実から考える』(人文書院、2019年)

出井康博『移民クライシス――偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書、2019年)

内藤正典『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』(集英社、2019年)

永井隆『移民解禁――受け入れ成功企業に学ぶ外国人材活用の鉄則』(毎日新聞社、2019年)

ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(竹村和子、岩波書店、2008年)

早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)

ジョナサン・ボヤーリン、ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力――ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』(赤尾光春、早尾貴紀訳、平凡社、2008年)

水井万里子、他(編)『女性から描く世界史――17~20世紀への新しいアプローチ』(勉誠出版、2016年)

望月優大『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)

C・T・モーハンティ―『境界なきフェミニズム』(堀田碧監訳、法政大学出版局、2012年)

 

『ニューズウィーク日本版』2018年12月11日号、特集「移民の歌」

『週刊東洋経済』2019年1月12日号、特集「“移民”解禁」

『(別冊)環』(藤原書店)24号(2019年4月)、特集「開かれた移民社会へ」

『現代思想』(青土社)2019年4月号、特集「新移民時代」

『Journalism』(朝日新聞社)2019年5月号、特集「移民社会へ」

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著者略歴

  1. 早尾貴紀

    1973年生まれ。東京経済大学准教授。専攻は社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』(青土社)、『国ってなんだろう?』(平凡社)。共編書に『シオニズムの解剖』(人文書院)、『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、共訳書に『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』(平凡社)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(法政大学出版局)、ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』(作品社)ほか。

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