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希望のディアスポラ――移民・難民をめぐる政治史 早尾貴紀

現代の移民・難民の排斥と古代・中世のディアスポラ――「ヨーロッパ」と「中東」の分断はいつ起きたのか

 

はじめに

 この数年、ヨーロッパでは中東地域からの移民・難民の受け入れをめぐって排外主義が高まっており、実際にこの1、2年を見ても、各国の選挙で排外主義を唱える右派の政治家や政党が得票を大幅に伸ばしている。とりわけ、内戦や戦争の続くシリア、アフガニスタン、イラク、スーダン(および南スーダン)など広義の中東地域の出身者が圧倒的に多いことも手伝い、〈ヨーロッパ対中東〉という対立図式が描かれがちである。先進国で民主国家で寛容なヨーロッパが、後進国で独裁と内戦で混乱する中東からの難民を、その寛容の精神で受け入れてきたが、しかしそれももう限界だというわけだ。

 そこにもうひとつの対立図式が重ねられる。〈キリスト教対イスラーム〉である。たしかにヨーロッパ諸国の国民の大半がキリスト教徒であり、中東諸国の国民の大半がムスリム(イスラームに帰依する者)であることは事実だろう。もちろん、ヨーロッパ諸国にも多くのムスリムはいるし、中東諸国にも多くのキリスト教徒はいるのだが、それでも圧倒的に「ヨーロッパ=キリスト教圏」、「中東=イスラーム圏」という固定観念が広まってしまっている。そのために私たちは、地理的に明確に区分された「ヨーロッパ」と「中東」に、そのまま「キリスト教」と「イスラーム」を重ねあわせ、異なる地理空間のなかに異なる宗教文化を見てしまう。そして、先ほどの〈ヨーロッパ対中東〉の対比を〈キリスト教対イスラーム〉の対比にも投影し、「ヨーロッパ」と同様に理性的で平和的なキリスト教に対し、「中東」と同様に不合理で攻撃的なイスラームという偏見を無意識に共有してしまっている。欧米メディア経由での情報に強く依存している日本のメディアを通して知識を得ている日本の私たちも、当然にしてそうした偏見にまみれてしまっている。

 そうした偏見に基づいている以上、移民や難民を受け入れるにせよ、ヨーロッパは自らの優位性やアイデンティティを疑うことなく、その地位が脅かされることがないかぎりにおいて寛容さを発揮し限定的に受け入れる。しかし、わずかでも脅威を感じれば手のひらを返したように、ヨーロッパは移民や難民を排撃するようになり、そのことによって自らの優位性やアイデンティティを守ろうとする。2015年の「欧州難民危機」による緊急の受け入れと、その後の反動的な排斥運動は、このことをよく表わしている。

 だが歴史を中世まで、さらに古代まで丁寧にさかのぼれば、そのような地理的な区分も文化的な区分も、近代において捏造され、また現代にかけて強化されてきたものだと言える。

1 地中海を中心に置いて地図を見直す

  私たちは中学・高校のころから社会科(地理・歴史・公民)で、「ヨーロッパ」をひじょうに重視して勉強してきている。西はイベリア半島から、東はギリシャまで、そして南はそのギリシャから、北はスカンジナビア半島まで。それが一つのヨーロッパ世界を形成して実体として存在しているかのように、教科書や地図帳や年表で扱われ、そのように私たちも学び思い込む。そして、それとはまったく別の区分で「中東」あるいは「西アジア」の地理と歴史を学ぶ。公民の倫理にいたっては、中東世界に学ぶべき思想家などいなかったかのように、古代ギリシャ哲学から、中世キリスト教思想を経て、近現代の欧米哲学へと一直線である。

 だが、視線を少し南へとずらし、地中海を中心に置いて地図をよく見直してみよう。中心を凝視するというより、地中海をぐるりと囲む陸地をぼんやり眺めるのだ。そうすると、地中海というまるで湖のような内海を陸地が360度囲んでいることが分かる。スペインとモロッコのあいだのジブラルタル海峡は最も狭いところでわずか14km強。数千キロを見渡せる縮尺の小さな地図で見れば接続されているに等しい。ここで地中海は、陸地と陸地を分断するものではない。逆に、陸地と陸地を繋ぐものだ。狭く穏やかな内海であればなおさらのことだ。古代から地中海沿岸は各地に港町が栄え、船によって多くのヒト・モノが行き交いながら、政治・経済・文化が発展してきた。

 その一局面としての16世紀を、碩学フェルナン・ブローデルは大著『地中海』で論じたが、それを契機に「海から見た歴史」、つまり「陸地を繋ぐもの」としての「海」に注目し、大陸間や島嶼間のネットワークとしての歴史研究が注目されるようになった。とりわけ、地中海については、ヨーロッパと中東(西アジア)・北アフリカとを、多様で多層的な複合文化世界として描き直すことが可能であり、単独の「ヨーロッパ圏」や「中東圏」という閉じた実体として捉える歴史が批判されるようになってきた。まずは地中海世界という広域ネットワーク圏が古代から存在していたのだ。そこが出発点である。

2 同じアブラハムの一神教と分断されたアブラハムの身体

 そもそもユダヤ教とキリスト教とイスラームとが、神と預言者と聖典とを共有する「一神教」として生まれたのが中東であることを、冷静に思い起こしてみよう。ここには二つの重要な歴史的事実が含まれる。一つにはこの「一神教」が地理的に中東世界から環地中海圏の各地(ヨーロッパや北アフリカも含む)へと伝播していったこと。もう一つは、ユダヤ教/キリスト教/イスラームは別々の宗教ではなく一つの「一神教」のなかの宗派的な差異をもつ分派であり、またそれぞれの内部にも複数の分派をもつこと。どの宗派もみな「預言者」が「神」の言葉を預かり伝え、その言葉を聖典へと編んでいき、その解釈を重ね宗教体系をなしていった。トーラー(モーセ五書)も新約聖書もクルアーンも、そうして編集された書物であり、より後から分派した宗派にとっては先に存在したそうした書物は聖典として認められており、先に存在した預言者もまた重視されている。すなわち、キリスト教徒にとってはトーラーもまた旧約聖書の核をなす聖典であり、ムスリムにとってはクルアーンだけでなく旧約聖書も新約聖書も聖典なのだ。

 預言者についても同様のことが言える。すなわち聖書に登場する預言者たちはムスリムにとっても重要な預言者でもあるわけだが、ここでは最大の預言者アブラハムについて考えよう。というのも、アブラハムはユダヤ人の祖先でありかつアラブ人の祖先でもあるからだ。アブラハムの息子のイサク(ヘブライ語ではイツハク、英語的に言えばアイザック)と、イシュマエル(アラビア語ではイスマーイール)は、それぞれにユダヤ人の祖、アラブ人の祖とされる。したがって、その父であるアブラハムはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても最も重要な祖先ということになり、つまるところその両民族は血を分けた兄弟ということになる。

 このアブラハムはカナンの地(パレスチナ)のヘブロンという街で死去し葬られた。その棺を保管する墓廟は現存する。このアブラハム廟の状況は、民族分断をあまりにもよく体現している。アブラハムの名はアラビア語では「イブラーヒーム」と呼ぶ。ムスリムのアラブ人たちによって墓廟は「イブラーヒーム・モスク」として管理されてきた。しかし1967年の第三次中東戦争で、ヘブロンも含むパレスチナのヨルダン川西岸地区がイスラエルの軍事占領下に置かれると、すぐさまモスクに隣接する一帯にユダヤ人が入植地を築いた。何よりもそこに「アブラハム廟」があるからだ。廟=モスクはヘブロンの旧市街に位置しておりアラブ人の居住地域でもあるため、そこに強引に入植しようと、とりわけ原理主義的に強い信仰をもつユダヤ教徒たちが、イスラエル軍によって守られまた自らマシンガンで武装して入植していった。以降ヘブロンの住民らはひじょうに強い軍事的抑圧を受けながらの生活を余儀なくされている。

 そしてイブラーヒーム・モスクも、そうした武力によってユダヤ教徒たちのためにその内部を壁で分割されることとなった。ちょうどアブラハム(イブラーヒーム)の棺を挟んで、アラブ人もユダヤ人もそれぞれの側から礼拝ができるように壁が設置されたのである。一つの建物の内部が、ムスリムのモスクとユダヤ教徒のシナゴーグというそれぞれの礼拝所に分割されたのだ。アブラハムという一人の預言者の棺が、もちろん棺こそ二つに分割されはしなかったが、一つの棺を跨ぐように壁が設置され、棺は鉄格子に囲われ、どちら側からも覗き見ることはできるが、直接触れることができないようになっている。一人の父祖の身体をめぐって、なんと悲しくも滑稽なことか。

 私は仕事柄、日本からの研究者や学生を連れてパレスチナ/イスラエルを歩くことがあるのだが、できるだけこのイブラーヒーム・モスク(アブラハム廟)を案内し、かつ、モスク側とシナゴーグ側の両方に入場して、両側から鉄格子越しに同じ一つの棺を眺めてもらうようにしている(状況次第で警備しているイスラエル兵によって入場が禁止されることがあるが)。そのことで、二つの別々の宗教の争いではない、ということを、リアルに感じ取ってもらおうと意図しているのだ。要するに、ユダヤ教・キリスト教・イスラームともに、同じ「神」、同じ「預言者」を共有する一神教であり、いずれも中東で派生し地中海圏へ、さらにその先へと伝播していったのだ。

3「ユダヤ・ディアスポラ」とは何か?

 ところで、世界に離散するユダヤ人が第二次世界大戦後の1948年、パレスチナにユダヤ人国家を建設したのがイスラエルである。建国運動、いわゆるシオニズム運動は19世紀後半にさかのぼることができるが、そこで語られる物語は、古代イスラエルから「離散」したユダヤ人たちが、神との「約束の地」に「帰還」した、というものだ。この離散状況ないし離散ユダヤ人のことを長らく「ディアスポラ」と呼び慣らわしてきた。「帰還」して結集して建国すれば「ディアスポラ」が終わってイスラエルが「復活」するというわけだ。それゆえシオニズム運動はしばしば「ディアスポラの否定」と言われる。これはしかし、実のところユダヤ人国家を正当化する政治神話だ。

 二つのことを指摘したい。ユダヤ教において古代イスラエルがバビロニアやローマ帝国によって攻撃を受け、ユダヤ人が捕囚を受けたり離散させられたりしたことは、ユダヤ教のヘブライ語では「ガルート」と呼ばれる。ガルートとは、神罰として祖国を失ったことを指す神学的概念である。すなわち、核心はたんに地理的に離散していることではなく、罰を受けて追放されていることであり、その罰を赦されるのかどうか、つまり贖罪がなされて救済されユダヤ王国の復活が認められるかどうかは、終末に神の審判がくだされるまで分からないのだ。それまではひたすら罰の意味を考え、信仰に敬虔に生きる以外にない。したがって、このユダヤ教思想からすると、人為的に帰還して結集して政治力と軍事力で国家建設をするというのは、まったくの俗世間のことであって、宗教とは無関係であり、それどころか神の意思に背くことさえ意味し、背教行為となる。

 第二に、ではなぜそれが「ディアスポラ」の名で呼ばれるのか。そもそも「ディアスポラ」とはギリシャ語であり、「ディア」が「あちこちに」、「スポラ」が「(種子が)撒かれている」という意味であり、それでディアスポラが「離散」と訳される。古代ギリシャの時代にすでにギリシャ人たちは地中海のあちこちに移住し植民都市を建設していた。それが上記の意味でのユダヤ人の追放(ガルート)に当て嵌められたのは、紀元前3~1世紀頃にヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳する過程で(いわゆる「七十人訳聖書」)、ユダヤ思想に固有な概念でありギリシャ語で同じ言葉がないため、地理的離散を意味する「ディアスポラ」に置き換えられたことに起源がある。

 しかし「ディアスポラのユダヤ人」という表現が一般化するのは、19世紀シオニズム運動が展開される過程においてであった。

 だがそのことに触れる前に、これに付随して二つのことを指摘したい。

 第一に、バビロニアによる捕囚であれローマによる追放であれ、その地を離れたユダヤ人はごく一部の階層のみであり、大半の一般住民はその地に残り、時代の変化に応じて、キリスト教を受け入れたり、イスラームを受け入れたりしていった。すなわち後代のパレスチナのアラブ人(すなわちパレスチナ人)となっていく人びとである。

 逆に第二に、すでに紀元前のヘレニズム時代において、多くのユダヤ人が地中海ネットワークを通じて自由に往来し地中海沿岸の各地にユダヤ人共同体をつくっていた。これは迫害による追放とは関係がなく、むしろ古代ギリシャ人の植民都市と同じ構造である。すなわち、ユダヤ人はギリシャ語源に忠実な意味での「ディアスポラ」を古代ギリシャ人とともにおこなっていたのだ。これによって地中海世界にユダヤ教も伝播し、またそれが改宗によるキリスト教の伝播の下地にもなった。

 ここから言えることは、地中海世界においては、古代から中東・南ヨーロッパ・北アフリカの各地のあいだで、人の行き来と移住があり、宗教文化の伝播や改宗が活発にあったということだ。

4 シオニズム思想とディアスポラ主義

 だが、19世紀のヨーロッパで国民国家の形成が進むにつれ、「国民」の要件をめぐる論争が噴出、結果マジョリティであるキリスト教徒の国民らによって、「非国民」とされたユダヤ教徒への迫害が強まっていった。政治・経済の次元でも権利の剥奪が行なわれたが、それを理論化する「科学」の名の下の人種主義も展開され、ユダヤ人を追放したり虐殺したりするような物理的な暴力も行使された。そうした背景から、19世紀後半にヨーロッパで「ユダヤ人国家論」すなわちシオニズム思想が発生するのだが、それはヨーロッパの「外」の「どこか」に「ユダヤ人のための国家」を建設しようというものだ。ウガンダ・ケニア(英領東アフリカ)、シナイ半島(英保護国エジプト)、マダガスカル島(仏領)、南米などさまざまな地域が検討された。ヨーロッパの植民地や保護領など、外交力で現実的に建設しやすいことが優先されたからだ。

 だが、ユダヤ教の聖地であるエルサレムを含むパレスチナにその建国の地を定めるべく、「離散と帰還」の物語、すなわちディアスポラとその終焉の物語が口の端にのぼるようになった。曰く、古代に離散の憂き目にあったユダヤの民の末裔たちが、聖地に帰還を果たし国家を再建するのだ、と。それゆえ、建国の地はパレスチナ(古代イスラエル)でなければならないし、また、離散ユダヤ人はみなそのルーツが古代イスラエルにあるがゆえに、パレスチナへの移民(帰還)の権利が独占的にある、というわけだ。

 しかしこれは、すでに前述の事情から明らかなように政治神話であり、ヨーロッパの近代的な人種主義の鏡写しのユダヤ人種論である。ヨーロッパ諸国から「血の異なる人種」として迫害されたことを逆用し、「ユダヤ人種」を自らのアイデンティティとし、しかもそれを古代の「離散」の神話によって正当化したのだ。

だが、バビロニアとローマ帝国による捕囚と離散はごく一部のユダヤ教徒に限られ、逆にヨーロッパと北アフリカを含む地中海圏のユダヤ教徒たちのほとんどは古代からの交易による移住者や布教や伝播による改宗者の子孫なのであって、迫害を受けた難民(例えば現代のパレスチナ難民)のように帰還が権利として認められるような存在ではない。各地のユダヤ教徒コミュニティは、多宗教・多文化的な地中海交易圏を古くから形成してきた一宗派であるというだけのことなのだ。

 したがってシオニズム思想は、きわめて近代的な発明品なのであり、むしろ歴史的・文化的な多様性(あるいは多様な歴史・文化)を否定した単一人種主義であるということになる。繰り返すがこれは、歴史観の違いなどで相対化できる思想ではなく、虚偽と断言していいレベルの神話であり、それは近代におけるヨーロッパ国民国家形成による副産物なのだ。現代イスラエルという「単一人種主義国家」は、ヨーロッパでの人種差別を逃れるためという起源がありつつも、そのヨーロッパと同じ人種主義によって、先住アラブ・パレスチナ人に対する迫害をも反復してしまったのだ。

 これに対して、宗教的に敬虔なユダヤ教徒から、ディアスポラこそがユダヤ文化の核心であるという対抗的な思想が提起されてもいる。近代シオニズムが人為的で世俗的な政治権力に基づくものであり、神の意志に背くもの、すなわち背教行為であることはすでに述べた。そうではなく、むしろユダヤ教徒の伝統というのは、排他的な国家権力を持たず異教徒の支配下にあっても自らの宗教文化を維持したり、あるいは支配的な他者の文化と混淆しつつ独自の文化発展を遂げたり、というところにこそあるという。アメリカ合衆国在住のジョナサン・ボヤーリンとダニエル・ボヤーリンのユダヤ思想家兄弟はこれを「ディアスポラの力」と逆説的に表現する。強力なナショナリズムで均質に国民統合を進め、異質な他者を排斥したり支配したりすることが「力」なのではなく、権力や暴力を持たず、他者たちに囲まれながらも文化的アイデンティティを保持したり、越境的に複合的な文化を生み出すことが、ユダヤ思想にある肯定的なディアスポラ主義であり、その「無力さ」こそが逆説的に「力」だという。

5「地中海人」ジャック・デリダと「辺境」としてのヨーロッパ

 こうした環地中海圏から見たときに「ヨーロッパの普遍性」や「ヨーロッパ中心主義」を哲学的に根本から批判したのは、仏領アルジェリア生まれのユダヤ人であるジャック・デリダである。デリダは「フランス現代哲学」で知られるが、辿れるかぎりアルジェリアの(つまりパレスチナやヨーロッパから移民をした記録が残っているわけではない)ユダヤ人家系の生まれであり、大きく見ればアラブ文化圏にあったが、しかしフランスのアルジェリア植民地支配によってフランス語を母語とした。デリダが生まれた1930年の時点では、フランスの植民地アルジェリアのユダヤ人にフランス市民権を与える法律があったのだが、第二次世界大戦中の一時期その法律は廃止されて市民権剥奪をデリダは経験した。そののちデリダは、1949年にパリへ移住。1962年にアルジェリアがフランスから独立すると、フランス系住民の本国引き揚げとともに多くのユダヤ人らもフランスに移住。デリダの家族もその波のなかでやはり移住し、フランス市民権を取得した。「故郷」アルジェリアは完全に「外国」となった。

 そのようなアルジェリア=フランスの、アラブ=ユダヤ系の哲学者が書いた稀有なテクストの一つに「他の岬」というものがある。それは、ヨーロッパが「普遍的中心」なのではなく、地理的にはむしろアジアから突き出した「岬(cap)」つまりは辺境であり、しかしそれがある種の「先端(cap)」的な哲学と「資本(captal)」の思想(つまり資本主義〈キャピタリズム〉)をも生み出した、という両義性に注目するのである。ヨーロッパを「岬」と表現したのは、第一次世界大戦直後に「精神の危機」を著したポール・ヴァレリーであり、それを読解するデリダが「他の岬」を発表したのは冷戦終焉の直後のことであった。背景には、東西冷戦の終わりを、すかさず西欧民主主義の勝利でありかつ「歴史の終わり」であると宣言する、俗流ヘーゲル主義哲学に対する痛烈な批判がある。「歴史の終わり」というのは、アメリカ合衆国の新保守主義(ネオコン)のイデオローグであったフランシス・フクヤマの論考である。フクヤマは、ヘーゲルの歴史哲学を利用しつつ、冷戦終焉によってソ連・東欧の共産主義に対し米国・西欧の民主主義が勝利し(共産主義に対する資本主義の勝利でもあり、共産党独裁に対する民主主義の勝利でもある)、古代から続く王国や帝国の覇権をめぐる争いが最終決着した、と主張する論考を発表した。

 フクヤマが下敷きにしたヘーゲルの歴史哲学は、こういうものだ。東洋から西洋へと論を進めつつ、社会の進歩を「人間精神」に「自由」をもたらす「国家形成」にあるとして、中国、インド、ペルシャ、エジプトは「前歴史的」な未熟な段階にとどまるものとみなされ、ヨーロッパの歴史から切り離される。そして、ギリシャ世界、ローマ世界、ゲルマン世界へと真の歴史が進展するとする。すなわち都市国家ポリスを生み出した古代ギリシャこそが西洋文明の発祥の地であり、ローマ帝国で法体系・権力機構が整えられ、ゲルマン世界で宗教改革によってキリスト教的な神のもとでの自由と平等が実現する、といったことがヘーゲルによって評価されている。フクヤマのヨーロッパ民主主義を完成形態とみなす歴史観の原型がここにある。

 だが私たちがすでに見てきたように、古代から環地中海圏という単位で、つまり中東・ヨーロッパ・北アフリカの範囲を一つの共通の時空間として、政治・経済・文化が混じりあい、折り重なり、展開されてきた。キリスト教だけを特権視することができないことも、「アブラハムの一神教」の観点から明らかであった。だからこそジャック・デリダは、ポール・ヴァレリーのことをあえて「地中海の人=精神(エスプリ)」と称し、同時にアルジェリアから地中海を渡ってきた自らのことを「フランス的でも、ヨーロッパ的でも、ラテン的でも、キリスト教的でもない、他の縁=沿岸からやってきた私」とも呼んでいる。自らもまた「地中海のエスプリ」の一人であるというわけだ。

 そのデリダがヴァレリーの思想を通して問おうとしているのは、特殊性と普遍性の逆説だ。特殊ヨーロッパというしかも「岬」などという辺境から生み出された資本主義や民主主義が、もしかりに普遍的だと言うのであれば、そして真に普遍的価値をもつのであれば、それはヨーロッパの境界線を無化するはずだ。すなわち、ヨーロッパをその名のもとに再同定しようとする行為は、同時に、「ヨーロッパではないものに向かってヨーロッパを開くように命じる」ことになる、という逆説である。

 デリダはいわば「地中海人」であり、「ディアスポラのユダヤ人」だ。もちろんここで言うディアスポラとは、近代シオニストの物語で神話化されたユダヤ王国の敗北崩壊による「追放」ではなく、古代ギリシャ人の地中海圏への移民・入植と並行していたユダヤ人の「拡散」という語の本来の意味でのディアスポラだ。あるいは環地中海圏でのアブラハムの一神教の伝播と改宗によるユダヤ教徒の「拡散」。そして同時に、ヨーロッパの中心性や純粋性や支配権力を否定し、外へと開いていこうとしている点で、ボヤーリン兄弟の言う意味でのディアスポラ主義者でもあると言えるだろう。

6 アラブ・イスラーム世界がギリシャ古典を翻訳した

 このようにして地中海ディアスポラの思想によって、ヘーゲルの歴史哲学とヘーゲル主義的な西洋中心主義が批判されているが、とりわけ古代ギリシャ・ローマをヨーロッパに直結させて独占させる思考をより根底から批判する視点を、アラブ・イスラーム史に見ることができる。

 まずあらためて地図を凝視してみる。ギリシャは、たしかにアドリア海を挟んでイタリア半島であり、ギリシャ・ローマ世界が重なりまた連続していたことは了解できる。だが同時にギリシャは、エーゲ海という多島海を挟んですぐにトルコに隣接しており、古代から多くの文化と戦争の歴史を共有している。そのトルコのすぐ南にダマスクスを擁するシリア、そのすぐ南にはエルサレムを擁するパレスチナ、そのすぐ南にはアレクサンドリアを擁するエジプトだ。この一帯が陸路・海路の両方でもって古代から濃密な交易と交流を持っていたことは明白だが(先にヘブライ語聖書のギリシャ語への翻訳も見た)、しかし、古代ギリシャはこのような地理・歴史から見て、むしろ「中東」の一部をなしているのであって、ヨーロッパの一部とは言えない。実際、ヘーゲル以降のヨーロッパ哲学者たちが誇るような、西洋哲学の起源としてのギリシャ古典などというものは、歴史的連続性のなかには存在しない。ヨーロッパはギリシャ古典を、すなわちプラトンやアリストテレスを、12世紀ルネサンスまで知らなかったのだから。

 では、いつどのようにしてギリシャ古典がヨーロッパのラテン語圏に伝わったのか。それを媒介したのはアラビア語であり、またそのアラビア語が中東地域へ、そして中東から北アフリカとヨーロッパへと広められたのはイスラームの拡大とともにであった。すなわち、ギリシャ古典がヨーロッパにもたらされたのは、近現代ヨーロッパが見下し毛嫌いしているアラブ・イスラーム文化によってであったということになる。

 まずはギリシャ時代の哲学や科学は、5~6世紀頃には古代のシリア語に翻訳が盛んに行われていたが、8世紀頃になるとバグダードやアレクサンドリアに大きな図書館が建設され、ギリシャ語文献が貯蔵され、組織的にアラビア語に翻訳していくこととなった。アリストテレスの書物も9世紀頃にアラビア語に翻訳されている。そしてその前の7世紀にイスラームが興りその後に急速に広まったことも、その聖典クルアーンによるアラビア語の普及に大きな役割を果たした。預言者ムハンマドが受けた神の啓示はアラビア語でクルアーンに書き記され、アラビア語は「神(アッラー)の言葉」とされたため、イスラームの拡大がアラビア語の拡大をもたらしたのだ。

 特筆すべきは、イベリア半島(現在のスペインとポルトガル)のイスラーム統治である。早くも8世紀にはイベリア半島はイスラーム王朝による統治下に入った。イスラーム治下イベリア半島では、ユダヤ教徒もキリスト教徒も共存しており、さまざまな思想・文化・学問が混淆しつつ栄えた。コルドバやトレドには数多くの図書館や研究機関がつくられ、バグダードやアレクサンドリアから大量のアラビア語の書物が運び込まれた。各地からユダヤ教徒とキリスト教徒がさらに流入し、各宗派の学者らが結集した。12世紀のコルドバで最も著名な哲学者モーゼス・マイモニデスは、アラビア語に精通していたユダヤ教徒であり、モーシェ・ベン=マイモーンのヘブライ語名と、ムーサー・イブン=マイムーンというアラビア語名をもっていた。また12~13世紀のトレドでは、翻訳学派が共同作業でアラビア語の書物をラテン語へと翻訳する作業が進められたが、そのなかにアリストテレスの哲学書をはじめ、ギリシャ語からアラビア語に翻訳されたさまざまな科学書や医学書や宗教書が含まれていた。そのラテン語に翻訳されたギリシャ古典がピレネー山脈を越えて、ヨーロッパ各地へと広まっていったのだ。

 さらに加えれば、そのアラビア語文化圏の形成には、インドの思想と科学とを媒介したペルシャ語文化圏との交流が貢献している。東にインド、西にアラブと接しそのあいだにあったペルシャ文化は、その両隣の文化と密接に相互浸透をしながら発展してきた、とペルシャ人のハミッド・ダバシが述べている。つまり「ハミッド」というアラビア語の名前と「ダバシ」というサンスクリット語の姓をもつイラン出身の合衆国知識人がだ。そもそもアラビア語で活動をしていたペルシャ出身の学者、ペルシャ語で活動をしていたアラブ出身の学者、あるいは両言語を操り越境的に移動していた学者は、「ペルシャ人」とも「アラブ人」とも単純にわりきることはできない。

 こうして見ると、ヘーゲルやそれ以降の哲学者たちが古代ギリシャを「ヨーロッパの発祥の地」と独占物としたり、あるいは冒頭で触れたように現在の難民問題でヨーロッパと中東とを対立的な異世界としたり、といった捉え方が、いかに歴史の多様性/多様な歴史性を抹消した暴論のうえに成り立っているのか、いかに同じ環地中海圏を形成してきた中東イスラーム世界の排除と隠蔽のうえに成り立っているのかがわかる。

 だが、いつから共存と混淆が排除されてきたのだろうか。決定的な転換点となるのは、1492年のキリスト教徒による「レコンキスタ」の完成、すなわちイベリア半島の再征服である。イスラーム統治下での共存時代とは異なり、このときの最大の特徴は、純粋なキリスト教社会が目指され、ムスリムとユダヤ教徒に対して、追放ないし改宗の命令がくだされたことだ。「アブラハムの一神教」という歴史を共有した多様な宗教が否定されたことと、キリスト教の「純粋さ」が求められたことから「血の純潔」という人種主義が発生したことを指摘しておく。

おわりに

 世界にはこれだけの豊かな文化混淆の積み重ねがあった。冒頭で触れたような〈ヨーロッパ対中東〉および〈キリスト教対イスラーム〉という対立図式とはまるで異なる風景が、古代・中世には広がっていたのだ。私たちは、現在の貧困で単純な思考を乗り越えるためにも、この歴史を振り返っておく必要がある。

 この貧困で単純な思考を強く規定しているものとして、前述のフランシス・フクヤマとともにアメリカ合衆国のネオコンのイデオローグの一人であるサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論がある。ハンチントンが論文を発表したのは、フクヤマと同様にやはり冷戦終焉からまもなくの1993年であった(『文明の衝突』という大部の単行本としての刊行は1996年)。ハンチントンは、冷戦が終わった後は、資本主義と共産主義のイデオロギー対立に代わって、諸文明ごとの衝突が対立の軸をなすと述べているのだが、世界を8つ程度の文明圏に分割しつつも、実際には主要な衝突は、西洋文明とイスラーム文明のあいだで生ずるものとしている。フクヤマが「欧米民主主義の勝利で歴史が終わった」としたのとは視点が異なり、かつ攻撃的である。

 これは学問的な分析というよりも、対立の煽動であった。アメリカ合衆国ならびに西欧諸国にとっての「仮想敵」を、これまでの共産主義からイスラームに切り替えて世界戦略を立て直せ、という煽動であり、つまりイスラームは敵だという宣言だ。

 もちろんこれは歴史と現実の複雑さを無視した危険な単純化だ。欧米世界には、イスラーム文化が継承され、数多くの生身のムスリムが暮らしている。他方で、欧米が敵とみなす中東イスラーム世界には、キリスト教文化が継承され、数多くのキリスト教徒が暮らしている。敵視政策は、21世紀に入って、アフガニスタン戦争やイラク戦争を引き起こしたし、その結果として発生した難民に対する排斥を生み出した。さらにはそれ以前から欧米世界に暮らしているムスリム市民に対する差別・迫害をも誘発したのだ。

 私たちがこうした排外主義を克服するためのカギは、環地中海圏における古代・中世のディアスポラの歴史にこそある。世界はもっと多様で複雑でありながら、共存をしていたのだから。

 

【参考文献】 

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余部福三『西洋の中核としての中東(上・下)』(第三書館、2011年)

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ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム──テロの時代における知と権力』(早尾貴紀、本橋哲也、洪貴義、本山謙二訳、作品社、2018年)

ジャック・デリダ『他の岬──ヨーロッパと民主主義』(高橋哲哉、鵜飼哲訳、みすず書房、1993年)

内藤正典『限界の現代史──イスラームが破壊する欺瞞の世界秩序』(集英社新書、2018年)

中田考『帝国の復興と啓蒙の未来』(太田出版、2017年)

浜名優美『ブローデル『地中海』入門』(藤原書店、2000年)

サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(鈴木主税訳、集英社、1998年)

フランシス・フクヤマ『歴史の終わり(上・下)』(渡部昇一訳、三笠書房、1992年)

ヘーゲル『歴史哲学講義(上・下)』(長谷川宏訳、岩波文庫、1994年)

ジョナサン・ボヤーリン、ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力──ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』(赤尾光春・早尾貴紀訳、平凡社、2008年)

宮田律『オリエント世界はなぜ崩壊したか──異形化する「イスラム」と忘れられた「共存」の叡智』(新潮選書、2016年)

スコット・L・モンゴメリ『翻訳のダイナミズム──時代と文化を貫く知の運動』(大久保友博訳、白水社、2016年)

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著者略歴

  1. 早尾貴紀

    1973年生まれ。東京経済大学准教授。専攻は社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』(青土社)、『国ってなんだろう?』(平凡社)。共編書に『シオニズムの解剖』(人文書院)、『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、共訳書に『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』(平凡社)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(法政大学出版局)、ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』(作品社)ほか。

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