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希望のディアスポラ――移民・難民をめぐる政治史 早尾貴紀

パレスチナ人ディアスポラとクルド人ディアスポラ――中東分割で離散と対立を強いられた民族

 

はじめに

 日本にクルド人難民が集住する「ワラビスタン」がある、と言われる。「ワラビスタン」とは、埼玉県蕨(わらび)市および隣接する川口市にクルド人難民・移民が集住していることから、「クルド人の国」を意味する「クルディスタン」をもじった呼称だ。在日クルド人は約2000人と推定され、その過半数である約1300人がこの地域に暮らしていると見られる。だが正式な統計は存在しない。なぜならそもそもクルド人の国家は存在せず、日本の行政において「クルド人」として把握されることがないからだ。

 それでは、クルド人とは何者か? そしてクルディスタンとは何か? いくつかのルポルタージュや研究書が日本語でも刊行されてきたものの、しかし関心を寄せてきたごく一部の人びとを除いて、広く知られている存在とは言えない。手短に説明すると、クルド人たちは主にトルコ、イラン、イラク、シリアの4ヶ国にまたがる国境地帯に分断されて暮らす民族であり、クルディスタンは広義にはそのクルド人たちの暮らす一帯を指す。だが、分断されて各国にそれぞれ支配されている状況にあり、日本に入国したクルド人たちも「クルド人」という民族として認定されることがなく、それぞれの出身国民として把握されるのみである。

 それにしても、なぜ数多くのクルド人が日本に来ているのだろうか? そしてなぜクルド人が難民となっているのだろうか?

 その問いを考察するに際して、より根本から理解するために、もうひとつの「国なき民」「分断された民」であるパレスチナ人たちを本稿では並べて考えよう。パレスチナ難民も含むパレスチナ問題は、クルド人問題よりもその存在はよく知られてはいるだろう。詳細はさておいても、また欧米メディアのイスラエル寄りのバイアスはさておいても、中東和平の核心として大手メディアで取り上げられているからだ。パレスチナ人たちも「国家」を持っていないこと、いくつもの国境線や境界線で分断されていることなどで、クルド人と共通する問題を抱えている。またパレスチナはシリアにも隣接しており、地理的に言っても、クルド人問題とは近い関係にある。のみならず、その両者の分断と離散の原因は、歴史上同じ一連の出来事に存しているのだ。

 それゆえに、クルド人とパレスチナ人の抱える問題を以下で並べながら考察していくこととする。

1 多国間植民地クルディスタン

 まず、クルド人が国家を持つことができず、主に4つの国家に分断されている状況から確認していこう。

 クルド人がおもに居住しているのは、トルコの南東部から、そこの国境を接するシリア北東部、イラク北部、イラン北西部にまたがる地域である。広義にはその一帯が「クルディスタン」つまり「クルド人の国」と呼ばれるが、しかし、その地域に一つの統治単位としての正式な国家が成立したことはない。ペルシャ語系のクルド語を話す民族であるが、国家がない以上統一した公用語となったことがないため、クルド語はいくつかの方言に別れてきたままである。

 人口は3000万人以上ともされるが、独自の国家がないことに加えて、以下に見るように居住する各国でその存在を否定されてきたため、統計的な把握ができていない。それにしても3000万人という数字は優に一国家になるに十分な人口規模であることは明らかである。

 このクルディスタン地域は、ペルシャ王朝とオスマン帝国とのあいだで覇権争いがなされ、長く両者の緩衝地帯として分割されてきた。とくに17世紀にサファヴィー朝ペルシャとオスマン帝国とのあいだで結ばれたゾハーブ協定によって、クルディスタン内の主要都市の帰属が確認され、それがその後の国境線の基礎となっていった。19世紀に入りガージャール朝ペルシャとオスマン帝国とのあいだで二次にわたって結ばれたエルズルム協定によって、国境線として領土が確定され、そこに暮らすクルド人らがそれぞれの政権の「臣民」とされていくこととなった。この際に忘れてはならないのは、すでにロシア帝国と大英帝国とがこの地域への利権を求めて干渉してきており、それに抵抗するために領土確定が進められていったということだ。

 このガージャール朝側のクルディスタンは、20世紀に成立する現代イラン国家の領土におよそそのまま帰属することとなった。他方で、オスマン帝国側のクルディスタンは、やはり20世紀初頭の第一次世界大戦による敗北に端を発するオスマン帝国の解体過程で、トルコとイラクとシリアに分割されることとなった。そのオスマン帝国解体の詳細は、次節で述べることとして、ともあれ、こうしてクルド人たちは四ヶ国にまたがる民族として分断されることとなった。

 4ヶ国それぞれに帰属するクルド人たちは、それぞれの近代的な国民国家体制のなかに強力に取り込まれていくこととなる。すなわち、領土主義と国民主義に統制されて、独自の民族運動を禁止されてしまう。その存在を否定され、言語を禁止され、アイデンティティを抹消され、自治を拒否されていく。4ヶ国による分断体制が固定化されて以降は、それぞれの国家内の政治情勢の変動に応じて、それぞれの地域で独立運動が興隆したり、それに対する弾圧が激化したり、あるいはそれぞれの国境間での駆け引きが活発になったりしたが、各国で共通しかつ現代史を通じて一貫しているのは、クルド人たちは民族集団として尊重されることはなく、自国内のクルド人は抑圧の対象であり、その国境の向こう側に接する他国のクルド人たちは政争の具であったということだ。すなわち隣国との戦争や紛争を抱えているときにはそれぞれの国は、その相手国内のクルド人に対しては、その国家に揺さぶりをかけることができる存在として、援助さえしたのであった。

 たとえばイランは、イラン革命(1979年)前のパフラヴィー政権下でも革命後のホメイニー政権下でも変わらず、国境紛争を抱える隣国イラクのクルド人組織に武器援助をし、イラク国内でのクルド人独立運動を煽ってイラク体制に揺さぶりをかけたが、自国イラン内のクルド人の民族運動は弾圧しつづけた。

 またたとえば、トルコ内のクルド人独立運動の強力なリーダーでトルコ政府から指名手配を受けていたアブドゥッラー・オジャランを、隣国シリアは1980年代から90年代にかけて受け入れ、さらにオジャランの率いるクルド人武装組織の訓練キャンプも提供してきたが、しかしシリアは自国内のクルド人の民族運動についてはやはり抑圧してきた。

 こういった具合に、それぞれの国境を挟んでどの国もそうしたダブルスタンダードをクルド人に対してとってきた。ここではその詳細はこれ以上は追わない。また、それら4ヶ国内のそれぞれのクルド人組織も一つではなく、その民族運動の路線や主導権をめぐってクルド人内部で複数の組織に別れて対立しているのだが、その分裂状況や個々の党派名にも論及しない。それらを詳述することがここでの目的ではないからだ。ひとまずは、クルディスタンがどの地域で、どのような分断状況におかれているのかを確認するにとどめる。

2 クルド人ディアスポラ

 次に、こうしたクルド人たちが、おもにヨーロッパ諸国にだが、それ以外、つまり冒頭で触れたように日本も含めてクルディスタンの外部へと流出・離散している状況を見ていこう。

 まず、4つの国家に分断されたクルディスタンは、それぞれの国家からの弾圧と、国家間の戦争や紛争による煽りと、クルド人組織どうしの抗争とで、数十万人もの死者を積み重ね、大量の避難民を出してきた。たとえばそれは、トルコ領クルディスタンからイラク領クルディスタンへだったり、イラク領クルディスタンからイラン領クルディスタンへだったりと、分断されたクルディスタン内での越境的避難であった。

 第二に、とりわけクルド人口が最も多いトルコでは、長期にわたって最も強硬にクルド人の存在を否定して(「山岳トルコ人」と呼んだ)クルド語の使用も禁止してきたために、実際にクルド語を奪われ、クルド人意識を奪われ、東部山岳地帯のクルディスタンを離れイスタンブルなどの大都市圏に移住してきたクルド人も数多い。国内移動ではあるが、故郷クルディスタンを離れたという意味では越境的な離散の一形態であると言える。

 第三に、分断されたクルディスタンからの移民や難民の行き先として多いのは、ヨーロッパ諸国である。前回(第7回)の歴史的考察で見たように、トルコはギリシャと隣接しており、ギリシャのすぐ隣はイタリアであり、古代からこの一帯は関係の深い交流圏であり、同じ一つの地中海世界であった。そもそもトルコまでが「中東」でギリシャからが「ヨーロッパ」という分断線自体が恣意的で無根拠なものにすぎない。また前々回(第6回)のヨーロッパの移民問題の考察で見たように、ドイツ(当時は西ドイツ)が第二次世界大戦からの復興過程で労働力不足のために、地中海沿岸諸国との政府間協定で労働者を大量に導入したのだが、結果的に多くの余剰人口を抱えていたトルコから最大数の労働者を迎えた。そのトルコからの労働者たちは故国から家族を呼び寄せ子どもを生み育て急速に人口を増やし、現在ではドイツ在住のトルコ出身者は300万人ほどの人口になっている。このうち、3分の1の100万人近くが、クルド人アイデンティティの有無にかかわらず、クルド人であると推測されている。またそれ以外のヨーロッパ諸国、とくに大都市部にはどこにもクルド人コミュニティができているほどに離散クルド人が増えている(ドイツに次いで多いのがフランスやスウェーデンやオランダなど)。

 第四に、上記の労働移民的なクルド人のほかに、1980年代から90年代にかけてはトルコ政府とクルド人独立運動組織との緊張が高まり、激しい弾圧と抵抗が続いたために、トルコから難民となってヨーロッパに流入するクルド人が増加した。1990年代から2000年代にかけては、二度にわたるイラク戦争とその後の国内での政情不安、イラク政府によるイラク北部のクルディスタンへの攻撃によって、イラクから難民化して脱出するクルド人が出てきた。2010年代にはイラクとシリアでの「イスラーム国」の台頭とそれに重なるシリア内戦の混乱によって大量のシリア難民が発生し、周辺の中東諸国とヨーロッパ諸国へ押し寄せたが、そのなかにはシリア北部のクルド人も含まれていた。すなわち、労働移民とは区別される政治難民・戦争難民としてのクルド人である。

 こうしたさまざまなかたちで離散したクルド人を「クルド人ディアスポラ」と呼ぶ。

 そして冒頭の日本へのクルド人難民の話につながる。日本へのクルド人移住者が増えてきたのは、1990年代からと言われる。それ以前にはイランからの移住者が多くそのなかにイランのクルド人が含まれていたのが最初とも言われるが、既に触れたようにクルド人としての把握がなされていないために正確な調査がない。しかしたしかに1980年代には、1979年のイラン革命後の混乱を逃れるイラン人が欧米へ逃れていき、日本への移住者も多かった(非正規滞在の不安定な労働者となった)。その後、上記のようにトルコから弾圧を逃れるための避難者が増えたときに、日本とトルコは友好国関係にあってトルコ人の日本への入国にビザが不要なことから、多くのクルド人避難者が日本へ観光目的の短期滞在者として入国し、そのまま滞在期限を過ぎても残り、難民申請をする、ということが増えていった。

 だが連載の第2回で論じたように、日本は「難民鎖国」状態である。ほとんど難民認定をしていないというのが実態だ。毎年数千人の難民申請に対して(近年は1万人を突破した)、認定数はわずかに10~20人前後で推移している。クルド人難民についても例外ではなく、クルド人で難民認定を得た者は皆無だ。結局ほとんどのクルド人たちは事実上日本へ避難してきたにもかかわらず、難民申請をしても却下されると収容され強制送還されてしまうため、申請をそもそもしないで非正規滞在者となって不安定な状態で日本に暮らしているケースも多い。一部だが日本人との結婚などを理由として在留特別許可を得ているクルド人もいるが、少数にとどまる。

 クルド人ディアスポラはこうして日本にも流れ着いているにもかかわらず、そして「ワラビスタン」などという呼称まで登場しているにもかかわらず、日本における受け入れ状況や法的地位は、あまりにも酷いと言わざるをえない。移民労働者として市民権を得ていたり難民として庇護されたりして百数十万人のクルド人が暮らすヨーロッパとは天と地ほどの差がある。

3 オスマン帝国崩壊時に起きた分割

 中東のなかでの分断と越境、そしてヨーロッパをはじめとして世界への離散。このディアスポラ状況が発生した根本原因である、第一次世界大戦後のオスマン帝国解体期に何が起きたのかを見ていこう。というのも、このプロセスこそが、大英帝国、フランス帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国(ソヴィエト帝国)などの中東地域に対する覇権と利権をめぐるせめぎ合いそのものであり、その結果としての中東分割であり、またその影響としてのクルディスタン分断だからである。すなわち、クルド人ディアスポラの根源は、およそ100年前の帝国主義的分割にあるということだ。このことは、世界史好き以外には忘れられがちなことなので、とりわけ強調しておきたい。

 オスマン帝国の解体は、第一次世界大戦での敗戦による。第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われ、連合国側にはイギリス、フランス、ロシアなどが、中央同盟国側にはドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などが参戦した。この大戦中にすでに多民族国家であるオスマン帝国に対する切り崩しと分割の画策が始まっていた。1915年にはオスマン帝国内のアラブ民族主義を煽るためにイギリスは大戦後にアラブ人国家の独立を承認する密約を結び、オスマン帝国内でのアラブ人勢力に反乱を促した(フセイン=マクマホン協定)。

 翌1916年には連合国側の中心、イギリスとフランスとロシアの三ヶ国間でオスマン帝国領の分割に関する密約である「サイクス=ピコ協定」が結ばれた。翌年にはロシア革命が生じてこの協定から事実上ロシアが離脱し、この協定はイギリス・フランス2ヶ国がおもにイラクを含む一帯とシリアを含む一帯の分割統治を取り決めたものとなった。その後さまざまな駆け引きがありサイクス=ピコ協定のラインどおりに分割が進んだわけではなかったが、その大きな方向性を定める決定的な意味をもった。オスマン帝国領のクルド人が、帝国解体後に独立したトルコ、シリア、イラクにまたがって分断された起源もここにある

 さらに1917年にはヨーロッパで排斥されるユダヤ人たちにパレスチナでのユダヤ人の「郷土」建設を認める「バルフォア宣言」をイギリス政府が発した。これはヨーロッパ内部でのユダヤ人問題の解決をその外部ではかると同時に、パレスチナでのユダヤ人国家建国を目指すユダヤ人組織から戦争継続の支援を得るための取り引きでもあった。このパレスチナをめぐる諸問題については次節で考察する。

 ここで重要なことは、この三つの協約はすべて第一次世界大戦の最中に進められたものであること、すべてオスマン帝国領の戦後の列強による分割に関するものであることだ。この三つの協約について、イギリス・フランスの利害と、対アラブ人と、対ユダヤ人とで、イギリスが相矛盾する行動をとった「三枚舌外交」だという非難があり、他方でそれに対し「イギリス・フランスの線引きとアラブ国家想定範囲とは必ずしも矛盾しないし、ユダヤ人の『郷土(ナショナルホーム)』は居住権を認めただけで国家ではないからやはり矛盾しない」という反論がある。だが、ここで矛盾かどうかは本質的な問題ではないし、イギリスが都合のいい線引きと言葉づかいで抜け道を用意しているのはむしろ当然の戦略であり、無矛盾性を指摘したところで帝国的ご都合主義に対する非難は免れようがない。

 クルディスタン分断の話を進めよう。1918年にオスマン帝国が敗北。具体的にオスマン帝国の解体にともなう領土の分割が、戦勝諸国と周辺諸国とによって具体的に進められた。二つの条約、1920年のセーヴル条約と1923年のローザンヌ条約の二度にわたって、同地域に対する異なる線引きがなされていった。

 セーヴル条約は、戦勝国と周辺国(イギリス・フランス・イタリア、ギリシャ、アルメニア)がそれぞれの利害を主張しながらオスマン帝国領をいわば「分捕り」していったものをそのまま固定化しようとしたもので、現在のトルコ共和国領にあたるアナトリア半島についてさえ、いくつもの地域に細切れにされていた。とはいえ注目すべきは、その際クルディスタンが「自治領」として認められ、将来的な独立が約束されていたことだ。おもに現在のトルコ領クルディスタンにあたる地域にかぎられ、決してセーヴル条約が履行されていても、クルド人の分断が避けられたわけではなかったが、それでも独立国家の可能性が現実的にあったのだ。だがこの細分化に反発したトルコ民族主義者たちがトルコ独立戦争で反撃してギリシャ軍やアルメニア軍を排撃し、現在のトルコ共和国の領土を確保して、セーヴル条約は破棄、1923年に連合諸国とのあいだでローザンヌ条約が結ばれることとなった。このローザンヌ条約が事実上、現在のトルコとシリアとイラクとの分割の基礎となっており(シリアとイラクの分割はその前のセーヴル条約のまま)、すなわちクルディスタンの分断を決定的なものとしたのだ。

 すなわち、帝国主義戦争としての第一次世界大戦と、その戦時中からのイギリスとフランスを中心とするオスマン帝国領への介入と、そして大戦後のオスマン帝国の解体過程におけるトルコ民族主義の台頭およびイギリス・フランスとの講和によって、クルディスタンの分断がもたらされたのだ。

4 パレスチナの分断の起源と日本の関与

 ここでパレスチナ問題の起源にも迫りたい。というのも、ヨーロッパのユダヤ人問題の外部化と欧米の利害の反映としてイスラエルが存在しているため、パレスチナ問題は中東紛争(つまり中東和平)の核心部分として、より広く知られているが、実はその根源がクルディスタン分割と同根であるからだ。一般には聖書時代からの宗教紛争や、ヨーロッパ近代の反ユダヤ主義が原因のように語られるが、現在のようなパレスチナ地域の分断状況の起源はやはり第一次世界大戦後のオスマン帝国の解体過程におけるイギリスの介入にあるのだ。

 イギリス軍はすでに第一次世界大戦中の1917年には、オスマン帝国領のパレスチナ地方に進軍して軍事占領を開始した。そして先に触れた1920年のセーヴル条約の大枠を決めたサン・レモ会議によって、イラクとパレスチナ(現在のヨルダンも含む)をイギリスの委任統治領に、シリアとレバノンをフランスの委任統治領にすることを決定した。さらに1921年にイギリスの主導でカイロ会議が開催され、イギリス委任統治領パレスチナをヨルダン川で分割し、その東側をトランスヨルダン(現在のヨルダン王国)とし、西側を「パレスチナ」とすることを決定(翌1922年国際連盟承認)。この「パレスチナ」は、現在のイスラエル国家とヨルダン川西岸地区とガザ地区とを合わせた範囲であり、いわゆるパレスチナ地域の範囲が確定する。

 すでにヨーロッパ・ロシアのユダヤ人らによる自発的・組織的なパレスチナ入植活動は始まっていたが、イギリス委任統治領となったパレスチナには、イギリス委任当地政府の管理の下でさらに大規模に入植活動が進められていき、バルフォア宣言で約束をしたユダヤ人の「郷土」づくりを後押しした。

 ここで確認しておきたいことは二点。まず、ヨーロッパ各地からのユダヤ人入植者たちは、ヨーロッパで迫害された避難者であると同時に、中東地域における大英帝国の利害を背負った帝国主義の尖兵でもあったということだ。ヨーロッパ内部での人種差別問題をその存在から除去すると同時に、パレスチナにヨーロッパの「飛び地」をつくり、それをヨーロッパと中東・アジアとのあいだの「防波堤」とする、あるいは中東・アジアに対する「前哨基地」とするといった議論が公然となされていた。

 第二に、イギリスとフランスによる帝国主義的な領土分割の側面ばかりが強調されがちであるが、しかし委任統治を決めた会議では、同時に、大日本帝国もまた、第一次世界大戦で敗北したドイツ帝国の南洋群島植民地の受任国となり、日本委任統治領南洋群島を手に入れたことである(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など)。これは戦勝国間での相互承認であり、英仏によるオスマン帝国領の分割受任を日本が承認するのとワンセットで、日本がドイツ領南洋群島の受任を英仏が承認したということだ。そして「委任統治」というのは、事実上は戦勝国による植民地の分捕りであるが、それが露骨になされることに対する批判をかわすために、発足した国際連盟の名の下に「統治を委任された」という形式を取って正当化した、ということである。

 すなわち、ここからさらに二つのことを強調しなければならない。第一には、第一次世界大戦によるオスマン帝国の解体と、その領土に対するイギリスとフランスによる帝国主義的な分割支配が、クルド問題とパレスチナ問題の共通・同一の根源であるということだ。この地域の民族問題や難民問題は、イギリスとフランスが引き起こしたことだと言ってもまったく過言ではない。第二に、日本はこれらの地域に対して無垢で中立的だとしばしば言われるが、しかし実際には、イギリス・フランスとの取り引きによって代わりに南洋群島を手に入れているのであり、間接的には関与しているということだ。イギリス・フランスほどの大罪ではないにせよ、無実を装うのは欺瞞と言うべきだろう。領土の分割や再分配は、まさに文字どおりに帝国主義的である以上は、その一角を占めてきた日本が無関係であるはずがない。クルド問題にせよパレスチナ問題にせよ、日本はなにがしかの歴史的・道義的な責任を負っているのだ。

5 イスラエル建国とパレスチナ人の故郷喪失

 パレスチナの分断とパレスチナ人の難民化に決定的な局面が来る。第二次世界大戦中および戦後直後にさらにヨーロッパからユダヤ人の避難民が流入し、イギリス委任統治の初期からあった先住のアラブ人のユダヤ人移民への不満は一層高まり、イギリスは委任統治者としての役割を放棄して国際連合に解決を委ねた。国連は1947年に「パレスチナ分割決議」を採択し、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に二分することで解決を促した。

この分割決議はしかし、何ら「解決」をもたらさなかった。というのも、この当時の人口比で約30パーセントのユダヤ人に対して56パーセントの土地を配分し、約70パーセントのアラブ人に43パーセントの土地を配分する(エルサレム周辺は国際管理地とする)というのは、不公平であるというだけでなく、現実の居住地域の実態にも沿っていなかった(たとえば分割案で「ユダヤ人国家」として提示された地域内に数多くのアラブ人が居住していることについて何ら解決を示していなかった)。

 当然ながらアラブ人側は分割案を強く拒絶した。それに対してユダヤ人側は「受諾した」とほとんどの概説書には書かれているが、これは根深い間違いである。ユダヤ人側は初めて領土的なものを獲得することになるため「歓迎」はしたが、56パーセントで「受諾」したことはない。それ以上の「最大限の土地」を望み、それを実力行使、いわば武力で獲得する道を選んだ。つまり、双方が不満を抱き分割決議と同時に第一次中東戦争が開始された。ほとんどの概説書で「1948年5月にユダヤ人国家としてイスラエルが建国宣言をすると、それを承認しない周辺アラブ諸国が新生イスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した」と書かれているが、これも根本的な誤解である。1947年の分割決議とともに戦闘が始まっている。

 その分割決議にいたるまで、そして分割決議後の戦闘の展開もここでは詳述しない(イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』に詳しい)。欧米諸国から武器の供与を受けたユダヤ人軍が圧倒的優位に戦闘を進め、パレスチナのアラブ人の村や街を一掃した。住民を虐殺したり追放したり、あるいはその恐怖によって避難を促すなどし、大量のパレスチナ難民を出して、ユダヤ人国家の領土として1949年の休戦時点までで、パレスチナ全土の77パーセントを占領し、分割決議を大幅に越えた範囲を事実上のイスラエル国家とした。残余の23パーセントが、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区として知られるアラブ人側の土地であるが、ここにアラブ人国家が建国されたことはない。ユダヤ人国家の建国そのものを「不当な占領」として認めない以上、当然23パーセントの土地での建国を是とはしなかったからだ。

 この第一次中東戦争で、大規模なパレスチナ人の分断と離散が生じた。西岸地区とガザ地区のパレスチナ人は「飛び地」となって分断されたというだけではない。イスラエル領となった土地のなかにマイノリティとなったパレスチナ人がいて、「二級市民」「敵性市民」として差別されながらイスラエル国籍者として居住している。またそのイスラエル領から追放された、あるいは避難したパレスチナ人が、大量に西岸地区へ、ガザ地区へと逃げ込み、さらには隣国レバノン、シリア、ヨルダン、エジプトへと離散し、難民キャンプを形成した。長年の難民キャンプ暮らしを脱して、湾岸諸国へ、さらには南北アメリカへと移民するパレスチナ人も出てきている。パレスチナ・パレスチナ人もクルディスタンならびにクルド人と同様に、その故郷の土地はバラバラに分断され、その地に暮らす民族もまた寸断され、追放・離散を強いられてきた。しかもイギリスをはじめとする帝国主義列強の貪欲な介入によってそれはもたらされたのだ。その歴史体験を一言で表わせば、故郷喪失、ディアスポラ化ということになる。

6 パレスチナとクルドのディアスポラとナショナリズム

 こうしてディアスポラ化したクルド人とパレスチナ人たちは、故郷を取り戻すことができるのだろうか? それは一体的な領土による独立国家ということになるのだろうか? 端的に言ってしまえば、もはや一体の領土をそのままに取り戻すことは、とうてい見込むことなどできない状況だ。未来永劫不可能とまでは言えないにせよ。

 クルディスタンについては、最も自治が得られているのはトルコ北部であり、2017年に独立を問う住民投票を実施し、圧倒的多数によって独立が支持されるも、イラクの中央政府がこれを弾圧し、またクルディスタンを抱える隣国トルコとイランも独立運動が自国内に及ぶことを恐れて投票を批判したり弾圧に協力したりした。結局独立の画策は功を奏してはいない。シリア内戦と「イスラーム国」掃討でアメリカ軍に協力して存在を示したシリア内のクルド人勢力も、その米軍のシリア撤退が決まって梯子を外された格好になり、結局シリア政府には反抗できないでいる。そして4つに分断されたクルディスタンのそれぞれのなかで独立運動は路線対立を抱えている。とても一つのクルド人国家など望むべくもない。

 パレスチナはと言えば、イスラエル国家の存在は絶大だ。パレスチナの民族抵抗運動を担ってきた各派がかつて唱えていた「パレスチナ全土の解放」つまりイスラエル国家の一掃など夢物語でしかない。当然いまやヨルダン川西岸地区とガザ地区、すなわちイギリス領委任統治領「パレスチナ」の23パーセントでミニ国家をつくることが最少ではなく「最大」の目標になってしまっている。

 しかしそれさえももはや非現実的だ。1967年の第三次中東戦争で西岸地区とガザ地区も全面的にイスラエル軍が軍事占領下に置き、とくに西岸地区にはいまや60万人もの規模でユダヤ人入植地(巨大なニュータウン)があちこちにつくられているうえに、イスラエルの工場地帯と農業プランテーション、イスラエル軍基地・演習場も多く、西岸地区の6割はイスラエルが占有する土地となっている。つまり、歴史的パレスチナの事実上9割をイスラエルは支配下に収めており、パレスチナ人はガザ地区および虫食い状態に寸断された西岸地区の一部しか残されておらず、その面積はパレスチナ全土の1割にすぎないのだ。

 そして1993年のオスロ和平合意によってパレスチナには「暫定自治」が与えられているが、イスラエルとオスロ合意を承認したパレスチナの傀儡政権(ファタハ)が細切れの西岸地区を統治する自治政府となり、オスロ和平の枠組みを批判する勢力(ハマス)は狭隘なガザ地区に封じ込められている。その西岸地区の自治政府とガザ地区で包囲された勢力が、同じパレスチナ人どうし対立を強いられているのだ。もしかりにそうした自治政府を正式に「国家」と呼ぶ時期が来ようとも、それは私たちが一般に想像する意味での国家とは似ても似つかないものでしかない。象徴的意味合いとしての国家であり、中東和平のアリバイづくりとしての国家である。

 だがそれでもなお、クルド人たちもパレスチナ人たちもそれぞれ民族独立を求めつづけている。どれだけ分断が深化し弾圧が激化しようとも、それで民族主義そのものが消えてなくなりはしないのだ。いやむしろ逆に、こう考えるべきなのだろう。クルド民族主義やパレスチナ民族主義は、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアといった諸帝国が中東地域に介入し分断統治をしようとしたことに対する「抵抗」として発生し発展してきた思想・運動である、と。それ以前には、クルディスタンとして、あるいはパレスチナとして、独立国家を目指す運動はなかった。19世紀にヨーロッパで広まった国民国家が遅れて20世紀に入ってナショナリズム形成に影響を与えた部分もあるだろうが、しかし決定的に大きかったのは、列強によって侵攻され分割や支配を受けた経験である。支配に対する反発として民族意識が芽生え、そして支配に対する抵抗として独立運動が発展してきたのだ。たとえばそれは、トルコ領クルディスタンでは1920年代に断続的にあった反乱であり(20年コチギリの反乱、25年シャイフ・サイードの反乱、1930年アララトの反乱、1937-38年デルスィムの反乱)、パレスチナでは1936-39年の「パレスチナ独立戦争」とさえ呼ばれる「アラブ反乱」がある。

 したがって、20世紀の支配の過程で、郷土の分断と民族の離散が進んだが、しかしそのことはむしろ民族意識を霧散させたのではなく、逆に民族意識を高めたのだ。ディアスポラとナショナリズムは矛盾しない。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉もあるが、ディアスポラにあってナショナリズムが強まることは不思議なことではないし、そのナショナリズムは領土主義的な国民国家のみに回収されるものではない。

おわりに

 在日朝鮮人の作家・徐京植は、『「民族」を読む』という著書の末尾で、祖国である朝鮮半島が南北に分断された状態にあり、そして自らは日本に生まれ暮らし(「在日」)、また多くの朝鮮人が北米や中央アジアにも離散しているなかで、いかに朝鮮人アイデンティティの未来を形成できるのかを考察するに際して、パレスチナ人の歴史経験を参照している。それは、パレスチナ人の奪われた郷土を取り戻す民族抵抗運動そのものが「祖国」である、つまり現実の「領土的国家」ではないが日々の生活のなかから未来へと向かうプロセスが「祖国」となる、そのようなパレスチナ人アイデンティティをモデルにしたものだという。否定的なあるいは消極的な意味での民族主義ではなく、もちろん故郷喪失と分断・離散という状況は否定的であることは疑いないのだが、しかしそのような絶望的な状況のなかから希〔まれ〕な望み(すなわち「希望」)としての民族主義を紡ぎ出したひじょうに重要なテクストだと思う。

 もちろん日本人としての私は、そこに同化・共感しうる立場にはなく、むしろクルド・ディアスポラやパレスチナ・ディアスポラを生み出した大英帝国に比するべき、大日本帝国の末裔である。日本人がなしうることは、帝国の残滓としてある植民地主義の解体であり、その植民地主義を内在させている国民主義の解体なのだろう。近年いっそう露骨になってきている私たちの社会の排外主義やレイシズムもまた、そうした徴候の事例である。本稿冒頭のクルド人難民に対する排斥もまたそうだ。これらをいかに克服するのか。それこそが私たちマジョリティにとってのディアスポラ的課題なのだと思う。

 

【参考文献】

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書、2013年)

勝又郁子『クルド・国なき民族のいま』(新評論、2001年)

クルド人難民二家族を支援する会『難民を追いつめる国──クルド難民座り込みが訴えたもの』(緑風出版、2005年)

徐京植『「民族」を読む──20世紀のアポリア』(日本エディタースクール、1994年)

中川喜与志『クルド人とクルディスタン──拒絶される民族』(南方新社、2001年)

錦田愛子『ディアスポラのパレスチナ人──「故郷〔ワタン〕」とナショナル・アイデンティティ』(有信堂、2010年)

イラン・パペ『パレスチナの民族浄化──イスラエル建国の暴力』(田浪亜央江、早尾貴紀訳、法政大学出版局、2017年)

福島利之『クルド人 国なき民族の年代記──老作家と息子が生きた時代』(岩波書店、2017年)

藤田進『蘇るパレスチナ──語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)

イスマイル・ベシクチ『クルディスタン=多国間植民地』(中川喜与志、高田郁子編訳、柘植書房、1994年)

山口昭彦編『クルド人を知るための55章』(明石書店、2019年)

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著者略歴

  1. 早尾貴紀

    1973年生まれ。東京経済大学准教授。専攻は社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』(青土社)、『国ってなんだろう?』(平凡社)。共編書に『シオニズムの解剖』(人文書院)、『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、共訳書に『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』(平凡社)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(法政大学出版局)、ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』(作品社)ほか。

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