世代を超えて受け継がれるトラウマ【対談:井上ウィマラ×花丘ちぐさ】
◆ミアズマ、あるいはゴーストとは?
ウィマラ:どこから始めましょうか。やっぱりミアズマ(第7回参照)からですかね。
花丘:そうですね。ミアズマについては、昔アメリカに行ったときにピーターが話しているのを聞いたのですが、私の知識不足もあり、「何かおかしなことを言い出したのでは」と心配になったんです。でも、まだ完全には解明されていませんが、「ミアズマ」には、トラウマとも関連するところで何か意味があるんじゃないかと最近すごく思うようになってきました。
ウィマラ:フライバーグはそれを「ゴースト」、「お化け」と表現していますね。「赤ちゃんの部屋にゴーストがいる」といったふうに説明されることもあります。ミアズマやゴーストという概念について、臨床のご経験からどのように感じていらっしゃいますか。また、なぜ「ミアズマ」や「ゴースト」と呼ぶのか。もしかするとピーター・ラヴィーン自身もフライバーグの考えを知っていたのかもしれませんね。
花丘:確認はしていませんが、その可能性はあると思います。ミアズマやゴーストという考え方も、やはり「赤ちゃん部屋」から始まっているのかもしれません。幼少期に愛情のこもった環境で育てられれば、愛情に満ちた雰囲気がふわーっとただようけれども、暴力や怒りやフラストレーションがぶつかり合うような環境には、暴力や怒りのエネルギーが立ちこめるのではないかと思います。トラウマのカウンセリングでクライアントさんの話をうかがっていてよく感じるのは、「もしこの方の親が健全な状態で、子どもの話をきちんと受け止めていたら、そこで完結していたかもしれない」ということです。つまり、その方がセラピーに来る必要はなかったかもしれないんですね。家庭内で解決できたはずなのに、そのチャンスがなかった。その家庭には、同調を拒むような、突き放すようなオーラが立ちこめていたのかもしれないですね。
ウィマラ:フライバーグの「赤ちゃん部屋のお化け(Ghosts in the Nursery)」の論文を読んでいると、花丘先生がお話しされたように、赤ちゃんはまだミエリン化が進んでおらず、まだ言葉で表現することができないので、泣いて表現するしかないわけですよね。僕も子どもを持つようになって――そのために僧侶を辞めて人生を変えたわけですが――、たとえば、赤ちゃんが突然泣き出したときに「どうしたのかな?」と戸惑うことがあります。おなかが空いたのかな、オムツかな、それともさびしくて遊んでほしいのかな、などいろいろ考えるんですが、ふと、「自分が何か悪いことをしたから泣いているのかな?」と思ってしまうことがあります。そういう中で論文を読んでわかったのは、赤ちゃんが泣くと、まるで自分が責められているように感じる親が多い、ということです。
自分が「責められている」と感じてしまうと、赤ちゃんのニーズを考えるよりも、赤ちゃんの泣き声を「私を困らせようとしている」とか「私を叩こうとしている」というふうに受け取ってしまう。こうしたとき、親の中に、思い込みのような自分の「ストーリー(物語)」が展開してしまう。そして自分のストーリーが展開する瞬間に、自分自身が幼少期にどのように育てられたかといった体験や、押し込められていた体内記憶が引き出され、赤ちゃんの泣き声を聞いた瞬間に、そのストーリーにバーッと同一化して乗っ取られてしまう。赤ちゃんの泣きに対して「私を困らせようとしている」とか「私を叩こうとしている」というような、無意識な親自身のストーリーが展開してしまって、そして次第にそのストーリーに沿って赤ちゃんを育ててゆく、ということが起こるわけです。これが「ゴースト」として表現されている瞬間ですね。
◆「ゴースト」にセラピストはどう対応するか
ウィマラ:おそらくそういう瞬間に、フライバーグらが行っていたのは、「お母さん、ダメですよ。そうじゃなくて、赤ちゃんが泣いたときにはこうやって対応するといいですよ」と模範を示すことではない。そうしてしまうと、母親の劣等感がさらに強まってしまい、ますます悪い方向に行ってしまう。そこで、トレーニングを受けたセラピストはまず「何かしてあげたい」という気持ちを一旦抑えて、ひと呼吸入れる。正しいモデリングを示す前に、「お母さん、大変ですね。赤ちゃんって泣くことでしか表現できないからね」と寄り添って、「いつも赤ちゃんがこんなふうに泣いたとき、お母さんはどんなことを感じますか? どんなことを思い出しますか?」と、母親が自分の気持ちを打ち明けられるような問いを発していきます。こういったアプローチは、保健師や助産師、あるいは専門のトレーニングを受けたセラピストやソーシャルワーカーが、アウトリーチの現場でまず行うべきトレーニングだと思いますが、花丘先生は臨床でどんなふうに対応しているのでしょうか?
花丘:臨床でも、そういう悩みを持つお母様が多いですね。やはり、SE™では、身体感覚から、深い無意識を探っていきます。「赤ちゃんが泣くと、『私は悪いお母さんなんだ』って言っているように感じるのですね。今そうやって話してくれましたが、今の瞬間、身体で何を感じていますか?」と、身体感覚に落とし込んでいきます。そうすると、「なんだか胸が苦しいです」という答えが返ってきたとします。そうしたら、「では、その胸の苦しい感じと一緒にいると、何か浮かんでくることや、思い出すこと、イメージや感情などは出てきますか?」と聞いていきます。そうすると、多くの場合、自分自身の愛着の問題や、養育者との関係性に関するエピソードなどが出てきます。つまり、ウィマラ先生のご指摘のとおりで、赤ちゃんが泣くと親が「責められた」と感じてしまうんですよね。
これはポリヴェーガル理論にもつながる話かと思います。要するに、社会交流の生理学的状態にいるときには「あなたに必要なものを提供しますよ」という姿勢でいられますが、「責められた」と感じるというのは、闘争/逃走反応が起こっているわけですね。交感神経系が優位になって、身構えているような状態にあると、何か言われたときに「責められた」と受け取ってしまう。まさに闘争/逃走反応を支持するような生理的な状態にあるのではないかと思います。
ウィマラ先生が先ほどおっしゃったように、保健師さんなどがアウトリーチをするときも、まずひと息置いてから「あなたの中で何が起きているんでしょうか?」と問いかける。これがまさに社会交流です。相手が闘争/逃走モード、つまり交感神経優位の状態にいても、こちら側が腹側迷走神経の状態に留まって、「責められていると感じているかもしれないけど、私はちゃんとあなたと一緒に協働調整しますよ」と、社会交流システムで接することで、相手の神経系も、声の韻律や表情から安心・安全の合図を読み取り、「誰も自分のことを怒ったりしていない、責めたりしていない」と感じられるようになる。そこから交流が始まっていくのです。お話をうかがっていて、まさにポリヴェーガルそのものだな、と感じました。
ウィマラ:赤ちゃんが泣いたのは困らせようとしたわけではないし、手を伸ばしたのもお母さんを叩こうとしたのではなく、ただ触れたかっただけなのかもしれない。そういったことに気づいて、赤ちゃんを抱っこしてみると、赤ちゃんは安心してストンと眠りに落ちる。そして、赤ちゃんがスヤスヤ眠りはじめると、お母さんもほっとして一緒に眠ってしまう。お母さんが赤ちゃんを抱っこしながら一緒に安心感を持つところまで来たら、セラピストとしての仕事は一段落というところかもしれません。
こういう形でプロセスが終了することを目指して、トレーニングを受けたセラピストが現場に行く。とはいえ、必ずしも毎回そこまで到達するわけではないので、その都度「何があったか」をチームに持ち帰って、発達の専門家や精神科医が査定しながら、代表として訪問する心理士さんをサポートする、そういうチームアプローチだったようです。
花丘:なるほど。まさにポリヴェーガル的なチームアプローチだなと思いました。
ウィマラ:そうですね。花丘先生のお話を聞いて、ポリヴェーガル理論で説明してもらうとすごくわかりやすいと思いました。
花丘:ポリヴェーガル理論の魅力は、さまざまな状況にある人々を支援する各分野の専門家たちがそれぞれ取り組んでいることを網羅的に整理してくれた点にあるのかもしれません。「その背景にはこのような神経系の仕組みがある」と、メカニズムを説明してくれたことで、各分野の専門家たちが「そうだったのか」と納得しやすくなったのだと思います。
◆神経系の大波に乗る
ウィマラ:先生のお話の中で、神経系が「安定して揺れ動ける」状態や「高止まり」「低止まり」といった極端なパターンがありました。それをひとつの図表にして、「高止まりの人にはこういう対応でここへ導く」といった形で、それぞれのセラピーや流派が持っているスキル・技の一覧表を作って、ポリヴェーガルのチャートとしてまとめると面白そうだと思うのですが、どうでしょうか。
花丘:それはすごく面白いですね。
ウィマラ:もしまだそういうものがないなら、やってみませんか? とても大事な取り組みだと思います。
僕の場合、マインドフルネスによって「安定型のペンデュレーション」ができるというのがひとつのベースになっています。仏教の専門用語では「中道」と言います。私はそれを「アンビバレンスの統合による感情的な成熟」と呼んでいます。具体的にお話ししますと、仏教の思いやりのトレーニングでは、慈悲喜捨の四無量心と呼ばれる4つの心の持ち方を育みます。
一般的には、「生きとし生ける者たちが幸せでありますように」というような祈りの言葉に集中する瞑想実践です。ところが、洞察型の実践になると、この慈しみには「似て非なるもの(近い敵)」と「正反対のもの(遠い敵)」という両極端の状態があり、その間での心の揺れ動きを見守るようになります。日本語でも「愛憎あい交々(こもごも)する」という言葉がありますが、実際の絆が結ばれているときには、「好き好き好き、大好き」だけではなく、「お前なんか大嫌いだ、死んでしまえ」という気持ちになってしまうこともあり、喧嘩をすることもあるけれども、「ちゃんと仲直りできるから大丈夫だ」という奥底の安心感があるから、「安心して言いたいことを言って喧嘩できる」という関係になっています。愛憎という正反対の感情が併存する関係性を受容することができているのです。それが親密性です。
私はこの洞察型の四無量心の実践を教えるときには、波乗りの譬えを使います。サーフィンやスキーをするときには、足の裏をリラックスさせて、足の裏から伝わってくる波の力を全身でしっかりと受け止める。時々ボードから落ちてしまうこともあるけれども、そのたびにボードに戻って乗りなおして、次の波に乗る。そうしているうちに自然に感情の波を乗りこなせるようになり、愛憎の両極端にあるときに行動化してしまわないように待てるようになります。波の力を知り尽くし、波が凪いだときに、自分も相手も楽になるように関わることを工夫するのです。

マインドフルネス実践として長年当たり前に行ってきたことですが、それが「高止まり」や「低止まり」、「乱高下」という説明を聞いてみると、自分特有のこだわりの癖を緩めていくための一つの中継地点だったのだ、それを具体的に見守ってゆくのがマインドフルネスだったのだと気づきました。ずっと当たり前にやっていたことが、単なる当たり前のものではなかったというのがあの図(神経系の波形図:第7回参照)を見てよくわかったのです。
花丘:なるほど。実際、全体の6割くらいにあたるマジョリティの方々は、マインドフルな大波の中でなんとか流れに乗ってやっていけますが、残りの4割の方は、何らかのトラウマの影響を強く受けていたりするので、それが「高止まり」や「低止まり」として常態化しています。そしてそれがあたかもその人の「性格」や「人柄」であるかのように捉えられてしまっているのが残念だなと思います。マインドフルネスの大きな流れにもっと多くの人が入っていけると、人類全体にとって救いになるのではと思います。
◆「私」のとらえ方――苦しみのはじまり
ウィマラ:そういう点からいえば、第7回で先生がお話しされた「SIBAM(サイバム)」は、仏教でいうところの「五蘊」に似ている部分があるかもしれません。色、受、想、行、識といって、生命現象を「身体」、「身体感覚」、「イメージ」、「意思」、「記憶に基づく意識」という五つの集合体として見つめて「五蘊」と呼びます。そして、それを「私」と思い込んだ状態を「五取蘊」と呼びます。五蘊は「存在そのもの」とか「世界内存在」、「現存在」とも呼ばれるものですが、その五蘊を「私」と思い込むこと(五取蘊)から苦しみが始まるとされています。ところで、SIBAMの中には身体そのものは入っていないのでしょうか。感覚として身体が含まれているのかなと思うのですが。
花丘:5つのSIBAM要素の舞台となるのが身体である、という感じかもしれません。SE™では、五蘊の各要素をそれぞれ膨らませながら、それぞれを切り離していくというアプローチをとります。たとえば、意味と感覚がくっついてしまっていることが多いので。
ウィマラ:融合というか癒着してしまっているんですね。
花丘:そうです。オーバーカップリングといいます。たとえば「すべての男は攻撃的だ」とか「女は男を騙そうとしている」というような、くっついてしまった思い込みを切り離して、それぞれの要素がバランスよく存在できるようにしていく技法です。こうしたつながりもおもしろいですね。
ウィマラ:そのときの「私」という思いはどう定義されるのでしょうか。仏教では五蘊という5つの要素から成り立っていますが、それらを「私」だと思い込んだ状態を「五取蘊」と呼びます。SE™では、それぞれの要素と身体をベースとして、「カップリング」と呼ばれる現象が起こり、認知行動療法では「フュージョン」と呼ばれる現象が起こり、ギュッと一体化してしまった「私」が生まれてゆく。そして、そういう思いやストーリーを抱えた「私」という思いが緩んでいく、つまり、「私」を緩めるという考え方をするんでしょうか?
花丘:SE™でピーターがはっきり定義しているかどうかは確認していませんので、これはあくまでも私の考えですが、大脳新皮質で「ああでもない、こうでもない」と認知的に考えている状態は、「エゴ」や「我」であるという考え方が近いと思います。そのような状態では、身体感覚が置き去りにされ、感情もあまり感じていない場合が多いですが、各要素がバランスよく整っていくことで、生理的な状態やホルモン、自律神経の状態も落ち着いていく。するとそこから本当の「自分」にたどり着けるのではないかと思います。スライドに示した海を見ている女性のように、「自分というのは心地よい存在なんだ」と感じられるようになる。そのようなところを目指している感じです。
ウィマラ:深い瞑想をするマインドフルネスの実践者の場合、たとえば呼吸を見つめていて、心が他に飛んだ際に、「どんなことが起こっていたのか」を繰り返し繰り返し見つめていくと「私」という思いが変化することがあります。つまり、「私」という主語を取らずに、ただ「ここにある」という感覚が出てくるような、生まれたばかりの赤ちゃんと同じような意識状態の場合もあれば、「これは私のものだ!」と「私」が強く入り込んでがっちりとカップリングが起こる場合もあれば、そうした思いがありつつも、「私」という結びつきが緩くなっていく場合もあります。そうしたいくつかの「私」という思いの層のようなものが存在して、それを観察していく時期も瞑想の実践にはあります。こういったことも、SE™の中では扱われているんでしょうか? それとも、カップリングが解けることに主眼が置かれていて、「意識がどのように作り上げられていくか」という観察はそれほど行わないんですか?
花丘:そうですね。カップリングをはずすことは中級くらいで扱っていて、上級になると「コヒアレンス」というテーマが出てきます。SE™では、コヒアレンスというのに注目します。身体の中で、神経系も、臓器も、バランスよく全体性を保って連動していて、本人も楽な状態をコヒアレンスと言います。そして、五感や、感情、イメージなども豊かに感じられ、世界の中で、いろいろな要素を味わっている自分が今ここにいられる状態です。必ずしも完璧である必要はなく、例えば、多少具合の悪いところがあったとしても、悪いところ、トラウマ体験などに飲み込まれてしまわないで、それなりに、自分らしくいられる状態です。このコヒアレンスが、「私とは何か」といったテーマと少し連動してくるところでしょうか。要するに、大きな生命のリズムや波のようなものを感じながらタッチをしていく。そしてセラピスト自身がコヒーレントなあり方で、つまり安定した器のようにその場に存在することで、クライアント自身が自己調整できるような場になるわけです。そういう状況、意味においては、SE™でも「コヒーレントな自己」というものを探求していると言えると思います。
◆タッチによるトラウマ治療――触れるプロセス
ウィマラ:「コヒーレントな自己」の中で行う「タッチ」というのは、実際に身体で触れるということですか?
花丘:はい、実際に身体に触れるタッチです。
ウィマラ:私がマインドフルネスでタッチに取り組む場合、まず「目で触れる」というプロセスがあります。それから、「耳で触れる」、さらに、「触れていいですか?」と声をかけて確認するといった「声で触れる」ことも含まれます。
ヨガセラピーがトラウマ治療に役立つというコークらの研究がありましたが、その始まりは、ヨガのアーサナの姿勢の指導に由来しています。たとえば、ヨガの先生が「ここをもう少し上げたほうがいいですよ」と不用意に身体に触れると、トラウマを持っている人はフラッシュバックを起こしてしまって、セッションに来られなくなることがある。そういったことが発端となり、トラウマ研究にヨガを取り入れる仕方を真剣に考えるようになったのです。そこで大切なのが「触っていいですか?」「ここに触りますよ」と声をかけるとか、「こういうふうに少し上げたほうがいいかもしれません」と伝えるというように、声で触れてから、実際に触れることです。目で触れる、耳で触れる、声で触れる、そして皮膚で触れる。こういった段階を経ることが、トラウマ治療に有効だという研究があります。だからこそSE™でも「タッチ」に至るまでのさまざまな触れ方やプロセスについて、慎重に吟味していくということなのでしょうか。
花丘:そうですね。やはりまず自分の「あり方」が大事だと思うんです。SE™の上級コースに進むまでには、かなりの準備が必要で、個人セッションを何度も受けたり、セラピスト自身の神経系が変化した状態でタッチに取り組むことになります。そして、マッサージテーブルに横になってもらってタッチをする場合でも、まずはお互いがタッチに対する準備を整えるなど、一連のプロセスがあります。もちろん、タッチの許可を得ることも重要です。トラウマというのは、境界線が侵害される体験でもありますので、不適切なタッチが引き金になることも多いです。たとえば、身体的な虐待や、事故や災害といった経験も、本人は許可していないのに身体や境界線を侵害される体験として捉えられます。
そういった意味で、コーク博士たちが取り組んだトラウマインフォームドなヨガや、マインドフルネスのアプローチは、本当に素晴らしいと思います。今のお話を伺って、あらためてそう感じました。
ウィマラ:触れる部分、場所はどうやって決めるんですか? 定められた場所があるのでしょうか。
花丘:主に関節や内臓部位に触れるなど、基本的なガイドラインがあります。虐待も含め、身体的なトラウマに対しては、身構えて、身体をグッと固める体勢を取ることが多いので、関節部位にトラウマ的な反応が強く残っていることが多いのです。ですから、まず関節に触れることを学びます。また、いわゆるトラウマ反応を起こすHPA軸(視床下部-下垂体-副腎)のあたりにタッチする方法があります。
ウィマラ:副腎は効きますよね。じつは僕も呼吸観察の中で「呼吸に触れる」というワークを作ってやってきましたが、やはりトラウマに気を配る必要があると思いました。父親から虐待を受けた生徒さんがいたことがあって、そういうことからも非常に学ぶことがあったのです。
「呼吸に触れる」ワークでは、まず横になって寝てもらって、その隣に座った状態で始めます。相手が息を吐いたのにあわせて「ふー」と声を出してもらうんです。相手の呼吸をモニターして、相手の吐く息に「ふー、ふー」と合わせます。この「ふーふーモニタリング」ができるようになったら、次は「吸う吐くモニター」といって、吸う息と吐く息とを、意味を持つ言葉でモニターしてもらいます。その後、「どんな感じがしましたか?」とコミュニケーションしてもらいます。すると、「ふーふーモニターのほうが良かった」と感じる人と、「吸う吐くモニターのほうが良かった」と感じる人に分かれるんです。そこで「なぜそういう違いが出るのか」をディスカッションしてもらいます。
そうした段階を踏んだ上で、次に「おなかに触れる」というステップに進みます。もちろん、触れるのが嫌な人は無理に行う必要はありません。相手のおなかに手を触れて呼吸を感じてもらうのですが、「みぞおちのあたりが良い」とか、「おへそのあたりが良い」とか、「丹田(たんでん)が良い」など、どこに触って良いかをコミュニケーションして決めてもらいます。
そして、触れるときには、吸う息とともに相手のおなかがふくらんでくるのに合わせて、その動きを迎え入れるようにランディング(着地)するといった形で、呼吸に合わせて触れていくテクニックを教えながら、タッチしてもらいます。そうすると、やはり触れることで最初は緊張感もありますが、次第に温もりを感じたり、安心感が生まれたりします。そして何より、「命ってこんなにダイナミックに動いているんだ」と感じて、それだけで泣いてしまう人もいます。その中で、特に副腎に触れるというのは非常に効きました。僕自身も最初にこの方法を実験したとき、自分の副腎のあたりに触れただけで、温もりを感じ、それが副腎にジワーッと伝わってゆくように感じて、ホッと安心するようなかなりの効果を実感しました
花丘:そうですね。アカデミックな世界では、効果があるといっても数値化が難しいため、副腎に触ったぐらいでHPA軸に働きかけることなんてできるのかと疑問視されてしまうこともありますが、体験的には非常に落ち着きますよね。
ウィマラ:そうしたプロセスを、呼吸に合わせて丁寧に進めてもらいます。その上で、たとえば赤ちゃんを抱っこしてみます。自分の手のひらの上で赤ちゃんが動くと、どういうふうに赤ちゃんの身体の変化や動きを手のひらで感じますか、赤ちゃんが動いたときに自分の手のひらも柔軟に動けるようになって、赤ちゃんのその動きに連動して自分の身体も自由に動けるようになると、赤ちゃんと一緒にダンスができますよ、と働きかけてみます。そして、お母さんがそうしたプロセスにどれだけスムーズについてこられるかによって、お母さん自身の成育歴が感じられることもあります。そういうこととあわせて家系図を書いてもらい、家系図を動かして、語ってもらうと、だいぶいろいろなことが浮かび上がってくると思います。
◆トラウマ解放と母子支援――ナラティブの重要性
花丘:なるほど、とてもマインドフルネスな子育てですね。お母さんの心理状態はとても大切です。育児をめぐる社会問題などもいろいろある中で、お母さんが悪いというのではなく、まずはお母さんたちを支援すること、安心して子育てができるような心理・生理状態に持っていくことが非常に大事だと思います。トラウマを抱えたお母さんが、自分のトラウマとなんとか折り合いをつけながら子どもと向き合うのは本当に大変なことです。なんとかお母さんのトラウマ解放を進められればと願っています。
ウィマラ: お母さんの解放をお手伝いするとき、お母さんの「語り」、つまりナラティブがとても大切だと思います。どう語るか、何を語るか。そしてそれと同じくらい重要なのが、お母さんのボディランゲージと赤ちゃんのボディランゲージがどんなやり取りをしているか、それをしっかりと読み取ることです。ビデオで録画したものを見るとわかりやすいのですが、ボディランゲージの中には、身体的な表現ややり取りを通じて浮かび上がってくる多くの情報が含まれています。
それとは別に、お母さんの語りそのものも重要です。たとえば、「この子はよく泣くタイプで、私が何かしようとするとすぐ引っ掻こうとするんですよ」といった語りです。そうしたお母さんの語りを聞くことから取り組まないと、寄り添いのプロセスは始まりません。お母さんの語りをそのまま受け止めながら、赤ちゃんについて具体的なことを話してもらっていくうちに、だんだんと語りが深まっていきます。「私も小さい頃、母や父にこんなことをされた」とか、「こうしてほしかったけど叶わなかった」というふうに、語りが自分自身の子どもの頃の記憶につながっていき、赤ちゃんにとっての、おじいちゃんやおばあちゃんの語りへと変化していくことがあります。
こうした語りの変化が起きることで、展開がどんどん深まっていくような変容が起こるのは、一般的な心理療法の定石ですが、こうした語りの変化のプロセスについては、SE™の場合、どのように教育され、検証されるのでしょうか。
◆身体を読む
花丘:SE™では、やはりまず「身体を読む」という訓練をかなり行います。表情や姿勢、その人がどんな声を出しているか、そういったところを細かく観察していくのです。ピーターがすごいのは、頸動脈の拍動を目で見て、その人の交感神経の状態を大体読み取ることができるという点です。これは伝説のように語られていることですが、実際のデモンストレーションでも、身体に触れずに「今この人の心拍はこれくらいだね」なんて言い当てるのです。彼にしかできない特別な技術だと思いますが、そのように、クライアントの状態を把握することが大切です。
クライアントさんが部屋に入ってくるときの雰囲気も重要です。たとえば、「闘争/逃走」が非常に強く働いていて、ピリピリした感じで入ってくる方もいれば、小さくなって「すみません、すみません」と言いながら申し訳なさそうに入ってくる方もいます。そういった姿だけでもいろいろなことがわかります。
SE™はクライアントのナラティブをあまり聞かないと誤解されることもありますが、それは違います。SE™ではクライアントさんが語ることも大事にしています。ただし、ウィマラ先生も先ほどおっしゃったように、「何を語るか」以上に「どう語るか」を大切にしています。たとえば「元気です」とか「この1週間、とても調子が良かったです」と笑いながら話していても、実際にどうかということは、その方の身体の反応を読み取ることでわかることがあります。ですから、通常のトークセラピーの技術も取り入れながら、さらに「身体を読む」ことをしっかり行っています。
ウィマラ:今、ラヴィーンさんの、クライアントさんの頸動脈の拍動から状態を読み取るというお話を聞いたとき、直感的に「これは信じていいな」と思いました。やはりその感覚はありますね。相手の呼吸を「見る」というのは、自分を見るだけではなく相手を見て、自分を見て、という間主観的な実践でもあるんですよね。
今の話で思い出したのは、神田橋條治先生という精神科医のことです。私の尊敬する大好きな先生なのですが、彼もラヴィーンさんと同じタイプですね。あるとき、診察室での診察から閉鎖病棟まで神田橋先生に一日ついて回ったことがありました。オーリングを使って薬を選んだり、電話で遠隔治療を行ったりもしますが、そのレベルの先生たちは、診察室に入ってくる瞬間の患者さんの様子や、頸動脈の動きなどをしっかり観察していますよね。呼吸でいうと、呼吸性洞性不整脈といって、吐くときと吸うときでは心拍も変わります。瞑想をしていると、そのレベルでまずは自分の変化がわかるようになります。そうして相手の呼吸に調子を合わせると、いろいろなことが雰囲気として読み取れるようになるのも自然なことだと思います。精神科医の先生やセラピストの先生のように、「なんとかお手伝いしたい」という気持ちで心を寄せているとそうなりますね。
◆母と子を支える社会
ウィマラ:特に子育ての時期というのは、それ以上に強いコヒーレントな波長の整った力が働いて、自然とお母さんの意識が赤ちゃんに向かいっぱなしになるような時期です。ウィニコットは「マターナルプリオキュペーション:母親的専心(母親の原初的没頭:primary maternal pre-occupation)」と呼びましたが、これは赤ちゃんのことで頭がいっぱいになる状態を指しています。出産前後の数ヶ月間、そういった時期があると言われています。でも、今の社会では、その時期に「赤ちゃんのことだけで頭がいっぱいになっていていい」とお母さんが思えるのは難しいでしょう。そういったお母さんの状況をどう支えていくのか。支えながら、子育てをどのように応援していくかというのが、重要になるのかなと思います。
花丘:お母さんに「子どもをちゃんと育てなきゃいけない」と無理強いするのではなく、安心して子どもと関わっていられるような雰囲気、環境になるといいですね。物質主義的な価値観が強い時代なので、「もっと頑張らなきゃ」とか「成功しなきゃ」という方向に心が動きやすく、あるいは現実として貧困や労働の問題を抱えていて、育児に専念できない状況の方も多い。そういういろいろな状況をどうみんなで支えていくかが重要ですね。
ウィマラ:ある産婦人科の医師から聞いた話ですが、赤ちゃんが生まれたあと、「赤ちゃんの顔を見たくない」と悩むお母さんがいるそうです。そういう場合は「ああ、疲れたんですね。じゃあ、しばらく赤ちゃんと別々に過ごしましょう」とお母さんに休んでもらって、一週間ぐらいしてお母さんが赤ちゃんのことを気にするようになってきたら、「どうですか、赤ちゃん、見てみますか?」と、再統合をサポートするそうです。産後うつなどいろいろな問題がありますが、たとえば、出産そのものがどうだったかとか、そこに至るまでのお母さんの成育歴がどうだったかということも影響しますし、周産期というのは非常にハードな時期なので、「赤ちゃんの顔を見たくない」という気持ちになるお母さんがいてもおかしくありません。それを否定せず、休息の時期として捉えることが大事ですね。休養した上で、いかに再統合のプロセスを支え、抱っこしたり授乳したりできる状態に戻れるか。出産まで頑張ってくれたことを労い、出産後に休養が必要な場合には支える。そういうことも含めた社会的なサポートを考えていくことが必要な時代ですね。
花丘:まさに、先ほど先生が教えてくださった「方便」という考え方ですね。人それぞれ、その人に合った形でのサポートが必要ということですね。


