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音楽を描く言葉と身体──ふるまいのアナリーゼ 吉川侑輝

天才と出会う――サリエーリとモーツァルトの対話

天才−凡庸

 天才とはおそらく、突拍子もない何者かであるだろう。彼/彼女らは、平凡さのもとではとても考えの及ばない何事かを、この世界にもたらす。では天才とは、凡人には到底理解できない存在であるか。そうではないように思える。天才とは同時に、次のようなものでもある。すなわちその卓越性は、少なくとも潜在的には(・・・・・・・・・・)理解しうるものでなくてはならない。無論あなた自身が、その人物が為すことを()詳らかに「説明」できたり、あるいは実際に「再現」できたりする必要はないだろう。例えば私は、将棋というものを(殆ど)知らない。けれどもそのことは、例えば藤井聡太という若者が天才であると知ることと矛盾はしない。それに棋譜の読み方を学びさえすれば、彼の天才性は、私にでも理解しうる(・・・)はずである(少なくともその可能性はある)。確かに、ある人物のしていることを理解するのが、およそ困難な場合というのはあるだろう。しかしながらそんなとき、その人物は天才などでなく、単に出鱈目なことをしていると理解されるしかない。天才というものが突拍子もない何者かであるにしても、その突拍子もなさはあくまでも、そう理解しうるのでなくてはならないのである(でないと私たちは、その人を「天才」と呼ぶことができない)。天才とはだから、平凡さのもとでは理解不可能な対象なのではなく、まさにその平凡さにおいて経験可能な何事かであるほかない。

 以下に示す断片4-1は、ピーター・シェーファーによる1979年の戯曲『アマデウス』(1)からの一場面である。中心的な登場人物は18世紀において活躍したふたりの作曲家、アントニオ・サリエーリとヴォルフガング・モーツァルトである。戯曲において繰り返し反復されるひとつの動機(モチーフ)は、「神に愛された」(2)モーツァルトの天才性と、サリエーリの凡庸さの対比である。作品の真骨頂は、敬虔なサリエーリによるモーツァルトへの嫉妬を、神への闘いとして描いている点にあるだろう。サリエーリは音楽家としての人生を神にだけ捧げてきた。しかしその神はというと、モーツァルトの類稀なる才能を聴き分ける能力を与えるということのみをして、サリエーリに報いたのである。サリエーリは神に、闘いを挑む。「不公平なる神よ……あなたは敵だ! これからは、〈永遠の敵〉と呼んでやる!」(3)。サリエーリは宮廷楽師という世俗的な地位と名声を利用しながら、秘密裏にモーツァルトを陥れようと画策する。様々な策略は、モーツァルトの死に帰結することになる——戯曲『アマデウス』は高い評価を受け、1984年にはミロシュ・フォアマン監督の手により同名のタイトルで映画化もされた。映画もまた大変な流行をみせたので、モーツァルトの人物像やサリエーリとの一筋縄ではいかない関係(そしてその顛末)を、映画を通じて知っているという人もあるだろう。無論、戯曲であれ映画であれ、『アマデウス』に描かれるストーリーや登場人物が、まずは作り事——それもときに過剰な——であることは言うまでもない(4)。けれども私たちは、こうした創作物を通じてモーツァルトという人物の一端を理解したり、その人柄に触れたりする——少なくともそのような感覚を抱く——ことがあるように思える。

断片4-1 《フィガロの結婚》初演後のやりとり(5)

[1]モーツァルト:(低い声で)サリエーリさん。

[2]サリエーリ :うん?

[3]モーツァルト:どう思います? うまくなったと思いますか?

[4]サリエーリ :(感動して)いや……実にすばらしい。実に……みごとだ。そう。

[5]間。モーツァルトは彼の方を向く。

[6]モーツァルト:これはねえ、オペラの最高傑作ですよ——本当のところ。こんなの書けるの、ぼくだけだ。ほかに誰も書けやしない。

[7]サリエーリは平手打ちをくったかのように、さっと顔をそむける。モーツァルトは立ちあがり、離れてゆく。

 [参考:上演例(1:48~)]

 断片4-1には参照の都合上、原文にはない行番号を割り当てている([1]~[7])。この断片は、モーツァルト作のオペラ《フィガロの結婚》の1786年における初演直後の場面から引用された、サリエーリとモーツァルトの対話(ダイアローグ)である。サリエーリ(とその一派)は《フィガロ》の上演の妨害を秘密裏に画策するも、様々な偶然がモーツァルトに味方し、いずれもが失敗に終わる。無事に幕が上がる舞台。劇場を満たすモーツァルトの神の声のごとき楽曲を耳に、サリエーリは自身の「敗北」をただ噛みしめる。しかしサリエーリは、まさにそのとき、思いがけない事態を目撃する。《フィガロ》第4幕の最後、観劇していた皇帝ヨーゼフ2世が、欠伸(あくび)をするのである。観客のまばらな拍手。終演後、ヨーゼフはモーツァルトに「巧くなったな(You are coming along nicely)」(6)と声をかけ——この言葉は、決して高くはない評価に、しかしそれでも可能な肯定的表現を与えたものとして聞くことができる——、他方傍らの宮廷歌劇場総監督オルシーニ゠ローゼンベルクに対しては、今後はアリアの繰り返しを行わない通告を指示し、劇場を後にする。なんのことはない、ヨーゼフにとって4幕からなるこのオペラは、余りに長すぎた(・・・・)のである。モーツァルトは「打ちひしがれ、うなだれる」(7)。断片4-1はその直後、残ったサリエーリにモーツァルトが近づき、声をかけるところから開始されるやりとりである。

 6行目におけるモーツァルトの突拍子もない言葉は、目を引く。彼は自分が作ったオペラに「オペラの最高傑作」なる記述を与えている。続けて「平手うち」(7行目)とあるように、少なくともサリエーリは、ある種不意をつかれているものとして描かれる。そう6行目におけるモーツァルトの返答は、サリエーリが抱いていた期待に背くような返答なのである(8)。『アマデウス』ではサリエーリとモーツァルトが、シェーファーお得意(9)のやり方で、幾度となく対照的に描かれる。「宮廷楽師」サリエーリと地位なし(いわば「フリーランス」)音楽家モーツァルト、「イタリア」出身サリエーリと「ドイツ」出身モーツァルト、大量の生徒をかかえ羽振りの良いサリエーリとわずかな生徒しか得られず「貧乏」な暮らしをおくるモーツァルト、「エレガント」なサリエーリと奇声を上げ粗野な言葉を吐くモーツァルト……等々。「天才」モーツァルトとそれに嫉妬する「凡人」サリエーリという対比は、その最たるもののひとつである。ではこの注目に値するモーツァルトの回答は、天才であるがゆえに凡人には理解の及ばぬものであり、だからこそサリエーリは不意を突かれたのであろうか(10)。このモーツァルトの言葉が、ある種の期待に反するものであるというのは、きっと正しい。しかしそれは、決して出鱈目に生じたものではないように思える。

音楽家−音楽家

モーツァルト:(低い声で)サリエーリさん。

サリエーリ :うん? 

 1行目と2行目では、モーツァルトがサリエーリに呼び掛け、サリエーリはそれに応答している。「低い声で」とあることから、私的(プライヴェート)なやりとりをモーツァルトは開始しようとしていることが理解できる。先に説明したように、舞台上にはモーツァルトとサリエーリのふたりだけが残されている。しかしながらそれとは係わりなく、私たちはこの台詞を見ただけで、それが私的なやりとりの開始であることを理解する。当然のことモーツァルトは、サリエーリを呼び掛けることそれ自体をしたかったわけではない(サリエーリを呼び掛けて終わり、ということはありそうにない)。そうではなくこの呼び掛け自体が、続けてモーツァルトが別なる何事かを開始しようとしていることを、サリエーリに伝える。これから開始される何らかのやりとりの準備が整っていることを、モーツァルトはこの呼び掛け−応答を通じて明確にしているのである(11)。ではそのやりとりとは、どんなものであったか。 

 モーツァルト:どう思います? うまくなったと思いますか? 

 3行目におけるモーツァルトのひと続きの台詞は、ふたつの部分に分かれている。まず「どう思います?」であり、続けて「うまくなったと思いますか?(Do you think I am coming along nicely?)」である。ともに同じ疑問文の形式を備えているが、それぞれの部分には、若干異なる特徴が備わっている。まず前半の「どう思います?」は、サリエーリの「思い」を広かれた仕方(・・・・・・・)で尋ねるものである。今まさに《フィガロの結婚》の初演が終わったところなのであるから、この質問は、直前に聴いたオペラについてサリエーリが抱いた思いを述べることの要求として聞くことができるだろう。それに対して後半は、「うまくなったと思いますか?」である。同じくサリエーリの思いを尋ねる質問ではある。けれども「どう思います?」に比べ、尋ねている内容に具体性が備わっている。このふたつの発言は併置されることで、後者の発言を、前者の発言の特定化として聞くことができる。

 この「うまくなったと思いますか?」質問は、ふたつの特徴をつうじて、特定化が行われているように見える。まず注意を向けておきたいのが、この表現が先立つヨーゼフによる評価の「引用」として聞くことができるということである。先述のように「うまくなったと思いますか?」は、直前に退場したヨーゼフがモーツァルトにかけた言葉「巧くなったな(You are coming along nicely)」を部分的に繰り返す(・・・・)ものである。この発言は従って、単に評価を求めているだけなく、サリエーリの考えを、ヨーゼフが先立って下した肯定的ならざる(・・・・・・・)評価との関係のもとで尋ねるものとなっている。第2にこの質問は、同意/不同意のいずれかで回答が可能な、いわば「極性」を含んだ質問となっている。質問に極性が含まれるとき、それに不同意を与えるよりは、同意するほうがより望ましい(12)。そう考えるとこの質問は、同意を与えればヨーゼフの評価にもまた同意することになるよう、デザインされている。「うまくなったと思いますか?」は従って、サリエーリがヨーゼフと同じ方向性の評価を下しやすい質問として組み立てられているのである。

 とはいえモーツァルトは、先立つヨーゼフと同一の(・・・)記述をサリエーリに単に繰り返してほしいという態度を示しているわけではないように思える。仮にモーツァルトが、ヨーゼフの評価に不同意を与えやすい質問を行ったとする。ところが既にみたように、ヨーゼフが《フィガロ》に下したのは、ひとつの芳しくない評価であった。するとその質問は、今度は、その回答において《フィガロ》に肯定的な評価を与えるのを誘導するような質問になってしまう。誘導された肯定的評価に、慰め以上の価値などあるだろうか?——「うまくなったと思いますか?」質問はこのようにして、単にヨーゼフの評価に同意しやすいだけでなく、まさにそのことによって、肯定的な評価を誘導しているとは聞こえないようデザインされている。先立ってモーツァルトとサリエーリのこのやりとりが、そもそも私的なものとして「低い声で」開始されていたことを想い起してもよいだろう。3行目の「うまくなったと思いますか?」質問はこのようにして、サリエーリの率直な(・・・)考えを引き出そうとするための質問として見ることができる。

 その上で、モーツァルトはサリエーリの考えをただ(・・)尋ねているだけではない(・・・)ことには注意が必要である。ヨーゼフを含めた聴衆の反応は、確かに(かんば)しくないものであった。しかし私たちは、サリエーリなら《フィガロ》についてヨーゼフや聴衆とは異なる評価を下しうる、という期待を抱けはしないだろうか。モーツァルトとサリエーリの職業的な関連みると、見通しが良くなるように思える。いま《フィガロ》を退けたのは、ヨーゼフであれ聴衆であれ、音楽の「素人」である(音楽の習熟度の違いはあるにしても、少なくとも職業的な音楽家ではない)。しかしここでモーツァルトが改めて評価を求めているようにみえるサリエーリは、音楽家(それも宮廷楽師)である。モーツァルトは何も闇雲に(再)評価を求めているのではない。サリエーリに対する「うまくなったと思いますか?」質問は、音楽の「素人」からではなく、その「専門家」からの意見を求めているものとして聞くことができる。

 サリエーリ :(感動して)いや……実にすばらしい。実に……みごとだ。そう。 

 こうした見えを踏まえれば、続く4行目のサリエーリの回答は、極めて強い賛辞となっている。なにも、台詞の冒頭に「感動して」と書いているからではない。一連の台詞がそれ自体、そのように組み立てられている(当然のこと、戯曲の実際の上演において「(感動して)」の部分は読まれない)。この台詞は、3つの部分からなる。すなわち「いや……実にすばらしい」「実に……みごとだ」「そう」である。このなかで、実はモーツァルトの質問に直接答えている部分は、ただのひとつしかない。第3の部分「そう」がそれである。3行目の質問「うまくなったと思いますか?」を改めてよく観察すればわかるように、彼が少なくともその形式において要求しているのは、モーツァルトという人物(・・)についての評価である(「うまく」なりうるのはモーツァルトである)。それに対して、「素晴らしい」(第1の部分)や「みごとだ」(第2の部分)などと述べることで下されているのは、《フィガロ》という楽曲(・・)の評価である。無論、人物の評価と楽曲の評価は、無関連ではない。モーツァルトは作曲家なのであるから、楽曲の評価はそれを作曲した人物の評価に利用可能であるだろう。すなわちサリエーリは、単に肯定的な評価を産出するだけでなく、その肯定的評価の登場を遅延させながら、下される評価の基準を併せて伝えているのである(13)。その楽曲の評価もまた、「いや」や「実に」といった言葉を付け加えたり、あるいは言葉を選ぶための時間(「……」)を使ったりしながら、実に周到になされている。サリエーリにとって《フィガロ》の卓越性は、簡単に言葉で表現できるものではない——少なくともそうすべきものではない——のである。

 サリエーリは宿敵モーツァルトの、希少な(・・・)理解者としてふるまっている。すなわち、「打ちひしがれた」モーツァルトに、ひとりの職業的音楽家として、そして音楽家だからこそ可能なこととして、共感的に歩み寄ること。サリエーリがしているのは、そんなことであるように見える。

ぼく−ほか

 さてこのおよそ最上級の賛辞に対して、私たちはモーツァルトに、今度はどのような反応を期待すべきであろうか。それはおそらく、サリエーリの言葉に、単なる同意を与えるということではないはずである。確かに一方において、モーツァルトがなしうるひとつの望ましい応答は、今下されたサリエーリの評価に対して、同意を与えることであるだろう(これについては先述した)。しかしサリエーリの賛辞に対して、同じことができるであろうか。ここには、ひとつのジレンマが生じうる。それは、サリエーリの賛辞を肯定することが、同時にモーツァルトが自分自身を褒めるということにもなるということである。そして自分で自分を褒めることは通常、望ましいことではないだろう(14)

 ところがすでにみたように、その望ましくないことが起こる。間(5行目)のあと、6行目において生じるのは、一見して突拍子もない反応である。それは単に同意するという以上に、楽曲(《フィガロ》)と作曲家(モーツァルト)についての、さらに格上げされた評価を下すというものである。 

 モーツァルト:これはねえ、オペラの最高傑作ですよ——本当のところ。こんなの書けるの、ぼくだけだ。ほかに誰も書けやしない。 

 こうした事態が、なぜ生じているか。その理由が、他ならぬモーツァルトの回答それ自体において、示されている。「オペラの最高傑作」という記述は、先立つサリエーリによる記述(「いや……実にすばらしい。実に……みごとだ」)とは対照的に、言い淀みなどを含まない、きっぱりとしたものである。このことは、「オペラの最高傑作」という楽曲記述それ自体だけでなく、それを記述することがそもそも悩ましいものではないというモーツァルトの立場を、併せて伝えるものとなっている。そうモーツァルトにおいて、《フィガロ》の評価は自明なものでしかない。モーツァルトによる3行目の質問(「うまくなったと思いますか?」)は、肯定的なものであれ否定的なものであれ、別なる評価を要求するものでは(端から)なかったのである。

 このようなギャップが生じ得た事情を、断片4-1を遡って、検討してみたい。モーツァルトがサリエーリに対して評価を求めているようにまずは理解できることは、決しておかしなことではない。2人はともに音楽家であるというだけでなく、両者の間には、ある種の序列もある。つまりモーツァルトは、地位なしの作曲家であり、サリエーリは「宮廷楽師」である。そして、宮廷楽師であるサリエーリからするとモーツァルトは劣位の地位にあるといえるだろう。こうしたことを踏まえれば、モーツァルトがサリエーリに自分の評価を求めることそれ自体は、あくまでも自然な事態であるように聞こえる。

地位{宮廷楽師>なし}

 ただ、この二者を地位のもとで区別することは、いつでも自明なことではない。実際のところ両者を区別するやり方には、他にも様々なものがありうる。たとえば「年齢」。《フィガロ》が作られた1786年時点でサリエーリは「35才」、モーツァルトは年下の「30才」である。「人生段階」のもとでは、両者はともに「大人」同士であるとも言えるだろう。「性別」はどうだろうか。モーツァルトとサリエーリは、「男性」同士でもある。またその「出身」において、両者は対照的である。方やサリエーリは「イタリア」の「田舎」出身であり、モーツァルトは「ドイツ」の「都市」ザルツブルグ。あるいは、「収入」。羽振りの良いサリエーリに対して、モーツァルトは「貧乏」、……等々。これらの区別の中には、序列があるものもあるし、音楽能力と関係するものも、関係ないものもある。

年齢{35歳−30歳}
収入{裕福−貧乏}
人生段階{大人−大人}
性別{男性−男性}
……

 さて6行目においてモーツァルトは、特異な表現を用いている。すなわち、「ぼく」と「ほか」(15)である。私たちはふつう、音楽能力の違いを、「ぼく」と「ほか」といった区別のもとでは表現しない。「ぼく」と「ほか」の間には当然のこと、本来であれば序列なども見込まれない。ではモーツァルトはでは、サリエーリに作品の評価を求めた際に、本来であればどのような区別を利用するべきであったか。少なくともひとつは、サリエーリがそう理解したのと同じ「地位」であるだろう。この地位という区別には、ひとつの特徴があるように思われる。それは地位が、ひとまずはそれをもつ人物の音楽能力との一貫性、つまり創造性の高さの証拠とみなすことができる、ということである。たとえば「宮廷楽長」であれば、卓越した作曲能力があるだろうと期待をもつことができる(少なくとも、そうであるべきだ)。反対に、ある音楽家が何の地位を持っていないのであれば、そこには何か然るべき理由があるはずである(例えば「作曲があまり上手ではない」)。

 しかし実のところ、「地位」は同時に、デリケートな区別でもある。それは地位というものが、必ずしも創造性と相関しないことがありうるからである。事実、地位があっても音楽能力が低い音楽家というものがありうる。反対に、モーツァルトその人のように、能力が高いにもかかわらず一定の地位を持っていない人物というもまた、あるだろう。その非一貫性が生じる最たる要因のひとつは、「社会関係」——要するに「コネ」——ではないだろうか。実際のところ戯曲『アマデウス』には、生活費のために生徒を必要としていたモーツァルトを差し置いて、とある「全く無能な男」(16)が、しかしながらヨーゼフの信頼を得ているサリエーリの推挙によって、王女エリザベートの音楽教師になる場面が描かれる。

 地位という区別が使われなかったことが認識可能となっているのであれば、その理由が探索されて良い。モーツァルトはなぜ、地位という区別を端から利用していなかったのであろうか。あるいはモーツァルトはなぜ、この区別を利用することができないのであろうか。今「地位」という区別が、サリエーリとモーツァルトの序列——すなわちサリエーリの優越性——を含意してしまうという点は、重要であるように思える。モーツァルトがサリエーリに対して劣位の音楽能力を自認しているのであれば、地位という区別は問題なく利用することが可能であっただろう。しかしながらモーツァルトが、サリエーリに対して優位な音楽能力を自認しているとすれば、話は別である。モーツァルトの音楽能力は、地位、年齢、収入、出身、……等々の世俗的な序列によってでは、適確にはとらえられない——少なくともそうすべきものではない——ものなのである。6行目でモーツァルトが利用した「ぼく」「ほか」という区別は、見るからに荒唐無稽なものである。しかしそれは、地位、年齢、収入、出身、……等々といった利用可能な区別が尽きている、というモーツァルトの主張とともに、登場している。「ぼく」「ほか」なる区別はこうして、いまヨーゼフと観客が下した評価に対する不当性を主張するだけでなく、サリエーリやモーツァルト自身を含んだ「地位」という序列に対する不当性を伝えるような、挑戦的な区別となっている。

「凡人の聖なる守護者」

 すなわちモーツァルトがその開始から目論んでいたのは、ある種の不当性を表明することであった。3行目の「うまくなったと思いますか」は、先立つヨーゼフや聴衆たちと同種の評価をその回答として与えやすいという特徴を備えている。しかしサリエーリが誤認していたと気づかされたのは、モーツァルトが何のためにそのような表現を用いていたかのほうである。サリエーリはそれを、まずはモーツァルトが音楽家としての率直な見解を自分に要求するための表現と理解した。《フィガロ》という入魂の一作が肯定的ならざる評価を下された状況があるのだから、サリエーリのそのような聞き方は、あくまでも自然な(優先的な)ものであるだろう。しかしながらモーツァルトにあって地位は、音楽能力の評価に際しては全く使い物にならない区別であった。「うまくなったと思いますか」はその上で、いま自分がヨーゼフと聴衆から受けた評価に対する不当性を申し立てること、これをするための予備だったのである。この質問は言わば、ヨーゼフらの評価を再びモーツァルトとサリエーリとの間のやりとりに導入するために、同意しやすいやり方でデザインされていた。そして7行目の「平手打ち」は、サリエーリがこのことにあとから気づいたことを表現している。

 サリエーリにできたこととはせいぜい、モーツァルトが最初から志向していた他なる可能性に、言わば事後的に「そういうことだったか!」と気づくことである。確かにモーツァルトのこの回答は、衝撃的なものである。しかしだからといって、そのことが、モーツァルトの回答が凡人の理解を超えた出鱈目なやり方のもとで編成されていることを意味するのではない。7行目におけるサリエーリの「平手打ち」は、彼が無自覚のうちに参照していたごくごく平凡な物の見方を思い出させるような、そういう不意打ちなのである。この意味で、天才に出会う(あるいは天才を知る)ということは、ほかならぬサリエーリが自身の凡庸さを想い起す、ということでもある。

 もちろん、モーツァルトのこの回答は、それ自体が、モーツァルトがある種の天才であることの強い(・・)証拠となっているわけではない。それどころか、モーツァルトの「ぼく」「ほか」という区別は、ひとりよがりで、子どもじみていて、再び、荒唐無稽ですらある。彼が本当に天才であったかは、今度は彼の楽曲という(・・・)ふるまいを分析することが必要となるだろう(17)。しかし、この戯曲がある種の過剰な作り事だからといって、『アマデウス』において描かれている天才との出会い方までが作り事であるとまで言う必要はないように思える。実際、この断片を読んで、自身の平凡さに気づかされるのは、サリエーリだけではないだろう。そう、他ならぬ『アマデウス』に描かれたモーツァルトに出会う私たち(・・・)読者——あるいは映画『アマデウス』の観客たち——もまた、自身の平凡さを思い知らされるということはないだろうか。サリエーリは、戯曲『アマデウス』の終盤において、観客に向けてこんな言葉を投げかける(18)。 

サリエーリ:……諸君がいつかこの世に生を受ける時、わたしは陰の中に佇もう。そして君たちが、失敗の苦痛を味わい――非情な神の嘲りを聞く時、わたしは自分の名前を諸君に囁こう、「アントニオ・サリエーリ、凡人の聖なる守護者!」と。君たちは失意のどん底で、わたしに祈るがいい。そして、わたしは君たちを許そう。……

 『アマデウス』という作品はこうして、天才と出会うということが一体どういう事態であるかの一端を教えてくれているように思える。もとより、私たちが200年以上も前にこの世を去ったモーツァルトというひとりの天才と出会うやり方が、他にありうるだろうか。

 

(本稿は京都大学人文科学研究所共同研究班「科学的知識の共同性を支えるメディア実践に関する学際的研究」における、ゲストスピーカーとしての報告「天才であることの達成——戯曲『アマデウス』の会話分析」(2022年11月3日、於京都大学)の一部が元となっている。この研究会では、コメンテーターを岡田暁生氏(京都大学)、コーディネーターを河村賢氏(大阪大学)ならびに岡澤康浩氏(京都大学)に務めて頂き示唆的なコメントを頂いた(参加者であった瀬戸口明久氏(京都大学)ならびに森下翔氏(大阪大学)からも、有益なコメントを頂いた)。本稿の執筆過程ではまた、「社会言語研究会」(2022年12月18日開催)における参加者からのコメントなどを得る機会があった。記して感謝する。)

 

(1) ピーター・シェーファー、2020、「アマデウス」『ピサロ/アマデウス』(伊丹十三/倉橋健/甲斐萬里江訳)早川書房、392-393頁。なお翻訳元のひとつのバージョンは、以下の文献として簡単に入手することができる。Shaffer, P., 2006, Amadeus, Penguin.

(2) 『アマデウス』というタイトル自体、ラテン語で「神に愛される」を意味するモーツァルトのよく知られた「ミドルネーム」から採られている。とはいえこれは後世の人々がモーツァルトを神話化する過程で割り当てた名前であり、モーツァルト自身は生前「アマデウス」と名乗ったことはなかったという。石井宏、2020、『モーツァルトは「アマデウス」ではない』集英社。

(3) シェーファー前掲書、348頁。

(4) 作曲家サリエーリについての評伝としては、モーツァルトとの関係も含めて、以下の著作を紐解くと良いだろう。水谷彰良、2019、『サリエーリ——生涯と作品』復刊ドットコム。

(5) シェーファー前掲書、392-3頁。

(6) シェーファー前掲書、391頁(Shaffer Ibid.: p. 61.)。

(7) シェーファー前掲書、391頁。

(8) 実際に、音声収録されたこの戯曲のひとつのバージョンでは、モーツァルトの発言のあと、聴衆の笑い声を聴き取ることができる。

(9) 鴻上尚史、2020、「解説 ピーター・シェーファーとの出会い」シェーファー前掲書、483頁。

(10) 言語学における語用論のひとつの立場は、当該場面をそのように解するようである。以下のプロシーディングス(学会の報告予稿)には、僅かではあるものの、断片4-1と同じ個所を語用論におけるポライトネス(丁寧さの度合い)の観点から分析している部分がある。Frentiu, L., 1995, “Conversational Analysis and the Dramatic Interlocutor: Peter Shaffer’s Amadeus,” Anglicana Turkuensia, 14, 265–272.

(11) 「呼び掛け−応答」は、続けて何らかのやりとりを開始することを予示するが、そのやりとりの内容は限定されない(つまり、様々なタイプのやりとりが開始されうる)、といういわば「汎用的」な特徴を持つ。古典的な議論としては、以下を参照のこと。Schegloff, E. A., 1968, “Sequencing in Conversational Openings,” American Anthropologist, 70(6): 1075-95.

(12) 例えば「明日コンサート行かない?」という質問に対しては、「行かない」(不同意)と答えるより「行く」(同意)と答えるのが望ましい。古典的な議論として、以下を参照のこと。Pomerantz A., 1984, “Agreeing and Disagreeing with Assessments: Some Features of Preferred/Dispreferred Turn Shapes.” J. M. Atkinson & J. Heritage, Eds., Structures of Social Action: Studies in Conversation Analysis. Cambridge University Press, 57–101.

(13) 4行目のサリエーリの回答において観察される付加された遅れ、複雑性、そして間接性などは、「非優先的応答の特徴」と総称される。応答の内容と非優先的応答の特徴との関係についての体系的な研究については、以下の文献を参照のこと。Schegloff E. A., 2007, Sequence Organization in Interaction, Cambridge University Press.

(14) 実際のところ、日常会話においては、「褒め」や「自己卑下」に対しては、弱められた否定の形をもったり、同意するにしてもそれを弱めたりすることが、体系的に観察される。古典的な研究としては、以下を参照のこと。Pomerantz, A., 1978, “Compliment Responses: Notes on the Co-Operation of Multiple Constraints,” Studies in the Organization of Conversational Interaction, Elsevier, 79–112.

(15) なおモーツァルトのこの台詞は、原文において「No one else living」とある。このliving(生きている)という表現は非常に興味深い(かつ本稿の議論に対しても示唆的である)が、差し当たり本稿では、翻訳バージョンの分析に留まっておきたい。

(16) シェーファー前掲書、358頁。

(17) モーツァルトの作曲の特徴やその卓越性は、例えば以下の文献におけるひとつの主題となっている。岡田暁生、2020、『モーツァルト』筑摩書房。池辺晋一郎、2021、『モーツァルトの音符たち』音楽之友社。

(18) シェーファー前掲書、464-5頁。

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著者略歴

  1. 吉川侑輝

    1989年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。立教大学社会学部現代文化学科助教。専門はエスノメソドロジー。「音楽活動のなかのマルチモダリティ——演奏をつうじたアカウンタビリティの編成」『質的心理学フォーラム』12号(2020年)、「音楽活動のエスノメソドロジー——その動向、特徴、そして貢献可能性」『社会人類学年報』46号(2020年)、『楽しみの技法——趣味実践の社会学』(分担執筆、ナカニシヤ出版、2021年)ほか。

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