肉のドレスをまとった愛
序
「だぁーーーいすきよ」と何度国道沿いのシダックスで叫んだかわからない。なんなら27歳になった現在でも、たまに新宿三丁目のまねきねこで叫んでいる。無音のイントロで深く息を吸い込み、思い切って「好き」を吐き出す瞬間――あれはわたしがはじめて「ラブソング」というものを認識した瞬間だったのかもしれない。
《黒毛和牛上塩タン焼680円》は、2005年2月に発売された大塚愛七枚目のシングルである。前年リリースのオリジナルアルバム『LOVE JAM』に収録されていた《黒毛和牛上塩タン焼735円》のリアレンジ版で、テレビアニメ『ブラック・ジャック』のエンディングテーマでもあり、本編のシリアスな雰囲気が「だぁーーーいすきよ」によって一変する、あの突拍子のなさがたまらなく好きだった。
それにこの曲のミュージックビデオは当時テレビで頻繁に放映されていて、ゴシック風の黒いドレスに身を包んで歌う大塚愛の姿は、今になって思えば「かわいさ」への憧憬の原体験であった。とにもかくにも、わたしは彼女の「だぁーーーいすきよ」にやられていたのだ。
大塚愛は2003年のデビュー以降、「愛」「aio」「AIO」等の名義で作詞作曲を行ってきた。彼女はまさに「アコースティック・ギターやピアノの伴奏に合わせて自分で曲を作り、演奏するポピュラーミュージシャンのカテゴリ」[Wise,2012: 430、訳は引用者による]としてのシンガーソングライター像を踏襲した存在である。だが大塚の立場は、彼女に貼り付けられてきた美的なラベルのもとで、ときに興味深いかたちで変形してきたように思える。以下で示すように、彼女は「かわいい」という評価と、シンガーソングライターとしての自己認識のあいだで苦悩し続けてきた人物なのである。
さらに言えば「J-POP」という曖昧な言葉も、彼女に長い間貼り付けられてきたラベルである。たとえばわたしが登録している音楽サブスクリプションサービスでは「一つのイメージにとらわれることなく、自由にしなやかに変化を遂げるシンガーソングライター」と紹介される一方、彼女のジャンル区分は「J-POP」になっている。試しに国会図書館の蔵書検索欄に「大塚愛」と入力してみると、彼女の楽曲は2000年代のJ-POPのヒット曲を網羅した、ベストセレクション的な楽譜集に数多く収録されている。
本稿のねらいは、大塚愛をめぐる「かわいさ」のイメージを解体し、彼女をJ-POPではなく「女性シンガーソングライター」の文脈に位置づけること――というよりはむしろ、彼女の楽曲や歌声、パフォーマンスをめぐる「かわいさ」が、2000年代以降における新たな恋愛表象のひとつだったのではないか、という側面を模索することにある。その一例として、《黒毛和牛上塩タン焼680円》ほど適した楽曲はない。
「かわいさ」への違和感
大塚愛は2003年にAvexからデビューし、《さくらんぼ》や《SMILY》、《CHU-LIP》や《プラネタリウム》といったヒット曲によって、2000年代前半の国内のポップスを牽引してきた。ゴールデンタイムの音楽番組にも多数出演し、ラジオ番組のパーソナリティや、雑誌での連載を手がけるなど、幅広いメディア展開を行っていた点も見逃せない。大塚愛は端的に言って、非常に「メジャー」な歌い手だ。
そんな大塚愛の存在を、わたしが改めて考えるきっかけとなったのが、文春オンラインで2022年に公開されたインタビュー記事だった。オリジナルアルバム『LOVE POP』(2021年)を起点に、デビューから現在までの活動をふりかえるなかで、大塚は「“素の自分”と“世間のイメージ”とのギャップに悩んだ時期」のエピソードとして「デビューしてしばらくはアイドルだと認識されてしまった」ことを挙げ、次のように語る。
何をもってアイドルとカテゴリーされるのかはわからないんですけど、自分の中ではもうちょっと、どっちかと言うと尖ったことをやってたはずなのに、それが「かわいい」に認定されてしまった誤差と言いますか……。毒とか、駄菓子の体に悪い感じを表現しているというスタンスだったので、まさか「かわいい」って言われるとは思ってもみなかったですね[大塚,2022]。
大塚が示しているのは、自らの活動が「かわいい」という美的価値のもとで判断されることに対する違和感である。実は大塚はデビュー直後から現在に至るまで「アイドル的な存在」「かわいい歌い手」として扱われることに疑問を呈してきた。
たとえば2004年にフジテレビの音楽番組「僕らの音楽」へ出演した際には、インタビュアーの鳥越俊太郎が発した「自分のことはアイドルだと思ってます?」という質問に対し「私はアイドルって何かよくわからないんですけど……。直接的に言ったら”人気者”ですよね。でも私は、かわいらしく見てほしいとか、そういうのはまったくないです」と返答している[鳥越,2005: 164]。このインタビューでは、大塚がアイドルという位置付けをかたくなに拒否し、自らの肩書きを「シンガー・ソングライター」として改めて提示していることも興味深い。
一方で、この「アイドル」という言葉に批判的なニュアンスが込められていることを見逃すべきではない。大塚は鳥越の「第一アイドルは、作詞作曲なんかしないよね」という発言に対し「そうですね。自分がアイドルっぽいって言われること自体、『え〜!!』っていう感じ」と返答する[ibid.: 166]。鳥越と大塚は明らかに、アイドルを音楽実践の主体的な担い手としては認識していない。
つまり彼女のいうアイドルは、「かわいさ」を体現することで人気を得る偶像であり、シンガー・ソングライターという自己認識からは乖離した存在なのである。アイドルの労働やファンダムを研究対象とする上岡磨奈は、アイドルをめぐるさまざまな固定観念が再生産される複雑なプロセスを検討しているが[上岡,2023]、大塚が提示するアイドルのイメージはどちらかというと単一的で、いくつかのバイアスも存在しているようにも思える。
だがここではひとまず、大塚が表現活動のなかで感じていた違和感――「かわいい」という評価に対する葛藤に目を向けることにしよう。もちろん楽曲が社会に広がっていくなかで、歌い手が想定していなかったところで意味が生成されていくことはある。たとえば、歌い手にとっては切実な心情を吐露したバラードが、聴き手にとっては「前向きで励まされる曲」になる、なんてことはよくある。声のトーンやメロディ、歌い手の身振り、ミュージックビデオにおける演出といったさまざまな要素により、歌い手本人の意図とは別のものになっていく、という「ずれ」――この「ずれ」に葛藤する歌い手も少なくないのではないか。
「ずれ」への葛藤とは、その楽曲を受け取る社会との関係のなかで生まれる摩擦に他ならない。だから大塚が抱いていた「かわいい」への違和感もまた、ある社会的な文脈のなかで生じたものとして理解するべきだろう。ゆえに以下では、大塚のいう「誤差」がどのような社会的文脈のなかに存在していたのかを考えてみたい。その際の手助けとなるのが、「J-POP」という観点である。
J-POPと大塚愛――ディーヴァブームの流れから
「J-POP」――それはこれまでの彼女を取り巻いてきた、最も大きなラベルではないだろうか。
「J-POP(Japanese Pops)」という言葉は、もともと洋楽曲のみを放送していたFMラジオ局・J-WAVEが、国産の音楽を放送するために考案したものだった。つまりJ-POPの出自は「自国の音楽を《洋楽に比肩する音楽》として位置付けたい」という、ナショナルな欲望にある。たとえば烏賀陽弘道は「世界と肩を並べたと日本人が思っている音楽」「日本人が国際的、あるいは西洋的だと思っているもの」を体現した音楽に「『Jポップ』のファンタジー」を見ている[烏賀陽,2005: 17-24]。
このようにJ-POPは「音楽のジャンルのひとつの名称ではなく、日本製ポピュラー音楽の総称」[生明,2020:145]であり、その内実は極めてあいまいなものだ。だがJ-POPの登場をきっかけに、音楽はさまざまなかたちで変容してきた。
たとえば増田聡は「言葉を持った歌とそれに奉仕する伴奏によって、歌詞に託した時代の空気や心情を反映するとされる『歌謡曲』パラダイム」がJ-POPによって崩壊したことを指摘している[増田,2003: 160-161]。歌詞を重視するのではなく、音楽の他の要素に注目する動向が生じたのである。
その動向のひとつが「ディーヴァブーム」だ。この時期には、高い歌唱力を携えた女性シンガーが多く活躍している。J-POPという概念が定着していくなかで、このディーヴァブームは自己表現としての「声」を積極的に評価する文脈を用意することになった。文芸評論家の矢野利裕は、この時期に「R&Bというジャンルや“ディーヴァ”という言葉を通じて、それまでポップスの表舞台には上がってこなかったたぐいの女性の声が確実に出現していた」[矢野,2023]と述べている。
その一方で音楽批評家のimdkmは、MISIAやUA、宇多田ヒカルや安室奈美恵といった女性シンガーの台頭がもたらした変化を、次のように指摘している。
もはや「歌われる言葉」に特権性は失われた。とすれば、80年代末のJ-POPの確立以降、リスナーは何を聞いているのか〔中略〕というのも、「ディーヴァ」への熱狂とは、「歌われる言葉」の特権性が消失した時代における「声」に対するフェティッシュの極地とも言えるからだ。そこでは、「なにを歌うか」というメッセージよりもまず「歌唱力」が、そして圧倒的な個性を持った「声」こそが人を惹きつける[imdkm,2019: 59]。
ここでは「フェティッシュ」という言葉を用いて、身体の一部としての声に、ある性的な魅力が付与される過程が示される。つまり「なにを歌うか」よりも「どのように歌うか」が問われる状況のなかで、声はしばしば身体の延長としてとらえられ、強い性的魅力をともなうものとして受容される場合があるのだ。
また興味深いことに、imdkmがディーヴァブームの終焉として位置付けた2003年は、奇しくも大塚愛のデビュー年である[imdkm,2019: 77]。J-POPがもたらした変化や、ディーヴァブームの流れから、改めて大塚愛の存在を眺めてみると、彼女に対する「かわいい」という評価もまた別の意味あいをもつ。その「かわいい」は、歌い手の声を身体の次元に還元し、とりわけ強い魅力をもつものとして評価する、という文脈のなかに存在しているからだ。
《黒毛和牛上塩タン焼680円》
ここまで見てきたように、大塚愛をめぐる「かわいい」という評価は、J-POPの制度的な文脈から考えることもできる。それでは、この美的なラベルを、現在の我々はどのように再検討できるだろうか――本稿では大塚の「かわいさ」を、彼女の楽曲において度々浮かびあがってくるモチーフである「食」から考えてみたい。
大塚愛の楽曲には、食にかんする表現が多く登場する。《さくらんぼ》や《Strawberry Jam》、《PEACH》や《ラーメン3分クッキング》といった楽曲のタイトルをはじめ、《フレンジャー》や《LOVE MUSiC》《ビー玉》といった楽曲の歌詞の中でも、食にかんする表現は繰り返し用いられてきた。
またその表現のほとんどは、恋愛にまつわる表象に結びついている。彼女の代表曲のひとつである《さくらんぼ》では「愛し合う二人」が「さくらんぼ」という果実にたとえられているし、《PEACH》は「ひっくり返る愛のマーク」としての「桃(PEACH)」が繰り返し強調され、楽曲後半では桃になぞらえた「お尻」が官能的なモチーフとして再び登場する。これらの楽曲のミュージックビデオはまた、彼女の明るく溌剌なキャラクターを強調し、その「かわいさ」を補強する装置としても機能している。
そして「食」を通じて表象された恋愛のあれこれは、しばしば非常に官能的な意味あいをまとっている。《黒毛和牛上塩タン焼680円》はその代表的な楽曲であり、ここでは「牛タン」という対象が度々セクシュアルな文脈で読み替えられ、食と女性身体が奇妙なかたちで交錯しているのだ。改めて、この曲の歌詞を見てみよう。
ずぅーっと会いたくて待ってたの
あみの上に優しく寝かせて
あなたにほてらされて
あたしは色が変わるくらいキラキラ光る粒の飾りで オシャレ
だぁいすきよ もっと もっと あたしを愛して
だぁいすきよ あなたと一つになれるのなら
こんな幸せはないわ… お味はいかが? (*)
楽曲がリリースされた2005年のインタビューで、大塚は「年齢不詳(20~40代)で、高級で、快楽を楽しむ女性」をイメージして曲を書いたことを語り、販促会議の際に「エロス、キャバレー、化粧品、香水、ドレス、男遊び、風俗、銀座、新宿」というキーワードをスタッフ陣に提示したという[大塚,2005: 29]。つまり金網の上に乗せられた牛タンは、快楽を楽しむ女性の身体を体現するメタファーなのだ。
このような比喩の読み解きは、YouTubeにアップロードされているミュージックビデオのコメント欄にも度々見られるため、大塚の狙いはある程度聴衆にも伝わっていたのだろう。加えて大塚は《黒毛和牛上塩タン焼680円》と《735円》のアレンジの違いについて言及する際に、前者がより「恋愛に対して積極的な女性像」をあらわすものになっていることを強調して、次のように述べている。
女性が上にまたがるほうと、下のほうと。今までの曲が、どっちかっていうと一途な受身タイプの女性だったんで、それとはうってかわって攻撃的なタイプの女性もいいんじゃないかなと思って[ibid:30]。
たしかに優しく落ち着いた雰囲気のバラードである《735円》に対し、歪んだエレキギターのサウンドを押し出した《680円》は、大塚の吐息を強調するような歌い方によって、より官能的な印象に仕上がっている。大塚はその差異を、性愛への積極的態度というベクトルから説明しているのだ。
「食から性的な文脈をほのめかす」というやり方は、彼女の顕著な特徴のひとつである。《680円》が収録されているシングルに収録されている《本マグロ中トロ三〇〇円(緑色)》や《つくね70円》についても、大塚は「男女が重なり合ってる時もお寿司状態かと思いまして」「細長いつくねが串刺しになって売られているのがあるんですよ。それが男性だなって」と性愛的な意味あいを強調している[ibid]。このような大塚のスタイルは、より直接的に「フェティッシュ」な領域を想起させるし、その点で彼女の「かわいさ」を裏付ける一因になったことだろう。
だが大塚愛の特異点は、女性の主体的で能動的な性を「かわいく」描き出したところにこそ存在している。《680円》で展開される食のメタファーは、無垢で可憐な「かわいさ」というよりも、どこか不健全で官能的な〈毒を含んだかわいさ〉の表現だ。これは冒頭で参照した大塚のインタビューにおいて彼女自身が強調していたことでもあるのだが、このような表現の持つエロティシズムが、「かわいい」という別のフェティッシュな次元に落としこまれたことによって生じる意味あいこそが重要なのである。
「食」をめぐる美学と恋愛表象
改めて大塚の「かわいさ」と、彼女の楽曲の恋愛表象を再検討するために、ここでは「食」をめぐる美学の議論を参照してみよう。たとえば美学を専門とするキャロリン・コースマイヤーは、芸術作品における「食」がしばしば性的な文脈に配置されてきた、と強調しながら次のように述べている。
多くの文化的制度のなかで、食に結びつけられているのは性だけではない(と主張する者もいる)が、芸術においてはこの結びつきは顕著である。おいしそうに並べられた食べ物のとなりに女性のヌードを描く絵画はたくさんある。たとえば、エドゥワール・マネの有名な《草上の昼食》は、ピクニックを主題としているが、前景にはバスケットからこぼれる食べ物が描かれている。その食べ物は、着衣の男性の隣に座っているヌードの女性へと続いている[Korsmeyer,2004=2009: 154]。
コースマイヤーは食が性的な表現に結びつけられた芸術作品の例として《草上の昼食》を挙げ、「感覚的快に与えられた意味づけ」のなかに「食と性、味わう快楽と触れ合う性的な快楽の結びつき」が含まれていると指摘する[ibid]。これは人間の五感のうち、視覚・聴覚が「高級な感覚」として、触覚、味覚、嗅覚が「低級な感覚」として位置づけられてきた歴史にも関連している。そして後者の感覚は、とりわけ女性に特有で、かつ性的なものとして理解されてきたという。
味覚が性的で女性的な感覚とされるのは、いわゆる「低級な感覚」が視覚や聴覚と比較して、個々の主観や好みに左右されるところが大きいからである。味覚は、その最もわかりやすい例かもしれない。たとえば納豆嫌いの人が「そんなまずいもの、食べるなんて信じられない!」と主張したとしても、我々はそれを「納豆に対する正しい評価」とは捉えない。単なる「好き嫌い」という主観的な判断として考えるはずだ。
この「好き嫌い」こそが、客観的で理性的な感覚のあり方――言うなれば「男性的」な感覚との違いとして捉えられてきたのである。大塚の表現もまた「食」を性的な文脈に置くものだし、その恋愛表象がしばしば「ポップなかわいさ」を示すものとして受容されるのも、このような背景と無関係ではない。
だが大塚愛の表現は、あくまで女性主体の、享楽的な性の文脈にある。特に《680円》が描き出した「上にまたがるほう」の女性は、まさしく性的な欲望の主導権を握る存在である。そのような女性主体の欲望が「かわいい」の文脈で広く定着したことは、2000年代初頭の音楽シーンにおいて、大きな意味をもつだろう。「かわいさ」は彼女への単なる美的な評価を超えて、同時に女性の欲望や快楽を忍ばせる「実践」へと変容したのかもしれないのだから。
おわりに
本稿が参照したキャロリン・コースマイヤーの五感の議論は、筆者がまだ学部4年生だった頃に受講していた、大好きな美学の講義で扱われていたものだった。そしてこの授業で繰り返し参照されていたのが、ヤナ・スターバックが1987年に製作した「ヴァニタス」という肉のドレスの作品である。
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(「curated.」より)
肉のドレス、と聞いてレディー・ガガの生肉ドレスを想起する方も多いかもしれない。だがこの作品が衝撃的なものとして受け取られた背景には、見た目のインパクト以上に、「食」や「味覚」が低級感覚として捉えられてきたこと、そして女性が芸術の主体的な担い手として位置付けられてこなかったことへのアンチテーゼがある。
わたしにとっての《黒毛和牛上塩タン焼680円》はこの肉のドレスのように、これまで当然視されてきた感覚や性の規範を揺さぶり、快楽や官能を自らの言葉で語るための、極めて革新的な楽曲だった。「食べる/食べられる」をめぐるメタファーを通じて、性をめぐる受動性を脱ぎ捨てた身体は、ポップミュージックのなかで欲望の主体として立ちあがる――大塚愛を取り巻いてきた「かわいさ」は、彼女の欲望や感覚を無害化するための飾りとしてのみ存在していたわけではない。それは結果として、彼女の「毒」を循環させるための戦略的な装いになったのではないだろうか。だからこそわたしには、彼女がまとったドレスの色が、眩しくて仕方ないのだ。
参考文献
生明俊雄,2020年,『日本の流行歌――栄枯盛衰の100年、そしてこれから』,ミネルヴァ書房。
imdkm,2019年,『リズムから考えるJ-POP史』,blueprint。
上岡磨奈,2023年,『アイドル・コード――託されるイメージを問う』,青土社。
Korsmeyer, Carolyn, 2004, Gender and Aesthetics: An Introduction, London: Routledge. 長野順子・石田美紀・伊藤政志,『美学――ジェンダーの視点から』,三元社。
増田聡,2003年,「誰が誰に語るのか――Jポップの言語=音楽行為論・試論」『ユリイカ』2003年6月号。
松永玲,2022年,「アイドルと認識されて苦しかった―― 大塚愛が明かすデビュー直後の戸惑い 《『さくらんぼ』から19年》」[2025/10/1閲覧]。
もりひでゆき,2005年,「ai otsuka my world」『GIRLPOP』3月号,28-31頁。
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鳥越俊太郎,2005年,「#32 大塚愛」『僕らの音楽 対談集3』,株式会社ソニー・マガジンズ,160-181頁。
烏賀陽弘道,2005年,『Jポップとは何か』,岩波新書。
Wise, Tim, 2016, “Singer-Songwriter”. In John Shepard and David Horn(Ed.), Continuum Encyclopedia of Popular Music of the Worlds, vol.8(430-434), NY: The Continuum International Publishing Group.
矢野利裕,2023年,「00年代|DIVAの時代|Japanese R&Bヒストリー」『OTONANO』2023年1月号[2025/10/1閲覧]。
*本記事で引用されている歌詞はすべて「大塚愛《黒毛和牛上塩タン焼680円》」より。


