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鋼鉄の講義室 メタル文化学入門 齋藤桂

「不満の冬」の音楽Ⅱ

 

――メアリー・ロング、いつになったらその阿呆が治るんだい?
(ディープ・パープル「メアリー・ロング」1973)

 

音楽の「型」

 さて、では前回扱ったThe New Wave of British Heavy Metal (NWOBHM)、すなわち「新しい波」のヘヴィー・メタルはそれまでのヘヴィー・メタルとどのように異なるのか。前回書いたように、音楽スタイルはバンドによって様々ではあるが、それでも最大公約数的な特徴を抽出することはできる。

 まず、これらのバンドの音楽にギター・ソロは欠かせないが、ジャム(メンバー間での即興的な演奏の掛け合い)はほとんどしない。これはライヴでの即興演奏を得意とし、数分の曲を20分に引き延ばすのも当たり前だった前世代のクリームやレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルらと比べて大きな違いである。

 NWOBHM期以降のヘヴィー・メタルは、あらかじめ決められた楽曲の構成をほとんど崩さない。演奏者の自発性は即興ではなく、音圧や瞬発力、スピード感といったかたちで発揮される。対戦型・ゲーム型のチーム・スポーツではなく、短距離走のような個人競技的な音楽だ。演奏時間が長い楽曲もあるが、それはあらかじめ長い構成の曲なのであって、自由に伸縮した結果ではない。この固定的な楽曲構成は、ヘヴィー・メタルが影響を受けたジャンルの両極、パンクとプログレッシヴ・ロックの両方に共通する特徴でもある。

 即興演奏が少ないということは、アレンジに凝ることができるということでもある。これによりギターによるハーモニーや、凝った楽曲展開など、プログレッシヴ・ロック由来の要素をより効果的に導入することができた。

 また、先達のヘヴィー・メタル・バンドが、ハード・ロックからブルース、時にはファンキーなものまで、多様なスタイルの曲をレパートリーとする場合が多かったのに対し、新しい世代のバンドはヘヴィーなものに焦点を当てて、比較的狭い音楽スタイルの中での可能性を探求していく。特に、コードではなくリフを中心とした構造が定着し、それが「型」となる。

 これまでのヘヴィー・メタルからエッセンスが蒸留され、音楽的に拡散していくのではなく、この「型」へと求心的に収斂していくベクトルの強いジャンルとして成立するのである。

 

アートワークの「型」

 視覚的にも「型」が固まってくる。まず、写真やそのコラージュを用いることで生々しい質感を表現したパンクとは異なり(たとえば、ザ・クラッシュの一連のアルバムでのバンドの白黒写真や、セックス・ピストルズの1977年のシングル「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」の女王の顔のコラージュ、前回の「ケンブリッジの強姦魔」のシャツなどを想起されたい)、NWOBHMのバンドは「絵」を多用した。後で述べる歌詞のあり方にも通じる、ファンタジー指向・物語指向の表れと言えるだろう。

 そしてブーム黎明期の自作のデモ・テープに始まり、その後レコード会社から発売されるアルバムまで、NWOBHMのバンド群のアートワークは類型的である。試みにインターネットで「NWOBHM albums」などと画像検索をしてみると明らかだが、前面に押し出されているのは、歌詞と世界観を同じくする、オカルトを含むファンタジー要素や暴力・死などのネガティヴなモチーフだ。たとえば悪魔・幽霊や五芒星、墓場、ナイフやチェーンソーなどの凶器、騎士やモンスターなどなど。この連載の第2回で扱ったように、ジャンル名に由来する金属的な意匠の多用も特徴である。続いて「heavy metal albums」と検索すれば、その後のこのジャンルの基本的なイメージがほぼNWOBHM期と変化していないことも分かる。近年、ヘヴィー・メタルのサブジャンルとアルバムジャケットの色調についての関連を調べる研究も行われているが[1]、これも絵を多く用いるジャンルゆえだろう。

 前回登場した、サッチャーが刺されるイラストを用いたアイアン・メイデンのシングル『サンクチュアリー』でも、「エディ」と呼ばれるバンドのマスコット・キャラクターの非現実的な姿と組み合わせることで、直接的な批判ではなく(と言ってもかなり露骨ではあるが)、コミック風というべきか、あくまでフィクションの中の一場面として描く表現が採られている。

 このようなヘヴィー・メタルのファンタジーや物語への指向は、しばしば現実逃避的だと指摘される。確かに一面ではその通りだが、小説や映画・テレビなど、当時の大衆メディアの動向を踏まえると、そのような逃避先の世界にもやはり現実との接点が見えてくる。続いて歌詞からその接点を探ってみよう。

 

現実を反映する物語

 当時のヘヴィー・メタルの歌詞についても、やはり大まかな共通点を挙げることはできる。

 まず、黒魔術や悪魔主義的なものを含むファンタジー調のもの、あるいはバンド活動やバイカー文化といったライフスタイルに直接関わるもの、そして不安や暴力、怒りなどの個人・社会のネガティヴな側面を扱ったもの等が多く、ストレートなラヴ・ソングはほとんど見られない。物語を語るような叙事的なものが主で、歌い手と曲中の一人称とを一致させ思想や主張を述べるものは少なく、その点でパンクとは大きく異なる。もちろん例外はあるが、たとえ現実の社会を歌ったものであっても、物語風のフィルターがかけられているものが多い。

 典型的なものとして、前回扱ったアイアン・メイデンの「ラスチャイルド」(前回の記事では記者が「ロック・チャイルド」と誤解していた)の歌詞を見てみたい。タイトルのWrathchildは一般的な単語ではないが「怒りの子」とでも訳せるだろうか。私生児を意味するLovechildをもじった言葉だろう。

 曲は「俺は怒りと欲、支配と迫害の場所で生まれた/母親はクィーン(売春婦)で、父親なんて見たこともない/生まれてくるはずじゃなかったんだ」と始まり、主人公は正気と狂気の狭間で復讐のために父親を探し続ける、というストーリーだ。このような状況は残念ながら時代や国を問わず存在するだろう。だが、ここに表現されている怒り(wrath)という感情に着目すれば、やはり当時の社会の刻印が浮かび上がってくる。

 1970年代がイギリスの「衰退」の時代だと考えられていたのは、前回述べた通りである。しかし同時に、女性や同性愛者、非白人といった社会的マイノリティの権利向上など、それまでの保守的な価値観に修正を求める運動が盛り上がった時期でもあった。

 その一環として、1975年にはイギリスの女性団体が売春婦の権利と安全に関する声明を出す。これは同年にフランスのリヨンで売春婦による教会占拠が行われたのを受けてのことである[2]。この声明は「売春と戦う売春婦たちへ」と書かれ、売春婦に限らず、女性全般がいかに社会において隷属的な立場に追いやられているかを、卑語をも厭わぬ強い口調で訴えるもので[3]、その直後のEnglish Collective for Prostituteという団体結成に繋がっている。

 フランスにしても、イギリスにしても、しばし強調されたのが売春婦の「母」としての側面だった。もちろん、すべての売春婦が母であった訳ではないが、自分のためだけでなく子の生活のためにも売春をする姿は、この職業の権利を訴える際の象徴となる。たとえば1982年にEnglish Collective for Prostituteがロンドンのホーリークロス教会を12日間にわたって占拠した際に掲げられた垂れ幕の一つは「母親たちには金が要る。警察の不法行為とキングスロードでの人種差別をやめろ」というもので、「母親」を主語として状況改善を訴えたのである。

 このような背景を踏まえると、「ラスチャイルド」で未だ見ぬ父親を恨み、探し続けている主人公の心情が、いかに同時代を反映しているかは明らかだろう。売春婦やその子は窮状を嘆き受動的な庇護を求める存在ではなく、それに怒り、行動する存在なのである。

 だが――これも重要なことだが――同時にこの歌詞は単なるひとつのスリラー風の物語として読むこともできる。「ラスチャイルド」を収めるのは1981年のアルバム『キラーズ』だが、サッチャーを刺していたのと同一の怪物エディが、今度は手斧をもってこちらを睨みつけるカヴァーアートと合わさると、非現実的なファンタジーの世界の出来事であるかのようでもある。

 非現実的なファンタジーと言えば、同じく前回登場したエンジェル・ウィッチのオカルト趣味はさらに非現実的である。たとえば「ブラック・サバスのファースト・アルバムをセメント・ミキサーで再生したかのよう」と評されていた「エクスターミネイション・デイ」は、死の天使が人間の魂を奪おうとしている……という夢を見て飛び起きてドアを開けるとそこに死の天使がいた、というものだ。他愛のないホラー映画風の現実離れした内容ではある。このような歌詞世界をどう考えるべきだろうか。

 

保守的道徳と「母」

 メアリー・ホワイトハウスという人物がいる。イギリスの元美術教師だが、1963年に軍人が売春婦に機密を漏洩していた事件がテレビでスキャンダラスに報じられるのを見て、「テレビ浄化運動」を始める。この運動は後に「全国視聴者協会」という団体となり、テレビやその他のメディアに対してキリスト教的・保守的な道徳観(とはいえ必ずしも当時の教会と同調していたわけではない)に基づいた抗議を行った。ロックとの関連で言えば、アリス・クーパーの曲「スクールズ・アウト」(1972)のBBCでの放送に抗議をして、逆に同曲の売り上げを伸ばしたという笑い話めいたエピソードもある。他には、ディープ・パープルの「メアリー・ロング」(1973)は彼女のことを揶揄した曲である。このホワイトハウスの運動は1970年代半ばに最盛期を迎える。彼女の活動の発端となった出来事からも分かるように、主な批判の対象となったのは性的な要素だが、加えてオカルトや背信的な内容もその標的となった。[4]

 たとえば矛先は1979年にBBCが製作した『オメガ・ファクター』というドラマ・シリーズにも向けられる。これは後のアメリカのドラマ『Xファイル』に似た作品で、超常現象や超能力を扱ったオカルト・スリラーである。

 ここに面白い新聞記事がある。『リヴァプール・デイリー・ポスト』紙の1979年8月21日号は、この『オメガ・ファクター』に対してホワイトハウスからの抗議があったことを伝え、BBC側のコメントを載せている。ホワイトハウスの主張は「番組の中で〔超能力で〕マインドコントロールされている登場人物の行動を真似する視聴者がいるかもしれない」し、「放送局が超常現象やオカルトに夢中になっていることを懸念している」というものだ。それに対してBBC側は「それはおかしい。超能力なんて真似できないのだから」と返している。[5]

 興味深いのは同じ紙面の別の場所に、バトル・オブ・ブリテンの記念日にラニーミードの会場近くで首のない鶏や血の付いた石の祭壇、五芒星など、黒魔術の痕跡が見つかったことに退役軍人が憤っているという記事が載っていることで、当時のオカルトへの懸念がそれなりに現実味のあったことを思わせるものではある(なお、イギリスでは1951年まで黒魔術は「犯罪」だった)。

 ともかく、ホワイトハウスが唱道したこのような保守的な道徳観にとっては、性的な話題もオカルトも、同じように「浄化」すべきものであった。

 このホワイトハウスの活動はサッチャーによって強く支持され、そこで強調されたのが彼女らの「母」≒「主婦」の側面である。道徳は家庭内の規律であり、それをつかさどるのが彼女ら「母」なのだ。そして家庭は社会の縮図と見なされ、「〇〇は子供に悪影響がある」という素朴だが訴求力のある抗議は、「それゆえ〇〇は社会にとって害悪である」、という主張を導いた。「母」こそが社会的道徳を担う――このような「母」像と対置して考えるべきは、前述の売春婦たちの「母」像だろう。

 これら二つの「母」像の大きな乖離は、まさに「不満の冬」が象徴する階級間の断絶や、社会の混迷を浮かび上がらせている。「ラスチャイルド」に登場する父親のいない子供も、「エクスターミネイション・デイ」で死の天使に出会う主人公も、同じものを相手に戦っていたのである。ファンタジーはその戦いの手段でもあった。

 

ファンタジー優勢の時代

 欧州の神話や歴史を素材として、魔法つかいや怪物などが跋扈するファンタジーは、1960年代後半~70年代前半のヒッピー・ムーヴメントの中で若者たちに人気のジャンルとなっていた。象徴的なのはトールキン『指輪物語』(1954〜55)のリヴァイヴァルである。暴力による敵の排除や、強い封建制など、ラヴ&ピース的なヒッピー思想の典型とは相容れない要素も多い作品だが、それよりもホビットやエルフの自然と共生する素朴な生活や、東洋の仙人のようなガンダルフのキャラクター、強い力をもつ指輪を廃棄する旅という軍縮・反核とも解釈できる物語などが強い支持を集め、アメリカでは「ガンダルフを大統領に」はヒッピーのスローガンとなり人気のピンバッジともなった。

 1969年にはトールキンの育ったバーミンガムで、初の『指輪物語』に関する会議が開かれている[6]。その妥当性はさておき、当時の若者はファンタジーの世界に、現実世界のオルタナティヴを見たのである。その意味では、ファンタジーはこの時点ですでに現実と戦う手段でもあった。ちなみに同作の邦訳の刊行も、このようなムーヴメントの中の1972年に始まっている。

 この流れは、同じく若者のサブカルチャーとして栄え、ファンタジーと合わせて一つのジャンルにまとめられることもあるSFとの対比で見ると分かりやすい。1940~50年代に黄金期を迎えたSFに対する若者の人気は科学技術への期待に支えられていた。だが、1960年代になると「ニュー・ウェーヴ」と呼ばれる、思索的・内向的で文学志向の強い作家たちが登場し、科学技術をその根幹とする古典的なSFは支持を失っていく[7]。これを補ったのがファンタジーで、たとえば1965年に発表されて、やはりヒッピーたちに人気のあったフランク・ハーバート『砂の惑星』は、他の惑星を舞台にしてはいるが、内容的にはファンタジーと言って良い。そこにはロボットなどはまったく登場しない。

 現代ではファンタジーの古典となっているル゠グインの『ゲド戦記』も最初の3巻は1968~72年に刊行されているし、戦前のE・R・バロウズの『英雄コナン』がマーヴェルで漫画化されるのも1970年。H・P・ラヴクラフトが本格的に研究され始めるのも同時期である。現実との接点の少ない、空想の世界を細かい設定とともに作り上げるファンタジーを指して「ハイ・ファンタジー」と呼ぶが、この呼称も作家のロイド・アレクサンダーが1969年に提唱した言葉である。

 ロックに関連することで言えば、1966年~67年にロンドンにあり、ピンク・フロイドやソフト・マシーンが演奏していたことで知られるクラブ「The UFO Club」が閉まってから、このシーンの後を引き継いだクラブの名前が「Middle Earth」(『指輪物語』の舞台の地名)だったというのも、このSFからファンタジーへという流れをよく示している。

 他ジャンルでも、アメリカのホラー小説家のチャールズ・L・グラントが、自身のホラー小説を「ダーク・ファンタジー」という新たな呼び名で呼び、その後のホラー・ブームの先鞭をつけるなど、やはりファンタジーというジャンルの人気と範囲の拡大が見てとれる。

 さらに、1971年にアメリカで発売されたボードゲーム『チェインメイル』は、元々中世のヨーロッパをテーマにしていたが、オプション的に呪文や魔法などのファンタジー要素が追加されてヒットし、1974年のロール・プレイング・ゲーム『ダンジョンズ&ドラゴンズ』に繋がった。この『ダンジョンズ&ドラゴンズ』は、特に1980年代にアメリカで社会問題化する。批判者の一人は、息子の自殺の原因をこのゲームに求めた母親パトリシア・プリングという人物で、彼女が組織したBothered About Dungeons and Dragonsという団体はこのゲームを「悪魔主義、魔術、ヴードゥー、殺人、強姦、背信、自殺、暗殺、狂気、性的倒錯、同性愛、売春、悪魔主義的儀式、賭博、野蛮、人肉食、サディズム、冒涜、悪魔召喚、死体愛好、占いその他の教唆に満ちている」[8]と糾弾している。この点でヘヴィー・メタルとかなり近い文化だと言って良い。

 1970年代後半のNWOBHMのファンタジー中心のイメージは、このように様々な分野・ジャンルでファンタジーが優勢になっていた時代の産物である。もちろん、それまでのヘヴィー・メタルにも『指輪物語』のようなファンタジーをテーマにした曲は数多くあった(レッド・ツェッペリン「ザ・バトル・オブ・エヴァーモア」、ブラック・サバス「ザ・ウィザード」など)。その意味では、このNWOBHM期のヘヴィー・メタルが何か特別新しいことをやっていたという訳ではない。また言うまでもなく、ヘヴィー・メタルというジャンルに属するすべての曲やアルバムジャケットにファンタジーの影響があるわけではない。しかしこのファンタジー優勢の時代のムーヴメントであったNWOBHMが、その要素をジャンルの核として取り込んだことで、「型」の一つになったことは間違いない。ファンタジーはその後、社会的コンテクストが変わってもこのジャンルに欠かせない参照点であり続けている。

 さて、一方のSFは1977年頃から勢いを取り戻し始める。映画『スター・ウォーズ』の大ヒット、そして現実世界ではヴォイジャーの打ち上げ成功などを受けて、再び宇宙への関心が高まっていく。先述の『ダンジョンズ&ドラゴンズ』がヒットしたゲーム界でも、1977年に『トラヴェラー』という宇宙を舞台とした作品が発売され人気を得ている。

 それを思うと、この時期のヘヴィー・メタルがファンタジーにこだわり、SF的要素があまり見られない(存在しないわけではないが)のは、不思議に映る。メインストリームのロックではデイヴィッド・ボウイやピンク・フロイドらが、あるいはNWOBHMより前のヘヴィー・メタルではホークウィンドが宇宙に関係するイメージを多用していたことを思うと、その疑問はより深まる。

 この時期、SF風、特に『スター・ウォーズ』風の楽観的な宇宙観のイメージを引き受けていたのは、ヘヴィー・メタルのようなロックではなく、ディスコ・ミュージックだった。

 (第4回:終)

 

 ***

[1] Guillaume Friconnet 2023, ‘A k-means clustering and histogram-based colorimetric analysis of metal album artworks: The colour palette of metal music’, Metal Music Studies, Volume 9, Issue 1, Mar 2023, pp. 77 – 100.

[2] この様子についてはBBCの番組がオンラインで公開されている。

[3] この声明は、English Collective for Prostituteの公式サイトで公開されている。

[4] 小関隆2025「「許容する社会」、モラルの再興、マーガレット・サッチャー」(長谷川貴彦編『サッチャリズム前夜の〈民衆的個人主義〉――福祉国家と新自由主義のはざまで』岩波書店、pp.181-208)

[5] Liverpool Daily Post, 21 August 1979.

[6] Birmingham Daily Post, 01 December 1969.

[7] トマス・M・ディッシュ、浅倉久志、小島はな(訳)『SFの気恥ずかしさ』(国書刊行会、2022)所収の当時の批評は、鋭くも辛辣な筆致で同時代のSFへの愛憎が書かれており、1970年代のSFの変質がよく分かる。

[8] David Waldron, ‘Role-Playing Games and the Christian Right: Community Formation in Response to a Moral Panic.’ Journal of Religion and Popular Culture. 9 no. 1, Spring 2005, p. 3.

 

鋼鉄の音楽室(今回登場したミュージシャン/バンドとその音楽 ※登場順)

① クリーム Cream:第1回を参照。

② レッド・ツェッペリン Led Zeppelin:第1回を参照。

♪Led Zeppelin「The Battle of Evermore

③ディープ・パープル Deep Purple:第1回を参照。

♪Deep Purple「Mary Long

③ アイアン・メイデン Iron Maiden:第3回を参照。

④ エンジェル・ウィッチ Angel Witch:第3回を参照。

⑤ ブラック・サバス Black Sabbath:第1回を参照。

♪Black Sabbath「The Wizard

⑥ アリス・クーパー Alice Cooper:アメリカ出身のヴォーカリスト、およびそのバンド。1969年デビュー。1970年代にホラー映画風のメイクや奇術めいた演出を用いたステージで「ショック・ロック」と形容された。

♪Alice Cooper「School’s Out」 

 

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著者略歴

  1. 齋藤桂

    1980年、大阪府生まれ。博士(文学・大阪大学)。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター准教授。専門は日本音楽史、ヘヴィー・メタル。著書に『〈裏〉日本音楽史――異形の近代』(春秋社、2015年)、『1933年を聴く――戦前日本の音風景』(NTT出版、2018年)、『ベートーヴェンと大衆文化――受容のプリズム』(春秋社、2024年、共編著)、論文に‘Heavy Metal Scene in Osaka: Localness Now and Then’, Bardine, Bryan A., and Jerome Stueart, eds. Living Metal: Metal Scenes around the World, Intellect, 2022など。

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