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イタリア文学哲学散策――特にルネサンス文化下の著述家たち 澤井繁男

イタロ・カルヴィーノ

 東京外国語大学のイタリア語学科に入学した私が最初に読んだ本は、清水純一(1924―88年)著『ルネサンスの偉大と頽廃』(岩波新書)だった(後年、この清水教授が京都大学大学院に進学した私の指導教官になるとは夢にも思っていなかった)。ジョルダーノ・ブルーノ(1548―1600年)を論じた興味深い内容に感じたが、内実、どこまで把握できていたかわからない。再読したときかなり難解な一書だという印象を得た。
 ルネサンス文化全般への理解の基軸は、とりわけプラトン(前427―前347年)主義や新プラトン主義、それにヘルメス教(思想)、つまり反アリストテレス(前384―前322年)主義の思考形態だ。これがルネサス文化全般に通底する思潮で、ルネサンス文化が、アリストテレス主義(スコラ学)を基調とした「大学」の文化でなく、「在野で都市の文化」だったことを物語っている。
 アリストテレス哲学が12世紀西洋に(ギリシア語からの)アラビア語翻訳書からの重訳をラテン語に翻訳することで入ってきた一方で、上述のプラトン哲学他は、15世紀後半フィレンツェで一気にギリシア語原典からラテン語に訳された、イタリア人らにとっては新鮮な教説だった。そして早晩、それらが各俗語(イタリア語、フランス語、スペイン語、英語など)に訳されていく。
 前者の翻訳文化運動を、「12世紀ルネサンンス」、後者を、一連の翻訳運動を含めて、「15,16世紀のイタリアルネサンス」と呼ぶ。

 さて、東京外国語大学は主に、近現代の文学や思想の学びに力点を置いた大学で、私たち1年生は1年の前期にイタリア語と会話を、後期から文芸作品や思想書を原典で読むことになった。
 1年生の後期の文学の授業は、イタロ・カルヴィーノ(1923-85年)の、L‘entrata in guerra 他2篇(1954年)だった。
「戦争の始まり」とでも直訳したらよいだろうか。Einaudi 版の新書型の奇麗な装丁の薄い短編集だった。20名の定員のうち半数を占める女子学生は、かわいい、と本を手に取って歓声を上げた。
 カルヴィーノの作品との初めての、それも原語による購読ということもあって、私は河島英昭先生との授業を愉しみに待った。訳出する授業形態だが、寓意的な作品でないこの初期の作品には、すでに書店でみつけて購入・購読していた、平野甲賀装丁の晶文社版(河島英昭訳)チェーザレ・パヴェーゼ(1908―50年)の作品に通底する憂鬱な青春の雰囲気が漂い、私はそれに酔った。そして『東京外国語大学新聞』に全文を訳出して投稿した。

 憂愁と沈鬱な印象を受けるこの短編は、おそらくカルヴィーノ本人と思える「僕」と友人の「オステロ」、「感情的にファシストであるその女友だち」、「オステロの兄」で、北アフリカ戦線で戦死するフィリベルト、僕の知り合いの「クリストフォーロ少佐」などが登場する。戦争がすでに始まっている設定で、空爆で破壊された学校で救助活動を手伝う僕や赤十字の看護師や前衛党員たち。
 救助中、中風病で吃音の老人に会う。老人は籠のなかに身を寄せ、籠の背にもたれかかっていた。本文の中核となす箇所は瓦礫のなかでこの老人が死を迎えるまでだ。僕は医者を呼びに走るが間に合わない。死という戦線ではない戦禍での、脆弱な肉体の老人の死を間近にみた僕の動揺が尾を引く。犬儒主義、道徳主義などの言葉で僕は自分なりの人生観を語るが、どちらとも決めがたい。
 その後、パレ―ドがあって、「若くみえる」ムッソリーニがオープンカーに乗って走り去って行く場面で了となるが、彼は僕たちに「共犯者」になることを求めているように僕には映る。
                                 
 戦争が始まったという予感、そして現実化した空襲とその被害、被害を受けた人たちという一連の戦争初期のあわただしさ、しかし、それも僕には半ば無関係に進んでゆく日常のヒトコマだが、やがてその日常が非日常の戦時下という苦難の時代にはいってゆく、予見的な短編(400字原稿用紙換算で(39枚)である。
 上述したように冒頭の鬱勃とした精神風景が少年の屈託した心情を織りなしていているが、空爆という惨事にあわてふためく住民の姿を見事に描写している。
 この作品一編を読み終わらないうちに、学年末試験が近づいてきた。専門科目の試験は早めにおこなわれるので、カルヴィーノもその例にもれなかった。3分の1も読み進んでいなかったが、試験範囲はこの作品すべてだった。当時助教授だった河島先生は、これがあたりまえ、といった顔つきだった。その表情の裏には、「ここは大学ですから」という矜持が隠されている風だった。
 カルヴィーノを日本に紹介した中心は、河島先生、米川良夫先生、脇 功(いさお)先生で、脇先生は京大で現代文学を担当する非常勤講師だった。京大では珍しく、現代イタリア文学を専攻した方だ。清水先生があるとき、私の創作(小説)を一読されて、「君の文章はカルヴィーノに似ている」と評されたことがあった。
 しかしながら、『まっぷたつの子爵』などの彼の寓意的作品に私はなじめなかった。いまでも読む気にはなれない。なぜかわからないけれども……。カルヴィーノは惜しくも61歳で死去し、その死はたいへんに惜しまれた。
 寓意的な作家を日本で挙げれば、石川 淳、彼に師事した安倍公房らがいるが、石川淳はいまだになじめない。読まなければならない貴重な作家なのだが……。ある友人が、日本的な私小説になれてしまったせいか、石川 淳の小説が新鮮で面白かったといったのを記憶している。なるほどカルヴィーノの上記の作品など私小説に近いかもしれいないが、日本的な自虐的告白調の破滅型作品とは異なっている。

 私は、高校時代から郷里北海道の塩谷村(小樽市近郊)の詩人で小説家、それに文芸評論家の伊藤整(1905-69年)のものが好きで読んでいた。高校1年生のとき、確か64際の若さで氏は死去した。不可思議な人物だった。現代文の教科書の監修者、日本や世界文学全集の編纂委員、日本や世界の名著の編纂委員と、八宗兼学の人という印象だった。道産子とは新聞での訃報記事で知り、関心を抱いた。
 その後、新潮社から『伊藤整全集・24巻』が刊行され、札幌の丸善に注文した私は、毎月・1度の刊行日に合わせて購入に出向いた。そして読んだ。そのなかで、以前文庫でも読んでいた『鳴海仙吉』、『火の鳥』を再読することになったが、代表的評論『小説の方法』にいろいろと教えられた。
 『小説の方法』の内容を要約すると、「近代日本文学を主たる素材として、『生命の存在の仕方としての社会状態や倫理の秩序と、その生命の認識としての感動や、それの表現方としての美の秩序等の間にあるいろいろな関係』」(小笠原 克)を追究したものである。
 この評論になかにダンテの『神曲』が随所――第3,4,7,8,13章――に評されているのだった。
 ダンテが中世に属ずるか、最初のルネサンス人かという問いかけは、時代を超えて行われてれてきたが、目下のところ、「中世の幕を閉じた人物」との見解が通っている。伊藤整はそうした歴史学的観点からみてはおらず、以下の「エゴの露出」を主眼に据えている点が、いかにも整らしい。
 伊藤整固有の「生命」と「秩序」という「術語」は、「エゴ」と「形式」とも置き換えられ、固定された二項対立ではないが、次の一文を読むと、そうかとうなずけよう。

・生命は秩序を常に越えようとする。人種、民族、死、性、美醜などという肉体それ自体の条件を越えようとする。……生命は抵抗物を見出すときに現われるもののようだ

・秩序は社会保全のための必要物であるが、極点迄生命を味わおうとする芸術の衝動は当然それに叛く。
                                                                                                                                       『小説の方法』第9章「散文芸術の性格」より

 こうした定是を持つ整は、『神曲』を執筆した作者が、それとわかるように、自己の名前を作品に「署名」し、その上、「ダンテを作中の主人公に据えている」ことから、強烈なエゴの露出を読み取ってでの「近代」的作家・詩人なのである。
 それ以前の説話などに「署名」はみられない。実際、作者・編者ですら未詳である。
 トスカナ方言(現在のイタリア語)という、ラテン語のひとつの俗語での作品であった点は二の次となっている。伊藤整が読んだ『神曲』は、中山昌樹訳の洛陽堂版(1917年)か、生田長江訳の新潮社板(1929年)のいずれであろうが、2冊とも英訳からの重訳だった。むろん英語の堪能だった整だから、英訳に当たっていたかもしれないが……。
 こうして私は、『神曲』を読む前から、伊藤整を通して『神曲』の一端を知り、大きな衝撃を受けた。そして、東京外国語大学ではこの後、チェーザレ・パヴェ―ゼ(パヴェーゼの憂愁な作風をカルヴィーノが受け継いでいるとはすでに述べた)、エリオ・ヴィットリーニ(1908-1966)の作柄も『シチリアの憂鬱』という表題にも顕われているように沈鬱なものである。カルヴィーノはこの2人を父とする作家と称されている。私は、パヴェーゼやヴィットリーニなどの「ネオレアリズモ」の作家の作品を読みながらも、卒論がダンテの『神曲』だった……。
 この2人の作家に惹かれたのはほかでもない、作品の良さもあったが、両人とも、アメリカの20世紀を代表するノーベル文学賞作家ウイリアム・フォークナー(1897-1962年)の作品を翻訳していたからだった。例えば、『八月の光』、『村』とかをーー私はフォークナーの大ファンだった。この話は後の回に譲ろう。
 『小説の方法』では、ダンテだけでなくボッカッチョの『デカメロン』も取り挙げられていて、『神曲』や『デカメロン』を翻訳で読む前から、伊藤整目線での双方の評価を知ってしまった。イタリア文学畑ではない整の読みは独特で、下手な研究書より説得力があった。
 ボッカッチョは、『神曲』のくそまじめな記述を笑い飛ばしたが、みずからを笑い飛ばすことはなかった。仮に謹厳実直な『神曲』の世界をカトリック思想の謝意する「秩序」とみれば、『デカメロン』の生気あふれる世界は「生命」の発露ということになろうか。いずれにせよ、『小説の方法』が先入観にもなったけれども、両作品を実際に読むと、伊藤整の視点とはべつのものを抱くにいたることになる日がやがて訪れることになる。
 夏期集中講義で、京都大学から招かれたのが、清水純一教授だった。3年生以上に受講が許されていたが、おかまいなしに私は出席した。みな知らぬ顔の先輩たちばかりだったが、高校を4年間で卒業し(腎臓病のため2年生を2回やった)、その上。2浪していたから、21歳で1年生だった。若い頃の歳の差は気になるが、私の場合、3年生と年齢的には同年輩だった。
 講義のテーマは『プラトン・アカデミーの新プラトン主義』だったと思う。
 清水純一教授の書『ルネサンスと偉大と頽廃』(岩波新書)は、主にジョルダーノ・ブルーノを論じたものだとは冒頭ですでに述べた。講義では、確かルネサンス史観の歴史からはじまって、ブルーノには触れず、16世紀後半のマルシリオ・フチーノ(1533-99年)によるプラトン著作集の、ギリシア語からの翻訳の話と、プラトン・アカデミーへと話柄が移って行った。
 正直、ちんぷんかんぷんだった。
 他の先輩たちも、失礼ながら、同様であったとおもう。私は5日の期間中、2日出席したけだった。この講義の内容をきちんと理解できるまで、その先ずいぶんと時間を要した。
                               ――つづく       

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著者略歴

  1. 澤井 繁男

    1954年札幌市生まれ。東京外国語大学卒業後、京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。東京外国語大学論文博士(学術)。専攻はイタリアルネサンス文学・文化論。作家・文芸批評家としても活躍。著書に、『澤井繁男小説・評論集』(平凡社)、『復帰の日』(作品社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『魔術師列伝』(平凡社)、『ルネサンス文化講義』(山川出版社)、訳書に、カンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会特別賞受賞)、バウズマ『ルネサンスの秋』(みすず書房)、カンパネッラ『事物の感覚と魔術について』(国書刊行会)、その他、多様な分野で著訳書多数。元関西大学文学部教授。放送大学(大阪学習センター)非常勤講師。

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