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坐禅の割り稽古 試論 藤田一照

割り稽古に入る前の予備的ワーク その2

 前回に引き続き、「割り稽古に入る前の予備的ワーク」について論じていくが、その前に、前回の原稿を書いてからあとに、坐禅についてふと思ったことがあるので、まずそのことについて書き留めておこう。本連載にも十分関連性があると思われるからだ。

 それは、坐禅というのは、人間(仏教用語でいえば「凡夫」)が人間として少しでもマシになるためのもがき、あがきの手段ではなく、むしろそういうことをあっさりあきらめて、人間であることを(一時的にせよ)完全に放棄することではないかということだ。英語では「出家すること」を renunciation(放棄、断念)と言う。たとえば、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語表記での発音。サンスクリット語表記での発音ではガウタマ・シッダールタ)が、家族を捨てて城を後にし、宗教的な修行者になったエピソードはGreat Renunciationと呼ばれている。「偉大な放棄」というのが文字通りの意味である。では、何を放棄するのかといえば、家族や社会的地位とか職業というよりも、それらが代表する世俗性、さらにいえば社会的な人間としての在り方そのものではないだろうか。だから、厳密な意味では、出家というのは、社会の「中での」ことではないことになる。むしろ、社会性「からの」離脱を目指しているのである。

 出家のことを仏教では「出世間」とも言う。世間に属して暮らす「人間」をやめて、「世間にいながら、世間に属さない一個のヒト」になることだとも言えるだろう。人間が作り出した社会という文脈から離脱して、自然界の中の一存在(生きもの)に還ることだ。私は坐禅というのは、この意味での「出家」、「出世間」を直接かつ純粋に表現し、実現している営みではないかと考えたのである。信州小諸(こもろ)で枯淡な坐禅生活を送り「草笛禅師」とも呼ばれた横山祖道老師(1907〜1980)は、「若しも世に世を捨てし人ありとせば只管打坐のみ世を捨てし人」と詠んでいる。われわれは只管打坐しているときには、そのままですでに「世捨てビト」(あるいは、世間から捨てられた「世捨てられビト」)になっているということだ。

横山祖道老師

 われわれが坐禅しているとき、名前、性別、学歴、地位、職業、年収、能力、といった世間で通用している「属性」(履歴書に記入するようなさまざまの情報)は一切不問になっている。そういう諸々の属性は世間相場のもので、坐禅しているときにはまったく用がなくなっている。私は世間相場では somebody(何某かの名前のついた誰か)であるが、坐禅のときは nobody(誰でもない、ただの存在)に成っている。鈴木俊隆(1904〜1971)老師は『禅マインド ビギナーズ・マインド  Zen Mind, Beginner’s Mind』という英語の講話集の中で、「宇宙的な活動 universal activity」という表現をしばしば使っている。

鈴木俊隆老師

 われわれという存在はこの宇宙的な活動のささやかな一表現であるというのだ。社会の中では、誰もが somebody として「はばかりながら、俺様は…」と肩肘を張って偉そうに生きているが、それも含めてすべてのことは宇宙的な活動の一時的な現れなのである。この宇宙的な活動というのは、大乗仏教の用語で言えば、仏性の働きということに相当するだろう。坐禅というのは、自分という存在をいったん仏性ベースのものに置き換えることだと言えるのではないだろうか。

 そのことを知っていようが知っていまいが、事実として誰もが「生かされて、〇〇として生きている」というあり方をしている。しかし、通常は「生かされて」という側面がまったく自覚されることなく、「〇〇として生きている」という側面のみがすべてであるかのような one-sided な(一方に偏った)生き方が現出してしまっている。それに対して、坐禅しているときには、「〇〇として生きている」が裏に隠れて、「生かされて」が前面に出てきている。その結果、wholeness of being(存在の全体性)がそこに表現され、存在の全体性が回復され、そのことが〇〇として生きている私にも知らず知らずのうちに浸透し、沈殿しているのである。坐禅がそのようなものであるとするなら、坐禅の割り稽古もそのようなベース(基盤)に基づいたものでなければならないはずだ。このことを念頭に置いて忘れないようにしながら、この連載を進めていきたいと思ったのだった。

 

 さて、前回は、坐禅の割り稽古に取り組むにあたっての「基礎学力」に当たるものとして

① 自分の身体を概念的にではなく、感覚を通して直接に正しく知る力

② 身体的な感覚を繊細にとらえられる力

の二つを挙げ、①に関して、骨盤についての具体的なワークを紹介した。実際に試していただけただろうか? ワークの前と後で呼吸のクオリティや坐ったときの感じに違いを見つけられただろうか? 運動としては、たいした動きをしたわけではないのにもかかわらず、肺や骨盤の実際のサイズや形、位置をあらためて確認するだけでも、繊細な変化が起こるというのは大変興味深いことである。肺の実際の大きさについて認識するだけで、自分で意図的に変えているわけではないのに、肺の呼吸運動の仕方が微妙に変わるのである。

 坐禅の調の実際というのは、そのような微細な感覚のレベルで行われることなので、そうした微細な身体感覚を感受する力、感受性は普段から磨いておかなければならない。ましてや、うとうとしたり、ボーッとした意識状態であったり、考えごとにふけっている意識状態では、そのような現に起きている微細、微妙な感覚の変化を捉えることは到底不可能である。くつろぎつつはっきりと覚醒していて、微細な感覚の変化をリアルタイムで広範に感知する力というものが坐禅においては必須なのである。①はその前提として自分のからだの構造と機能を感覚を通して正確に認識しておくということなのである。

 今回はさらに、①に関する、坐骨股関節肩甲骨のワークを紹介しよう。

 

⦅坐骨の正確な形状を感覚を通して感じとり、体重を支える適切なポイントを見つけるワーク⦆

坐骨はもちろん「坐るための骨」という意味であるが、私は「坐禅のための骨」と説明している。それくらい坐禅のときには重要な役割を担う骨だ。

左右の坐骨の上に上体をしっかりと立てること、坐骨で床(坐禅の場合であればすぐ下にある坐蒲)をしっかりと押すことができるためには、体感として坐骨をはっきりと把握しておく必要がある。

   坐骨

上の写真を見ればわかるように、坐骨の形は曲面になっているので、この曲面のどこで体重を支えるかということが大事なポイントになる。

感覚を手掛かりに、体重を支える坐骨の正しいポイントをそのつど新鮮に見つけることができるようになる必要がある。

1.

まず、椅子か床に坐り、右のお尻を少し浮かせて、右手の指で右側の坐骨に下から触れながら手を前後に動かし、坐骨の形状全体を手で確認する。

次に、左側の坐骨も左手で同様に「手探り」する。

2.

椅子か床に坐った状態で(座面が固い方が感覚がはっきりする)、現在、左右の坐骨のそれぞれどの部分で接地しているかを感じ取る。

その位置から、骨盤全体をゆっくり前傾させたり、後傾させたりして、接地の感触を手掛かりに、坐骨の形状を細やかに感じ取る。「自らの坐骨に親しむ」のである。

3.

前回「坐骨のポイント1.2.3」と「へたれ腰・坐禅腰・反り腰」の2つのイラストで示したように、坐骨の正しいポイント(「この辺りかな?」といった曖昧なものではなく「ここだ!」というぐらいピンポイントな感じ)に体重が落ちる位置に骨盤が置かれると、背筋が自然に上下に伸びることを確認する。

前すぎず、後ろすぎずのニュートラルな感じがするそのポイントを探してみる。

森さんによると、坐骨のそのニュートラルなポイントに鉛直に体重が落ちているときには、骨盤の上前腸骨棘と恥骨(前回の骨盤の側面のイラスト参照)の先端を結んだラインが鉛直になっているそうである(一番上の写真)。

このラインが鉛直線より後ろに倒れていれば、坐骨のポイントが後ろすぎ(真ん中の写真)、前に倒れていれば、坐骨のポイントが前すぎる(一番下の写真)ということになるので、これを参考にしてみるのもいいだろう。

  ニュートラルなポイント。ラインは鉛直になっている

  後傾気味。ラインが鉛直線より後ろに倒れている

  前傾気味。ラインが鉛直線より前に倒れている

 

⦅股関節の位置と動きを感覚的に知るワーク⦆

さて、結跏趺坐(けっかふざ)という坐り方において、坐骨に並んで重要な部位は股関節である。

股関節は人間の体の中で最も大きい関節構造をしているが、周囲を分厚い組織に囲まれ、身体の深部に位置しているため、直接見ることも触れることも難しい。そのために、人体の中では非常に意識しにくい部位となっていて、繊細に感じにくく、動かしにくいのである。

股関節は球関節という三軸構造になっており、おわん型のへこみ(寛骨臼窩・かんこつきゅうか)があり、大腿骨のピンポン玉状の先端部(大腿骨頭・だいたいこっとう)が収まるような形で繋がっている。

どちらの表面も軟骨組織で覆われ、スムーズに「歩く」「走る」「坐る」「あぐらをかく」といった動作を可能にしている。

股関節には、普通に歩くだけでも体重の3〜4倍の力がかかると言われ、この力を支えられるよう、股関節には、大腿骨頭を寛骨臼窩へ繋ぎ止めておく靭帯や筋肉が数多く付着している。

多くの筋肉や腱などで全体を覆われているため、安定性を保ったままその方向へ動かすことができるようになっている。

股関節の「回転の動き」を感じる場所は大腿骨頭である。

  

上の股関節のイラストを見ればわかるように、位置としては股間のすぐそばで、かなり内側に思えるところにある。

脚を動かす際には、しばしば大転子に先に力を入れて、大腿骨頭は「動かされる」という感じになりやすいが、このワークでは、大腿骨頭が「回る」という意識に集中することがポイントになる。

1.

写真のようなヨーガ・ベルトあるいはその代わりになるようなもの(帯、たすき、ベルト、結んだ手拭いなど)を左足の土踏まずのあたりに巻きつけ、両手でベルトを持って左足を少し床から浮かせるようにする。

  

その際、左足のつま先を少し外側に向け、膝裏を伸ばした状態で、ベルトを少し引っ張るようにすると、大腿骨頭が寛骨臼窩に「はまった」ような感覚が生まれる。

この感覚を保ったまま、次のような運動を行うことがポイントである。

2.

左足を浮かせたまま、左の股関節を中心にして、左脚を時計回り、反時計回りにゆっくりと円を描くように回す。

    

このとき、左の大腿骨頭の「はまっている」感覚を保ち、脚の回転によって大腿骨頭が球状に回っている感覚の変化をフォローする。

3.

ベルトを外して、立ってみたり、数歩歩いてみたりして、ワークの効果を味わう。

4.

右脚でも同様のワークを行う。

5.

ベルトを外し、立ってみたり、数歩歩いてみて、このワークによる股関節周辺の変化を感じてみる。

脚がしっかりと骨盤につながり、上半身と下半身がまとまった感じがしないだろうか。

 

⦅肩甲骨の6種類の動きを体感的に把握するワーク⦆

腕の「根っこ」である肩甲骨は、背中の上部にある大きな骨で、 左右に羽のようについている。

肩甲骨は体幹(胴体)とは直接つながっておらず、鎖骨でのみつながって、宙に浮いているような状態になっている。

坐禅のときは腕を動かすことはないが、肩甲骨を含めた腕&手をどう姿勢の中に収めるかということは、調身・調息・調心のいずれにも関わる重要な課題である。

  

 肩甲骨の動きには、上のイラストのように6種類あると言われている。

ここでのワークは肩甲骨の位置と動きを知ることが主目的である(ほぐしたり、可動域を広げたりすることが目的ではない)ので、無理をせずゆっくりと優しく動き、それぞれの動きの違いを感じ分けることがポイントである。それぞれの動きに伴う肩甲骨周辺の感覚の変化を注意深く味わうようにする。

しかし、このワークのように肩甲骨を丁寧に動かすだけでも、一定のほぐしの効果はあるので、ワークの前後での肩甲骨周辺の感じの違いをチェックしてもらいたい。ほぐれたことによって、上に上がり気味の位置にあった肩甲骨が、少し下に下がっているかもしれない。

● 挙上(きょじょう):両肩を耳に近づけるように動かし、肩甲骨を真上に持ち上げる。×3回

● 下制(かせい):両肩を耳から遠ざけるように動かし、肩甲骨を真下に下げる。×3回

● 内転:ボートを漕ぐように肘を後ろに引くように動かし、肩甲骨を寄せる。×3回

● 外転:両手〜肘をカラダの前で合せるように動かし、肩甲骨を外に動かす。×3回

● 上方回旋:両手をバンザイをするように動かし、肩甲骨を斜め上に動かす。×3回

● 下方回旋:両手を背中の後ろで合わせるように動かし、肩甲骨を斜め下に動かす。×3回

   

 

 ここまで、「自分の身体を概念的にではなく、感覚を通して直接に正しく知る力」を養うワークとして、肺、骨盤、坐骨、股関節、肩甲骨のワークを紹介してきた。これらのワークは、いわゆる「からだを鍛えて変える」ワークではなく、「からだのありのままの事実を感覚として知る」ワークであった。それは、坐禅では身体の自然の構造、デザインに沿ってからだを使うことが重要であると考えているからである。ここでワークの例として挙げたのは、坐禅において特に重要な役割を果たしていると考えられる身体部位であることと、しばしば間違った理解に基づいてその部位を使っている(あるいは使っていない)人が多いことを勘案して選んだもので、もちろんこのほかにも正しく知っておくべきからだの部位は、足、膝、脊椎、首、眼などまだまだある。

 われわれにとって自分のからだというのは広大な未知の世界だと言ってよいだろう。道元の主著である『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』にも「身心学道(しんじんがくどう)」という題を持つ巻があるが、それは「身と心を使って道を学ぶ」という意味ではなく、「身心そのもののありようを学ぶことが道である」という意味に私は解している。坐禅という稽古を通して、自分のからだの自然に親しみ、それを学ぶということが自ずからに起きている。しかし、そういうことが豊かに起きる坐禅であるためには、あらかじめ「からだについての基礎教養」をある程度身につけておく必要があるのではないだろうか。この予備的ワークはそのためのものであった。

 では、「基礎学力」として挙げた、① 自分の身体を概念的にではなく、感覚を通して直接に正しく知る力についての論究はこの辺りでとりあえず切り上げて、次の② 身体的な感覚を繊細にとらえられる力を育てるワークに論を進めよう。

 この②の力は、①においてももちろん使われているが、ここでは特に、ワークの前と後とで、あるいは、ワークをした部分としていない部分とで、そのワークの効果として感じられる感覚の違いを感知する力を問題としている。坐禅の割り稽古をしても、その稽古の効果がリアルに感じとられなければ稽古の進展の方向性が生まれてこないであろうから、②として別個に取り出してワーク化してみようと思ったのである。ここで問題にしている「身体的な感覚」はなかなか言葉にはしにくいものである。たとえば、「からだに芯が通った感じ」とか「エネルギーの通路が開いた感じ」、「足がよりしっかりと地についた感じ」、「からだが軽くなった感じ」、「上にふわ〜っと浮き上がる感じ」、「視野が前より広がって明るくなった感じ」、「音がよりくっきり聞こえるような感じ」……といった言葉で表されるような、身体の特定の部位の感覚の変化というよりは、「今ここでの自分の居心地」というようなもっと全身的な体感の微妙な変化を意味している。ワークを通してこういうタイプの体感の変化を言いとめる語彙を豊かにしていくことも必要だろう。割り稽古で言及される「接地性」とか「垂直性」といったことも、知的な概念としてではなく、具体的な体感として感じ取られ、実感を伴うものでなければならない。

 ここでは、「チョークサークル chalk circle」と呼ばれる腕を回す運動をして、その運動をした側としていない側で接地感の違いを感じ取るというワークを紹介する。

 

⦅チョークサークル:運動をした側としていない側の背中の接地感の違いを感じ取るワーク⦆

0.

まず仰臥位(ヨーガの屍のポーズ)になり、自分の体と床との接触面の感覚に注意を向ける。

特に、左右の背中と床との接地感のクオリティを確かめておく。

1.

体の左側を下にして側臥位になる。

両膝をそろえて少し曲げ、体を安定させる。

両腕をからだに対し直角に伸ばし、両手のひらを合わせる。

 

2.

第一の運動。息を吐きながら、上にある右手を中指の方向にまっすぐゆっくりスライドさせていき、出来るだけ遠くに置く。

上半身はそれについていくが、下半身はなるべく崩さないようにする。

  

3.

次に、息を吸いながら、右手のひらを、左手のひら、左腕の内側、その延長線上の胸の左側、胸の右側に触れながら移動させる。

上半身もそれに従って側臥から仰臥へと起きていくが、下半身はなるべくそのままに保つ。

さらに、息を吐きながら、右肘をその延長線上の床に置き(右の上腕が体に対してなるべく直角に近いように)、右肘を支点にして右腕をゆっくり伸ばしていき、右手の甲をなるべく遠くに置く(右腕全体が体と直角になるように)。

    

4.

ここから、逆コースをたどって右手を2の位置までもどしていく。

呼吸は、体を縮めていくときには吸い、伸ばしていくときには吐くようにするのが原則であるが、頭でそう決めてコントロールするのではなく、体の動きが自ずから呼吸の運動を誘導する結果として自然にそうなるのが望ましい。要は、動きと呼吸が相即しているかどうか。

この第一の運動をゆっくり5回繰り返す。

   

  

5.

第二の運動。2の位置にある右手を、なるべく体から遠い位置に保ちながら、時計の針のように上に回していく。

手はできる限り床に接触させるようにし(手のひらの向きは腕が動きやすいように変化させる)、頭の真上、自分の右側、さらに下半身を越して、元の2の位置に戻る。

結局、なるべく長く伸ばした右腕を大きく360度ぐるりと回すことになる。

その際、腕の根っこである肩甲骨も含めて動かすこと、下半身はなるべくそのまま安定させておくこと、呼吸を止めないことに留意する。

この第二の動きをゆっくり5回繰り返す。

   

  

6.

第三の運動。2の位置から今度は右腕を下に回し、第二の運動と同じ要領で、右手をなるべく体から遠い位置に保って、下半身を越し、体の右側、頭の真上を通って、2の位置まで戻す。

これをゆっくり5回繰り返す。

   

  

7.

最初の1の体勢にもどり、そこからゆっくり0の仰臥位になる。

ワークをした右側の背中とワークをしていない左側の背中の接地感の違いを感じてみる。

チョークサークル運動によって、肩甲骨周辺の筋肉がほぐれ、感度が増すので、右側の背中の方が左側の背中に比べて、床によりピターっと親密に接地している感じがしないだろうか。右側の方が接地面積が増えた感じがするかもしれない。

また、背中だけではなく、右半身全体の接地感覚がより深まり鮮明になってはいないだろうか?

しばらく仰臥位を続け、右半身と左半身の感覚の差異を味わう。

 

 ゆっくりと丁寧に動きながら、それに伴う身体感覚の微妙な変化を細やかに感受し続ける力は、そのつもりになって稽古していけば、少しずつではあるが必ず身についていく。花が、内側からの必然性を持ってそのつど一定の形へと花開いていくように、坐禅が、外側からの押し付けによってではなく、内側から必然性を持って自発的に生成していくようなものであるためには、そのような力が養成される必要があるのだ。ここで挙げたワークは、ほんの一例に過ぎない。読者各位が自分なりのワークを創造的に作り出す上での何らかのヒントになれば幸いである。

 

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著者略歴

  1. 藤田一照

    禅僧。1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。1987年、米国マサチューセッツ州西部にある禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行う。2005年に帰国。曹洞宗国際センター前所長。Facebook上に松籟学舎一照塾を開設中。

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